鉱山業では、江戸時代初期には佐渡金山(さどきんざん)や生野銀山(いくのぎんざん)・石見銀山(いわみぎんざん)などからの金銀の生産が最盛期を迎えましたが、17世紀後半になると産出量が激減し、替わって銅が採掘(さいくつ)の中心となりました。
銅は幕府が管轄する足尾銅山(あしおどうざん)や、大坂の町人である泉屋(いずみや)が経営した別子銅山(べっしどうざん)などで採掘され、長崎貿易における輸出品や、急増する貨幣の鋳造(ちゅうぞう)に用いられました。なお、泉屋は現在の住友(すみとも)につながっています。
この他、砂鉄(さてつ)を採集して足踏(あしぶ)み式の送風装置(そうふうそうち)を持つ炉(ろ)を使用したたたら精鉄(せいてつ)が中国・東北地方を中心に行われ、生産された玉鋼(たまはがね)は商品として全国に普及(ふきゅう)し、農具や工具に加工されました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
この頃の日本の林業は盛んだったんですね。
戦後は、焼け野原になってしまった土地や、山林に繁殖力の強いアメリカ杉などを植林してしまったのが、長い目で見たときには最悪な選択でしたね。
アメリカのような広大な土地ではそれでも良いかも知れませんが、日本の様に国土が狭い国には本来、繁殖力の旺盛な植物は不釣合いだったんですよね。やはりその土地土地に見合った植物を植える事が、一番なんだと思いますね。それでもその当時は背に腹変えられない思いで、植林したのでしょうけれど。
それもこれも
戦争をした事が一番の元凶なんでしょうけれどね(^^ゞ
足尾の鉱山はこの頃が一番の最盛期だったんですね。ただ、後の鉱毒事件では悲惨な目に遭ってしまったのは残念な事ですが。。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 林業については、確かに即効性を求めたあまりに道を誤った感がありますね。戦争の影響は様々な場面に広がっていることを改めて思い知らされます。
足尾銅山は、仰るとおり明治の悲劇的な事件をもたらしてしまいます。難しい問題ですね。
ろっぽん 高校の時、地元の細倉鉱山史を調べてその採掘工具や精錬技術が考えている以上に高度なのに驚いた記憶があります。江戸時代は金山は幕府の直轄でしたが。
細倉は鉛鉱山でしたので仙臺藩が管轄していました
が、0.1%の金を含有しており、高度な精錬技術によってやみ金を隠し金として運用、近見商人が今でいうマネーロンダリングをやって仙台藩の隠し金にしていました。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 なるほど、高度な精錬技術が隠し金につながっていたのですか。
これもまた技術がもたらした副産物ですね。