和紙の生産も、楮(こうぞ)を主原料とした流漉(ながしすき)の技術が普及したことで全国に拡大し、紙が安価で大量に入手できるようになったことで、学問や文化の発達に貢献(こうけん)することになりました。また紙の生産地の多くは藩の専売制(せんばいせい)となり、財政を助けました。
陶磁器(とうじき)では、肥前有田(ひぜんありた)で有田焼(ありたやき、別名を伊万里焼=いまりやき)と呼ばれた磁器(じき)が佐賀藩の保護のもとで生産され、長崎貿易における輸出品になったほか、尾張(おわり)の瀬戸(せと)や美濃(みの)の多治見(たじみ)などでも生産されたことで、安価な陶磁器が量産されるようになりました。
醸造業(じょうぞうぎょう)では伏見(ふしみ)・灘(なだ)の酒や野田(のだ)・銚子(ちょうし)の醤油(しょうゆ)が有名となり、この他にも全国各地で作られた商品は、それぞれの地域に由来した特産品(とくさんひん)として重宝(ちょうほう)されました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんにちは!
こうして記事を拝見させていただいていると
今でも各分野の1級ブランド商品として残されているものばかりですね^^
和紙はこのころは専売制だったんですね。
私の住んでいる県東に烏山という
ところがありますが、「烏山(からすやま)和紙」として今でも特産物として売られています。
ある小学校の校長先生が、卒業生一人一人に直筆で和紙に書き、卒業証書として毎年贈っているそうです^^素敵なアイディアだなと思いました^^
凸
なおまゆ 我が国は、この時代から技術を発展させてきたんですね。平和は技術を高め、国力を高めるんですね。徳川政権はその意味で日本の発展に寄与した素晴らしい時代に思えます。波乱がないからおもしろくないという人が多いのですが、細かく見ていくとおもしろい物ですね。
しー おぉーーーっと、ここらへんは前回のテストの範囲ではありませんかっw
ここ、日本地図書いて頑張りました…。
歪な日本になってしまいましたがorz
頑張ったのに全く出てこなかったんですけどねー。。
サクラ 西陣織は、畿内で手工業が発達した故なんですか。
普通の着物とは、やっぱり違いましたね。
生地が軽くて、涼しかったです。
畿内で手工業が発達したのには、何か理由があるのでしょうか?
重工業が、鉄を産出するところとかに限られちゃっらからですか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうなんですよね。江戸時代以来の伝統が、今日のブランド品を形づくっているわけです。
和紙の伝統も、ご紹介いただいた形で受け継がれていることは日本人として誇りに思います。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 厳しい制限貿易がもたらした鎖国の状態が我が国に大きな悪影響をもたらした一方で、仰るような平和の時代が続いたことで技術や国力が高まった時代でもありました。
表裏一体とはこのことですね。
しーさんへ
黒田裕樹 日本地図を書いて全体に散らばった特産品を書き記したんですね。一番理解できる方法だと思いますよ。
今回は出なかったとしても、いずれ必ず役に立ちますよ。
私の講座も復習に活用できれば幸いです(^^ゞ
サクラさんへ
黒田裕樹 西陣織が発達した背景には応仁の乱による職人の離散がからんでいるようです。「西陣」の由来が応仁の乱の西軍の陣地だったということもありますからね。
応仁の乱で離散した職人が、乱の終結後に舞い戻った際に諸国の優れた技術も身につけたことで織物も向上して、その後の発展にもつながったとか。
鉱山業では、江戸時代初期には佐渡金山(さどきんざん)や生野銀山(いくのぎんざん)・石見銀山(いわみぎんざん)などからの金銀の生産が最盛期を迎えましたが、17世紀後半になると産出量が激減し、替わって銅が採掘(さいくつ)の中心となりました。
銅は幕府が管轄する足尾銅山(あしおどうざん)や、大坂の町人である泉屋(いずみや)が経営した別子銅山(べっしどうざん)などで採掘され、長崎貿易における輸出品や、急増する貨幣の鋳造(ちゅうぞう)に用いられました。なお、泉屋は現在の住友(すみとも)につながっています。
この他、砂鉄(さてつ)を採集して足踏(あしぶ)み式の送風装置(そうふうそうち)を持つ炉(ろ)を使用したたたら精鉄(せいてつ)が中国・東北地方を中心に行われ、生産された玉鋼(たまはがね)は商品として全国に普及(ふきゅう)し、農具や工具に加工されました。




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ぴーち こんばんは!
この頃の日本の林業は盛んだったんですね。
戦後は、焼け野原になってしまった土地や、山林に繁殖力の強いアメリカ杉などを植林してしまったのが、長い目で見たときには最悪な選択でしたね。
アメリカのような広大な土地ではそれでも良いかも知れませんが、日本の様に国土が狭い国には本来、繁殖力の旺盛な植物は不釣合いだったんですよね。やはりその土地土地に見合った植物を植える事が、一番なんだと思いますね。それでもその当時は背に腹変えられない思いで、植林したのでしょうけれど。
それもこれも
戦争をした事が一番の元凶なんでしょうけれどね(^^ゞ
足尾の鉱山はこの頃が一番の最盛期だったんですね。ただ、後の鉱毒事件では悲惨な目に遭ってしまったのは残念な事ですが。。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 林業については、確かに即効性を求めたあまりに道を誤った感がありますね。戦争の影響は様々な場面に広がっていることを改めて思い知らされます。
足尾銅山は、仰るとおり明治の悲劇的な事件をもたらしてしまいます。難しい問題ですね。
ろっぽん 高校の時、地元の細倉鉱山史を調べてその採掘工具や精錬技術が考えている以上に高度なのに驚いた記憶があります。江戸時代は金山は幕府の直轄でしたが。
細倉は鉛鉱山でしたので仙臺藩が管轄していました
が、0.1%の金を含有しており、高度な精錬技術によってやみ金を隠し金として運用、近見商人が今でいうマネーロンダリングをやって仙台藩の隠し金にしていました。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 なるほど、高度な精錬技術が隠し金につながっていたのですか。
これもまた技術がもたらした副産物ですね。
特にイワシは干鰯(ほしか)に加工され、農業における金肥(きんぴ)として各地へ運ばれました。
江戸時代の初期から土佐(とさ)や紀伊(きい)を中心に網(あみ)や銛(もり)を使用した捕鯨(ほげい)が行われ、捕(と)れたクジラからつくられた鯨油(げいゆ)は灯油のほか害虫の駆除(くじょ)に使用されました。また中期以降には土佐で鰹漁(かつおりょう)が発達しました。
蝦夷地では昆布(こんぶ)の漁獲量(ぎょかくりょう)が増加したほか、イリコ(ナマコの腸を取り出して煮た後に乾燥させたもの)・ホシアワビ(アワビの身を取り出して煮た後に乾燥させたもの)・フカノフレ(サメのヒレを乾燥させたもの)を俵(たわら)につめた俵物(たわらもの)が生産され、俵物は17世紀末以降の長崎貿易において銅に替わる清国への主要な輸出品となりました。
製塩業(せいえんぎょう)では播磨(はりま)の赤穂(あこう)などの瀬戸内地方(せとうちちほう)を中心に、高度な土木技術を必要とする入浜塩田(いりはまえんでん)が発達し、生産量が増大しました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんばんは!
この頃から捕鯨が行われていたんですね。
素人考えで恐縮ですが、鯨を捕まえるだけの大きな船はすでにこの頃から一般的に作られていたのですね。
赤穂の天然塩は我が家もよくお料理に使わせていただいていますが、塩は人間の生命維持にも欠かせない物質だけに、当時の方達のご苦労に改めて感謝したいです(^^)v
応援凸
捕鯨
ろっぽん ぴーちゅさんへ 管理人をさておいて回答して申し訳ないんですが。捕鯨船いわいるキャチャ―ボートのような船ではなく、多賀城歴史博物館で見た絵は普通の天馬船っていうのかな釣り船みたいな船だったよ
そんな船で鯨にいどんでたよ。
赤穂の塩は天日干だけどこちらに塩釜という地名があります。そして江戸時代の塩釜が塩釜神社に残っており、蒸留方で製塩していたんですね。
魚網に関しては当時、鎖国でしたが独自に考え出した方法としては世界一だと思います。ある意味、我が国の祖先は独自に理論、発明する技量があったんですね。
寺子屋が普及し読み書きそろばんできる人が大勢いたので黄表紙(粗悪な神に刷った版木本・里見八犬伝などのような本)などや歌麿などの浮世絵などが普及して庶民の教養を高めたんですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 捕鯨に関しては、先にろっぽんさんがお答えなさったとおりです。
生活のためとはいえ、昔の人々は命がけで鯨に向かっていったんですよね。
赤穂の塩は昔から有名ですからね。史実かどうかは推測の域を出ませんが、忠臣蔵の遠因となった説もあるほどですし。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 いえいえ、詳細にお答え下さって有難うございました。
仰るとおり、日本人は昔から独自の能力を発揮していたと思います。自虐史観の毒が回ったことで過小評価しすぎる傾向が見られるのが残念です。
ぴーち おはようございます!
黒田さんこの場を少々拝借させてください。
ろっぽんさん、詳しくご回答くださり
ありがとうございました^^
お礼申し上げますm(_ _)m
それと
忠臣蔵の遠因ですか。それも非常に興味ふかい
お話です。赤穂と言えば、塩と同時に赤穂浪士の話も有名ですものね。また是非、機会があればお聞かせ願いたいと思います♪
朝凸
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 私もろっぽんさんにお礼を申し上げます。
浅野家も吉良家も塩の名産地でしたので、両家の塩をめぐる争いが忠臣蔵の原因だという説もあります。
忠臣蔵については、また別の機会で紹介したいですね。
今晩は☆
いねむり姫 昔の人達の知恵ってすごいですよね!!
中でも鯨油が灯油や害虫の駆除に
使われていたなんて驚きです!!
逆に臭くて害虫が寄ってきそうな
イメージですけどね☆
この頃からお寿司も誕生したのでしょうか??
確かお寿司って江戸時代から
食べられていたような・・・・・?
黒田先生のブログは丁寧に
ふりがなまでふってあって
良心的だと思います★
いねむり姫さんへ
黒田裕樹 > 昔の人達の知恵ってすごいですよね!!
> 中でも鯨油が灯油や害虫の駆除に
> 使われていたなんて驚きです!!
> 逆に臭くて害虫が寄ってきそうな
> イメージですけどね☆
確かにそんなイメージがありますね(^^ゞ
鯨油を水田に流した後に外注を叩き落として窒息させたようですよ。魚の油よりは臭みが少なかったのが良く使われた理由のようです。
> この頃からお寿司も誕生したのでしょうか??
> 確かお寿司って江戸時代から
> 食べられていたような・・・・・?
いわゆる江戸前寿司は江戸時代後半(19世紀前半)頃からですね。
> 黒田先生のブログは丁寧に
> ふりがなまでふってあって
> 良心的だと思います★
有難うございます。学生が訪問することも考慮して、一般的な教科書並みの振りがなを用いております。
肥料はそれまでの刈敷(かりしき)や下肥(しもごえ)のほかに、イワシを干(ほ)して乾燥(かんそう)させた干鰯(ほしか)や、アブラナなどの農作物から油を搾(しぼ)り取った残渣(ざんさ、残りかすのこと)である油粕(あぶらかす)などが用いられ、これらの新しい肥料は農家がお金を出して購入したことから金肥(きんぴ)と呼ばれました。
この時代には農学も発達して、17世紀末に著(あらわ)された宮崎安貞(みやざきやすさだ)の「農業全書(のうぎょうぜんしょ)」など農書(のうしょ)が広く読まれました。
作物としては、米などの他に全国各地で商品作物(しょうひんさくもつ)が盛(さか)んに栽培(さいばい)され、農民の重要な副収入となりました。桑(くわ)・漆(うるし)・茶・楮(こうぞ)の四木(しもく)や、麻(あさ)・藍(あい)・紅花(べにばな)の三草(さんそう)が代表的な商品作物です。
この他、それまでは輸入に頼っていた木綿(もめん)が国内で栽培されるようになったり、養蚕業(ようさんぎょう)が広がって生糸(きいと)の生産が盛んとなったりしました。特に生糸は幕末における重要な輸出品となるまでに発達しました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんにちは!
この頃から、地方ぞれぞれの特色を生かした
作物が盛んに作られ初めたのですね。
それにしても、後家に対して賃金を不払いにするなど、人間はいつの時代も、どこに国でも
自分よりも少しでも何か欠けていると見なすと下に見る生き物で、身分階級を作りたがるものなんですね(^_^;)
弱い立場の者をもっと窮地に追い込むことで、優越感に浸るなど非人道的で、私からすれば、言語道断な話です。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり商品作物がこれだけ作られているのですから、いわゆる「貧農史観」があてにならないのがよく分かりますね。
「後家倒し」は確かに現代の感覚から見れば噴飯ものですね。ただ、当時は綱吉の治世以降は「思いやり社会」ですから、後家さんにも他に向いている仕事があったのではないでしょうか。
米
ろっぽん なぜこの時代、米が通貨の代用になり武士の禄になり
何万石と大名の経済力の指針なったのでしょうか
年貢として他の作物だった場合はなかったのでしょうか。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 石高制は秀吉の太閤検地で各大名の石高が確定した際に採用されました。その後、江戸幕府も各大名の所領を把握しやすいということでそのまま継続したという一面があります。
加えて朱子学を幕府の正式な学問として採用したことで、儒教に由来する重農主義が石高制に拍車をかけたという見方もありますね。実際には貨幣経済が発達したにもかかわらず、表面上はそのまま石高制が継続された。この二重構造が幕府にもたらした悪影響は計り知れないものがあると思います。
オバrev 備中鍬、脱穀用の千歯扱、選別用の唐箕や千石通しって、昔実家にあったような気がしてますけど(^_^;)ドンナイナカヤネン?
それだけ江戸時代の技術が素晴らしかったのか、進歩がなかったのかは分かりませんが、どうなんでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 現在のような機械設備が発達したのは主に戦後ですからね。農作業を手ずから行っておられたのであれば珍しくはないと思いますよ。
仰るとおり、江戸時代の農業技術の発達はめざましいものがあったと思います。収穫を増やす目的があったのですからなおさらですよね。
このこともあって、江戸幕府初期の17世紀初め頃の我が国は世界有数の金銀産出国となり、また鉱山における最新の技術や優(すぐ)れた道具は、そのまま治水(ちすい)や溜池用水路(ためいけようすいろ)などの開削(かいさく)に関する技術に転用されました。
これらの技術によって河川敷(かせんじき)や海岸部において大規模な耕地化が可能となり、また平和な世の中となったことで人口が急増したことによる必要性から、全国で新田開発(しんでんかいはつ)が積極的に行われたため、我が国の耕地面積は江戸時代初期の164万町歩(ちょうぶ、1町歩は約1ヘクタール)から、およそ100年後には297万町歩に増加しました。
なお、新田開発は当初は幕府や藩の主導で行われましたが、17世紀末頃からは有力な商人などの町人が資金を提供した町人請負新田(ちょうにんうけおいしんでん)が増えていきました。代表的な町人請負新田としては、現在も地名として残っている大坂の鴻池新田(こうのいけしんでん)などがあります。




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ろっぽん 外国(オランダ)の技術と言っても手をとり足を
取り教えてもらったわけではなくて辞書ひきひきラン書を翻訳しさらにそれを書写し、我が国の技術水準に創意工夫し作業者に具体的、指示をし作業してゆく技術は、たいしたもんだと思いますよ、それは自分自身を考えても本だけでコミックの描き方もなんもわからなくても。
現在そなわってるテクだけを積み重ねることによって
十年前には考えられないテクを身に付けたことからも想像出来ますね。
今になって気がつくのですが勉強って本来はそんなものですよね
大学に入る偏差値のみのハッキリ言って勉強テクだけで受かっただけでは
なんも役にたたんと元外務省主任分析官の佐藤優が言ってました。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 日本人は昔から仰るような「本来の勉強」を得意とする柔軟性がありました。
ところが、最近の「詰め込み教育」が柔軟な発想を失わせたばかりか、ゆとり教育でさらに足を引っ張っているのが現実です。
「ものづくりの国・日本」の輝きを失わせたくはないですね。
ぴーち こんばんは!
こうして伺っていると日本人の技術力は
凄まじいですね。
原料さえあれば、何でも作ってしまう所が
凄いですね。
しかも外国に一つも引けを取らない
物ばかりですものね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
江戸時代は鎖国の状態で諸外国の技術が伝来しなかった代わりに、我が国で独自の発展を遂げたところがいくつもあります。
単なる「貧農史観」では絶対に理解できない「本当の歴史」ですね。
次に、朝鮮通信使に対するこれまでの待遇が丁重(ていちょう)過ぎたと感じていた白石は、家宣の将軍就任の慶賀を目的に新たな通信使が我が国に派遣されてきた際に、その処遇(しょぐう)を簡素化するとともに、それまでの朝鮮からの国書に「日本国大君殿下(たいくんでんか)」と書かれていたのを「日本国王」と改めさせました。
これらは、一国を代表する権力者である将軍の地位を明確にする意味が込められていましたが、同時に将軍と皇室との関係において、将軍家の地位を下げる結果ももたらしていました。なぜなら「国王」は「皇帝=天皇」よりも格下と考えることも可能だったからです。
さらに白石は「金の価値を落とした偽物を市中に出回らせることで不正な利益を上げることは許されない」という儒教的な観点から、元禄小判を回収して金の含有率(がんゆうりつ)を元に戻した正徳小判(しょうとくこばん)を発行しましたが、貨幣の価値の上昇が必然的に物価の値下がりをもたらしたことで悪質なデフレーションを引き起こしてしまい、景気が悪化してしまいました。
優秀な朱子学者だった白石ゆえに、世の中の「生きた経済」が理解できなかったことによる失政でした。そして、このような「朱子学の考えを重視するゆえの経済の無知」は、この後も幕府が何度も繰り返すことになってしまうのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんにちは!
いわゆる白石という方は、砕けた言い方をさせて
いただくと「頭でっかちで融通が利かない」人間だった訳ですね。朱子学も時の流れで世の中の状況が変化したり、あるいは国の情勢が違ったりしているときに、その教えのまま無理にその時代に当てはめようとしても、どこかに必ず歪が生じてしまう事でしょしね。そういう事を無視し、自分の考えだけを押し通そうとした事で事態は悪化し、失政してしまったんですね。良かれと思った事でも、よく世間というものを知らずに行動を起こすと、たちまち命取りですね。
現代の政治家さんにも当てはまりそうな内容ですね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、学問を究めた人間にありがちな「自分の考えが絶対」という発想が、時として生命取りになることが往々にしてありますし、そのような誤りがあるとして、その後の対応が明暗を分けると思います。江戸幕府の場合はどうだったのか…。これから検証していく必要があるでしょうね。
> 現代の政治家さんにも当てはまりそうな内容ですね(^^ゞ
私もそう思いますし、答えを出せる政治家こそが信頼に値することでしょう。
学者先生の将棋下手。
晴雨堂ミカエル そういえば、大河ドラマ「八代将軍吉宗」でしたか、佐藤慶氏が新井白石に扮していました。
朝鮮通信使を赤い束帯で迎え、いささか横柄な態度で接待の内容を変える旨を通告している場面がありました。
家康・秀忠親子が国交回復のために苦心して作り上げた外交方針を変更する訳ですが、白石の他の業績を鑑みるに、たぶん家康の深慮は考慮しなかったと思いますね。
「大君」にしても、練りに練られた絶妙な称号でした。
日本国内で「将軍」は最高主権者でも国際法上はただの一司令官、かといって中国相手に「皇帝」では態度を硬化させるし「国王」では屈辱外交、皇室に対しても「皇帝」では反幕府の口実になってしまうし、「国王」では諸外国に徳川氏は天皇家の臣下であることを認めてしまう。
白石という人間は、暗記は得意だが応用が利かない典型的な秀才バカですね。
先人が苦慮して編み出した方法の経緯や背景には全く無頓着、いまの政治家も反面教師にしてもらいたいものです。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 吉宗は私も見た覚えがあります。
学者としての「頭でっかち」が、家康が苦心して築き上げてきた外交をぐちゃぐちゃにしましたね。仰るとおりの無配慮無頓着がどれだけ国益を害してきたことか。決して昔話ではありません。
新たな宮家は当時の第113代東山天皇(ひがしやまてんのう)の子である直仁親王(なおひとしんのう)によって立てられ、閑院宮家(かんいんのみやけ)と呼ばれましたが、実は設置から約半世紀後に皇室の直系の血が絶えてしまい、閑院宮家から第119代の光格天皇(こうかくてんのう)が誕生しました。
そして、光格天皇の血統は現代の天皇陛下から秋篠宮文仁親王殿下(あきしののみやふみひとしんのうでんか)を通じて悠仁親王殿下(ひさひとしんのうでんか)までつながっています。
つまり、白石が閑院宮家の創設に助力したことによって、現代にも皇室の血統が脈々と受け継がれているのです。その意味においても、白石の功績は非常に大きいものがあったといえるでしょう。




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ぴーち こんにちは!
天皇家は半世紀後に一度途絶えていたのですか!
全く存じておりませんでした!
まあ、長い歴史の中ではそういう事があったのも
仕方が無かったとは言え、白石の功績が多大であったということだけは何故か埋もれてしまっているのが、なんとも可哀想に思いますね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうなんです。新井白石が閑院宮家を創設していなかったら皇統の危機が現実となるところでした。
ただ、いつの世も人知れず危機を救った人物にはなかなかスポットライトが当たらないものですからね。
白石の場合は明暗の「暗」の部分も大きいですから余計かもしれません。
HANA子 しばらくです
確かに新井白石は明暗の暗の部分ばかりが目立ってる人のような気がします…
と思ったのですが、
よくよく思い返すと為政者ってのはすべからく、時には捏造されてまで明暗の「暗」の方ばかりがクローズアップされる存在でしたっけ
新井白石の「暗」といえば荻原重秀の全否定の結果起きたアレでしょうか?
HANA子さんへ
黒田裕樹 ご無沙汰しております。
仰るとおり、時の為政者は誤解を招く部分が多いですが、白石の場合は前任者を不当に評価した分、自業自得な一面がありますね(もっとも、今回の記事のように評価すべき部分もありますが)。
> 新井白石の「暗」といえば荻原重秀の全否定の結果起きたアレでしょうか?
鋭いですね(^^ゞ
明日(15日)をお楽しみに!
白石や間部は家宣亡き後に4歳で跡を継いだ7代将軍の徳川家継(とくがわいえつぐ)にもそのまま仕えました。彼らによる政治を当時の代表的な元号から正徳の治(しょうとくのち)といいます。
ところで、家宣が跡を継いで真っ先に行ったことは生類憐みの令の廃止でした。一般的な歴史教科書には「廃止によって家宣が庶民の喝采(かっさい)を呼んだ」と書かれていることが多いですが、確かに食生活などにおける不満は高かったものの、20年以上に及んだ法令で世の中の価値観が一変したことで、その役目を終えたからこその廃止ともいうべきかもしれません。
さて、朱子学者であった白石は、文治政治をさらに推し進めるとともに、儒教の精神に基づく道徳論や権威に従って様々な政策を行いましたが、その結果は明暗がはっきりと分かれるものでした。




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ろっぽん 明暗がはっきり分かれるものだったを
もう少し具体的に説明してくれませんか
しかし、ここの記事を読むだけでも本を読む手間が省けますね
まぁ省けるというより深めることができますね
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 > 明暗がはっきり分かれるものだったを
> もう少し具体的に説明してくれませんか
正徳の治についてはあと2回更新の予定でして、明日(14日)の全部と明後日(15日)の前半で「明」を、明後日の後半で「暗」を紹介させていただくことになります。
> しかし、ここの記事を読むだけでも本を読む手間が省けますね
> まぁ省けるというより深めることができますね
有難うございます。これからも分かりやすさを心掛けたいと思います。
なおまゆ 新井白石は学者としても一流ですよね。
綱吉の業績を理解していたはずでしょうに・・。
後世の私達が誤解した原因が新井白石にあったなんて、残念ですね。
日本人精神を作った法令がたった一人の悪意によって歪められたことを残念に思います。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 新井白石は吉宗によって政界を追放された後に自伝を残しているんですが、その際に綱吉の治世を不当に貶めている箇所が見受けられます。そのような「白石史観」が後世の評価にそのままつながってしまっているのが、仰るとおり残念です。
白石は優秀な学者であったゆえに、自己の想定外や範囲外の業績が理解できなかった一面がありますね。
天災はそれだけで終わりませんでした。4年後の1707年10月には元禄大地震を上回るマグニチュード8.6と推定される大地震が発生し、さらにその影響があったからか、49日後の1707年11月23日には富士山が大噴火を起こしてしまいました。
富士山の噴火によって周辺地域は壊滅的な打撃を受けて飢饉(ききん)が発生し、また大量の火山灰(かざんばい)が降り積もったことによって江戸も大きな被害を受けました。当時の大地震は宝永大地震(ほうえいおおじしん)、富士山の大噴火は宝永大噴火(ほうえいだいふんか)と呼ばれています。
立て続けに起きる大火事や天災などの不幸な偶然は、それまでの元禄文化の残像を吹き飛ばし、庶民はやり場のない怒りや悲しみを時の為政者(いせいしゃ)である綱吉にぶつけるようになり、また綱吉自身もショックが大きかったのか、約1年後の1709年1月に64歳でこの世を去ってしまいました。




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ろっぽん なるほど、為政者とみられたのか悪将軍と噂を立てられたもこのころですね。
まるで官さんみたいですね
現在はある意味、危険な状態ですね。独裁的カリスマ指導者が出てくる可能性がある
大阪の橋本知事並びに維新の会が出たように!
日本はアメリカ国債を400兆円近く保有してます。
そのうち300兆円くらいを売るなどして現金化すれば
復興経費は捻出できます。
でもことはマスコミでも言わないタブーになっています。
だから日本の運命はアメリカの運命でもあるのです。
なおまゆ 運が悪いとしか言いようがない将軍ですね。画期的な政策を立案、実行した業績は、吉宗など足元にも及ばない素晴らしいことなのに。
何故これほど誤解されてしまったのでしょうか?
歴史教育の歪み・・・・恐ろしいことです。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 政治不信が高まれば、現状を打破してくれそうなカリスマ的な指導者が現れることがよくあります。
ただし、その指導者が国益よりも「国民の人気取り」を優先した場合に、国の行く末を誤ってしまうということもよくありますね。
アメリカの国債の件は我が国最大のタブーといわれていますね。ただ、アメリカに頼らずとも、我が国の国力はそう捨てたものではないと私は思います。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 綱吉の政策への誤解は、次代の政治家である新井白石が、自己の政治をよく見せるために必要以上に綱吉の政治を不当に評価したことに始まります。
いわゆる「歴史の捏造」は、近現代史に限ったことではないんですよね。
ぴーち こんばんは!
やはりこの時も時の権力者に怒りの矛先が集中してしまったんですね(^_^;)
確か数年前のアメリカのハリケーンの時もブッシュ大統領に批難が集中し、オバマ政権にシフトチェンジした経緯がありますが、今回のこの震災でも、やはり槍玉に挙がる人は、ただ一人。
時代や国を越えて、やはりその時にその国を統辞していた人物が全て悪者にされてしまう運命は避けられないのでしょうかね・・。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、為政者としての運命というものがありますね。
ただ、それに打ち勝つだけの気力と実力が求められるのもまた政治家です。
それに耐えきれるだけの力が今の為政者にはあるでしょうか…。
オバrev 何と9年の間に大きな地震が2つと、富士山爆発に大火事多発とは、いくら名将軍でも批判されますよね。
でもその状況は現在の日本ともダブって見えてしまいます。
しかし大きな違いは、時の支配者の能力が全然違うということ? orz
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰ること、私もまったく同感です。
綱吉やこの後に登場する「ある有能な政治家」ですら対応しきれなかったのですから、いわんや…(´・ω・`)
これらの声に対し、荻原重秀は「幕府が一両と認めるのであれば、たとえ瓦礫(がれき)であろうと一両の価値に変わりはない」と反論しましたが、重秀の考えは、瓦礫を紙切れに換(か)えれば私たちが普段から使用している紙幣(しへい)と全く同じことになります。
「お金の信用はその材質ではなく、裏打ちとなっているのは政府の信用である」という思想が20世紀の経済学者であるイギリスのケインズによって世界中に広まりましたが、それより200年以上も早く実践(じっせん)していた重秀の先見性に対して、私たちはただただ脱帽(だつぼう)するばかりですね。
このように、綱吉が次々と打ち出した政策は人々の意識を「人命を尊重する思いやりの精神」に改めるとともに、景気を良くして元禄文化の全盛をもたらしました。ところが、綱吉の治世の晩年になると、彼に責任を押し付けるにはあまりにも酷(こく)な「アクシデント」が立て続けに起きてしまったのです。




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ぴーち こんにちは!
確かに私たちが今使用している紙幣は最高1万円ですが、これが5万円、10万円札が今後出現したとしたら、たった1枚の紙切れでも10万円の価値とみなされる訳ですものね。
そして仰る通り、大昔の様に貨幣石として(今でも石のお金を使用している所もあるようですが)石を使用しても良い訳で、現代は石よりも軽く扱い安い紙が使い勝手の良さから考えても一番なんでしょうね。(勿論、他の様々な理由があるとは思いますが)
それにしても、重秀は素晴らしい先見性を持ちあわせていたのですね^^どんな生い立ちだったのか興味をそそられます。
凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに、現代における紙幣が一番使い勝手が良さそうですね。政府の信用が紙切れ一枚に託されているという発想は画期的だったことでしょう。
重秀の先見性は素晴らしいですが、それゆえに当時の人々から理解できず、悲劇的な結末を迎えてしまうのは哀れでもあります。