肥料はそれまでの刈敷(かりしき)や下肥(しもごえ)のほかに、イワシを干(ほ)して乾燥(かんそう)させた干鰯(ほしか)や、アブラナなどの農作物から油を搾(しぼ)り取った残渣(ざんさ、残りかすのこと)である油粕(あぶらかす)などが用いられ、これらの新しい肥料は農家がお金を出して購入したことから金肥(きんぴ)と呼ばれました。
この時代には農学も発達して、17世紀末に著(あらわ)された宮崎安貞(みやざきやすさだ)の「農業全書(のうぎょうぜんしょ)」など農書(のうしょ)が広く読まれました。
作物としては、米などの他に全国各地で商品作物(しょうひんさくもつ)が盛(さか)んに栽培(さいばい)され、農民の重要な副収入となりました。桑(くわ)・漆(うるし)・茶・楮(こうぞ)の四木(しもく)や、麻(あさ)・藍(あい)・紅花(べにばな)の三草(さんそう)が代表的な商品作物です。
この他、それまでは輸入に頼っていた木綿(もめん)が国内で栽培されるようになったり、養蚕業(ようさんぎょう)が広がって生糸(きいと)の生産が盛んとなったりしました。特に生糸は幕末における重要な輸出品となるまでに発達しました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
この頃から、地方ぞれぞれの特色を生かした
作物が盛んに作られ初めたのですね。
それにしても、後家に対して賃金を不払いにするなど、人間はいつの時代も、どこに国でも
自分よりも少しでも何か欠けていると見なすと下に見る生き物で、身分階級を作りたがるものなんですね(^_^;)
弱い立場の者をもっと窮地に追い込むことで、優越感に浸るなど非人道的で、私からすれば、言語道断な話です。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり商品作物がこれだけ作られているのですから、いわゆる「貧農史観」があてにならないのがよく分かりますね。
「後家倒し」は確かに現代の感覚から見れば噴飯ものですね。ただ、当時は綱吉の治世以降は「思いやり社会」ですから、後家さんにも他に向いている仕事があったのではないでしょうか。
米
ろっぽん なぜこの時代、米が通貨の代用になり武士の禄になり
何万石と大名の経済力の指針なったのでしょうか
年貢として他の作物だった場合はなかったのでしょうか。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 石高制は秀吉の太閤検地で各大名の石高が確定した際に採用されました。その後、江戸幕府も各大名の所領を把握しやすいということでそのまま継続したという一面があります。
加えて朱子学を幕府の正式な学問として採用したことで、儒教に由来する重農主義が石高制に拍車をかけたという見方もありますね。実際には貨幣経済が発達したにもかかわらず、表面上はそのまま石高制が継続された。この二重構造が幕府にもたらした悪影響は計り知れないものがあると思います。
オバrev 備中鍬、脱穀用の千歯扱、選別用の唐箕や千石通しって、昔実家にあったような気がしてますけど(^_^;)ドンナイナカヤネン?
それだけ江戸時代の技術が素晴らしかったのか、進歩がなかったのかは分かりませんが、どうなんでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 現在のような機械設備が発達したのは主に戦後ですからね。農作業を手ずから行っておられたのであれば珍しくはないと思いますよ。
仰るとおり、江戸時代の農業技術の発達はめざましいものがあったと思います。収穫を増やす目的があったのですからなおさらですよね。