1862年、島津久光は朝廷の勅使(ちょくし、天皇の使者のこと)とともに江戸へ向かい、幕政の改革を要求しました。この意向を受け、幕府は一橋慶喜を将軍後見職(しょうぐんこうけいしょく)に、松平慶永を政事総裁職(せいじそうさいしょく)に、会津藩主(あいづはんしゅ)の松平容保(まつだいらかたもり)を新設の京都守護職(きょうとしゅごしょく)に任じました。
この他、幕府は同時に参勤交代(さんきんこうたい)を三年に一回に縮小(しゅくしょう)したり、大名の妻の帰国を認めたり、西洋式の軍制を採用したりしました。これらの改革は当時の年号から文久の改革(ぶんきゅうのかいかく)と呼ばれています。
さて、これらの改革の中で特に不思議なのは京都守護職です。なぜなら、そもそも京都には京都所司代(きょうとしょしだい)という別の役職が存在していたからです。それなのに、なぜわざわざ京都守護職を設けなければならなかったのでしょうか。




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ぴーち こんにちは!
>なぜわざわざ京都守護職を設けなければならなかったのでしょうか。
全く見当もつきません・・・(^_^;)
明日の記事に答えがあるんですか?
是非、楽しみにしています^^
応援凸
幕府の弱体化
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
この文久の改革は、危機的状況ですね。
というのも、この改革は、幕府内部ではなく
薩摩藩の進言によるものであることが驚きです。
薩摩藩が、いくら、財政改革に
成功したと言えども
外様大名のたかが60万石です。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 明日の記事に答えがあるんですか?
> 是非、楽しみにしています^^
もちろん回答しますよ(^^♪
明日もぜひお越し下さいm(_ _)m
青田さんへ
黒田裕樹 当時の薩摩藩は篤姫(天璋院)によって幕府とは縁戚であったことが大きいですね。
それ以前に幕府が諸藩の意見を聞くまでに弱体化していたこともありますが。
武家政権に協調は有り得ないということなのでしょう。
今の政治
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
今の政治のように地方から、中央を変えるというのは、
面白いですね。
◆ 中央の朝廷にたいして、鎌倉といういわば
地方から、政治を変えた源頼朝
◆ そして、幕末。。。
ネタバレにならないように、ココで、止めておきますね。
もちろん、国政は、大事ですが
個人的には、東京(国の政治)よりも、地方都市が頑張ることで
今の日本を元気にして欲しいと思うように最近、なりました。
青田さんへ その2
黒田裕樹 確かにそうですね。
さしあたっては私が住む大阪に期待でしょうか…。
薩摩藩
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
やはり、薩摩藩は、江戸幕府が初期の段階で
潰しておけば、こういうことには、成らなかった気がします。
江戸時代、創業期に親藩、譜代、外様の大大名を
難癖をつけて、取り潰しましたが、
島津だけは、アンタッチャブルでした。
たとえば
それどころか、一国一城令を無視した外城制で
鶴丸城を囲んで、外城が113もありました。
→ 福島正則の城の無断改築どころではない
武家諸発度違反です。
これは、結果論ですが、徳川家康時代は、仕方ないにしろ、
秀忠、家光時代にどんな汚い手を使っても
薩摩藩を潰しておくべきだったと思います。
考えられる理由として
(1) 見えないところで、潰そうと画策したが、結局、薩摩藩のほうが一枚も二枚も上手だった。
(2) 逆に太平な時代が進んで、他の武断派大名が
弱っていくのに、薩摩藩だけは、最強軍団の様相だったので、江戸幕府も手を出したくなかった。
島津攻めは、大阪の陣どころではないほど、難しいと考えた。
と考えました。
あれだけ、完璧主義で、少しでも、危険な芽を摘んでおく、徳川家康の失策ではないでしょうか。
(自分の代では、無理にしても)
オバrev これはもう幕府の権力が地に落ちたことを世に晒してしまいますね。
京都所司代と京都守護職の2重行政のように見えますが、役割が違うからじゃないでしょうか?
青田さんへ その3
黒田裕樹 昨年の11月の第20回歴史講座でも紹介しておりますが、家康は薩摩藩を潰したくても潰せなかったんですよね。
その後も隠密を何度も薩摩へ送りながら、生きて帰ってくることはなかったという話ですし。
当時の日本の一番南で、江戸幕府の監視の目が最も届きにくかったという地理的環境もあったのでしょう。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > これはもう幕府の権力が地に落ちたことを世に晒してしまいますね。
全くそのとおりです。外様の一大名の言うことを幕府が聞く、という段階で事実上終わっていますね。
> 京都所司代と京都守護職の2重行政のように見えますが、役割が違うからじゃないでしょうか?
確かに厳密に言えば役割が違いますが、そもそもは京都所司代でカバーできるはずなのです。設立当初ならば…。
公武合体の象徴(しょうちょう)として、安藤は将軍徳川家茂の夫人に孝明天皇の妹の和宮(かずのみや)を迎(むか)えることに成功しましたが、これは将軍が天皇の義理の弟になることを意味しており、かえって逆効果になってしまいました。
なぜなら、この図式は長幼の序(ちょうようのじょ、年長者と年少者の間にある一定の秩序)から見て「弟たる幕府は兄の朝廷に従わなければならない」ことにつながってしまうからです。事実、この後幕府は朝廷から攘夷(じょうい)の実行を約束され、その対応に苦労することになりました。
また、家茂と和宮とのいわゆる政略結婚(せいりゃくけっこん)は尊王攘夷派(そんのうじょういは)の強い反発をもたらし、安藤は1862年1月に江戸城の坂下門外(さかしたもんがい)で水戸藩の脱藩浪士らに襲われ負傷してしまい、その後に老中を退(しりぞ)きました。この事件を坂下門外の変といいます。




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晴雨堂ミカエル たしか室町幕府六代将軍足利義教も恐怖強権政治を行って暗殺されましたね。
末期的になると気持ちに余裕がなくなり、強権に走ったり、目前の対処に気をとられて二歩三歩先が見えなくなり、判断ミスをします。
幕府は19世紀初頭の段階で抜け殻だったかもしれません。それでも黒船の外圧がかかるまで持ちこたえたのは、さすが権現様がつくった政治機構です。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 足利義教については以前に通史で紹介しましたね。確かに恐怖政治に走って哀れな最期を遂げています。
江戸幕府については仰るとおりだと思います。武力政権が武力を失えば「死に体」同然でしょう。
水戸藩
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
『桜田門外の変』『坂下門外の変』も
幕府の事実上の最高責任者である大老、老中が
襲われるという事件ですが、この両方の事件とも
水戸の脱藩浪士が起こしたことです。
いくら尊王攘夷の藩とはいえ、同じ徳川一門の
御三家の藩士が行うとは、
徳川家康の徳川家が未来永劫続くための血のセーフティーネットが、違う意味で、崩れてくる予兆ですかね。
青田さんへ
黒田裕樹 > 徳川家が未来永劫続くための血のセーフティーネットが、違う意味で、崩れてくる予兆ですかね。
朱子学→水戸学に凝り固まった水戸藩の宿痾(しゅくあ)とでもいうべき尊王主義ですね。
もっとも、だからこそ慶喜のような将軍が現れて…って、これもネタバレ(爆)。
この時期は、回答の仕方にも注意が要りますね(^^ゞ
本物の講座なら合間にいくらでも答えられますが、通史においては同じノリでは厳しいかもしれません(´・ω・`)
特に橋本左内や吉田松陰らは若くして刑死(けいし)するなど、安政の大獄によって攘夷派を中心とした多くの人材が失われるとともに、井伊による問答無用ともいうべき強権的な処置(しょち)は、結果として多くの人間の恨みを買ってしまいました。
1860年3月3日、旧暦の3月にしては珍(めずら)しい大雪の日の朝に、江戸城近くの桜田門(さくらだもん)へと差し掛(か)かった井伊の行列に対して、水戸藩を脱藩(だっぱん)した大勢の浪士(ろうし)らが襲(おそ)いかかり、井伊を暗殺しました。この事件を桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)といいます。
桜田門外の変によって、最高権力者である大老が江戸城外で襲われ、しかも殺されるという大失態(だいしったい)を演じてしまった幕府の威信(いしん)がますます低下するとともに、自分の意見に対立する人間に対する「血の粛清(しゅくせい)」が半(なか)ば常識化してしまいました。事実、この後明治維新を経(へ)て政情(せいじょう)が安定するまでに、武力による実力行使を伴(ともな)った血なまぐさい事件が日本国中で続発することになるのです。




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ぴーち こんにちは!
昨日のお返事で、黒田さんが仰られていた「やり過ぎ」とは、この事だったんですね。
確かに、これでは恨みを買ってしまう事必至ですね( ´゚д゚`)。
どうしてここまでしなければいけなかったのでしょうか。井伊大老が単なる臆病風に吹かれていただけだったのですか?それとも大きな理由が他に。。?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > どうしてここまでしなければいけなかったのでしょうか。井伊大老が単なる臆病風に吹かれていただけだったのですか?それとも大きな理由が他に。。?
臆病というよりは身勝手な(と井伊が思った)攘夷派に対する怒りが爆発して、それこそ「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という感情にまで至ったと思われます。
あとは、幕府の威信を回復させるために見せしめとした可能性もありますね。
身の丈に合わない「恐怖政治」は組織の崩壊を早めるだけという過去の歴史に気が付かなかったのでしょうか…。
なおまゆ 幕末に吹き荒れる暗殺でどれ程の人材が失われたのでしょうか?多くの人達の死体の上に明治維新が成し遂げられ、今に到っていることを思えば、我々がすべきことは自ずと明らかかもしれません。「正しい歴史観を持ち、此の国を誇りに思うこと」を教育現場で、家庭で、マスコミもきちんと発信していくことだろうと思います。
尤も、学習指導要領という縛りがある教師の立場は辛いものがあるでしょうね。
時代の空気が変わりつつある今、教師の責任はますます重くなっています。黒田先生、是非、頑張った下さい。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、様々な犠牲の上に我が国が成り立っているという歴史の重みを伝えていきたいですね。
学習指導要領を守りながら、自分なりに展開していけるよう今後も努力します。
『井伊直弼』は、悪人か?
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
よく、時代劇ですが
『井伊直弼』=『極悪人』で、
『安政の大獄』=『恐怖政治』のように描かれますが、
これは、あまりにも『井伊直弼』が可愛そうです。
冷静に考えると、徳川幕府の初期の頃は、
◆ 幕府による大名の改易は、普通のこと。
◆ 譜代には、権力(政治)を与えるが、石高は小さい。
逆に、親藩、外様大名には、石高は、大きいが
権力(政治)には、介入させない。
この2つのことから、考えると、外様大名や御三家、親藩といえども、政治に批判的な大名を罰するのは、普通だったと思います。
但し、黒田先生の言われる『橋本左内』『吉田松陰』の単なる思想家レベルの下級武士まで、死罪にするのは、やはり、やりすぎでしたね。
ここで、歴史のifを考えた場合、
① ハリスの圧力に屈せず、井伊直弼が、条約を結ばなかったら、日本の国は、どうなったのか。
② 『安政の大獄』を行わず、そのまま、放置していたら、どうなったのか。
が疑問になりますが、黒田先生は、どうなったと思われますか?
青田さんへ
黒田裕樹 井伊直弼もある意味誤解されている人物ですね。
かつて北大路欣也が演じた「花の生涯」ではそんなイメージはなかったですが…。
ご質問ですが、
条約を結ばない、という選択肢はなかったと思われます。
もしあったとしても、アメリカや他の国から黒船による砲撃を受けて、清国のようにジワジワ侵略されて滅亡していたでしょう。これ以上書くとネタバレになりますので…。
放置したらしたで、幕府は威信を失っていたでしょう。
憂国の志士をせめて長期の受牢処分にしていれば、それほどの恨みを買うことはなかったでしょうし、その後に人材を活用できた可能性も十分あります…って、これもネタバレかも(笑)。
特に前水戸藩主の徳川斉昭や当時の水戸藩主の徳川慶篤(とくがわよしあつ)・尾張藩主の徳川慶勝(とくがわよしかつ)・越前藩主の松平慶永らは、江戸城(えどじょう)への登城日(とじょうび)でもなかったのに「押しかけ登城」を行い、井伊を激しく問い詰(つ)めました。
しかし、井伊には井伊の言い分がありました。彼は開国という国家の存亡(そんぼう)にかかわる重要な問題に対し、それまでの幕府の先人(せんじん)たちが無責任にも先送りしてきたツケを一気に支払わされただけという立場でもあったのです。
加えて、条約反対派あるいは攘夷派が「外国人など我が国から追い出せばよい」と口先では威勢(いせい)のいいことを言いながら、もし我が国が侵略されたらどうするのか、という問題に対しては口をつぐんで答えようともしないという有様(ありさま)も井伊を苛立(いらだ)たせました。
反対派や攘夷派の余(あま)りもの無責任さに怒りが爆発した井伊は、幕府大老という自分の立場を活用して彼らに対する大粛清(だいしゅくせい)を行う決意を固めました。1858年から1859年にかけてのこれらの弾圧(だんあつ)を安政の大獄(あんせいのたいごく)といいます。




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晴雨堂ミカエル 井伊はたしか14男の庶子でしたか。本来なら家督を継ぐ立場になく、養子のもらいても無く、毎日が日曜日状態。
家督を継ぐはずがないから、馬術や武術の鍛練も思いっきりできたそうで、学問や趣味も極め、彫刻や絵画も玄人肌だったとか。
30代前半まで部屋住みでしたから、現代でいうモラトリアム学生みたいなもの。それが大老を輩出する四位家格の彦根藩を継ぎ、幕府の実務トップになる、そのとき44歳です。
突然、のしかかった重圧、そうとう苦しかった事でしょう。
時代劇はもっと若い俳優にやらすべきですね。六角精児あたり。還暦俳優より40代の俳優がやれば、ふりかかったストレスが表現できるものを。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 そういえばドラマでの井伊はベテラン俳優ばかりですね。
確かに見ごたえがありそうです。
近江牛。
晴雨堂ミカエル 彦根藩は将軍家に近江牛の肉を献上していたらしいですね。漢方では精力増強の効果があります。それを精力旺盛で生薬好きの水戸斉昭も所望で彦根藩からもらっていたようですが、井伊大老は水戸への贈呈を取り止めたのが、両家対立のベースにあるとの下ネタがあります。
事実ですか?
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 その話は私も聞いたことがありますが、確たる証拠がない限りは俗説の域を出ないでしょうね。
桜田門外の変の話は明日以降に紹介しますが、近江牛の伝説はこのブログでは取り上げません(笑)。
ぴーち こんばんは!
ドラマや映画の世界では、井伊直弼の話となると何やら悪役として演じられてしまう所があるようですが、こうしてお話を伺っていると、その立場に立たされた者でなければ分からない止むに止まれぬ理由というのが存在し、井伊直弼もその運命に正直に従った人物の一人であったのだなと改めて思いました。
応援凸
なおまゆ こんばんわ。
安政の大獄は、私にとって、辛い出来事です。
松陰先生が処刑されたからです。
井伊大老を恨んだりしませんが、松陰先生には長生きして、教育者になってほしかった。
獄舎の中でも松陰先生は、正しく「松陰先生」でした。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうなんですよね。
井伊直弼はそれまでのツケを一気に支払う形で、言わば「泥をかぶる」損な役回りを演じたとも言えます。
ただ、攘夷派を憎むあまりに彼は「やり過ぎ」ました。
彼は自分自身が招いた「ツケ」もやがて自分で支払わなくてはならなくなりますね。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 お気持ちはよく分かります。
吉田松陰が長生きしていれば、幕末から維新にかけてどうなっていったのか、興味は尽きないですね。
現在のところ、原則として奇数月の第4土曜日に行っております当講座ですが、第27回目は11月26日(土)の午後6時より「からくり儀右衛門」と題して大阪・梅田で開催します!
江戸時代から明治にかけての発明家である田中久重(たなかひさしげ)。彼は幼い頃から手先が器用でからくり人形を次々と製作していましたが、やがて長時間にわたって安定したともし火を供給する無尽灯(むじんとう)などを発明し、人々の生活の向上に大きく貢献します。
時は流れ世が幕末を迎えた頃、久重は佐賀藩に仕(つか)えて国産初の蒸気機関車や蒸気船の模型を製作し、ついには当時の最新兵器であったアームストロング砲(ほう)を完成。アームストロング砲は戊辰戦争(ぼしんせんそう)においてその威力(いりょく)を発揮(はっき)し、新政府軍の勝利に大きく貢献することになります。
そして明治時代となった晩年、久重は自分の会社である田中製造所(たなかせいぞうしょ)を設立しましたが、これが現在の世界屈指(くっし)の複合電機メーカーのルーツになっているのです。
近世から近代、そして現代へとつながる重要な役割を果たした田中久重の生涯をたどることで、私たちは歴史の大きな流れをつかむことができます。是非とも多数の皆様のご参加をお願いいたします!
第27回「黒田裕樹の歴史講座」
「からくり儀右衛門」
日時:平成23年11月26日(土) 午後6時より
場所:大阪市立総合生涯学習センター 第3研修室
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:無料(カンパを受け付けます)
ブログをご覧の皆様も、よろしければ是非ご参加下さい。この記事のコメント欄をご活用いただければと思います。また、今回の講座の内容については、前回までと同様に、後日にはブログ上で映像とともに発表しますので、是非ご覧になって下さい。
なお、講座終了後に近辺の居酒屋で懇親会(会費金3,000円程度)を行いますので、よろしければこちらにもご参加下さるようお願いします。
最後に、おなじみとなりましたブロとものクラチーさんからの素晴らしい画像を皆様にご覧いただきます!
(※クラチーさんのブログについては、下線部からご覧いただけます。)





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
なお、次々回の第28回歴史講座ですが、大阪のほかに平成24年2月4日(土)に東京でも行う予定です!
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癒しグマ 今晩は。我が家のルーターの調子がいいうちに、
いそいで訪問ポチを。。。
大阪は急に寒くなりました。
梅田の大切な講座のため、風邪など気をつけてくださいね☆
癒しグマさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
講座まであと2週間あまりですが、体調に気を付けて当日を迎えたいと思います。
知りませんでした
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
本当に朝晩、冷え込みました。
ところで、次回の歴史講座のテーマの
人物『田中久重』を私は、全く、知りませんでした。
そんな凄い人物が日本にいたなんて、驚きです。
そして、感動です。
青田さんへ
黒田裕樹 本当の偉人は意外と知られていないものですからね。
幕末の歴史に欠かすことのできない人物ですので、是非ご期待いただければと思います。
きゃー
クラチー いつの間にか掲載されているー!
あばあばびゃばばや…(謎)
と…T会社の社員の人に見られても、
怒られないだろうか…どきどき。
(0。0;)
とうとう、からくりジイ様の出番ですね。
日本史をやっていた人でも、
あまり知られていない感じですかね?
大阪でのアピール、頑張ってください!
クラチーさんへ
黒田裕樹 大丈夫ですよ(^^♪
むしろ感謝されておられることでしょう。
確かに今一つ知名度の低い人物ですからね。
今回も意義ある講座にしたいと思います。
興味があります。
晴雨堂ミカエル 休日出勤でつぶれる可能性大ですが、空いていましたら参加します。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 有難うございます。もしご都合がつけばぜひお越し下さい。
わろ 今回は、発明に関する歴史人物ですか^^
興味深いですね♪
日本史に関しては発明の分野は少ないと思いますが、すべての分野にその分野の歴史があるので、楽しみにしてます!!、
わろさんへ
黒田裕樹 そのとおりですね。
発明という限られた分野においても、我が国の歴史に輝かしい功績を残していることを皆さんにも知っていただきたいと思います。
薩摩藩主の島津斉彬(しまづなりあきら)や越前藩主の松平慶永(まつだいらよしなが)らの有力な大名は、ペリーの来航以来混乱が続く幕府政治に対応できる賢明な将軍を擁立(ようりつ)すべきであると考えて、前水戸藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)の実子で御三卿(ごさんきょう)の一橋家(ひとつばしけ)の養子となった一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を推(お)していました。
一方、彦根藩主の井伊直弼(いいなおすけ)などの譜代大名(ふだいだいみょう)らは、将軍家定と血統が近いものの、まだ幼(おさな)かった紀州藩主の徳川慶福(とくがわよしとみ)を推していました。慶喜を推す一派(いっぱ)を一橋派、慶福を推す一派を南紀派(なんきは)といいます。
一橋派と南紀派とが対立を続けていた1858年4月、将軍家定が重態(じゅうたい)となると、南紀派の譜代大名らの後押(あとお)しもあって井伊直弼が大老(たいろう)に就任しました。井伊は6月に勅許が下りないまま日米修好通商条約の締結(ていけつ)を決断し、同月には次期将軍候補として徳川慶福を決定するなど、強権的な政治を行いました。なお、慶福は名を徳川家茂(とくがわいえもち)と改め、家定の死を受けて同じ1858年に13歳で14代将軍に就任しています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんばんは!
無知極まりない発言で申し訳ありませんが(^^ゞ
慶喜は、家定の実子では無かったのですね。
江戸時代というのは、この家定の例の他にも実子が将軍を継承出来なかった時代があったのですか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 江戸時代に実子が将軍を継承出来なかった場合は結構ありますよ。
4代家綱→5代綱吉(弟が継承)
5代綱吉→6代家宣(甥が継承)
7代家継→8代吉宗(御三家が継承)
10代家治→11代家斉(御三卿が継承)
13代家定→14代家茂(御三家が継承)
ちなみに、この後の
14代家茂→15代慶喜も御三卿が継承(実質は御三家)したことになりますね。
オバrev 歴史的史実の背景には、様々な状況や人間関係が絡みあって、必然的に決まってくるものなのかと思います。
この将軍継承についても慶喜が先だった場合は、その時の状況からまた大きく歴史が変わらざるをえなかったんじゃないでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 そうですね。
井伊直弼のような政治家がいなければ、すんなりと慶喜が将軍になっていたかもしれません。
ただし、幕府の崩壊がもっと早かった可能性もありますし、何とも言えないですね。
貨幣の価値が下がれば物価が上昇するのは当たり前です。しかも、好景気時に貨幣における金の含有量(がんゆうりょう)を下げて文化を向上させたかつての元禄小判(げんろくこばん)とは違って、貿易による値上がりで景気が悪化していた時期に貨幣を改鋳(かいちゅう)しましたから、物価がますます上昇して悪質なインフレーションとなり、庶民の暮らしは大きな打撃を受けるようになってしまいました。
庶民の怒りは貿易に対する反感となり、貿易を行っていた商人や我が国に在留(ざいりゅう)する外国人が襲(おそ)われるようになりました。例えば1860年にはハリスの通訳でオランダ人のヒュースケンが江戸で暗殺されています。これら外国人に対する襲撃(しゅうげき)は、そのまま攘夷運動(じょういうんどう)の激化(げきか)につながりました。
また、世相(せそう)の不安は農村では百姓一揆(ひゃくしょういっき)の、都市では打ちこわしの多発を招(まね)き、これらに対応しきれない幕府の権威(けんい)はますます下がっていきました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんにちは!
この当時日本に来日していた外国人は
えらい、とばっちりを受けてしまったんですね(´・ω・`)
悪質なインフレーションが続くと、やはり生活していくために皆、必死になるものですが、現代の日本も同じような状態に陥らなければ良いのですが。。。
応援凸
そういえば
クラチー ひょっとして明日は、
田中久重さんの日?
はわわ~、頑張ってください!
埼玉から応援していますです!
(@○@;)
この頃の日本は、諸外国と感覚がズレていたんですよね。
鎖国なんかしているから騙されるんだよなぁ…と思うけど、
日本の独自文化が発展できたのは、一部、鎖国のおかげとも言えるし…。
うーん、やはり意志の弱さかなぁ。
(--;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かにとんでもないとばっちりですね。
でも、史実では外国人の犠牲者はこの後も増え続ける一方なのが何とも…。
不景気で食べられなくなると、飢えた人々が命がけで戦おうとします。
幕末の暴動は貨幣価値の違いにあったという事実は意外と知られていないですね。
現代においても、政策を間違えれば多くの人々が食えなくなって同じようなことが起こらないという保証はどこにもありません。
クラチーさんへ
黒田裕樹 そうです、いよいよ明日が講座ですよ。
下絵がしっかりしているから大丈夫でしょう(^^♪
鎖国にはメリットもデメリットもありますが、自主的に開国すればデメリットを補うことは不可能ではありません。
ありえない「祖法」にこだわり、開国を拒み続けたからこその大失態ですが、それだけの意志の強さを外国に全く見せられないところが何とも…(´・ω・`)
しかし、幕府は自身の信用で一分銀4枚を小判1両と交換させていました。つまり実際の価値を度外視(どがいし)した名目貨幣(めいもくかへい)として一分銀を使用していたのですが、こうした「価格」と「価値」との違いが外国には理解されず、また幕府の外交技術や経済観念の乏(とぼ)しさもあって、アメリカ総領事のハリスが主張した「銀の価値による交換」が強引に行われることになってしまいました。
すなわち、メキシコドル4枚を日本で一分銀12枚という「価値」を基準に交換し、それを日本国内において金3両で両替(りょうがえ)すると、小判を海外に持ち帰ってメキシコドル12枚という「海外の金銀相場」で交換したのです。
日本を経由するだけで手持ちの資産が3倍になるという錬金術師(れんきんじゅつし)顔負けのカラクリによって、銀貨を日本に持ち込んで小判を安く手に入れる外国人が続出し、その結果として我が国の金貨が大量に海外に流出してしまいました。その被害は10万両以上ともいわれています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんにちは!
確かに日本に持ち込んだだけでお金が増えるとあらば、それを利用しない手はありませんよね(^_^;)
こうして伺っていると、昔から日本という国は
脇が甘い傾向が強かったというか、未だに外国から
経済問題などでは見下されている傾向が強いのですね(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 数々の失政の中でも、国益の損失という意味でも特大ですね(´・ω・`)
経済で脇が甘いといえば、TPP問題も深刻ではないでしょうか…。
有名な話ですね。
晴雨堂ミカエル 昨年の大河ドラマで、久坂玄瑞が龍馬に講釈する場面でも紹介されていましたね。
幕府の外交音痴を示す事例で、歴史漫画やクイズ番組などでは、幕府の担当者が「我が国は昔から決まっている事である」の一点張りで、アメリカ側は「万国の常識をなんと心得る!」と脅されやむ無くのパターン。
「紙切れの紙幣が価値を持つのと同じ」と言い返してやりたいところですが、実際のところ幕府はどんな交渉をしたのでしょう? 交渉の記録は残っていないのでしょうか?
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 幕府は何度か外国と交渉しているようですが、最後にはハリスの強引さに押し切られているようですね。
大量の金貨流出への危機感を持っていなかったのかもしれません。
> 「紙切れの紙幣が価値を持つのと同じ」と言い返してやりたいところですが
荻原重秀のような有能な経済官僚がこの時代に存在していれば、と惜しまれますね。
経済の素人
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
幕府は、『徳川吉宗』以降、『田沼意次』を
のぞいて、経済のど素人状態が続いたようですね。
ある意味、財政改革に成功した雄藩(薩摩藩、長州藩、佐賀藩)のほうがよほど、経済に通じていたと思います。
ただ、今の日本の政権も経済に関しては、ど素人なので、不安を感じます。
青田さんへ
黒田裕樹 幕府は貨幣の独占発行権があったので、家斉の頃のように都合が悪くなれば貨幣を乱発して「その場しのぎ」をすることができました。その一方で雄藩にはそんな権利はありませんから嫌でも改革せざるを得なかったので、経済にも自然と通じるようになったのです。
現在の政府はデフレ時に増税をしようとする素人以下の経済音痴ですからね…。
経済の素人というより・・
晴雨堂ミカエル 横レス失礼します。
経済の素人というよりは、経済を蔑視する似非ヒューマニストですよ。
素人というだけなら、まだ失敗から学習してくれる可能性がありますが、似非ヒューマニストは失敗の自覚も無いし失敗の責任は自分には無く「エコノミスト」にあると思っていますから。
定信も忠邦も、「負けた」とは思ったかもしれませんが、「間違っていた」「失敗した」とは断固として思わない。
そんな輩が現代社会の至るところにいます。
利害の連鎖、すなわち経済は食物連鎖と同じ。それを考えないどころか、否定するのは社会を破壊するも同じ、しかし多くの似非ヒューマニストは自分の権益は否定しないものです。
晴雨堂ミカエルさんへ その2
黒田裕樹 なるほど、確かに「経済無知」よりも「経済蔑視」の傾向が強いですね。
失敗を反省しないところは悪質そのものです。
有難うございました。
貿易の主な相手国はイギリスでした。我が国を開国させたアメリカは南北戦争(なんぼくせんそう)を抱(かか)えており、貿易どころではなかったからです。
貿易は大幅(おおはば)な輸出超過(ゆしゅつちょうか)となり、輸出品の中心となった生糸の生産量が追いつかず、国内で品不足となったことで物価を押し上げた一方で、外国製の安価な綿織物の大量輸入は、農村における綿作(めんさく)や綿織物業を圧迫することになりました。
幕府は物価高を口実に貿易を規制するため、1860年に雑穀(ざっこく)・水油(みずあぶら)・蝋(ろう)・呉服(ごふく)・生糸の5品を必ず江戸の問屋(といや)を経由して輸出するように命じた五品江戸廻送令(ごひんえどかいそうれい)を出しましたが、地方で輸出向けの商品を取り扱(あつか)っていた在郷商人(ざいごうしょうにん)や商取引の自由を主張する外国の反対で不成功に終わりました。
これらのことは、もし開国あるいは貿易に向けて何年も前から周到(しゅうとう)な準備を行っていれば発生しない問題でした。事態が起きてから対策を練(ね)るという、いわゆる後手に回ったことで対応に苦悩(くのう)していた幕府をさらに困らせたのが、我が国と外国との金銀の比価の違(ちが)いでした。




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オバrev 読めば読むほどに、今の状況と重ねて見えてしまいます。
今のお偉い官僚や政治家さんは当然周到な準備をしてTPPに望んでいるはずですよね・・・でもその痕跡はどうにも見えないのは何故(?o?)
野田総理も「ISD条項を詳しく知らないかった」なんて笑いをとるためのジョークですよね(*_*;
歴史は繰り返すのか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 いやいや、冗談に聞こえないところが心配ですよ(´・ω・`)
相手の都合にあわせる謙譲さは国内のみでしか通用しないという基本的な知識すら欠けているあたりが不安を増幅させますね…。
ぴーち こんにちは!
記事には関係ない質問で、失礼します(^_^;)
函館は、この当時は箱館と漢字が当てられて
いたんですね。
いつから函館という漢字に変換されたのでしょうか?
凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 函館となったのは少なくとも明治以降であることは間違いないようですが、諸説あるようですね。
地名というのは色々と変節があって、分からないことが多いようです。
注目すべきことは、我が国が長年貿易を行ってきたオランダとも不平等条約を結ばされたという現実でした。オランダの立場からすれば「他国が不平等な条約を結んでいるのに、自分の国だけが平等というわけにはいかない」という思いは当然ではありますが、幕府が以前にオランダ国王からの開国勧告に従っていれば、少なくともこんな事態にはならなかったはずなのです。
これらはすべて、鎖国にこだわり国際的な常識や外交知識を持たなかったことで、相手の言われるままに不平等条約を結ばされた幕府によるとてつもなく大きな失政のツケでした。ちなみに、領事裁判権が撤廃(てっぱい)されるのは明治27(1894)年、関税自主権の回復に至(いた)っては明治44(1911)年まで待たなければならなくなります。
さて、こうして我が国は開国して他国との貿易が開始されたのですが、開国に向けての準備を何一つ行わなかったことで様々な問題が発生し、庶民の生活を大きく圧迫することになってしまうのでした。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんにちは!
ただ闇雲に他国と歩調を合わせる為という理由で
言いなりになってしまい、ふと気づくと自国の情勢や、態勢に不備があることに気づきもしなかったとしたら、失政であると言わざる負えないですよね。
実はこの所の日本の失政を思いながら、先日まで日本を訪れていたブータン王国の考え方に共感していた所です。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、失政の一面が強すぎる思いがします。
幸いにも優秀な民間がフォローして滅亡だけは免れましたが、現在は果たしてどうでしょうか…。
ブータン国王のご来日は、私たち日本人が忘れつつある様々なものを思い出させて下さった思いがしますね。
開国勧告
ろっぽん オランダ国王からの開国勧告に従っていれば
それはアメリカの前ですか
寺島実郎教授は日本とオランダの関係を研究していて 我々は意外とオランダのことを知らないですよね
国王というのを設置したのはフランス革命の後だそうですね
国王といっても、象徴のようなもので
自由というとフランスが最初のような気がしますが、オランダが最初なんだってね
今でもその気風が残っていて
多様性を認めるみたいな気風で同性愛の結婚を認めるとか、マリファナが合法化されてるとか
そういった部分に現れていますね。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 オランダ国王の開国勧告は1844年ですから、アメリカのビッドルが来航した1846年より前ですね。
もしオランダの段階で受けいれていれば、少なくともペリーによる脅迫外交はなかったでしょう。
オランダに限らず、最近は移民問題でどこも苦しんでいるようですね。
条約の『重み』と『軽さ』
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
日本人は、条約の重さへの認識が非常に小さい気がします。
◆ 子の時の不平等条約が改正されるのに50年掛ったという事実。(半世紀)
◆ 香港が、100年間イギリスに租借されたという事実。
にも、関わらず、外国が条約を平気で、破っても
強硬に主張しない姿勢。
◆ ロシアの北方領土の占領(ロシアによる条約違反。)についての交渉力。
◆ 日韓基本条約で、補償問題が解決しているのに今だに、補償問題にキッチリとした主張が出来ていない。
こう考えると、日本は、国際社会で、お人好しの
世間知らずのような気がします。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
繰り返しになりますが、歴史に学ぶ姿勢は重要です。
何も考えないのは一番良くありません。