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黒田裕樹の歴史講座
受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。
次回の「黒田裕樹の歴史講座」

第66回黒田裕樹の歴史講座「戦後史検討 その1 ~占領政策の本質」平成30年5月20日(日)午後2時より東京・スター貸会議室 飯田橋にて、5月26日(土)午後2時より大阪市立総合生涯学習センター第1研修室(ホール)にてそれぞれ行います(東京講演の開始時間が1時間早まっていますので、お間違えのないようにご注意ください)。

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┣政党の復活 (2)
┣経済面の占領政策 (7)
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┣昭和天皇のご巡幸 (10)
┣冷戦体制の形成とアジア情勢 (10)
┣朝鮮戦争の勃発 (4)
┣日本の独立回復 (8)
┣特需景気と経済復興 (4)
┣独立回復後の国内情勢 (3)
┣激動する世界情勢 (6)
┣55年体制の成立と国連への加盟 (3)
┣安保条約の改定と闘争の激化 (3)
┣高度経済成長 (6)
┣保守長期政権 (6)
┣国民生活の変化 (7)
┣保守政権の動揺 (10)
┣貿易摩擦とバブル景気 (4)
┣戦後の文化 (4)
┗昭和から平成へ (5)
平成時代 (89)
┣冷戦体制の崩壊 (19)
┣湾岸戦争の大きな教訓 (9)
┣55年体制の崩壊 (11)
┣バブル経済の崩壊と金融制度改革 (9)
┣森内閣から小泉内閣へ (17)
┣第一次安倍内閣とその後の自民党政権 (10)
┣民主党政権と東日本大震災 (12)
┗安倍政権の復活 (2)
第1回歴史講座 島国の環境が創った我が国の歴史 (10)
┣日本列島の地理的環境がもたらした「天然の防壁」 (2)
┣中国大陸との交流 (2)
┣聖徳太子と遣隋使 (2)
┣朝鮮半島とのかかわり (2)
┗「島国」ゆえの最大の危機 (2)
第2回歴史講座 「鎖国」という名の悲劇 (9)
┣「鎖国」に対するイメージとは (1)
┣「鎖国」に至るまでの歴史 (2)
┣なしくずしの「鎖国」とその影響 (2)
┣逃してしまった「開国」へのチャンス (2)
┗「しなくても済んだ苦労」をする「悲劇」 (2)
第3回歴史講座 源義経 (11)
┣平氏に捕まりながらも生きながらえた奇跡 (2)
┣戦術の天才ぶりを遺憾なく発揮 (2)
┣ついに平氏滅亡、しかし… (2)
┣「戦略」が理解できなかった「戦術」の天才 (3)
┗役割を終えた「アイドル」の末路 (2)
第4回歴史講座 明智光秀 (12)
┣最大のミステリー 「本能寺の変」 (1)
┣光秀の動機は「怨恨」か? (2)
┣信長と光秀との理想的な主従関係 (2)
┣「不信感」という名の導火線 (2)
┣ついに爆発した光秀の不信感 (2)
┣本能寺の変に「黒幕」はいない (2)
┗たった一人で歴史を変えた男 (1)
第5回歴史講座 毛利家の栄枯盛衰 (15)
┣信長に次いで天下取りに近かった男 (1)
┣重大な決意 (3)
┣すべてが思い通りに (3)
┣凄まじいまでの謀略 (2)
┣三矢の訓(おしえ) (2)
┣元就の不安的中 (2)
┗因果はめぐる (2)
第6回歴史講座 徳川綱吉 (19)
┣徳川綱吉は本当に「暗君」か? (2)
┣ハンデを乗り越えて始まった綱吉の治世 (3)
┣「生類憐みの令」の背景とその真実 (5)
┣綱吉の治世における数々の功績 (4)
┣立て続けに綱吉を襲った「災害」 (2)
┣恐るべき「歴史の捏造」からの名誉回復を目指せ (2)
┗綱吉が我が国にもたらした「思わぬ効果」 (1)
第8回歴史講座 田沼意次と松平定信 (18)
┣田沼意次=悪役は本当か? (2)
┣田沼時代の真実 (8)
┣偶然と陰謀と (3)
┣前政権の全否定 (4)
┗「名君」と「悪人」の目くらましに惑わされないために (1)
第9回歴史講座 明治憲法とは (15)
┣明治憲法の一般的な評価は真実か? (2)
┣明治憲法の歴史的経緯 (5)
┣明治憲法の公民的考察 (6)
┗統帥権の干犯 (2)
第10回歴史講座 信長と信玄との「決定的な違い」について (17)
┣信長と信玄との「決定的な違い」とは? (3)
┣一つめの違い (6)
┣二つめの違い (4)
┗「決定的な」三つめの違い (4)
第11回歴史講座 太閤殿下の夢 (16)
┣我が国と「ある国」との秀吉の評価の違いとは? (2)
┣世界史の流れから見た我が国侵略への恐怖感 (5)
┣秀吉の朝鮮出兵の意図は「明への先制攻撃」にあり (3)
┣徳川家によってねじ曲げられた朝鮮出兵の真意 (2)
┗歴史教育に必要な「それぞれの立場」による認識 (4)
第12回歴史講座 戦国時代の宗教戦争 (15)
┣「政教分離の原則」が定着した我が国 (1)
┣「政教一致」が我が国にもたらした様々な問題 (4)
┣信長の政策 (4)
┣秀吉の政策 (3)
┣家康の政策 (2)
┗政教分離による恩恵と問題点 (1)
第13回歴史講座 日本とトルコ (15)
┣屈指の親日国家 「トルコ共和国」 その理由とは? (1)
┣エルトゥールル号の悲劇と懸命の救助 (5)
┣我が国とトルコとの間に生まれた絆 (2)
┣トルコの恩返し (4)
┣固い絆は永遠に (2)
┗補足 (1)
第15回歴史講座 遠山の金さん (18)
┣「遠山の金さん」の実像とは? (1)
┣時代劇「遠山の金さん」のストーリー (5)
┣将軍から「お墨付き」をもらった北町奉行 (3)
┣水野忠邦や「妖怪」との対立 (4)
┣庶民の楽しみを守った名奉行 (3)
┗「金さん」伝説は永遠に (2)
第16回歴史講座 政権交代の歴史 (16)
┣選挙だけではない「政権交代」の歴史 (2)
┣朝廷による政治から平氏政権へ (4)
┣鎌倉幕府の誕生 (4)
┣建武の新政と三英傑との大きな違い (3)
┣江戸幕府から明治維新へ (2)
┗そして現代へ (1)
第17回歴史講座 徳川家康 (22)
┣歴史に学んだ家康の平和主義とは? (2)
┣独立後も続いた辛抱の日々が報われるとき (3)
┣独立までの苦難の日々で身に着けたもの (4)
┣律義者から狸爺へ (3)
┣幕府存続を目指して (4)
┣皇室をも利用した容赦ない家康の「平和主義」 (3)
┗「平和主義者」家康に対する誤解と偏見 (3)
第18回歴史講座 日韓併合 (20)
┣日韓併合の歴史的経緯を探る必要性 (2)
┣不幸な行き違いから始まった明治の日朝関係 (4)
┣二つの事変と朝鮮半島に忍び寄る清国の影 (2)
┣日清戦争で清国の介入を防ぐも、迫るロシアの魔の手 (5)
┣「保護国」から「併合」へと導いた一発の銃弾 (5)
┣日韓併合までに至る歴史の評価とは? (1)
┗補足 (1)
第19回歴史講座 織田信長 (18)
┣織田信長の全体像とは? (1)
┣「生きた情報」を重視する信長の姿勢 (3)
┣「目先の利益」よりも長期的なビジョンを優先 (2)
┣地名の変更と大胆な城下町政策で都市を繁栄に導く (2)
┣信長が敵から学んだ「独自の政策」とは (4)
┣自らの権威を高めるために信長が選んだ手段 (3)
┣独裁者の精神が招いた「本能寺の変」 (2)
┗「歴史の転換者」の完成した姿とは? (1)
第20回歴史講座 幕末百景 (25)
┣幕末における大きな歴史の流れとは? (1)
┣薩摩藩の場合 (7)
┣長州藩の場合 (8)
┣土佐藩の場合 (2)
┣肥前藩の場合 (2)
┗江戸幕府の場合 (5)
第21回歴史講座 昭和天皇・前篇 (23)
┣我が国の危機を救われた昭和天皇 (2)
┣幼年期からご即位まで (3)
┣立憲君主制の重み (6)
┣一日も早い戦争終結を願われて (5)
┣ご聖断下る (5)
┣終戦を迎えて (1)
┗大東亜戦争終結ノ詔書 (1)
第22回歴史講座 日本国憲法誕生秘話 (15)
┣日本国憲法をめぐる謎 (1)
┣GHQが主導した新憲法の制定 (4)
┣脅迫に屈した占領の悲劇 (3)
┣憲法改正への動きが鈍い理由 (2)
┣自主的な憲法改正の必要性 (3)
┗補足 (2)
第23回歴史講座 昭和天皇・後篇 (24)
┣我が国の運命を決めたマッカーサーとのご会見 (2)
┣現在も続く「皇居勤労奉仕」の源流 (1)
┣「人間宣言」に対する大きな誤解 (4)
┣昭和天皇のご巡幸 (10)
┣世界における天皇陛下の権威 (2)
┣太陽は静かに沈み、そしてまた昇る (4)
┗東日本大震災と天皇陛下のビデオメッセージについて (1)
第24回歴史講座 日韓併合後の歴史 (10)
┣「日帝三十六年の真実」とは? (1)
┣植民地支配における過酷な真実 (2)
┣朝鮮半島の統治における数々の真実 (5)
┗外国が絶賛した我が国の朝鮮統治 (2)
第25回歴史講座 風雲・関ヶ原 (21)
┣「関ヶ原の戦い」にまつわる様々な側面 (1)
┣避けられなかった「豊臣家の落日」 (4)
┣「敗軍の将」 石田三成の真実 (3)
┣実は「薄氷の勝利」だった徳川家康 (4)
┣もし関ヶ原の戦いで西軍が勝っていたら (5)
┣関ヶ原の戦いから見えてくるもの (1)
┗補足 (3)
第26回歴史講座 藤原氏の栄枯盛衰 (25)
┣藤原氏から見えてくる大きな歴史の流れ (1)
┣誕生 (3)
┣発展 (7)
┣完成 (4)
┣実は不可思議な藤原氏の栄華 (2)
┣没落と復活と (6)
┣藤原氏の歴史をたどる意義 (1)
┗補足 (1)
第27回歴史講座 からくり儀右衛門 (12)
┣我が国を支えた「ものづくり」の精神 (1)
┣「からくり儀右衛門」の誕生 (3)
┣人々の暮らしに貢献した数々の発明 (2)
┣歴史を変えた「アームストロング砲」 (3)
┣歴史をつくった晩年の事業 (2)
┗知識は失敗より学ぶ (1)
第28回歴史講座 真説・平家物語 (23)
┣平家滅亡の真の理由とは? (1)
┣武士の誕生とその飛躍の背景 (3)
┣平家を栄光へと導いた二つの乱 (6)
┣「開拓者」の宿命としての大きな「欠陥」 (5)
┣悲運と必然とがもたらした平家の没落 (7)
┗大いなる教訓としての平家の功績 (1)
第29回歴史講座 室町幕府の教訓その1 (15)
┣「室町時代」の分かりにくさ (1)
┣「鎌倉幕府」滅亡への道のり (4)
┣「建武の新政」の理想と現実 (4)
┣欠陥だらけだった「室町幕府」とその原因 (5)
┗課題を残した尊氏の「負の遺産」 (1)
第30回歴史講座 室町幕府の教訓その2 (22)
┣義詮から義満へ (2)
┣南北朝の合一 (3)
┣義満の野望と挫折 (6)
┣神に選ばれた将軍 (5)
┣後南朝の悲劇 (5)
┗「やり過ぎ」がもたらしたもの (1)
第31回歴史講座 室町幕府の教訓その3 (18)
┣「箍が外れた桶」となった室町幕府 (2)
┣「応仁の乱」の思惑と現実 (5)
┣権威の「使い捨て」に振り回された足利将軍 (6)
┣「室町幕府の教訓」とそれを活かしきった男 (4)
┗歴史に学んで「教訓」を活かす重要性 (1)
第32回歴史講座 聖徳太子 (21)
┣建国以来の危機に敢然と立ち向かった男 (1)
┣内憂外患からの大改革 (3)
┣冠位十二階に秘められた深慮遠謀 (2)
┣現代にもつながる憲法十七条の精神 (3)
┣遣隋使で見せた我が国の気概 (8)
┗聖徳太子をめぐる昨今の諸問題 (4)
第33回歴史講座 明治天皇 (28)
┣崩御100年にご遺徳を偲んで (1)
┣明治天皇のご誕生と激動の維新 (4)
┣西郷隆盛とのお若き頃の日々 (2)
┣明治天皇と立憲君主制 (6)
┣教育勅語に込められた陛下の願い (3)
┣戦時における陛下の大御心 (5)
┣大津事件での誠実なご対応 (2)
┣明治の終焉とその後 (4)
┗「明治の日」を実現しよう! (1)
第34回歴史講座 真説・忠臣蔵 (22)
┣「元禄赤穂事件」の真実 (7)
┣「水と油」だった浅野家と吉良家 (4)
┣「浅野vs.吉良」と「討ち入り」の本当の理由 (5)
┣「元禄赤穂事件」が「忠臣蔵」になるまで (4)
┗「隠されたメッセージ」を理解するために (2)
第35回歴史講座 人権法案の矛盾 (23)
┣人権法案に秘められた矛盾 (8)
┣治安維持法の真実 (4)
┣自治基本条例の恐るべき実体 (7)
┗今こそ問われる国民としての自覚 (4)
第36回歴史講座 山田方谷 (16)
┣山田方谷の誕生とその半生 (2)
┣方谷による財政改革の全容 (7)
┣他藩も参考にした方谷の改革精神 (2)
┣藩を救った改革とその後の方谷 (3)
┗「アベノミクス」成功の切り札として (2)
第37回歴史講座 北条時宗 (15)
┣元の建国 (3)
┣文永の役 (4)
┣弘安の役 (5)
┗「征夷大将軍」の重責 (3)
第38回歴史講座 乃木希典 (32)
┣「武人」乃木希典の青年期 (4)
┣連隊旗喪失の悲劇とその後の乃木 (5)
┣旅順攻略戦の苦悩・前編 (6)
┣旅順攻略戦の苦悩・中編 (4)
┣旅順攻略戦の苦悩・後編 (6)
┣奉天会戦、そして帰国後の乃木の決意 (3)
┗晩年の乃木将軍と殉死 (4)
第39回歴史講座 樋口季一郎 (20)
┣「エリート将校」の様々な横顔 (4)
┣オトポール事件 (6)
┣キスカ撤退作戦 (5)
┣占守島の戦い (3)
┗「誇りある決断」がもたらしたもの (2)
第40回歴史講座 西郷隆盛 (30)
┣若き日の西郷と藩主斉彬との出会い (6)
┣不遇の時代を乗り越えて討幕へ (5)
┣西郷の武士道精神を支えたものとは (6)
┣征韓論争にも見られた「武士道精神」 (5)
┣西南戦争に見られる西郷の「覚悟」 (5)
┗身は城山の露と消えても (3)
第41回歴史講座 鈴木貫太郎 (23)
┣「鬼貫」と呼ばれた男の半生 (5)
┣運命の「二・二六事件」 (4)
┣最難局での総理大臣就任 (6)
┣陛下のご聖断を導いた男 (6)
┗「鬼貫」の生き様から学ぶもの (2)
第42回歴史講座 黒田官兵衛 (14)
┣播磨で名を挙げた青年期の官兵衛 (3)
┣信長・秀吉との出会いと幽閉の日々 (4)
┣天下平定から朝鮮出兵への道のり (3)
┗家康への臣従と関ヶ原以後の官兵衛 (4)
第43回歴史講座 文部省唱歌の世界 (14)
┣講演編 (8)
┗歌唱編 (6)
第44回歴史講座 条約改正への道のり (28)
┣江戸幕府が結ばされた不平等条約 (8)
┣条約改正への道のり・前編 (7)
┣条約改正への道のり・後編 (5)
┗条約改正が我が国に残した大きな教訓 (8)
第45回歴史講座 大化の改新と壬申の乱 (23)
┣蘇我氏の横暴 (5)
┣大化の改新への道のり (5)
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┣水野忠邦や「妖怪」との対立 (7)
┗「金さん」伝説は永遠に (5)
第55回歴史講座 奈良・平安前中期の政治史 (41)
┣藤原不比等 [藤原氏] から長屋王 [非藤原氏] へ (5)
┣藤原四兄弟 [藤原氏] から 橘諸兄 [非藤原氏] へ (4)
┣藤原仲麻呂 (恵美押勝) [藤原氏] (6)
┣道鏡 [非藤原氏] から再び藤原氏 [藤原百川・藤原永手] へ (5)
┣摂関政治全盛までの道のり (8)
┣藤原氏を支えた財政的基盤 (4)
┣源氏物語に秘められた藤原氏との関わり (4)
┗藤原氏の「不可思議な」栄華とその後の没落 (5)
第56回歴史講座 日本文明の誕生 (22)
┣縄文文化は「世界最高水準」であった (6)
┣最新の調査研究で明らかになった「弥生文化」の真実 (4)
┣神話の正しさを証明した「地質学的事実」 (6)
┗「建国に関する伝承」と「日本文明」 (6)
第57回歴史講座 平安後期の政治史 (43)
┣武士の誕生と院政の成立 (9)
┣武士団の成長と源氏の躍進 (5)
┣平氏を栄光へと導いた二つの乱 (6)
┣平氏政権に秘められていた「大きな欠陥」 (5)
┣頼朝の台頭と平氏の滅亡 (9)
┗「戦略」が理解できなかった「戦術」の天才 (9)
第58回歴史講座 日本と韓国のほんとうの歴史 (41)
┣「日本と韓国のほんとうの歴史」を学ぶにあたって (4)
┣日朝関係を悪化させた「不幸な行き違い」 (4)
┣朝鮮半島に迫る清国の影とロシアの魔の手 (8)
┣併合を決定づけた「運命の銃弾」 (5)
┣一般的な植民地支配の厳しい現実 (3)
┣朝鮮半島の統治における数々の真実 (7)
┣慰安婦問題の「日韓合意」について (7)
┗外国が絶賛した我が国の朝鮮統治 (3)
第59回歴史講座 東條英機 (41)
┣「軍人」東條英機が政治の舞台に登場するまで (6)
┣日米開戦を導いた「アメリカの思惑」 (7)
┣コミンテルンの謀略と東條首相の苦悩 (9)
┣大東亜戦争は「無謀な戦争」だったのか (9)
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第60回歴史講座 日本外交史その壱 (29)
┣「小国」が始めたチャイナとの外交 (5)
┣「邪馬台国」と「倭の五王」の外交について (6)
┣聖徳太子がもたらした「対等外交」 (10)
┗「聖徳太子抹殺計画」の恐怖 (8)
第61回歴史講座 日本外交史その弐 (38)
┣遣唐使のはじまりとその後の中断 (11)
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┣神風をもたらした「断固たる決意」 (5)
┗征夷大将軍の重責と「元寇抹殺計画」 (5)
第62回歴史講座 日本外交史その参 (49)
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┣日明貿易に秘められた義満の野望 (11)
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黒田裕樹

Author:黒田裕樹
(くろだ・ひろき)
社会人出身の教師(大阪府内の公立高校非常勤講師)です。歴史教育のブログ「黒田裕樹の歴史講座」を開設しております。
Birthday:S44.02.15(みずがめ座)
血液型:A型
花嫁募集中(未婚)です(^^ゞ
大阪市在住
広島東洋カープの大ファンです♪

教師としての専門科目:日本史、現代社会など
高校地歴・公民、中学社会の教員免許を所有

大阪・明星高校から関西大学法学部を卒業後、複数の司法書士事務所に勤務の後に教師になることを志し、通信教育で教員免許を取得。私立高校の社会科非常勤講師から私立大学の事務職員、大阪府立高等学校期限付常勤講師を経て、現在は大阪府内の公立高校で非常勤講師として勤務中です。

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大塩の乱 その3
大塩の乱の後、全国各地で「大塩の門弟」などと名乗っての幕府への反乱が相次いで起きました。代表的なものとして、同じ1837年に越後(えちご)の柏崎(かしわざき)で国学者(こくがくしゃ)の生田万(いくたよろず)が代官所(だいかんしょ)を襲撃(しゅうげき)した生田万の乱があります。

また、大塩の考えに共鳴(きょうめい)した農民による一揆も多発するなどの不穏(ふおん)な情勢(じょうせい)がこの後も続くことになり、事態を重く見た幕府による綱紀粛正(こうきしゅくせい、国家の秩序やまた政治のあり方、または政治家や役人の態度を正すこと)のための改革をもたらしました。

しかし、困窮(こんきゅう)する庶民のためではなく、幕府の体面を保(たも)つことを何よりの目的とした改革が成功するはずもなく、遠からず破綻(はたん)する運命にあることはむしろ当然ともいえました。

ちなみに、大塩が乱を起こした当時の大坂町奉行は跡部良弼(あとべよしすけ)でしたが、実は彼は幕府の老中の実弟(じってい)でした。その老中こそが天保の改革を行った水野忠邦(みずのただくに)なのです。


(※明日[10月1日]からは第26回歴史講座の内容の更新を開始します)

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【2011/09/30 12:00】 | 大塩の乱
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ぴーち
こんにちは!

この頃の庶民は今ではとても食料としては考えられないような(例えば、ワラなど)ものを最大限に取り入れて、主食に混ぜあわせたりして飢えをしのいでいたと聞いた事があります。先日、都内でも大規模な脱原発宣言に関するデモが行われた様ですが、それを知った外国がやっと日本も国民がこういう主張をするようになったかと安堵したと書かれていましたが、やはり日本人はいくら我慢強いからと言っても、最悪な状態が己の身に降り掛かって来たときには暴動なり反乱なりを起こすのはやはり人種を問わずに当然の成り行きであるのでしょうね。

応援凸

ぴーちさんへ
黒田裕樹
江戸時代の農民がほとんどコメが食べられなかったのは事実でないことが明らかになってきましたが、厳しい飢饉の際には仰ったような出来事があったようですね。生命の危機に人間が立ち上がるのはむしろ当然でしょう。

原発に関しては、反対を主張する人々の願いは理解できないことはありません。
ただし、私は現代社会(公民)の教師として、

1.福島原発事故で問題となった放射能が、かつての米ソや中国による核実験がもたらした放射能に比べて極めて微量であること。つまり、私たちは過去に大量の被ばくをしているが、大きな健康被害を受けていないという重い事実があります。セシウムなどの量についても大きな問題になっていますが、過去の核実験の際に調査していれば、もっと大量に検出されていた可能性が高いでしょう。にもかかわらず、私たちは無事に過ごしてきています。

2.我が国のエネルギー事情を考えれば、代替エネルギーが不安定な現状や、石油に依存する火力発電を選択するとしても、環境問題が解決されていませんし、もし石油の輸入が止まればたちまちエネルギー事情が悪化するという欠点があります。エネルギーがなくなれば、下手をすれば亡国にもつながりかねません。

3.トリウム原子炉のようにプルトニウムを出さないような最新型の原発であれば、地震や津波による被害防止を格段に高めることが可能です。福島原発の場合はかなりの旧型でしたし、地域にもっと大きな被害をもたらした女川原発には被害が出ていません。

このような事情を考慮した場合、反原発のみの選択肢を生徒たちに考えさせることが本当に正しいかどうかを見極める必要があると思います。


オバrev
大塩平八郎の乱とは関係ありませんが、公民の教師として原発のことを取り上げられていたので、このことについてコメントします。

私も原発推進でも、反原発でもありません。
ただ知りたいのは、恣意的でない、バイアスを取り除いた客観的、信頼性の高いデータを示して欲しいということです。

私自身、現時点で最大の問題は、正確な情報がない中での風評被害だと思っています。

正確なデータをきちっと示した来なかった、あるいはデータをHP等に載せているのに、それをしっかりアピールし説明してこなかった、専門家、官僚、政治家の責任は大きいと思います。



オバrevさんへ
黒田裕樹
ご意見ありがとうございます。
オバrevさんのお気持ちこそが、多くの日本人が疑問に感じていることだと私も思います。

放射能による被害は、かつての原爆や(広島のオバrevさんであればより切実な思いではないでしょうか)、チェルノブイリでの原発事故のような恐ろしい印象があると断じて、今回の被害と同一視する意見が多い一方で、正確なデータを示さずに不安のみをいたずらに煽っているのが現状です。

ところが、不安を真っ先に口にする人々に限って、数十年前から行われている米ソや中国などによる核実験がもたらした影響については固く口を閉ざしています。真実を語れば困ることでもあるんでしょうか。

いずれにせよ、過去の核実験を含めたあらゆるデータを分析した結果での発言でなければ、風評被害で我が国全体に不安を与えるだけの存在と断じざるを得ないようです。

一方、今回の原発事故について明確なデータを示し、過去と比較したうえで「安全である」という結論を導き出している識者も少なくありませんが、なぜかマスコミは彼らを出演させようとはしません。国民の不安をいち早く解消するためにも、彼らの意見に多くの人々が耳を傾ける機会が増えることを祈ります。

以上ここまで書きましたが、私は多くの国民が正常な判断ができるよう願ってはおりますが、教師としての立場上、個人による明確な意思表示は行なわないことを申し添えます。

明治維新との違い。
晴雨堂ミカエル
 吉宗の改革は一応成功して、定信・忠邦の改革は失敗。一方、明治の富国強兵策も国内では士族の反乱、農民の一揆、民権派との抗争を抱え、国外ではロシアの圧迫と対峙しながら成功しました。定信や忠邦よりも難しい社会であったにも関わらずです。

 一番の違いは、吉宗はまだ庶民の生活に視線があり、明治では実績をあげなければ滅びる切迫感がありました。
 定信も忠邦も実を見ず実をあげることもせず、形の綺麗さのみにこだわった。これにつきます。ようするに危機感の欠如です。

晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹
仰るとおり、危機感を持つことで政治に対する本気度が違ってくると思います。

定信や忠邦のような、桃源郷でも見つけたかのような理想主義では何の対処もできません。もっとも、これは江戸時代の話だけではなく、20世紀に天文学的な数の犠牲者を出した壮大な実験を行って大失敗したにもかかわらず、幻想を抱きながら今もなお続けている「ある思想」にも通じることのような感じがしますが。

エネルギー問題
青田です。
黒田先生

こんばんは

青田です。

水野忠邦の弟が大阪町奉行だったとは

かなり、町奉行としての、素行がひどかったんですね。

話は、変わりますが、エネルギー問題について、
話題になったので、コメントをさせて頂きます。

① ソフトバンクの孫氏が、太陽光発電が代替エネルギーと語っています。

日本にある休耕地を利用するという考えらしいですが、

私は、異論があります。

まず、なぜ、休耕地かと言えば、
(1)日照度が低い。

(2) 耕地として、適してない地形である。

などの理由で、休耕地の場合が多いからです。

そんな場所に大規模なソーラーシステムを建設しても、費用が莫大にかかり、逆に電気料金が掛ってしまいます。

さらに
『自然エネルギー』は、優しいという言い方をしますが、『自然』ほど、厳しく、しかも、不安定なものは、ありません。


② 今は、現実的な話として、やはり、原子力発電に頼るしかないと思います。
長期的には、代替エネルギーの開発は、薦めていくとして


③ 余談ですが、四国電力の伊方原発は、瀬戸内海に面していて、内海なので、津波の心配は、比較的少ないと思います。もちろん、直下型なら、防げませんが、、

青田さんへ
黒田裕樹
跡部については確かにとんでもない奉行です。ところが、忠邦が失脚した後も出世を重ねているんですよね。彼のような人物が生き残ったということ自体が、幕府の腐敗ぶりを如実に表しているのかもしれません。

エネルギー問題に関しては私も概ね賛同します。ご意見ありがとうございました。

時代劇のヒーロー
青田です。
黒田先生

おはようございます。

青田です。

跡部良弼について、怒りと憤りを感じます。

もしかしたら、大塩平八郎は、その当時の庶民にとっては、
       (名もなき元与力)

時代劇の『破れ傘刀舟』の刀舟のような悪人に立ち向かうヒーローだったような気がします。
(名もなき町医者)

なぜなら、自分自身が、町奉行の与力だった大塩平八郎にとって、反乱を起こして、成功するとは
本人も考えてなかったと思うからです。

それでも、今の民衆の暮らしと役人の腐敗を観ると自分が立ちあがらないといけないと思ったんでしょうね。



どうにも、やりきれない切ない気持ちになります。




青田さんへ その2
黒田裕樹
仰るとおり、跡部の件も含めてやりきれない思いですね。
だからこそ、人間は天下無敵のヒーローを求めるのだと思います。

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大塩の乱 その2
陽明学(ようめいがく)を学んだ大塩は、与力を引退後に私塾(しじゅく)の洗心洞(せんしんどう)で門弟に教育を行っていましたが、窮民(きゅうみん)への救済をいつまでも行わない役人や豪商たちに激しい怒りを覚え、ついに武装蜂起(ぶそうほうき)することを決意しました。

大塩の決断には、陽明学における知行合一(ちこうごういつ)の精神、すなわち「知っていて行わないのは知らないことと同じだ」として実践(じっせん)を重視(じゅうし)する姿勢もあったからと考えられています。

大塩は反乱に向けて綿密(めんみつ)に計画を練(ね)りましたが、決起直前になって内通者(ないつうしゃ)が出てしまい、計画は奉行所にばれてしまいました。大塩は準備不足のまま反乱を強行しましたが、奉行所によって半日(はんにち)で鎮圧され、大塩も一度は逃走(とうそう)したものの、約40日後に自害しました。

1837年に起きたこの事件は大塩の乱と呼ばれていますが、幕府の元役人が幕政を批判(ひはん)して反乱を起こしたという事実が、幕府のみならず各方面に大きな衝撃(しょうげき)を与えることになりました。


(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)

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【2011/09/29 12:00】 | 大塩の乱
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ぴーち
こんにちは!

お話から脱線して申し訳ありませんが、
「武装蜂起」と「武装放棄」では同じ読み方をするのに相反する意味を持つという・・面白いものだなとぼーっと考えてしましました(^^ゞすみません^^

なるほど、その事を知りつつも見てみぬふりをする事も、同罪だという理論は私も賛成です。

応援凸


ぴーちさんへ
黒田裕樹
言われてみれば確かにそうですね。発音も同じですし、ここまで正反対な言葉というのも珍しいのではないでしょうか。

陽明学の真髄は実践にありました。世間を騒がすことは確かに良くないですが、それ以前にどうしようもならなくなったからこその蜂起だったのでしょうね。
もし事前に発覚することなく、ある程度の成功を収めていれば、この後はどうなったのでしょうか…。

大塩も我々と歳頃は同じですね。
晴雨堂ミカエル
 大塩平八郎の肖像画は老け顔に描かれていますが、たぶん我々とそう変わりないでしょう。生活水準は上の部類ですし、健康的な生活をしていたようですから。昔の絵師は威厳をもたせるために皺をよく強調します。
 
 元与力で学者とはいえ、蔵書は万の数、当時の出版業界の規模(数百冊売れたらベストセラー)を考えれば大変な資産です。これらを売って困窮者の救済にあたったり、武器弾薬を購入して反乱軍を組織するのですから。
 
 大塩がどこまで計画していたか判りませんが、予定通りの蜂起でも秩父困民党と同じ末路でしょう。
 明治維新が早くなったという人もいますが、私は逆に幕府は効果的な弾圧法を編み出して芽を積んでしまった可能性をとります。

晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹
大塩の乱がもたらした影響は様々なものが考えられますね。
確かに幕府が効果的な弾圧方法を考えたかもしれませんが、自助努力がない限りはどれだけ無理をしても結局は滅亡することも歴史が証明していますし、難しいところです。


なおまゆ
お久しぶりです。
知行合一の陽明学は今の政治家の方々に是非学んでいただきたいですね。
明治維新のわずか30年前。
この後一気に情勢が動くんですよね。
尤も、維新後も庶民の生活はしばらく改善されなかったようですが、大塩平八郎氏が維新の時に存命であれば、赤報隊に加盟したでしょうか?
彼らは、官軍のスケープゴートにされて悲劇的な結末を迎え、悪名を着せられてしまいましたよね。
庶民のために立ち上がった大塩氏の勇気には敬服しています。

なおまゆさんへ
黒田裕樹
仰るとおり、陽明学の知行合一は今こそ必要ではないかと思います。
明治維新かわずか30年前の話です。庶民のために散っていった大塩の精神は今もなお私たちに何かを語りかけているようですね。


わろ
窮民救済のために立ち上がった大塩さん、私も尊敬しています。日本人は、食うに困ると反乱するイメージがあります。
二二六事件も、東北飢饉を経験している東北出身の人が多く関与してたと聞いたことがあります。
ところで、このころの飢饉は、米価はどれくらいまで上がったのでしょうか??

わろさんへ
黒田裕樹
仰るとおり、普段は大人しいものの、日本人は生命の危機を感じると大きな反乱を起こすことが多いです。それからでは遅すぎるともいえるのですが…。

米価については、飢饉の際には2倍~4倍に跳ね上がっている場合が多いですね。いずれにせよ、上がり過ぎては生活が成り立ちません。


オバrev
大塩平八郎を改めて再認識したのは、実はビートたけしのフライディ襲撃事件です(^◇^;)

愛人(一般人)に対するフライディの強引な取材に腹を立てたたけしが、軍団を率いてフライディを襲撃した事件ですが、その後の記者会見で「俺は大塩平八郎じゃない」と言ったのが頭に残っています。

事の真相は知りませんが、フライディの記者がその一般人女性に怪我を負わせるほどの、行き過ぎた取材?をしていて、ついに堪忍袋の尾が切れたたけしが、その記者に抗議に行ったもののノラリクラリのフライでディの対応に、ついに暴力事件へと発展したらしいです。

たけしが大塩平八郎じゃないと言ったのは、自分の愛人のために殴りこんだのであって、大義名分があった訳じゃないという意味だったんじゃないかと思います。

本日やっとたけしの言った意味が分かったような気がします(@_@;)

オバrevさんへ
黒田裕樹
ビートたけしのフライデー襲撃事件にはそんなエピソードがあったんですか。知らなかった、というよりも記憶になかったと言った方が正しいかもしれません。

大塩の乱と自らの行動をたちどころに結び付けようとするビートたけしは、やはり天才なのかもしれませんね。



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大塩の乱 その1
1780年代に我が国を大いに悩(なや)ませた天明の大飢饉(てんめいのだいききん)でしたが、その後は比較的天候に恵(めぐ)まれ、不作(ふさく)らしい不作は起きませんでした。しかし、将軍徳川家斉(とくがわいえなり)の晩年(ばんねん)である天保(てんぽう)年間の1833年からは凶作(きょうさく)が続き、大規模(だいきぼ)な飢饉が再び我が国を襲(おそ)いました。これを天保の大飢饉といいます。

飢饉によって農村や都市部では貧窮者(ひんきゅうしゃ)があふれ返り、追いつめられた農民や庶民(しょみん)らによって、激(はげ)しい一揆(いっき)や商家(しょうか)に対する打ちこわしが続発しました。

このような全国的な大飢饉に対して、幕府や各藩は適切(てきせつ)な救民対策(きゅうみんたいさく)を行うことはなく、逆に商家と結託(けったく)してコメを買い占(し)めることで暴利(ぼうり)をむさぼる行為が目立ちました。

「天下の台所」と呼ばれ、全国から様々な物資が集まるはずの大坂においても、容赦(ようしゃ)ない買い占め行為によってコメ不足となり、多くの人々が飢(う)えに苦しみました。そんな様子を見かねた大坂町奉行の与力(よりき)をかつて務(つと)めていた一人の男が、何度も窮状(きゅうじょう)を奉行所へ訴(うった)えましたが、幕府への点数稼(かせ)ぎのために積極的に江戸へコメを回していた役人が聞く耳を持つはずがありませんでした。

その元与力の男の名を大塩平八郎(おおしおへいはちろう)といいました。


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【2011/09/28 12:00】 | 大塩の乱
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ぴーち
こんばんは!

大飢饉を救済すること無く、暴利を貪るとは
なんと酷い話でしょうか・・。
人々が飢えに苦しんでいるということは
それだけ米生産者側の生産能力が減ることになるので必然的に利益まで減る現象になるのでは無いでしょうか?結果的にそうすることで自分で自分の首を絞める行為につながるということを考える余地は当時の幕府にはなかったのでしょうか。

応援凸

ぴーちさんへ
黒田裕樹
権力は時間が経てば必ずと言っていいほど腐敗します。
目先の利益にこだわって、国民のことを顧みようとしない幕府政治が、この後30年しか持たなかったのもうなづけますね。

同じように腐敗しているとみなされた自民党政治に代わって、国民の大きな期待を受けた現在の民主党政治ですが、自民党以上に腐敗しているような気がするのは私だけでしょうか…。

時代劇
青田です。
黒田先生

おはようございます。

青田です。

私が小学校の時

天保年間を舞台にした時代劇で

『破れ傘刀舟悪人狩り』を放映していました。

内容は

萬屋錦之介が演じる町医者が

権力者らによって、理不尽にも弱い民たちが斬殺、蹂躙されたのを聞いた時、

その顔いっぱいに怒りの表情を見せ、同田貫一本を携えて大名屋敷であろうと

奉行の屋敷であろうと構わず土足で上がりこみ、悪党たちを前に仁王立ちして

「やかましいや!この野郎!」と理不尽な罪状(事の顛末)を述べ、

「許せねぇ!」「てめえら人間じゃねえや!叩っ斬ってやる!」と、

この決め台詞とともに悪人達の全てを叩っ斬る物語です。

ラストシーンで、この天保年間の状況を話すナレーションが流れるんですが

私は、小学生の時、それを聴くと、どうも、やるせない無情な気持ちになりました。



青田さんへ
黒田裕樹
仰る時代劇は私も見ておりました。
長い平和の時代が続いたと同時に、権力が腐敗しまくってどうにもならなくなったのが天保年間ですから、せめてドラマの上だけでもすっきりしたいのですが、現実を振り返ると確かにやりきれないですね。

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欧米列強の接近 その7
異国船打払令が出されてから12年後の1837年のある日、アメリカの一隻(いっせき)の商船(軍艦ではありません)が我が国に近づきつつありました。

モリソン号という名のその船は日本人の漂流民数名を乗せており、彼らを帰還(きかん)させるとともに通商などを平和的に求めるために我が国にやって来たのですが、幕府はそんなモリソン号に対して異国船打払令を理由に一方的に砲撃(ほうげき)を行いました。

あわや轟沈(ごうちん)されかねないという恐怖を味わったモリソン号は、通商はおろか漂流民の引き渡しもできずに這(ほ)う這(ほ)うの体(てい)で我が国から去っていきました。この騒(さわ)ぎはモリソン号事件と呼ばれています。

幕府によるこのような信じがたい暴挙(ぼうきょ)に対して、尚歯会(しょうしかい)に所属していた蘭学者(らんがくしゃ)の渡辺崋山(わたなべかざん)は慎機論(しんきろん)を、高野長英(たかのちょうえい)は戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)をそれぞれ書いて批判しましたが、1839年に幕府によって弾圧(だんあつ)されてしまいました。

この事件を蛮社の獄(ばんしゃのごく)といいますが、蛮社という言葉には蘭学(らんがく)を「野蛮(やばん)な結社(けっしゃ)」と一方的に断じるという偏見(へんけん)の意味が込められていました。そして、事件を指揮した人物こそが、後に南町奉行(みなみまちぶぎょう)として天保の改革(てんぽうのかいかく)の際に暗躍(あんやく)することになる鳥居耀蔵(とりいようぞう)だったのです。


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【2011/09/27 12:00】 | 欧米列強の接近
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ぴーち
こんにちは!

異国船打払令とは、外国船であれば何人たりとも日本に近づくものがあれば、爆撃せよという無謀な法律だったのですか?!

応援凸

ぴーちさんへ
黒田裕樹
異国船打払令は我が国と交易のあるオランダや清以外の外国船であれば問答無用で打ち払うというとんでもないものでした。我が国に危害を加えるならまだしも、漂流民を返還するなど平和的に、ましてや軍艦でない商船まで攻撃するというのはあまりにも常軌を逸していると言わざるを得ないでしょう。

渡辺崋山や高野長英のように幕府のやり方に不満を持つのは当然だと思います。



オバrev
一連の幕末の騒動を読んでいると、国際的な情報を持たないまま、また忠告に耳を傾けるという姿勢もなかったことがよく分かります。

今回の東日本大震災が起きてからの管政権のいいかげんで場当たり的な対応とダブって見えてしまいました(*_*;

一番的確な情報を持っているのはやはり米国なんでしょうね。日米同盟を軽視した、鳩・管政権のツケもあったような気がします。


オバrevさんへ
黒田裕樹
他の皆様もご指摘されておられるように、今の政治の混迷に似すぎていることが私には気がかりです(´・ω・`)

「賢者は歴史に学ぶ」といいますから、江戸幕府の失政を大いに参考すべきなのですが、このままでは「第二の幕末」といった大混乱の世となることも予想できそうで恐ろしいですね。

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欧米列強の接近 その6
結局は何の抵抗もできなかった幕府は、要求どおり燃料や食糧を提供してフェートン号に退去(たいきょ)してもらうと、長崎奉行の松平康英は責任を取って切腹(せっぷく)し、肥前藩の家老(かろう)ら数名も同じように切腹しました。

この出来事はフェートン号事件と呼ばれていますが、この後もイギリス船は何度も我が国の近海に出没(しゅつぼつ)したため、業(ごう)を煮(に)やした幕府は1825年に異国船打払令(いこくせんうちはらいれい、別名を無二念打払令=むにねんうちはらいれい)を出し、中国の清(しん)とオランダ以外のすべての外国船を撃退(げきたい)するように命じました。

確かにフェートン号の乱暴狼藉は許せないものがありましたが、だからと言って問答無用(もんどうむよう)で外国船を打ち払(はら)うというのは余りにも極端(きょくたん)な対応と言わざるを得ません。結局このような幕府の場当たり的な対応が、さらなる悲劇(ひげき)をもたらしてしまうのでした。

なお、フェートン号事件の際の手抜(てぬ)かりを幕府に非難された肥前藩ですが、その後は他藩に先駆(さきが)けて近代化に全力を挙(あ)げ、結果として幕末から明治維新(めいじいしん)にかけて活躍(かつやく)することになるのです。


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【2011/09/26 12:00】 | 欧米列強の接近
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市民革命と産業革命。
晴雨堂ミカエル
 欧米列強がアジアへの圧力を強めた大きな原因は、やはり市民革命と産業革命でしょう。この2つ、教科書で良いことにしか教えないが、欧米の世界侵略を促進させた原因です。

 市民革命によって国民国家となり、領主様の傭兵から国民の軍隊になった。
 産業革命によって物資を大量生産でき、大量の物品を売り付ける必要がでた。

 人とモノを大量に動員できる政治システムと経済、それを支えるために搾取するための植民地拡大。
 このつながりを文部科学省は教えない。
 

晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹
仰るとおり、二つの革命によって世界の図式が大きく変わりました。
その余波が我が国にもやってきて、幕末の混乱を迎えることになります。

日本史や世界史、あるいは政経の「すみわけ」にでもなっているのでしょうか、そういう流れを教えていない現行の教育に疑問を感じる一つではありますね。

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欧米列強の接近 その5
17世紀以来オランダと植民地をめぐって争いを続けていたイギリスは、オランダがナポレオンによって征服(せいふく)されると、これを好機(こうき)として東洋のオランダ植民地を攻撃(こうげき)し始めました。

そんな中、1808年にオランダの国旗を掲(かか)げた船が長崎の出島に入港しました。関係者と思い込(こ)んだオランダ商館員が船に乗り込んで出迎えようとすると、彼らは捕まえられて船に連行され、同時にオランダ国旗が降ろされると、代わりにイギリス国旗が堂々と掲(かか)げられました。

実は、この船はイギリスのフェートン号が化けていたものだったのです。フェートン号は人質を盾(たて)に長崎港内でのオランダ船の捜索(そうさく)を行うとともに燃料や食糧(しょくりょう)を我が国に求め、要求が通らない場合には港内の日本船を焼き払(はら)うと通告してきました。

イギリスによる余(あま)りの乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)ぶりに幕府における長崎の責任者である長崎奉行(ながさきぶぎょう)の松平康英(まつだいらやすひで)は激怒(げきど)しましたが、彼にはどうすることもできませんでした。

なぜなら、泰平(たいへい)の世(よ)が長く続いたことによって、幕府や警備を担当(たんとう)していた肥前藩(ひぜんはん)による長崎における兵力が激減(げきげん)しており、戦える状態ではなかったからです。


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【2011/09/25 12:00】 | 欧米列強の接近
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実は今でもある暴挙。
晴雨堂ミカエル
 泰平の世が続くと軍事力は仕分け対象、幕府や藩の財政が逼迫しては当然の成り行き。

 残念ながら近頃の中国軍やロシア軍の動きは、フィリピンから米軍が退き、沖縄をめぐって日米がギクシャクしているのと無関係ではありません。

 捕鯨船を攻撃するシーシェパードは当時と変わらん性質です。

晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹
仰るとおり、歴史から何も学んでいない現状が歯がゆいですね。
江戸時代の武士にとっての刀と同様、一時期を除けば滅多に振り回すことのない武器を身につけることで相手への抑止力となっているように、我が国も軍事に関する否定的な見方を改めるべきかもしれません。


HANA子
確かに最近の日本領空・領海内でのロシア・中国・韓国の傍若無人な振る舞いを想起してしまう出来事と感じてしまいますね。
しかし、実の所この事件のことをわたしは知りませんでした。
事の顛末は次回の更新で、でしょうか。
次回も楽しみに待ってます!

HANA子さんへ
黒田裕樹
仰るとおり、不思議なほど現代の状況に似てきてしまっていますね。
この事件の顛末や事後の結果については…いずれも大変なことになってしまいます。
詳しくは次回までお待ちくださいm(_ _)m


ぴーち
こんにちは!

常に戦闘態勢が整っていたり、戦争に備えて
いつも訓練をしている状態ならば、奇襲攻撃されたとしても直ぐに攻撃応戦出来るのでしょうけれど、
太平の世が理想である反面、いざという時に
戦意が失われている状態では、丸腰同然というわけですものね(^^ゞ
応援凸

ぴーちさんへ
黒田裕樹
仰るとおり、太平の世は理想であり、良いことでもありますが、肝心な防衛面を損ねていてはどうしようもありませんね。

ひるがえって平和な日常が続く今の我が国は大丈夫でしょうか…。

『ひるがえって平和な日常が続く今の我が国は大丈夫でしょうか…。』について
EgloffMeiko


専門家の黒田先生にこのようなことを申し上げるのは大変失礼なのですが、無礼を承知で以下申し上げます。

私は今の日本は「平和」ではないと思っています。いえ、その前に日本では「平和の質」について全然、考えられていません。

ある時、日本人は何をもって「平和」と言っているのだろうという、素朴な疑問が浮かび上がりました。言い換えれば、戦後日本人の「平和論」は「平和の質」について、問われることがないということに気が付いたわけです。

戦後の日本人は何をもって「平和」と言っているか。これは「戦争が無い状態」でありましょう。しかし、チベットやウイグルには戦争はありませんが平和もありません。言い換えれば、チベットやウイグルは「戦争さえできない」のです。ここで「平和とは戦争が無い状態」という日本型平和論は崩れます。

(翻って、日本はどうでしょうか。日本もチベットやウイグルと同様に「戦争さえできない」状態なのではないでしょうか?幸か不幸か、日本には「謝罪外交」という手がありますので、それでかろうじて凌いでいるだけのことです。つまり早い話、カツアゲされ続けているということです。)

また、日本型平和論「平和とは戦争が無い状態」の戦争には「武力を用いない戦争」は含まれていません。従って、日本人は武力を用いない戦争を「戦争」と察知する能力が身についていません。ということは、日本ほど敵国にとって「情報戦」を仕掛け易い国はないということになります。

(私はこの「情報戦」ほど恐ろしいものはないと思います。日本人が死ななくても日本人の精神が死んでしまえば、結果的に日本人は死んだことになるからです。つまり日本民族は消滅して、無国籍のような人間だけが日本列島に残ることになります。これはまぎれもなく「日本の死」を意味します。)

日本人の「平和論」はある時点で思考停止になっています。その「ある時点」とは「敗戦を終戦」と置き換えて呼んだ時点でありましょう。この時に、日本人はこっちの端に「平和」を置き、あっちの端に「戦争」を置きました。つまり「戦争と平和」を敵対関係にしたのです。しかし、これはとんだ勘違いです。

戦争は平和を内包し、平和は戦争を内包しています。これは「完璧な幸せ」がないのと同時に「完璧な不幸」もないことと似ています。私たちは通常、何となく幸せで何となく不幸せなのではないでしょうか?いかがでしょう?

「戦争と平和」は敵対関係ではありませんが、お互いを必要とし合っている関係であるのです。

Egloff Meiko 本名 54歳

EgloffMeikoさんへ
黒田裕樹
丁寧なご見解、有難うございます。
お考えには筋が通っておりますし、卓見であると思います。

今後ともよろしくお願いいたします。

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第26回「黒田裕樹の歴史講座」のお知らせ
いつも「黒田裕樹の歴史講座」をご覧いただきまして有難うございます。

7月に復活した「本物の歴史講座」ですが、しばらくの間は原則として「奇数月の第4土曜日」に行うことにしました。第26回目は9月24日(土)の午後6時より「藤原氏の栄枯盛衰」と題して大阪・梅田で開催します!

大化の改新に協力した中臣鎌足(なかとみのかまたり)を祖(そ)とする藤原氏。以後も政治の表舞台に立ち続け、藤原道長(ふじわらのみちなが)の頃には最高の栄華を我が物としました。

「この世(よ)をば わが世とぞ思ふ 望月(もちづき)の 欠けたることも なしと思へば」

しかし、そんな藤原氏の栄光も道長の子の藤原頼通(ふじわらのよりみち)以後は影を潜(ひそ)め、逆襲に出た皇室によって政治の表舞台から去ると、ついには鎌倉幕府の誕生によって実権を完全に失い、5つの家に分裂(ぶんれつ)します。

そんな藤原氏でしたが、江戸時代になると徳川家の思惑(おもわく)によって皇室と肩を並べる存在となりました。そして、実質は皇室の血を引いてはいながらも、藤原氏の末裔(まつえい)がついに国政の最高権力者にまで出世する日がやってきたのです。しかし―。

我が国の歴史に深くかかわった藤原氏の栄枯盛衰(えいこせいすい)を検証することで、私たちは大きな歴史の流れをつかむことが出来ます。是非とも多数の皆様のご参加をお願いいたします!


第26回「黒田裕樹の歴史講座」
「藤原氏の栄枯盛衰」
日時:平成23年9月24日(土) 午後6時より
場所:大阪市立総合生涯学習センター 第3研修室
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:無料(カンパを受け付けます)

ブログをご覧の皆様も、よろしければ是非ご参加下さい。この記事のコメント欄をご活用いただければと思います。また、今回の講座の内容については、前回までと同様に、後日にはブログ上で映像とともに発表しますので、是非ご覧になって下さい。

なお、講座終了後に近辺の居酒屋で懇親会(会費金3,000円程度)を行いますので、よろしければこちらにもご参加下さるようお願いします。

最後に、おなじみとなりましたブロとものクラチーさんからの素晴らしい画像を皆様にご覧いただきます!
(※クラチーさんのブログについては、下線部からご覧いただけます。)

藤原道長(クラチー)

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【2011/09/24 18:00】 | お知らせ
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藤原氏
青田です。
黒田先生

こんばんは

青田です。

今度のテーマは、藤原氏ですね。

いつも、通り楽しみにしています。

実は、私は、藤原氏について、摂関政治くらいしか、知識がありません。

また、黒田先生の鋭い切り口を楽しみにしています。

青田さんへ
黒田裕樹
有難うございます。
通常の歴史ではなかなか語られることのない藤原氏の歴史について取り上げる予定ですので、ご期待下さい!


オバrev
日本史における藤原氏の存在は大きいですよね。

何故その権力が長く続き、衰え、現在どうなっているのか非常に興味があります。

いつか、カープが低迷期から初優勝、そして黄金期、さらに長期低迷に陥った歴史についてお願いします(^_^;

オバrevさんへ
黒田裕樹
仰るとおり、藤原氏の栄枯盛衰は日本史そのものですからね。
分かりやすく解説できればと思います。

> いつか、カープが低迷期から初優勝、そして黄金期、さらに長期低迷に陥った歴史についてお願いします(^_^;
…(^^ゞ
広島での講座限定になりそうですね(´・ω・`)


キキコ
こんばんは~☆
24日、南港のほうに行きますので。
講義を受けたいなあって思っていますが(^^)
北新地の学習センターは、
ワンコNGでしたよね(^^)
NGだったら、カンパだけして
帰りますねえ~♪

キキコさんへ
黒田裕樹
お言葉有難うございます。
そうですねぇ…。学習センターはペットを預かる施設がなかったと思います。
ご迷惑をおかけします。

お久しぶりです
クラチー
やっと長い介護実習が終わりました。
あとは記録作成のみです。
(-o-)

お、藤原道長さんのことが書かれてる…って、あー!?
すっかり存在を忘れていた、
メタボリック道長さんがっ!
(Д)゜゜

ううう…毎回使っていただき、本当にありがとうございます!
さて、田沼さんの記事を読みまくろう♪←

クラチーさんへ
黒田裕樹
はい、今回も有効に活用させていただきました(^_^)v
道長の存在は藤原氏にとって大きな影響がありますよね。

田沼さん~定信のボンボン(笑)の話はたっぷりありますので、ご感想を大いに期待しております(´∀`)


とさを商店
近衛も細川総理も顔が血統が近くて、顔似てるだけでなく、政権を途中で投げ出すのも一緒ですね

とさを商店さんへ
黒田裕樹
仰るとおりですね。そのあたりも含めて講座で検討してみたいと思います。

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欧米列強の接近 その4
我が国とロシアとの間で緊張(きんちょう)した関係が続くなか、1811年にロシア船が千島列島の国後島(くなしりとう)に上陸して測量を始め、気づいた幕府がこれを拿捕(だほ、軍艦などが他国の船舶などをその支配下におくこと)して、艦長(かんちょう)のゴローウニンなどを抑留(よくりゅう、他国の人間や船舶などを自国の権力内に置くこと)しました。

これに対してロシアは報復(ほうふく)として翌1812年に日本船を拿捕し、淡路島(あわじしま)の商人の高田屋嘉兵衛(たかたやかへえ)らを抑留しました。

さながら人質合戦の様相(ようそう)に両国間の関係はさらに悪化しかけましたが、当時のロシアには我が国を侵略(しんりゃく)するまでの意図(いと)がなかったこともあり、ゴローウニンと高田屋嘉兵衛は捕虜交換(ほりょこうかん)の形でそれぞれ帰国しました。

これら一連の出来事はゴローウニン事件と呼ばれていますが、この後の日露(にちろ)の関係は修復(しゅうふく)へと向かい、幕府の直轄地となっていた蝦夷地も1821年には松前藩に返還(へんかん)され、松前奉行は廃止(はいし)されました。

なお、高田屋嘉兵衛に関するエピソードは作家の司馬遼太郎(しばりょうたろう)によって「菜の花の沖(なのはなのおき)」という名で小説化され、テレビドラマ化もされています。


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【2011/09/24 12:00】 | 欧米列強の接近
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ぴーち
こんにちは!

何やら先日の中国船の襲撃事件の様な展開が
この時代にもあったのですね。
その時はロシアが下手に出て、事無きを得たということですか・・今回は日本が下手に出たことで
事無きを得た訳ですが、外国とのお付き合いの
難しさは今も昔も同じなのですね(^^ゞ

応援凸

ぴーちさんへ
黒田裕樹
仰るとおり、中国船による襲撃事件のような感じがしますね。
今回の更新におけるパターンではロシアの思惑を見抜いたことで我が国が下手に出て成功しましたが、現在の尖閣諸島をめぐる動きでは、我が国は果たしてどのような態度を取るべきでしょうか…。

感動しました
青田です。
青田です。

最近、高田屋嘉兵衛の『菜の花の沖』を読んで

感動しました。

最初は、淡路島の中でも話から、始まります。

高田屋嘉兵衛は、何も悪くないのに、苛め抜かれて、村八分になります。

それが淡路島の話からスタートしているのに

ラストは、世界史の話になっていきます。

ロシアが日本に通商を求めてきたのは、フランスのナポレオンによって、西の港が抑えられていたからであり、

高田屋嘉兵衛がなかなか、釈放されなかったのは、フランスのナポレオンがモスクワまで進撃して、ロシアにそこまでの意思決定能力をする余裕がなかったことには、驚きました。

日本の淡路島→世界。

という広がりが、世界はつながっているというのを感じました。

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欧米列強の接近 その3
1804年、ロシアの使節のレザノフがラクスマンの持ち帰った入港許可証を持って長崎に入港し、我が国との通商を求めました。幕府の入港許可証を持っている以上、レザノフは公的に認められた外交使節であり、通商をめぐる交渉を当然行うべきでしたが、幕府は半年間もレザノフを長崎の出島(でじま)に留(と)め置いたうえ、あろうことか鎖国を理由に門前払(もんぜんばら)いしました。

幕府の冷酷(れいこく)な対応にロシアは態度を硬化(こうか)させ、1806年から1807年にかけて樺太(からふと)や択捉島を攻撃しました。

ロシアの強硬(きょうこう)な態度に驚(おどろ)いた幕府は、1807年に蝦夷地をすべて直轄地として松前奉行(まつまえぶぎょう)に支配させ、東北の各藩にも沿岸(えんがん)の警備を命じました。

また、1808年には間宮林蔵(まみやりんぞう)に樺太やその沿岸を探検(たんけん)させましたが、間宮は調査の結果、樺太が島であることを発見しました。我が国では間宮の功績を称(たた)える意味で、樺太とロシアの沿海州(えんかいしゅう)との間にある海峡(かいきょう)を「間宮海峡」と名付けています。


(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)

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【2011/09/23 12:00】 | 欧米列強の接近
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ぴーち
こんばんは!

今度はコメント欄が開きました^^

ロシアとの現代までの北方領土問題は
日本のこの時期の対応の粗悪さが
大きく尾を引いて
いるのですね。


応援凸


ぴーちさんへ
黒田裕樹
> 今度はコメント欄が開きました^^

何度もご足労いただいて申し訳ございません。

> ロシアとの現代までの北方領土問題は
> 日本のこの時期の対応の粗悪さが
> 大きく尾を引いて
> いるのですね。

そうですね。領土に関しては「早い者勝ち」という一面があります。
この後、日本とロシアは我が国が開国時に条約を結びますが、その際に千島列島については択捉島以西が我が国の領土となりましたので、その理由としては今回の標柱を立てたことが大きく作用しているということも考えられますし、難しいところですね。

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欧米列強の接近 その2
1792年、ロシアの使節のラクスマン(またはラックスマン)が我が国の漂流民(ひょうりゅうみん)の大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)を伴(ともな)って根室(ねむろ)に来航し、我が国との通商を求めました。

ラクスマンの要求は応対した松前藩(まつまえはん)を通じて幕府に伝えられましたが、時の老中・松平定信は漂流民を受け取ったものの通商に関しては鎖国が我が国の祖法(そほう=先祖の代から守るべきしきたりのこと)であるとして聞く耳を持たず、どうしても通商を求めたいのであれば長崎へ行くようにと命令したうえで、長崎への入港許可証を与えました。

ラクスマンは許可証を受け取りましたが、長崎へは向かわずそのまま帰国しました。一方、ラクスマンの来航の事実を重く見た幕府は蝦夷地や江戸湾の海防の強化を諸藩に命じたほか、1798年には近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)や最上徳内(もがみとくない)に択捉島(えとろふとう)などを調査させるとともに、翌1799年には東蝦夷地を幕府の直轄地(ちょっかつち)としました。

ちなみに、鎖国はもちろん我が国の祖法でも何でもなく、こうした幕府の頑(かたく)なな姿勢が、幕末における我が国の未曾有(みぞう)の混乱をもたらすきっかけとなってしまうのです。

なお、我が国に帰還(きかん)した大黒屋光太夫に関するエピソードは、作家の井上靖(いのうえやすし)によって「おろしや国酔夢譚(おろしやこくすいむたん)」という長編小説に書き上げられ、映画化もされています。また、近藤や最上らは択捉島などを調査した際、択捉島に「大日本恵登呂府(えとろふ)」の標柱(ひょうちゅう)を立て、日本領であることをアピールしています。


(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)

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【2011/09/22 12:00】 | 欧米列強の接近
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現代社会にもありますね。
晴雨堂ミカエル
 本来の趣旨や目的を忘れて形骸化した法律が現代にも沢山ありますね。代表的なのは食管法。戦時の法律が長く戦後も生き続け、農業を衰退させた。
 90年代前半の米不足のときなんか、減反を進めながらアメリカやタイから米を輸入するという笑い話にもならない愚策。

晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹
仰るとおり、本来の目的を終えているのに惰性のごとくいつまでも続けているものが現代にもありますね。
おそらくは「利権」といううま味ががっちりと出来上がっているかもしれませんが、国益を考えれば迷惑至極です。


ぴーち
こんにちは!

祖法を頑なに守って来たからこそ
失われずに済んだものも
あれば、その思いが返って足かせとなり
思うように決断出来ない時がありますが、
鎖国は日本にとって後者の思いの方が強かった
訳ですね。
応援凸

ぴーちさんへ
黒田裕樹
仰るとおり、鎖国の状態になったことで17世紀までの世界侵略の犠牲にならずに済みましたので、そのメリットは大きかったと思います。

しかし、時が流れれば世界情勢も変わりますし、柔軟に対応しなければなりませんが、それを国レベルでできるのは政治だけです。

足かせがあったとはいっても国内だけの話ですから、やはり江戸幕府(定信以降)の責任は大きいと言わざるを得ないかもしれません。



HANA子
すでに役割を終えた慣習を絶対のものと勘違いして後生大事に守っているケースは今に始まった話じゃないんですね。
そのような勘違いは如何にして出来上がるのか……について考えてみたくなりました。

それにしても、この時……あるいはそれ以前の田沼時代に“現実的な対応”をキチンと出来ていたら、どんなその後の歴史が現れていたんでしょうか?
そちらにも興味がわいてきちゃいます。

HANA子さんへ
黒田裕樹
仰るとおり、今に始まった話ではありません。理由も大概は祖法でもないものを勝手に祖法にしていることですね。利権やなにやらが複雑に絡み合っていそうですが…。

あくまで仮定の話ですが、外国とも対等に張り合うことができて、また幕府も近代化によって緩やかに解体し、藩を含めた連合王国になっていたかもしれませんね。中央集権体制がもともと明治政府の命令を全国に行き渡らせるための苦肉の策でしたから。


わろ
幕府が、本格的に北方開拓してたらなー
って考えさせられる記事ですね^^;
あと、はぐれた日本人の返還を交渉材料にするのは王道なのですね。
万次郎しかり、古代では朝鮮が海賊に拉致された人を送り返すのをネタに援軍を平安時代?に交渉してきたのを思いだしました。


わろさんへ
黒田裕樹
仰るとおり、田沼時代に開拓していれば、すべてが後手に回る幕末のような事態にはならなかったと悔やまれますね。

漂流民返還を交渉材料にするのは万国共通と言えますね。
もちろんこの後も続きますが…。

大黒光太夫
ろっぽん
レンタルDVDで見ましたね。
 あのころ公式になっていないのも含めれば
けっこう漂流民が異国の船に救助されているんですね。
このころの思考というのは二者択一で拒止するか受け入れるかそういう思考しかないのかな
増税で赤字解消の考え方も二者択一思考で工夫しないあるいは先送り思考ですね。
ミカエルさんの言うように現代にも通じますね。

ろっぽんさんへ
黒田裕樹
仰るとおり、結構な人数の漂流民が救助されているようです。
当時の船の構造上、漂流しやすくなっていたのもあったのでしょうか。

人間は厳しい選択を迫られれば、ついつい先送りをしたくなるものですが、政治がそれをやってはいけません。歴史の残酷な結果が見えているのに、同じことを繰り返そうとするのは困ったものです。

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