しかし、近衛天皇は1155年に子孫を残されぬまま崩御されました。次の天皇としては崇徳上皇の子である重仁親王(しげひとしんのう)が継承される可能性が高かったのですが、崇徳上皇の血統を嫌(きら)われた鳥羽法皇は、崇徳上皇と同じ璋子との間にお生まれになり、上皇の弟にあたる雅仁親王(まさひとしんのう)を後白河天皇(ごしらかわてんのう)として強引に即位させました。
我が子である重仁親王が天皇として即位しなければ、崇徳上皇は「治天の君」として院政を行うことができません。鳥羽法皇による冷酷(れいこく)ともいえる仕打ちに対して激怒(げきど)された崇徳上皇は、1156年に鳥羽法皇が崩御されるとクーデターを計画され、兄の藤原忠通(ふじわらのただみち)と関白の座を争って敗れた藤原頼長(ふじわらのよりなが)を味方に引き入れられるとともに、自前の軍をお持ちでなかったので、武士である平忠正(たいらのただまさ)や源為義(みなもとのためよし)らを呼び寄せられました。
しかし、崇徳上皇のお考えを先読みされた鳥羽法皇は、ご自身の崩御の前に後白河天皇や関白の藤原忠通に味方する武士団を準備され、ご自身の信頼が厚かった平忠盛の子であり、忠正の甥(おい)にあたる平清盛や、源為義の子である源義朝(みなもとのよしとも)らが参集しました。
こうして1156年7月、兄弟や親子、さらには叔父(おじ)と甥という血族同士が相争(あいあらそ)う戦いが始まってしまいました。これを当時の年号から保元の乱(ほうげんのらん)といいます。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち おはようございます!
現代でも毎日のようにニュースで
子供が親を、親を子供を、あるいは兄弟同士の言い争いの末に相手を殺めてしまった・・という
悲劇が報じられていますが、天皇家の血族の争いとなれば、スケールも違いますので、国全体がその争いごとに巻き込まれてしまい兼ねない事態に陥ってしまい、国民にとっては迷惑千万な事だったでしょうね(^^ゞ
それにしても、身近に存在する家族の欠点はすぐ近くに居る分、どうしても目についてしまうものですが、親子や兄弟だから何を言っても許されるという甘えが悲劇を齎す事が多いようですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、皇室に内乱が生じれば我が国全体を揺るがす大事件につながってしまいますからね。
近親憎悪の世界は一般に限ったことではないということなのでしょうか。
源氏
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
私の住んでいる兵庫県川西市の多田は
摂津源氏の発祥の地でして
源満仲がいたそうです。
(多田源氏)
実は、三矢サイダーも私の家の近くが発祥の地なのですが、
この三矢サイダーのネーミングは、
源満仲が住吉大社の御神託で、放った三つの矢
が多田の地に刺さったという神話から、つけたそうです。
そういうこともあり、毎年、家の近くでは
「源氏祭り」が行われます。
青田さんへ
黒田裕樹 源満仲は「ただのまんじゅう武士のはじまり」の言葉でも有名ですね。
私のブログでもかつて紹介したことがありますよ。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-297.html