関白や太政大臣となったことで、自身が朝廷から全国の支配権を委(ゆだ)ねられたと見なした秀吉は、1585年に諸国の大名に交戦停止を命じた惣無事令(そうぶじれい)を出し、これに違反(いはん)したとして1587年に九州の島津義久(しまづよしひさ)を降伏させました。
また秀吉は1588年に京都に新築した聚楽第(じゅらくてい、または「じゅらくだい」)に後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の行幸(ぎょうこう、天皇が外出されること)を仰(あお)ぎ、その際に諸大名を集めて皇室を尊重させるとともに、天皇の御前(おんまえ)で秀吉自身への忠誠を誓(ちか)わせました。
そして1590年、秀吉は小田原(おだわら)の北条氏政(ほうじょううじまさ)を滅ぼし、伊達政宗(だてまさむね)らの東北の諸大名を降伏させたことで、ついに天下統一の事業を完成させたのでした。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
これまでの秀吉の行動を拝見させていただいていると、最初に黒田さんが秀吉を「人たらし」と仰っしゃられた意味が見えて来ました。
信長亡き後、チャンスとばかりに天下取りという最終目的の為にあらゆる手練手管を用いた抜かりなき行動は、信長存命の時から虎視眈々とその座を狙っていたかのようですね。もしかして最初からではなかったのかも知れませんが、これまでずっとバネの様に折りたたまれて来た思いが、一気にびよよよ~んと飛び跳ねたような展開ですね(^_^;)
(表現が幼稚ですみません・・汗)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます(^^♪
秀吉の内心は本人にしか分かりませんが、何と言っても戦国の世ですから、隙(すき)あらば自分が取って代わろうという思いは常に心の奥底にあったのではないかと私も推察します。
そして「一気にびよよよ~ん」と…って、この表現良いですねぇ(^_^)v
黒田裕樹さん
風早 りら 秀吉は 名誉にとても こだわった人の
ようですね
やはり 生まれが 農民だったからでしょうか
信忠が生きていたら、また変わっていたでしょう。
晴雨堂ミカエル 信忠は信長の嫡子という血統の権威と、三位の位という朝廷の権威と、既に織田家の家督を相続した棟梁としての権威もあったうえに、捻くれた信長によって司令官としても随分鍛えられていましたから、織田政権は潰れなかったかもしれませんね。
家康とは異なる幕藩体制を築けたかもしれません。
ところで、天海和尚=光秀説をどう思いますか?
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 秀吉は 名誉にとても こだわった人の
> ようですね
> やはり 生まれが 農民だったからでしょうか
私もそう思います。
身分の低さによるハンデは、差別が当然の世の中だった戦国時代の頃には、現代の私たちが想像する以上のものだったでしょう。
ハングリー精神を発揮できる一方で、名誉へのこだわりは人一倍強かったのではないでしょうか。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、信忠が一緒に倒されてしまったことに関しては、織田家にとっては痛恨の出来事だったと思われます。信忠が生きていれば、かたき討ちの大義目分が秀吉に回ってくるはずがなかったですからね。
結果論ですが、秀吉の運の強さは相当なものだと思います。
光秀=天海拙については、状況的にうなずける部分もありますが、やはり構成の創作のような気がします。
いずれにせよ真相は闇の中と思われますが…。