また、秀吉が天下を統一する頃までには京都や大坂・堺・伏見(ふしみ)・長崎などの重要都市や、佐渡(さど)・石見(いわみ)・生野(いくの)などの鉱山(こうざん)も支配して、天正大判(てんしょうおおばん)などの貨幣(かへい)を鋳造(ちゅうぞう)しました。ただし、これらの貨幣は主に贈答用(ぞうとうよう)に使用され、いわゆる貨幣制度が確立するのは江戸時代に入ってからのことになります。
信長の経済政策を引き継いだ秀吉は、天下を統一したことで関所の廃止を全国に及ぼし、一里塚(いちりづか)を築(きず)くなどして、信長が進めてきた政策を完成させました。
豊臣政権は秀吉が独裁(どくさい)的な権力を握(にぎ)ることで成立しましたが、秀吉の晩年には腹心(ふくしん)の大名を五奉行(ごぶぎょう)として政務(せいむ)を担当させ、後に有力な大名を五大老(ごたいろう)に任命し、重要な政務を合議(ごうぎ)させましたが、これらの制度が確立したのは秀吉の死の直前でした。
ちなみに五奉行は石田三成(いしだみつなり)・浅野長政(あさのながまさ)・増田長盛(ましたながもり)・長束正家(なつかまさいえ)・前田玄以(まえだげんい)で、また大老は徳川家康・前田利家(まえだとしいえ)・宇喜多秀家(うきたひでいえ)・毛利輝元(もうりてるもと)・小早川隆景(こばやかわたかかげ)・上杉景勝(うえすぎかげかつ)であり、隆景の死後に五大老と呼ばれました。




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ぴーち こんばんは!
この頃の貨幣が贈答用だったとは存じませんでした(私なら、当然の事ですがww)
なるほど、確かに天下統一を図るには、関所は無用ということになりますね。
しかし、その後、江戸時代にはまた関所が設けられていたと思われますが、それはまた家康との考え方の相違によるものでしょうけれど。。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この頃の貨幣が贈答用だったとは存じませんでした(私なら、当然の事ですがww)
これは結構盲点なんですよね。天正大判のイメージが強すぎて、この頃から国産の貨幣が流通していたと思われがちなんですが…。
> なるほど、確かに天下統一を図るには、関所は無用ということになりますね。
> しかし、その後、江戸時代にはまた関所が設けられていたと思われますが、それはまた家康との考え方の相違によるものでしょうけれど。。
仰るとおり、江戸幕府の場合はいかにして江戸へ攻め込まれないようにするかというのが大きな目的でしたから、関所を設けて当然でもある訳です。目的や動機が違うと、関所の有無まで変わってしまうんですよね。
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