やがて成人した家綱は、1663年に代替わりの武家諸法度(ぶけしょはっと)を発布(はっぷ)した際に、大名が死亡した後の家臣の殉死(じゅんし)を禁止しました。これは、大名と家臣との関係は一代限りでなく、跡を継いだ主人に対してもこれまでどおり奉公(ほうこう)しなければならないという、主君に忠誠を誓う朱子学の概念にも由来した幕府の意思を示していました。
こうした幕府の政治姿勢は、それまでの武断政治から平和的な秩序の確立を目指す文治政治(ぶんちせいじ)へと大きく転換させることになり、家綱の次の将軍の治世(ちせい)で大きく花開くことになるのです。
なお、家綱は全国の大名に対して領地宛行状(りょうちあてがいじょう)を発給して将軍の権威を確認したり、幕府の直轄領において大規模な検地を行うことで収入の安定化を図ったりしています。また、末期養子の禁の緩和によって上杉謙信(うえすぎけんしん)ゆかりの米沢藩(よねざわはん)が改易を免(まぬが)れていますが、この際に末期養子となった上杉綱憲(うえすぎつなのり)は、忠臣蔵(ちゅうしんぐら)で有名な吉良上野介(きらこうずけのすけ)の子です。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
一代限りではなく、跡を継いだ主君にもこれまで通りに奉仕するという考え方も忠誠心なんですね。
昔、エジプトの王家では王様が亡くなると、
そこへ仕えていた全ての家来も家族も一緒に
葬られたそうですが、(と、私は聞いていたのですが)そういったやり方で忠誠心を捧げるよりも、ずっと人間らしい奉仕の仕方だと思いました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 エジプトのような制度は古代の我が国でも行われていたようですが、その後は生身の人間の代わりに素焼にした人形を一緒に葬るように変更になったと考えられています。
いわゆる「埴輪(はにわ)」のことですね。