秀吉は対馬(つしま)の宗氏(そうし)を通じて当時の朝鮮半島を支配していた李氏朝鮮(りしちょうせん)に対して「我が国が明へ軍隊を送るから協力してほしい」と使者を出しましたが、立場上は明を宗主国(そうしゅこく)と仰(あお)いでいた李氏朝鮮は秀吉の要請(ようせい)を拒否しました。
このため、秀吉は明を征服する前提として、やむなく朝鮮半島から攻め込んでいったのです。これこそが、1592年に起きた一回目の朝鮮出兵である文禄の役(ぶんろくのえき)の本当の理由でした。
肥前(ひぜん、現在の佐賀県)の名護屋(なごや)に本陣が置かれた日本軍は、加藤清正(かとうきよまさ)らが率(ひき)いる15万の大軍で朝鮮半島に上陸して、当初は優位に戦いを進めましたが、でしたが、李氏朝鮮の名将である李舜臣(りしゅんしん、イ・スンシン)の活躍があったり、縦に伸びきった我が国の軍勢の補給路が断たれたことで、多くの兵が飢(う)えや寒さに苦しんだりするなど、戦局は次第に我が国にとって不利な状況となり、やがて休戦となりました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
秀吉の朝鮮出兵に関しては、
四面楚歌の状態だった訳ですね。
その閉塞感を打破する為に、出兵を強行
したものの、思いもよらぬ日本とは違う自然環境や食料不足に、あえなく思いが絶たれてしまった・・。
秀吉の野望の前には、味方をしてくれるものは
無かったというのは、やはり秀吉の行動には
元々計画性がなく、無謀な事だったということなのでしょうか。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 結果だけを見れば、確かに無謀だったように見えますね。
実際のところ、秀吉の苦戦の主な原因は情報不足や作戦の失敗、あるいは戦いの一貫性のなさによるものです。
朝鮮半島について事前に情報を仕入れていなかったことで冬の対策がおろそかになっていたことや、朝鮮半島を経由して明へ攻め込むはずが、なぜか現在の北朝鮮の方まで突っ走ってしまうという不可思議な軍勢の進め方、そんな折に軍勢を寸断されたことで補給線が断たれて、多くの兵士が飢えや寒さで亡くなるという失敗があったのです。
これではどれだけ多くの兵力や鉄砲があっても勝てるはずがないですね。そういうこともあり、ぴーちさんが仰るように計画性のなさはありますが、少なくとも無謀ではなかったと思います。
オバrev なるほど~、朝鮮出兵の目的は明を征服して、イスパニアの侵入を防ぐことにあったんですね。
でもどう考えても、あの戦上手の秀吉にしては無謀で、あまりに見込みのない戦だった気がします。
ということは、国内の武士の不平不満を外へ向かわせるという意味が強かったのではないかと思いますが、いかがでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > なるほど~、朝鮮出兵の目的は明を征服して、イスパニアの侵入を防ぐことにあったんですね。
> でもどう考えても、あの戦上手の秀吉にしては無謀で、あまりに見込みのない戦だった気がします。
秀吉自身は勝てると思っていたようですし、兵力も圧倒していたのですが、いかんせん作戦が稚拙すぎましたね。ある意味では無謀と思われても仕方がないと思います。
> ということは、国内の武士の不平不満を外へ向かわせるという意味が強かったのではないかと思いますが、いかがでしょうか?
その一面は確かにありますね。天下が統一されて新たな領地を獲得することが不可能となり、武士たちの間に高まっていた不満をそらすという目的があったことは間違いないようです。もっとも、これは秀吉に限らず、先述したようにアレクサンドロス大王やチンギス=ハーンと同じく、世界史の常識でもある訳ですが…。
韓国の大河ドラマでは・・。
晴雨堂ミカエル 韓国の大河ドラマ「壬辰倭乱」では、徳川家康が秀吉の力を削ぐよう暗躍している描写でしたね。
明は女真族8万騎で滅びましたし、ヨーロッパは日本より少ない兵力で世界を征服しました。
日本軍は練度・装備・兵数は世界一です。作戦が上手ければ明を取ることはできましたね。占領維持が秀吉にできたかどうかは別にして。
イスパニア船を捕獲してコピーするのは技術的可能だったと思うのですが。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、ドラマによって観点が違うんですね。
仰るとおり、明の攻略は決して不可能ではなかったとは思います。ただし、第二次大戦のような「終わりのない戦い」で、我が国の体力が疲弊して他国に狙われる可能性も十分にありましたから、結果は何とも言えないのですが…。
鉄砲のように小さなものであればすぐにコピーができたと思いますが、船の場合はどうでしょうか。また気前よくもらった鉄砲とは違って、イスパニアの船をそう簡単に捕獲できるのか、失敗した場合のイスパニアとの関係の悪化をどう処理するのかなどを考えた場合に、あまりにもリスクが大きすぎるような気がしますね。
キリシタンを処刑する強攻策をとったのですから・・。
晴雨堂ミカエル 明を支配するよりは遥かにリスクは微少です。後に江戸幕府はポルトガルやイスパニア船を追い出しているのですから、騙して船を強奪するのは簡単であり、強攻策をとる力と技は十二分にありました。
黒田氏もご存知のように日本の大工は低レベルではありません。ヨーロッパの軍艦を模倣する技は船大工にもあると考えた方が自然でしょう。
ヨーロッパ人と同じくらい戦略眼があれば、手順と効率を重視して実行していたと思います。やはり日本人は「侵略者」には向かない民族なのでしょう。ヨーロッパ的独裁者になれる素質をもっていたのは信長だけですか。
信長の政策を理解していた秀吉でしたが、信長の厳しさは欠けていたかもしれません。
ところで「壬辰倭乱」では、秀吉が朝鮮半島南部の穀倉地帯を確保して兵站維持する作戦をとろうとすると、家康は北に逃れた朝鮮国王の生捕を優先するよう執拗に進言する場面があります。
韓国での家康評が気になりますね。朝鮮学校では家康・秀忠の平和路線・国交回復・朝鮮通信使を介しての交流事業を好意的に取り上げています。
晴雨堂ミカエルさんへ その2
黒田裕樹 なるほど、強奪という手段も有効ではありますね。
だとすれば、仰るように日本人には「冷徹な侵略者」のDNAが(信長のような例外を除いては)入っていないがゆえの遠回りだったのかもしれません。
韓国においても「敵の敵は味方」なのでしょうか?
家康びいきは「秀吉憎し」の裏返しのような気がします。だとすれば、豊臣家が滅びたことは対朝鮮半島に限っていえば、皮肉ではありますが良かったことなのかもしれませんね。