新将軍はまだ少年である―。これを絶好の機会であると見なし、幕府を倒して牢人を救済しようと行動を開始した男がいました。その名を由井正雪(ゆいしょうせつ、別名を由比正雪=読みは同じ)といいます。
正雪は江戸を焼き討ちし、幕府が動揺(どうよう)している間に江戸城を乗っ取り、同時に大坂や京都でも一揆をおこして天下を混乱に陥(おとしい)れようとしましたが、計画が事前に幕府に漏(も)れてしまったことで未遂(みすい)に終わり、1651年7月に正雪は自害しました。この事件は当時の元号から慶安の変(けいあんのへん、または由井正雪の乱)と呼ばれています。
正雪の計画は失敗しましたが、あわや幕府転覆(てんぷく)かという事態が現実になりそうだったということは、幕府に大きな衝撃(しょうげき)を与えました。そして、この事件をきっかけに幕府はそれまでの武力で世の中を支配するとした武断政治(ぶだんせいじ)の方針を大きく変更することになるのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
なるほど、平和である時は確かに武力はかえって無用の長物になってしまうのでしょうけれど、平和な時ばかりが続くとは限りませんし、いざこういう事件が起こったりした時は、備えあれば、憂いなし。
盾ばかり備えていても、すぐに負けてしまいますものね。
凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、平和な時代はいつまでも続くとは限りません。
幕府は慶安の変が起きてしまったことを反省し、その原因を食い止める方法を考えるようになりました。
詳しくは次回に紹介しますので、どうぞご期待下さい。
髭と茶筅髷。
晴雨堂ミカエル 時代劇によりますが、この頃から髭を蓄えた武将や茶筅髷の武将が姿を消し、座り方も胡坐だったのが正座に変わっていきます。
髭については昔NHKで放送されていたクイズ番組で、戦国の威風を払拭させるために髭を剃る事を強制したという話を聞いた事があります。
茶筅髷も、時代物の劇画で「茶筅髷禁止令」という作品があり、そこでも髭剃りと同じ理由で禁止になったとありました。
正座については、単に畳が普及しただけと思いますが、正座をすることで脚を痺れさせ自由を奪うという意図があったのでは、と勘繰ったりもします。
黒田氏はどう見ていますか。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 形から入る、という意味を考えれば仰る一面があったと私も思います。
ただ、精神的なものまでにはなかなか至りませんから、別の荒療治も必要だったのではと考えております。
荒療治についてはもうしばらく後に出てきますね。
ろっぽん 横山光輝の伊賀の影丸にも出てきますね
倒幕という芽はこのころから存在していたんですね
たしか周五郎のモミの木は残ったにも
原田甲斐が船宿で外様の倒幕の密談をするシーンがありましたね
いつ何時、火種が爆発するかわからんものですからね
よく300年近くもったものだと思います。
世界的にまれでしょうね
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、倒幕の目は早くから出ていたようですが、安定政権といえども打倒の勢力は地下に潜んで機会をうかがい続けることも多いですね。
幕府自体が弱体化して、世間から見放されそうだと分かった際に、地下に潜っていたのが一気に噴き出したともいえるかもしれません。
オバrev 由井正雪の名は、学校で日本史を学ぶ前から知っていました。それは少年サンデーに連載された横山光輝の「伊賀の影丸」第二部の「由井正雪の巻」を読んでいたからです。
由井正雪の乱で自害してさらされていた首が、実はニセモノだったということから、伊賀忍者と由井正雪を守る忍者達の忍術の掛け合いによる、息もつかせぬ戦いが繰り広げられます。
この時の私のお気に入りの忍者は、全盲の忍者左近丸。他の伊賀忍者を惑わす由井正雪側忍者の幻術を鮮やかに破ります。
な、懐かしいが、年がバレる?^^;
オバrevさんへ
黒田裕樹 「伊賀の影丸」ですか。残念ながら私は未見なんですよ。オバrevさんとはそんなに年が離れていないはずなんですが…?
由井正雪は作品によっては悪役になったり、ヒーローになっていたりしますね。未遂で終わった分、想像を膨らましやすいのかもしれません。
しかし、だからといって武士が農民や町人として再出発することは至難(しなん)の業(わざ)ですし、何よりもプライドが許しません。かくして、大名の改易によって誕生した数十万人の牢人(ろうにん、別名を浪人)は、職にあぶれたまま失意の日々を送っていました。
活路を見出そうと思った多くの牢人たちが江戸などの大都市にやってきましたが、厳しい現状がそう簡単に変わるわけがありません。食いつめた牢人の中には、自分たちをこんな境遇に追い込んだのは政治のせいであると幕府を深く恨んだり、苦しい生活から盗賊などに身を落とす者もいたりして、社会不安が増大していきました。
追いつめられた牢人たちの不満が頂点に達しつつあったその時、一人の指導者によって大きな組織が出来上がるとともに、たまたま起きたひとつの出来事によって江戸幕府は崩壊(ほうかい)の危機を迎えようとしていました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
今日の記事を読ませていただいて
いかに自分は今まで歴史について無頓着だったか改めて思わされた気がしました。
ただ漠然と戦国時代から江戸時代へ時代が
移ったという上辺だけの事実だけに気を取られていて、そこで実際に生きていた人たちの気持ちや、生活には全く気にもとめませんでした。
実際問題、戦国時代には常に必要とされていた侍たちは職を失った訳ですから、江戸時代の武士はどのようにその危機を乗り越えていったのかということをまずは知らなければ、江戸時代を語れないというものですよね(私は知りませんでしたが(^^ゞ)
また詳しく勉強させてくださいね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉ありがとうございます。
歴史の流れを実感できない教わり方(あるいは教え方)では、今回のような牢人発生における様々な事情が理解できないのは無理もないと思います。
今後も「分かりやすい歴史」を目指しますので、よろしくお願いします。
浪人
ろっぽん その辺のことをコミック化してるのが「焼け野のわらび」なのです。
仙臺藩は戦国時代、覇権に次ぐ覇権でほぼ東北の太平洋岸を手中にしました。そうして沢山の兵をリストラさせるわけにゆかないので、新田開発隊として山岳部や沼の干拓をやらせました。実質、農民なんだけど武士という半士半農の身分の武士集団が2割いたと言われます。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 半士半農は八王子千人同心もそうですよね。
士農工商といっても身分の差は厳格ではなかった。これもまた時代ではありますが、記事の頃はまだまだ武士のプライドが高かったですから、結果的に「事件」が起こりそうになってしまいましたね。
由比正
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
いよいよ、登場ですね。
由比正雪ですね。
私が、興味深いのは、この乱に紀州徳川家が
関わっているという黒い噂です。
この乱の後、徳川頼宣は、江戸での滞在期間を
長くされました。
その後、紀州藩でもこの一件は、タブーとなりました。
もし、紀州徳川家が関わっているとすると
徳川吉宗の将軍就任の謀略を考えると
紀州藩は、昔から、天下を取りたかったんですね。
青田さんへ
黒田裕樹 徳川頼宣の話は有名ですね。
物語要素が強くなりますから今回は省略しますが、その後の徳川綱教と綱吉の娘の鶴姫との婚姻や吉宗のことを考えれば、あながち物語だけの世界ではないような気もします。
謀略
青田です。 黒田先生
おはようございます。
青田です。
徳川頼宣、鶴姫、徳川吉宗の将軍擁立、御三卿の設立
と、証拠はないですが、どう考えても、おかしいですね?
『一番、得をした人間を疑え。』の鉄則から考えても。。。
青田さんへ その2
黒田裕樹 吉宗に関しては、一昨年の第7回歴史講座で私も指摘しています。
証拠がない以上は想像の域を出ませんが…。
武士にとっての苦しみ
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
もう、ご存知かもしれませんが
10月に市川海老蔵主演で、『一命』という映画が全国で、上映されます。
これは、『切腹』という映画のリメイクなのですが、
取り潰しになり、江戸に出てきた浪人が、狂言切腹をするために井伊家に行き、本当に切腹させられるという封建制度の残酷さを描いた映画です。
この時代、カネに困った浪人は、狂言切腹という話は、本当なのでしょうか。
もし、この話が本当なら、江戸幕府による平和の政治というのは、農民だけではなく、武士にとっても苦しい時代だったんですね。
<取り潰された大名の数>
家康時代・・104家
秀忠時代・・54家
家光時代・・48家
家綱時代・・17家
綱吉時代・・27家
家宣~家茂時代・・・16家
家康時代は、仕方ないとしても、秀忠。家光時代も大名の取り潰しが多かったのですね。
綱吉時代も家綱時代よりも増えているのに、少し、驚きました。
【取り潰された大名の家臣】
・ 江戸に出て、傘貼りなどの内職で、食べるしかない。
・ 他の大名に仕官しようとしても、平和な時代なので、武芸が出来ても仕官できない。
【通常の武士】
・ 石高が決まっているので、米の価値が下がるとそのまま、収入が減る。
役職は、石高で決まるので、なかなか、出世できない。
江戸時代というのは、農民にとって、苦しい時代のイメージがありましたが、実際は、武士にとっても苦しい時代だったんですね。
江戸時代は、280年も平和な時代が続いたと言われますが、よく、由比正雪の乱レベルで、おさまった思います。
ただ、江戸時代の文化の担い手のほとんどが、町人であることを考えると、町人のほうが、自由度があり、楽しい社会だったのでしょうね。
青田さんへ その3
黒田裕樹 確かに江戸時代は町人の方が生き生きとしていたというイメージがあります。
身分やプライドが高くとも、武士の生活は困窮する一方でしたからね。
平和な生活は、武士の存在を無意味なものにしてしまいました。
しかしながら、水面下でプライドを守りつつ懸命に鍛錬に励んだか、身分の違いから武士にあこがれて、純粋に武士としての修練を積んだ人々によって、幕末の混乱期にも武力が存在したのもまた事実です。
改易の原因で一番多かったのは、跡継(あとつ)ぎが決まらないうちに大名が死亡してしまうという、いわゆる無嗣断絶(むしだんぜつ)でした。例えば、関ヶ原の戦いで西軍に属しながら裏切った小早川秀秋(こばやかわひであき)や、徳川家康の四男の松平忠吉(まつだいらただよし)らが無嗣断絶で改易となっています。
無嗣断絶は大名にとって深刻な問題でした。本来であれば大名が元気なうちに後継者を決めておくべきなのですが、例えば子供がいない大名が弟を養子に決めた後に実子が生まれた場合には、お家騒動の原因となって改易の口実を幕府に与えてしまいます。
また、人間はいつ死ぬかわかりませんから、万が一の場合に急いで跡継ぎを決めることができれば大名は助かるのですが、このような末期養子(まつごようし)の制度は幕府が一切認めていませんでした。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
これまた厳しい沙汰ですね。
当時は今のように寿命だとてさほど長くは
無かった事でしょうから、大名にとっては頭の痛い問題
だった事でしょう。
何故これほどまでに大名に対して厳しかったのでしょうか。幕府の絶対的権限を知らしめる為だけが理由だったのでしょうか。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 当初の江戸幕府にとっては、親藩・譜代・外様を問わず、各大名は「いずれ幕府を脅かす敵」であると認識していました。
そこで「謀反は芽の出ないうちに潰す」という考えと、取り潰した大名の領地を幕府の直轄とすることで実収入を増やすということ、また仰るとおり「幕府の絶対的権限を知らしめる」ためという一石三鳥を狙う目的で、次々と大名を改易処分にしたのです。
しかし、このようなことはやはり無理がありますから、幕府はいずれそのツケを支払わされることになるんですよね。詳しくは次回以降に紹介します。
御三卿
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
徳川吉宗の講座で、御三卿がインチキということは、わかりました。
大名にすると後継者がいないと断絶するからなのですね。
何というウルトラC。吉宗の権力欲の強さは、
テレビ番組とは、まったく、違いますね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
絶対に潰れない御三卿は、それまでの大名制度のことを考えれば明らかなインチキです。
吉宗の権力欲の強さは凄まじいものがありますが、その報いは慶喜の際にしっかりと受けることになるのも皮肉ですね。
権力
ろっぽん ズート疑問でしたが
そんな後継ぎの問題、内政干渉では
この時代、各藩の藩侯も天皇と同じで飾りにしかすぎなないだそうですね。決めるのは老中で逆らえば暗殺、毒殺それは天皇も同じで(この国のかたちより)
日本は独裁者が生まれず飾りのトップが世の中に君臨している。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仰る一面は確かに存在しますね。
合議制を好む我が国の風潮は、同時に独裁政治を極端なほど嫌います。
織田信長のように、我が国の独裁者はたいていの場合ろくな死に方をしません。
信長以外にも、歴史に埋もれた「暗殺された独裁者」は多数存在していることでしょう。
なおまゆ 保科正之、この政治家の名が刻まれた時代ですね。
現在、彼のような政治家がいれば日本はどれ程良い国になるでしょう。
江戸時代の政治家の白眉というべき名宰相ですね。
彼のことに触れられるのでしょうか?
楽しみにしています。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 徳川将軍家の血を引いていながら名宰相に徹した保科正之の実直さと有能さは、政治家の鑑(かがみ)ですよね。
正之については6月2日に紹介する予定です。
絵画では狩野派(かのうは)から狩野探幽(かのうたんゆう)が出て、幕府の御用絵師(ごようえし)として活躍し、大徳寺方丈襖絵(だいとくじほうじょうふすまえ)などの作品を残しました。また京都では土佐派(とさは)から俵屋宗達(たわらやそうたつ)があらわれ、風神雷神図屏風(ふうじんらいじんずびょうぶ)などの大胆な構図(こうず)と色彩(しきさい)が魅力の作品を生み出しました。
多才(たさい)な文化人として知られた本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)は、絵画の他に蒔絵(まきえ)や楽焼(らくやき)と呼ばれた陶芸(とうげい)に優れた作品を残しており、舟橋蒔絵硯箱(ふなばしまきえすずりばこ)が有名です。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、諸大名が我が国に連れてきた朝鮮人の陶工(とうこう)の技術が広まったことで、この時代までに陶磁器(とうじき)の本格的な生産が始められました。鍋島氏(なべしまし)の有田焼(ありたやき)や島津氏(しまづし)の薩摩焼(さつまやき)、毛利氏(もうりし)の萩焼(はぎやき)、松浦氏(まつらし)の平戸焼(ひらどやき)などが有名であり、特に有田焼では酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん)が赤絵(あかえ)の技法を完成させました。
また、文芸面では教訓的な内容を主とした仮名草子(かなぞうし)があらわれ、連歌(れんが)から独立した俳諧(はいかい)からは松永貞徳(まつながていとく)の貞門俳諧(ていもんはいかい)が流行しました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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徳蒼 唯我 高校のときに習った懐かしい言葉が並んでいますが、ここまで分かりやすくはなかったです。
応援しますので、このまま続けていって下さいね!!
徳蒼唯我さんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
今後も「分かりやすい歴史」を目指して更新を続けます。
ぴーち こんばんは!
楽焼とは、ロクロを使用しないヘラや手だけで作られた焼き物の事ですね!
綺麗に成型された焼き物よりも、楽焼のような
いびつさが残る焼き物、好きですねぇ^^
応援凸
tursiops 120,000HITおめでとうございます!
応援しております♪
お忙しい中、畑違いの私のブログへも毎日お越し下さりありがとうございます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
楽焼の素朴さも良いですし、朝鮮人陶工による陶磁器も素晴らしいものがあります。
他の国との融合の文化もまた魅力がありますね。
tursiopsさんへ
黒田裕樹 お祝いのお言葉有難うございます。
こちらの方は読み逃げばかりで申し訳ありませんが、今後とも末永くよろしくお願いいたします。
儒教(じゅきょう)に由来し、主君に絶対の忠誠を誓うとともに上下の秩序(ちつじょ)を重んじる学問であった朱子学(しゅしがく)は、室町時代には五山(ござん)の学僧が学んでいましたが、江戸幕府の公的な学問として採用されたことで大きな広がりを見せました。
朱子学は京都の相国寺(しょうこくじ)の禅僧(ぜんそう)であった藤原惺窩(ふじわらせいか)によって広められ、惺窩の門人(もんじん、弟子のこと)である林羅山(はやしらざん)は徳川家康に招かれ、羅山の子孫は林家(りんけ)と呼ばれて、幕府代々の儒者(じゅしゃ、儒教を学び、研究する学者のこと)として仕えました。
建築では、家康を祀(まつ)るために築かれた日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)をはじめとする霊廟建築(れいびょうけんちく)が広がり、神社建築では精巧(せいこう)かつ豪華(ごうか)な権現造(ごんげんづくり)が用いられました。
また、京都では伝統的建築として数寄屋造(すきやづくり)の桂離宮(かつらりきゅう)が建てられたほか、突き出した舞台が有名な寄棟造(よせむねづくり)の清水寺本堂(きよみずでらほんどう)もこの時代の建築物です。思い切って物事を決断することを「清水の舞台から飛び降りるつもりで」とよく言いますね。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
朱子学が公的な学問として採用されたということが要因で、江戸時代は主君と家来の主従関係がより確立されていったのでしょうか。
間近に東照宮があるのに、実は一度も拝観した事がありません(^_^;)
清水寺は修学旅行の時に、一度だけ行った事があります^^
近いといつでも行けるという思いがあるせいか、
なかなか実現出来ないものですよね(^_^;)
一度歴史的建造物という観点で、見物に行かなければなりませんね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、朱子学の影響は江戸時代の様々なところに影響しています。
良いところも、悪いところも…。
私も清水寺は小さい頃に一回しか行ったことがありません。
大阪城も滅多に行きませんし。
近いと本当に行かないものですよね(^^ゞ
想像してみました。
徳蒼 唯我 なるほど。
ひょっとすると、今の仕事における人間関係や親子などの関係も、このころに採用された朱子学が影響しているんでしょうか?
まあ、仕事上の人間関係も一昔前に比べたらマシにはなってきているのですが……。
もし信長が天下統一していればどんな世の中になっていたのか想像してみたのですが、アメリカみたいな自由主義な国になっていたのかもしれませんね。
藩校
ろっぽん こちらに有備館という伊達政宗の元本拠地、岩出山にある藩校なのですが。おれの先祖も学んだそうで
朱子学だそうです。
教科書は漢文なのですか、それとも訳した本ですか
徳蒼唯我さんへ
黒田裕樹 朱子学は確かに現代にも様々な場面で影響を与えていますね。
朱子学は徳川幕府にとって都合が良かったからこそ採用されましたからね。
信長だったらおそらく見向きもしなかったでしょう。そうなると、自由主義な国になっているかもしれませんが、同時に日本人の勤勉さも失われていたかもしれません。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仙台藩でも朱子学が採用されていたのですね。
教科書はおそらく漢文で、読み下していたのではないでしょうか。
それまでの自由な取引から松前藩の独占となったことで、不利益を受けることになったアイヌの不満は次第に高まり、やがて1669年にシャクシャインが戦闘を行いました。これをシャクシャインの戦いといいます。
松前藩は近隣(きんりん)の津軽藩(つがるはん)の協力を得て戦いの鎮圧(ちんあつ)に成功すると、以後アイヌは松前藩に全面的に服従することになりました。なお、その後18世紀前半頃には、近江(おうみ、現在の滋賀県)の商人をはじめとする場所請負人(ばしょうけおいにん)が商場の経営を請け負うようになり、彼らからの運上金(うんじょうきん)が藩の財政を支えるようになりました。これを場所請負制(ばしょうけおいせい)といいます。
アイヌは和人商人に使われる立場となり、やがて交易をごまかされるなどの不利益を受けました。こうしたアイヌの人々の生活事情を改善しようとしたのが、18世紀後半に政治の実権を握(にぎ)った田沼意次(たぬまおきつぐ)だったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
この蝦夷地方のお話は、恥ずかしながら今まで全く存じませんでした(^_^;)
シャクシャインの戦いなどというのは、一度も習った記憶がありませんでしたので、今日はまた一つ勉強になりました。
元々日本の先住民族だと言われているアイヌ人はこの当時、戦いによって次第に虐げられて行った訳ですね。田沼意次がそれを救おうとした人物というのも、存じませんでした。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 江戸時代はアイヌにとって受難続きでしたね。田沼意次による救済も、彼の失脚で絵に描いた餅に終わってしまいました。
ただ、明治になってからの同化政策が本当にアイヌのためになったかどうか、という点もありそうですね。
アイヌ
ろっぽん 昨日おきてがみにてURLを送信しました「チカップカムイ」を読んでいただけましたか
私はチカップカムイの資料調べする中でシャクシャインの乱を知りました
本当の経緯は、
1アイヌ同士の部族間の争いがあって
2函館の松前に調停を頼みに行ったシャクシャインの使いが本土のアイヌには免疫がないウィルス性の疾病にかかり死んだのを毒殺と誤解しシャクシャインと争いのあった部族も結束して松前と戦ったのが本当のようです。
ウィルスは例えば疱瘡などは平安時代に日本に渡ってきた。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 なるほど、そういう事情もあったのですか。
その後にアイヌが和人に服従したことを思えば、不幸な話ですね。
有難うございました。
よくぞ取り上げてくれました。
晴雨堂ミカエル 白土三平「カムイ伝」の主人公カムイの最期はシャクシャイン戦争でアイヌ側に立ち戦うのですが、映像化は無理でしょうな。
世間では知られていない田沼の先見性です。
田沼の事ですから、国境線の概念もあったでしょうね。盛んに探検を行わせていますし、海外の動静に敏感でしたから。
前後左右上下の相関を理解しない楽翁が高く評価されるのは理不尽です。
同化政策
ろっぽん 明治期の同化政策はアメリカのインデァンに対する考えを手本にしています。
松前藩、幕府はこのことを契機にアイヌのニシン場の保護などをしました。
薩摩の琉球のことにしても文化風俗の強制といったことがなかったのが江戸期で
アイヌの同化政策が朝鮮の同化政策に続き、
現在のいつまで文句をつけるということにつながってると思う。
文化、宗教、風俗の強制をやってしまうといつまでも
恨みが続くと思う。
明治期だって山縣有朋などは朝鮮をスイスのような中立国にしたらと考えていた人もいたんのです。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
「徳川の血を引く高貴」や「朱子学」ばかりがもてはやされる江戸時代では、田沼意次のような人材は抹殺されてしまうのが悲しいですね。
いずれ通史でも詳しく紹介します。
ろっぽんさんへ その2
黒田裕樹 同化政策は、逆の立場になれば怒るのは当たり前ですからね。
ただ、どの国もつい最近までは(一部の国では現在でも)行われているのがまた歴史の常識ですし、難しいものです。
なおまゆ アイヌのことは全く知りませんでした。
田沼意次のこともです。
本当に勉強になり、楽しいものですね。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
田沼意次ほど、現代の私たちに誤解されている政治家はいないと思います。
いずれ通史でも詳しく紹介しますし、茨木市の講座もYouTubeで公開したいですね。
薩摩藩は琉球を属領としながらも表向きは独立国として、当初は明、後には清を宗主国(そうしゅこく)とする朝貢関係(ちょうこうかんけい)を続けさせるとともに、中国との貿易で得た物資や琉球産の黒砂糖を薩摩へ納めさせました。
また、琉球は徳川将軍の代替わりごとに慶賀使(けいがし)を、琉球王の代替わりごとに謝恩使(しゃおんし)をそれぞれ幕府に派遣しましたが、これらはいずれも薩摩藩の指導によって異国風の服装や髪型、あるいは旗や楽器を用いることで、琉球人を異民族のように振(ふ)る舞(ま)わせる形式でした。
なお、薩摩藩によって琉球の対中国貿易はその後も続けられ、藩の貴重な財源となったほか、後には貿易による輸入品を薩摩藩が長崎で売却するようになりました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
私の理解不足でしたら、申し訳ありません。
何故、琉球をわざわざ異民族のように振舞わせたのでしょうか。
質問ばかりで恐縮ですが(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 何故、琉球をわざわざ異民族のように振舞わせたのでしょうか。
薩摩藩は琉球を征服しましたが、清との関係や幕府への対応など、琉球を表向きは独立国に見せたほうが何かと都合が良いからです。いわゆる「大人の事情」というやつですね。
> 質問ばかりで恐縮ですが(^^ゞ
いえいえ、何でもご質問下さいね(^^)v
独立国として
ろっぽん 独立国としてあつかったのですね
うまいやりかたですね
民族のアイデティがつぶされると反発を招きますからね
日本なんて言うけど
東北、蝦夷、九州、クマソ、北海道、アイヌ
出雲族、曽我族などの様々な民族を朝鮮の覇権に敗れた百済が難民としてたどり着いたのが天皇一族で大和政権を作ったのが日本の原型だそうで
逆説の日本より
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、うまいやり方だと思います。
我が国の出自にも様々な説がありますね。うまくミックスして日本民族ができて、島国であるがゆえに他の侵略も受けなかった。色んな条件があって、現在の誇れるべき文化や国家が存在するのでしょう。これからも守っていきたいものです。
薩摩藩
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
幕府は、当初から、薩摩藩に甘かったように思えるのですが。。。
薩摩藩の琉球支配をさせると、当然、貿易で、儲けるのは、当然の成り行きだと思うからです。
外様大名の薩摩藩には、他の西国大名よりも、かなり、特別待遇のような気がします。
こういう姿勢が外様大名中の外様大名である薩摩藩が、幕末に主役になるキッカケになるでしょうね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、相当甘いですね。
これは幕府が薩摩藩を恐れていたので、アメを与えて統制しようとしたのかもしれません。
それに、薩摩藩が江戸から遠く離れているという地理的条件もあったでしょう。
また、設立当初の幕府は外交オンチではなかったので、琉球を支配下に置くことの重要性を理解していたとも思われます。
いずれにせよ、様々な思惑がありますね。
家康から日朝の交渉を任(まか)された対馬(つしま)藩主の宗氏(そうし)によって、1607年に朝鮮使節が我が国に来訪し、1609年には朝鮮との間に己酉約条(きゆうやくじょう)が結ばれました。
日朝貿易は宗氏に独占権が与えられ、貿易がもたらした利潤(りじゅん)によって宗氏は家臣との主従関係を結びました。領地の対馬が耕地に恵まれなかったこともあり、日朝貿易は対馬藩にとって文字どおり生命線だったのです。
1635年、幕府は日朝貿易を監視するために京都五山(ござん)の僧を対馬に派遣(はけん)しました。貿易は朝鮮が釜山(プサン)に設置した倭館(わかん)で盛んに行われましたが、金銀の流出を防ぐ目的で、オランダや清国と同様に1686年には幕府によって対馬藩の貿易額が制限されました。
なお、朝鮮からの使節はその後も幕府の将軍の代替わりの慶賀(けいが)を名目に続けられ、朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)と呼ばれました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
家康はどうして対馬藩に朝鮮との貿易を一任したのでしょうか。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 家康はどうして対馬藩に朝鮮との貿易を一任したのでしょうか。
対馬を治めていた宗氏は、戦国以前から地理的状況もあって朝鮮との付き合いが続いていました。
家康は朝鮮との国交を回復するにあたって、以前から付き合いの深い宗氏に一任することで成功しやすくなるようにと考えたのです。朝鮮と宗氏との貿易はいわばその報酬のようなものですね。
朝鮮
ろっぽん ユーチューブでみた動画なのですが、
現在も島民感情として同胞のような感じがあるんですね。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 > ユーチューブでみた動画なのですが、
> 現在も島民感情として同胞のような感じがあるんですね。
YouTubeの動画の内容は存じ上げないのですが、対馬としての島民感情の意味でしょうか。
最近では韓国が自国の領土と主張しつつあるようですが、れっきとした我が国の領土ですからね。
なおまゆ 日々の更新、素晴らしいですね。お忙しい中で時間を上手に使っておられるのですね。
竹島が韓国領となれば、次は、対馬?
韓国、中国、北朝鮮が外交の切り札と信じている、過去の捏造記事に謝罪する政府の愚かさが国土を狭くしていくのですね。北方領土もしかり。
どうどうと我が国の主権を発揮していただきたいものです。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 お言葉ありがとうございます。何とか時間を作って更新を続けております(^^ゞ
領土問題は主張をやめれば終わりですからね。今後もずっと声を上げていくべきなのですが…。
幕府は長崎を窓口として、オランダから中国産の生糸や砂糖、あるいは欧州産の毛織物などの様々な貿易品を輸入するとともに、オランダ船が入港するたびに商館長(=カピタン)が長崎奉行を通じて提出したオランダ風説書(ふうせつがき)によって、幕府が独占的に海外の情報を得ました。
この頃までに中国では漢民族の明(みん)が滅んで満州(まんしゅう)民族が清(しん)を建国すると、清国の私貿易船が我が国に来航するようになり、貿易額は年々増加しました。当時の我が国は貿易の代金を金銀で支払っていましたが、貿易額の増加は金銀の流出をもたらしたため、やがて幕府は1685年にオランダや清からの輸入額を制限し、1688年には清船の来航を年間70隻(せき)に限定しました。
また同じ1688年には、それまで長崎領内で自由に雑居(ざっきょ)していた清国人の居住地を限定するために唐人屋敷(とうじんやしき)の建設を開始し、翌1689年に完成しました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
オランダもなかなか強かだった様ですね。
布教活動よりも、貿易を重要したということは、当時の日本との貿易には相当な価値があったのでしょうか。
カピタンと聞いて、私はマーチの王と呼ばれたスーザの「エル・カピタン」という行進曲を吹奏楽部で演奏していたので、思い出しました(^^ゞ
意味は全然違いますけれど(^_^;)
凸応援!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > オランダもなかなか強かだった様ですね。
> 布教活動よりも、貿易を重要したということは、当時の日本との貿易には相当な価値があったのでしょうか。
数あるヨーロッパ諸国の中で、我が国と直接取引できる唯一の国でしたからね。
相当な「うまみ」があったことに間違いはありません。
> カピタンと聞いて、私はマーチの王と呼ばれたスーザの「エル・カピタン」という行進曲を吹奏楽部で演奏していたので、思い出しました(^^ゞ
> 意味は全然違いますけれど(^_^;)
英語に直せば「captain」ですからね。
色々な意味があります(^^♪
このころは
ろっぽん 琉球=沖縄は琉球王朝なんですよね
幕末に薩摩が植民地化して薩摩に帰属したんですよね 逆説の日本史にも書いていましたが、
薩摩は日本の最南端で幕府の目が届かず
軍事力を蓄積しそれが統幕という結果になったと
仙臺藩だって、黒潮と寒流の合流する金華山沖の石巻をかかえアメリカ、ロシアの捕鯨船がよく難破してきたんですよ。もしも幕府の目が届かなかったらサンフランシスコに直線距離で一番近い、石巻が外国との貿易が栄えたかも
わからんのですが、外様の意識も鎖国に同意してたんですかね?
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 琉球については仰るとおりですね。近日中に私の講座でも紹介します。
仙台藩の場合は、政宗はともかく伊達騒動の影響などもあって、幕府に対して従順な態度を取り続けたがゆえに、鎖国の状態を守っていたと考えられるような気がします。
最初に考えられるのは、鎖国の状態に入った頃の我が国は戦国時代が終わったばかりで、数十万の兵士や鉄砲が未(いま)だに存在していたことでした。これだけの兵力や武器を所有している国は他にはなく、ヨーロッパ諸国といえどもそう簡単には攻められません。
また、この頃はヨーロッパ諸国において大きな変化があり、それまでのイスパニア(=スペイン)やポルトガルの国力が衰える一方で、新たにイギリスやオランダが勢力を伸ばしつつありましたが、両国はプロテスタントを信仰しており、カトリックと違って領土的野心を持っていなかったことも我が国には良い結果をもたらしました。
さらには当時の我が国が鉄砲の増産を可能とするなど先進的な文化を持っており、海外との結びつきがなくても自国だけで十分に経済や文化が発展できたことや、島国であるがゆえに海という「天然の防壁」が我が国の防衛力を高めていたことも考えられます。
しかしながら、これは同時にもし当時の我が国にとって「長所」となっていた様々な利点が失われてしまえば、我が国は一転して苦しい立場に追い込まれてしまうことも意味しました。そして、その心配は不幸にも約200年後に現実のものとなってしまうのです。




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ろっぽん 私は俳句をたしなんでいますが
それまで文化的に中国の影響、大でしたが
鎖国時代に様々な日本固有の文化が生まれていますね
そういう点では、世界的にまれですね。
国粋主義者はやたらと日本日本という割には
そういう日本文化を理解してませんね
日本独特の文化を生んだ言うことがあえて言うなら鎖国のおかげだったかも知れませんね。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、鎖国による最大のメリットは我が国固有の素晴らしい文化が江戸時代に生まれたことです。
その一方で、鎖国の状態を引っ張り続けたデメリットの底知れぬ大きさがあったのもまた事実です。
これから折に触れて紹介させていただくことになりますが、もっと早く自主的に開国していれば…。
ぴーち こんばんは!
なるほど!戦国時代というと、とかく暗くマイナス要素が強いイメージばかりしか思いつきませんでしたが、江戸時代にそれだけの武力を所有していれば、外国も警戒してうっかり手出しが出来なかったというメリットに変化したのですか(゜o゜;!。
この鎖国には色々な要素が味方してくれての実現だった訳ですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、物事はまさに裏表で考えないといけないのです。
様々なメリットがあったゆえに可能であった「鎖国」の状態も、時の流れとともに無理が生じてくる。そんな当たり前のことが理解できなかった政治は果たしてどうなっていくのでしょうか…?
オバrev アジアで欧米列強による植民地化を免れた国といえば、日本以外にもタイがあります。島国でもないし、軍事力がそれほど優れていたとも思えないのですが、一体全体それは何故なんだろうと、不思議に思ってました。
日本と関係なさそうですが、その辺はどうでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 タイの場合は、その地理的関係から各国の緩衝地帯となったことで植民地化を免れたという一面があります。
また、19世紀の帝国主義の頃には我が国と同じように列強から不平等条約を結ばされていますが、バランスの良い外交によって乗り切りました。
我が国とは間接的に関係が深いといえるかもしれませんね。