はじめのうちは継母を無視して処刑しようとした清盛でしたが、池禅尼が「夫(清盛の父である忠盛のこと)が生きていればこんなつれないことは言わないだろうに」と激しく抗議(こうぎ)したため、仕方なく頼朝を伊豆(いず、現在の静岡県の一部)へと流罪にしました。
一方、赤ん坊だった源義経(みなもとのよしつね)の場合は、義経の母であった常盤御前(ときわごぜん)が絶世(ぜっせい)の美女であったことで、御前が清盛の愛人となることを条件に義経が助命(じょめい)されたと伝えられています。
いずれにせよ、この時に頼朝・義経兄弟を生かしてしまったことが、やがては平家の将来に暗い影を落とすことになるのですが、当時日の出の勢(いきお)いであった清盛が気づくはずもないことでした。





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なおまゆ 母の愛の変形が歴史を変えたんですね。
禍根を断つ、非情になりきれなかった清盛ですが、やはり、家庭環境がよかったんでしょうか?
平家一門は、仲がよかったと聞いてます。
源氏と違って天下を取れなかったのはその辺りにも原因があるのかもしれませんね。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、身内に対して非情になりきれない清盛の判断が運命を変えてしまいましたね。
身内の結束は良いことですが、それで本家を滅ぼしては意味がありません。
そして、その教訓を身をもって知っている頼朝だからこそ、あそこまで非情になれたのでしょうね。
ぴーち おはようございます!
池禅尼は
「わが子に似ているから」ですかぁ・・
光市母子殺害事件の被告も
母への面影を求め、抱きつきたかったからなどと
と言っていましたが、
親子の愛情は普遍ではあるものの、
それを他に求めたことにより、
一方は、その理由で命が助けられ
一方では、その理由で命が奪われてしまった・・。
親子の愛情に触れる事は言わば心の琴線に触れる事と同じなので、それを引き合いに出して、理由付けにすることは言わば一番卑怯な手段だとも思うし、それによって人の運命が変えられてしまうことは言語道断です。
それを卑怯な手段だと冷静に捉えた現代の裁判所の判断はやはり正しかったのかも知れません。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 誰かの何気ない一言が一族の運命を変えてしまう、というのも恐ろしい話ですよね。
光市母子殺害事件にご意見については私も全く同感です。
「言語道断な罪状に対しては法に基づき厳正に処罰する」。裁判所の当然ともいえる判断を私も支持します。
結果論なので
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
源頼朝、源義経の件は、後から、考えたらの
結果論だと思います。
なぜなら、もし、この二人が凡庸で、そのまま
平家政権が続けば、
平清盛は、慈悲深い武将と思われて、一生を終えたからです。
まさか、この二人があのような成長を遂げるとは。。
ネタバレになるので、ここで、止めておきますね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰る一面は確かにありますね。
ただ、私は頼朝や義経が凡庸だとしても、あるいは両者を殺していたとしても、平家の政権は多少の時間がかかっても滅んでいたと考えております。
その理由は…ネタバレになるのでまた後日の更新で明かしましょう(^^ゞ
選挙という民主的な手段がある現代とは違(ちが)って、昔は政敵(せいてき)とみなされた人物は本人のみならず、子供であろうが一族もろとも殺されるのが常(つね)でした。なぜなら、身内を殺されたことで残った恨(うら)みは消えることなく、当時の子供がそのまま大人になれば、復讐(ふくしゅう)のために生命を奪おうとするのが十分考えられたからです。
こうした原則から考えれば、清盛によって捕らえられた頼朝や義経らの運命は風前の灯(ふうぜんのともしび)であり、処刑されてもおかしくないはずでした。しかし、清盛は結果として彼らの生命を奪おうとはしませんでした。なぜ清盛は頼朝や義経を助けたのでしょうか。
その背景には二人の女性が存在していたのです。





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晴雨堂ミカエル 頼朝はこの清盛の温情を戦訓にして、義経をはじめ反鎌倉勢力と見なしたら躊躇なく滅ぼしたかもしれませんね。
その結果、源氏の弱体化をまねき、頼朝の血筋はその息子たちで終わり、平姓の北条氏に幕府を乗っ取られる。
皮肉ですな。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、過去を見事に教訓とした頼朝ですが、同時に「過ぎたるは及ばざるがごとし」でしたね。
それを見事にカバーしたのが徳川家ということにもつながります。歴史は流れですね。
ぴーち おはようございます!
昨日の夜、母が居間でテレビを見ていたので、何を見ているのかと思い立ち止まりましたら、NHKのチャンネルでした。恥ずかしながら、初めて大河ドラマの「平清盛」をチラ見しました(^^ゞ
母は毎週欠かさず見ているようですが、私はどうもテレビ番組を見る余裕が無くなってしまっている様です(^_^;)
女性の存在。。
どんな方なのでしょう^^
女性はなかなか表舞台に登場する機会に恵まれませんが、英雄と呼ばれる男性の影には必ずと言って良い程、献身的に支える女性がいるもとと思われます^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、歴史を陰で支えたのは多くの名もない女性たちでした。
そして、今回の場合は平家にとって陰で支えるどころか、全く逆を行ってしまうのです―。
1158年、後白河天皇は子の二条天皇(にじょうてんのう)に譲位(じょうい)され、自らは上皇として院政を開始されましたが、まもなく後白河上皇の近臣であった信西(しんぜい)と藤原信頼(ふじわらののぶより)との対立が激(はげ)しくなりました。
一方、保元の乱の戦功によって平清盛や源義朝にも恩賞(おんしょう)が与えられましたが、その差は歴然としていました。九州の大宰大弐(だざいのだいに)に任じられ、中国の宋(そう)とのいわゆる日宋貿易(にっそうぼうえき)を行って経済的実力が高まった清盛に対して、義朝には十分な恩賞が与えられなかったばかりか、父である源為義を自らの手で処刑したことで、周囲から「父殺し」とさげすまれていたのです。
義朝は信西に不満を持っていた藤原信頼に協力して、1159年に清盛が熊野詣(くまのもうで)に出かけた隙(すき)をついてクーデターを起こし、後白河上皇や二条天皇を軟禁(なんきん、身体は自由にしておくが、外部との接触を許さない状態におくこと)したほか、信西を追い込んで自害させることに成功しました。
しかし、急を聞いて京へ戻った清盛によって後白河上皇と二条天皇が脱出に成功されると形勢は一気に逆転しました。清盛軍と戦って敗れた義朝は再起を期して逃亡中に襲(おそ)われて死亡し、逃げ切れないと思った信頼は後白河上皇を頼って自首しましたが、最期には処刑されました。この戦いは当時の年号から平治の乱(へいじのらん)と呼ばれています。





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青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
個人的には、源義朝に同情してしまいます。
やはり、政治力・軍事力においても
平清盛のほうが一枚も二枚も上手ですね。
ただ、惜しむべくは、源義家が
前九年の役、後三年の役で、八面六臂の活躍をし、白河法皇に昇殿を許されたので、平清盛より、早く、武家政権を創れるチャンスがあった気がしますが
いかがでしょうか。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに義家にはそのチャンスがあったかもしれません。
しかし、本拠地が東日本と西日本とでは京都に近い平家の方が有利ですし、子の義親が反乱を起こしてしまったところで勝負ありでしたね。
それ以前に平忠常が反乱を起こした際には源氏が有利だったのですが、時流に合わなかったのかもしれません。
ぴーち おはようございます!
崇徳上皇はまだ訳の判らない年頃に天皇に任命させられて、挙句に後白河天皇に恨まれ、その後処刑されたとは、他人に運命を翻弄されながら生きたなんとも哀れな人生だったのですね(*_*;
それにしても後白河天皇の怒りや野望は情け容赦のなく鬼畜化していたようですね(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、崇徳上皇は運命にふり回された一生をお過ごしだったといえそうですね。
後白河天皇ですが、反乱者を処刑する際に自らが行えば「ケガれる」とお考えだったようで、武士に「後始末」を任せておられますが、その際に清盛や義朝に近親者を自ら処刑させておられるようですね。身分の高さが仇になったのかもしれません。
しかし、近衛天皇は1155年に子孫を残されぬまま崩御されました。次の天皇としては崇徳上皇の子である重仁親王(しげひとしんのう)が継承される可能性が高かったのですが、崇徳上皇の血統を嫌(きら)われた鳥羽法皇は、崇徳上皇と同じ璋子との間にお生まれになり、上皇の弟にあたる雅仁親王(まさひとしんのう)を後白河天皇(ごしらかわてんのう)として強引に即位させました。
我が子である重仁親王が天皇として即位しなければ、崇徳上皇は「治天の君」として院政を行うことができません。鳥羽法皇による冷酷(れいこく)ともいえる仕打ちに対して激怒(げきど)された崇徳上皇は、1156年に鳥羽法皇が崩御されるとクーデターを計画され、兄の藤原忠通(ふじわらのただみち)と関白の座を争って敗れた藤原頼長(ふじわらのよりなが)を味方に引き入れられるとともに、自前の軍をお持ちでなかったので、武士である平忠正(たいらのただまさ)や源為義(みなもとのためよし)らを呼び寄せられました。
しかし、崇徳上皇のお考えを先読みされた鳥羽法皇は、ご自身の崩御の前に後白河天皇や関白の藤原忠通に味方する武士団を準備され、ご自身の信頼が厚かった平忠盛の子であり、忠正の甥(おい)にあたる平清盛や、源為義の子である源義朝(みなもとのよしとも)らが参集しました。
こうして1156年7月、兄弟や親子、さらには叔父(おじ)と甥という血族同士が相争(あいあらそ)う戦いが始まってしまいました。これを当時の年号から保元の乱(ほうげんのらん)といいます。





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ぴーち おはようございます!
現代でも毎日のようにニュースで
子供が親を、親を子供を、あるいは兄弟同士の言い争いの末に相手を殺めてしまった・・という
悲劇が報じられていますが、天皇家の血族の争いとなれば、スケールも違いますので、国全体がその争いごとに巻き込まれてしまい兼ねない事態に陥ってしまい、国民にとっては迷惑千万な事だったでしょうね(^^ゞ
それにしても、身近に存在する家族の欠点はすぐ近くに居る分、どうしても目についてしまうものですが、親子や兄弟だから何を言っても許されるという甘えが悲劇を齎す事が多いようですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、皇室に内乱が生じれば我が国全体を揺るがす大事件につながってしまいますからね。
近親憎悪の世界は一般に限ったことではないということなのでしょうか。
源氏
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
私の住んでいる兵庫県川西市の多田は
摂津源氏の発祥の地でして
源満仲がいたそうです。
(多田源氏)
実は、三矢サイダーも私の家の近くが発祥の地なのですが、
この三矢サイダーのネーミングは、
源満仲が住吉大社の御神託で、放った三つの矢
が多田の地に刺さったという神話から、つけたそうです。
そういうこともあり、毎年、家の近くでは
「源氏祭り」が行われます。
青田さんへ
黒田裕樹 源満仲は「ただのまんじゅう武士のはじまり」の言葉でも有名ですね。
私のブログでもかつて紹介したことがありますよ。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-297.html
院政によって上皇(=法皇)の地位は「治天の君(ちてんのきみ)」と称(たた)えられるまでになりましたが、その独裁的な政治手法は周囲の混乱をもたらすことになり、皇位の継承(けいしょう)に関しても例外ではありませんでした。
白河法皇は孫の鳥羽天皇と藤原璋子(ふじわらのしょうし)との間にお生まれになった顕仁親王(あきひとしんのう)を大変可愛(かわい)がられ、親王が5歳になられた1123年には崇徳天皇(すとくてんのう)として即位(そくい)させました。
祖父の白河法皇によって無理やり退位させられた鳥羽上皇(のち法皇)は、いつしか自身の退位の引き金(がね)となった我が子の崇徳天皇に対しても良い感情を持たれなくなりました。そんな中、1129年に白河法皇が崩御(ほうぎょ)され、鳥羽上皇が待望久しい「治天の君」になられました。





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晴雨堂ミカエル 百人一首の中で崇徳院の歌が一番好きですね。
せをはやみ 岩にせかるるたきがわの われてもすえにあわんとぞおもふ
崇徳院の家庭はドロドロで愛憎骨肉、ある意味、生々しく人間臭い。
晩年はザンバラの髭面、妖怪みたいな容姿になったとか。呪いの世界では有名人です。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、崇徳上皇にまつわる伝説は凄まじいものがありますね。
「呪いによって武家に政権が奪われた」ことにもなっていますし。
明治天皇も即位の礼の前に勅使をつかわされておられます。
ぴーち おはようございます!
何故に白河法皇は、鳥羽上皇を差し置いて
年端も行かない孫に天皇を即位させて
しまったのでしょうか。
そこにはただ寵愛していただけという理由しか
無かったのでしょうか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 白河法皇は藤原璋子を大変可愛がっており、彼女が生んだ顕仁親王を何としても天皇に即位させようとしたのが真実のようです。
その寵愛ぶりから「顕仁親王は白河法皇の隠し子である」というとんでもない俗説が鎌倉時代にささやかれる有り様でした。そして、それをさも現実であるかのように筋書き立てているのが今年の大河ドラマなのです。
1107年、清和源氏の出身である源義家(みなもとのよしいえ)の子の源義親(みなもとのよしちか)が出雲(いずも、現在の島根県東部)で反乱を起こしましたが、翌1108年に平正盛によって滅(ほろ)ぼされました。
この功績によって正盛は白河法皇(しらかわほうおう)の厚い信頼を受け、直属の警備機関である北面の武士(ほくめんのぶし)として登用(とうよう)されると、正盛の子の平忠盛(たいらのただもり)も瀬戸内海の海賊(かいぞく)を討(う)ったことで白河法皇の孫の鳥羽法皇(とばほうおう)に信頼され、武士として初めて昇殿(しょうでん、朝廷の内部深く入ること)を許されました。いわゆる殿上人(てんじょうびと)のことです。
忠盛は西国を中心に多くの武士を従(したが)え、平家が繁栄(はんえい)する基礎(きそ)をつくりましたが、昇殿が許された武士の実力は留(とど)まることを知らず、12世紀半(なか)ば頃に起きた二つの大事件によって、平家が朝廷にかわって政治の実権を握る道を切り拓(ひら)くことになりました。
その背景には朝廷内の権力争いがあり、またそれを上手に活用した人物こそが平清盛だったのです。





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れいこ♪ はじめまして。
いつも訪問ありがとうございます。
私もいつも読み逃げでごめんなさい。
お誕生日おめでとうございます♪
私の兄とお誕生日が一日違いなのですよ。
兄は昭和44年2月16日生まれ。
私は歴史が苦手なのです。
よく分からないのです。
理系だったから・・・を理由に
避けてきました。
年号の丸暗記だけの歴史でしたから。
でも、勉強したいとは思っているんです・・・
全く分からないから。
そして、知りたいから。
だから時々読み逃げさせてもらっていました。
どうしてもはじめから覚えないと、いけないような気がして、きっと面白くなる前に挫折してしまっています。
上の子が歴史を習うようになったら
もう一度一緒に勉強していけたらな~って思っています。
また、よらせてもらいます。
いつもありがとうございます。
れいこ♪さんへ
黒田裕樹 お祝いのお言葉有難うございます。
お兄様と一日違いですか。凄い偶然ですね。
歴史は暗記物ではありませんからね。覚えさせるだけでは苦痛でしかありません。
お子様ともども、当ブログがお役に立てれば幸いです。
ぴーち おはようございます!
平氏の躍進の理由は、単に武力だけの力任せではなく
上手く利用していこういう知恵にも長けていたのですね!
応援凸
なおまゆ お誕生日おめでとうございます。
今後の活躍を祈念致します。
経営者の講演会、大変でしょうが地道な啓蒙こそが国を救うと思います。(大袈裟ですが・・・)
季節柄、体調を崩しやすいのでご自愛下さい。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、単なる武力だけではここまで勢力を拡大できません。
政治の世界でも上手に立ち回れる「知恵」が出世に欠かせないのはいつの世も同じですね。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
今回のご依頼はまさに「青天の霹靂」でしたが、ご参加の皆様に満足いただけるよう頑張ります。
現場で奮戦しておられる経営者の皆様には本当に頭が下がりますね。
Y.Kotani 後れましたが、お誕生日おめでとうございます。
黒田先生は、いいお声をしてらっしゃいますね。
私なんぞ、過去に講義してた事もあるのですが、ハスキーボイスで声が通らなくて(;∀;) 。
平家のお話、勉強になります。保田与重郎の関連で「平家物語」を読まないといけないんですが。後回しにしてばっかりです。
Y.Kotaniさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
声に関しては両親からの授かりものですからね。感謝しております。
日常が忙しいと、どうしても後回しになるものがありますよね。私もいわゆる「積ん読」が多くて困っています。
国司たちは自己の任期中に土地を開墾(かいこん)できるだけ開墾して巨利(きょり)を得ましたが、任期中に開墾した土地を都へ持って帰ることはさすがに不可能でした。せっかく開墾した土地を他人に奪(うば)われるのは納得(なっとく)がいかないということで、任期が切れた後も地方にそのまま残って土着(どちゃく)し、同じように武士となっていく者も現れたのです。
受領から土着した貴族から武士となった者たちは、やがて各地の豪族が次第にまとまった地方武士団の中心となっていきましたが、その中でも特に有名だったのが桓武平氏(かんむへいし)や清和源氏(せいわげんじ)の出身者たちでした。
10世紀から11世紀にかけて平家や源氏は様々な興亡(こうぼう)を繰(く)り返しましたが、12世紀に入ると桓武平氏の流れをくむ伊勢平氏(いせへいし)が次第に頭角(とうかく)を現すようになり、清盛の祖父(そふ)にあたる平正盛(たいらのまさもり)によって平家は大きく飛躍(ひやく)するきっかけをつかむのです。





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晴雨堂ミカエル 兵庫県の井戸氏がなんか言うていますが、私は今年の大河ドラマは好感を持っています。
ただ、清盛たちの身なりはもう少し良かったのではないかと思います。
あのクラスは武士というより軍人貴族、五位の位階ですからくたびれた侍烏帽子ではなく、立烏帽子や狩衣くらい着せても良いような気がします。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 私は見ていないのですが、清盛の待遇を不当に貶(おとし)めているようですね。
清盛は若い頃から他の武士に比べてずっと身分が高いのですが…。まあこれ以上書くとネタバレになりますので(笑)。
ぴーち おはようございます!
何となく私は武士と言うと
江戸時代の武士のイメージしかなく
自尊心の塊というか、常に
清廉潔白な生き方を
している様に
思えていたのですが、武士の起こりは
人間の執着心と強欲さが齎しさ産物だったのですね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そのとおりです。
生への執着心だけでなく、強欲の産物でもあった武士。
綺麗事だけでは繁栄できないということなのでしょうね。
こうして誕生した地方の武士ですが、武士団の形成に関しては、実はもう一つの理由がありました。それは受領(ずりょう)と呼(よ)ばれた国司(こくし、地方の行政官のこと)の「おいしい」職務(しょくむ)に原因があるのですが、皆さんはお分かりでしょうか。
地方の役人である国司は徴税請負人(ちょうぜいうけおいにん)として一定の税を集めて政府へ送る必要があったのですが、これは定率の税さえ納めれば、残りは自分の取り放題となるということも意味していました。例えば、本来であれば20%の税を納めれば済むところを、50%をかき集めることによって、差額の30%をそのまま自分の利益にしてしまうことも可能だったのです。
このような「おいしい」国司には希望者が殺到(さっとう)し、貴族たちは様々な手段で国司などの役職を得ようとしました。例えば、朝廷の行事や寺社の造営を請け負って、そのかわりに国司などに任じてもらうという成功(じょうごう)や、同じ方法で引き続き同じ国の国司などに任命される重任(ちょうにん)などが盛(さか)んに行われるようになりました。





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晴雨堂ミカエル 今昔物語でしたか? むかし読んだきりなのでかなり忘れていますが、貧乏五位が大臣の宴会に出席して、甘づらをたらふく食べたいと呟いていたら、受領が任国に招待し、贅沢にダイナミックに甘づらを大量に作ってもてなし、五位はカルチャーショックを受けて、一口食べただけで「もう満腹です」。
これは何に書かれた物語だったでしょうか?
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 芥川龍之介の「芋粥」ですね。
「今昔物語」から題材をとっているようですが、原作と小説とでは若干ストーリーが異なるようです。
ぴーち おはようございます!
人間はおいしい話、手っ取り早く富を得たいという欲が強い為につい甘い蜜に吸い寄せられてしまう性を持っていますね(^_^;)
人間ばかりでは勿論ありませんし、生き物全体に言える現象でもあるでしょうけれど、そんな本能の欲するがままの生き方はどうも醜く感じてしまいます。苦い水、しょっぱい水、様々な味の水を経験して初めて甘い蜜がおいしく感じられるように思います。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、このあたりの人間模様は醜くさえありますね。
このような欲望がやがてもう一つの「武士」をもたらすことになります。これもまた歴史なんですよね…。
平家の棟梁(とうりょう)である平清盛が政権を握(にぎ)ったのは平安時代(へいあんじだい)の末期ですが、そもそもこの平安時代が名前とは裏腹(うらはら)に、地方を中心に国全体で争いが絶えなかった時代でした。
その原因の根本(こんぽん)は、我が国直属の軍隊が廃止(はいし)されてしまったことです。9世紀の初めまでに東北地方の蝦夷(えみし)を討伐(とうばつ)して国内をほぼ統一した朝廷(ちょうてい)が、逆(さか)らう勢力も存在しないのに費用のかかる軍隊を所有する必要はないと判断したからでした。
その後は都である平安京(へいあんきょう)の周辺には現代の警察(けいさつ)に相当する検非違使(けびいし)が設けられたことで辛(かろ)うじて治安(ちあん)が守られましたが、地方においてはそれこそ何の対策(たいさく)も行われなかったのです。
その結果、地方では盗賊(とうぞく)を中心に力あるものが支配する世の中となったことで数多くの生命や財産が奪(うば)われることになり、やがて人々は自(みずか)らを守るために自然と武装(ぶそう)するようになったことが、武士が誕生するきっかけとなりました。





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オバrev なるほど~!武士が生まれたのは、力に頼るしかない状況になって、生まれるべくして生まれたんですね。
すっごく納得です(^O^)
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、武士は生まれるべくして生まれました。
そして、それはあまりにも過酷な状況からの誕生だったんです(´・ω・`)
なおまゆ こんばんわ。
いつも有難うございます。
武士の誕生は、自分なりに学んできました。ここを学んでこそ、平清盛の偉大さがわかります。その後の源頼朝の苦労も、義経の未熟さも理解できますよね。そして、『差別問題』についても。
今は、学校で習うんでしょうか?
私は倣った記憶が全くないので・・・。
20万ヒット
takechan0312 いつも講義ありがとうございます。
残念ながら直にお聞きする機会はありませんが、
歴史の勉強楽しみにさせて頂いてます。
19万ヒット達成のようですが、
ブログをオープンされてもうすぐ3年目ですね。
それまでには20万ヒットも夢ではないかな。
これからもおもしろい歴史のお話宜しくお願いします。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、武士の興(おこ)りをしっかり学ばなければ、その後の歴史について正しい理解を得られません。
差別問題は極めて重要な問題ではありますが、それだけに教育の世界においても慎重に行わなければいけませんね。
takechan0312さんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
仰るとおり、20万HITが目前に迫ってきました。来月でブログ創設3周年になりますが、今後も「分かりやすくて楽しい歴史」を目指して精進を続けていきますので、よろしくお願いします。
ぴーち こんばんは!
なるほど、いつの時代もその元号の意味とは全く裏腹な事が起こっていたのですね(^^ゞ
昭和時代が激動の年代であったので、次の元号は平和でありますようにと願いを込めたはずが、戦争こそ起こりませんが、それ以上に世の中が混沌としていて、泰平な世の中と呼ぶにはどうも辺りの視界が悪すぎですね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、時代の名称や元号に込められた願いと現実が裏腹になってしまうというのは皮肉でもありますね。
逆に言えば、乱れている世の中だからこそ、あえて穏やかな名称を求めるものかもしれません。
「祗園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり。娑羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらはす。おごれる人も久しからず、唯(ただ)春の夜の夢のごとし。たけき者も遂(つい)には滅(ほろ)びぬ、偏(ひとえ)に風の前の塵(ちり)に同じ」。
以上は鎌倉時代(かまくらじだい)に成立したと考えられている「平家物語(へいけものがたり)」の有名な冒頭(ぼうとう)部分ですね。平家の栄華(えいが)と没落(ぼつらく)とを描(えが)いた軍記物(ぐんきもの)として有名です。
それにしても、あれだけの権勢(けんせい)を誇(ほこ)った平家が、なぜあっけなく滅亡(めつぼう)してしまったのでしょうか。その理由を考える際、私たちは平家物語の冒頭のように「どんなに大きな権力を持っていても、いつかは必ず滅びるものである」という世の中の道理を思い浮(う)かべることが多いです。
しかし、現実にはそんな生易(なまやさ)しいものではなく、物語の世界だけでは語りつくすことのできない、武家政権の「開拓者(かいたくしゃ)」であるがゆえの「悲劇(ひげき)」があったことを皆さんはご存知でしょうか。
今回の講座では今年(平成24年)のNHK大河ドラマで取り上げられる「平清盛(たいらのきよもり)」を含(ふく)めた平家にまつわる数々の逸話(いつわ)や真実について研究することによって、平家の栄枯盛衰(えいこせいすい)について探(さぐ)っていきたいと思います。





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青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
平清盛は、若い時から、大活躍して
64歳で死にました。
当時の64歳ですから、今でいうと天寿全うですね。
私は、彼の人生そのものは、完全燃焼で、素晴らしいものだったと思います。
たとえ、その後の平家が、滅んだとしても。。
オバrev 歴史はきれい事では動かないですよね。
平家栄華盛衰の真実にどこまで迫れるか!期待しています(^O^)
19万HITおめでとうございます!
ぴーち おはようございます!
いよいよ20万にあと一歩!王手が掛かりましたね♪
頑張ってください!
冒頭の平家物語は歴史ばかりではなく
国語の授業でも暗唱させられた記憶があります♪
風の前の塵に同じ・・考えてみれば
栄耀栄華を極めた平家の時代も滅びれば、ただの塵と同じなんて・・
思い切った表現ですよね(^^ゞ哀れさを強調した表現力も素晴らしいと思います。
とは言え、平家の本当の所は全く存じておりませんので、勉強させてくださいね^^
応援凸
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、清盛公の人生そのものはケチのつけようがありません。
ただ、惜しむらくは…これからの更新で探っていきたいと思います。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、綺麗事では何の解決にもなりません。
当講座ならではの切り口で平家に迫りたいと思いますので、ご期待下さい!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 有難うございます。20万HITなんて当初は考えたこともなかったですが、近づいてくるとやはりうれしいですね(^^♪
仰るとおり、平家物語は古文の授業でも必ず学びますね。
しかしながら、現実の世界ではそう簡単に割り切れるものではありません。
今回の講座でしっかりと見極めたいと思います。
将門さまの…
大仏堂 難しく考えれば、平家は在地に勢力基盤を持っておらず、朝廷、当時の朝廷の氏の長者である後白河法皇と対立した瞬間から没落が始まったともいえますが、オカルトマニアならば、この時代に将門さまの敵平貞盛、俵の藤太、源経基の主要な系統が滅んでます。しかもそこに関わっているのが、将門さまの後継者のような源頼朝だったという事実。ちなみに清盛一門は貞盛直系の子孫。奥州藤原氏は俵の藤太の子孫。源氏は3代で系統が絶えている。なんらかの意思を感じます。
大仏堂さんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
なるほど、仰るような一面は確かに感じられますね。
怨霊の世界は我が国では決して無視できないと思います。