このほかの朱子学派としては、戦国時代に活躍(かつやく)した南村梅軒(みなみむらばいけん)を祖とする南学(なんがく)があり、土佐の谷時中(たにじちゅう)に受け継がれた後には野中兼山(のなかけんざん)や山崎闇斎(やまざきあんさい)らが出ました。
闇斎は僧侶(そうりょ)から儒者となり、我が国古来の神道(しんとう)を朱子学的に解釈した垂加神道(すいかしんとう)を説き、大義名分から皇室を尊敬することを教え、後の尊王論(そんのうろん)の基礎となりました。
朱子学以外の儒学としては、中国の明(みん)の王陽明(おうようめい)を始祖(しそ)とする陽明学(ようめいがく)を中江藤樹(なかえとうじゅ)や熊沢蕃山(きまざわばんざん)らが学び、知行合一(ちこうごういつ、本当の知は実践を伴わなければならないということ)による実践主義(じっせんしゅぎ)を重視して、理論に偏(かたよ)りがちな朱子学を批判したことやその革新的な内容が幕府に警戒(けいかい)されました。
なお、山崎闇斎は保科正之に、熊沢蕃山は池田光政にそれぞれ招かれて学問を教えています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんばんは!
この頃の日本は一神教的な朱子学崇拝の傾向が強かったのですか?
朱子学を批難しただけで警戒されてしまうのは、
現代の日本では考えられない事ですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この頃の日本は一神教的な朱子学崇拝の傾向が強かったのですか?
> 朱子学を批難しただけで警戒されてしまうのは、
> 現代の日本では考えられない事ですね。
朱子学は幕府の公式な学問ですから、朱子学自体の批判が幕政批判につながると考えられたからかもしれません。もっとも、警戒はされたものの学問を捨てさせられたわけではありませんでした。
ろっぽん 儒教=当時の中国人があまりに無節操で規律とか礼を重んぜるということで出てきた思想で
日本では封建体制の強化ということで導入されたのでしょう。
現代は民主主義の時代ですが、
国民が一人一人が、よく勉強し議論しあうという
世相を作り上げてゆかないと民主主義は育たないな、ミカエルさんが言ってたけど
日本と言うのは封建主義がまだ残ってる民主義だと
社会という教科は文科省の指針通り教えればいいと言う
教科じゃないと思うな。
生徒同士で議論させ、○×で回答能力をつけさせる教育ではダメだ!
歴史というと年代の暗記と受け取られいるけど
そんなのは大雑把な流れをつかみ
興味持ってなんども本を読んでゆけば自然に身につくもんで問題は歴史から学んでの分析能力だと思う
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 前半については、確かに封建主義は残っているところはありそうですね。
ただ、道徳面の強化という点での儒教の功績は大きいと思います。
後半についてはまさしく仰るとおりです。
私の授業では知識の羅列よりも、当時の世界情勢や人間の発想を織り交ぜながら展開できるよう心掛けています。
ただ、最後にはどうしてもペーパーテストで順位を決めざるを得ないのが残念ではありますね。
歴代将軍の中でも特に学問を好んだ5代将軍の徳川綱吉(とくがわつなよし)は、1690年に湯島聖堂(ゆしませいどう)を建てて、林羅山(はやしらざん)の孫にあたる林鳳岡(はやしほうこう、別名を林信篤=はやしのぶあつ)を大学頭(だいがくのかみ)に任じました。
こうした幕府の姿勢は諸大名にも反映され、多くの藩主が綱吉にならって儒者を顧問(こもん)に学問に励むと同時に藩政の向上を目指しました。中でも岡山の池田光政(いけだみつまさ)や会津の保科正之(ほしなまさゆき)、加賀の前田綱紀(まえだつなのり)や水戸の徳川光圀(とくがわみつくに)らが有名です。
徳川光圀は有名なテレビ時代劇である「水戸黄門(みとこうもん)」のモデルとしても有名ですね。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんばんは!
儒学的な考えは元禄時代以降には
廃れてきたのですか?
それはどんな理由なのでしょうか。
礼節を尊ぶ考えというのは、
今でも日本人の考え方の根底に
脈々と受け継がれている様に思います。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 儒学的な考えは元禄時代以降には
> 廃れてきたのですか?
> それはどんな理由なのでしょうか。
廃れてきたというよりも、さまざまなかたちで発展を遂げた、というべきかもしれません。
例えば、中国から伝来した朱子学が、後述する水戸学のように日本の風土に合ったかたちに変貌するような感じですね。
> 礼節を尊ぶ考えというのは、
> 今でも日本人の考え方の根底に
> 脈々と受け継がれている様に思います。
私もそう思います。いつまでも失いたくないものですね。
こんばんは
ryo 今回のコメントは趣旨がまったく違うというか、リクエストなのですが、独り言と思ってくださってけっこうですw
黒田先生の動画をいろいろ見てきましたが、戦国武将の中でもどうしても気になる武将が一人います。それは上杉謙信です。毘沙門天の化身とまで言われた軍神。その強さは有名ですが、戦い以外でも内政において功績を残したと聞いています。もし機会がありましたら、上杉謙信の講義をお願いしたいと思います。
ryoさんへ
黒田裕樹 なるほど、上杉謙信ですか。
裏切りが当然の戦国時代に「義」の武将として君臨したことも凄いですね。
今回は関ヶ原ですので時代が異なりますし、いつの日か担当してみたいとは思っております。
これらの公共事業が元禄時代までに一段落すると、高い年貢を納める必要がなくなり、年を追うごとに年貢率は低下していきました。年貢率の低下は生活の余裕をもたらし、それまで食べるのに精一杯だった人々は、暮らしの中に遊びを求めるようになりました。
人々が遊びを求めればそれだけ貨幣の動きが活発になり、結果として経済が目覚ましく発展しました。経済の発展は遊びのさらなる進化をもたらし、武士や有力町民のみならず、一般庶民の間にまで高い水準の多彩(たさい)な文化が発達することになったのです。
元禄時代を中心に栄えたことから、この時代の文化は元禄文化(げんろくぶんか)と呼ばれていますが、その特色は現世(げんせ)を「浮(う)き世(よ)」と、すなわち人間社会の現実を肯定的(こうていてき)にとらえて実利を重んじる町人の思いが込(こ)められると同時に、この時代に奨励(しょうれい)された儒学(じゅがく)と政治との結びつきや、実証主義による古典研究や自然科学の学問の発達など、様々な側面が見られます。




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ぴーち こんばんは!
この頃の日本はまだまだ国民が政府に対して
絶大なる信頼を寄せていたのでしょうね。
デンマークの様な高い税率でも国民から余り文句が出ない国になるには、やはり政府がしっかりとした信頼を取り戻していかなければ、ならないのでしょうね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この頃の日本はまだまだ国民が政府に対して
> 絶大なる信頼を寄せていたのでしょうね。
> デンマークの様な高い税率でも国民から余り文句が出ない国になるには、やはり政府がしっかりとした信頼を取り戻していかなければ、ならないのでしょうね。
そうですね。高い原資を取った一方で、仕事もあって支払いもきっちりしていたからこそ、庶民も耐えきったのだと思います。高度成長時と環境が似ているかもしれませんね。
紗那 7割税金とは高い気がしますが、それらの使い道がはっきりしていたからこれでも民衆は納めたのでしょうね……
いまの日本を見ていると、5%の消費税すら払いたくなくなります
一般庶民までに広く広がった文化は、これが初めてですっけ……?
紗那さんへ
黒田裕樹 > 7割税金とは高い気がしますが、それらの使い道がはっきりしていたからこれでも民衆は納めたのでしょうね……
私もそう思います。納めた米も労働の対価とはいえ還ってきましたからね。
> いまの日本を見ていると、5%の消費税すら払いたくなくなります
その気持ち、よく分かります(´・ω・`)
(額が少ないとはいえ)税金を払っている身分からすればたまったものではありませんからね…。
> 一般庶民までに広く広がった文化は、これが初めてですっけ……?
そのとおりです。「庶民の文化」としての側面は近いうちにご紹介しますよ。
風流
ろっぽん 先週に買った「中公文庫、まんが日本の古典・奥の細道
(矢口高雄)」を読むと山形の尾花沢に清風(俳号)と
いう人を訪ねて十日十一泊するのですが、
清風は江戸や京に紅花を卸す問屋で
江戸滞在のおり、芭蕉庵で手ほどきを受け
田舎でも風流をひろめ 今言うサークルみたい
なものを作っており、そんなように東北の片田舎にも
風流をたしなむ文化が元禄時代は広まっていたんですね
中公文庫、日本の古典は高校生に古典を理解させるには
最適な本です。値段も630円くらいで高校生にも
求めやすいのではないでしょうか。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 レビューを拝見しましたが、良作のようですね。時間を見つけてぜひ拝読したいと思います。
お勧め下さって有難うございます。
こんばんは
ryo 年貢の取立てが緩和されたことで、庶民の暮らしにゆとりができ、豊かになった。元禄文化や楽市楽座などこうした歴史を振り返れば、思い切った規制緩和と減税を行うことで現在の景気も良くなるような気がしてなりません。
そこで、規制緩和ができないのは中央集権体制や既得権益にも問題があるように思います。歴史に学ぶことも必要ですが、過去から続いているこうした体制があることで地方分権が思うように進まない。黒田先生はどのような所見をお持ちですか。
ryoさんへ
黒田裕樹 規制緩和については仰るような中央有権体制によるがんじがらめの規制や既得権益の打破の難しさがあると思います。ただ、今の段階で地方分権を敢行しても、国益を無視した「地方益」によって我が国全体の危機を助長するような気がしてなりません。なぜなら、戦後教育が「公」よりも「私」を強調しすぎたことによる弊害が多いと考えられるからです。
減税には私も同意です。財源としては復興債かもしくは政府紙幣の大増刷でしょう。80年以上前の金融恐慌の際に、モラトリアムで高橋是清が断行した政策を思い出すべきです。
幕府は金座(きんざ)・銀座(ぎんざ)・銭座(ぜにざ)を設けて、小判や一分判(いちぶばん)などの金貨や丁銀(ちょうぎん)・豆板銀(まめいたぎん)などの銀貨、一文銭(いちもんせん)の寛永通宝(かんえいつうほう)などの銭貨(せんか)を発行しました。これら金・銀・銭の三貨(さんか)は統一貨幣であり、全国に普及(ふきゅう)して商品流通の発展を支えました。
ただし、東日本では主に計数貨幣(けいすうかへい、表面に記された数字で価値を保証された貨幣のこと)である金貨が、西日本では主に秤量貨幣(しょうりょうかへい、品質や重量によって価値が保証された貨幣のこと)である銀貨が使用され、また三貨の交換率が相場によって常に変動していたことで、両替商(りょうがえしょう)が活躍(かつやく)することになりました。なお、東日本では金遣(きんつか)い、西日本では銀遣(つか)いとそれぞれ呼ばれています。
有力な両替商はやがて公金の出納(すいとう)や為替(かわせ)、あるいは貸付などの業務を行うようになり、幕府や藩の財政を支えるようになりました。なお、大手の両替商としては江戸の三井家(みついけ)や大坂の鴻池家(こうのいけけ)などがあります。
このほか、江戸時代中期以降になると財政難に苦しんだ各藩において領内のみで通用する藩札(はんさつ)が発行されるようになりましたが、藩が取り潰(つぶ)されれば紙くず同然になるというリスクもありました。




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ぴーち こんばんは!
金貨と銀貨が西日本と東日本で分けられていたのは、その産地が近くに存在したという
事が要因なのでしょうか。
三井家というと、やはり現在の三井住友銀行のルーツという事になりますか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 金貨と銀貨が西日本と東日本で分けられていたのは、その産地が近くに存在したという
> 事が要因なのでしょうか。
仰るとおり、金山は東日本、銀山は西日本に多く存在していたのがそもそもの原因です。産出量が多ければ流通しやすくなるというのも道理ですね。
> 三井家というと、やはり現在の三井住友銀行のルーツという事になりますか?
そうですね。三井家と住友家。全く異なる歴史を持つ両家が金融業界で一緒になるというのも不思議な話です。
サクラ 藩札は、実を言うと所持していたりします。
銀壱匁と書いてありました。
偽札防止もしてなさそうでしたし、こういったものが信用を得られたか不思議です。
明治政府が兌換紙幣を発行した時の苦労もありますし。
サクラさんへ
黒田裕樹 そうなんですか。貴重なものをお持ちなんですね。
「銀壱匁」ということは西国の藩でしょうか。いずれにせよ、仰るとおり信用度には問題がありそうですね。
明治政府の苦労がしのばれます。
こんばんは
ryo 藩札というのは初めて聞きました。幕府はよくそんな紙幣を認めていたなんて、ちょっと不思議です。でも少し意味合いは違ってきますが、現在の地方債や国債もいつ紙クズになるかわかりませんよね。。怖い世の中です。
ryoさんへ
黒田裕樹 地方で独自に発行されている紙幣ですからね。認められたのが確かに不思議な感じがしますが、藩の窮乏を考えれば仕方がないのかもしれません。
金属と交換できない紙幣は100%信用で成り立っていますから、仰るとおり紙屑になったら最悪です。我が国でそんなことがあってはならないと思うのですが…。
こうした流れの中で、17世紀後半には江戸・大坂・京都の三都や城下町において地方からの商品の仕入れや受託(じゅたく)を行う問屋(といや)が商業や流通の中心となっていきました。問屋は自己(じこ)の利益を守るため業者ごとに仲間(なかま)や組合という同業者の団体をつくり、仲間掟(なかまおきて)と呼ばれた独自の法を定めて営業の独占を図(はか)りました。
当初の幕府は仲間を公式には認めませんでしたが、商工業者の統制や物価の調節に有効な役割を仲間が果たしたことによって、18世紀には公認するとともに、運上(うんじょう)や冥加(みょうが)といった営業税(えいぎょうぜい)を確保するために仲間の公認を増やすようになりました。
幕府によって公認された営業の独占権を株(かぶ)と呼び、また商人たちの仲間は株仲間(かぶなかま)と呼ばれました。江戸の十組問屋(とくみといや)や大坂の二十四組問屋(にじゅうしくみといや)が有力な株仲間として知られています。なお、株仲間を積極的に公認することで商人からの税を増やし、幕府財政を安定させようとしたのが田沼意次(たぬまおきつぐ)でした。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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クラチー 「営業の独占」…!
今の日本だったら、いくつかの業者は、
「独占禁止法」とかで裁かれそうですね。
でも、時代が違うし、日本産ばかりだから、
敵が少ないから、そうはならないですかね。
いや、現代の日本がうるさ過ぎ…?
(^^;)
…って、ここにきて田沼すぁん!
法人税や消費税の先がけがココに…ウルウル。
(;Д;)
税
ろっぽん 年貢だけかと思ったらやはり商人からも税をとったんですね。現代は記帳による申告制ですけど、そういう申告する税務署みたいなものはあったんですか
それとも貿易税みたいに一個一個に税をかける物品税ですかね。松前藩は全国で唯一、米がとれない藩として本土のアイヌと商取引する大江(おおみ)商人に税をかしていたようですね。
ぴーち こんにちは!
株のお話は、これまた全く分からなくて
申し訳ありませんが、冥加などというと神仏の恩恵みたいな表現で、面白いですね^^
応援凸
クラチーさんへ
黒田裕樹 「独占」といっても、確かに現代とは感覚が異なる一面がありますね。
とはいえ独占に阻まれた商人の恨みは聞こえてきそうですし、難しいところだともいえます。
封建社会の武家政権ならではの税制ですが、現代の我が国は…どうでしょうか(^^ゞ
ハイ、ここでも田沼さんが出てきますよ。
大事な場面で出てくるあたりが、彼の政治家としての優秀さを物語っていますね(^_^)v
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 運上や冥加は物品ごとに税金をかける流通税の一種ですから、税務署のような形式があったかどうか、私も今一つ分からないところがあります。
松前藩の取引は幕府も黙認していたようですが、そのやり方があまりにも問題があったことで調査に乗り出した人物がいました。実はこれも田沼意次です。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 株のお話は、これまた全く分からなくて
> 申し訳ありませんが、冥加などというと神仏の恩恵みたいな表現で、面白いですね^^
仰るとおり、冥加はそもそも「神仏からの加護」という意味で、やがて冥加の祈願や冥加の御礼として寺社に奉納された金銭をも指すようになりました。
後に幕府や藩主などが自らを寺社に例えて、年貢以外に自己に対する税金を冥加と称して納めさせるようになったというわけです。
紗那 営業独占自体もあまり消費者にとっては良い影響がないのですが、それを中央政府が公認、ましてや推進となると、影響が大きくなりすぎますね……
田沼意次の失職の原因になることであるとか……
紗那さんへ
黒田裕樹 > 営業独占自体もあまり消費者にとっては良い影響がないのですが、それを中央政府が公認、ましてや推進となると、影響が大きくなりすぎますね……
> 田沼意次の失職の原因になることであるとか……
確かにそうですね。
営業の独占は幕府の財産を好転させますが、他の業者の妬みは避けられません。この他にも天災などの影響があって田沼意次は失脚してしまうんですよね。
諸藩は大坂や江戸に蔵屋敷(くらやしき)を設けて、藩士(はんし)に蔵物の保管や販売を行わせていましたが、やがて蔵元(くらもと、蔵物の取引を行う)や掛屋(かけや、代金の出納=すいとうを担当する)と呼ばれた商人に業務を委託(いたく)するようになりました。
一方、幕府の米蔵(こめぐら)は浅草(あさくさ)の蔵前(くらまえ)にあり、札差(ふださし、別名を蔵宿=くらやど)と呼ばれた商人が旗本や御家人の俸禄米(ほうろくまい)の受け取りと売却を請(う)け負いました。これらの商人はやがて大名や旗本などに金融業(きんゆうぎょう)を行うようになり、金(カネ)の力で武士の生活を左右するようになりました。
なお、蔵物に対して生産地から商人を経由して仕入れと販売が行われた商品を納屋物(なやもの)といい、江戸をはじめ全国に出荷されました。また蔵元と掛屋は同じ商人が両者を兼ねることもありました。




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ぴーち こんにちは!
今日の金融業のルーツは、武士にも貨幣を必要とさせた事が発端だったワケですね。
蔵前と言えば、つい国技館を連想してしまいます(^_^;)
それでは応援凸
紗那 こうやって当時お金として流通していた物を大量に保有することになる金融業が盛んになっていくわけで……
現代風に言えば武士がアウトソーシングしたという感じなのでしょうか
オバrev 6.24◯◯ニュースはご覧いただけましたでしょうか。カープが勝って、◯◯さんMCのニュースは最高でした(^O^)
ところで、江戸時代は鎖国をしていながら、経済システムは現代に近いものがあったんじゃないでしょうか。これは海外によらず独自に作り上げたものなんでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今日の金融業のルーツは、武士にも貨幣を必要とさせた事が発端だったワケですね。
武士の本音としては貨幣経済に巻き込まれなくはなかったと思われますが、石高制の宿命だったといえますね。江戸時代の武士は、今後も本音と建て前との違いにずっと悩まされることになります。
> 蔵前と言えば、つい国技館を連想してしまいます(^_^;)
懐かしいですね。蔵前国技館が閉じられて27年の歳月ですか。大相撲も本当の意味でよみがえってほしいですね。
紗那さんへ
黒田裕樹 > こうやって当時お金として流通していた物を大量に保有することになる金融業が盛んになっていくわけで……
> 現代風に言えば武士がアウトソーシングしたという感じなのでしょうか
さすがは現役高校生ですね。今日のような内容を振り返れば、いつの時代においても環境の変化に順応しなければならないと実感します。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 6.24◯◯ニュースはご覧いただけましたでしょうか。カープが勝って、◯◯さんMCのニュースは最高でした(^O^)
予約していたつもりができていませんでした…(´;ω;`)
また次回にリベンジですね。
> ところで、江戸時代は鎖国をしていながら、経済システムは現代に近いものがあったんじゃないでしょうか。これは海外によらず独自に作り上げたものなんでしょうか?
仰るとおりと思います。厳しい制限貿易下においても、システムの構築は決して不可能ではないですからね。ただし、軍事的に遅れてしまったことは致命的でしたが…。
幕府が置かれた「将軍のお膝元(ひざもと)」である江戸には幕府の施設や大名の屋敷をはじめとして多数の武士が集中して居住し、様々な職を持つ町人も集まって我が国最大の消費都市となり、18世紀初めには総人口が100万人に達して世界最大の都市となりました。
「天下の台所」といわれた大坂は全国の物資の集散地として栄えた商業都市であり、堂島(どうじま)の米市場では世界で最初の商品先物取引が行われるなど発展し、18世紀初めには35万人の人口を数えるようになりました。幕府は大坂城代(おおさかじょうだい)や大坂町奉行(おおさかまちぶぎょう)を置いて監視(かんし)するとともに、西日本を支配する要としました。
桓武天皇(かんむてんのう)が平安京(へいあんきょう)に遷都(せんと)して以来、我が国の首都としての長い歴史を誇(ほこ)る京都は、多くの神社や仏閣(ぶっかく)がひしめく宗教都市として発展しました。呉服屋(ごふくや)や両替商(りょうがえしょう)などの大商人の本拠地(ほんきょち)が置かれたほか、西陣織(にしじんおり)などの工芸も発達して、17世紀には40万人程度の人口がありました。幕府は京都所司代(きょうとしょしだい)や京都町奉行(きょうとまちぶぎょう)を置いて、朝廷や寺社、あるいは畿内(きない)の周辺諸国を監視もしくは支配しました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ryo 人口の増加が文化、商業とも発達するということがよくわかりました。おもしろいですね。また気になることなんですが、250年近く続いた江戸幕府。朝廷を押さえ込むほど強大な権力があったのであれば、目だったいさかいなどはなかったのでしょうか。また人口が増加した江戸では上下水道の整備は整っていたのでしょうか。
治安
ろっぽん 百万人ぐらいといいますと、現在の仙台ぐらいですね、
治安が行き届かない時代だと考えても
この間の地震でも証明されましたが国民の1人1人が冷静で秩序を守る国民性というのがあったればこそ
強権的な権力の行使が必要なっかったので人口が増えたのでしょう
しかし先物取引が大阪が最初とは驚き!
資本主義とは自然発生的に出現するものですか?
経済の仕組みを理論的に分析する人物がいたのでしょうね
ぴーち こんにちは!
18世紀初めには世界最大の都市になっていたんですか!凄いですね(^_^;)
今でも東京の朝のすし詰め通勤電車は観光などで訪れた外国人も青くなる
驚異的な現象のようですね(^_^;)
あな、恐ろし・・・。
応援凸
ryoさんへ
黒田裕樹 江戸幕府と朝廷との関係ですが、当初は仰るとおり幕府が武力で朝廷を押さえつけていましたが、そのあまりもの強引さに朝廷側が次第に反発し、幕末の尊王運動へとつながっていくことになります。
江戸の上水道は玉川上水によってきれいな水を庶民が使用できる状態にありました。下水道については、基本的には下肥を農民が買い取ることで成り立っていました。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 > 百万人ぐらいといいますと、現在の仙台ぐらいですね、
> 治安が行き届かない時代だと考えても
> この間の地震でも証明されましたが国民の1人1人が冷静で秩序を守る国民性というのがあったればこそ
> 強権的な権力の行使が必要なかったので人口が増えたのでしょう
仰るとおりだと思います。
どれだけ治安が良かったとしても闘争心あふれるお国柄であれば、現代においても事件が頻発していますからね。
> しかし先物取引が大阪が最初とは驚き!
> 資本主義とは自然発生的に出現するものですか?
> 経済の仕組みを理論的に分析する人物がいたのでしょうね
私もそう思います。先物取引の詳しいシステムを勉強したというよりも、商人としての優れた感覚によって自然と生まれていったのではないでしょうか。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 18世紀初めには世界最大の都市になっていたんですか!凄いですね(^_^;)
> 今でも東京の朝のすし詰め通勤電車は観光などで訪れた外国人も青くなる
> 驚異的な現象のようですね(^_^;)
> あな、恐ろし・・・。
確かにそうですね(^^ゞ
当時の江戸は今の23区よりももっと狭い地域を指していましたから、その人口密度はすさまじいものがあったと思います。
紗那 この当時は三都がそれぞれバランス良く機能が分散されていたようですし、現代においても首都機能移転などについて参考になる話ではないかと思いましたね。
世界初の先物取引!
そういえば、日本で紙幣がお金として流通するようになったきっかけも、江戸時代の両替商が発端だというのを現代文でやりました。
経済感覚に優れているんですね、大坂人は!←
紗那さんへ
黒田裕樹 > この当時は三都がそれぞれバランス良く機能が分散されていたようですし、現代においても首都機能移転などについて参考になる話ではないかと思いましたね。
そうですね。明治新政府の頃のように一極集中の必要があるのならともかく、今回のように震災が起きた場合のリスク分散のためにも、アメリカのような首都機能の分散が必要でしょう。
> 世界初の先物取引!
> そういえば、日本で紙幣がお金として流通するようになったきっかけも、江戸時代の両替商が発端だというのを現代文でやりました。
> 経済感覚に優れているんですね、大坂人は!←
商人(あきんど)の経済感覚は昔から優れていますからね。為替の発達も大坂からですし。
大阪
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
大阪の歴史について、あまり、知らなかったのですが、
大正時代~昭和初期まで、大阪は、東洋のマンチェスターと言われ、
昭和の初めは大阪市の人口、面積、GDPのいずれも東京市を上回り、大大阪と呼ばれ、アジア最大の都市だったのですね。
今、大阪を観ると信じられません。
これって、江戸時代に脈々と築いてきた大阪商人の経済センスのたまものかもしれませんね。
でも、いつから、凋落したんでしょうね。
(それでも、日本で2位の経済力ですが)
一説には、東京が、大阪の経済力である繊維産業を強制的に東京に移転させたからだと聞いたことあります。黒田先生は、大阪の歴史を考えるうえでは、これって、本当でしょうか。
青田さんへ
黒田裕樹 私も良くは存じませんが、戦後に経済分野においても東京一極集中で発展させたからかもしれませんね。
復興を早めるには集中させた方がよかったのかも?
後は、大阪の人間の気概の問題かもしれません。
海上交通においては古代より発達した瀬戸内海航路に加えて、幕府や藩の年貢米輸送を中心に江戸と大坂とを結ぶ航路が整備されました。17世紀前半からは菱垣廻船(ひがきかいせん)が、18世紀前半には樽廻船(たるかいせん)が南海路(なんかいろ)で定期的に運行され、主に大坂からの物資を江戸に運ぶ役割を果たしました。
また17世紀後半になると、江戸の商人であった河村瑞賢(かわむらずいけん)によって東廻り航路(ひがしまわりこうろ)・西廻り航路(にしまわりこうろ)が整備され、全国的な海上交通網が完成しました。
東廻り航路は東北地方の日本海側から津軽海峡(つがるかいきょう)を経由して江戸へ向かい、西廻り航路は同じ東北地方から下関を通って大坂へ向かう航路でした。両方とも主として奥州や北陸の米の輸送を行い、江戸時代後期の西廻り航路には北前船(きたまえぶね)が就航するようになりました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
周りが海で囲まれている日本だからこそ、こうした水路がいち早く発達して行ったのでしょうね。
この頃にはまだまだ陸上での大量の物資輸送といのは大変でしたでしょうし(車や鉄道などはまだまだ動いておりませんでしょから)地形や自然を上手く利用して、経済面も大幅に活発化していった訳ですね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、水路の発達は我が国の地理的関係も大きな影響を与えていますね。現代のような近代技術が当たり前だと見えてこない歴史の大きな流れだと思います。
紗那 現在でも水運は、日本にとって重要な交通の一つですしね
陸に上がれば山しかないですし、海の方が断然運びやすいという事情もあったのか……
西廻り航路は若干遠く見えてしまうのですが、大坂までしか運ばないことを考えるとどちらもいっしょくらいですかね?
紗那さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、周囲を海に囲まれたうえに山がちな我が国で大量の物資を運ぶためには、現代においても水運の発達が欠かせません。
西廻り航路は江戸へ向かうのであれば遠回りですが、目的地が大坂ですから東廻りと遜色はないですね。
初めまして
ryo 初めてコメントさせていただきます。航路が発達した中で、海賊も勢いを増したことはないのでしょうか。
ryoさんへ
黒田裕樹 はじめまして、お言葉有難うございます。同じ内容のコメントをされておられましたので、片方を削除させていただきましたことをご容赦下さい。
> 航路が発達した中で、海賊も勢いを増したことはないのでしょうか。
中国など海外においては海賊が残っておりましたが、秀吉の時代に海賊停止令が出された影響もあって、国内での海賊は姿を消したと考えられているようです。
幕府の継飛脚にならって、やがて各大名は江戸と国元の間に大名飛脚(だいみょうびきゃく)を置くようになり、また町人も町飛脚(まちびきゃく)の業務を開始するようになって、書状や小荷物を扱(あつか)う飛脚問屋(ひきゃくどいや)ができました。
陸上交通では幕府や大名の御用通行(ごようつうこう)が優先されましたが、これらに使用される人馬は宿場の町人や農民が準備しました。これを伝馬役(てんまやく)といいます。なお、人馬が不足した際には助郷(すけごう)と呼ばれた村から補充(ほじゅう)しましたが、これは助郷役(すけごうやく)といわれました。
街道が整備されたことで宿場町はにぎわいを見せ、やがて伊勢参(いせまい)りなどの庶民の旅行が盛(さか)んとなりましたが、その一方で幕府は治安維持(ちあんいじ)の目的から箱根(はこね)など各街道に関所を設け、江戸への武器の搬入(はんにゅう)や江戸から大名の妻子が帰国しないかどうかを厳しく見張りました。いわゆる「入鉄砲(いりてっぽう)に出女(でおんな)」ですね。
また、多くの兵が江戸へ攻め寄せることを防ぐために川に橋をかけないことも多く、特に大井川(おおいがわ)は船の移動も禁止されたため、川越人足(かわごえにんそく)による人力移動の手段しか認められませんでした。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」という言葉が今でも知られています。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
修学旅行で箱根に出向いた時に、
入り鉄砲と出女の様子を分かりやすく蝋人形かなにか?(マネキンだったのかしら?w)で見たことがあります^^
今でも伝馬町などという地名が残る場所は、昔の名残を引き継いでいるんですね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 修学旅行で箱根に出向いた時に、
> 入り鉄砲と出女の様子を分かりやすく蝋人形かなにか?(マネキンだったのかしら?w)で見たことがあります^^
そうなんですね。
箱根の関所越えは厳しかったようですので、歴史的な展示としては分かりやすそうです。
> 今でも伝馬町などという地名が残る場所は、昔の名残を引き継いでいるんですね^^
そうですね。東京の大伝馬町・小伝馬町が有名ですが、東京の場合は牢獄があったことの方が知られているかもしれません(^^ゞ
街道や宿場町といえば・・。
晴雨堂ミカエル 小学生のころ、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」が好きでよく読んでいました。
あれは文化文政期の東海道の状況や食べ物の物価が詳しく載っていた様に記憶しています。
物語は楽天的で飄々として明るいのですが、実際の十返舎一九は苦虫潰したような顔で口数が少なく近寄り難い雰囲気だったようですね。いつも帳面と筆を持ち歩いていて、何やら常にメモを取っているというメモ魔だったとか。
紗那 中央がいろいろするようになると、地方あるいは民間もそれを真似するようになる……
飛脚の話を見ていると、現代にも通じるところがあるなと思ってしまいます
助郷役も言葉だけ中学の時にやったきがしますが、こういうことだったのですね。やはりここまで知らないと、意味が無いと感じました
入鉄砲に出女も単独で覚えていましたけど、こうやってみると全部流れがあるんですね……!なんだか感動です!
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 貴重な情報を有難うございます。
読者をわくわくさせる優秀な作家であっても、実像は必ずしも同じとは限らないみたいですね。
私の場合はどうでしょうか…?(^^ゞ
紗那さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、何事もないようなことであってもしっかりと流れが存在するものなんですよ。
だからこそ「流れで覚える」のが歴史なんです。
受験勉強が中心の学習ではつかむことが難しい「歴史の流れ」を、当講座では今後も続けられるよう努力しますよ(^^♪
あらためババァ
ろっぽん 「焼け野わらび39改め婆」URL参照は新潟大非常勤講師金森敦子さんの
「関所ぬけ江戸の女たちの冒険(昌文社)」を元に創作しました。
それを読むと秋田の商家の女将がお伊勢参りのほぼ本州一周するくらいの長旅日記です。
女の旅が怪しまれる時代にあって珍しいことです。
まぁ非合法の関所ぬけを繰り返す旅ですが、
北前船の豪商の女将で賄賂に次ぐ賄賂でやり遂げた旅ですけど。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 ご紹介有難うございます。
色々な条件が組み合わさっての日記ですね。
なおまゆ 手続きをきちんとすれば、自由に旅ができた時代なんですよね?伊勢神宮などへ参拝する庶民が結構いたと聞いています。
教科書では、どうも自由のない貧しい暗い時代という印象しかもてなかったのですが。
「貧しいが貧困ではない時代」結構心豊かな時代だったんだなあという実感をしています。
勿論、それだけでなく飢饉とか疫病とか大変なことも多かった時代ですが、それだけではないですよね。『カムイ伝』という劇画はどちらかといえば暗黒の部分に着目していました。
先生はお読みになったことがありますか?
なおまゆさんへ
黒田裕樹 仰るとおり「貧しさ」と「貧困」を一緒にしているがゆえの思い違いがよく見られますよね。
「カムイ伝」は残念ながら未見ですが、一方的な記述ばかりを見るのは何かとありそうな気がします。
東海道(とうかいどう)・中山道(なかせんどう)・甲州道中(こうしゅうどうちゅう)・日光道中(にっこうどうちゅう)・奥州道中(おうしゅうどうちゅう)の五街道(ごかいどう)は江戸の日本橋(にほんばし)を起点とする重要な街道で幕府の管轄(かんかつ)に置かれ、17世紀半ばからは道中奉行(どうちゅうぶぎょう)の支配を受けました。
五街道以外にも伊勢街道(いせかいどう)・北国街道(ほっこくかいどう)・中国街道(ちゅうごくかいどう)・長崎街道(ながさきかいどう)などの脇街道(わきかいどう)が整備され、これらの街道には一里塚(いちりづか)や橋・渡船場(とせんば)・関所(せきしょ)などの施設が設けられたほか、宿場(しゅくば、別名を宿駅=しゅくえき)が数多く置かれました。
宿場は街道が通る城下町の中心部の町に置かれ、それ以外は宿場町(しゅくばまち)と呼ばれた小都市として栄えました。なお、東海道には品川(しながわ)から大津(おおつ)まで53の宿場が置かれましたが、これらは東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)と呼ばれ、浮世絵(うきよえ)や和歌・俳諧(はいかい)の題材にも取り上げられました。




いつも有難うございます。
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紗那 お久しぶりです!
忙しい時期を過ぎたので、更新再開してみようかなと思った次第です。
遅くなりましたが、期付講師での採用おめでとうございます!まずは一歩というところですね。
正式に採用された暁にはぜひ私の高校に配属されることを望んでおります←
五街道以外の街道は初耳のものばかりですね……
しかしながら、これらの江戸時代の街道が、現代の日本の主要な道路と割と被っていることは、少しでもこのような歴史的なはなしを身近に感じさせてくれる気がします^^
ぴーち こんばんは!
私の所にも日光道中(街道)
がありますが、つい最近まで
両隣の県へ向かう際の幹線道路が無く
やっと今年に入り、
北関東3県をスムーズに行き来できる
道路が完成したばかりなんです。
今になってやっと、江戸時代
から進化出来たような気がします(^^ゞ
応援凸
紗那さんへ
黒田裕樹 お久しぶりです。また、講師就任に対するお祝いのお言葉有難うございます。
紗那さんの高校はなかなかの名門ですからね。一度は赴任してみたいものですが(^^ゞ
仰るとおり、現在の我が国の主要街道と密接にかかわっております。
こんなところにも歴史を感じさせてくれますが、同時に大学入試にも出てくる可能性があるのが厄介ですね(´・ω・`)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、江戸時代以来の進化ですか(^^ゞ
全国に張り巡らされていると思われがちな道路ですが、まだまだ公共事業として必要なようですね。
ケンペル
ろっぽん ドイツ人医師ケンペルが書いた日記を「牛になった坊さん」を描いた時、資料して読みましたが
この国の人々は旅行好きで常に街道はたくさんの人々が行き来していると記しています。
この当時は関所があったり。一々、手形の開示があったりと旅は不便だったと思いがちですが、
お伊勢参りや禅幸寺詣出にかっこつけて庶民はよく度してたようですね。今でいうそういう寺院の旅のあっせん屋もいたようでパックツアーで宿泊施設、食事、売春のあっせんをしていたようです。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 ケンペルの「日本誌」は主観が入っていますが、当時の様子がよく分かるものとして有名ですね。仰るとおり、昔から街道を行き来する人が多かったのでしょう。
移動者が多ければ宿場町では様々な産業が栄えますからね。現代のような不景気風がウソのような気がします。
オバrev 江戸時代というのは、徳川家による独裁政治のようなものだと思いますが、結構鋭い経営感覚で運営していたんですね。
中でも、大名には非常に不評だったであろう参勤交代なども、宿場町や交通網の発達という大きな経済効果を生んでいるんですね。
これを意図してやったんだとしたら凄い!ヮ(゚д゚)ォ!
オバrevさんへ
黒田裕樹 独裁といっても恐怖政治ではありませんでしたからね。260年も続くということは、それだけ経営感覚も優れていたということでしょう。
参勤交代はおそらく「大名への懲罰」的な意味合いが強かったと思いますが、結果として全国の宿場町の活性化をもたらした。
決して「暗黒」ではない、一般的な時代感覚とは異なる江戸時代の真実の一つですね。