寺請制度によって、全国民が在住する周辺の寺院の檀家(だんか)として、寺院への参詣(さんけい)や父祖(ふそ)の法要(ほうよう)、あるいは付け届けを義務付けられ、これらに応じなければキリシタンとみなされるようになってしまいました。
檀家として登録された国民は原則として離脱(りだつ)を許されず、また婚姻(こんいん)や転居(てんきょ)の際には、所属する檀那寺(だんなでら)の証明書である寺請証文(てらうけしょうもん)が必要とされました。このように全国民が信仰する宗教を幕府が把握(はあく)することによって、カトリックの禁止を徹底させたのです。
なお、この頃までにカトリック以外にも幕府によって禁止とされた宗教があることを皆さんはご存知でしょうか。
それは日蓮宗(にちれんしゅう)の不受不施派(ふじゅふせは)です。




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ぴーち こんばんは!
キリスト教は外来という事で
納得出来ますが、日蓮宗は仏教であるので
幕府から禁止される原因は何処にあったのでしょうか。
お体のお加減はいかがですか?
どうぞご自愛くださいね^^
それでは応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > キリスト教は外来という事で
> 納得出来ますが、日蓮宗は仏教であるので
> 幕府から禁止される原因は何処にあったのでしょうか。
確かに不思議に思えますね。
ヒントを挙げるとすれば、日蓮宗の多宗派とは全く異なる性格でしょうか。
それを突き詰めていくと…。
> お体のお加減はいかがですか?
> どうぞご自愛くださいね^^
有難うございます。
はやく全快といきたいですね。
オバrev 昨日はHNなしのコメントを送ってしまい、失礼しました(*_*;
寺請制度って、結果的に現在の住民基本台帳を当時から作っていたことになっていたんじゃないでしょうか。
それまでは、住民の情報を正確に把握できていたんですかね、どうなるんでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 昨日はHNなしのコメントを送ってしまい、失礼しました(*_*;
いえいえ、どうぞお構いなく。
おそらくはそうでないかと思っておりました。
> 寺請制度って、結果的に現在の住民基本台帳を当時から作っていたことになっていたんじゃないでしょうか。
> それまでは、住民の情報を正確に把握できていたんですかね、どうなるんでしょうか?
仰るとおりの流れですね。当初は住民の信仰調査が目的だったのですが、いつの間にか戸籍や現在でいうところの住民調査の性格を持つようになってしまいました。それまではこれだけの大規模なものはなかったと思われます。
寺院に対しては、その宗派ごとに寺院法度(じいんはっと)を発令し、本山(ほんざん)や本寺(ほんじ)の地位を保障するとともにその下に末寺(まつじ)を組織して、全体に対して厳しく統制しました。これを本末制度(ほんまつせいど)といいます。
その後、第4代将軍の徳川家綱(とくがわいえつな)の頃の1665年には、宗派に関係なく寺院や僧侶全体を共通に統制するために諸宗寺院法度(しょしゅうじんはっと)を出し、同年には神社や神職(しんしょく)に対しても同じように統制するために諸社禰宜神主法度(しょしゃねぎかんぬしはっと)を発令しています。
なお、先述のとおり江戸幕府の設立の以前から、キリスト教(カトリック)に対する弾圧(だんあつ)が厳しくなっていました。その詳細(しょうさい)はいずれ後述しますが、幕府はカトリックの禁止を確実なものとするために、1664年に寺請制度(てらうけせいど)を設けました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんばんは!
今でこそ政教分離が謳われていますが
この当時は、完全に宗教は国の支配下に
置かれていたんですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今でこそ政教分離が謳われていますが
> この当時は、完全に宗教は国の支配下に
> 置かれていたんですね。
この当時はキリシタン(カトリック)を排除するという大きな目的がありましたからね。
ところが、この目的を達成する過程で、皮肉にも「政教分離」の本質が達成されてしまうという逆説を生んでしまうのが歴史の面白いところです。
これからの更新を引き続きお楽しみ下さい!
- 今日は、イギリス王室のロイヤルウェディングにフィギュアスケート女子SP、そしてカープが同じ時間に重なってしまい、バタバタしています(^_^;)
しかし、ヨーロッパでも王制が残っている国はそんなに多く無いそうですがし、このイギリス王室の権威はやはり特別な感じがします。
日本も今でこそそういう階級制はほとんどなくなっているように思いますが、当時はやはり皇族や摂関家というのは特別だったんでしょうか。
日本の天皇制は、時代がどう変わっても日本人の心の拠り所であり宝として存続して欲しいと思っています。
名無し(?)さんへ
黒田裕樹 ホスト先から見てほぼ間違いなく常連の方だと思いますが、万が一のために名前は伏せておきます(^^ゞ
イギリスの王朝も特別な存在ですからね。ただ、我が国と決定的に違うところは男系の血が何度か断絶していることでしょうか。その重みを知っていられるからこそ、エリザベス女王陛下は昭和天皇がお越しになられた際に上座をお譲りされておられますし。
仰るとおり、皇室の血筋は我が国にとって何物にも替え難い重要なものです。歴史の勉強を重ねるたびに、私たち日本人が日本人として暮らしていけることの有難みを感じますね。そんな今日は「昭和の日」でした。
征夷大将軍となって鎌倉幕府を開いた源頼朝は清和天皇の血を引く「清和源氏」の子孫であり、室町幕府(むろまちばくふ)を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ)や、江戸幕府を開いた徳川家康も同じく清和源氏の子孫か、もしくは子孫と朝廷に認められています。
清和天皇は言わば「武家の棟梁(とうりょう)の元祖(がんそ)」であり、後水尾天皇はお自らが「徳川家の上に立つ」というご意思でご自身の追号をお決めになられた可能性が高いのです。
ちなみに、後水尾天皇の父君である後陽成天皇の追号には、清和天皇の子でありご乱行(らんぎょう)のために若くして退位に追い込まれたと伝えられる陽成天皇(ようぜいてんのう)にちなんで後水尾天皇が贈られました。皇室にとって不吉ともいえる追号を、しかも親子関係を逆転(清和→陽成、後陽成→後水尾)させて贈ったことになりますが、この背景には先述した後陽成天皇と後水尾天皇との関係の不和があるのかもしれません。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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クラチー ほへ~、全員が後醍醐さんみたいな名称パターンじゃないんですね。
でも、「後水尾天皇」って語呂悪いというか、言いにくいというか…。
ちなみに世界史では、
「スウェーデンのカール皇帝は8~15世はいるが、7世以前は誰もいない」という、変な状態になってますよ。
人数偽造…じゃないとは思いますけど。
(-w-;)
サクラ 水尾天皇とは清和天皇のことだったのですか!
皇室の系図を見て、「水尾天皇っていないよね?」と思っていたんですよ。
思うだけで、特に何もしませんでしたが。
っていうことは結構、清和源氏の子孫って日本全国に残ってるんですか?
クラチーさんへ
黒田裕樹 > ほへ~、全員が後醍醐さんみたいな名称パターンじゃないんですね。
> でも、「後水尾天皇」って語呂悪いというか、言いにくいというか…。
確かにそうですね。でも、清和天皇とあからさまにしないところがまた凄いと思います。
> ちなみに世界史では、
> 「スウェーデンのカール皇帝は8~15世はいるが、7世以前は誰もいない」という、変な状態になってますよ。
> 人数偽造…じゃないとは思いますけど。
> (-w-;)
世界の王朝には色々ありますからね。
それだけに我が国の天皇の素晴らしさが突出しています。
サクラさんへ
黒田裕樹 > 水尾天皇とは清和天皇のことだったのですか!
> 皇室の系図を見て、「水尾天皇っていないよね?」と思っていたんですよ。
> 思うだけで、特に何もしませんでしたが。
私もここまで詳しく調べようと思わなければ分からないままでした。
日本史は意外なところでつながっているものですね。
> っていうことは結構、清和源氏の子孫って日本全国に残ってるんですか?
調べれば案外いろんなところで残っているかもしれませんね。
皇室のようにはっきりと系図が残っているかどうかですが…。
まさぼ~ 初めまして('-^*)/
訪問履歴からやってきました。
日本史の教師をされているんですね。
征夷大将軍とか鎌倉幕府とか、懐かしいです。僕も学生の時は、日本史が大好きで教科書読むのが楽しみでしたよ~
そういえば、模擬試験では、日本史だけは早稲田や慶応も楽々A判定でしたよ。(英語と国語がダメで3流大学に行きましたが・・汗)
教師という職業は、大変だと思いますが、頑張って下さいね~
ではっ!!
まさぼ~さんへ
黒田裕樹 はじめまして、当ブログへのご訪問並びにお言葉有難うございます。
私も昔から日本史が大好きでした。
その一方で英語と数学が苦手で、私も進学には苦労しましたね(^^ゞ
教師を本格的に始めてから一か月が過ぎました。
毎日大変ではありますが、楽しみながら頑張っておりますよ。
今後ともよろしくお願いいたします。
なおまゆ 天皇家と幕府の戦いは壮絶だったんですね。後水尾天皇のことは初めて知りました。隆慶一郎の小説に出てきて、それを読んだ程度だったので。
血統を遺す為の努力、それに介入しようとする権力者。常に勝者は天皇だったんですね。
おもしろいです。有難うございます。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 お言葉ありがとうございます。
仰るとおり、後水尾天皇の壮絶なるご執念がこのような流れを生みましたから、歴史を学ぶことは重要ですね。
幕府といえども皇室には結局かなわなかった。後の明治維新への源流を見る思いがします。
さらに「女性天皇は終生独身」という不文律(ふぶんりつ、文章で表現されていない法のこと)があったため、皇室における徳川家の血筋は明正天皇で途絶(とだ)えることになってしまったのです。
「葦原(あしはら)や しげらばしげれ おのがまま とても道ある 世とは思はず」
上記の御製(ぎょせい、天皇による和歌のこと)を遺(のこ)された後水尾天皇は、4人の天皇の院政を続けた後に1680年に85歳で崩御(ほうぎょ)されました。これは、後に昭和天皇(しょうわてんのう)に破られるまで神話の時代を除く歴代天皇の最長寿でした。なお、昭和天皇は記録更新の際に「当時の平均寿命の短さを考えれば後水尾天皇の方が立派な記録です」とお言葉されておられます。
ところで後水尾天皇の追号(ついごう)である「後水尾」は、天皇ご自身が生前にお決めになられたものでした。実は、この追号にも後水尾天皇の強いご意思が込められているのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!人生50年と言われていた時代に85歳とは、本当に素晴らしい事ですし、天命を全うされたのだと思います。けれど、生涯独身で過ごさなければならないという決まりは、今でこそ意図的に独身を貫き通す女性も大勢いらっしゃいますが、もしもご本人のご意思とかけ離れていたしたら、厳しいものを感じますね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こんにちは!人生50年と言われていた時代に85歳とは、本当に素晴らしい事ですし、天命を全うされたのだと思います。けれど、生涯独身で過ごさなければならないという決まりは、今でこそ意図的に独身を貫き通す女性も大勢いらっしゃいますが、もしもご本人のご意思とかけ離れていたしたら、厳しいものを感じますね。
後水尾天皇が長生きされたことは仰るとおり素晴らしいですね。壮年のころから様々な病気に悩まされておられたようですが、持病をお抱えの分、健康には注意されておられたとも言えます。
「女性天皇は生涯独身」である理由は、かなり以前ですが私の講座でも書かせていただいております。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-178.html
明正天皇はご即位の際にわずか7歳ですから、成人後のご本人のご意思とはかけ離れておられたかもしれませんね。
凄い知恵
青田です。 黒田先生、ぴーちさん
こんにちは
青田です。
後水尾天皇の意趣返しは、執念に近いものが
ありますね。
しかし、それを実現できたのは
長寿という強みだったと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、後水尾天皇が85歳まで長生きされたからこそ、幕府に対して長い間にらみを利かすことができたと思います。
家康同様、寿命の長さが歴史を動かすこともありますね。
ぴーち こんにちは!
お返事にリンクを貼ってくださり
恐縮です(^_^;)
そうですね昔は、女性は男性に守られるのが当たり前であったので、元からそういうものだと思っていれば、何も抵抗もなく過ごせるものですね。
それに仰る通り、持病があったからこそ、無理をせずに体をいたわりながら過ごせたのでしょうね^^
すっかり忘れておりました(^_^;)
またこの機会に思い出させていただき
ありがとうございますm(_ _)m
凸
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 > お返事にリンクを貼ってくださり
> 恐縮です(^_^;)
いえいえ、お役に立てて嬉しく思います。
> そうですね昔は、女性は男性に守られるのが当たり前であったので、元からそういうものだと思っていれば、何も抵抗もなく過ごせるものですね。
> それに仰る通り、持病があったからこそ、無理をせずに体をいたわりながら過ごせたのでしょうね^^
> すっかり忘れておりました(^_^;)
> またこの機会に思い出させていただき
> ありがとうございますm(_ _)m
こちらこそ丁寧なお言葉有難うございます。
女性天皇については仰るとおりですね。昔には昔の良さがありましたし。
何の病気もしない人より、病気持ちの人の方が普段から健康に気を遣う、というお話がありますからね。私も花粉症にかかっている今の方が長生きできるかな!?
通常であれば、お福のように無位無官(むいむかん)の人間が昇殿できるはずがありません。ところが、幕府はお福を無理やり公家の身内とし、従三位(じゅさんみ)の位と「春日局(かすがのつぼね)」の称号を与えたうえで後水尾天皇への拝謁(はいえつ、身分の高い人に会うこと)を実現させました。
幕府のこうした強引な手法に堪忍袋(かんにんぶくろ)の緒(お)が切れた後水尾天皇は、幕府に無断で徳川秀忠の娘との間にお生まれで7歳の興子内親王(おきこないしんのう)に譲位されました。奈良時代以来859年ぶりの女帝(じょてい)となる第109代の明正天皇(めいしょうてんのう)の誕生です。
突然の譲位に対して幕府は激怒しましたが、いくら何でも既(すで)に行われた譲位を幕府が取り消すことができるはずがありません。こうしてかつての藤原氏(ふじわらし)や平家(へいけ)のように、徳川家が天皇の外戚(がいせき、母方の親戚のこと)となった訳ですが、その裏には後水尾天皇の幕府に対する巧妙(こうみょう)な意趣返(いしゅがえ)しがありました。




いつも有難うございます。
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青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
春日局の件は、あまりにも、幕府の横暴ぶりに
怒りを感じます。
これは、天皇でなくても、幕府内部、他の大名からも、内心、納得できないと思う人間が
多数いたような気がします。
歴史上、正室でもない単なる乳母が、
昇殿して、従三位というのは、あまりにも、理不尽です。
従三位というのは、相当有力な大名にしかもらえない官位です。
しかも、春日局の息子は、大名になっています。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、春日局に関する今回の件はあまりにも強引すぎます。
それだけ当時の幕府には権力があったのかもしれませんが、天皇をないがしろにしすぎたことは、幕末における尊王攘夷運動への大きな流れの基本となってしまいましたね。
今回の後水尾天皇のお怒りを考えれば、次回(27日)以降の流れも理解できるというものです。
ぴーち こんばんは!
さすがに朝廷もこのまま黙って幕府の言いなりにはなっていませんね。
物語はこれから佳境に入るのですね!
黒田さんの書かれている話の流れが非常に巧みで
いらっしゃるので、ハラハラさせられます。
さてさて、天皇の巧妙な意趣返しとは何でしょうか^^楽しみにさせていただきます♪
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
ぴーちさんのご期待に添えるかどうかわかりませんが、明日(27日)以降の展開をお楽しみに!(^^♪
実際、後水尾天皇は頭脳明晰なお方だと思いますよ。
しー 紫衣事件!!!!
知ってます。
授業中、
そこらへんを資料集でパラパラ見てましたもんでw
…思うんですけど、
授業でやんない所も受験のことを考えたら今からやるべき、、、ですよね??^^;
しーさんへ
黒田裕樹 > 紫衣事件!!!!
> 知ってます。
> 授業中、
> そこらへんを資料集でパラパラ見てましたもんでw
多くの教科書にも載っていますし、当時の朝廷と幕府との力関係を知ることができる重要な事件ですからね。
> …思うんですけど、
> 授業でやんない所も受験のことを考えたら今からやるべき、、、ですよね??^^;
やって損はありません。いや、むしろどんどんやるべきでしょう。
縦の歴史だけでなく、横のつながりを知るにはこの講座は効果的ですよ(^^♪
春日局
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
今、NHKの大河ドラマ『~江~』を観たのですが、
かなり、創作の部分も多いとは、思いますが
春日局について、どうも納得できません。
家光の生母は、お江で、しかも、将軍の御台所なので、ドラマで、描かれている
お江VSお福(春日局)
だと、お江が乳母を辞めさせるくらい簡単にできたと思うのですが、乳母というのは、その当時、
正室、側室よりも、力があったのでしょうか。
私が 記憶しているかぎりでは、乳母で、歴史に名を残した女性は、いない気がするのですが。。
青田さんへ その2
黒田裕樹 春日局については様々な説があるようですね。
私はドラマを見ていませんが、少なくともお江とお福はライバル関係でも何でもないと思います。
さすがは「ファンタジー大河」の面目躍如といったところでしょうか。
なぜなら、これらは僧にとっての最高の栄誉(えいよ)であるとともに、朝廷にとっての収入源のひとつでもあったからです。しかし、このように幕府が紫衣の授与を規制したにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例に従われて、独自に十数人の僧侶(そうりょ)に紫衣の勅許(ちょっきょ、天皇による許可のこと)を与えられました。
後になって事実を知った将軍徳川家光は激怒(げきど)して、再調査を行ったうえで1627年に禁中並公家諸法度に違反した勅許を取り消し、紫衣の没収を命じました。これを紫衣事件(しえじけん)といいます。
幕府の強硬な態度に対して朝廷や寺院は反発し、特に大徳寺(だいとくじ)の住職(じゅうしょく、寺の長である僧のこと)であった沢庵(たくあん)は激(はげ)しく幕府に抗議しましたが、2年後の1629年に出羽(でわ)へ流罪(るざい)となってしまいました。この事件によって「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」ことが嫌(いや)でも思い知らされることとなり、後水尾天皇も深く気分を害されました。
ちなみに沢庵は現在のダイコンを漬(つ)けた「沢庵漬け」との関わりが深いとされ、また吉川英治(よしかわえいじ)の小説「宮本武蔵(みやもとむさし)」での活躍ぶりが有名です。なお、大阪市営地下鉄の谷町線(たにまちせん)のラインカラーが紫色なのは、沿線(えんせん)に四天王寺(してんのうじ)などの寺院が多いので、僧侶にとって最高の栄誉である紫衣の色が由来になっています。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
何も流罪に処するほどの重罪でも無かったようにも思いますが・・・見せしめと考えても余りに酷いですね。。
そういえば、冠位十二階でも一番位の高い色は紫でしたね!
昔から紫は高貴な色だったんですね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 何も流罪に処するほどの重罪でも無かったようにも思いますが・・・見せしめと考えても余りに酷いですね。。
そうですよね。
幕府の仕打ちは激しく抗議した沢庵和尚だけでなく、後水尾天皇に対する強烈な嫌味のような気がします。
> そういえば、冠位十二階でも一番位の高い色は紫でしたね!
> 昔から紫は高貴な色だったんですね^^
そのとおりですね。紫色には昔から独特の優雅さを感じます。
また、摂関家(せっかんけ、摂政や関白に昇進できる家柄のこと)の地位を天皇の皇子である親王(しんのう)よりも上位と定めた一方で、幕府は将軍の正室(せいしつ、いわゆる本妻のこと)を摂関家から迎えるなど関係を強化することで、摂関家を通じて朝廷を幕府の意のままにコントロールしようとしました。
このため、幕府は京都所司代を通じて朝廷に幕府からの指示を伝えられるように、公家(くげ)から2人を選んで、幕府と朝廷との窓口となる武家伝奏(ぶけてんそう)に任じました。武家伝奏は京都所司代と連絡を取りながら、幕府の意向(すなわち命令)を朝廷に伝えました。
この他にも、朝廷の領地である禁裏御料(きんりごりょう)が幕府によってわずか1万石(後に3万石まで加増)と定められたり、本来であれば天皇自らが行うことのできる行為が禁中並公家諸法度によって制限されたりしたことで、やがて朝廷と幕府との関係が一気に緊張化する事件が起こることになりました。
なお、同じく禁中並公家諸法度によって武家の官位、すなわち幕府が大名や旗本などに与える官位は朝廷からの官位とは別に定めることができるようになっていました。後に南町奉行となった大岡忠相(おおおかただすけ)が「越前守(えちぜんのかみ)」と名乗っていたのは、このことが由来です。




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ぴーち こんばんは!
武家伝奏などという言葉は、初めて伺いました。またひとつ勉強になりました!ありがとうございますm(_ _)m
所で大岡忠相の件ですが、ドラマや映画では
毎回の様にお白州が開かれ←(言い方が間違っていたら、ごめんなさい)ていますが、実際の所は、たった3回しか開かれなかった(しかも実際に大岡忠相が立ち会ったのは1度とか)というのを昔本で読んだことがありましたが、水戸黄門同様、
史実が後の人間によってオーバーに表現されてしまうというのも、いいのか、悪いのか(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 武家伝奏などという言葉は、初めて伺いました。またひとつ勉強になりました!ありがとうございますm(_ _)m
あまり聞きなれない言葉ですからね。高校日本史ではよく出てくるので、今回の記事にも追加しました。
> 所で大岡忠相の件ですが、ドラマや映画では
> 毎回の様にお白州が開かれ←(言い方が間違っていたら、ごめんなさい)ていますが、実際の所は、たった3回しか開かれなかった(しかも実際に大岡忠相が立ち会ったのは1度とか)というのを昔本で読んだことがありましたが、水戸黄門同様、
> 史実が後の人間によってオーバーに表現されてしまうというのも、いいのか、悪いのか(^^ゞ
「正義のヒーロー」にはつくられた部分が多々ありますからね。
娯楽と割り切ればそれまでですが、史実となると難しいかもしれません(^^ゞ
オバrev 禁中並公家諸法度によって、完全に武士による支配が法的にも確立しましたね。
しかし、これに対する反発はなかったんですか?
また此頃の摂関家ってのは、やはり藤原氏の家系なんでしょうか??
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 禁中並公家諸法度によって、完全に武士による支配が法的にも確立しましたね。
> しかし、これに対する反発はなかったんですか?
もちろんありました。
次回(25日)から詳しく紹介します。
> また此頃の摂関家ってのは、やはり藤原氏の家系なんでしょうか??
そのとおりです。政治の実権はなくても朝廷での地位が向上しましたから、当初の幕府と摂関家との関係は良好だったようですね。
公家の暮らし
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
朝廷は、3万石の領地しかないですが、
ということは、この当時の天皇や公家の暮らしぶりは
どうだったんでしょうか。
当然、平安時代のように華やかな生活ではないとは思うのですが、
関白より下の身分の公家は、そんな石高で、
本当に生活できたのか、不思議です。
青田さんへ
黒田裕樹 三万石とはいえ所領をお持ちの天皇はともかくとして、下級の公家の生活は決して楽ではなかったようですね。
様々な内職をしていたようで、中には屋敷内で博打を黙認していた公家もいたようです。そんな環境だったからこそ、幕府に対する恨みが受け継がれて、幕末に一気に爆発したとも言えますね。
しかしその後、関ヶ原の戦いを経て新たな権力者となった家康の意向によって、第3皇子の政仁親王(ことひとしんのう)を新たに後継とされることになりましたが、後陽成天皇のご本意は弟にあたる八条宮智仁親王(はちじょうのみやとしひとしんのう)への譲位であり、天皇と良仁親王や政仁親王とのご関係は決して良くなかったと伝えられています。
1611年、後陽成天皇から譲位された政仁親王は直ちに即位(そくい)され、第108代の後水尾天皇(ごみずのおてんのう)となられました。このことは家康、すなわち江戸幕府の持つ強い権力は天皇をも交代させることができるという現実を天下に示したと同時に、朝廷が持つ伝統的な権威(けんい)を幕府が自身のために利用するという意味も込(こ)められていました。
そして1615年、幕府は禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を制定して、幕府による朝廷への統制をより一層強めることになりました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
この頃の幕府の権力というのは天皇をも
足元に置くという破竹の勢いがあったんですね。
朝廷も「長いものには巻かれよ」という考えであったからこそ、今日まで長く天皇制は続いていたという解釈はいかがなものでしょうか。
所で来月「プリンセス・トヨトミ」という大阪を舞台にした歴史ファンタジー映画が封切られます。また楽しみが増えました♪
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この頃の幕府の権力というのは天皇をも
> 足元に置くという破竹の勢いがあったんですね。
> 朝廷も「長いものには巻かれよ」という考えであったからこそ、今日まで長く天皇制は続いていたという解釈はいかがなものでしょうか。
仰ることは一理ありますね。
権力者に逆らって滅ぼされるよりは、むしろついていくことで皇室を将来の我が国に残す。
このような「柳に風」のしなやかさが、2670年も続いている一つの理念かもしれません。
ただし、このときはあまりにもひど過ぎた…。いずれ紹介します。
> 所で来月「プリンセス・トヨトミ」という大阪を舞台にした歴史ファンタジー映画が封切られます。また楽しみが増えました♪
色々な映画がありますよね。大阪の舞台、私も楽しみです(^_^)v
調停工作
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
1615年の
禁中並公家諸法度の制定が、『大阪の陣』の年というのは、意味が深い気がします。
なぜなら、
徳川家康は
関ヶ原の戦いの後、豊臣家をスグ滅ぼせない理由として
豊臣秀頼の官職も影響していた気がします。
内大臣、右大将と調停では、非常に高い官職です。
徳川家康は、関ヶ原の合戦で勝利をおさめ、
実質的な武門の首座となったものの、後陽成天皇によって征夷大将軍に任命されるまで
3年待たなくてはならず、その地位も位階が正二位から従一位になったのみで、
官職は内大臣のままでした。
とういうことは、征夷大将軍になるまでは、官位としては、豊臣秀頼を
疎かにできなかったように思います。
その証拠に大阪の陣になるまでに、豊臣秀頼は、内大臣、右大臣の職を
辞しています。
徳川家康は、調停工作でも、豊臣家よりも、一枚上手でしたね。
ただ、朝廷を完全に利用できるくらいの力を持つまで、15年掛かったということでしょうか。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに豊臣家を滅ぼさない限り、大名工作も朝廷工作もできなかったでしょう。
朝廷の場合には、仰るとおり関白経験者の豊臣家が目の上のこぶだったかもしれません。
江戸時代初期の大名は、領国の一部を有力な家臣に分け与え、その支配を認める地方知行制(じかたちぎょうせい)が行われていましたが、やがて有力な家臣を城下町(じょうかまち)に集住(しゅうじゅう)させたうえで、領内全体を大名が直轄(ちょっかつ)して蔵入地(くらいりち)とし、そこからの年貢を藩士に与えるという俸禄制度(ほうろくせいど)が行われるようになりました。
こうして藩の体制を強化させた大名でしたが、彼らの領地は一代ごとに将軍から与えられるものであったことから、武家諸法度に違反したり、あるいは後継の子に恵まれず血統(けっとう)が断絶したりした大名は、領地没収を意味する改易(かいえき)や、領地の縮小を意味する減封(げんぽう)、あるいは領地の変更を意味する転封(てんぽう)などの厳しい処分を受けました。
江戸時代の初期には数多くの大名が改易処分を受けたことで大量の牢人(ろうにん、別名を浪人)が発生し、彼らの存在はやがて治安上の深刻な問題となっていきました。




いつも有難うございます。
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タカシ☆TZR 当時,「藩」という呼称は正式な行政用語でないので,
> 大名が支配する領地や、その支配組織は藩(はん)と呼ばれました。
というとちょっと違和感がありますが,
どうお考えですか?
大名の取り潰し
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。徳川家康
徳川秀忠、徳川家光までの間に取り潰された
大名は126です。
しかも、
外様大名
最上57万石
福島49万石
加藤52万石
親藩でも
松平忠輝75万石
譜代でも
本多正純
大久保忠隣
が改易されています。
親藩であろうと、譜代であろうと
外様の大藩であろうと、おかまいなしです。
この状況で、取り潰されなかった伊達政宗が
不思議です。
(あれだけ、黒い陰謀の噂が絶えなかったのに)
やはり、伊達政宗の場合、徳川秀忠、徳川家光の
お気に入りというのが、大きかったのかもしれませんね。
ぴーち こんにちは!
武家諸法度に違反したからという理由ならまだしも、血統が途絶えたという理由で厳しい処罰を受けたのですね。なかなか厳しいですね(^^ゞ
当時は何がなんでも「お家」第一だったんですね。
応援凸
サクラ 幕藩体制というのは、どちらかというと連邦制みたいなものだったのですね。(正確には封建制でしょうが)
ということは、生類憐みの令が出たときも、幕府の直轄外では普通に魚や兎を食べてもよかったのでしょうか?
タカシ☆TZRさんへ
黒田裕樹 ご指摘有難うございます。
仰るとおり、藩の呼称は当時は一般的には用いられませんでした。
誤解を招く文章であると考えられますので、訂正させていただきます。
今後ともよろしくお願いいたします。
青田さんへ
黒田裕樹 江戸幕府の当初は、親藩であろうが外様であろうが、幕府に対抗すると思われる勢力は片っ端から取り潰しました。
その様子を見た各藩、特に外様大名は恐怖におびえ、前田家などは鼻毛を伸ばしてバカ殿のふりをしていたというエピソードが残っています。
伊達政宗も晩年は福島正則といきなり相撲を取り出すなど、乱心のふりをしていたといいますから、こうした涙ぐましい努力が伊達家を生きながらえさせたのかもしれませんね(もっとも、この後すぐに伊達騒動が起きるわけですが)。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 武家諸法度に違反したからという理由ならまだしも、血統が途絶えたという理由で厳しい処罰を受けたのですね。なかなか厳しいですね(^^ゞ
> 当時は何がなんでも「お家」第一だったんですね。
そうですね。
跡継ぎがいなくなるということは、仰るとおり「お家」が無くなることでしたから、幕府にとっては取り潰しの口実になりますからね。
でも世の中は厳しすぎると…。後に幕府は強烈なしっぺ返しを食らうことになります。
サクラさんへ
黒田裕樹 > 幕藩体制というのは、どちらかというと連邦制みたいなものだったのですね。(正確には封建制でしょうが)
> ということは、生類憐みの令が出たときも、幕府の直轄外では普通に魚や兎を食べてもよかったのでしょうか?
さすがはサクラさんですね。仰るとおりです。
幕府による法令は基本的に天領でのみ通用しましたから、生類憐みの令も他領では強制力がありませんでした。
もっとも、大都市の江戸における生類憐みの令による効果(人命尊重の社会への劇的な変化)は他領にも広がることになったと考えられています。
近代国家
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
幕末で、日本を一つにして、欧米のような
先進国にしようと幕末の志士は、頑張りましたが
よく、考えると
◆ アメリカは、各州が独自の政治・経済を持ち
政治は、ワシントン州、経済は、ニューヨーク、
シカゴ、カリフォリニアと分散しています。
◆ イギリスは、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドと分散しています。
そう考えると
江戸時代は、
① 政治は江戸、経済は大阪、権威は京都
と分散。
②各藩が独自の政治・経済を有する。
こう考えると
江戸時代の国のカタチというのは、諸外国と
比べて、特別、いびつではないという気がします。
但し、明治政府としては
①国防という面での国の統一性。
② 急激な近代化の促進。
を進めるうえでは、仕方なかったのでしょうね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおり、江戸幕府による幕藩体制はごく普通の政治機構です。
ただ、帝国主義の食うか食われるかの世の中においては、国民が一つとしてまとまるためにも中央集権国家にする必要がありました。
しかし首都機能のあまりもの集中ぶりが、今日の震災のような非常時に機能不全を起こす原因となってしまいます。
今こそ、単なる「遷都」ではない、首都機能の分散が求められているのかもしれません。
目付は若年寄の下に置かれて旗本・御家人を監察し、大目付は老中の下に置かれて大名を監察するのが業務でした。この二つは区別が非常にややこしいので注意が必要です。
幕政における実務の処理は、老中の下に置かれた寺社奉行(じしゃぶぎょう)・江戸の町奉行(まちぶぎょう)・勘定奉行(かんじょうぶぎょう)のいわゆる三奉行(さんぶぎょう)が担当しました。
これらの幕府の役職には原則として数名の譜代大名や旗本らが就任し、1ヵ月で交代する月番交代制(つきばんこうたいせい)で政務が行われました。また重要な政務事項については、評定所(ひょうじょうしょ)において役職をまたいで合議されました。
なお、地方の組織としては京都所司代(きょうとしょしだい)を置いて朝廷の統制や西国大名の監視を行い、大坂や駿府(すんぷ、現在の静岡)には城代(じょうだい)が置かれました。また長崎や奈良・佐渡・日光(にっこう)などの要地には遠国奉行(おんごくぶぎょう)が配置され、天領には関東・飛騨(ひだ)・美濃(みの)などに郡代(ぐんだい)が、その他には代官(だいかん)が置かれました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
そうですね(^^ゞ
頭が固い私は
既に冒頭の部分で、訳が判らなくなってしまったので、ご説明に沿って図式にしてみましたら、何とか理解出来ましたm(_ _)m
日光は今でこそ、そう遠くない所ですが、当時としては随分と遠い場所として認識されていたんでしょうね。
それでは応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > そうですね(^^ゞ
> 頭が固い私は
> 既に冒頭の部分で、訳が判らなくなってしまったので、ご説明に沿って図式にしてみましたら、何とか理解出来ましたm(_ _)m
申し訳ございませんm(_ _)m
図式が難しいのがブログの欠点ですね。
私にもう少し絵の才能があれば…。
> 日光は今でこそ、そう遠くない所ですが、当時としては随分と遠い場所として認識されていたんでしょうね。
遠国奉行の意味は、天領のうち重要な場所の奉行の総称だったようです。
もっとも、ぴーちさんの仰るように遠くて目の届かない場所だからこそ、奉行職を置く必要があったと考えられますね。
十三人の刺客
晴雨堂ミカエル 昨秋、「十三人の刺客」リメイクが封切られました。
チャンバラ・アクション娯楽大作なので、時代考証云々をいっても野暮なのですが、やはり気になる点は多々あります。
その一つに、主人公は御目付役の旗本なのですが、老中に呼び出されて某藩主の暗殺を命じられる場面があります。
目付の支配は若年寄なのに、若年寄の頭越しに老中が命じた例は史実にありますか?
また主人公は知行七百石、たしか目付は役料千石のはず、これもありえますか?
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、時代考証の細かいところは結構いい加減なところがありますよね。
事例のお話も、いずれも通常では有り得ない話です。ただし、後者は足高の制が適用されていれば考えられないこともないですが…。
HANA子 こうして見ると、これまでの鎌倉・足利幕府のころの体制の足りない部分をキチンとカバーしているところがよくわかりますね。
ある程度地方の裁量の自由を認めつつ、力を蓄えて反抗に出るようなことのないよう目を光らせる監視体制を図っているところなど特に。
それにしても、江戸時代の日本って封建体制であると同時にガッチガチの官僚国家でもあったんですね~
HANA子さんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと私も思います。歴史に学んだ家康の終着点が今回のような体制を作ったといえるでしょう。
官僚国家についてもそのとおりだと思います。思えば我が国は昔から官僚支配に慣れているからこそ、55年体制が長続きしたのかもしれませんね。
柳生宗矩
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
時代劇で、有名な柳生宗矩は、一介の剣法指南役から
大目付にまで、出世したのは、異例のことですね。
しかも、門弟は、全国の大名の剣法指南役です。
まるで、江戸時代のCIAですね。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに柳生宗矩は大出世ですね。
武断政治が色濃く残っていた時代ならではでしょう。
大目付という言葉がピッタリな気がします。