次回(第28回)の本物の歴史講座は「開拓者の悲劇 ~真説・平家物語」と題して、平家の栄枯盛衰(えいこせいすい)について探っていきます!
「祗園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、 諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり…」の出だしで有名な平家物語(へいけものがたり)。平家の栄華(えいが)と没落(ぼつらく)とを描(えが)いた軍記物(ぐんきもの)として有名ですが、あれだけの権勢(けんせい)を誇(ほこ)った平家が、なぜあっけなく滅(ほろ)び去ってしまったのでしょうか?
その背景には、物語の世界だけでは語りつくすことのできない、武士政権の「開拓者」ゆえの「悲劇」があったのです―。
平成24年のNHK大河ドラマでも取り上げられる「平清盛」を含めた平家にまつわる数々の逸話(いつわ)や真実について研究することによって、私たちは大きな歴史の流れをつかむと同時に、人生の幅をも広げることが可能になるのです。今回は大阪(1月28日)・東京(2月4日)の両方で開催しますので、多くの皆様のご参加をお願いいたします!
第28回黒田裕樹の歴史講座
「開拓者の悲劇 ~真説・平家物語」
日時:(大阪)平成24年1月28日(土) 午後6時より
(東京)平成24年2月4日(土) 午後3時30分より
(※大阪と東京で開始時間が異なります。ご注意下さい)
場所:(大阪)大阪市立総合生涯学習センター 第3研修室
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
(東京)スター貸会議室 浅草 (井門浅草ビル5階)
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:いずれも無料(カンパを受け付けます)
ブログをご覧の皆様(特に東京会場においては関東在住の方々)も、よろしければ是非ご参加下さい。この記事のコメント欄をご活用いただければと思います。また、今回の講座の内容については、これまでと同様に後日にはブログ上で映像とともに発表しますので、是非ご覧になって下さい。
なお、大阪・東京とも講座終了後に近辺の居酒屋で懇親会(会費金3,000円~4,000円程度)を行いますので、よろしければこちらにもご参加下さるようお願いします。
最後に、おなじみとなりましたブロとものクラチーさんからの素晴らしい画像を皆様にご覧いただきます!
(※クラチーさんのブログについては、下線部からご覧いただけます。)







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ぴーち おはようございます!
平家物語の冒頭。。懐かしいですね~
私も一生懸命に覚えて暗唱した記憶があります。
今年の大河ドラマは松ケン主演の平清盛ですね。
ロケ地に那須御用邸近くで行われたとの事で
興味はあります♪
それと同時に平家落人の村という謳い文句で
我が県にも平家に関しては言い伝えが存在しますので、
縁の深いお話でもあります。
楽しみにしています^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
仰るとおり、今年の大河ドラマに合わせて講座を考えました。
平家の悲哀の物語は有名ですが、その裏に隠された「本当の悲劇」について皆様にご紹介できればと思っております。
どうぞご期待下さい(^_^)v
謹賀新年です
クラチー 栃木から帰ってきました。
…って、のああぁあ~!
ダ、ダブルで飾られているぅ!
゜゜(Д)
ううう、毎回本当に今年もありがとうございます。
今年は平家が熱いですからね。
今から「2月4日に予定が入らない乞い」をしなくては!←
クラチーさんへ
黒田裕樹 ハイ、飾らせていただきました(^_^)v
当日の講座でもバッチリ紹介させていただきますので、ご都合がつけばぜひお越し下さいねm(_ _)m
平家
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
平家は、ドラマでは、いつも、ヘタレで、無能な
一族のように描かれますが、
(関ヶ原の戦いの石田三成、明智光秀同様に)
圧倒的な経済力・軍事力を持っていたんですね。
ついつい、勝者の歴史(源氏)から、偏った見方をしてしまいますので、
これ以上のコメントは、また、ネタバレになりそうなので、後は
次回の講座を楽しみにします。
青田さんへ
黒田裕樹 お気遣い有難うございます(^^ゞ
仰るとおり、平家は決して弱くはありませんでした。しかしながら、ある「大きな欠点」を常に秘めており、それが滅亡につながったんですよね。
これ以上は本編ということで…。
歴史講座(東京)
T.M@千葉船橋在住 いつもお疲れ様です。とりあえず確認なのですが、東京の黒田先生の講座は希望者はだれでも参加OKなのでしょうか。せっかくの機会なのでできるかぎり足を運びたく思います。
T.M@千葉船橋在住さんへ
黒田裕樹 私の講座にはどなたにもご参加いただけます。
当日のお越しでも結構ですが、できれば事前にご連絡下されば幸いですので、是非ご検討下さい。
あけおめです~
マリリンカ 黒田先生、こんばんは(*´∀`*)
今年も宜しくお願いします・・・
平安時代は私の行ってみたい時代です~
楽しみです(≧∇≦)/
公演も楽しそうですね~
マリリンカさんへ
黒田裕樹 こちらこそ、今年もよろしくお願いしますm(_ _)m
講座はいつも楽しくやらせていただいてますよ。
マリリンカさんにもいつの日かお越しいただきたいですね(^_^)v
榎本武揚(えのもとたけあき)らの旧幕府海軍は、会津戦争が続いていた明治元(1868)年8月に江戸を脱出し、仙台で新選組の土方歳三(ひじかたとしぞう)ら旧幕府軍の残存兵を収容した後に蝦夷地へと向かうと、年末までに蝦夷地を平定して、箱館の五稜郭(ごりょうかく)を拠点とする蝦夷共和国(えぞきょうわこく)を樹立しました。
しかし、新政府は蝦夷共和国を認めず、雪解けを待って翌明治2(1869)年に攻め込みました。これを箱館戦争といいます。榎本らは陸海それぞれで戦いましたが敗れ、同年5月に土方は戦死し、榎本は新政府軍に降伏しました。
こうして、鳥羽・伏見の戦いから約1年半にわたって続けられた戦いは、新政府による国内統一というかたちで終止符を打ちました。これらの戦いを総称して戊辰戦争(ぼしんせんそう)といいます。箱館戦争で降伏した榎本は、投獄されたものの生命は助けられ、出獄後に新政府に登用されて、その後長く活躍しました。
ところで、幕末から戊辰戦争の終結までに、多くの尊い生命が犠牲となったことに心を痛められた明治天皇は、その御霊(みたま)を慰めるため、明治2(1869)年6月に東京招魂社(とうきょうしょうこんしゃ)を創建されました。東京招魂社はその後明治12(1879)年に靖国神社(やすくにじんじゃ)と改称され、国難に際して祖国に殉じた尊い英霊(えいれい)をお祀(まつ)りする神社として現在に至っています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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中年の星 五稜郭は私の家から徒歩で10分ぐらいのところにあります。
桜の名所でたくさんの観光客でいつも賑わっています。
土方歳三戦死の地(はっきりした場所は分かっていない)もたまに訪れますが、若い女性ファンなどが線香や花束を手向けています。
拍手喝采
クラチー 180000HIT、おめでとうございます!
凄い訪問者数ですね☆
これからも応援していますです!
(>∀<)
箱館政府。
晴雨堂ミカエル 榎本の構想は非現実的だとか言われています。特に安部公房などは最初から負ける戦を画策していたなどとひねくれた説をとっています。
私は素直に蝦夷国樹立を考えていたのかなと思っています。榎本は単なる海軍提督ではなく、ヨーロッパの言語数ヶ国語を操れる外交の第一人者、ドイツなどはプロイセンやバイエルンなど多くの国に分かれている例を知っています。
天皇を中心とした中央集権の帝国の傘下にある徳川公を元首とした公国をつくる事は不可能ではないと考えていたと思います。
なにより、幕臣や譜代の失業問題は深刻であり、薩長にその処理は難しいと考えても不思議ではありません。
箱館戦争を舞台にした映画をみてみたいものです。チャンバラの土方ではなく、陸軍司令官として銃撃戦を指揮する土方をみてみたい。
靖国問題
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
私は、敵・味方に関係なく、その御霊(みたま)を慰(なぐさ)めるため神社を創ればイイのにと考えていたのですが、それが、靖国神社だったんですね。
お恥ずかしながら、靖国神社の歴史を知りませんでした。
そう考えると、中国・韓国が靖国神社参拝について、抗議するのは、どう考えても内政干渉だと思います。
もっとも、彼らが、戊辰戦争の時の犠牲者を弔うということまで、知っていて、抗議するなら、
その理由を聞きたいですが、」
中年の星さんへ
黒田裕樹 五稜郭も今では屈指の観光名所ですからね。
さぞかしきれいな桜並木でしょう。函館の桜ということは5月頃でしょうか。一度行ってみたいものです。
歴女の皆さんにとってイケメン(?)の土方歳三はファンも多いですからね。我が国の歴史を正しく伝える一助になってほしいものです。
クラチーさんへ
黒田裕樹 有難うございますm(_ _)m
最近は一日に300HITが珍しくなくなりましたからね。このまま順調にいけば3月中旬~下旬には200,000HITを達成できそうです。
訪問者の皆様に納得いただける更新ができるかどうかプレッシャーですが(笑)、これからも頑張りますよ。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、榎本の構想は絵空事ではなかったと思われます。
榎本のような傑物が生き残り、明治政府において活躍することで我が国の国力も上昇したと考えられますから。
箱館戦争は昭和63年の年末時代劇「五稜郭」で里見浩太朗が榎本を演じたのが有名ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 青田さんもご存じではなかったんですね。
本文にあるとおり、そもそもは国難に殉じた御霊をお慰めするために建てられたのが靖国神社です。
創建の歴史を知っていれば、少なくとも我が国の側から見当違いも甚だしい抗議の声が挙がるのが極めて異常なんですが…。
ニート大学生
靖国神社って明治の時代にはすでにあったんですね。
知らなかったです。
近年、靖国神社の参拝を朝鮮の方たちが非難していましたが、
靖国神社の創設の歴史を知ってから非難してほしいですね。
自分も、日本の歴史を形作ってきた、先人たちを参拝しに行きたいです。
ニート大学生さんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
靖国神社については、創建の時期も含めて多くの国民から誤解を受けているのが現状です。
国難に殉じた皆さんを、好き嫌いを度外視してお慰めするのは我が国古来の文化でもあります。
歴史を知らずして歴史に異議を唱えるほど愚かな行為はありませんね。
なぜなら、会津藩主の松平容保(まつだいらかたもり)が、京都守護職として討幕派と何度も衝突(しょうとつ)していたからです。なかでも長州藩は、会津藩が預かっていた新選組による池田屋事件などで多くの藩士を殺されていましたから、その恨みは深いものがありました。
会津藩は会津若松城(別名を鶴ヶ城=つるがじょう)に籠城して抵抗を続けましたが、肥前佐賀藩のアームストロング砲による激しい砲撃もあり、明治元(1868)年9月22日に降伏しました。この戦いを会津戦争といいます。
会津戦争には、平均年齢が16~17歳の男子で編成され、壮絶な自刃を遂(と)げた白虎隊(びゃっこたい)などの悲劇のエピソードが多く残されています。なお、旧幕府軍の残存兵力は仙台から蝦夷地(えぞち、現在の北海道)の箱館(現在の函館)へと移動し、新政府軍との最終決戦が行われることになりました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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晴雨堂ミカエル 会津藩の兵士らは筒先から弾をこめるヤーゲル銃を使っていましたが、この頃になると官軍は手元で弾込めできるライフルも使い出すので、完全に不利ですね。
新選組といえば、副長助勤だった斎藤ハジメが会津に残り、明治では警視庁の警部に、結婚式のときはかつてのお殿様松平容保が出席。江戸時代が続いていたら有り得ないシチュエーションです。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、兵器における圧倒的な違いが明暗をはっきり分けましたね。
斉藤一も数奇な人生を歩んでいますが、長生きできた分幸せだったのかもしれません。
なおまゆ こんばんわ。
会津はスケープゴートでしたね。
西郷ほどの人なら、戦わずに済ませることができたでしょうに。多くの命、多くの人材が喪われた戦争でした。
長州人としては、直視できない部分です。
しかし、そんな歴史を持った私達は、彼らの死を無駄にしないようにしなければなりませんよね。
子ども達に正しい歴史を伝えること、そして、政治に対して常に意識を持ち、選挙に参加することですよね。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 確かにスケープゴートですね。
あそこまで執拗に攻め込むことはなかったと思いますが…。戦争後の処理もひどい話ですし。
仰るとおり、彼らの死を無駄にしないために今の私たちがしっかりと国づくりをする必要があると思います。
会津戦争の悲劇
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
会津戦争で、私が新政府軍にたいして、怒りを感じるのは、
戦死者の遺体を6ヶ月間放置したことです。
しかも、その後、罪人塚に遺体を一緒に埋葬したことです。
たしかに、長州藩の恨みは、わかりますが、ひどすぎます。
もし、西郷隆盛が、指揮官なら、こういうことは
なかったと思います。
というのも、庄内藩にたいして、西郷隆盛は、非常に寛大な処置をして、庄内藩は、西郷隆盛を敬愛していたそうです。
それと話は、変わりますが、
新撰組の一番の暴れん坊の永倉新八も大正時代まで、生き残っていますね。
青田さんへ
黒田裕樹 長州藩の会津藩に対する仕打ちは確かに無茶苦茶ですね。
萩市と会津若松市とが友好を結べないのも道理です。
西郷隆盛が指揮を執っていれば、と惜しまれますね。
仰るとおり、永倉新八も新選組の生き残りですね。
人は皆、数奇な運命を背負っているようです。
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ぴーち おはようござます!
白虎隊の悲劇は私も何度かドラマや映画で拝見したことがありましたが、池田屋事件にまで遡る因縁が付き纏っていたのですね。断片的に事実だけを覚えるのではなく、過去、現在、未来とこうして流れに沿って覚えていけば、歴史を学ぶ意欲も更に高まりそうですね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 白虎隊のドラマで有名なのは昭和61(1986)年の年末時代劇ですね。
仰るとおり、池田屋事件の因縁が会津戦争を引き起こしているんです。今回のような「恨みの連鎖」は何とも言えない思いになりますね…。
会津の世直し一揆
青田です。 黒田先生
おはようございます。
青田です。
会津が悲惨な状況になった原因として
池田屋事件の恨みの連鎖があると思いますが
高校時代の日本史の教師が、
「会津戦争で、会津が惨敗した原因の一つは
民衆の支持を得れなかった。官軍の道案内をしたのは、農民だった。」と言っていたのを思い出しました。
調べると
「会津の世直し一揆」は、会津が降伏後に10日後に起こっているんですね。
農民の不満の原因は、会津藩の京都守護職のための経費を捻出するために重税を課したこから起因しているんですね。
新政府軍は、戦争に勝つためには、民衆の支持を得ないと勝てないことが、わかっていた気がします。(赤報隊の利用など)
逆に
会津藩は、武士の意地が強くて、それがわかってなかったことが、勝敗を決めた気がします。
(もちろん、アームストロング砲の力もありますが)
会津藩は、保科正之(徳川家光の弟)が藩祖で、身分制度を超える思考は、持てないのは、仕方なかったかもしれませんが。。
これは、逆説ですが、もし、会津藩は、長州藩のように、民衆(農民)にたいして、善政をしいて
武士だけではなく、全員が一丸となって戦っていたら、新政府軍もかなり、苦戦したと思います。
このうち、江戸の上野では彰義隊(しょうぎたい)が結成され、寛永寺(かんえいじ)に立てこもって抵抗しました。このため、新政府軍は長州藩の大村益次郎(おおむらますじろう)が明治元(1868)年5月15日に総攻撃を加えました。これを上野戦争といいます。
戦争当時、彰義隊は約1,000人の兵力を持っており、簡単には決着しないと思われましたが、新政府軍が肥前佐賀藩の所有するアームストロング砲などの最新兵器を活用したことで、戦いは1日で終わり、彰義隊は壊滅しました。
鳥羽・伏見の戦いと同様に、最新兵器の能力の高さを思い知らされる戦争となりましたが、敗れた彰義隊の残存兵力は東北地方などへ落ちのび、戦いはさらに続くことになりました。
なお、上野から少し離れた現在の東京都港区浜松町で、慶應義塾(けいおうぎじゅく)を開いていた福沢諭吉(ふくざわゆきち)は、遠くから聞こえてくる戦争の轟音が響くなかでも、平然と自ら講義を続けていたというエピソードが残っています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
私は、滅びの美学としては
「伊庭八郎」です。片腕の武士として、
箱館戦争での最後も見事でした。
ただ、願わくば、生き残って、西南戦争、日清戦争、日露戦争で、活躍して欲しかったです。
旧桑名藩士であり、鳥羽伏見の戦い、北越戦争、
会津戦争でも、幕府の側戦った「立見尚文」は、
生き延びて
日露戦争の時、(黒溝台会戦)で、日本軍の危機を救いました。
どちらにしろ、内戦ほど、お互いに消耗して、日本の国にとって、イイことはありませんね。
青田さんへ
黒田裕樹 伊庭八郎はNTVの年末時代劇「五稜郭」で舘ひろしが演じていましたね。
仰るとおり戦死が惜しまれます。戊辰戦争は大規模な戦闘こそなかったものの、犠牲者の数は決して少なくありませんからね。
東北の片田舎でも
ろっぽん 宮城の秋田岩手、山形のトライアングル地帯の我が地域の地侍の我が先祖も秋田・久保田藩に出兵し、本家は会津に出兵し会津に出兵した本家は
北海道、箱館戦争まで交戦し北海道伊達の開拓に左遷になりました。そしてアイヌ人と結婚し
俺の祖母を産み、それで祖母は宮城で育ちました。
自分の中にはアイヌの血が流れています。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 東北戦争でも様々な史実がありましたからね。
ろっぽんさんのような家系の皆様は多く存在されておられるのではないでしょうか。
ぴーち おはようございます!
福沢諭吉はまるでそうなることを既に見通して
いたかのような落ち着きぶりだった訳ですね。
大砲の轟きも文明開化を示唆する祝砲である・・・くらいに聞こえていたのかしら・・(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 福沢諭吉は「これからは学問の時代になるからこそ、動揺せずにしっかりと勉強してもらいたい」という思いが強かったらしいですね。
上がしっかりしていれば、やはり人々はついてきます。
この後、4月に江戸城は無血開城となり、戦いで多くの血が流されることを回避したほか、人口が100万人を超えた、世界でも最大規模の都市であった江戸とその住民を、戦火に巻き込まずに済んだことには大きな意義がありました。
なぜなら、江戸が焼け野原となり指揮系統が寸断されることで、欧米列強の軍事的介入を招きやすくなることもなく、また江戸の都市機能がそのまま残ったことによって、新政府による首都移転がスムーズに行われるようになったからです(詳しくは後述します)。
江戸城の無血開城の立役者は、西郷隆盛や勝海舟と一般的には言われていますが、その西郷と事前に命がけで交渉を行った山岡鉄舟の功績も見逃せません。現実に、西郷は山岡に対して以下のような賛辞を贈っています。
「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人物でなければ天下の偉業は成し遂げられないものだ」。





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青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
この時の日本人の尊敬できることは
全く、私心がなかったことです。
そして、感情ではなく、極めて、理性的に物事を
考えれる人間だった気がします。
その証拠に
フランス革命・ロシア革命では、戦死者・粛清による犠牲者・過去の全否定により、建物の破壊などが行われました。
日本は、鎖国で、遅れたと言われていましたが、
マンパワーでは、極めて優秀だと考えています。
逆に今の日本は、モノが溢れ、豊かになりましたが、幼稚な大人が増えた気がします。
たとえば、原発事故でも、官僚化しすぎて、伝略会社、役所も他人事のように考えるようになりました。
これって、私の思い違いでしょうか。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、私心のなさが西郷など相手の気持ちを動かしましたね。
物量の豊かさは、必ずしも精神の豊かさをもたらしません。むしろ反比例しているような気がします。
ぴーち おはようございます!
>「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人物でなければ天下の偉業は成し遂(と)げられないものだ」
上に立つ者の手本の様な人物像ですね。
何事も捨て身で行動し、身を粉にして何かを成し遂げた人物はいづれ大きな足跡を残し、永遠に語り継がれる。私利私欲を捨てて、名を残す。
目先の欲に囚われずに常に世のため、人のために生きた本来の日本人の心をどうにかして回復させていきたいものですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
自分を含めて、あまりにも私利私欲に走る俗物が多すぎます。
もっと大切なものがあるはずなのですが…。
「西郷さん、もしあなたと私の立場が逆になって、島津侯(=島津の殿様のこと)を他藩に預けろと言われれば、あなたはその条件を受けいれるつもりですか!」
山岡の気迫のこもった意見に対し、さすがの西郷も言葉が詰まりました。やがて山岡の論理をもっともだと思った西郷は折れ、慶喜の件を自分に一任することで話し合いは決着しました。
山岡は翌3月10日に江戸に戻って勝に結果を報告すると、西郷も13日に江戸の薩摩藩の屋敷に入りましたが、征討軍の江戸城進撃の予定日は15日に迫っており、予断を許さない中で西郷隆盛と勝海舟との会見が行われたのです。





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晴雨堂ミカエル 時代劇によっては、山岡会談を省いて直接勝西郷会談にしますね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 確かにそういう時代劇はありますね。
時間の節約のためもしれませんが、両者の階段は事前に交渉した山岡の功績あってこそですから、やはり省略せずに取り上げてほしいものです。
オバrev これはまさに正論ですね。
武士の美学の一つに切腹があると思いますが、やはりその最後を、人としての尊厳を奪うようなやり方に対する批判について、さすがの西郷も武士として反論出来なかったでしょうね。
西郷ー勝の会見がどういう結果になったかは知りませんが、どちらに大義名分があり、道徳的、論理的に正論か、という展開だったのかな?
オバrevさんへ
黒田裕樹 そのとおりですね。
人間として、主君としての尊厳を損ねる手法は、仮に天下を取っても大きな禍根を残します。
日本人らしい正論ですね。
西郷-勝の会談については次回の更新で紹介します。
山岡鉄舟
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
ドラマでは、この西郷隆盛と山岡鉄舟の会談は
省略されて、勝海舟だけが江戸の町を救った英雄になっています。
ドラマでも、山岡鉄舟は、描いて欲しいです。
それに、山岡鉄舟がカッコイイのは
剣・禅・書の名人で、清水の次郎長と交友があり、静岡に移った幕臣のために尽くしたことです。
以前、山岡鉄舟の本を読みましたが、人間的にも大きな人物で、人間としての生き方では、かなり、尊敬できます。
青田さんへ
黒田裕樹 私も同感でしたので、歴史講座におきましては山岡鉄舟のかかわりもできる限り正確に記載しました。
鉄舟がいなければ、江戸の町と我が国の行く末はお先真っ暗だったかもしれませんからね。
ぴーち おはようございます!
山岡さん、なかなかの人物だったんですね!
こういう気骨な人物を歴史に埋もれさせてしまうのは
勿体無いです。こうして黒田さんがクローズアップしてくれた事は私達にとっても、山岡さんにとっても
ありがたいものだと思います♪
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
歴史の流れや真実をとらえる際には、結果だけではなく過程も重要です。
山岡鉄舟のような人物があってこその勝-西郷の会談ですから、省略せずに紹介しました。
今後も細かい流れを大事に更新していきたいと思います。
江戸を動くことが出来ない勝は、山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)を使者として駿府へ向かわせ、明治元(1868)年3月9日に官軍参謀の西郷隆盛(さいごうたかもり)と会見させました。山岡は勝の手紙を西郷へ渡して朝廷に取り計らうよう依頼しましたが、西郷は山岡に対して複数の条件を突き付けました。
西郷の条件は、江戸城の引き渡しや旧幕府軍の武装解除などであり、山岡はそれらの要求を大筋で受けいれたものの、一つだけは断固として拒否しました。
その要求とは、「徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること」でした。勝と同じく旧幕臣の山岡鉄舟にとって、自らの主君が流罪(るざい)になってしまうことだけは、他の旧幕臣をなだめるためにも絶対に受けいれられなかったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
これまで何度となく歴史物の映画やドラマの中で
勝海舟のお名前は聞かされてきましたが、余り興味が無かったもので、素通りしてきてしまいましたが、黒田さんのお話を伺ってみて、興味が持てました。今度、彼が活躍する物語が登場した時は意識しながら観賞していきたいと思います(^^)v
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 有難うございますm(_ _)m
今回の件は勝海舟の献策とともに、山岡鉄舟の活躍も見逃せません。
詳しくは次回(10日)の更新をご覧ください!
山岡鉄舟
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
山岡鉄舟について、私は、『西郷と山岡の会談』が
スグに行われたものと思っていました。
しかし、実際には、会談どころか、山岡が西郷のいる駿府に行くことも命懸けであり、
西郷と会うことも難しい状況だったんですね。
さらに、驚いたのは、山岡鉄舟が、無位無官の単に徳川慶喜の護衛をする身分だったということに
驚きました。
山岡鉄舟も凄いですが、その山岡と会って、会談した西郷も凄いです。
さらに
明治になる山岡鉄舟は、明治天皇の教育係になったそうですね。
新撰組・坂本龍馬のような派手さは、ありませんが
山岡鉄舟は、カッコイイ男ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 そのとおりです。
本編では割愛しましたが、幕臣の山岡鉄舟が薩摩藩までたどり着くまでに殺されても全くおかしくはありませんでした。
彼を救ったのは同行した薩摩藩士の益満休之助でした。益満の誘導で来た人物を暗殺するわけにはいかなかったからです。
山岡のエピソードは、そのいずれもが彼が好漢であることを如実に示していますね。
ところが、幕末の頃の水戸学は、「主君としてふさわしいのは幕府よりもむしろ天皇を中心とする皇室である」とし、また欧米列強からのいわゆる外圧に対してはこれを排除すべきであるとする尊王攘夷(そんのうじょうい)の考えが中心となっていました。
慶喜も当然のように水戸学を学んでおり、徳川家の将軍でありながら、皇室を尊敬する学問を幼い頃から身に付けていたため、自らが朝敵となることが、たとえ将軍という武家の棟梁(とうりょう)の地位を投げ出してでも、絶対に認められないことだったのです。
こうした慶喜の姿勢が、一般的には「弱腰」と見なされることが多いのですが、逆から見れば、慶喜が朝廷と争わずに謹慎したからこそ、徳川家が滅ぼされることもなければ、欧米列強の介入を招くこともなく、また、後述するように江戸の町を戦火にさらすことを防ぐこともできたのでした。





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オバrev なるほど~、そういう事情があったんですか。
江戸を戦火にして最後まで戦い続けた方がむしろ楽だったかもしれません。しかし慶喜の決断は、確かにその時は相当避難されたでしょうが、歴史的に客観的に見て素晴らしい判断だったと言えると思います。
う~む、すっかり見直しましたよ慶喜さん。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、慶喜には慶喜なりの事情や考えがあったんです。
将来まで「汚名」を着せられる可能性があったとしても、自らの思想や意志に殉じるとともに、国内に要らざる混乱を招かないようにする。
これこそが本当の「漢」といえるのかもしれません。
ぴーち おはようござます!
結論だけ見てその人を判断すると確かに「負け犬」であるかも知れませんが、何にでもそうせざる負えない理由があるものですね。慶喜の場合は、「負けるが勝ち」を選択したのでしょう。
攻めていくよりも、勇気ある選択。そこには慶喜の生き残るための戦略が存在していたのですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、慶喜が選択したのは「徳川家を残すとともに我が国が他国に侵略されないようにする」ことでした。
そのためには自分が汚名をかぶっても構わない。政治家の選択は時として自分を犠牲にしてでも国の利益に殉じるものなのです。
慶喜のことを「負け犬」「弱腰」と叩くだけでは、歴史の大きな流れが見えてきませんね。
徳川家康に根拠が?
ken39 慶喜の選択が出自にあったようですが、家康が尾張、紀州、水戸に男子を配した時に、朝廷にも目配り(水戸家)したような話も聞いたことあり様な気がします。これも伏線になってはいませんでしょうか。いかがでしょうか?
ken39さんへ
黒田裕樹 仰る説は確かに存在しますね。
御三家のうち水戸家だけは朝廷寄りにしておいて、将来もし幕府が朝廷と敵対した場合には水戸家だけでも存続させて徳川の血を残すという。
もしこの説どおりであれば、家康の恐るべき深慮遠謀ですし、仰るとおり伏線になると思います。
中年の星 慶喜こそが維新最大の功労者だと思います。もし慶喜が本気になって官軍と戦っていたら、内戦が長引き外国勢力につけこまれることになっていたかもしれません。最低限の流血だけで日本を統一できたのは、慶喜の功績によるところが大きいです。
中年の星さんへ
黒田裕樹 私も同じように考えております。
一般的に権力争いというものは派手な争いごとに目が行きがちですが、いかにして被害を最小限に食いとどめるか、ということが実は一番重要です。
その意味においても慶喜の功績は大きかったといえるでしょうし、また慶喜自身に尊王の考えがあったことも、我が国が天皇中心の国家であり、自分は政権を委任されたに過ぎないという国家の原則を理解させていたのではないかと思います。
戦いに勝利した新政府軍は、慶喜を正式に朝敵とみなし、征討軍を江戸へと向かわせました。この中には赤報隊(せきほうたい)を結成し、年貢を半減すると公約して農民の支持を得ようとしたものの、新政府から偽官軍(にせかんぐん)として処刑された相楽総三(さがらそうぞう)もいました。
江戸城に戻った慶喜は、幕臣の小栗忠順(おぐりただまさ)による徹底抗戦の意見を退(しりぞ)け、フランス公使のロッシュの援助も断り、江戸城を出て、上野の寛永寺(かんえいじ)で謹慎(きんしん)しました。
いかに鳥羽・伏見の戦いで敗れたとはいえ、旧幕府を支持する兵力はまだ多く、今後の展開次第では軍事的勝利も十分考えられたはずなのに、なぜ慶喜は朝廷に対して恭順(きょうじゅん、命令につつしんで従う態度をとること)の姿勢をとり続けたのでしょうか。
その背景には、慶喜に隠された「血の秘密」があったのです。





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ぴーち おはようございます!
血の秘密ですか・・
実は特殊な血液型・・だったとか・・((o(´∀`)o))というは冗談ですがw
血縁問題に秘密がありそうですね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 血の秘密ですか・・
> 実は特殊な血液型・・だったとか・・((o(´∀`)o))というは冗談ですがw
もしそれが理由なら面白いですよね(^^♪
> 血縁問題に秘密がありそうですね^^
さすが鋭いですね(;・∀・)
次回の更新にご期待下さい!
朝廷工作
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
ここで、疑問が残ります。
当然、徳川慶喜も朝廷工作は、していたはずです。
徳川幕府の中にも朝廷工作が出来る人間がいたと考えます。
それなのに、なぜ、朝廷が薩摩・長州の手のうちに入ったのか納得できません。
個人的には、やはり、孝明天皇の崩御が一番、徳川慶喜にとって、不運だった気がします。
これは、歴史のifですが、もし、孝明天皇が活きていたら、どういう流れになったと思われますか。私は、徳川慶喜中心の明治政府の実現ができたと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
幕府を倒すとまではお考えでなかったとされる孝明天皇が崩御されたことが、江戸幕府にとっては大誤算でした。
その後の朝廷は討幕一辺倒になってしまいましたからね。
孝明天皇がご健在でいらっしゃったら、おそらく徳川家中心の連合政権が誕生していたでしょう。
ただ、その政権がどうなっていくかは全く分かりませんが。
孝明天皇
青田です。 黒田先生
おはようございます。
青田です。
高校の時、日本史の授業で、
教師から、「これは、仮説やけど
『孝明天皇の崩御』には、岩倉具視が毒殺した疑いがある。」
「孝明天皇が崩御して、幼帝の明治天皇が即位してから、倒幕派が朝廷をコントロールできた。」と言っていたのですが
そういう説は、本当にあるのでしょうか。
ちなみに、その日本史の教師は、「岩倉具視は、陰湿な性格やから、そういうことを平気でやりかねん。」と言っていました。
青田さんへ その2
黒田裕樹 孝明天皇の崩御はあまりにもタイミングが良すぎますから、昔から毒殺説が絶えませんね。
しかし、私は毒殺ではなく、疱瘡による病死だと判断しております。
岩倉具視が表舞台に復帰するのは1867年の後半であり、孝明天皇の崩御からずいぶん時間が経っていますし、何よりも朝廷内でそんなことをすればどこかから必ず情報が漏れるでしょう。まして当時は尊王攘夷運動が盛んで、朝廷に対する庶民の尊敬は頂点に達しつつありましたし、そんなときに失敗の大きなリスクを背負ってまで暗殺を実行しようとはとても考えられません。
戦い当時の兵力は、旧幕府軍が15,000名に対して新政府軍は5,000名しかなく、旧幕府軍は有利な戦いが出来ると思い込んでいました。しかし、いざ蓋(ふた)を開けてみれば、新政府軍の勝利に終わったのです。
新政府軍が勝利した大きな理由の一つとしては、旧幕府軍と比べて最新鋭の鉄砲などの火器が充実していたことが挙げられます。戦いはもはや兵力の多寡(たか、多いか少ないかの量のこと)ではなく、いかに優れた火器を多く使用できるか、という点が重視されていたのでした。
さらにもう一つの大きな理由は、新政府軍が明治天皇から下賜(かし、高貴の人が身分の低い人に物を与えること)された錦(にしき)の御旗(みはた)でした。戦場に錦の御旗が掲げられたということは、新政府軍が官軍となった一方で、旧幕府軍が賊軍(ぞくぐん)、つまり朝敵(ちょうてき)になったことを意味していました。
そして、この厳然たる事実にもっとも敏感に反応したのが、前将軍の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)だったのです。





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クラチー 徳川慶喜さんって、
「何かめんどくさいから勝手に決めちゃって、はいはい」
みたいなイメージがあったんですが、
ちゃんと周囲の動きとか気にしていたんですね。
ただの女好きじゃなかったのか、ふむふむ。
(酷い偏見)
しかし、武器の性能や数が違えば、
どんなに大群で戦っても勝てませんよね。
天皇の敵・味方という立場も影響あるでしょうし…。
(-m-)
クラチーさんへ
黒田裕樹 偏見もまた見解の一つですよ(笑)。
慶喜公も綱吉公や田沼様のように誤解を受けている人物のひとりといえるでしょうね。
戦争の質がこの頃には全く変わっていましたね。
ましてや錦の御旗の前では…(´・ω・`)
ぴーち おはようございます!
錦の御旗ですか・・
何やら『葵の御紋」をかざしただけで
その場でひれ伏し降参するあるドラマの
風景が回顧されます・・
長年その御紋で国を統制して来ても、朝廷の力には敵わなかったのですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かにそんなイメージがありますね。
とはいえ武家の棟梁がそう簡単にひれ伏すとは…と思いがちですが、そうなるだけの大きな理由があったんです。
詳しくは今後の更新で紹介しますね。
素朴な疑問
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
いつも、この幕末の討幕軍(官軍)で、不思議に思っていることがあります。
それは、なぜ、西日本(薩摩・長州・土佐・肥前)が官軍になり、
東日本の藩が佐幕派になったかということです。
当然、東日本にも外様大名も多くいますし、
幕府に恨みがある藩も多かったはずです。
私の考える仮説としては
① 官軍の藩には、海、もしくは、良港があったので、自然と海外への関心が高かった。
薩摩藩は密貿易、佐賀藩は長崎が近くにあり、
長州藩は、下関があり、土佐藩は、太平洋に面していた。
② 西日本の藩は、参勤交代の時、必ず、大阪を通るので、京都とのパイプがつながりやすかった。
尊王の意識が東日本よりも、当然、高くなるのではと思いました。
今とは、情報の速度が全く、違うので、東北、北陸の藩は、どうしても、京都の政治の状況に鈍感になった。
③ 東日本は、経済的にも幕府の影響が大きかった。
◆ 西日本では、貨幣が銀が主流、東日本では、金が主流。
◆ 江戸の四大飢饉で、享保の大飢饉以外は、被害の中心は、東日本が中心で、財政が疲弊し、中央の政治に介入できる力が全く、なかった。
こう考えましたが、黒田先生は、どう思われますか。
オバrev 日本人なら、やはり錦の御旗というのは大きいですね。これですべてが決してしまったとも言えるんじゃないでしょうか。
青田さんへ
黒田裕樹 まず考えられるのは、幕末までに雄藩と称された藩の多くが西日本に集中していたことですね。
藩の立て直しができたところは、幕府を倒すだけの思想や財力がありました。
自分の藩の生計だけで精一杯な状況では幕府に頼らざるを得ませんからね。
その背景には仰るような条件があったと思われます。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、朝敵になることは多くの日本人にとっては避けたいところです。
ただ、徳川家は武家の棟梁ですから、かつての北条政子や義時のように「朝敵何するものぞ」という気概があっても良さそうなはずなのに、慶喜はひたすら恭順だった。
このあたりの謎を明らかにしたいと思います。
本当の朝敵
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
冷静に考えたら、本当の朝敵は、長州藩ですよね。
というのも
◆ 池田屋事件では、御所に火をつけて、天皇を長州に連れ去る計画を立てていた。
◆ 蛤御門の変では、御所に向かって、発砲した。
これから、ブログで、更新されると思いますが
朝敵にされた会津藩は、可愛そうすぎます。
(京都守護職も京都の治安を守る役職をしただけなのに)
もっとも、新撰組は、会津藩の預かりだったので、新撰組のした過激な取り調べが、全て、会津藩の
したことのようになったことが、会津藩の悲劇の序章だったのかもしれませんね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 そのとおりですね。御所への攻撃だけでも立派な朝敵です。
ところが、その薩長が朝廷側についたために幕府が朝敵となり、その影響が会津藩にも及ぶことになってしまいます(ここから先は近日中の更新までお待ちください)。