さらに、1786年に後ろ盾(だて)になっていた将軍家治が死去してしまうと、政治に対する非難が殺到(さっとう)していた意次は老中をやめさせられ、失意のうちに1788年に亡くなりました。
15歳で11代将軍となった徳川家斉(とくがわいえなり)を補佐(ほさ)するかたちで、意次に代わって1787年に老中となったのが松平定信(まつだいらさだのぶ)でした。定信は吉宗の孫にあたり、将軍の後継者となる可能性もあったのですが、複雑な事情の末に白河藩(しらかわはん)の松平家(まつだいらけ)の養子となりました。
定信は自分が他家の養子となって将軍後継の地位を失ったのは、当時の権力者であった意次のせいであると邪推(じゃすい、悪いほうに推測すること)し、個人的に深く恨(うら)んでいました。そして自らが政治の実権を握ると、意次が幕府や我が国のために続けてきた様々な政策をことごとく打ち切りにしてしまったのです。
※哀(あわ)れにも老中を辞めさせられてしまった田沼意次ですが、その心情を「蓼食う虫も好き好き」でおなじみのクラチーさんが秀逸(しゅういつ)に描かれております。

(※明日[8月1日]からは第25回歴史講座の内容の更新を開始します)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
確かに意次という方は不運続きの人生で
幕を降ろしてしまったのでしょうけれど
政治的な押しは利いても、周りに対する配慮という点では欠如している部分があったのでは無いでしょうかね?
いくら政策的には正しい事を実行しようと
しても、人間的に信頼できない人物では
敵となる人が多く存在してしまうのも事実だとは思います。
その辺の意次という人物がどんな人なのか
存じませんので、興味が湧きました^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確かに意次という方は不運続きの人生で
> 幕を降ろしてしまったのでしょうけれど
> 政治的な押しは利いても、周りに対する配慮という点では欠如している部分があったのでは無いでしょうかね?
「成り上がり者」に対する周囲の冷たい目は相当なものだったと思います。
その中で配慮不足があった可能性も見られますが、家柄重視の面々との調和は、意次ほどの傑物であっても不可能だったといえるのかもしれません。
> いくら政策的には正しい事を実行しようと
> しても、人間的に信頼できない人物では
> 敵となる人が多く存在してしまうのも事実だとは思います。
> その辺の意次という人物がどんな人なのか
> 存じませんので、興味が湧きました^^
仰る一面は確かにありますね。政策がうまくいっている時には口にチャックをして、衰えだしたら「ほら見たことか」と言わんばかりに叩きまくる…。
信頼関係を築くのは、いつの世も大変ですよね。
ひゃー!
クラチー また貼られているー!
あばばばば…申し訳ないです!
ありがとうございます!
{{(0Д0)}}
大規模な天災があって、恨みや嫉妬を買って、
当時の風習や考え方に左右されて…。
運の強さも人生のうちという感じですよね。
…お、ついに「元祖・ポルポトくん」の登場ですか。
さぁて、どう料理されるのかなぁ。
(▼▼#)←
クラチーさんへ
黒田裕樹 > また貼られているー!
> あばばばば…申し訳ないです!
> ありがとうございます!
> {{(0Д0)}}
せっかくの力作ですから、有効に活用させていただきましたよ(^ω^)
> 大規模な天災があって、恨みや嫉妬を買って、
> 当時の風習や考え方に左右されて…。
> 運の強さも人生のうちという感じですよね。
仰るとおりと言わざるを得ないですね。
意次にはツキがなかった。そして、それがそのまま幕府のみならず我が国にも暗い影を落とすことになりました…つД`)・゚・。・゚゚・*:.。..。.:*・゚
> …お、ついに「元祖・ポルポトくん」の登場ですか。
> さぁて、どう料理されるのかなぁ。
> (▼▼#)←
いよいよ登場ですが、明日(8月1日)からは第25回歴史講座の更新を開始しますので、しばらくお休みをいただきます。ご了承下さいm(_ _)m
この飢饉は当時の年号から天明の大飢饉(てんめいのだいききん)と呼ばれ、1782年から1788年まで長く続きました。なお、浅間山と同じ年の1783年にはアイスランドのラキ火山が同じように噴火しており、天明の大飢饉の理由の一つになったとともに、北半球全体が冷害(れいがい)になったことで、1789年のフランス革命の遠因(えんいん)にまでなったと考えられています。
いずれにせよ、天明の大飢饉によって東北地方を中心におびただしい数の餓死者(がししゃ)が出てしまいました。また、飢饉によって年貢(ねんぐ)が払(はら)えない農民による一揆(いっき)や、都市部での米の売り惜しみに対する打ちこわし(=天明の打ちこわし)が多発しました。
この当時は「天災が起きるのは政治を行っている人間のせいである」という考えが信じられていたので、これらの責任の一切を意次が背負わなければならなかったのです。




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ぴーち こんにちは!
そうでしたか。やはりどっか~んの方でしたか(^_^;)
それにしても、今も昔も自然災害があると時の権力者に怒りのはけ口が向けられてしまうとは、理不尽な話ではありますが、成り行き上、仕方のない事なんでしょうね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > そうでしたか。やはりどっか~んの方でしたか(^_^;)
> それにしても、今も昔も自然災害があると時の権力者に怒りのはけ口が向けられてしまうとは、理不尽な話ではありますが、成り行き上、仕方のない事なんでしょうね。
不運としか言いようがないですね。
仰るとおり不満のはけ口としてやり玉に挙げられるのは致し方ないかもしれませんが、それが必ず正しい行動とも限りません。過去の歴史がそれを証明しています。
オバrev これって、綱吉の時と同じ展開ですか?
しかし此頃物流はどうだったんでしょうか。
東北で飢饉があれば、他の地方から食料を送ることができていたら、その被害もかなり防げた気がします。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > これって、綱吉の時と同じ展開ですか?
残念ながらその通りですね。
自然現象で政権を去らねばならないことがどれだけ無念だったでしょうか…。
> しかし此頃物流はどうだったんでしょうか。
> 東北で飢饉があれば、他の地方から食料を送ることができていたら、その被害もかなり防げた気がします。
意次は実際に米の物流に神経を配っていました。ところが、それをぶち壊しにした人間がおりまして…。
いずれまた紹介します。
また、西洋医学の解剖書(かいぼうしょ)を訳した解体新書(かいたいしんしょ)が前野良沢(まえのりょうたく)や杉田玄白(すぎたげんぱく)らによって完成した(1774年)のも田沼時代の頃ですし、エレキテルを復元するなど物理学の研究を進めた平賀源内(ひらがげんない)や、江戸時代の俳諧(はいかい)の巨匠(きょしょう)の一人であり、また画家でもあった与謝蕪村(よさぶそん)もこの頃の人物です。
このように画期的かつ斬新(ざんしん)な政治を行ったことで経済や文化を発展させ、幕府財政の好転をもたらした意次でしたが、これらの政策の展開を苦々(にがにが)しい思いで見ている人々がいました。
彼らは商人の力を借りることは恥(はじ)であるとする「儒教と商行為」の呪縛から逃れられない人々や、元々は紀州藩の足軽に過ぎなかった家の男が老中まで出世しやがるとは何事だ、この「成り上がり者」めがと意次を嫉妬(しっと)の炎で見つめる旧来(きゅうらい)の身分の高い人々でした。
また、田沼時代の政権末期の頃までに意次は庶民(しょみん)から大きな反発を受けていたのです。なぜそんなことになったのでしょうか。賄賂の横行(おうこう)によって政治が腐敗(ふはい)したからだと思いがちですが、意次個人がその原因とするにはあまりにも酷(こく)な「自然現象」が本当の理由でした。




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クラチー だんだんクライマックスに近づいてますね。
うおお~、最後の一文嫌だよぅ悲しいよぅ。
田沼さんは奇人変人が好きだから、
「個性的な人が自由に表現できた→様々な文化登場」
みたいな流れかな、と思いますね。
(^w^)
しかし、源内さんとの絡みは資料によってバラバラなんですよね。
「殺人で捕まった源内をコッソリかくまった」とか「顔見知りになったが、さほど交流しなくなっていた」とか…。
どっちかハッキリしないと妄想できないだろー!
(▼3▼)←
クラチーさんへ
黒田裕樹 > だんだんクライマックスに近づいてますね。
> うおお~、最後の一文嫌だよぅ悲しいよぅ。
そうですね(´・ω・`)
事実は曲げられませんから、この後に悲しい結末が待っています…。
> 田沼さんは奇人変人が好きだから、
> 「個性的な人が自由に表現できた→様々な文化登場」
> みたいな流れかな、と思いますね。
> (^w^)
言われてみれば確かにそうですね。
一般とは少々違う感覚だからこそ、あれだけの改革ができたのかもしれません。
> しかし、源内さんとの絡みは資料によってバラバラなんですよね。
> 「殺人で捕まった源内をコッソリかくまった」とか「顔見知りになったが、さほど交流しなくなっていた」とか…。
> どっちかハッキリしないと妄想できないだろー!
> (▼3▼)←
平賀源内自身も謎の多い人物ですからね。
以前に水戸黄門の枠で西○敏行が源内を演じていたのには笑ってしまいましたが(爆)。
ぴーち こんにちは!
そうですか。。田沼意次の悪名高き噂というのは、
彼の活躍をよく思わなかった周りの輩の手によっていわば、隠蔽された訳なんですね。
自然現象とは。。ぐらぐら・・・の事でしょうか?それともどっかーーーん!?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
「出る杭は打たれる」のはいつの時代も変わりませんね(´・ω・`)
自然現象は…実は世界規模なんですよね…。
意次は工藤平助の意見を採用して、それまで松前藩(まつまえはん)に経営を任せていた蝦夷地の直轄(ちょっかつ)を計画しました。さらに1785年には最上徳内(もがみとくない)らを蝦夷地に派遣(はけん)して調査させ、当時の民間商人が蝦夷地でアイヌを通じてロシアと交易していたのを知ると、意次はこれらの交易も幕府の直轄にしようと考えました。
また意次は、アイヌの人々の生活の向上を目指して農作業を教えようとまで計画するなど、アイヌの自立も目指していました。これは、それまで松前藩がアイヌの生活を安定化させると、藩の財政を支える鮭(さけ)や毛皮などをとって来なくなるからという身勝手な理由で農民化を禁止していたのとは全く正反対の政策でした。
意次の蝦夷地に関する政策は実に開明的であり、またロシアとの交易も視野に入れていたという事実は、我が国の自主的な開国をうながすことにもつながり、吉宗によってまかれたタネが意次の政策で芽を出して成長し、大きな花を咲かせる可能性を期待させました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんばんは!
それまで肩身の狭い思いで生きていたアイヌの人々はロシアとの活発な公益をしていたお陰で、幕府にもその功績が認められたという事ですか・・。
またその事にいち早く気づき着手した意次の素早い行動力は、人よりも優れた先見の明があったからこそですね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、松前藩のもうけの為だけにこき使われる存在ではなく、ロシアと幕府との交易の橋渡し役として意次はアイヌに期待をかけていたのだと思います。先見の明がなせる業ですよね(^^♪
アイヌ☆アイヌ☆
クラチー おお、ついに蝦夷地が!
アイヌの人って「ヒゲモジャ男」「ブス面女」で描かれている絵画とか見かけるから、
差別が露骨に表現されているんですよね。
まったく、田沼さんを見習えぃ!
(-m-#)
クラチーさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、アイヌに対する偏った表現が差別を助長させている一面は否定できませんよね。
「同じ人間だから」とアイヌと日本人の区別をしなかった田沼意次の政策は素晴らしいと思います。ただ、その後が…。
干拓事業の主な目的は新たな農地の開発でしたが、付近を流れる利根川(とねがわ)からの水路(すいろ)を開削(かいさく)して、江戸への物資輸送の近道を造ることも大きな目標でした。この事業が完成すれば、江戸と北方とを結ぶ船の航路の大幅な短縮が見込まれ、商品流通の活性化が期待されていましたが、無念にも1786年に起きた大洪水によって、干拓は失敗に終わってしまいました。
一方、意次は長崎における貿易にも力をいれました。それまで縮小気味だった貿易の規模を拡大し、金銀を積極的に輸入するという、いわゆる外貨(がいか)の獲得を目指したのです。しかし、輸入の量を増やそうと思えば、それに見合うだけの輸出量を確保しなければいけません。
そこで意次は、輸出品として国内で産出量が増えていた銅(どう)や、海産物(かいさんぶつ)としてイリコ(ナマコの腸を取り出して煮た後に乾燥させたもの)やホシアワビ(アワビの身を取り出して煮た後に乾燥させたもの) 、フカノヒレ(サメのヒレを乾燥させたもの)といった俵物(たわらもの)の使用を促進(そくしん)しました。外貨の獲得のために特産物の増産をはかることも、重商主義による一つの成果といえます。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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HANA子 現在の日本では町おこし村おこしなどの手段として新しい特産品の開発が行われていますし、貿易の話としてみれば新技術の開発と製品化っていうのは絶えず行われていますものね
この時代、幕府の財政再建を企図した外貨獲得の手段としても特産品の開発が行われていたということとこれらは同じ意味合いを持ってるように思います
そう考えると経済や政治の根っこというものは過去と現在、そしておそらくは未来においても大きく変わるものではないのかなとも思いました
HANA子さんへ
黒田裕樹 特産品頼りは確かに今も昔も変わっていませんね。
それだけ重要な意味を持つということなのでしょうし、そこにいち早く気づいた幕府と、推奨した意次の政治手腕の高さがうかがえます。
オバrev 我々零細企業は、規模も小さく資金的な余裕もないので、一気に大きく投資して需要をかっさらって行く大企業のような事はできません。
大企業に飲み込まれないためには、新田開発もしながら自分の強みを生かした特産品作りというのが生命線だと言われていますが、その成果について既に江戸時代に実証されていたとは驚きです。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
自己の強みを生かした政治ができるかどうかがカギを握ると分かり、それを実行する。
こんな身近な成功例があるのですから、歴史を学ぶことがいかに重要かが分かるというものです。
干拓
ろっぽん ここに来る前に浅野さんという中学校の先生のブログで知ったのですが、江戸の大半が干拓だそうですね 埼玉の浦和まで浦が広がった江戸すなわち河の出口という意味そうですね
しかしFCの投稿は、面倒くさいですね。ここまで2重にする必要があるんですかね
ろっぽんさんへ
黒田裕樹
なるほど、地名をたどればどこまでかかつての陸地ががよく分かるんですね。東京の地名にやたらと「谷」や「台」がおおいのも、かつては小山だらけだったという名残でしょうし。
コメントの件、ご迷惑をおかけします。私の場合、内容が公序良俗に反しないかどうかどうかを判断するために承認制にしていますので、ご理解いただきますようお願いします。
東日本では小判のような金貨が中心の金遣(きんつか)いで、両(りょう)・分(ぶ)・朱(しゅ)といった単位で通用していたのに対して、西日本では銀貨が中心の銀遣(ぎんつか)いであり、しかも銀を貫(かん)や匁(もんめ)といった重さの単位で量をはかって通用させる方法を採用していました。
このため、東西で取引を行おうと思えば両替をしなければならず、また金と銀との相場が必ずしも一定しなかった(これを変動相場制といいます)ために、金銀交換の制約になっていたのです。そこで意次は1765年に明和五匁銀(めいわごもんめぎん)をつくり、実際の質や量に関係なく5匁の銀として通用させ、明和五匁銀を12枚、つまり60匁で金1両と交換できることとして、金と銀とを初めて一本化させましたが、残念ながらあまり流通せずに終わりました。
しかし、あきらめなかった意次は1772年に南鐐弐朱銀(なんりょうにしゅぎん)をつくり、朱(しゅ)という金の単位をもつ銀貨を流通させることに成功しました。南鐐弐朱銀8枚が金1両と同じ価値となり、我が国での通貨の一本化がさらに進められることになりました。なお、南鐐とは上質の銀という意味です。




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ryo 現代でも政府紙幣を発行するから使ってくださいと言われてもすぐには信用できないですから。そんな中で通貨を統一させるという大事業を成し遂げた田沼意次という人のすばらしさをますます実感させてくれます。
ryoさんへ
黒田裕樹 新しい貨幣や紙幣を発行する場合は政府の信用第一ですからね。
それを実現させた意次の政治力は仰るとおり極めて高かったと思います。
ぴーち おはようございます!
金銀は変動相場であったので、ご苦労があったにもかかわらず、それを諦めずに朱銀なるものを新たに作り、一本化を図ることに成功したんですね。執念がなせる技でしょうか!素晴らしいですね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、意次の信念がなせるクリーンヒットだと思います。
国益にかなうのでさえあれば、政治家はあきらめずに頑張ることは大いに結構なのですが…。
田沼時代の頃までには、物品ごとに仕入れから販売までの独自のルートが確立されており、複数の同業の商人によって運営されていました。意次は、これら物品のルートごとに税を、すなわち物品ごとに流通税(りゅうつうぜい)をかけることで、「儒教と商行為」の影響を和らげようとしたのです。
このような発想の転換に対して、商人たちは「独占的に流通ルートを認めてくれるのならば」と条件付きで税を支払うことに応じました。こうして幕府と商人たちとの思惑(おもわく)が一致したことによって、営業の独占権を与えられた株仲間(かぶなかま)が広く幕府の公認を受けることになりました。
株仲間が扱(あつか)った商品は油や紙にロウソク、綿などの日用品や、銅や鉄などの金属が中心であり、江戸では十組問屋(とくみといや)、大坂では二十四組問屋(にじゅうしくみといや)が結成されました。また、彼らから集められた運上(うんじょう)や冥加(みょうが)によって幕府財政も潤(うるお)い、商業の繁栄(はんえい)は景気を上向かせる要素にもなりました。




いつも有難うございます。
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クラチー 法人税の元祖、来たぁー!
(大きくガッツポーズ)
しかし、宗教的なものはやはり絡んでくるんですねぇ。
政治と宗教は混ぜられないのに、
変なところでこういう規制がかかってくるとは。
世の中って面倒というか難しい…。
(--;)
いやぁ、田沼さんはやはり、
世間への目も度胸も強く大きい立派な政治家ですね♪
(^///^)
ぴーち こんばんは!
現代の消費税などの制度は田沼意次の案が
脈々と受け継がれているんですね^^
応援凸
クラチーさんへ
黒田裕樹 ガッツポーズをいただいて光栄です(^o^)/
政治と宗教…まさに政教分離ですね。
江戸時代は政教分離が進んだ時代として知られていますが、精神面ではむしろ儒教と同化していたといえるかもしれません。
田沼意次の功績はこれからも続きますよ(^^♪
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 現代の消費税などの制度は田沼意次の案が
> 脈々と受け継がれているんですね^^
そうですね。流通税を確実に徴収するというあたりはさすがだと思います。
一般的には敬遠されがちな消費税ですが、確実な財源確保というメリットもありますからね。
重農主義ではもはや幕政が機能しないということを悟(さと)った意次は、自(みずか)らが政治の実権を握ると現実的な重商主義(じゅうしょうしゅぎ)に政治の姿勢を切り替えるとともに、開明的な政策を次々と実行してきました。
意次がまず行ったのは、幕政における予算の編成でした。現代では当然の予算制度ですが、江戸幕府においては、それまでは必要な際に幕府の金蔵(かねぐら)から金銀を引き出していたのです。このようないわゆるドンブリ勘定(かんじょう)を続けていては、いつまで経(た)っても経費節減はできません。そこで、意次の時代になって初めて予算制度が成立したのですが、費用の割合はどうだったのでしょうか。
意次が自己の保身を図ろうとすれば、当然将軍家や大奥の費用を多めに計上すると思いますよね。ところが史実は全く逆であって、年を経(へ)るごとに減らされていきました。その一方で、町奉行などの民政に関する費用は据(す)え置かれていますから、結果としてかなりの経費削減に成功していることになります。
本当に幕府のためになる政治を目指すのであれば、将軍家や大奥のご機嫌を取ることなく、思い切った手段を実行する―。意次の「政治家」としての優秀さがうかがえる政策の一つですね。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
昨日は大勢の方のご参加があったとのこと、
良かったですね^^
お疲れ様でした!
田沼意次という方は、本当は国民の為になるような政治に心血を注いだ
方だったのですね。続きがまた楽しみです♪
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 昨日は大勢の方のご参加があったとのこと、
> 良かったですね^^
> お疲れ様でした!
ありがとうございます。おかげさまで今日(24日)も暑い中を清々しい思いで東京観光を続けております。
> 田沼意次という方は、本当は国民の為になるような政治に心血を注いだ
> 方だったのですね。続きがまた楽しみです♪
そうなんですよね。誤解された政治家・田沼意次の名誉回復を今後も目指したいと思います。
こんばんは
ryo 先生の動画を見て、さらに復習の意味でもブログを拝見させていただいています。田沼意次という人は素晴らしい人ですね。平成の田沼意次は現れるのでしょうか。それとも当てはまる人っていると思いますか。
J時永 昨日の東京講演お疲れ様でした!!
先生の生授業を受けることができてとてもうれしいです^^
先生が昨日扱われた場面は学校ではそこまで詳しくやりませんでしたし、私が勉強していてもただ表面上の史実だけを追っていました。そういうことを考えれば先生の授業は大変斬新で興味深いものでした。
「歴史のif」について考えるというのはとても難しいことだと思います。その時に何が起きるかは予想できても現代までどのような影響を及ぼすかいうの想像力だけでなく論理の飛躍を回避するスキルも必要です。それを昨日の講義のように非常に整理された形に仕上げることができる黒田先生を非常に尊敬しますv
私はまだ浅学の身ですがこれからもどうぞよろしくお願いします。また東京にいらっしゃるときはどうぞお知らせください!
それでは^^/
ryoさんへ
黒田裕樹 以前から書かせていただいておりますように、田沼意次ほど誤解を受けると同時に不当な評価しかなされていない歴史上の人物はいないと思っております。
平成の田沼意次ですか。救国という意味では決して人材がいないわけではありません。ただ、彼らを国政の舞台に送り出せるだけの支持が現状では不足しているかもしれませんね。国民が変わらなければ、国の命運も変わりませんから。
J時永さんへ
黒田裕樹 こちらこそお世話になりました(^^♪
私の講座(今の高校での授業にも言えることですが)では表面的な史実を紹介するよりも、その過程についてじっくり時間をかけて説明しています。目先の歴史用語の羅列をいくらそろえたところで、流れを理解した歴史の知識にはどうあがいてもかないませんからね。
「歴史のif」については確かに万民を納得させる説明や本人の理解が必要ですから難しいといえますね。でも、だからこそやりがいがあるというものですよ(^ω^)
東京講座は今後も続けていきます。また是非講座でお会いしましょう(^O^)/
今年4月より現役高校教師(期限付常勤講師)となったことで、しばらくの間「本物の歴史講座」を休ませていただいておりましたが、いよいよ7月に復活します!
第25回目となる今回は「風雲・関ヶ原」と題して、歴史に名高い「関ヶ原の戦い」を題材に、様々な人間模様や「歴史のif」について探っていきたいと思います。例えば…
・豊臣家の「落日」は避けられなかったのか?
・徳川家康は関ヶ原に「勝つべくして勝った」のか?
・もし西軍が勝っていれば我が国はその後どうなったのか?
関ヶ原の戦いについて探れば探るほど、現代にもつながる大きな歴史の流れが見えてきます。歴史を知ることは自分の知識のみならず、人生の幅を広げることにもつながります。
今回は大阪(7月16日)・東京(7月23日)の両方で開催しますので、是非とも多くの皆様のご参加をお願いいたします!
第25回黒田裕樹の歴史講座
「風雲・関ヶ原」
日時:(大阪)平成23年7月16日(土) 午後6時より
(東京)平成23年7月23日(土) 午後3時30分より
(※大阪と東京で開始時間が異なります。ご注意下さい)
場所:(大阪)大阪市立総合生涯学習センター
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
(東京)スター貸会議室 浅草
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:いずれも無料(カンパを受け付けます)
16日の大阪講演は12名の皆様がご参加下さいました。ご参加の方々から大変有難いお言葉をいただきまして、東京講演に向けての何よりの励みになりました!
ブログをご覧の皆様(特に東京会場においては関東在住の方々)も、よろしければ是非ご参加下さい。この記事のコメント欄をご活用いただければと思います。また、今回の講座の内容については、これまでと同様に後日にはブログ上で映像とともに発表しますので、是非ご覧になって下さい。
久々の講座を記念して、私とブロとものクラチーさんから今回も素敵な画像をいただきました。有難うございます!
(※クラチーさんのブログについては、下線部からご覧いただけます。)





いつも有難うございます。
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青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
『風雲関ヶ原』は、必ず、参加しますね。
『関ヶ原の戦い』について、ドラマでは
非常に軽く描かれることが多く、個人的には
不満を感じていました。
だいたいのドラマの描き方としては
① 徳川家康の勝利は、最初から、決まっていた。(根回しで)
② 石田三成が、愚か者だった。
③ 小早川秀秋の裏切りで、たった1日に終わったショボイ戦い。
徳川家康の能力>石田三成の人望のなさ
という偏った描き方がされていますが、
それなら、いくつかの疑問が残りますよね。
① 石田三成に人望がないのなら、なぜ、天下を
二分する西軍勢力が出来たのか。
どこの大名も生き残りたいのだから、徳川家康の実力を認めていたら、西軍という大勢力は、出来なかったはず。
② 本当の小早川秀秋の裏切りだけで、勝敗は決まったのか。
実は、西軍の総大将は、毛利輝元であり、大阪城にいました。
ということは、毛利輝元の出方によっては、関ヶ原の戦い後の展開は、変わっていたはず。ということは、関ヶ原の戦いだけで、徳川家康の全ての勝利は、決まったわけではないはずでは。。
作家の堺屋太一さんは、石田三成の視点から、観た『関ヶ原の戦い』で、石田三成を高く、評価していました。
と思います。このへんも黒田先生の講義で、聞けそうですね。
青田さんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
仰るとおり、関ヶ原の戦いには様々な見方があると思います。
ただ、戦い全般を紹介するのはとても時間が足りませんから、ピンポイントで紹介することになりそうですね。
ご期待下さい!
石田三成
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
石田三成が愚か者だから、関ヶ原の戦いで
西軍が負けたというのは、
以前の黒田先生の講座『朝鮮出兵』の話に似ているような気がします。
つまり、最初は、勝てると思って西軍に属していた大名が生き残るために、
『本当は、東軍に味方したかったけど、三成にそそのかされた。』という言い訳です。
青田さんへ その2
黒田裕樹 いわゆる「石田三成愚か者史観」が現代においてもあちらこちらにはびっこているようですね。
青田さんの疑問に答えられるだけの内容を目指したいと思いますが、あまりネタバレにならないように気を付けないといけませんね(^^ゞ
失礼しました
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
つい、興奮してしまいネタバレまで、行きそうになりました。
失礼します。
後は、講座のお楽しみですね。(●^o^●)
青田さんへ その3
黒田裕樹 その通りでお願いします(^^ゞ
私自身も楽しみですね。
ぴーち こんにちは!
そうですか!それは黒田さんを支持なさっている皆様にとって朗報ですね!
是非、頑張っていただきたいと思います^^
凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > そうですか!それは黒田さんを支持なさっている皆様にとって朗報ですね!
> 是非、頑張っていただきたいと思います^^
有難うございます(^^♪
どうにか時間を作ることができるようですので復活させました。
一人でも多くの皆様にご参加いただきたいですね。
今晩は☆
いねむり姫 コメントありがとうございました☆
私も毎日の様にストーカーのごとく、
訪問させて頂いていました♪♪♪
関ヶ原の戦いは「1600年」という事しか知らない、
日本史が「1」のいねむり姫でございます(笑)
関ヶ原の戦いは奥が深いのですね。
ちっとも知りませんでした。
(お恥ずかしい限りです)
私がもしも黒田先生の社会科を習ってれば、
日本史も楽しく勉強出来たんだろうな・・・と
思いました★
お忙しい中での東京公演は、
多くのブロガーさんが喜んでいますよ♪♪♪
いねむり姫さんへ
黒田裕樹 こちらこそお言葉有難うございますm(_ _)m
社会科教師の毎日は「いかにして生徒に分かりやすく歴史を教えるか」という奮闘の日々ですが、このブログで培った経験が生かされているなぁと実感しています。
そんな流れの中でいねむり姫さんにもお気に召していただけたのであれば嬉しいですね(^^♪
東京講演は今回で4度目になります。関東の皆様にも喜んでいただけて、本当に励みになります(^_^)v
徳川吉宗が1745年に将軍を退位した後に子の徳川家重が9代将軍となると、家重に若い頃から仕えていた田沼意次が次第に重用(ちょうよう)されるようになりました。家重の子の徳川家治(とくがわいえはる)が10代将軍となった後も変わらぬ信頼を得た意次は出世街道を歩み、将軍の側用人から1772年には老中を兼任しました。
意次が実質的に政治の実権を握った十数年間を田沼時代(たぬまじだい)と呼びますが、田沼時代といえば一般的に「賄賂政治(わいろせいじ)」に代表されるダーティーな印象を強く受けるようです。しかし、これは田沼時代に対する一面的な評価でしか有り得ません。
実は、江戸幕府の頃には賄賂を取ることはむしろ当たり前という感覚がありました。なぜなら、賄賂を取ればそれだけ、賄賂を贈る側の諸大名や商人の勢力を削(そ)ぐことができるからです。従って、幕府の権力を保つためという口実のもとに、意次以外の幕閣(ばっかく、幕府の首脳のこと)も積極的に賄賂を受け取っていたのが現実でした。
ちなみに清廉潔白(せいれんけっぱく、心が清くて私欲がなく、後ろ暗いところのないこと)で知られる松平定信(まつだいらさだのぶ)も、幕閣入りを目指して意次にしきりに賄賂を贈っていたのは有名な話です。
※今回からの田沼時代の始まりを記念して、以前に掲載しました「蓼食う虫も好き好き」でおなじみのクラチーさんに描いていただいた素晴らしい画像を再び載せておきます。

右側が田沼意次、左側が松平定信ですね。
※そしてこちらはクラチーさんと同じくブロとものJ時永さんが描いて下さった田沼意次です。J時永さんは「にじゅうご」という素敵な歴史ブログを運営されておられますので、皆様もどうぞご覧になって下さい。





いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
講座の方はいかがでしたか?
田沼時代は、賄賂そのものが公然と行われていた事だったのですね(^_^;)
たしかに「賄賂」などと聞くとスキャンダラスな事ですものね。今でもマスコミが一番に飛びつきそうな話題ですが、そればかりでは無かったという事ですね^^
それでは応援凸
きゃー
クラチー 講演、お疲れ様でした!
ま、まさかあんなサプライズがあったとはむぬむぬ…!
ネ、ネタバレ禁止でしたね…ムグムグ。
(・人・;)
素晴らしい講演と「お土産」等くださり、
本当にありがとうございました!
…って、きゃー!また飾られている~。
(Д)゜゜
9月頃と言われていた田沼さん、
お早い登場になったんですね。
これからの内容が楽しみです、ドキワク♪
講演お疲れ様でした☆
いねむり姫 東京公演は14人もの方達の参加が
あったのですね☆
レポ楽しみしています(o^_^o)ノ
浅草寺の観光は楽しかったですか?
あそこはいつも活気で溢れて、
その場にいるだけで面白いですよね★
明日、帰られるんですよね??
まだ訪れていない東京の歴史あふれる
観光名所を楽しんで来て下さい♪♪♪
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 講座の方はいかがでしたか?
おかげさまで大成功に終わりました。有難うございます(^^♪
> 田沼時代は、賄賂そのものが公然と行われていた事だったのですね(^_^;)
> たしかに「賄賂」などと聞くとスキャンダラスな事ですものね。今でもマスコミが一番に飛びつきそうな話題ですが、そればかりでは無かったという事ですね^^
賄賂と言っても時代が違えば感覚も異なりますからね。
私たちが歴史の勉強で注意すべき点でもあります。
クラチーさんへ
黒田裕樹 > 講演、お疲れ様でした!
> ま、まさかあんなサプライズがあったとはむぬむぬ…!
> ネ、ネタバレ禁止でしたね…ムグムグ。
> (・人・;)
> 素晴らしい講演と「お土産」等くださり、
> 本当にありがとうございました!
ご参加下さって有難うございましたm(_ _)m
ネタバレの件、帰阪次第すぐにまとめますので、今しばらくお待ち下さい。
> …って、きゃー!また飾られている~。
> (Д)゜゜
> 9月頃と言われていた田沼さん、
> お早い登場になったんですね。
> これからの内容が楽しみです、ドキワク♪
ブログに華があっていいですよね(^^)v
田沼時代は月末まで続く予定ですので、どうぞご期待下さい(^^♪
いねむり姫さんへ
黒田裕樹 お言葉ありがとうございます。
レポートは帰阪次第まとめたいと思います。
浅草寺の活気は素晴らしいですね。
江戸の情緒を今に伝えているような思いがします。
せっかくの東京、大いに楽しみたいです!