さらに、1786年に後ろ盾(だて)になっていた将軍家治が死去してしまうと、政治に対する非難が殺到(さっとう)していた意次は老中をやめさせられ、失意のうちに1788年に亡くなりました。
15歳で11代将軍となった徳川家斉(とくがわいえなり)を補佐(ほさ)するかたちで、意次に代わって1787年に老中となったのが松平定信(まつだいらさだのぶ)でした。定信は吉宗の孫にあたり、将軍の後継者となる可能性もあったのですが、複雑な事情の末に白河藩(しらかわはん)の松平家(まつだいらけ)の養子となりました。
定信は自分が他家の養子となって将軍後継の地位を失ったのは、当時の権力者であった意次のせいであると邪推(じゃすい、悪いほうに推測すること)し、個人的に深く恨(うら)んでいました。そして自らが政治の実権を握ると、意次が幕府や我が国のために続けてきた様々な政策をことごとく打ち切りにしてしまったのです。
※哀(あわ)れにも老中を辞めさせられてしまった田沼意次ですが、その心情を「蓼食う虫も好き好き」でおなじみのクラチーさんが秀逸(しゅういつ)に描かれております。

(※明日[8月1日]からは第25回歴史講座の内容の更新を開始します)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
確かに意次という方は不運続きの人生で
幕を降ろしてしまったのでしょうけれど
政治的な押しは利いても、周りに対する配慮という点では欠如している部分があったのでは無いでしょうかね?
いくら政策的には正しい事を実行しようと
しても、人間的に信頼できない人物では
敵となる人が多く存在してしまうのも事実だとは思います。
その辺の意次という人物がどんな人なのか
存じませんので、興味が湧きました^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確かに意次という方は不運続きの人生で
> 幕を降ろしてしまったのでしょうけれど
> 政治的な押しは利いても、周りに対する配慮という点では欠如している部分があったのでは無いでしょうかね?
「成り上がり者」に対する周囲の冷たい目は相当なものだったと思います。
その中で配慮不足があった可能性も見られますが、家柄重視の面々との調和は、意次ほどの傑物であっても不可能だったといえるのかもしれません。
> いくら政策的には正しい事を実行しようと
> しても、人間的に信頼できない人物では
> 敵となる人が多く存在してしまうのも事実だとは思います。
> その辺の意次という人物がどんな人なのか
> 存じませんので、興味が湧きました^^
仰る一面は確かにありますね。政策がうまくいっている時には口にチャックをして、衰えだしたら「ほら見たことか」と言わんばかりに叩きまくる…。
信頼関係を築くのは、いつの世も大変ですよね。
ひゃー!
クラチー また貼られているー!
あばばばば…申し訳ないです!
ありがとうございます!
{{(0Д0)}}
大規模な天災があって、恨みや嫉妬を買って、
当時の風習や考え方に左右されて…。
運の強さも人生のうちという感じですよね。
…お、ついに「元祖・ポルポトくん」の登場ですか。
さぁて、どう料理されるのかなぁ。
(▼▼#)←
クラチーさんへ
黒田裕樹 > また貼られているー!
> あばばばば…申し訳ないです!
> ありがとうございます!
> {{(0Д0)}}
せっかくの力作ですから、有効に活用させていただきましたよ(^ω^)
> 大規模な天災があって、恨みや嫉妬を買って、
> 当時の風習や考え方に左右されて…。
> 運の強さも人生のうちという感じですよね。
仰るとおりと言わざるを得ないですね。
意次にはツキがなかった。そして、それがそのまま幕府のみならず我が国にも暗い影を落とすことになりました…つД`)・゚・。・゚゚・*:.。..。.:*・゚
> …お、ついに「元祖・ポルポトくん」の登場ですか。
> さぁて、どう料理されるのかなぁ。
> (▼▼#)←
いよいよ登場ですが、明日(8月1日)からは第25回歴史講座の更新を開始しますので、しばらくお休みをいただきます。ご了承下さいm(_ _)m