もっとも、農民に無理を強(し)いたことで幕府の財政は上向き、蔵(くら)の中には相当量の金銀や備蓄米(びちくまい)が集まりましたから、いわゆる「幕府のための改革」としては成功したのかもしれません。
ところで、天領での一揆は吉宗の死後も治まる気配(けはい)がなく、後を継(つ)いだ9代将軍の徳川家重(とくがわいえしげ)も散々に悩まされました。そんな光景を静かな目で眺(なが)めていた、家重に若い頃から仕えていたある家臣は吉宗による「重農主義」の限界を実感していました。
その家臣は後に出世を重ね、将軍の側用人(そばようにん)と老中(ろうじゅう)とを兼任することによって政治の実権を握ると、過去の反省から「重商主義」に主眼を置いた政治に切り換えることによって我が国に好景気をもたらし、その開明的な政策は我が国の自主的な開国をもたらす一歩手前まで行きました。
その人物こそが田沼意次(たぬまおきつぐ)なのです―。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
吉宗に経済面で的確な助言が出来る家臣は
この当時は存在しなかったのでしょうか。
それとも居たとしても、吉宗の妄信的な重農主義の考えの元では、誰の意見も耳に入れない程だったのでしょうか。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 吉宗に経済面で的確な助言が出来る家臣は
> この当時は存在しなかったのでしょうか。
> それとも居たとしても、吉宗の妄信的な重農主義の考えの元では、誰の意見も耳に入れない程だったのでしょうか。
おそらく後者だと思いますね。
将軍自らが政治を行うということは独裁者でもありますから、自分の考えこそ絶対だったのでしょう。
確かに幕府の財政は潤いましたが、農民を中心に多くの人々の恨みを買ったことによるダメージも大きかったと思われます。