そんな中、源義仲(みなもとのよしなか)が1183年に倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで平家の軍勢を破ると、身の危険を感じた平家は安徳天皇とともについに都落(みやこお)ちをしてしまったのです。
しかし、備中(びっちゅう、現在の岡山県西部)の水島(みずしま)では義仲相手に大勝するなど、本拠地である西国において平家はまだまだ力を持っており、都での復権を虎視眈々(こしたんたん、じっと機会をねらっているさまのこと)と狙(ねら)っていました。
また、瀬戸内海(せとないかい)がある西国では海戦が多く、東国の山育ちの人間が多い源氏に対し、強力な水軍を持っている平家の優位(ゆうい)は動きませんでした。このようなことから、平家と源氏との戦いは当分の間は一進一退(いっしんいったい)を繰り返すであろうと思われていました。
ところが、結果として平家は都落ちからわずか2年足らずで滅亡しているのです。どうしてこのようなことになったのでしょうか。
そのカギを握る人物こそが、頼朝と同様に清盛が助命した源義経なのです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち おはようございます!
平家側は火の勢いがたまたま強かっただけだと弁解してるようですが、最初からその様な事をしなければ、恨まれずに済んだものを、雨ではなく、風が吹くとは・・きっと自然も平家の行いには味方をしてくれなかったのでしょうね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 結局は仰るとおりの考えに行きつきますよね。
平家の行為がすべて裏目に出てしまっています。時の勢いを味方にできなければ恐ろしい運命が待っているというこのなのでしょう。