当時のアメリカは占領政策を円滑(えんかつ)に行うため、昭和天皇を戦争犯罪人として裁(さば)くまでの意思には至(いた)っておらず、本国からの指令を受けたマッカーサーも同じ思いでした。しかし、マッカーサーは昭和天皇との会見に不安を感じていました。もし天皇が自分に対して命乞(いのちご)いをするような人物であれば、やはり戦犯(せんぱん)として裁かざるを得ないのでは、と考えていたのです。
マッカーサーがそう思うのも無理はありませんでした。そもそも戦争に敗北した国の元首(げんしゅ)の末路(まつろ)としては亡命(ぼうめい)や自殺、あるいは市井(しせい)の人間として不遇(ふぐう)な人生を終え、その血は途絶(とだ)えてしまい、全く新しい王朝に取って代わるのが当然だったからです。
しかし、昭和天皇がマッカーサーに対して発せられたお言葉は、彼の不安を打ち消すどころか、想像にも及(およ)ばないものでした―。
「日本の戦争責任のすべてはこの私にある。自分の身はどうなってもかまわないから、飢(う)えている国民のためにぜひ食糧援助(しょくりょうえんじょ)をお願いしたい。ついては、皇室財産の有価証券類(ゆうかしょうけんるい)をまとめて持ってきたので、その費用の一部に充(あ)てて欲しい」。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
こういうお話を伺うと昭和天皇は
やはり素晴らしい人物であった事が
よく判りますね^^日本人の誇りとしての
象徴でもあります!
話は反れますが
昨日、浅田次郎著「日論の遺産」という
本を買ってみました。(ご存知でしょうか?)
この小説は既に映画化もされる予定でして、
帝国陸軍がマッカーサー元帥から奪取した200兆円の密令を守りぬいた将校達と20人の少女達の祖国復興を願った感動作いう内容だそうですが、これから徐々に読み進めて参りたいと思います。
それでは、応援凸
ぴーち 訂正です(ごめんなさい!)
「日輪の遺産」です。
キーを打ち間違えてしまい、申し訳ありませんm(_ _)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こういうお話を伺うと昭和天皇は
> やはり素晴らしい人物であった事が
> よく判りますね^^日本人の誇りとしての
> 象徴でもあります!
仰るとおりですよね。
単なる血筋だけではなく、お振舞いも我が国の元首そのものです。
> 話は反れますが
> 昨日、浅田次郎著「日輪の遺産」という
> 本を買ってみました。(ご存知でしょうか?)
> この小説は既に映画化もされる予定でして、
> 帝国陸軍がマッカーサー元帥から奪取した200兆円の密令を守りぬいた将校達と20人の少女達の祖国復興を願った感動作いう内容だそうですが、これから徐々に読み進めて参りたいと思います。
残念ながら私は未読です。
浅田次郎さんの小説ですから、素晴らしい作品でしょうね。ぜひ読んでみたいものです。
Masa 国のトップとはこういったことを行動に起こせる人を言うのだと思いました。
昭和天皇からは大和魂のようなものを感じます。
続きがとても気になりますっ!
Masaさんへ
黒田裕樹 > 国のトップとはこういったことを行動に起こせる人を言うのだと思いました。
> 昭和天皇からは大和魂のようなものを感じます。
仰る思い、私もよく分かります。
国のトップの堂々たるお振舞いは、我が国に大和魂が根付いている証拠ではないでしょうか。
> 続きがとても気になりますっ!
今日から始まったばかりですからね。
続きをお楽しみに!
マッカーサーについての誤解
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
マッカーサーについて、多くの日本人が誤解していることがあると思います。
それは、厚木基地にマッカーサーが初めて、日本に降り立ったのが、初めての日本であり、
マッカーサーは、日本、日本人をあまり、知らなかったというイメージです。
実は、マッカーサーは
1906年に彼の父が駐日武官として、日本に勤務していた時、その副官として、東京で勤務していました。
さらに、日露戦争の時に
日本側から、日露戦争を視察しています。
だらこそ、マッカーサーは
昭和天皇についての会談で、日本人の精神力の源を理解できたと思います。
ただ
その後、日本人の精神性を潰すことにGHQが、執念を燃やすことになるのですが。。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに意外と知られていない話ですね。
「ご巡幸の大御心(おおみこころ) ~昭和天皇・後篇」につきましては、東京でも、また大阪でも、昭和天皇の知られざる本当のお姿に感動される皆様が多かったのが印象的でした。昭和天皇が崩御されて早くも22年の歳月が流れましたが、決して風化させることはなく、我が国を救った歴史上の重要な大人物として語り継いでいかなければと強く思った次第です。
また、我が国の動向についてとかく問題視されることの多い昭和史についても、昭和天皇のお姿を通して眺(なが)めることで、我が国の未来のために命がけで取り組んだ多くの人々の真実の姿が浮かび上がってくると確信しました。ひとりの人物からよみがえる歴史も、私たちのかけがえのない財産のひとつなのです。
今回の講座の内容ですが、23回に分けて2月28日からYouTubeによる映像とともに更新を開始いたしますので、よろしくお願いいたします。
今後の講座の開催予定は下記のとおりです。
第24回 「日帝三十六年の真実 ~日韓併合後の歴史」
日時:平成23年3月26日(土) 午後3時30分より
場所:梅田東学習ルーム
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:無料




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
大阪講演、大盛況だった様ですね^^
お疲れ様でした~♪
昭和天皇が崩御されて22年も経ちましたか・・月日が流れるのは早いものですね。
那須御用邸でご静養されていたニュースを
思い出します。
命がけで日本の為に尽力された方々の
お話も、また聞かせていただきたいと思います。
応援凸また、お邪魔させてください(*^_^*)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます(^^♪
昭和天皇のお話は明日(28日)から更新を開始しますのでご期待下さい。
22年の年月が経ってもなお色あせることのない、陛下の真実について探っていきたいと思います。
天然中尉 この間の東京講演、並びに大阪講演お疲れ様にござります。
毎回ながら見事な講演にござりました。昭和天皇という人物が如何に寛大で尊敬に値する人物かが分かり、とても勉強になりました。
また、何処でお会いできるといいですな。
こんごとも楽しい授業をお聞かせくだされい。
天然中尉殿へ
黒田裕樹 こちらこそ当日はお世話になりました。
これからも東京講座はぜひ続けたいので、次回以降も機会があればぜひお会いしましょう。
秀吉は1598年に病気のため死の床に就(つ)きましたが、彼の実子である秀頼(ひでより)はまだ6歳と幼少だったこともあり、家康などに秀頼の行末(ゆくすえ)を依頼(いらい)する直筆(じきひつ)の書状(しょじょう)が残されています。
間もなく秀吉は「露(つゆ)と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」という辞世(じせい)の句を残して62歳でこの世を去りましたが、秀頼と豊臣家の将来を託(たく)されて笑顔で応(こた)えた家康は、内心でこう思っていました。
「太閤殿、貴殿が織田家に対してそうなさったように、今度は自分が豊臣家を出し抜いて天下を取る番ですな」。
[※明日(2月28日)からは第23回歴史講座の内容の更新を開始します。]




いつも有難うございます。
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オバrev 実子が幼い秀頼のだったことや、甥の秀次を切腹させたことなど後継問題は秀吉のアキレス腱だったとも言えますか。
でも何故秀吉は若い頃に側室を持たなかったのか疑問に思います。
それにしてもその後の結果を見れば明らかですが、家康は目の前で信長や秀吉という手本を見ながらしっかり学んだんでしょうねぇ。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 実子が幼い秀頼のだったことや、甥の秀次を切腹させたことなど後継問題は秀吉のアキレス腱だったとも言えますか。
> でも何故秀吉は若い頃に側室を持たなかったのか疑問に思います。
秀吉が晩年にたくさんの側室を持っていたことは有名ですが、若い頃にはおね一筋だったのでしょうか?
いずれにしても不思議な話ですが、壮年の子供がいなかったのが仰るとおり致命傷になりましたね。
> それにしてもその後の結果を見れば明らかですが、家康は目の前で信長や秀吉という手本を見ながらしっかり学んだんでしょうねぇ。
以前の講座にも書きましたが、家康ほど「歴史に学んだ平和主義者」はいないでしょう。
しばらく本編からは遠ざかりますが、いずれ家康について詳しく紹介できると思います。
寧々は悪女という説も。
晴雨堂ミカエル 時代劇では良妻賢母型キャラで描かれる北政所ですが、本当は独占欲の強い悪女という説があります。
もっぱら、寧々の牙は政治には向けられず家庭の中だけでしたから、家臣や大名の評判は悪くなく、豊臣恩顧の大名たちには親しみのある女将みたいなもの、家康に至っては親密な仲だったとか。
寧々の残酷さは、秀吉に近付く女や側室に向けられ、子ができると奪い取って殺したという。
根拠の薄い説ですが、可能性としては有り得る話です。女好きで名高い秀吉のわりに側室をもたず、子宝に恵まれないのが不自然。。人為的妨害が働いていても不思議ではありません。
それに家康が天下を握ったので、敗れた淀君が悪女になり、家康と友好関係にある北政所のスキャンダルは闇に葬られるのは有りそうな話です。
寧々を悪妻にするとツジツマが合いますね。それに江戸時代のように家制度が厳しくありませんし、その江戸時代でさえヨーロッパの諸侯のような厳格な血統主義ではなく、長子でも馬鹿なら廃嫡になり、遠縁の賢い子を擁立する事は多々ありました。
寧々に実子がいれば豊臣家存続に気を配ったでしょうが、自分の血筋が継がない豊臣にはあまり執着がなく、妾腹の子が天下を握る
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、北政所の陰謀ですか。確かにつじつまが合いそうですね。
これが本当の「おんな太閤記」でしょうか。
いずれにせよおねに実子がいれば、その後の歴史も大きく変わったことでしょう。
いうまでもなく、平成生まれの人にとって昭和天皇はすでに「歴史上の人物」です。そんな彼らにとって昭和天皇のお姿がどう映ったのでしょうか。講演終了後の懇親会で色々と話をお聞きしましたが、全員が好意的に受けとめて下さったのが非常に印象的でした。
歴史は昔だけのものではなく、一日が過ぎていく度に伝説となります。昭和天皇とともに歩み続けることができた人々はいずれ日を追うごとに少なくなっていきますが、だからこそ、はっきりした記憶があるうちに昭和天皇の無私のご生涯について私たちは語り継いでいかなければならない、と強く実感した一日でした。
さて、来たる2月26日(土)には、大阪で同じ講演を行います。こちらにも多くの皆様がご参加下さるよう、どうぞよろしくお願いいたします。
本当の歴史のみが与えることが許される、素晴らしい感動を皆様へ―
第23回「黒田裕樹の歴史講座」
「ご巡幸の大御心(おおみこころ) ~昭和天皇・後篇」
日時:平成23年2月26日(土) 午後3時30分より
場所:梅田東学習ルーム
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:無料
ブログをご覧の皆様も、よろしければ是非ご参加下さい。この記事のコメント欄をご活用いただければと思います。また、今回の講座の内容については、前回までと同様に、後日にはブログ上で映像とともに発表しますので、是非ご覧になって下さい。
なお、予約の都合上、当日の教室一覧(午後)の掲示板に「大阪読書研究会」と書かれているのが「黒田裕樹の歴史講座」の会場となります。ご注意下さい。
今後の講座の開催予定は下記のとおりです。
第24回 「日帝三十六年の真実 ~日韓併合後の歴史」
日時:平成23年3月26日(土) 午後3時30分より
場所:梅田東学習ルーム
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:無料




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
平成生まれの方が3名ですか^^
黒田さんが歴史について是非とも託したい
お若い方達の参加こそ、一番望んで来られた事だったのではないですか?
嬉しい結果が得られて本当に良かったですね!
私も昭和の生き証人として何かしらこれからの人たちの教育に役立つ事が
ありましたら、知っている限りの事実を惜しまず語ってあげたいと思いました^^
黒田さんもどうかまたこれからも頑張っていただきたく存じます^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 有難うございます(^o^)/
多くの皆様にご参加いただけることも嬉しいですが、今回のように次代を担う若者たちに、私たちが知っている「本当の歴史」を伝えることができる喜びもまた格別ですね。
この喜びがあればこそ、私はこの仕事を続けることができるのだと思います。
はじめまして。
おだ 私は戦国時代から明治維新の歴史を研究しています。
黒田さんの記事はいつも山行にさせていただいています。
おださんへ
黒田裕樹 はじめまして、当ブログへのご訪問ならびにお言葉ありがとうございます。
戦国時代は通史で現在続いておりますし、明治維新までの歴史は過去の講座で何度か紹介させていただいておりますので、そちらのほうもご参考いただければ幸いです。
今後ともよろしくお願いいたします。
管理人のみ閲覧できます
-
蛇井 はじめまして、蛇井と申します。
平成生まれの若い方々が昭和天皇についての
セミナーに集われたという事に感激致しました。
正しい歴史認識なき者は必ず同じ過ちを繰り返すと思います。
歪みきった自虐教育がはびこる中、黒田先生のような方こそ
教育者として教壇に立たれる事を強く願います。
様々なご苦労がともなわれると思いますが益々の
ご活躍をお祈りいたします。
蛇井さんへ
黒田裕樹 はじめまして。当ブログへのご訪問並びにお言葉有難うございます。
仰るとおり、正しい歴史認識を少しでも多く、また若い人々に理解していただくことが、当講座の使命と自覚しております。
今後ともよろしくお願いいたします。
秀吉と同じように海外に遠征したアレクサンドロス大王やチンギス=ハーンにしても、英雄としての顔を持つ一方で、彼らによって虐殺されたり、滅ぼされたりした民族が大勢いるという現実を考えれば、我が国に関わらず、違う国同士で共通した歴史認識を持つという理想とはあまりにもかけ離(はな)れているような思いがします。
だからといって、その国にはその国で語り継ぐべき歴史が存在する以上は、他国の歴史認識を一方的に間違いと決め付けることは許されませんが、逆にいえば我が国が他国に対してある意味へりくだってまで、他国の歴史認識に合わせる必要もないということにもつながるのではないでしょうか。
秀吉による朝鮮出兵に限らず、私たちは日本人なのですから、他国の感情には理解を示しつつも、我が国の立場で堂々と歴史認識を持てばよいのであり、我が国の公教育においても当然そのような歴史を伝えていかなければならないでしょう。
さて、朝鮮出兵の失敗は結果として豊臣家による支配に大きな悪影響を与えましたが、それに加えて豊臣家には後継者の不在という致命的(ちめいてき)な欠陥(けっかん)がありました。




いつも有難うございます。
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風早 りら 私たちは日本人なのですから、他国の感情には理解を示しつつも、我が国の立場で堂々と歴史認識を持てばよいのであり、我が国の公教育においても当然そのような歴史を伝えていかなければならないでしょう。
私が 常に感じていることです
いつまでも 屈辱的な 外交政策をしている
のでしょうと 考えさせられることが
あまりにも 多いです
風早りらさんへ
黒田裕樹 > いつまでも 屈辱的な 外交政策をしている
> のでしょうと 考えさせられることが
> あまりにも 多いです
りらさんのお考えが、今の日本人の大多数の思いでしょう。
そもそもは30年前の「ある事件」がそもそもの引き金ですが…。
この件については28日からの「第23回歴史講座」で紹介することになります。
全くその通りです。
晴雨堂ミカエル 物事は多面的に見なければなりません。
よく私は対立する相手の弁護士になったつもりで事実関係を精査しなおすべきと訴えるのですが、運動に気をとられている輩は理解することを拒絶しますね。
30年前で思いつくのは、吉田清治氏の「慰安婦狩り」ですな。
日本人は外圧に弱い、そんな民族性を利用して左翼勢力はよく中国韓国の力を利用していました。
自分たちではなかなか巨大な自民党を抑えられないので、中国共産党の力を利用していたのです。
中韓が「発展途上国」のうちは大したことはなかったのですが、今は明らかに国益を損なっていますね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 私もそう思います。
慰安婦の問題もしかり、他国の圧力を利用してまで自国を貶めようとする姿勢が私には理解できません。
それがどれだけの国益を損ねているのでしょうか。
ナオ 中華圏に住む私は歴史問題が取り上げられるたび肩身の狭い思いをしていましたが、黒田先生の解説を読んで罪の意識で謝罪を繰り返すばかりでもいけないのだと思いました。先生感謝!
しかしながら日本にもそれなにり長い歴史があるのに中国人民・韓国人の中には第二次世界大戦の一部分のみを取り出し、日本人を見つけては「日本人は歴史を知らない」と言う人々が少なくありません。それを聞く度 嫌な気分です。
ナオさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
中国や韓国が我々日本人に対して「押し付けてくる」歴史は、自国に都合よく編集されたものです。
もちろん自国の歴史を良く見せようとするのはどこの国も同じようなものですが、少なくとも一方的に相手国に認めさせて良いはずがありません。
お気持ちは私も理解できます。
しかしながら、秀吉が朝鮮半島へ攻め込んだのは李氏朝鮮が我が国の方針に反対したからであり、可能性の有無(うむ)はともかくとして、仮に李氏朝鮮が我が国の「唐入り」に協力していれば、秀吉から攻められることはなかったでしょう。
秀吉の最終目標はあくまで明を征服することであり、朝鮮半島そのものを侵略するという概念はなかったといえます。それなのに、秀吉の行為を「朝鮮侵略」と断定することは、秀吉の真意を見誤るのみならず、歴史的にも正しい表現とはいえません。従って、ここはやはり「朝鮮出兵」と表現すべきなのです。
また、秀吉に対する評価についても、朝鮮半島の人々の思いを受け止める一方で、世界史の原則である「ある民族にとっての英雄は、他民族にとっての虐殺者(=戦争勝利者)である」という視点からも眺(なが)める必要があるのではないでしょうか。




いつも有難うございます。
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風早 りら 朝鮮半島の方々の秀吉への恨みは 今でも根強いようですね
お互い過去の事にとらわれるよりも 未来の隣人としての信頼関係を築く方に心を持って行った方がいいと思います
ぴーち こんばんは!
確かに今でも朝鮮半島に住む人達は
秀吉の行動を恨んでいらっしゃるようですね。
秀吉の真意は黒田さんからこうして教えていただいたので、これまで誤解していた部分
を理解させていただきました。
ありがとうございましたm(_ _)m
人間がそのように考えるように
なってしまう理由には必ずそれなりの原因が
あるという法則に当てはめて考えてみますと、
朝鮮半島の人々が秀吉の思わぬ行動に恐れをなしたというのは、例えば、今、いきなり宇宙人が日本上空に現れたとして、得体のしれないものだけに恐怖や不安を感じ、「これは絶対攻撃される!殺されてしまう!侵略されてしまう!」と思われても仕方がないでしょう。
いきなり外国人が現れ、理由も判らないまま、
攻撃されたり、攻められたりされたら、恐怖心や、不信感ばかりが募る事でしょう。
けっして朝鮮半島の方達の肩を持つわけではありませんが、
朝鮮半島に住む人達が十分にその理由を後からでも理解していたのなら、きっともっと秀吉の行動の表現は緩んだのではないかと思いました。
(私も表現の仕方が下手で申し訳ありませんm(_ _)m
応援凸
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 朝鮮半島の方々の秀吉への恨みは 今でも根強いようですね
> お互い過去の事にとらわれるよりも 未来の隣人としての信頼関係を築く方に心を持って行った方がいいと思います
全くもってそのとおりだと思います。
恨(ハン)の精神が朝鮮半島の伝統とはいえ、国際関係ではお互いに歩み寄ることができるところを見つけてほしいものですが…。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに攻め込むまでとはいかずとも通行させてほしいというのであれば、もう少し上手な方法があっても良かったかもしれません。
ただ、当時の国際的な関係では、軍事力が抜きんでた我が国と、明を宗主国として仰いでいた李氏朝鮮という立場の違いがありましたから、(あくまでも当時の関係としては)秀吉が強気に出る思いも分からないことはありません。
以上は秀吉の肩を持つのではなく、国際関係から冷静に判断したものではありますが、現在の関係とは全く異なるだけに難しいところではありますね。
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なおまゆ そうなんですよね。朝鮮は通り道だったんですよね。秀吉は、天皇の上になろうとしていましたね。だから、征夷大将軍にならずに、それより上位の関白になったんですよね。
明を征服し、皇帝になり、正しく『革命』を行い、血脈に関係なく国を実質支配したかったんじゃないかなと思ってます。
日本に居る限り、天皇家に代わることは不可能ですから。
もう一つは武士の失業対策の視点もあったと思っています。秀吉は、武士達を冷酷に切り捨てられなかった『熱い心』を持っていたと思います。
黒田さんはいかがお考えでしょうか?
なおまゆさんへ
黒田裕樹 朝鮮出兵のもう一つの説ですね。
秀吉は皇室をそのまま残して、自分は明において新たに「皇帝」となることで皇室を超えようとしたという「秀吉の野望」です。
後半は秀吉の「唐入り」が当時の武士たちに好意的に受け入れられた証拠ですね。ところが出兵に失敗したことによって、武士たちの間で戦争に対する嫌悪感が広がってしまう。皮肉なものですね。
翌1597年に秀吉は再び朝鮮半島を攻めました。これを慶長の役(けいちょうのえき)といいますが、日本軍は当初から苦戦を強いられました。その後、1598年に秀吉が亡くなったことで休戦となり、我が国は朝鮮半島から撤退(てったい)しました。
秀吉の二度にわたる朝鮮出兵は、当初の「唐入り」の目的を果たせなかったばかりか、朝鮮半島へ多大な影響を及ぼしたのみならず、我が国にも豊臣家を始めとして多数の損害をもたらした結果となってしまいました。
ところで、秀吉の朝鮮への出兵については「理解不能な最大の愚行(ぐこう)」「晩年の秀吉が正常な感覚を失ったことによる妄想(もうそう)」などといった扱(あつか)いを受けることが多いですが、これまで述べてきたように、イスパニアに明を攻め取られることによって我が国が侵略されるのを防ぐために明を先制攻撃しようと計画し、その前提として朝鮮半島から攻め込んだという目的が存在しています。
これらの事実は、最近の教科書に記載されることが多くなった「朝鮮侵略」という誤解についても同じことが言えるのです。




いつも有難うございます。
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風早 りら 「秀吉の朝鮮への出兵については「理解不能な最大の愚行(ぐこう)」「晩年の秀吉が正常な感覚を失ったことによる妄想」
私も今まで そう思っていました
ドラマ等では いつもそのような
筋立てになったいます
教えて頂いて 有難う御座います
風早りらさんへ
黒田裕樹 >> 「秀吉の朝鮮への出兵については「理解不能な最大の愚行(ぐこう)」「晩年の秀吉が正常な感覚を失ったことによる妄想」
> 私も今まで そう思っていました
> ドラマ等では いつもそのような
> 筋立てになったいます
> 教えて頂いて 有難う御座います
こちらこそ、お言葉有難うございます。
一般的なドラマとは全く異なる、歴史の真実をぜひご覧になっていただければと思います。
ぴーち こんばんは!
もしも朝鮮出兵の結果が日本国にとって
良好な結果として終わったのなら、世間からのこれ程の言葉を浴びせられなかったのでしょうね。(^^ゞ
秀吉ともあろう人が、どうしてだろう?という落胆した気持ちが込められた言葉の様にも受け取れました。
何事も理由も無く突発的に物事は起こるのではなく、必ずそこには原因が存在するものだという事ですね!
世間からの秀吉に対する濡れ衣を黒田さんがこの記事で事実を明らかにしてくれていることに対して、当の秀吉が一番感謝しているかもしれませんね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私の気持ちまでお察し下さって有難うございます。
仰るとおり、秀吉の朝鮮出兵の失敗は、彼のそれまでの評価を一気に貶(おとし)める結果となったのが残念でなりません。
とはいえ公正な目で歴史を評価しなければいけませんから、まずは失敗の原因やその結果を冷静に判断させていただきました。
次回(25日)からは朝鮮出兵の真実に迫ってみたいと思います。
ナオ ということは 秀吉の朝鮮出兵の理由は 大東亜戦争を始めた理由と同じではないですか! 歴史は繰り返すですね。
ナオさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
地政学的なものなど戦争をするには様々な要因がありますが、少なくとも一方的な侵略というのは我が国にはほとんど考えられません。
秀吉は対馬(つしま)の宗氏(そうし)を通じて当時の朝鮮半島を支配していた李氏朝鮮(りしちょうせん)に対して「我が国が明へ軍隊を送るから協力してほしい」と使者を出しましたが、立場上は明を宗主国(そうしゅこく)と仰(あお)いでいた李氏朝鮮は秀吉の要請(ようせい)を拒否しました。
このため、秀吉は明を征服する前提として、やむなく朝鮮半島から攻め込んでいったのです。これこそが、1592年に起きた一回目の朝鮮出兵である文禄の役(ぶんろくのえき)の本当の理由でした。
肥前(ひぜん、現在の佐賀県)の名護屋(なごや)に本陣が置かれた日本軍は、加藤清正(かとうきよまさ)らが率(ひき)いる15万の大軍で朝鮮半島に上陸して、当初は優位に戦いを進めましたが、でしたが、李氏朝鮮の名将である李舜臣(りしゅんしん、イ・スンシン)の活躍があったり、縦に伸びきった我が国の軍勢の補給路が断たれたことで、多くの兵が飢(う)えや寒さに苦しんだりするなど、戦局は次第に我が国にとって不利な状況となり、やがて休戦となりました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
秀吉の朝鮮出兵に関しては、
四面楚歌の状態だった訳ですね。
その閉塞感を打破する為に、出兵を強行
したものの、思いもよらぬ日本とは違う自然環境や食料不足に、あえなく思いが絶たれてしまった・・。
秀吉の野望の前には、味方をしてくれるものは
無かったというのは、やはり秀吉の行動には
元々計画性がなく、無謀な事だったということなのでしょうか。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 結果だけを見れば、確かに無謀だったように見えますね。
実際のところ、秀吉の苦戦の主な原因は情報不足や作戦の失敗、あるいは戦いの一貫性のなさによるものです。
朝鮮半島について事前に情報を仕入れていなかったことで冬の対策がおろそかになっていたことや、朝鮮半島を経由して明へ攻め込むはずが、なぜか現在の北朝鮮の方まで突っ走ってしまうという不可思議な軍勢の進め方、そんな折に軍勢を寸断されたことで補給線が断たれて、多くの兵士が飢えや寒さで亡くなるという失敗があったのです。
これではどれだけ多くの兵力や鉄砲があっても勝てるはずがないですね。そういうこともあり、ぴーちさんが仰るように計画性のなさはありますが、少なくとも無謀ではなかったと思います。
オバrev なるほど~、朝鮮出兵の目的は明を征服して、イスパニアの侵入を防ぐことにあったんですね。
でもどう考えても、あの戦上手の秀吉にしては無謀で、あまりに見込みのない戦だった気がします。
ということは、国内の武士の不平不満を外へ向かわせるという意味が強かったのではないかと思いますが、いかがでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > なるほど~、朝鮮出兵の目的は明を征服して、イスパニアの侵入を防ぐことにあったんですね。
> でもどう考えても、あの戦上手の秀吉にしては無謀で、あまりに見込みのない戦だった気がします。
秀吉自身は勝てると思っていたようですし、兵力も圧倒していたのですが、いかんせん作戦が稚拙すぎましたね。ある意味では無謀と思われても仕方がないと思います。
> ということは、国内の武士の不平不満を外へ向かわせるという意味が強かったのではないかと思いますが、いかがでしょうか?
その一面は確かにありますね。天下が統一されて新たな領地を獲得することが不可能となり、武士たちの間に高まっていた不満をそらすという目的があったことは間違いないようです。もっとも、これは秀吉に限らず、先述したようにアレクサンドロス大王やチンギス=ハーンと同じく、世界史の常識でもある訳ですが…。
韓国の大河ドラマでは・・。
晴雨堂ミカエル 韓国の大河ドラマ「壬辰倭乱」では、徳川家康が秀吉の力を削ぐよう暗躍している描写でしたね。
明は女真族8万騎で滅びましたし、ヨーロッパは日本より少ない兵力で世界を征服しました。
日本軍は練度・装備・兵数は世界一です。作戦が上手ければ明を取ることはできましたね。占領維持が秀吉にできたかどうかは別にして。
イスパニア船を捕獲してコピーするのは技術的可能だったと思うのですが。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、ドラマによって観点が違うんですね。
仰るとおり、明の攻略は決して不可能ではなかったとは思います。ただし、第二次大戦のような「終わりのない戦い」で、我が国の体力が疲弊して他国に狙われる可能性も十分にありましたから、結果は何とも言えないのですが…。
鉄砲のように小さなものであればすぐにコピーができたと思いますが、船の場合はどうでしょうか。また気前よくもらった鉄砲とは違って、イスパニアの船をそう簡単に捕獲できるのか、失敗した場合のイスパニアとの関係の悪化をどう処理するのかなどを考えた場合に、あまりにもリスクが大きすぎるような気がしますね。
キリシタンを処刑する強攻策をとったのですから・・。
晴雨堂ミカエル 明を支配するよりは遥かにリスクは微少です。後に江戸幕府はポルトガルやイスパニア船を追い出しているのですから、騙して船を強奪するのは簡単であり、強攻策をとる力と技は十二分にありました。
黒田氏もご存知のように日本の大工は低レベルではありません。ヨーロッパの軍艦を模倣する技は船大工にもあると考えた方が自然でしょう。
ヨーロッパ人と同じくらい戦略眼があれば、手順と効率を重視して実行していたと思います。やはり日本人は「侵略者」には向かない民族なのでしょう。ヨーロッパ的独裁者になれる素質をもっていたのは信長だけですか。
信長の政策を理解していた秀吉でしたが、信長の厳しさは欠けていたかもしれません。
ところで「壬辰倭乱」では、秀吉が朝鮮半島南部の穀倉地帯を確保して兵站維持する作戦をとろうとすると、家康は北に逃れた朝鮮国王の生捕を優先するよう執拗に進言する場面があります。
韓国での家康評が気になりますね。朝鮮学校では家康・秀忠の平和路線・国交回復・朝鮮通信使を介しての交流事業を好意的に取り上げています。
晴雨堂ミカエルさんへ その2
黒田裕樹 なるほど、強奪という手段も有効ではありますね。
だとすれば、仰るように日本人には「冷徹な侵略者」のDNAが(信長のような例外を除いては)入っていないがゆえの遠回りだったのかもしれません。
韓国においても「敵の敵は味方」なのでしょうか?
家康びいきは「秀吉憎し」の裏返しのような気がします。だとすれば、豊臣家が滅びたことは対朝鮮半島に限っていえば、皮肉ではありますが良かったことなのかもしれませんね。
これらの点に着目した秀吉は、イスパニアと我が国とが同盟を結んで両国が共同して明を征服し、戦後は明国内でのカトリックの布教を許す代わりに、イスパニア所有の外航用の軍艦を売却してもらうという条件を示すことによって、外交によるイスパニアとの妥協(だきょう)を目指しましたが、武力による我が国の侵略を断念していなかったイスパニアに拒否されてしまいました。
進退窮(きわ)まった秀吉は、自分自身がイスパニアよりも先に明を征服してしまう以外に、我が国が侵略から免(まぬが)れる方法はないと覚悟を決めました。先述した数十万の兵力や鉄砲による強大な火薬力を投入すれば、我が国単独での中国大陸の征服も不可能ではないと考えたからです。
秀吉のこうした決断は、天下が統一されたことで今後の領土獲得の機会を失い、力を持て余(あま)していた兵士たちに好意的に迎えられました。古代マケドニアのアレクサンドロス大王や、モンゴルの英雄チンギス=ハーンがかつて挑(いど)んだ、巨大な兵力を持つ人間が当然のように行う遠征(えんせい)という名の道を、彼らと同じように秀吉も歩み始めたのでした。




いつも有難うございます。
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風早 りら 秀吉が 何故 明を征服しようとしたか
今まで 不可解でした
先生のご説明で 理解出来そうです
有難う御座います
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 秀吉が 何故 明を征服しようとしたか
> 今まで 不可解でした
> 先生のご説明で 理解出来そうです
> 有難う御座います
こちらこそ、お言葉有難うございます。
明へ攻め込むのにもそれなりの理由があります。
何が何でも「侵略」と決めつけるのではなく、その原因を探ることで、本当の歴史が見えてくるんですよね。
重要な問題です。
晴雨堂ミカエル 秀吉が単純な権勢欲や征服欲にかられてキリスト教を弾圧したり朝鮮出兵を行ったかのように時代劇は描かれがちです。世界情勢は殆ど描かれていません。
どういう訳か、嬉々としてサンタ・マリア号の復元船に乗り込む日本人がいるように、西洋の歴史観に毒されています。この点に限っては、朝鮮や中国の歴史教育は健全でしょう。日本は精神的にアメリカの植民地です。
家康が征夷大将軍のポストに執着したのも、単に「武家の棟梁」というだけでなく、対外的には夷狄である南蛮人の楯になる意図があったように思います。内政では南蛮人の存在を征夷大将軍就任の根拠になったのではないか、と。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 秀吉が単純な権勢欲や征服欲にかられてキリスト教を弾圧したり朝鮮出兵を行ったかのように時代劇は描かれがちです。世界情勢は殆ど描かれていません。
> どういう訳か、嬉々としてサンタ・マリア号の復元船に乗り込む日本人がいるように、西洋の歴史観に毒されています。この点に限っては、朝鮮や中国の歴史教育は健全でしょう。日本は精神的にアメリカの植民地です。
「日本」史の一番悪い面が出ていますね。
日本の歴史ではあっても海外にも常に目を配らなければいけないはずなのに、我が国主体の動きだけでお茶を濁そうとする。特に「地球市民」を標榜される方々であれば、地球レベルの動きはお得意のはずなのですが。
> 家康が征夷大将軍のポストに執着したのも、単に「武家の棟梁」というだけでなく、対外的には夷狄である南蛮人の楯になる意図があったように思います。内政では南蛮人の存在を征夷大将軍就任の根拠になったのではないか、と。
なるほど、確かにそのような一面がありますね。平和主義者らしい家康の考えだと思います。
戦国バブル
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
作家の堺屋大一氏は、秀吉の朝鮮出兵は
戦国バブルで、明を攻めることが理由だと語っていました。
どういうことかというと
どこの戦国大名も、立身出世を前提にして、組織が成長することを前提に家臣を雇っているので
過剰人員状態でした。
日本国内は、天下が治まって、領土を広げることができないからです。
だから、秀吉の海外進出は、秀吉個人の考えというよりも、秀吉政権の体質のようなものですね。
(それは、秀吉自身、まだ、部下を持てる身分ではない時から、部下を持ったことからも宿命のようなもの。)
その余剰人員を大名の改易・断絶というカタチで
徹底的に行ったのが、徳川家康・秀忠・家光です。
たしかに、リストラをする人間は、嫌われますね。ただ、それをしないと、秀吉のように拡大戦略で、そのうち、組織が崩壊します。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
秀吉の失敗を教訓に、またしても家康が「歴史に学んで」政策を行った結果ですね。
だからこそ家康は嫌われるんですが、同時に我が国での平和が達成される大きな原因にもなっています。
なお、1596年にイスパニアの商船が土佐(現在の高知県)に漂着(ひょうちゃく)した際に、乗組員が「イスパニアは領土征服の第一歩として宣教師を送り込んでいる」ことを世界地図を示して誇ったという出来事があり(これをサン=フェリペ号事件といいます)、激怒した秀吉が京都の宣教師と信徒を捕えて長崎で処刑するという結果につながりました(これ26聖人殉教=せいじんじゅんきょう、といいます)。
さて、秀吉が気づいたイスパニアによる我が国侵略の野望ですが、実際にイスパニアやイエズス会はどう動いたのでしょうか。全国統一によって当時の我が国は数十万の兵力や鉄砲による強大な火薬力を持っていたこともあり、イスパニアは直ちに我が国を侵略することは現実的には難しいと考えていました。
そこでイスパニアは勢力の衰えていた明に着目し、我が国での布教に成功したキリシタン大名を利用して彼らの兵力で明を征服すれば、返す刀で我が国を攻めることで侵略も可能になる、と考えました。つまり、明がイスパニアによって滅ぼされれば、次は我が国が確実に狙われるということなのです。
この構図は鎌倉時代に起きた元寇(げんこう)そのものでもあり、イスパニアの動きをつかんでいた秀吉にとっても気が気ではありませんでした。明がイスパニアによって征服されるのを黙って見ているわけにはいかないとすれば、秀吉にはどのような策があるのでしょうか―。




いつも有難うございます。
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晴雨堂ミカエル 朝鮮学校では、この事はけっこう学校の授業で取り上げているようです。もちろん、黒田氏のように秀吉側の立場では考察していませんが、ヨーロッパ人の侵略と布教はセットである事とキリスト教の脅威は教えているみたいですね。
日本は宗教批判を行うと、宗教弾圧だとか保守反動などと拡大解釈されかねないので、あまり踏み込めないのでしょう。
踏み込めないから学校教育では教えられない、だから誤った認識と無知が定着してしまう。
コロンブスのアメリカ侵略500周年に日本人がサンタ・マリア号復元船に乗って航海に出たなんて話を聞いたとき、「馬鹿か、こいつら」と思いました。
ところで、来月5日に映画「アレクサンドリア」が封切られます。大阪では難波パークスですか。キリスト教徒によって虐殺された女性科学者ヒュパティアの物語です。
多くの人がみて宗教の恐ろしさを認識してほしいものです。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 朝鮮半島側からしても、自分たちが結果として「攻められた」根本的な原因ですからね。
しっかり学ぶことは重要だと思いますし、むしろ我が国の教育が一方的なのが問題だと思います。
宗教は時として恐ろしい一面を持っていますからね。能天気に受け入れるだけでなく、歴史上においても真剣な考察が必要だと思います。少なくとも仰るような「無知から来る大失敗」だけは避けなければいけませんからね。
ぴーち こんばんは!
ふと秀吉の行動を考えたのですが、
こうしてイスパニアに侵略される以前に
秀吉の朝鮮出兵という行動は、行き過ぎた行動だったのではないか(本当に明を侵略する必要があったのか)という疑問が浮かびました。
勿論、それ以前の信長の意思を受け継いでの
事だったのでしょうけれど、野望を持ち、外国を支配しようとする気持ちにはやはり外国からも狙われるという諸刃の剣的なデメリットもあるという覚悟が秀吉には無かったのでしょうか。
応援凸
黒田裕樹さん
風早 りら いつの時代でも 世界中 宗教戦争はありますよね
日本が 宗教の名の元に
他国に侵略されなかったことが 幸いです
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰る思い、よく分かります。
外国を支配するということは、別の外国から狙われる口実を与えること。
戦いが戦いを、さらには憎しみが憎しみを生み、憎しみの連鎖はいつかは断ち切らないと永遠に続く。
しかしながら、当時の状況は平和よりも侵略が当然とされていた時代でした。
我が国が狙わなかったとしても、よその国がいつか必ず狙うことになる。
仮に我が国が平和を望んでいても、その思いに応えられる土壌があったかどうか。
なぜ秀吉が明を侵略する決意をしたのか、そしてそれは無茶な行動だったのか。
次回(22日)以降の更新で明らかにしたいと思います。
風早りらさんへ
黒田裕樹 > いつの時代でも 世界中 宗教戦争はありますよね
> 日本が 宗教の名の元に
> 他国に侵略されなかったことが 幸いです
私もそう思います。
政教分離は信長が築いた財産ですが、秀吉もしっかりと受け継ぎ、家康が完成させました。
我が国の平和の大きな理由の一つですから、大事にしていきたいですね。
- 朝鮮の王国のひとつ、百済王家の末裔である
「摂関家」が、故郷の奪還をはかった
というのが真相だと見る方もおられるようです。
名無し(?)さんへ
黒田裕樹 > 朝鮮の王国のひとつ、百済王家の末裔である
> 「摂関家」が、故郷の奪還をはかった
> というのが真相だと見る方もおられるようです。
そういう見方もあるのですか。
参考にさせていただきます。有難うございました。