1584年、秀吉は信長の同盟者であった徳川家康(とくがわいえやす)や、信長の二男である織田信雄(おだのぶかつ)と小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦いに挑(いど)みましたが、敗れてしまいました。しかし、その後に秀吉は信雄と和睦(わぼく)に成功し、戦いの目的を失った家康とも和睦しました。
やがて秀吉は家康に自身への臣従(しんじゅう、臣下として主君につき従うこと)を求め、自分の妹を家康の新たな正室(せいしつ、いわゆる正妻のこと)として差し出したり、母を人質として送ったりしました。こうした秀吉の容赦(ようしゃ)のない攻勢に対して家康もついに臣従を決意し、秀吉に面会して臣下の礼(しんかのれい)をとりました。
さて、天下統一を目指して大名を次々と従(したが)えた秀吉でしたが、彼の元々の身分が低いこともあって、武家の棟梁(とうりょう)たる征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就任することは不可能でした。そのため、秀吉は皇室との縁を深めることで、天皇の名のもとに天下に号令しようと考えました。




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ぴーち こんにちは!
家康に臣従を求める徹底した姿勢は
「鳴かぬなら鳴かせてみよう ホトトギス」になぞられた行動だったのでしょうかね^^
身分が低いというハンデを乗り越えて、皇室との縁を深めるとは、さすがに抜かりがありませんね。
応援凸
オバrev 小牧・長久手の戦いで敗れながら、織田信雄、家康と和睦し、尚且つ家康を臣下にしたってのが、どうしても理解できないんですが・・・
普通、負けたらそこで勝者の配下に下るのが当然と思うのですが、何故そうならなかったのか?
それに、そもそも小牧・長久手の戦いの大義名分はなんだったんでしょうか(?o?)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 家康に臣従を求める徹底した姿勢は
> 「鳴かぬなら鳴かせてみよう ホトトギス」になぞられた行動だったのでしょうかね^^
> 身分が低いというハンデを乗り越えて、皇室との縁を深めるとは、さすがに抜かりがありませんね。
家康に対しては小牧長久手の戦いで負けたことで、戦わずにして勝つ方法にこだわったということでしょうね。
そのあまりのしつこさに家康もとうとう音を上げたというところでしょうか。
身分の低さを他人の権威を借りるという発想で乗り切るあたりは、仰るとおりの抜かりのなさだと私も思います。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、通常なら信雄の軍門に下るのが普通だと思います。
しかし、秀吉は信雄の弱点、というよりも彼の性格を知り抜いていました。信雄は信長の子とは信じられないくらいの凡庸な武将で、その一方で信長の息子という金看板にこだわる、要するにプライドが高かった武将だったのです。
小牧・長久手の戦いの契機も、秀吉が信雄をないがしろにしたと思いこみ(実際にそうだったのですが)、家康に救援を頼んだのがそもそものきっかけでした。
その後、家康と組んだ信雄は秀吉に勝ちました。ところが、その直後に秀吉がお得意の「人たらし」によって信雄の機嫌を取り、家康の知らないところで勝手に和睦を結んでしまったのです。
信雄に振り回されたかたちになった家康は激怒しましたが、かといって戦いの大義名分を失ってしまった今となっては、秀吉と和睦する以外に道がなかったのです。
その後は本文のとおりの経緯で家康は秀吉の臣下となりましたが、長生きしたことで最終的に天下を取ったのは周知のとおりですね。