1184年3月、一ノ谷(いちのたに、現在の神戸市)に陣を敷(し)き、山を背後に軍勢を構えた平家は、正面から攻めてくるであろう源氏を迎え撃(う)つべく待っていたのですが、義経は山の頂上から、急斜面(きゅうしゃめん)のため常識では通れそうもない坂を馬ごと一気に下り、平家の背後を奇襲(きしゅう)しました。
不意をつかれた平家は大混乱となり、一ノ谷を放棄(ほうき)して西へ敗走せざるを得ませんでした。義経の思わぬ奇襲によって源氏が勝利を得たこの戦闘は一ノ谷の戦いと呼ばれ、また義経が急坂を一気に下った戦いぶりは、後の世に「鵯越(ひよどりごえ)の逆(さか)落とし」と称えられました。
義経には常識にとらわれない思考能力と、一瞬のスピードで決着をつけようとする天才的な戦術に関する能力がありました。義経という戦争の天才を得た源氏と、人材不足に悩む平家との大きな差が、それぞれの今後を象徴していました。





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なおまゆ こんばんわ。いつも有難うございます。
義経は軍事の天才ですね。
軍事の才能を持つ者は一民族の中に非常に少ない、というようなことを司馬遼太郎氏が言ってました。
確かに義経以降では、楠木正成、足利尊氏、豊臣秀吉、大村益次郎くらいしか思い浮かびません。
平家の中に、そういう人がいれば、歴史は変わったでしょうね。
政治より軍事が歴史を動かしたという点は、日本史上稀に見ることなんでしょうか?
オバrev 戦力を活かす優れた軍師の存在が、まさに勝敗を左右しましたね。
しかし義経は天才ではあるけど、どこかで兵法を学んでいると思うのですが、それはどこですかね?
なおまゆさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、義経のような軍事の天才が平家に存在しなかったことが明暗をくっきりと分けましたね。
軍事によっていったん歴史が動いたのは、戦国武将にも結構いそうですね。
しかし、義経も含めて最終的には政治力が歴史を動かすことが多いようです。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、軍師の存在は大きいですね。
義経の場合は鞍馬山の修行から脱出して奥州藤原氏に拾われるまでの行方が今一つはっきりしていません。
この頃にゲリラ的なのを含めた様々な経験を積んだことが、軍事の天才につながったのではないでしょうか。
ぴーち おはようございます!
一つ疑問なんですが、
これまでの非情な采配ぶりにより
平家は恨みを買われても当然の事だとは存じますが、
頼朝も義経も一度は清盛に命を助けられた身の上。
その恩義は、一度も感じることが無かったのでしょうか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 生命を助けられたといっても、父親や兄弟を殺されていますからね。
やはり「恨み」の方が上だったと思われます。
ただし、頼朝は処刑を免れるきっかけになった池禅尼の直系となる平家一族だけは保護していますね。
義経ジンギスカン説。
晴雨堂ミカエル 判官びいきと、戦術が似ている事から、義経ジンギスカン説が真しやかに根付いていますが、この寓話の出どころは御存知ですか?
現実問題、仮に義経が蒙古へ逃れたとしても、あの戦バカでは大帝国樹立は無理でしょう。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 ジンギスカン説の出どころまでは残念ながら存じ上げませんが、確かにありえない話ですね。
義経とジンギスカンとでは性格が違いすぎますし。
そんな中、源義仲(みなもとのよしなか)が1183年に倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで平家の軍勢を破ると、身の危険を感じた平家は安徳天皇とともについに都落(みやこお)ちをしてしまったのです。
しかし、備中(びっちゅう、現在の岡山県西部)の水島(みずしま)では義仲相手に大勝するなど、本拠地である西国において平家はまだまだ力を持っており、都での復権を虎視眈々(こしたんたん、じっと機会をねらっているさまのこと)と狙(ねら)っていました。
また、瀬戸内海(せとないかい)がある西国では海戦が多く、東国の山育ちの人間が多い源氏に対し、強力な水軍を持っている平家の優位(ゆうい)は動きませんでした。このようなことから、平家と源氏との戦いは当分の間は一進一退(いっしんいったい)を繰り返すであろうと思われていました。
ところが、結果として平家は都落ちからわずか2年足らずで滅亡しているのです。どうしてこのようなことになったのでしょうか。
そのカギを握る人物こそが、頼朝と同様に清盛が助命した源義経なのです。





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ぴーち おはようございます!
平家側は火の勢いがたまたま強かっただけだと弁解してるようですが、最初からその様な事をしなければ、恨まれずに済んだものを、雨ではなく、風が吹くとは・・きっと自然も平家の行いには味方をしてくれなかったのでしょうね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 結局は仰るとおりの考えに行きつきますよね。
平家の行為がすべて裏目に出てしまっています。時の勢いを味方にできなければ恐ろしい運命が待っているというこのなのでしょう。
そして何よりも最大の不幸だったのが、清盛自身が病気となって1181年閏(※注・うるう)2月に64歳でこの世を去ってしまったことでした。清盛の死後は三男の平宗盛(たいらのむねもり)が平家の棟梁となりましたが、清盛ほどの器量は持っておらず、また後白河法皇が院政を再開されたこともあって、平家による政権の将来に暗雲(あんうん)が立ち込め始めましたが、その原因は人材不足だけではありませんでした。
平家に逆らった勢力には寺社も含まれていました。平家は1180年12月に奈良の東大寺や興福寺(こうふくじ)の寺社勢力を鎮圧(ちんあつ)するため出兵しましたが、風の強い日に攻めたために瞬(またた)く間に火が燃え広がり、東大寺の大仏が焼け落ちるという大惨事(だいさんじ)となったことで平家は仏敵(ぶってき)呼ばわりされてしまったのです。
さらに平家を待ち受けていたのが大飢饉(だいききん)でした。1180年は異常気象に悩まされたこともあって農作物が不作となり、西日本を中心に餓死者(がししゃ)が相次(あいつ)いだばかりか、この状態が数年も続くという騒(さわ)ぎになりました。これを当時の年号から養和(ようわ)の大飢饉といいます。
※当時は旧暦=太陰太陽暦(たいいんたいようれき)を採用していたため、1年が13ヵ月になる年がありました。この場合は同じ月が連続することになりますが、2回目の月を閏月(うるうづき)として区別していました。





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ぴーち おはようございます!
悲運が待ち受けている人生もまた因果応報。
それまで自分が(或いは先祖が)犯してきた罪が今度は自分の人生に降り掛かって来てしまったのですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 平家のこのあたりの歴史を振り返ると、まさしく「因果応報」ですね。
人生はやはり真っ当に歩むべきなのでしょう。
世の無常
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
黒田先生の今までの講座
徳川綱吉、田沼意次、そして、今回の平清盛を
重ね合わせると
単なる偶然かもしれませんが、妙な運命を感じます。
それは、最後は、悪い偶然が重なるということです。
「天災」「身内の病死」「そして、主人公の死」が同じ時期で、どっと気ます。
「病は、気から」ということで、『病死』については、何となく、わかるのですが、
天災については、本当に不幸な偶然にすぎません。
しかし、現代に置き換えると
◆ 阪神大震災の時、村山総理(社会党)
◆ 東北沖地震は、管直人総理(民主党)
なんですが、これも、単なる偶然と考えると
不思議なものを感じます。
オバrev 当時は平均寿命も短く、若死にすることも多かったでしょうから、その備えがなかったことは大きかったように思います。
それを考えると、藤原氏支配が長く続いたのが不思議ですが、その違いは何なんでしょうか?
青田さんへ
黒田裕樹 確かに偶然にしては出来過ぎていますね。
世の乱れは天災と連動しているのかもしれません。
オバrevさんへ
黒田裕樹 平家はリスクマネジメントの面で大きな問題があったようですね。
藤原氏の場合は「天皇の摂政あるいは関白」という緩やかな条件であり、比較的柔軟だったことが長持ちした理由かもしれませんね。
歴史のif
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
これは、歴史のifですが
平重盛がもし、亡くならなかったら、
平家政権は、もう少し、持ちこたえたように
思うのですが、いかがでしょうか。
というのも、この平重盛は、後白河法皇にたいして、平清盛より、信任が厚かったからです。
平家と朝廷のギクシャクした関係を修復できたら、いずれは、滅びるにしろ、そう簡単には、
源氏も手出しできないと思うのですが。。
青田さんへ その2
黒田裕樹 確かに一理ありますね。
重盛が生きていれば、確かに平家の寿命は延びていたことでしょう。
しかし、平家が生き延びるということは、それだけ新時代の幕開けが遅れるということでもありますね。
そうなれば世の中の流れはもっと変わった方向になったかもしれませんん。
ちょうど良い一つの見本が実は次回(第29回)の講座なのですが
要するに、頼朝は若い頃に武士としての「実地訓練」を積んでいたのです。やがて頼朝が1180年に平家打倒に立ち上がると、当初は苦戦したものの次第に武士たちの同意を得て、富士川(ふじかわ)の戦いで勝利するなど大勢力となっていきました。なぜなら、平家に一度「裏切られた」かたちとなった武士たちが、自分と同じ経験をした頼朝であれば今度こそ期待に応(こた)えてくれるに違いないと判断したからです。
一方、頼朝をはじめ各地の源氏の挙兵(きょへい)に危機を感じた清盛は、1180年6月に平家の経済的な本拠地(ほんきょち)である福原(ふくはら、現在の兵庫県神戸市)に都を遷(うつ)しましたが、余りにも性急(せいきゅう)に行ったことで皇族や貴族、あるいは寺社の反対が根強く、結局11月には京都に戻ることになりました。強引な手法で体制を固めてきた平家の政権も、この頃には陰(かげ)りを見せていたのです。
どんなに大きな勢力であっても、人材が育たなければいつかは必ず衰(おとろ)えますし、不可抗力(ふかこうりょく、人間の力ではどうにも逆らえない力や事態のこと)な事態が起こった場合には、人々の恨みは時の政権に向けられます。平家の政権も例外ではなく、末期になると立て続けに不運が襲(おそ)うようになりました。





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晴雨堂ミカエル 頼朝の息子で三代将軍実朝が暗殺された事情も解るような気がします。
武勲のない実朝は官位の叙勲に積極的で、和歌集編纂もやったりと貴族的。当時の御家人感覚とは合わないでしょうな。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
当時の御家人から見れば、実朝の行為は「反逆」とも思えたことでしょう。
なるほど。「反逆」になりますか。
晴雨堂ミカエル 実朝の身になって考えると、兄が殺された事もあり、北条家から自分の身を守るため権威に頼ったのではないかと思うのですが、それが逆に味方を失うだけでなく、「裏切り」と見なされるなんて哀しいですね。
実朝の若さからの思慮浅さかな。
晴雨堂ミカエルさんへ その2
黒田裕樹 そうですね。幕府の開設者としての「源氏の役割」が終わったことも大きいと思います。
もはや用済みである源氏。それが御家人の「お飾り」として生きていくのか、それとも朝廷に接近して勢力を拡大するのか。後者を選んだことが「裏切り」となったのでしょうね。
ぴーち おはようございます!
こうして平家の一連の行動を拝見させて
いただいていると、私の想像していた平家とは随分とかけ離れていました。清盛ももう少し思慮深く、
先見の明に長けている人物なのかと思っていましたが、
勢い任せで、政策も付け焼刃的な所があったのですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 政権を奪取した頃には平家にも勢いがありました。
しかし、武士の期待に応えるどころか逆のことをやり続けたことによって支持を失い、反対勢力が次々と現れたことによって冷静さを失ったものと思われます。
こうなると何もかもが思うようにいかなくなり、余計に焦りを生むようになる。平家のもがき苦しむ声が聞こえてくるようですね。そして、そんな平家に追い打ちをかけるように…。
平家の場合も決して例外ではなく、やがて「武士のための政治」を実現させる他の勢力が現われたことで、全盛期には「平家に非(あら)ずんば人に非(あら)ず」とまでいわれた平家の天下はたちまち崩(くず)れ去ってしまいました。
では「武士のための政治」とは一体どのようなものなのでしょうか。そして、平家にかわって政治の実権を握った勢力には、なぜ「武士のための政治」が理解できたのでしょうか。
そのカギを握る人物こそが、かつて清盛が生命を助けた源頼朝なのです。





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ぴーち おはようございます!
なるほど、
何処の国でもそうでしょうけれど、
国民一人ひとりの支えがあってこそ、一つの国が成り立っている訳ですので、その土台となる国民から支持されなくなれば当然、崩壊していくことになりますね。
人の上に立つと言うことは、体育祭の棒倒し競争の様に皆を蹴落として頂点に立つ事ではなく、大勢の人たちから支えられて高く飛び上がる胴上げ型であるべきなのでしょうね。胴上げは、下で支える人間と胴上げされている人間とが互いに信用しあわなければ、成り立たない事ですしね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、政治組織としては胴上げのように支えられている形式の方がふさわしいですね。
支配者は同時に多くの支持者に「支配されています」から、それが分からない政治家は退場していただくしかありません。
さて、このたび若き経営者の皆様が「志(こころざし)」をもって企業の繁栄と社会に貢献するとともに、正しい日本の歴史を学んで誇りある国づくりを目指すことなどを大きな目標とされておられる「経営者漁火会(けいえいしゃいさりびかい)」様からのお招きにより、2月24日(金)の午後6時30分から「平清盛の真実 ~開拓者がもたらした我が国の繁栄」との演題で講演を行うことになりました。
通常は会員の皆様を中心に行われる講座ですが、今回は主催者様のご厚意(こうい)によりどなたでもご参加いただけますので、是非とも多くの皆様がお集まりくださればと願っております。
講座については先日の第28回歴史講座に準じたものとなりますが、経営者の皆様の視点に立った内容を中心に展開させる予定です。
経営者漁火会歴史講座
「平清盛の真実 ~開拓者がもたらした我が国の繁栄」
日時:平成24年2月24日(金) 午後6時30分より
場所:ハートンホール(大阪市中央区)
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:金1.000円
講演終了後に懇親会(会費金4,000円)を行いますので、よろしければこちらにもご参加ください。
なお、会員以外の皆様でご参加を希望される方は、当記事のコメント欄を活用いただくか、欄外のメールフォームからお知らせください。
ちなみに、今年は自己主催の講座以外にも今回のように様々な分野で講演を行う予定です(詳しくは後日お知らせします)。





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なぜなら、平家が摂関家の真似(まね)をしただけでは武士たちの立場に全く変化がなかったからです。人間というものは期待が大きければ大きいほど、裏切(うらぎ)られた場合の怒(いか)りが大きくなるものですが、武士たちの場合も平家への期待が大きかっただけに「同じ武士なのに、なぜ俺たちの思いが分からないのか」と余計に不満を持つようになりました。
一方、それまで政治を行っていた貴族たちも、身分が低いうえに血を流す「ケガレた」仕事しかしないと見下していた武士である平家が自分たちの真似をしたことに対して激しく反発していました。すなわち、平家の行った政治は武士と貴族の双方から問答無用で拒否(きょひ)されてしまったのです。
源頼朝や足利尊氏(あしかがたかうじ)、あるいは織田信長(おだのぶなが)・豊臣秀吉(とよとみひでよし)・徳川家康(とくがわいえやす)など、後の世で武士による政治が広く支持されたという現実を考えれば、初めてであるがゆえに確固(かっこ)たるビジョンを持てない「開拓者」としての立場でしかなかった平家の悲劇でもありました。





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晴雨堂ミカエル 民主党も国民の期待を一身に浴びて政権に就きましたが、事実上マニフェスト反古にし政権交代の意義を自ら否定するという惨めな結果。
ただ、私が民主党の弁護士ならば、自民党が残した不良債権の処理だけでも途方のないことに加え、未曾有の東日本大震災で完全に首が回る振りすらできなくなった。
これも、今まで自民党だけに国政を任せてきた国家主権者たちの罪です。
と、弁護するでしょうな。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 負の遺産については否定しませんが、それを含めてのマニフェストだったはずですからね。
甘い言葉で投票を呼び掛けた罪は大きいと思いますし、何よりも期待を抱かせて裏切られた国民の怒りは半端ではなく、たとえそれが理不尽であったとしても、恨みつらみは時の政権に向けられるのが世の常というものです。
オバrev 確かに清盛には、お手本とする前例がなかったことが悲劇に繋がったのかもしれませんね。
それと頼朝や家康に比べると、下積み生活がなかったことも影響しているかも。
しかし、それを忠告する忠臣はいなかったんですかね?
ぴーち おはようございます!
いわゆる「ミイラ取りがミイラに」なった様な形になってしまった平家が武士の怒りを買ってしまった訳ですね。
ただ闇雲に頂点を目指したいという、野心だけで這い上がっただけで、そこで何をしたいのかという明確な目標がなければ、確かに周りからは非難轟々でしょうし、またその非難に対しても確固たる意志がなければ、風当たりの強い場所には立ち続けていられなくなりますね・・(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、ビジョンのなさが平家の命取りになりましたね。
非難については平家の軍事力で抑えられますが、それもできなくなると…。
今後の運命が見えてきますね。
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オバrevさんへ
黒田裕樹 (お言葉への返信が遅れてしまい、申し訳ございませんでした。)
前例のないことには人間誰しもが戸惑うものですからね。それゆえに清盛は最悪の選択をしてしまいました。
また、仰るとおり幼い頃から貴族じみた生活をしていて下積みらしいのがなかったこともありますし、また彼が最高権力者として独裁的な政治を行っていたことや、平家一門の多くが同じように貴族じみていたことも影響していたと思われます。
平安時代の頃には、それまでの公地公民(こうちこうみん)の原則が完全に崩壊(ほうかい)して荘園制度が全盛期を迎(むか)えていましたが、この制度には大きな欠陥がありました。それは、荘園の所有が上流貴族や寺社のみに認められていたということです。
実際に田畑を耕(たがや)しているのは他ならぬ武士たちなのですが、朝廷は彼らの所有を認めようとしませんでした。困った武士たちは、仕方なく摂関家などの有力者に土地の名義を移し、自らは「管理人」の立場となりましたが、これほど不安定な制度はありません。
「自ら開墾(かいこん)した土地は自らの手で堂々と所有したい」。武士たちはいつしかこうした切実な願いを持つようになりましたが、武士の心の内が理解できない貴族たちによって政治が行われている以上は、その願いは叶(かな)えられそうもありませんでした。
そんな折(おり)に平家が政治の実権を握ることに成功したことで、自分たちと同じ武士である平家であれば必ずや「武士のための政治」を実現してくれるに違いない、と全国の武士たちが期待したのです。





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オバrev なるほど~!このシステムに手を付けなかったことで失望と反感を買ったんですね。
でも清盛が、それを分かってなかったとは思えませんけど、
それとも分かった上で、あえて手を付けなかったんでしょうかね?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > なるほど~!このシステムに手を付けなかったことで失望と反感を買ったんですね。
鋭いですね(^^ゞ
果たしてご推察どおりなのか、次回(24日)には分かりますよ。
> でも清盛が、それを分かってなかったとは思えませんけど、
> それとも分かった上で、あえて手を付けなかったんでしょうかね?
さぁ、どうでしょうか?
これも次回(24日)にはっきりしますね。
ぴーち おはようございます!
平家が政権を握った事で、当然「武士の味方」であるはず。平家なら必ず武士の悩みを聞いてくれるはずと勝手に思い込んだのは、武士の方で、平家はその事については何も宣言していないのなら、それは全面的に平家の落ち度でも無いように思いますが・・・
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 その一方で現場の武士たちは、当然自分たちの思いがかなえられるからと信じ込んでいるからこそ平家の政権樹立に協力しました。ということは、今の政治家のようにマニフェストを公表して票を集めるような形式をとっていなくとも、彼ら武士の意向を無視してはやはり政権が成り立たなくなるのです。この流れについては次回(24日)の更新で詳しく紹介します。
またそれとは別に「平家の落ち度」でない原因も確かにありました。それについても今後の更新で明らかにしていきます。
なおまゆ こんばんわ。
いつも有難うございます。
土地制度を追っかけていけば、日本史は分かりやすいでよね。なかなか、そのような授業はできないのでしょうが・・・・。
先生のブログを読むと、本当に歴史の流れが良く分かり、人物も分かりやすいので娘にも好評です。助かってます。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 土地制度は人間の生活の根幹をなしますからね。そういえば明治時代の地租改正も大事業でした。
お言葉有難うございます。少しでも多くの皆様にブログをご覧いいただけるようになりたいですね。
陰謀の背景に後白河法皇の存在があったことを知って激怒した清盛は、2年後の1179年に軍勢を率(ひき)いて後白河法皇を幽閉(ゆうへい、閉じ込めること)して院政を停止し、近臣たちの官職をすべて解(と)くなどのクーデターを起こしました。なお、清盛の孫にあたられる安徳天皇が即位されたのはこの翌年(1180年)のことです。
清盛の立場から見れば、自己の政権を危(あや)うくしたのは後白河法皇側であり、法皇のかわりに平家と血のつながりのある天皇を立て、反対勢力を封じ込めて一門で官職を固めるのは当然の防衛手段といえました。しかし、法皇を幽閉するという強硬(きょうこう)な手段が、周囲の更(さら)なる反発を招いてしまったのです。
それに加えて、平家による政権には自身が気づいていない「重大な欠陥(けっかん)」があり、その欠陥こそが後の平家滅亡への直接的な引き金となってしまったのですが、それはいったい何だったのでしょうか。
カギを握るのはこの時代の「土地制度」です。





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青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
後白河法皇の政治力も相当ですね。
全盛期の
平清盛と渡り合ったかと思うと
その後、源頼朝とも、
渡り合います。
「日本一の大天狗」と言われることがありますね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、後白河法皇のご存在が当時の我が国に大きく影響しましたね。
もし法皇がおられなければ、平家の政権はそれなりに長続きしたかもしれませんし、あるいは頼朝がもっと早く将軍になれていたかもしれません。
ぴーち おはようございます!
後白河法皇も幽閉されるだけの理由を持ちあわせているものの、その身分の高さ故に清盛の方が周りの反感を買ってしまった訳ですね。上り詰めた者勝ちとでも言うのでしょか・・(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、皇室のご身分と比べれば清盛の方が下に見えるのは仕方がないことですね。
それ故に反感を買ったのですが、もっと根本的なところが…なんですよね(´・ω・`)
今後の更新にご期待下さい。
1160年、清盛は正三位(しょうさんみ)に昇進して武士でありながら公家(くげ)の身分を得ることとなり、それまで貴族から見下(みくだ)されていた武士が初めて公家の仲間入りをし、彼らと肩を並(なら)べることになりました。後に清盛は1167年には従一位(じゅいちい)の太政大臣(だじょうだいじん)にまで昇進します。
また、清盛は高倉天皇(たかくらてんのう)に自分の娘の平徳子(たいらのとくこ)を嫁(とつ)がせ、二人の間に言仁親王(ときひとしんのう)がお生まれになると、親王が3歳の1180年に安徳天皇(あんとくてんのう)として即位させ、清盛はついに天皇の外祖父(がいそふ、母方の祖父のこと)にまで出世しました。
清盛によって隆盛(りゅうせい)を極(きわ)めた平家の下には全国各地から500以上の荘園が集まると同時に、平家が支配を任された知行国(ちぎょうこく)の数も全国の半数近くの30数ヵ所にまで拡大するなど、経済的な基盤(きばん)も強化されました。
このような政治的・経済的な背景に支えられたことによって、我が国史上初めて武士が朝廷にかわって本格的に政治の実権を握りました。しかし、その政権は清盛が天皇の外祖父になったり、平家一門が次々と朝廷の要職に就(つ)いたりしたことで、摂関家のような貴族的な性格を持ったものとなり、平家によるこうした権力の独占は、やがて周囲の大きな反発を招くことになるのです。





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オバrev 急上昇したケースは急降下することが多いというのも事実かもしれません。
でも出る杭は打たれる!も日本の文化なのかも?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 急上昇したケースは急降下することが多いというのも事実かもしれません。
> でも出る杭は打たれる!も日本の文化なのかも?
どちらも当てはまると思います。しかし、後の徳川幕府のように出る杭が大きく成長する場合もありますからね。
平家の政権における大きな欠陥はもっと根本的なところにあり、それが命取りになりました。今後の更新で明らかにしていきます。
ぴーち おはようございます!
やはり一つの一門がその国の政治の舵取りを
独占し、我が物顔で采配するような事態になれば、当然国民の間から反発が起こるのは、何処の国でも起こりうることですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、一門独占による「ねたみ」が反発の理由の一つであることは間違いありません。
平家の場合は、それに加えてもっとおおきな「ある欠陥」があったために崩壊に向かっていくことになりました。
詳しくは今後の更新で明らかにしていきますね。
ててててっちゃん 黒田殿こんにちは。
実に分かりやすいですね。
なるほどなぁと声が出てしまいます。
ててててっちゃんさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
声質には恵まれていると思います。
両親のお蔭ですね。