秀吉は毛利家が信長の死を知る前に和睦(わぼく)すると、京都まで常識破りの速さで軍を引き返しました。世に言う「中国大返し(ちゅうごくおおがえし)」です。そして6月13日には京都の山崎で光秀と戦って勝利しました。これを山崎の合戦(かっせん)といいます。
敗れた光秀は、逃げる途中で落武者狩(おちむしゃが)りの手にかかって死亡しました。ちなみに、山崎の合戦で天王山(てんのうざん)を先に支配した秀吉側が勝ったというエピソードから、物事の正念場(しょうねんば)を「天下分け目の天王山」と表現するようになり、また光秀のあまりにも短かった天下の期間から「三日天下」という言葉が生まれました。
その後、当時幼少であった信長の孫の三法師(さんぽうし)を信長の後継者としたうえで自らはその後見人となった秀吉は、織田家の家臣同士で敵対関係にあった柴田勝家(しばたかついえ)を1583年に賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで滅ぼし、信長のつくり上げた権力と体制の事実上の継承者(けいしょうしゃ)としての地位を確立しました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
お恥ずかしい話ですが、
光秀が落ち武者狩りの手に掛かって
死亡したというのは、初めて知りました(^_^;)
直接自分の手に掛ける事無く光秀が居なくなってくれた事は、秀吉のとっては、願ったり叶ったりだったでしょうね。
それとも秀吉の心情としては、それまで尽くしていた主君信長の敵という意味合いから、光秀は自分の手で
息の根を止めたかったのでしょうか・・。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうですね。
秀吉にとっては光秀の存在が今後の自分の地位向上のためには邪魔でもありましたから、仰るとおり願ったり叶ったりだったと思います。
敵としては自分で討ちたかったという気持ちも分からないことはないですが、上記の理由から光秀が死ぬことの方が重要だったのではないかと私は思います。
黒田裕樹さん
風早 りら 当時幼少であった信長の孫の三法師(さんぽうし)を信長の後継者としたうえで自らはその後見人となった秀吉
かなりの知恵者です
この三法師の行方が いつも気になっています
いつか お話下さいね
風早りらさんへ
黒田裕樹 >> 当時幼少であった信長の孫の三法師(さんぽうし)を信長の後継者としたうえで自らはその後見人となった秀吉
> かなりの知恵者です
> この三法師の行方が いつも気になっています
> いつか お話下さいね
自らがいきなり跡継ぎになるのではなく、三法師というワンクッションを置いたところはさすがですよね。
三法師は元服後に織田秀信と名乗り、父親だった信忠の後を継いで岐阜城主となりましたが、関ヶ原の戦いで西軍についたことで改易になり、高野山に追放されています。
その後は高野山から追い出されて亡くなったと伝えられていますが、いずれにせよ哀れな最期ですね。
天然中尉 黒田裕樹殿、こんばんは。
秀吉の天下統一ですか。このあたりは、石田三成の活躍が猛将達に怒りを覚えさせたような流れだったりしますな。
天然中尉殿へ
黒田裕樹 > 秀吉の天下統一ですか。このあたりは、石田三成の活躍が猛将達に怒りを覚えさせたような流れだったりしますな。
そうですね。武闘派の加藤清正や福島正則らとの間にすきま風が吹き始めた時期でした。
この流れは後の朝鮮出兵の頃に決定的な溝となり、関ヶ原の戦いの際には分裂して、結局家康の天下を許してしまうという秀吉にとっては悲しい結果でしたね…。