こういう場合、一番分かりやすいのは国内における総人口の違(ちが)いを調査することです。もし我が国が朝鮮半島を植民地化して朝鮮の人々を強制的に労働させているのであれば、結果として人口が減少するのが当然ですからね。
日韓併合後に我が国が朝鮮半島を統治するために置いた朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)が記録として残した「朝鮮総督府統計年報」によると、併合した明治43(1910)年の朝鮮の人口は1,312万8,780人でした。一方、大東亜戦争末期の昭和19(1944)年では2,512万174人です。
わずか35年足らずで朝鮮半島の人口が倍増しているのです。植民地化で朝鮮人が被害を受けているのであれば減っていてもおかしくないのに、逆に2倍になっているのはどうしてでしょうか。




いつも有難うございます。
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晴雨堂ミカエル 人口の点は異議はありませんが、もう少し詳しいデータが必要かもしれませんね。
太平洋戦争末期、「一億総玉砕」なんて言葉があったようですが、その一億は朝鮮半島の人間も入れて一億、「大和民族」は8千万程度だったと聞いています。
いわゆる「朝鮮民族」は半島にどのくらい居たか、大和民族は半島にどれだけ流入していたか、このデータも合わせて提示されたほうが良いと思います。
私の立場は、「植民地」ではないからといって、日韓併合を市町村合併と同じ感覚で軽く見てもらっては困るし、同時に欧米のアフリカ・南米・アジアの侵略・搾取と同列の「植民地」とされても違和感を抱く、そんな気持ちです。
日韓の関係は、強いていえばイングランドとアイルランドの関係、旧ソ連のロシア共和国とバルト三国をはじめとした他の構成共和国の関係に近いかなと思っています。
特に旧ソ連では連邦を構成する15の「共和国」は一応同格と法律で定められていますが、実態はロシアによる支配です。
植民地といえば、法的にも実質的にも南洋庁が管轄していたマリアナやミクロネシアが当てはまるのですが、これらの地域では反日感情よりもむしろ親日が強く、現地語にも多くの日本語が溶け込んでいます。
また、法的権利では朝鮮よりも低い地位だった台湾でも親日派がいる。その親日文化人はいま盛んに日本の保守を擁護されている。
建前では同格にしていた朝鮮半島では激しい反日感情がある。皮肉ですね。
ぴーち こんにちは!
そうですね。素人目の単なる推測で恐縮ですが、
太平洋戦争中の日本は一人でも多くの男子が生まれる事を望み、産めよ増やせよとばかりに
人口増加作戦が図られた様ですが、朝鮮もそういう意味では、日本の植民地ということで、同じ方針がしかれたのではないのかと思いました。
人口増加現象というのは、単に国が豊かであるからという事だけではなく、(むしろ、治安がよく国力が安定し、平和になると逆に人口が減るような?)
戦争などの有事の際にも、人口爆発が起こるものではないのかと思うのですが、いかがでしょうか。。?
応援凸
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 人口の点のみでは確かに説得力が弱いですね。
この後、別の面から植民地化の有無について検証することになります。
仰るとおり、台湾と朝鮮半島では事後の対応に大きな違いがありますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、確かにそういう一面も考えられますね。
ただ、これも仰るとおりなのですが、世の中が平和でないと人口は増えません。植民地化によって朝鮮の人々が迫害を受けているのであれば、寿命も延びるとは思えないのです。
いずれにせよ、人口以外の検証も必要になってきますね。次回以降で紹介します。
オバrev う~ん、客観的データから欧米の植民地とは違うことは間違いないでしょうが、朝鮮半島の人達の受け取り方はどうだったんでしょうか?
論理的な整合性と感情はまた違うと思います・・・凄く困難なことかもしれませんが(^^ゞ
オバrevさんへ
黒田裕樹 > う~ん、客観的データから欧米の植民地とは違うことは間違いないでしょうが、朝鮮半島の人達の受け取り方はどうだったんでしょうか?
> 論理的な整合性と感情はまた違うと思います・・・凄く困難なことかもしれませんが(^^ゞ
確かに感情の問題は存在すると思います。
だからこそ、私たち日本側は逆に感情を排して冷静に事実を見つめなおす必要があるような気がします。
真実の見極めは今後も続きますよ。
初めまして
mugi こちらのブログは以前から興味深く拝見させて頂きましたが、初めてコメントさせて頂きます。
個人的にインド、中東史に関心があり、特に英国支配下にあったアイルランドやインドでは飢饉が頻発、凄まじい餓死者を出したことは知られています。日本統治以前の朝鮮半島の慢性的な貧困もまた、清朝の徹底した搾取にある。何しろ宦官や貴族の娘まで女官として“朝貢”していたほどで、これが自称「父の国」への対応でした。
常に中国の属国状態であり続けた半島史上で、日本支配が例外的な平和をもたらしたのは明らかです。しかし、半島人が反日を国是やイデオロギーにするのは、結局小儒教主義に尽きるのです。民族のDNAにこれが組み込まれているし、儒教主義では元から男尊女卑で、跡継ぎの男児欲しさにバンバン子供を産む傾向がある。今でも大陸や朝鮮半島で、生まれてくる男女の比率は男が異様に高い実態から、それが伺えます。
日本の朝鮮支配はアイルランドを参考にしたそうですが、アングロサクソンと違い実に手ぬるいとしか言いようがない。弱いと見れば付け上がり、強いと思えばひれ伏すのが人間なので、日本の半島支配の大失敗は建前では同格に扱ったことでした。シナ式に行えば、日本への憎悪は今よりは少なかったのではないでしょうか?島国で異民族との接触が極めて少なかった日本人の初心さが裏目に出たと思います。
mugiさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
仰るような感情の問題が尾を引いているようですね。
日本人は良くも悪くも「お人よし」ですから、裏目に出ると辛いものがあるような気がします。
西欧諸国はアフリカやアメリカ、あるいはアジアの各地域の先住民を従わせて植民地化すると、本国の経済力を高めるために、先住民を奴隷(どれい)として強制連行したり、白色人種にとって都合の良い作物(さくもつ)ばかりを育てさせようとしたりしました。
例えば、ブラジルではサトウキビの栽培(さいばい)を広い範囲で行ったり、スリランカでは紅茶を栽培させたりしました。これらの利益のほとんどは本国が吸い上げ、先住民はそれこそ無給(むきゅう)に等しい状態で過酷(かこく)な労働を強(し)いられたのです。
なお、このような熱帯(ねったい)・亜熱帯(あねったい)地域の植民地において、奴隷や先住民の安い労働力を使って世界市場に向けた単一の特産的農産物を大量に生産することをプランテーションといいます。プランテーションはその国が輸出によって外貨(がいか)を獲得(かくとく)するための唯一(ゆいいつ)の手段となりますから、仮に自然災害(さいがい)などによって農産物が不作になれば経済が立ち行かなくなるという大きな問題を抱(かか)えています。
ちなみに、プランテーションという言葉は高校の地理で学習しますから、学生の皆さんは覚えておいて損はないですよ。




いつも有難うございます。
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toda 10,000カウントにコメ頂きありがとうございました。
これからも面白い内容で頑張りますので宜しくお願い致します。
応援Pochiもしていきます。
todaさんへ
黒田裕樹 > 10,000カウントにコメ頂きありがとうございました。
> これからも面白い内容で頑張りますので宜しくお願い致します。
> 応援Pochiもしていきます。
こちらこそお言葉並びに応援下さってありがとうございます。
今後ともよろしくお願いします。
ぴーち こんばんは!
この時代のブラジルは植民地として白人に虐げられていたんですね。
北京に続き、今度の2016年度のオリンピックは初のブラジル開催となると、これまでの慣例通り、ブラジルも先進国の一つの国として、発展していくのでしょうね。
これからはアメリカの時代ではなく、ブラジルが経済大国として持て囃される時代が目の前ではないでしょうか・
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この時代のブラジルは植民地として白人に虐げられていたんですね。
> 北京に続き、今度の2016年度のオリンピックは初のブラジル開催となると、これまでの慣例通り、ブラジルも先進国の一つの国として、発展していくのでしょうね。
> これからはアメリカの時代ではなく、ブラジルが経済大国として持て囃される時代が目の前ではないでしょうか・
そうですね。オリンピックを開催できるのはそれだけの国家であるということですから、ブラジルもそう遠くない日にもっと国力が上がればいいですね。
以上は一般的な歴史教科書に掲載(けいさい)されている文章ですが、このうち日韓併合(にっかんへいごう)においては我が国が決して強制したのではなかったことは、平成22年8月の第18回歴史講座で紹介したとおりです。
では、我が国が朝鮮半島を自国の領土として併合した行為は、果たして「植民地化」を意味していたのでしょうか。また、大東亜戦争(だいとうあせんそう)末期において、我が国は本当に朝鮮半島の人々を強制連行したのでしょうか。
今回の講座では日韓併合後の歴史、すなわち北朝鮮(きたちょうせん)や韓国(かんこく、現在の大韓民国=だいかんみんこく)で一般的に呼称(こしょう)される「日帝(にってい)三十六年」の真実について、まずは「植民地化」の観念から探(さぐ)ってみたいと思います。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
こうしてお話を伺っていると
教科書に載っていたから、それが事実であったと
思い込む事は危険な事なのかもしれないなと
感じました。
今、震災で飛び交っている色々な情報も、
中には事実がわん曲されて伝わってしまう
事があったりして、既に歴史の1ページとなって
しまった事でも改めて調べ直してみると新たな真実が浮上して来ることもある訳ですね。
今回、北朝鮮は震災の義援金10万ドルを送って来たそうですが、自分の国の白頭山もいつ爆発するかも分からないからという内容の言葉があった様ですね。これは素直にありがたいと思った方が無難なのかも知れませんが、本当に手放しで喜んで良いのかはこれからの動向次第かなとも思いました。
日本人のように「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」という発想はないのでしょうか。
政治的、歴史的な憎しみはとりあえず休戦し、震災に対しての純粋な哀悼の意であること
なら、北朝鮮に対する日本人の見方が少しは変わるかもしれませんね。
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こうしてお話を伺っていると
> 教科書に載っていたから、それが事実であったと
> 思い込む事は危険な事なのかもしれないなと
> 感じました。
> 今、震災で飛び交っている色々な情報も、
> 中には事実がわん曲されて伝わってしまう
> 事があったりして、既に歴史の1ページとなって
> しまった事でも改めて調べ直してみると新たな真実が浮上して来ることもある訳ですね。
残念ながら仰るとおりであるといえます。
教科書のみならず、報道においても「メディアリテラシー」を身につけることが自身のためになりそうですね。
> 今回、北朝鮮は震災の義援金10万ドルを送って来たそうですが、自分の国の白頭山もいつ爆発するかも分からないからという内容の言葉があった様ですね。これは素直にありがたいと思った方が無難なのかも知れませんが、本当に手放しで喜んで良いのかはこれからの動向次第かなとも思いました。
> 日本人のように「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」という発想はないのでしょうか。
> 政治的、歴史的な憎しみはとりあえず休戦し、震災に対しての純粋な哀悼の意であること
> なら、北朝鮮に対する日本人の見方が少しは変わるかもしれませんね。
人道的な問題に関しては素直になりたいものですが、両国間には拉致問題をはじめとする大きな難関が立ちはだかっているのも事実です。
今回の支援が平和的解決への道筋となるのであれば歓迎したいのですが、そう簡単にはいかないと考えた方が良いのかもしれません。
第24回の「日帝三十六年の真実 ~日韓併合後の歴史」については、従来の講座とは異なり、あえて歴史的事実の紹介を中心に行いました。個人的な感情を度外視した歴史的事実の積み重ねから導き出される結論について、皆様にお考えいただきたいと思ったからです。
逆に後半の記念講演については、これまでの「流れを重視した分かりやすい歴史」の展開を重視しました。内容はこれまでの歴史講座に関することが中心でしたが、数回分の講座を一気にふり返ったことで、より大きな「物語としての歴史の流れ」を紹介できたと自負しております。
第24回歴史講座の内容につきましては、10回に分けたうえで3月29日よりYouTubeの映像とともに更新を開始しますので、是非ご覧くださいますようよろしくお願いいたします。
本当の歴史のみが与えることが許される、素晴らしい感動を皆様へ―




いつも有難うございます。
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オバrev ブログ2周年記念講演無事終了おめでとうございます(^O^)
それにしても2年間、多分1日も休みなく、素晴らしい歴史講座を続けてこられたことに感服いたします。
ということは、黒田先生より3ヶ月ほど早く始めた私も、もう2年が過ぎてるんですね。
黒田先生の一貫した内容に比べて、私の記事は何が何だか分からない内容になってしまっているのがちょっと問題ありですが(´・ω・`)
ところで、黒田先生がPさんのブログにコメントされてましたが、「ある発表」って何ですか?(^_^;)真ん中ストレート~!
オバrevさんへ
黒田裕樹 > ブログ2周年記念講演無事終了おめでとうございます(^O^)
有難うございますm(_ _)m
2つの講演を無事に終了できて良かったです(^^♪
> それにしても2年間、多分1日も休みなく、素晴らしい歴史講座を続けてこられたことに感服いたします。
> ということは、黒田先生より3ヶ月ほど早く始めた私も、もう2年が過ぎてるんですね。
> 黒田先生の一貫した内容に比べて、私の記事は何が何だか分からない内容になってしまっているのがちょっと問題ありですが(´・ω・`)
仰るとおり、一日も休まずにここまで来れました。オバrevさんも長いですよね。
私のブログは特殊な「お勉強ブログ」ですから必然的に内容が一貫してしまいますが、オバrevさんのように幅広い内容で勝負(?)されるほうが本来のブログのあるべき姿だと思いますよ。
> ところで、黒田先生がPさんのブログにコメントされてましたが、「ある発表」って何ですか?(^_^;)真ん中ストレート~!
…そういえば新年度の季節ですよね。
月が替わればそのうち何らかの動きがあると思いますよ(爆)。
衣服では小袖(こそで)が一般に用いられ、男子は袴(はかま)を身に着けることが多く、肩衣(かたぎぬ)に裃(かみしも)を用いた簡単な礼服(れいふく)を用いる一方で、女子は小袖の着流しが普通になり、また男女ともに結髪(けっぱつ)するようになりました。食生活が朝夕の二食から三食になったのもこの頃のことです。
この時代に盛んになった南蛮貿易(なんばんぼうえき)によって、宣教師(せんきょうし)はキリスト教の布教の他に天文学や航海学・医学や地理学などの実用的な学問を伝えるとともに、油絵(あぶらえ)や銅版画(どうばんが)の技法ももたらしました。これらの技術によって、やがて日本人の手による西洋画の影響を受けた南蛮屏風(なんばんびょうぶ)が描かれるようになりました。
また、金属製の活字による活版印刷術(かっぱんいんさつじゅつ)が伝えられるともに印刷機も輸入され、キリシタン版や天草版(あまくさばん)と呼ばれたローマ字による日本語辞書や日本古典の出版などが行われました。
南蛮人によって我が国にもたらされた文化を南蛮文化(なんばんぶんか)といい、カステラやパン、カルタ、コンペイトウ、シャボンなどのように、外来語として今でも残っているものがあります。
※これで戦国、安土・桃山時代は終了です。明日(3月29日)からは第24回歴史講座の内容の更新を開始します。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
今日は計画停電は免れましたが、夕方以降になるとネット状況が余り良く有りませんので、今の時間にお邪魔させていただきますね^^
この時代に二階建てや、瓦葺が登場したということは、自然災害(地震など)の影響は少ない時代でもあったのでしょうか・・
カルタは外来語だったんですね!(゜o゜;
確かに漢字では書きませんし、どういう意味で
付けられたのかと疑問には思ってはいましたが、
外来語なら、納得です(^^)v
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今日は計画停電は免れましたが、夕方以降になるとネット状況が余り良く有りませんので、今の時間にお邪魔させていただきますね^^
いつもご配慮いただいてありがとうございますm(_ _)m
> この時代に二階建てや、瓦葺が登場したということは、自然災害(地震など)の影響は少ない時代でもあったのでしょうか・・
二階建てや瓦葺は建築技術の進歩によるものですが、秀吉政権末期の1596年に京都や堺を中心に慶長伏見大地震が発生しており、多くの方々が亡くなられたり、あるいは被害を受けられたりされております。
> カルタは外来語だったんですね!(゜o゜;
> 確かに漢字では書きませんし、どういう意味で
> 付けられたのかと疑問には思ってはいましたが、
> 外来語なら、納得です(^^)v
そうなんですよね。
この当時の外来語が結構使われているということは、いかに多くの人々に浸透していったかということだと思います。
ちなみにカルタはポルトガル語が由来ですが、英語ではcard=トランプになりますね。
衣服の変遷。
晴雨堂ミカエル 時代劇によって衣服や髪型の変化は異なりますね。烏帽子を省くようになった時期、月代を剃るのが常態化した時期、直垂や大紋から肩衣になった時期、さらに肩衣から裃になった時期、胡座から正座に変わった時期など。
大河ドラマでも各々解釈が違います。
私は女性の座り方を時代考証通りにするべきと常々思っています。江戸時代初期までは韓国と同じく片立て膝座りでしたから。
「江」はあり得ない。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 時代劇によって衣服や髪型の変化は異なりますね。烏帽子を省くようになった時期、月代を剃るのが常態化した時期、直垂や大紋から肩衣になった時期、さらに肩衣から裃になった時期、胡座から正座に変わった時期など。
> 大河ドラマでも各々解釈が違います。
確かに解釈によって異なりますね。
髪形については「戦国=茶筅髷」が定着しているようですが。
> 私は女性の座り方を時代考証通りにするべきと常々思っています。江戸時代初期までは韓国と同じく片立て膝座りでしたから。
> 「江」はあり得ない。
「江」については時代考証そのものがとてつもない状態になっていますからね。
現状では視聴率の低下もやむなし、といったところでしょうか。
しー 昨日から日本史の教科書を読み始めました!!
(弥生時代に入るところまでですがw)
…やはり、細かいですね。。。
見知らぬ単語が沢山…(д)
早くこっちに追いつくのが目標です^^
しーさんへ
黒田裕樹 > 昨日から日本史の教科書を読み始めました!!
> (弥生時代に入るところまでですがw)
いよいよ始まりましたね(^^♪
> …やはり、細かいですね。。。
> 見知らぬ単語が沢山…(д)
確かに単語の一個一個は難敵です。
でも、流れで歴史をとらえることができれば自然と頭に入るものですよ。
> 早くこっちに追いつくのが目標です^^
頑張りましょう(`・ω・´)
ちなみにブログの通史は今回の講座の後に江戸時代に入りますが、まだ教科書の半分なんですよね(´・ω・`)
茶道は豊臣秀吉や他の有力大名の保護を受けて大いに流行し、茶室の建築や茶器の発達をうながしました。なお、秀吉は1587年に京都の北野(きたの)で身分の上下を問わずに民衆(みんしゅう)を自由に参加させた北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)を行っています。
当時の庶民(しょみん)の娯楽(ごらく)としては、17世紀初めに出雲阿国(いずものおくに)が京都で始めたかぶき踊(おど)りが阿国歌舞伎(おくにかぶき)としてもてはやされ、これがやがて女歌舞伎(おんなかぶき)となりました。
また、琉球(りゅうきゅう)から伝えられた三味線(しゃみせん)が普及(ふきゅう)したことで、三味線を伴奏(ばんそう)に人形を操(あやつ)って演じる人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)も始まりました。他にも堺の商人の高三隆達(たかさぶりゅうたつ)が小歌(こうた)に節(ふし)をつけた隆達節(りゅうたつぶし)が民衆の人気を集め、盆踊(ぼんおど)りも各地で盛(さか)んに行われました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
こういう文化が盛んだったのは、江戸時代の長い平和が続いていた時期が主だったのかと思っていましたが、秀吉の時代も随分と花開いていたんですね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こういう文化が盛んだったのは、江戸時代の長い平和が続いていた時期が主だったのかと思っていましたが、秀吉の時代も随分と花開いていたんですね^^
そうですね。
世の中が平和であれば文化が育ちやすいとすれば、秀吉が天下統一を果たした頃もそうですし、また武力統一から来る力強さもあったといえるかもしれませんね。
いつも「黒田裕樹の歴史講座」をご覧いただきまして有難うございます。
昭和天皇の後篇である第23回「黒田裕樹の歴史講座」は、東京(2月19日)では8名、大阪(2月26日)では13名の皆様にご参加いただくことができました。
次回(第24回)は、昨年8月の第18回歴史講座の続編となる「日帝三十六年の真実 ~日韓併合後の歴史」を、3月26日(土)の午後3時30分より行います。
「1910(明治43)年、韓国(=大韓帝国)を植民地にした日本は、朝鮮半島の人々に多大な苦しみを与えました」。以上は一般的な歴史教科書によく出てくる表現ですが、これらは本当のことだったのでしょうか?
他国によるそれまでの一般的な植民地支配と照らし合わせながら、我が国が当時の朝鮮半島にもたらした「事実」を明らかにしていくことで、いわゆる「日帝三十六年の真実」について探ってみたいと思います!
本当の歴史のみが与えることが許される、素晴らしい感動を皆様へ―
第24回「黒田裕樹の歴史講座」
「日帝三十六年の真実 ~日韓併合後の歴史」
日時:平成23年3月26日(土) 午後3時30分より
場所:梅田東学習ルーム
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:無料(カンパを受け付けます)
ブログをご覧の皆様も、よろしければ是非ご参加下さい。この記事のコメント欄をご活用いただければと思います。また、今回の講座の内容については、前回までと同様に、後日にはブログ上で映像とともに発表しますので、是非ご覧になって下さい。
なお、予約の都合上、当日の教室一覧(午後)の掲示板に「大阪読書研究会」と書かれているのが「黒田裕樹の歴史講座」の会場となります。ご注意下さい。
ところで、 第24回歴史講座の日(3月26日)に、当ブログは開設以来2周年を迎えます。これを記念して、講座に引き続き当日の午後6時から講演を行います。詳しくは追記をご覧下さい。




いつも有難うございます。
「思わず楽しくなる歴史の教え方」という演題で、教師復帰を目標とする私がこれまでのブログを通じて皆様にご紹介しました内容に関して、教える側に立ったうえで改めて見直します。
例えば、
○源頼朝の征夷大将軍へのこだわりで鎌倉幕府から明治維新の流れが分かる!
○経済の基礎が分かればたちどころに理解できる徳川綱吉と元禄小判の「本当の話」!
○儒教の毒が回った江戸の三大改革と、それを乗り越えようとした田沼意次の挑戦!
歴史教育というものは分かりやすさはもちろん、教え手である教師も楽しくなければ本当の面白さを生徒に伝えられるはずがありません。これまでのブログの2年間を通して、教壇に立つために自分なりに経験を積み重ねてきた「黒田節」を、いつもとは違う切り口で皆様にお楽しみいただければと思います!
ブログ「黒田裕樹の歴史講座」2周年記念講演
「思わず楽しくなる歴史の教え方」
日時:平成23年3月26日(土) 午後6時より
場所:梅田東学習ルーム
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:無料(カンパを受け付けます)
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晴雨堂ミカエル 毎週木曜日になると民主党の誰かが「辞任」するこの頃ですが、土肥氏もやってくれました。
保守系市民から見れば理解に苦しむ非常識で言語道断の背任行為ですが、実は左派系市民の間ではさほど「非常識」ではないのです。
おそらく左翼市民の多くは竹島は独島と思っているはずですよ。北方領土にしても「日本の領土ではなく、アイヌ民族の領土だ」と思っているでしょうから。善意と良心が出発点であるのは理解しているが、必要以上に日本というものを軽く見過ぎです。
彼はキリスト教徒で護憲派市民、日ごろ支持者や仲間内での常識に慣れ過ぎて、世間の感覚から乖離していることに気づかないか、気づいても世間が誤りで自分たちが正義と思っているのでしょう。
でないと、菅政権が窮地に立たされている時にあんな馬鹿なことはできないはずです。
これで少しは自分たちが「カルト」である自覚を持てばいいのですが、「カルト」が自ら「カルト」なんて思わないものですから、駄目でしょうね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、今回の事件には仰るような背景があるのですか。
勉強になりました。有難うございます。
補足。
晴雨堂ミカエル 念のため補足します。同じ左翼でも共産党と旧社会党系は全く性格は異なります。
共産党は早くから安保闘争や学生運動とは袂を分かち逆に学生運動を潰しにかかりました。
文化大革命の幻想にも早くに気づき中共とは断行しました。北朝鮮とも距離を置き、あまり知られていませんが拉致問題についても早くから問題視していました。(声高に主張しないところが共産党らしい保身術です)
それとは逆に旧社会党系は中国や北朝鮮に接近し過ぎました。学生運動にも幻想をもっている人間は多々います。ですから、保守から見れば「左翼」で一緒くたにしますが、旧社会党系は「共産党は自民党よりも保守政党だ」と非難し、共産党は「社会党は軟弱で空想的」と軽蔑、保革の対立以上に敵視し合う関係です。
良く言えば共産党は堅実な党利益中心の現実主義で、旧社会党は保守に傾いたり極左的になったり左右に蛇行する空想主義的な面があります。
晴雨堂ミカエルさんへ その2
黒田裕樹 そういえば今回に限らず最近の政局で共産党の考えは一貫していますね。
ブレないというのが政治の基本の一つでもありますし、一定の支持率を保っている理由の一つなのでしょうか。
補足2
晴雨堂ミカエル 面白いデータがあります。データというより、友人知人の例なのですが、共産党はけっこう「世襲」があります。
世襲といっても、親が国会議員だったら息子も国会議員になるというのは自民党ほど多くはありませんが、労組活動を展開したり、左翼系ジャーナリストになったり、平和運動を展開したり、生協活動をやったりと、親の主義主張を引き継ぐ事は多いのです。
ところが旧社会党系の活動家たちは、子供に引き継がすことに失敗しています。子供は引き継ぐどころか、180度反対の思想に傾倒する。親の矛盾を間近に見ているせいでしょうね。言うている事とやっている事が違うという場面を目撃するからです。
管理人のみ閲覧できます
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晴雨堂ミカエルさんへ その3
黒田裕樹 色々と情報を提供下さって有難うございます。
今は我が国自体が危急存亡のときです。こんな時こそ超党派で一人でも多くの生命を救いたいものですね。
管理人のみ閲覧できます
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管理人のみ閲覧できます
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mochimochi 震災の影響を受けた方に心からお見舞いを送りたいと思います。自分が出来る救助をしたいと思います。
私たち生き残った者は、力を合わせて日本再生に力を尽くしたいと思います。それには、正しい歴史を知る必要があります。
日本再生を見ずにお亡くなりになった人達のためにも、頑張りたいと思います。
城郭には建築や絵画・彫刻など、桃山文化を結集した象徴的な要素が散りばめられていました。城の内部には書院造(しょいんづくり)をとり入れた居館(きょかん)が設けられ、広間(ひろま)には彫刻や濃絵(だみえ)の豪華な障壁画(しょうへきが)が描(えが)かれました。
なお、濃絵とは金箔(きんぱく)をはりつめた画面に青や赤、あるいは緑などの原色を彩色(さいしょく)したものです。また、欄間(らんま)には花鳥(かちょう)の透(すか)し彫(ぼり)が彫刻されました。
障壁画の中心となったのは狩野派(かのうは)であり、狩野永徳(かのうえいとく)は室町時代に盛んになった水墨画(すいぼくが)と我が国古来の大和絵(やまとえ)とを融合(ゆうごう)させて、新しい装飾画(そうしょくが)を大成させ、洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)や唐獅子図屏風(からじしずびょうぶ)などの作品を描きました。
また、門人(もんじん、いわゆる弟子のこと)の狩野山楽(かのうさんらく)は松鷹図(しょうようず)や牡丹図(ぼたんず)などを描き、同じ頃に海北友松(かいほうゆうしょう)や長谷川等伯(はせがわとうはく)らも優(すぐ)れた作品を描きました。
この他、彫刻ではそれまでの仏像彫刻が衰(おとろ)えて欄間彫刻(らんまちょうこく)が盛んとなり、家具調度品(かぐちょうどひん)として豪華な意匠(いしょう、デザインのこと)の蒔絵(まきえ)が施(ほどこ)されました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
ブログ2周年、おめでとうございます!

これからも是非歴史を学ぶ楽しさを流布してくださいね^^
陰ながら、応援させていただきます!
応援凸
祝・二周年
クラチー 二周年、おめでとうございます!
これからも、歴史の奥深さ・楽しさを、
人々に広めていってください。
応援しています!
(>ω<)ノシ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
今日の講座並びに記念講演も無事終了しました。
より一層の内容の充実を目指してこれからも頑張ります!
クラチーさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
歴史好きのクラチーさんからのお言葉は励みになります。
今後ともよろしくお願いいたしますm(_ _)m
しかし、平地に城を造れば攻め込まれやすいという欠点があったため、城の周囲に幾重(いくえ)にも堀(ほり)や土塁(どるい)をめぐらすことで防御力を高めました。また、城の本丸(ほんまる)には重層(じゅうそう)の天守閣(てんしゅかく)を設けました。
こうして造られた城郭は、単なる防塁(ぼうるい)としてだけではなく、邸宅(ていたく)や政庁(せいちょう)を兼ねるようになりました。この頃の代表的な城郭としては安土城(あづちじょう)や大坂城(おおさかじょう)・伏見城(ふしみじょう)・姫路城(ひめじじょう)などが知られています。
このうち姫路城はその美しさから別名を白鷺城(はくろじょう、または「しらさぎじょう」)とも呼ばれ、また江戸時代初期の建築物が現存していることもあって、平成5(1993)年に世界遺産として登録されています。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
城郭と呼ばれる城は、これまでの色々な知恵を集結させた結果であった訳なんですね^^
姫路城は仰る通り、白鷺城と呼ばれる程にその姿の美しさには定評がある様ですが、実際に目の前で拝見した事が無いのでとても残念です(;_;)
お城と言えば、昔、福島の会津若松・鶴ヶ城に出向いた事がありましたがやはり目の前で見るお城は貫禄がありますよね♪
黒田さんはやはりいくつもお城は見て回られている事でしょうね^^
応援凸
姫路城は江戸城に。
晴雨堂ミカエル 時代劇では姫路城の天守閣を江戸城に見立ててロケが行われました。子供の頃、それを指摘したのですが、周囲は信じてくれなくて歯噛みしたものです。江戸城には天守閣は無いと言ってもダメでした。江戸城と皇居の関係を知らぬ大人も多かった。きちんと説明したつもりなのに、子供(小学校低学年)の意見はこれ程までに軽んじられるのかと悔しい思いをしたものです。今は逆ですが。
人間というのは、本能的に目下の人間を割引で見てしまうものです。
今の時代劇なら姫路城を江戸城に見立てる事はせず、CGでリアル復元した江戸城をだすでしょう。 ただ、白の内部や守備兵が狭間から鉄砲を撃つ場面などは今でも姫路城は需要がありますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 城郭と呼ばれる城は、これまでの色々な知恵を集結させた結果であった訳なんですね^^
> 姫路城は仰る通り、白鷺城と呼ばれる程にその姿の美しさには定評がある様ですが、実際に目の前で拝見した事が無いのでとても残念です(;_;)
> お城と言えば、昔、福島の会津若松・鶴ヶ城に出向いた事がありましたがやはり目の前で見るお城は貫禄がありますよね♪
> 黒田さんはやはりいくつもお城は見て回られている事でしょうね^^
姫路城は雄大ですからねぇ。よくぞ幾多の危機を乗り越えてくれたものです。
お城めぐりは昔から良く行きますが、皇居近辺は行ったことがないんですよね。
一般参賀に参加してみたいものですが…。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 江戸城に天守閣がないのは意外と盲点のようですね。
焼け落ちた後に必要としなかったのは、それだけ平和な時代だったからでしょうか。
「暴れん坊将軍」などでは一話につき一回は姫路城が出ていましたね。
今も昔も時代劇の名ロケ地です。
この当時は戦国時代を勝ち抜いた新興大名や、戦争や貿易によって巨万の富を得た豪商(ごうしょう)たちが文化の担(にな)い手となりました。そんな桃山文化の特色は、新興勢力の気風にあふれた新鮮味あふれる豪華(ごうか)で壮大(そうだい)かつ華麗(かれい)なものでした。
また、信長や秀吉の政策によって勢力の衰(おとろ)えた寺院勢力の影響を受けて仏教色が弱まったことで、現実的で力感のある絵画や彫刻などが多く制作されました。
さらにはポルトガル人の来航によって西欧文化(せいおうぶんか)との接触(せっしょく)が始まったことにより、桃山文化はそれまでにない多彩なものとなりました。




いつも有難うございます。
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晴雨堂ミカエル 海外との交渉が盛んになると、巨大かつ高層の建物を造りたがる傾向が日本にありますね。
奈良の都に五重の塔、浪速の町に大坂城、明治以降の高層建築群。
海外との付き合いが乏しくなると、地味で平屋傾向になるような気がします。
ぴーち こんばんは!
確かに歴史ドラマなどをたまに見ていると
秀吉の着物などは豪華絢爛な色調が多かったように記憶しています。(記憶違いなら、すみませんm(_ _)m)
屏風絵などもキンキラキン

で華麗なイメージがあります(^^)v
応援凸
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 海外との交渉が盛んになると、巨大かつ高層の建物を造りたがる傾向が日本にありますね。
> 奈良の都に五重の塔、浪速の町に大坂城、明治以降の高層建築群。
> 海外との付き合いが乏しくなると、地味で平屋傾向になるような気がします。
言われてみれば、確かに時期が一致していますね。
「我が国だってこれくらいのものはつくることができる」という島国根性でしょうか。
それはそれで良いことだと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確かに歴史ドラマなどをたまに見ていると
> 秀吉の着物などは豪華絢爛な色調が多かったように記憶しています。(記憶違いなら、すみませんm(_ _)m)
> 屏風絵などもキンキラキン

> で華麗なイメージがあります(^^)v
仰るとおり、後年の秀吉のイメージがそのまま桃山文化を象徴していますね。
これから数回にかけて桃山文化を紹介しますが、その豪華さは出色(しゅっしょく)ですよ(^^♪