鹿児島の薩摩藩(さつまはん)では、下級武士から登用(とうよう)された調所広郷(ずしょひろさと)が文政(ぶんせい)の頃から改革を始めて、江戸・大坂・京都の三都(さんと)の大商人からの多額の借金を250年間の無利子返済という事実上の棚上(たなあ)げとすることを強要しました。
また、調所は大島(おおしま)・徳之島(とくのしま)・喜界島(きかいじま)からなる奄美諸島(あまみしょとう)特産の黒砂糖(くろざとう)の専売を強化したり、事実上支配していた琉球(りゅうきゅう、現在の沖縄県)を通じて密貿易(みつぼうえき)を行ったりしました。
こうした改革によって利益をあげた薩摩藩では、やがて藩主の島津斉彬(しまづなりあきら)によって製鉄を行うための反射炉(はんしゃろ)が築造(ちくぞう)されたり、洋式の砲術(ほうじゅつ)などによる軍事力の強化が行われたりしました。




いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ひろもと 仙台 はじめまして。
復習のつもりで読ませていただいています。
特に振り仮名がありがたいですね。
人名・官職など思い込みで誤読していたこともあるので助かっています。
ひろもと 仙台さんへ
黒田裕樹 はじめまして。当ブログへのご訪問並びにお言葉有難うございます。
皆様に少しでも分かりやすくという思いで振り仮名をつけさせていただいておりますが、お役に立てて私も嬉しく思います。
今後ともよろしくお願いいたします。
地方の時代
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
幕府が衰退し、西日本の雄藩が藩政改革に成功し、やがて、日本の近代化に成功したという事実を今にあてはめると
日本の政府が、失政を繰り返していますが
日本の地方都市で、元気な都市が出てきて、やがて、日本を救うというのが、個人的には、理想のカタチだと思っています。
そう考えると、
今、東日本は大変な状況ですが
『西日本は、九州新幹線全線開通、四国電力、中国電力は、他の地域よりも、比較的電力に余力がある。』と考えると
西日本の都市がまず、元気になるというのは、論理の飛躍でしょうか。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりの展開になれれば我が国にとっては大きな益になりますね。
西日本の力で我が国の復興の道筋をつけることができるでしょうか。
確かに難しいですが
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
たしかに、西日本の力だけでは、日本の復興は
厳しいと思います。
幕末の雄藩は、藩政改革で、財政の建て直しに成功しただけではなく、
優秀な人材を育てる教育システムがありました。
(佐賀藩、長州藩、薩摩藩など)
ようするに、これからの日本を背負うことができる人材の育成ですね。
そう考えると、日本を建て直すには、教育改革が急務かもしれません。
青田さんへ その2
黒田裕樹 教育改革は何としてもやり遂げたいですね。
教師の端くれとして、少しでも助力できればと思っております。
大人も学習を。。
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
よく、教育=小学校、中学校、高校、大学
だけと考えると人が多いですが
幕末の志士は、大人になってからも、
薩摩藩、佐賀藩、長州藩では、教育に力を入れていました。
(薩摩藩、長州藩では、英国に密航させ学ばせました。)
明治を迎えても、優秀な人材は、どんどん海外に
留学させ、国内でも優秀な教師を海外から
招き、徹頭徹尾、学びつつけました。
もちろん、日本の近代化という大きな目的があったのは、たしかですが、
今の日本は、大学を卒業して、社会に出ると
その後、学習し続ける場が少ないし、そういう人も少ない気がします。
こういう国難で大変な時だからこそ
日本のような資源のない小さな国は、教育でしか
富を生み出すことはできないと思います。
子供だけではなく、大人も必死にになって学習していた明治の精神に戻らないといけないと思います。
これからも、黒田先生の歴史講座で、学習し、
自分を磨いていきますので、宜しく、お願いします。
青田さんへ その3
黒田裕樹 仰るとおり、私たちも学習を続けないといけませんね。
こちらこそよろしくお願いします。
これらによって旗本や御家人の暮らしは一息ついたものの、商人は大きな打撃を受けることになり、また厳しい倹約令によって不景気が続いたことで、庶民の不満が次第に高まっていきました。
こうした中で、水野は財政の改善や対外防備を強化するとともに、幕藩体制(ばくはんたいせい)の強化を目的として、1843年に江戸・大坂周辺の約50万石(まんごく)を幕府の直轄地(ちょっかつち)とする上知令(じょうちれい、または「あげちれい」)を出しました。
しかし、上知令は対象となった領地を所有していた譜代大名(ふだいだいみょう)や旗本らの反発を招くと同時に、これをきっかけとして水野本人への非難が激しくなったこともあり、上知令が中止になっただけでなく、水野自身も老中を辞めさせられる結果となりました。
約2年という短い期間で天保の改革が失敗に終わったことは、幕府の政権能力の減退(げんたい)を意味しており、この後わずか10年余(あま)りで激動(げきどう)の幕末(ばくまつ)を迎えることになってしまうのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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晴雨堂ミカエル 田沼が見たら卒倒しそうなほどの脊髄反射の行き当たりバッタリ政策。
平素の我々の仕事でも段取りは二歩三歩先を考えて動くものですが、水野には想像力や洞察力が退化しています。
朱子学や幕府への信仰と依存が硬直化させる感じです。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 本当にそうですね。
自国をどうするかという大きなビジョンが全く見えてきませんし、考え方が完全に硬直しています。
やはりこの頃までに、幕府は我が国で政治を続ける団体としてふさわしくなくなっていると言えるのかもしれませんね。
ただの没収令
クラチー 出たな妖怪「上知令」!
(▼Д▼;)
普通に考えれば、
「土地グレードダウン→不満爆発」
ってわかるでしょうに。
これじゃ幕府以外、全く得しないじゃない…。
クラチーさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、代替用地があるとはいえこれは単なる「没収令」に過ぎません。
幕府開設から日が浅い頃に容赦なく大名を取り潰した大昔ならいざ知らず、幕藩体制が揺らいでいる時期にこんな強制的な法令を出すこと自体が異常であるといわざるをえません。
体制の引き締めに恐怖政治を行う段階で、その政府は滅亡が近いという過去の事例と全く同じ道を歩んでいますね。
いつも有難うございます
癒しグマ おはようございます。
いつも歴史について分かりやすく解説していただきありがとうございます。
以前から伺おうと思っていたのですが、右横のツイッターの画面を表示するにはどうすればよいのでしょう?
何回かチャレンジしたのですが、うまくいきません。
お忙しいのに恐縮ですが、私のブログコメントにでも方法をお知らせいただけるとありがたいです。
子犬が産まれて、まだ講座にいけず本当に申し訳ありません。
よろしくお願い申し上げます。
ポチ4☆
癒しグマさんへ
黒田裕樹 ご多忙のところ、お言葉をいただきましてありがとうございます。
ツイッターの件については、癒しグマさんのブログに書かせていただきます。
水野は、諸物価の値上がりは当時の流通システムを仕切っていた商人による株仲間(かぶなかま)に原因があるとして、北町奉行の遠山らの反対を押し切って1841年に彼らの解散を命じましたが、これはとんでもない濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)でした。
なぜなら、先述のとおり物価の値上がりの原因は別に存在していましたし、何よりも株仲間を解散するということは、曲がりなりにも長年続いた物資の流通システムを壊(こわ)してしまうことを意味していたからです。
かくして遠山らが心配したとおり、流通網(りゅうつうもう)が混乱したことでかえって物価が上昇するという完全な逆効果をもたらしてしまいましたが、水野らは明確な責任を取ることもなく、さらなる改革を強引に推(お)し進めていきました。
なお、株仲間は10年後の1851年に再興されています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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一大河 いつも目からウロコの歴史の事実、ありがとうございます。
電車内で読むのにちょうどいい文章量で、しかも濃い情報が得られる。
ブログの書き方のお手本にさせていただこうと思います!
一大河さんへ
黒田裕樹 こちらこそ、いつもご訪問くださって有難うございます。
お言葉、大いに励みとなります。
財政の支出を抑えるために政府が倹約することは決して間違っていませんが、それを一般庶民にまで強要してしまえば、消費が冷え込んで景気が悪化するばかりでなく、精神面でも余裕がなくなることで文化は衰退(すいたい)し、世の中全体が殺伐(さつばつ)とした雰囲気(ふんいき)となってしまうからです。かくして庶民の生活は灯(ひ)が消えたような寂(さび)しいものとなってしまいました。
また、天保の頃までには米を含めた諸物価(しょぶっか)の値上がりが著(いちじる)しかったのですが、これらの主な原因は、人口が増えて消費量が増えた都会に対する生産地からの物資の供給(きょうきゅう)不足にありました。
需要(じゅよう)が増えているのに供給が不足すれば物価が上がるのは当たり前ですから、江戸や大坂などの大都市への供給量を増やして物価を下げる政策を行えば良かったのですが、水野が実際に考えた対策は、経済の原則を無視したとんでもないものでした。




いつも有難うございます。
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中年の星 いつの時代も、上に立つ者が経済音痴だと、庶民は不幸になるのですね。
中年の星さんへ
黒田裕樹 > いつの時代も、上に立つ者が経済音痴だと、庶民は不幸になるのですね。
まさしく仰るとおりだと思います。
現代の経済対策も万全とは言えませんし、なぜ同じことが繰り返されるのでしょうか―。
あ~あ…
クラチー はっ!気がつけば水野さん!
∑(゜Д゜)
どうして当時の政治家は、
「買わない、売れない、赤字…」のデフレスパイラルがわからないのでしょうねぇ。
食べていくのも大変だから、
文化も無くなっちゃったし…。
(-m-;)
オバrev う~ん、水野と野田がダブって見える^_^;
今の政府の借金は1000兆円ありますが、民間や国民はといえば、民間企業の余剰金は200兆円以上、国民の貯蓄は1100兆円、貿易は黒字。
責任はどこにあるんか、よぉ~く分かります。
まず政治家や官僚が率先して負担を負ってから我々に負担を依頼するってのが常道って思いますけどね。
クラチーさんへ
黒田裕樹 > はっ!気がつけば水野さん!
> ∑(゜Д゜)
ハイ、時代はどんどん進んでいますよ(爆)。
> どうして当時の政治家は、
> 「買わない、売れない、赤字…」のデフレスパイラルがわからないのでしょうねぇ。
> 食べていくのも大変だから、
> 文化も無くなっちゃったし…。
> (-m-;)
全くもってそのとおりです。
ただ、学問と宗教が異常なほど結びついていた当時では、それに気づかないことがむしろ自然だったかもしれませんね。
返す返すも田沼時代が続かなかったことが悔やまれます(´・ω・`)
オバrevさんへ
黒田裕樹 さすがはオバrevさんですね。
今の経済は、民間よりも政治の不作為が足を引っ張っているのが現状です。
それなのに自分たちの権益を守ろうとしている段階で、我が国の将来に暗雲が立ちこめているというのが何というのか…。
江戸時代の教訓。
晴雨堂ミカエル 江戸時代の教訓は現代に通用するもの多々あるのに、活かされない。残念ですね。時代劇の弊害かな。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 江戸時代の教訓は現代に通用するもの多々あるのに、活かされない。残念ですね。時代劇の弊害かな。
それは確かにありますね。ワンパターン化が歴史の事実に気づかせないものがあると思います。
史実に沿ったかたちでのドラマ化が望まれますが、田沼意次あたりだと視聴率が取れないかな…。
また、農村を離(はな)れて江戸へ出稼(でかせ)ぎに来た農民や、貧困(ひんこん)のために江戸に流入した貧民(ひんみん)に対して帰郷(ききょう)を強制させる人返(ひとがえ)しの法を出し、天保の大飢饉で荒廃(こうはい)した農村を復興させようとしました。
しかし、これは寛政の改革の旧里帰農令(きゅうりきのうれい)と同様に、農村へ強制的に返すことはあっても、その後の対策が十分になされていなかったこともあり、大きな効果は得られませんでした。
加えて、無宿者(むしゅくもの)や牢人(ろうにん)らも農民と同様に江戸を追われたことによって、江戸周辺の農村の治安悪化をも引き起こす原因となってしまったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
水野はかつての享保(きょうほう)・寛政(かんせい)の両改革を手本とし、衰(おとろ)えつつあった江戸幕府の権力強化を目指して改革を行ったのですが、その手法は先の両改革よりも過激(かげき)なものであり、結果として庶民の暮(く)らしは大きな打撃(だげき)を受けることになりました。
まず水野は将軍や大奥(おおおく)も含めた非常に厳しい倹約令(けんやくれい)を出し、ぜいたく品や華美(かび)な衣服を禁じました。ここまでは前の改革とはそれほど大きな差はありませんが、問題なのはその「陰湿(いんしつ)さ」でした。
幕府の意を受けた南町奉行所(みなみまちぶぎょうしょ)では、町に密偵(みってい)を放(はな)って幕府の政治に対する悪口を言わせて、それに乗ってきた庶民を「幕府を批判した」と言って捕まえたり、倹約令によって禁止されていた絹(きぬ)の着物を着ている疑いがあるとして、往来の真ん中で女性を無理やり裸(はだか)にしたりしたのです。
これら一連のやり口を指揮(しき)した人物こそが、先の蛮社の獄(ばんしゃのごく)を取り締(し)まった南町奉行の鳥居耀蔵(とりいようぞう)であり、もう一人の北町(きたまち)奉行で、水野や鳥居とやがて対立することになる人物が「遠山の金さん」で有名な遠山景元(とおやまかげもと)でした。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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広島人 先生こんにちは。
初めてコメント致します。
「往来の真ん中で女性を無理やり裸(はだか)にした」とありますが、
これは着物の下の襦袢も剥ぎ取って、文字通り裸にしたのでしょうか?
広島人さんへ
黒田裕樹 はじめまして。当ブログへのご訪問並びにお言葉有難うございます。
> 「往来の真ん中で女性を無理やり裸(はだか)にした」とありますが、
> これは着物の下の襦袢も剥ぎ取って、文字通り裸にしたのでしょうか?
詳しくは私も存じ上げませんが、当時は襦袢姿でも非常に恥辱であったといいますし、絹の着物を脱がすのが目的であれば、襦袢姿で止めた可能性もあると思われます。
天保の改革
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
どうも、幕府は、『吉宗』をカリスマ化しすぎて
それが、幕府の衰退を速めた気がします。
その原因として
吉宗の血のセーフティーネットの御三卿の中から、将軍が出続け、さらに吉宗にたいする尊敬の念が強くなってしまったからではないかと思います。(まさか、自分の祖父にたいして、否定的な考えを持つことはできませんから)
それゆえ、
寛政の改革、天保の改革とも吉宗の享保の
改革の模倣か、その政策をさらに拡大させたものになった気がします。
ちなみに
江戸時代、人口は、増加していますが、吉宗の享保の改革から、幕末まで、人口増加率は、横ばいを続けています。
個人的なイメージですが、暗黒の時代ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに吉宗を神格化しているようですね。
将軍が吉宗の血をみんな引いているのも原因がありそうです。
人口停滞は必ずしも不幸な時代とは限りませんが、天保の改革の失敗が尾を引いていますね。
藤原氏といえばやはり奈良・平安時代の印象が強いと思われますが、政治の実権を完全に失った後も細々と存続していました。そのことが戦国や江戸時代、ひいては我が国の運命を変えた近現代史にまで大きな影響を与えるのですから、歴史というのは本当に分かりません。
また、藤原氏が政治の実権を失った後も武家政権などに滅ぼされることがなかったという、一般的な外国との大きな違いも特筆(とくひつ)すべきではないかと思います。皇室と同様に「権威と権力との絶妙な分配」が、我が国の歴史の伝統なのかもしれません。
私が常々(つねづね)口にしております「歴史の大きな流れを理解することの大切さ」を実感しながら、今後も歴史教育の実践に末永く携(たずさ)わっていきたいと願っております。




いつも有難うございます。
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ろっぽん 権威と権力との絶妙な分配」が、我が国の歴史の伝統なのかもしれません。
ですが、戦前の日本が悪いことだけやったんではないとする議論は語られてはいるけど。
日本史のターニングポイントも教えられて来なかった気がします。
世界史の大づかみの見方は貴族:騎士の対立騎士の勝利=封建社会→大航海時代→帝国主義→産業革命→民主主義革命→社会主義革命
というように革命というように前政権の全否定、
急速な変革というような流れだと思います。
私達の学校時代は唯物史観の研究者が強かった時代ですから、世界的常識的流れで見る先生が多かった。日本的保守的、保守とは単に自民党的というのではなくて、急速に変革というのは危険なことも多いだ。昔からの風習伝統を守って徐々に世の中を変えてゆくのがいいとする保守的風土、
そういう意味では、この藤原氏ことやもっと
南朝:北朝時代、なぜ織田信長は暗殺されたか
織田信長に本当に天下を取らせれば天皇の排除し
西欧的な歴史の流れになっていたかもしれないと思います。今度、橋本氏が大阪市長撰に出るらしいが彼自身も言ってるように「変革に大切なことは独裁だ!」だと言ってるように信長的な考えと
同じくわかりやすい変革論だ!
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 確かに保守的な風土と変革との違いがありますね。
閉塞感を感じる世では人々は変革を求めますが、新しい枠組みが定着した後には独裁者を排除する傾向があるようです。
それゆえに信長は暗殺され、家康は独資者を出さないシステムで江戸幕府を長持ちさせたのかもしれません。
その栄枯盛衰ぶりは時代の流れを象徴するとともに、藤原氏の歴史をたどることで、我が国の大きな歴史のうねりを理解することにもつながります。
通常の歴史教育で今回のような流れを振り返ることは、時間などの制約で非常に難しくなっていますが、教師として実践(じっせん)する立場としては当然理解しなければならないことであり、今回のような長丁場(ながちょうば)の講座にも意義があると考えております。
これからも様々な切り口で数多くの歴史講座を展開してまいりたいと思いますので、今後ともお付き合い下さいますよう、どうぞよろしくお願い申し上げます。
(※第26回歴史講座の内容はこれで終了ですが、次回[10月25日]に補足の記事を載せます)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
私も一通り、学生時代は歴史を勉強させていただいて
おりましたが、こうしてこの年になるまで全く考えもしなかった歴史上の事実に触れる事が出来た事に、改めて黒田さんには大変感謝いたしておりますm(_ _)m
やはり教育の現場ではなかなか伝えきれない部分というのが多々あり、その現場に再度立たれているお立場上、更にもどかしさを感じられているのでは無いでしょうか。そういう意味でも講座を開催され、歴史を考える場を与えてくださる事に感謝すると共に、これからもどうぞそのモチベーションを保ちつつ、頑張っていただきたく存じます^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 励ましのお言葉有難うございます。
仰るとおり、現場の歴史教育ではなかなか実践できない大きな歴史の流れですが、ブログや講座を通じてさらなる研究を重ねることで、少しでも授業に役立てればと思っております。
こうした作業は時として孤独感にさいなまれるものですから、ぴーちさんのようなお言葉が本当に励みになりますm(_ _)m
なるほど。。
マリリンカ 黒田先生コンバンワヽ(○・▽・○)ノ゛
お久しぶりです・・・
私も学生の頃から平安時代は好きです(^^ゞ
穏やかなイメージが・・・あります~
まだ発展途上みたいな~
実は麻呂って言うのが好きなんです(^^
すいません・・・こんな理由で・・・
知らない事や忘れている事が多いと・・
ここの記事を読むとあ~と思う事が多いです。
勉強になりますね(@^^)/~~~
マリリンカさんへ
黒田裕樹 こちらこそご無沙汰しておりますm(_ _)m
歴史を好きになるのに理由は必要ないですよ。
これからもどんどん参考にして下さいね(^_^)v
オバrev 歴史ってのは、教科書通りに時代をたどることが基本でしょうが、様々な角度から見直すことも、また面白いですね。
今回まさに時代を作った、時代の寵家?とも言える藤原氏が、いつのまにか歴史の上から消えさっていたイメージだったので非常に不思議に思っていましたが、その流れがよく分かりました。
光を当てられていない歴史上のテーマは、まだまだ多く埋もれていそうですね。
この公開講座はさらに続きそうです(^_-)ネ
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、様々な角度から歴史を見直すことによって、埋もれた真実を探り当てることができます。
その楽しさがあるからこそ、歴史教育の実践はやめられません(^^♪
> この公開講座はさらに続きそうです(^_-)ネ
もちろん続けますよ(^_^)v
しかし、彼が在任中の我が国は決して望ましい状態とはならず、最後の内閣を事実上投げ出した昭和16(1941)年10月からわずか2ヵ月後に、我が国はアメリカとの果てしない戦争の日々を送ることになってしまいました。
昭和20(1945)年に我が国が終戦を迎えると、近衛文麿は連合国軍最高司令官総司令部(れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ、別名をGHQ)からの指示による憲法改正に意欲を見せましたが、やがて先の戦争責任を問われて戦犯容疑(せんぱんようぎ)で逮捕(たいほ)が決定的となり、絶望した彼は毒をあおって自殺しました。
ちなみに、戦後の五摂家は伊勢神宮(いせじんぐう)の大宮司(だいぐうじ)など神官(しんかん)を務(つと)めている人が多く存在しています。また近衛家はその後再び血統が途絶(とだ)え、同じく外孫が後継者となりましたが、その兄が平成5(1993)年に内閣総理大臣となった細川護熙(ほそかわもりひろ)氏です。
近衛文麿と細川護熙の両氏がいずれも国民の期待を背負って首相に就任しながら、その途中(とちゅう)で内閣を投げ出した格好(かっこう)となってしまったことは、歴史における何とも言えない皮肉なのでしょうか。
なお、近衛文麿に関する詳(くわ)しい評価につきましては、別の機会に論じる予定です。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
縁者で同じような経緯を辿るとは、本当に皮肉なものですね(^^ゞ
戦犯容疑で逮捕されそうになり、自害の道を選ぶというのも、近衛文麿は最後まで自分の人生に向き合う事無く、責任から逃れようという意識だけが支配してたのですね。。自分で撒いた種は、自分で刈り取らなければ・・ですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに近衛文麿には「責任逃れ」のイメージが付きまといますね。
同じように自殺を図りながら死にきれず、裁判が始まってからは堂々と答弁して最期には静かにこの世から退場した東條英機や、逃げようとは絶対されずに、マッカーサーの前で生命を賭けて国民を救おうとされた昭和天皇とは雲泥の差です。
kikuzi ひさしぶりにコメントさせて頂きます。
近衛文麿に関して、責任逃れというのは、少しあてはまらないように感じます。
彼は高貴な身分ですから、生きて虜囚の辱めを受けるくらいならと、潔く自決なされたのだと思います。
確かに、事ここに至っての自決ですから、軍人に比べれば、潔くはないかもしれませんが、戦犯と決定された事に対する抗議の自決と見る事もできます。
名門近衛家の方ですから、東条元首相よりも屈辱の度合いは大きかったでしょう。
こういった出来事の場合、今の自分たちの観点ではなく、当時の、また家柄や職種などの観点で物事を見る事も、時には大事なのではないのかな、と思う今日このごろです。
kikuziさんへ
黒田裕樹 なるほど、確かにそういう見方もあるようですね。
近衛文麿の評価については、もう少しじっくりと確認する必要があるかもしれません。
お言葉有難うございます。
明治23(1890)年に我が国で議会政治が始まると、五摂家は貴族院(きぞくいん)の議員として活躍することになりますが、これは発展途上(はってんとじょう)にあった議会政治や政党政治に対する抑えという意味もありました。
時が流れて昭和(しょうわ)を迎えると、五摂家の筆頭という家柄(いえがら)を持ち、端正(たんせい)な風貌(ふうぼう)かつ颯爽(さっそう)とした長身(ちょうしん)で大衆的(たいしゅうてき)な人気を得た貴族院議長が現れました。
その家の血筋は江戸時代に一旦(いったん)は断絶(だんぜつ)したものの、外孫(がいそん、他家に嫁いだ娘にできた子のこと)として皇室の血統を迎えたことで高貴(こうき)さが強化されていました。
彼はやがて昭和12(1937)年に内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん)にまで出世して、血統が違(ちが)うとはいえ、藤原氏の末裔が国政の最高責任者として君臨(くんりん)する日がやって来たのでした。
彼の名を近衛文麿(このえふみまろ)といいます。




いつも有難うございます。
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ろっぽん 40年前、革新知事候補として皇族から
久我通武という元農林省官僚が立候補しました。
また婦人運動家として伊達家の血筋から伊達たまきさんという人がいます。
皇室で有ろうとなかろうと政治能力があれば
全然構わないと思う。また投票する方も皇族云々のステータスになっていません。
久我通武が落選したことからもわかるでしょう。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仰る一例は確かにそのとおりですね。
それと同時に、近衛文麿が当時の国民や各界の期待を一身に浴びて内閣総理大臣にまで出世したのもまた事実です。
一例のみを取り上げて全部とすることは難しいかもしれませんが、近衛文麿に対する当時の期待感は、少なくとも虚構ではなかったと思われます。
わろ 文麿!!
教科書にも載っていて有名ですよね^^
名家出身で総理大臣だと、すごく期待があったのでしょうか?
そういえば、細川さんも名家?出身の総理ということになるのでしょうかw
わろさんへ
黒田裕樹 > 文麿!!
> 教科書にも載っていて有名ですよね^^
> 名家出身で総理大臣だと、すごく期待があったのでしょうか?
当時の国民の期待は相当大きかったようですね。しかしながら…。
> そういえば、細川さんも名家?出身の総理ということになるのでしょうかw
そういうことになりますね。二人には大きな共通点があります。それは何かというと…。
次回の更新までお待ちください(笑)。