陰謀の背景に後白河法皇の存在があったことを知って激怒した清盛は、2年後の1179年に軍勢を率(ひき)いて後白河法皇を幽閉(ゆうへい、閉じ込めること)して院政を停止し、近臣たちの官職をすべて解(と)くなどのクーデターを起こしました。なお、清盛の孫にあたられる安徳天皇が即位されたのはこの翌年(1180年)のことです。
清盛の立場から見れば、自己の政権を危(あや)うくしたのは後白河法皇側であり、法皇のかわりに平家と血のつながりのある天皇を立て、反対勢力を封じ込めて一門で官職を固めるのは当然の防衛手段といえました。しかし、法皇を幽閉するという強硬(きょうこう)な手段が、周囲の更(さら)なる反発を招いてしまったのです。
それに加えて、平家による政権には自身が気づいていない「重大な欠陥(けっかん)」があり、その欠陥こそが後の平家滅亡への直接的な引き金となってしまったのですが、それはいったい何だったのでしょうか。
カギを握るのはこの時代の「土地制度」です。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
後白河法皇の政治力も相当ですね。
全盛期の
平清盛と渡り合ったかと思うと
その後、源頼朝とも、
渡り合います。
「日本一の大天狗」と言われることがありますね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、後白河法皇のご存在が当時の我が国に大きく影響しましたね。
もし法皇がおられなければ、平家の政権はそれなりに長続きしたかもしれませんし、あるいは頼朝がもっと早く将軍になれていたかもしれません。
ぴーち おはようございます!
後白河法皇も幽閉されるだけの理由を持ちあわせているものの、その身分の高さ故に清盛の方が周りの反感を買ってしまった訳ですね。上り詰めた者勝ちとでも言うのでしょか・・(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、皇室のご身分と比べれば清盛の方が下に見えるのは仕方がないことですね。
それ故に反感を買ったのですが、もっと根本的なところが…なんですよね(´・ω・`)
今後の更新にご期待下さい。