開国に伴(ともな)う物価の上昇などの経済の混乱や、様々な抗争(こうそう)がもたらした政局の激変(げきへん)ぶりによって社会不安が増大したことで、変革を求める民衆運動(みんしゅううんどう)は世直(よなお)しとして大きなエネルギーとなりました。
全国の農村や都市部で一揆(いっき)や打ちこわしが頻発(ひんぱつ、たびたび発生すること)したほか、後に教派神道(きょうはしんとう)と呼ばれた備前(びぜん)の黒住教(くろずみきょう)や大和(やまと)の天理教(てんりきょう)、備中(びっちゅう)の金光教(こんこうきょう)が急激(きゅうげき)に広まり、伊勢神宮への御蔭参(おかげまい)りも爆発的(ばくはつてき)に流行しました。
庶民による膨大(ぼうだい)なエネルギーは、1867年の秋から冬頃の東海道や近畿地方にかけて熱狂的な「ええじゃないか」という集団行動をもたらし、討幕運動にも大きな影響を与えるようになりました。
一方、幕府は積極的に西洋文化を受けいれるようになり、蕃書調所(ばんしょしらべしょ)で様々な洋学が教えられたほか、医学分野では種痘所(しゅとうしょ)が設けられました。また、西周(にしあまね)や津田真道(つだまみち)、あるいは福沢諭吉(ふくざわゆきち)や森有礼(もりありのり)・伊藤博文(いとうひろぶみ)など、幕府や薩長などの諸藩から多くの留学生が派遣(はけん)されました。
また、開国によって外国人の宣教師(せんきょうし)や新聞記者が来日したことによって、彼らを通じて西洋文化が直接広まったほか、浮世絵(うきよえ)をはじめとする我が国の文化が1867年に開かれたパリ万国博覧会(ばんこくはくらんかい)で紹介されるなど、文化の交流も盛(さか)んとなりました。
特に浮世絵はモネやゴッホなどのヨーロッパ印象派の画家に広まるなど、世界の芸術にも大きな影響を与えています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)
(※これで江戸時代・後期は終了です。次回[新年1月1日]からは明治時代の更新を開始します)





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オバrev 1年間休むことなく、分かりやすい講演をありがとうございました。
しかし、まさに激変の時代だったんですね。
それを乗り越えてきた我々の祖先の素晴らしさに乾杯をして新年をむかえたいと思います。
オバrevさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
こちらこそ、この一年お世話になりました。
仰るとおり、文化面に関しても激動の時代でした。
名もない多くの人々が我が国の歴史を支えているという重たい事実を胸に、新たな年を迎えたいと思います。
なおまゆ 沢山勉強させていただきました。有難うございます。来年もよろしくお願い致します。
(^^)
kana 今年一年、楽しい記事をありがとうございました。
連日UPを欠かさずにされていることと、この内容の濃さ・・・
今年一年勉強させて頂きました。
来年もよろしくお願いいたします。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 こちらこそお世話になり、有難うございました。
来年も日々の内容ある更新を目指して頑張りますので、よろしくお願いします。
kanaさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
来年も今年以上の内容の充実を目指して励みますので、よろしくお願いします。
よいお年を
癒しグマ 今晩は。
今年は大変お世話になり有難うございました。
来年もよろしくお願いいたします。
黒田さんにとってさらに飛躍の年でありますように、よいお年を。
ポチは全てクリック済みです。
癒しグマさんへ
黒田裕樹 こちらこそお世話になりました。
仰るとおり飛躍の年になりますよう来年も精進しますので、どうぞよろしくお願いいたします。
第二次長州征伐は幕府に不利な戦況となり、大坂城へ出陣していた14代将軍の徳川家茂(とくがわいえもち)が7月に21歳の若さで急死すると、それを口実に戦闘を中止しました。
第二次長州征伐の失敗は、武力で他藩を支配することで成り立っていた幕藩体制(ばくはんたいせい)の崩壊(ほうかい)を意味しており、幕府の威信(いしん)は文字どおり地に堕(お)ちてしまいましたが、そんな幕府に追い打ちをかけるように1866年の年末に大きな不幸が起きてしまいました。
孝明天皇が37歳の若さで崩御(ほうぎょ)されてしまわれたのです。孝明天皇は攘夷のお考えが強かったものの、討幕を好(この)まれずに公武合体のお立場であっただけに、幕府にとっては大きな痛手となってしまったのでした。
なお、孝明天皇の皇子でまだお若かった明治天皇(めいじてんのう)が122代天皇として即位されたほか、幕府の15代将軍として一橋家(ひとつばしけ)で水戸藩出身の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が就任しています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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しげちゃん 黒田先生
一日早いですが、今年は分かりやすい日本史の講義をありがとうございました。色んな視点から面白いお話が聞けて楽しかったです。私は日本史が苦手だったのですが、今は結構な知識と観方が備わってきたような気がします。
風邪など引かないよう気を付けてよいお年を迎えてくださいね。
全ボチしていきます。勿論、明日も訪問します。
しげちゃんさんへ
黒田裕樹 年末のお忙しいときに励ましのお言葉有難うございます。
良い年をお迎えください。
ぴーち おはようございます!
幕府の威信が地に落ちて
今度は倒幕の為の維新がにわかに立ち上がったのですね~^^
さて、今年も今日が最後となってしまいましたね(^_^;)
一年間、黒田さんには沢山のコメントをいただきありがとうございましたm(_ _)m
また来年もどうぞ宜しくお願い致します^^
お体に気をつけてどうぞご自愛ください!
凸
初コメントです。
たっつん おはようございます。
いつも拙ブログにご訪問いただきまして誠にありがとうございます。
黒田先生のブログをいつも楽しく拝見させていただいております。
いろいろなことのあった1年ですが、ぜひよいお年をお迎えください。
黒田さま
T.M@千葉船橋在住 おはようございます。先日はブログにてレスありがとうございました。黒田先生の授業ですが、本当に面白い。ユーチューブで拝見させていただいてますが、夢中になって聞き入ってしまいます。最新のブログでは討幕運動についてですが、ユーチューブでの幕末百景の講座も楽しく聞かせていただきました。東京でもお話しされる機会がおありのようですので機会を見て足を運べればと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、同じ「いしん」ですね(^^ゞ
受験生には覚えやすいかな?
こちらこそ今年も一年間ありがとうございましたm(_ _)m
来年もよろしくお願いします(^o^)/
たっつんさんへ
黒田裕樹 こちらこそ、いつもご訪問くださって有難うございます。
来年は良い一年であってほしいですね。
T.M@千葉船橋在住さんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
東京講演は2月4日(土)に行う予定です。近日中にブログ上で情報公開しますので、ご期待いただければと思います。
まり姫 黒田さんこんにちは~♪
今年は国難ともいうべき災害に見舞われ、日本中が大変な一年でした。
そんな中、いつもお訪ねいただいてありがとうございました。
来年もよろしくお願いします。
よいお年をお迎えくださいませ(*^^)
まり姫さんへ
黒田裕樹 こちらこそ、今年も有難うございました。
来年もよろしくお願いしますm(_ _)m
しかし同盟をあきらめなかった龍馬や中岡は、討幕のために最新鋭の武器が欲しい長州藩と、琉球(りゅうきゅう)を通じての密貿易が得意な薩摩藩という両藩の思惑(おもわく)を一致(いっち)させることで、薩長両藩の和解を進めることを実現させました。
こうした努力が実って、1866年1月に薩長両藩はついに軍事同盟の密約(みつやく)を結びました。これを薩長同盟(さっちょうどうめい)、あるいは薩長連合(さっちょうれんごう)といいます。
一度は激しく戦った薩長両藩が軍事同盟を結ぶまでに関係を修復させたのは、間違いなく龍馬や中岡の大きな功績であり、また両藩が経済的な結びつきから和解につながったという事実は、土佐の商家出身であり、現在の株式会社の原型ともいえる亀山社中(かめやましゃちゅう)を組織していた龍馬ならではの発想といえるのではないでしょうか。
なお、龍馬の亀山社中は1867年に海援隊(かいえんたい)と名を改めています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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晴雨堂ミカエル 中岡慎太郎も侍の姿をしていますが、士農工商の身分制度に振り分ければ農民、大百姓になります。
庄屋として村の行政に携わっていましたから、村民同士の利害関係の処理やお上との交渉など、長けていたはずですね。
オバrev 個人的以外は、今でもやっぱ経済的結びつきが最優先されているような気がします。
でも当時は、なかなかそういう発想にならなかったんでしょうね。
そして不可能と思われた薩長同盟を締結に持っていくのは、経済を最優先にしながら、まさに複雑なパズルを合わせながら、針の穴に糸を通すような緻密な根気のいる作業じゃなかったんでしょうか。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 確かに仰るとおりですね。
龍馬と中岡の両人が手を携えてこそ、薩長同盟が成り立ったといえると思います。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、龍馬と中岡の不断の努力がそれこそ絶対不可能と思われた同盟を成功へと導いたと思います。
発想だけでなく、実行力も必要ということですね。
ぴーち おはようございます!
お互いの過去には一切触れず
現在の両藩の思惑に着眼し、
未来志向の話をぶつけていった訳ですね。
応援凸
黒田先生へ
EgloffMeiko 本年中はいろいろとお世話になりました。ありがとうございました。
お健やかに新年をお迎えになることをお祈りいたします。
来年もご指導、宜しくお願い申し上げます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうなんですよね。
未来志向の話とともに、日本人特有の「恨みを水に流す」という感情がうまく機能したと考えられます。
このあたりが外国とは違うところですね。
EgloffMeikoさんへ
黒田裕樹 こちらこそお世話になりました。
来年もよろしくお願いいたします。
やがて1863年の八月十八日の政変や1864年の禁門の変などにおいて両藩は激しく戦い、多くの犠牲者(ぎせいしゃ)を出していました。そんなこともあり、両藩はいつしか不倶戴天(ふぐたいてん、ともにこの世に生きられない、あるいは生かしてはおけないと思うほど恨みや怒りの深いこと)の仇敵(きゅうてき)同士となっていたのです。
しかし、幕府を倒そうと思えば、薩長が独自の動きをするよりも両藩が手を携(たずさ)えて協力したほうが効率が良いに決まっています。ただ、歴史的な経緯(けいい)とそれぞれが持つプライドが、両藩の和解を阻(はば)んでいました。
ところが歴史の神様は、そんな両藩を結びつけるべく別の人物を用意していたのです。彼らの斡旋(あっせん、間に入って両者をうまく取り持つこと)によって、薩摩藩と長州藩は同盟を結ぶことが出来ました。
その人物こそが、土佐藩(とさはん)出身の坂本龍馬(さかもとりょうま)や中岡慎太郎(なかおかしんたろう)でした。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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晴雨堂ミカエル 昨年の大河ドラマ「龍馬伝」で我が郷里にもたらした経済効果は計り知れないものがありました。 平素の土佐弁は田舎者の言語ですが、あの時期はカッコいい英傑が話す神聖な言葉になる。
面白い話です。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 確かに土佐弁を含めた方言には独特の魅力がありますからね。
一人の人間が与える影響の大きさを考えさせられます。
長州の側からすると
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
黒田先生
こんにちは
青田です。
この薩長同盟ですが、坂本龍馬、中岡慎太郎の仲介があったにせよ、
長州の側からすると感情レベルでの怒りは、相当だったと思います。
というのも、
禁門の変では、久坂玄瑞などのリーダー的立場の人間は、薩摩藩に殺されています。
そこから、まだ、時間がわずかしか経っていません。
トップレベルでは、薩摩と長州のトップレベルでは、同盟に承知できても、長州藩士全体の空気としては、猛反対だったはずです。
よく、その長州藩士を桂小五郎は、説得できたと感心します。
桂小五郎は、薩摩との同盟の締結、藩内の説得と
もの凄い、ストレスだったと思います。
もちろん、坂本龍馬、中岡慎太郎の力も大きかったですが、桂小五郎でないと、あの同盟は、成立しなかったと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 そうですね。
まぁこれもあまり詳しく紹介するとネタバレになってしまうのですが(笑)、長州藩には長州藩のメリットがあった、というべきでしょうか。
いずれにせよ桂小五郎については仰るとおりかと思いますが、この話についての更新が終われば、また詳しくコメントできるかもしれません。
攘夷
ろっぽん 確かに自分のブログに寄ってくるファンも
なんで寄ってくるかという原因は
とにかく洋物は好かんので
日本的スタイルのコミックだから私の思想性を探らずただただ日本的スタイルという人がいますね
そういうことを本当の歴史という右翼的ブログで
誤解される形だけの国粋主義者という記事がありました。
攘夷とは中国の考え方で中華以外の夷狄という意味で平安ころの東北人も蝦夷と呼ばれました
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 攘夷の元々の意味は仰るとおりですね。
私たち日本人は言葉や概念を日本風につくりかえることが多いですから、いつの間にか「外国人を追い払う」という思想につながってしまいました。
征夷大将軍も本来の目的から「朝廷の委任を受けて政治を行う」意味に変わってしまいましたからね。
楽しみにしていますね
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
よく、高杉晋作、坂本龍馬、西郷隆盛は
ドラマなどで、ヒーローで描かれ
桂小五郎は、『逃げの小五郎』と小人物のような
描かれています。
ところが、最近、桂小五郎についての本を読んで
驚きました。
凄い人物だったんですね。
これからの更新を楽しみにしています。
でも、なぜ、桂小五郎を主人公にしたドラマが少ないんでしょうね。NHKの大河ドラマで、全く、描かれないのはなぜでしょうね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 桂小五郎が目立たないのは、他の英傑のエピソードがあまりにも物語的だからではないでしょうか。
彼はむしろ裏方としての活躍が多いような気がします。
黒田先生(^^ゞ
マリリンカ 今晩は(#^.^#)
西郷さんって、結局性格的にはどんな方だったんでしょうか見た目と違って鋭い直感の持ち主ですか・・・
ぺリー来航~アメリカ人の初入国・・
通訳された、ジョン万次郎さん・・・も
ここら辺の時代の方の生き様は凄いですね~
とても真似できません((+_+))
マリリンカさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、西郷隆盛もジョン万次郎も、通常では考えられないような逆境をはね返すほどの凄まじい生き様ですよね。
時代が違うとはいえ素晴らしいと思いますし、それぐらいの精神力がないと変革の時代を生き残れないのでしょう。見習いたいものですね。
一方、西郷の親友であった大久保利通は久光に取り入り、側近(そっきん)として重用(ちょうよう)されましたが、決して久光の保守的な考えに賛同したわけではありませんでした。いずれ時代が西郷を必要とするようになると先を読み、あえて猫(ねこ)をかぶっていたのです。
利通の読みは当たり、生麦事件から薩英戦争といった流れの中で、このような非常事態に対応できる人物は彼しかいないということで、西郷は幕末からの歴史の表舞台に登場するようになりました。
西郷や大久保らによって薩摩藩は討幕へと向かっていったのですが、同じ考えを持つ長州藩と同盟(どうめい)を結ぶことは、当初は絶対に考えられないことでした。
なぜなら、幕末における歴史の流れにおいて、両藩は敵味方に分かれて激(はげ)しく争っていたからです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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晴雨堂ミカエル 我が郷里の英雄坂本龍馬のでばんでもありますね。
黒田氏が坂本龍馬をどのように捉えているのか興味があります。
生麦生米生卵…
クラチー お、西郷どんが出てきましたね。
この頃って、九州方面が熱い時代ですからね。
必要な人材を集めるためには、
そりゃぁそれなりの演技もしますわな。
猫ニャンニャンゴロゴロスリスリ…と。
(^^;)
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 今回は通史ですので、坂本龍馬については必要最小限の記載となりますが、重要な場面で登場しますからね。
まずは次回(28日)以降にご期待下さい。
クラチーさんへ
黒田裕樹 > お、西郷どんが出てきましたね。
> この頃って、九州方面が熱い時代ですからね。
「薩長土肥」の肥前佐賀藩もありますからね。
アームストロング砲は田中久重が…って、それは前回の講座やがな(^^ゞ
> 必要な人材を集めるためには、
> そりゃぁそれなりの演技もしますわな。
> 猫ニャンニャンゴロゴロスリスリ…と。
> (^^;)
なるほど、利通はそのような方法ですり寄ったんですね(爆)!!
…それはともかく、利通の存在あってこその西郷どんですよね。この二人が維新後に袂を分かつんですから、歴史というのは本当に分かりません。
オバrev このように地方が中央政府の言うことを聞かなくなってきた時は危ないですね。
何か中国も同じような状態になりつつあるような気がしてます。
まさにこの明治維新前後の時代が現代に再現されているかのようでもあります。
歴史の中で、同じような転換期が周期的に起きているような説とかはあるんでしょうか。
ぴーち おはようございます!
西郷さんと大久保さんは親友同士であり、同じ志を持ちながらも性格は真逆だったんですね(^_^;)
正々堂々と真っ向勝負に挑む西郷さんと、ごますりも平気でやってのける大久保さん。このお二人の行く末はどうなのでしょうか・・その後の展開を楽しみにしてます(^^)v
応援凸
オバrevさんへ
黒田裕樹 > このように地方が中央政府の言うことを聞かなくなってきた時は危ないですね。
> 何か中国も同じような状態になりつつあるような気がしてます。
危ないといえばその通りかもしれません。ただ、このような情勢になる場合、大抵は中央政府の無為無策に原因がありますからね…。
> まさにこの明治維新前後の時代が現代に再現されているかのようでもあります。
> 歴史の中で、同じような転換期が周期的に起きているような説とかはあるんでしょうか。
説までは存じませんが、今の状況が幕末に酷似しているのは仰るとおりだと思います。ただ、現代に当時に匹敵する志士は果たして存在するのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、この頃の二人は真逆な性格ながら一致団結して倒幕から維新へと向かっていきますね。
その後については折を見て紹介することになると思いますので、しばらくお待ちくださいm(_ _)m
薩摩と長州
青田です。 黒田先生
おはようございます。
青田です。
よく、ドラマを観ていると『薩摩』と『長州』は
犬猿の仲として、描かれます。
私は、その原因は、禁門の変だと思っていたのですが
それ以前は、この両藩は、仲が良かったのでしょうか。
それとも、以前から、この両藩は、仲が悪かったのでしょうか。
もし、それ以前から、仲が悪かったなら、その理由は、何なのでしょうか。
これは、私の想像ですが、朝廷工作などで、京都での勢力争いで、長州も薩摩も自分が主役になりたいという思惑があったことが仲が悪くなっていった原因だと思うのですが、もしかしたら、それ以前から、仲が悪かった原因があるなら、お教え下さいませ。
青田さんへ
黒田裕樹 詳しくは本日(28日)の更新に書かせていただいてますが、元々両藩は公武合体と攘夷とに思想が分かれていました。また、禁門の変以前に八月十八日の政変でも敵同士になっており、両藩の同盟は通常では考えられなかったのです。
しかし、坂本龍馬らがそれを実現させました(詳しくは29日の更新をご覧ください)。それ以降は呉越同舟とばかりに両藩が手を携えて討幕へと向かいますが、維新後にはまたしても複雑な事情が生じてしまうことになりますね。
ネタバレになりますので、このあたりで止めておきます(^^ゞ
一方、幕府は長州藩に対して先の第一次長州征伐における戦後処理として領地の削減(さくげん)などを求めましたが、それまでの保守派から討幕へと転換した長州藩が応じなかったので、幕府は再び長州藩を征伐することを宣言しました。
しかし、薩英戦争によってイギリスの影響を受けていた薩摩藩も、藩論をそれまでの公武合体から討幕へと転換しており、幕府の命令に容易に従おうとしなかっただけでなく、それまで敵対関係であった長州藩と密(ひそ)かに結ぼうとまで考えるようになっていました。
そんな薩摩藩で政治の実権を握っていたのが西郷隆盛(さいごうたかもり)や大久保利通(おおくぼとしみち)でした。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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ぴーち おはようございます!
この頃の薩摩藩は既にイギリスとの戦争で
壊滅状態になりながらも尚、長州藩と結託して
倒幕への加担をしようという・・・随分と勢力的でしたね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうですね。薩摩藩も長州藩に負けず劣らず精力的です。
ただ、長州藩との和解は容易ではありませんでした。なぜなら…続きはまた後日(^^ゞ
なおまゆ 『花神』言い得て妙ですね。
大村益次郎がいなければ、長州藩は滅び、倒幕もできなかったでしょうね。
薩摩藩ですか・・・複雑な心境です。
私は、西郷隆盛に何も感じない性質のようで、その偉大さを理解できません。大久保利通のことは理解できるのですが・・・鹿児島で友人が作れないようです。
それはともかく、歴史が一気に加速した時期ですね。しかし、薩長が連合したくらいで倒幕が進むのがどうしても解せません。幕府に求心力がなくなっていることは分かるのですが・・・。
先のことになりますが、鳥羽伏見の戦いでも、純軍事的には幕府が勝てる戦いでした。
2藩あわせて、100万石強の薩長連合が、天下を制したのは何故なのか?考えながら、続きを楽しみにしています。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、大村益次郎の存在は大きかったですね。
維新後には靖国神社の創建にかかわっています。同神社に彼の銅像がある由縁ですね。
西郷隆盛に対する評価は千差万別だと思いますが、彼の存在が幕末から維新にかけて大きかったのは間違いないといえるでしょう。
鳥羽伏見の戦いですね。いずれ時期を見て紹介したいと思います。
また、当時は香港(ホンコン)をイギリスが租借しており、完全にイギリスの植民地と化していました。そんな風景を見た高杉は、列強に領土を奪(うば)われればどうなるか、ということを身をもって体験していたのです。
だからこそ、高杉は絶対にイギリスの要求を受け入れようとしませんでした。もし高杉の功績がなかったら、彦島が清における香港のような存在になったばかりでなく、これをきっかけに我が国の植民地化が進んだ可能性も十分に考えられます。
高杉によるまさに命がけの行動のおかげで、現在の私たちが存在しているといっても過言ではないでしょう。なお、高杉はその後も討幕に向けて活躍しましたが病に倒れ、幕府の崩壊(ほうかい)を見ることなく1867年4月に29歳の若さで死去しました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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T.M@千葉船橋在住 はじめてコメントさせていただきます。偶然、黒田先生のお名前を存じ上げ、動画サイトで講座を見せていただいています。大変面白く、楽しいお話ですね。とりあえず藤原栄枯盛衰と家康、関ヶ原の講座を一気呵成に聞いてみました。僕も昔から歴史、主として日本史には興味がありましたので本当に楽しく拝見いたしています。またブログのほうもたびたびお伺いしたいのでよろしくお願いします。
高杉晋作の年齢
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
よく、考えたら、高杉晋作は、20代で
これだけのことを全部したんですね。
恐るべき、リーダーシップ力、政治力、そして
行動力です。
今の日本では、40代で若手、政治家・経営者言われますが、高杉晋作の年齢には、脱帽です。
T.M@千葉船橋在住さんへ
黒田裕樹 はじめまして。当講座の映像でのご鑑賞並びに当ブログへのご訪問有難うございます。
お気に召していただいて光栄です。
講座はこれからも続きますので、今後もぜひよろしくお願いいたします。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、恐るべき20代です。
それだけ国民の素養が高かったのと、国家の危機に立ち上がるだけの命がけの精神があったのでしょう。
オバrev いや~、凄いですね高杉晋作、そして現代とダブってしまう明治維新前後の若き政治家や官僚のパワー!
さすがに平均寿命がのびた現代で20代は無理としても40代の若々しい日本の官僚システムを変える政治家に登場願いたいです。
ということで、見渡したところ黒田先生の地元大阪の前知事、現市長のH氏には結構そのパワーを感じています。
オバrevさんへ
黒田裕樹 高杉晋作が見せたパワーは、確かに現代の政治家にも見習ってほしいですね。
H氏ですか…。大阪市民並びに大阪府民として、彼の今後を見守っていきたいと思います。
ぴーち おはようございます!
一方では奇人だ変人だと言われていたようですが、
やはりそういう人物であるほうが、好奇心も強く、押しも強いのでしょうね。しかしどんなに強い人間でも自分の体に巣食った病気には負けてしまいがちです。
やはり体は大切ですね・・(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、高杉は傑物と呼ばれるにふさわしい、押しの強い人物でした。
しかし、そうであるだけに身体の限界を超えるエネルギーを燃やし続けたのでしょう。
当時は死病とされた結核にかかってしまったのです。
惜しい人物を早くなくしてしまったものですね。
藩の家老と偽(いつわ)って交渉に臨(のぞ)んだ高杉に対し、イギリスは関門海峡(かんもんかいきょう)の入り口にあって、軍事的にも重要な彦島(ひこしま)の租借(そしゃく、他国の領土の一部を一定の期間を限って借りることだが、事実上の占領を意味する)を要求しました。
並(なみ)の交渉相手なら、外国の脅威に屈して彦島の租借に応じていたことでしょう。しかし、高杉はイギリスの要求を断固(だんこ)として拒否し、粘(ねば)り強い交渉の末(すえ)、ついに撤回(てっかい)させることに成功したのです。
なぜ高杉はイギリスの要求を拒否したのでしょうか。これには、高杉が上海へ留学した際の苦(にが)い経験が背景にありました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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オバrev こういう海外との交渉では、やはり経験が必要ですね。それを見ぬいて高杉を抜擢した長州藩もさすがです。
清の上海に留学経験があったということは、この時の経験が彦島租借拒否につながったんでしょうけど、それは香港のこと?
管理人のみ閲覧できます
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ぴーち おはようございます!
やはり留学先で経験したように
外国の植民地化した国の末路というのを嫌という程その目に焼き付けて来た為なんでしょうね。
やはり経験というのは大切です。
応援凸
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、経験に裏打ちされた実績は大きいですね。
留学に関してはそのとおりですね。詳しくは次回(25日)の更新をご覧下さい。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうなんですよね。
植民地化の末路は哀れそのものです。
我が国だっていつそうなるか分かりません。
そんな中、高杉は1864年末に奇兵隊(きへいたい)を率(ひき)いて下関で挙兵しました。これを功山寺挙兵(こうざんじきょへい)といいます。兵を挙げた当時、高杉の兵力は伊藤俊輔(いとうしゅんすけ、後の伊藤博文=いとうひろぶみ)の力士隊と合わせても100人に満たないものでしたが、挙兵後に続々と助勢(じょせい)が集結し、ついに藩内の保守派を一掃(いっそう)することに成功しました。
高杉や桂らが政治の実権を握ったことで、長州藩における藩論は討幕(とうばく)へと一気に転換(てんかん)することになりました。高杉によるわずかな人数による挙兵が長州藩の、ひいては我が国の歴史を大きく変えたことになるのですが、実はそれ以前に高杉によって我が国の領土が他国によって占領される危機が回避(かいひ)されていたという歴史を皆さんはご存知でしょうか。
話は1863年にさかのぼります。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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なおまゆ 高杉晋作は、郷土の英雄なんです。
機略縦横という言葉がぴったりする人です。
でも、本当は遊んで暮らしたかったんじゃないかなあ~とも思えます。
「三千世界の烏をころし、主と朝寝がしてみたい」などと歌う人ですから(笑)
そうなんです。山口県のある場所を占領されそうになったんですよね。
絵堂の戦いで藩論を転換させて、長州を方向付けた手腕は見事です。人数が少ないからと躊躇していたら、幕末で長州藩は滅んでいたでしょう。
そういう意味で、維新のキーパーソンなんですが、個人的には、あまり好きではないんです。
実は、私は、会津の方々のほうが好きなんです。
山口では、こんなこと言えませんでしたが・・・。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 高杉晋作のような奔放な人間が、乱世には必要なんでしょうね。
私もどちらかといえば会津びいきですが、その分冷静に歴史の判断ができそうです。今後の展開にご期待下さい!
時代の高速回転
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
井伊直弼の『桜田門外の変』から、恐ろしく、
いろいろなことがあって、時代が目まぐるしく変わってしますが、
驚くことは、時間です。
『桜田門外の変』が1860年
(その間の様々な事件)
『高杉晋作の功山寺の決起』1864年
たったの4年間しか経っていません。
今のように、新幹線、インターネットもない時代にこの歴史の高速回転は、この時代の人間のエネルギーは、もの凄かったんでしょうね。
節目に現れる異能者。
晴雨堂ミカエル 通常の日本人とは違うタイプが現れますね。ハッタリとスカシの名人。
今の時代にもいそうですが。橋下ではない、別の人間です。
ぴーち おはようございます!
高杉晋作に関しては以前少しだけ調べさせていただいた事がありましたが。。記憶がどうも不確かなもので、はっきりした理由は存じませんが、一度留学をした際に、そこで学んで来た事がその後の彼の判断に大きく影響したのではないかと思いました。
応援凸
青田さんへ
黒田裕樹 確かにこの頃の時の流れの早さは常識外です。
仰るとおり、それだけのエネルギーが爆発したのでしょうし、それだけの素養が我が国にあったのだと思います。
普通なら国内が混乱すれば外国の餌食ですからね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 確かに、通常の日本人では解決できそうもありませんね。
戦国の英雄もそうですが、時代がそんな人間に活躍の場を与えるのでしょうか。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いえいえ、ぴーちさんの記憶は確かですよ(^^♪
仰ることについて、次回(24日)から検討してみたいと思います。
おはようございます。
むね いつも、ご覧頂き有り難う御座います。
コメントをここに書いてよいのか悩みましたが、
受験生さんの骨休め??になえばと、思いまして。
今後とも宜しくお願い致します。
のっぺらぼう むね
むねさんへ
黒田裕樹 ご配慮いただきまして有難うございます。
どうぞご遠慮なくお言葉なさって下さい。
イギリスの駐日公使(ちゅうにちこうし)のパークスは次第に幕府政治に不信感を持つようになり、攘夷から開明政策(かいめいせいさく)へと転じるようになった薩摩藩や長州藩が、幕府を倒して天皇中心の雄藩連合政権(ゆうはんれんごうせいけん)を実現することに期待を寄せていました。
一方、フランスの駐日公使であるロッシュは、イギリスに対抗する意味もあって幕府支持の立場を続けました。
そんな両国の姿勢に対し、薩長や幕府は支援そのものは喜んで受けたものの、身に余(あま)る過剰(かじょう)な肩入れは断りました。幕府を、あるいは薩長を倒す際に外国の力を頼り過ぎると、事後に外国からの法外な干渉を受ける可能性があることが分かっていたからです。
こうした両国との絶妙なバランス感覚が、幕府が倒れた後も我が国が欧米列強の植民地になることなく、明治維新を迎えることができた大きな要因となったのでした。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち おはようございます!
外国からの内政干渉も行き過ぎると確かに
厄介ですが、その事を教訓に日本が自立に向けての
旗揚げが出来たことは、結果としては良かった訳ですね。もちろん、良い結果に導いたのは紛れも無く日本独自の考え方が功を奏したのでしょうけれど。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、本文中にもありますように支援を受ける範囲を限定したあたりが巧妙だったと思います。
薩長も幕府も、いくら相手が憎らしいからと言って英仏の軍隊までは借りませんでしたから。
もしそうなっていれば、見返りに我が国の領土が奪われていたでしょう。
それこそ「売国奴」です。現代にもいそうですが…。