いかに信仰のためとはいえ、我が国古来の領地を外国の所有に任せるという行為は、自身による天下統一を目指した秀吉にとっては有り得ないことであると同時に、イエズス会やその裏に存在したイスパニアの領土的野心に嫌(いや)でも気づかされることになりました。
次に秀吉を待ち受けていたのは、キリシタン大名の領内において無数の神社や寺が焼かれていたという現実でした。これらはカトリックの由来であるキリスト教が一神教(いっしんきょう)であり、キリスト以外の神の存在を認めなかったことによって起きた悲劇でもありましたが、秀吉の目には我が国の伝統や文化を破壊(はかい)する許せない行動としか映(うつ)りませんでした。
さらに秀吉を驚かせたのは、ポルトガルの商人が多数の日本人を奴隷(どれい)として強制連行していた事実でした。支配地の有色人種を奴隷扱いするのは白人にとっては当然の行為であっても、天下統一を目指すことによって、国民の生命や財産を守る義務があると自覚していた秀吉には絶対に認められない行為でした。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
まずは東京講演、お疲れ様でしたm(_ _)m
そしてお忙しい中、ブログへコメントいただき
ありがとうございました^^
記事の件ですが、
外国の常識でも、日本には非常識な行為で
ある場合が多いですね。勿論、逆も然り。
いくら外国の所有に任せてあるとはいえ、
あくまでも日本の領土であったのでしょうから、
秀吉の気持ちも判らなくはありません。
最近、中国が日本の山林を買収している
との事実が挙げられていますが、余り
いい気持ちではありません。。
応援凸
mochimochi 日本人の奴隷について、どこかの本で初めて知り(本の名前忘れました)びっくりしました。
たしかその本によると、日本人奴隷はよく働き、物も盗らないので評判が良かったと書いていた気がします。事実は知りませんが。
それで、実はポルトガルがキリスト教を日本に広めたかったので、ポルトガルの中でも日本人の奴隷を反対する人達がいたそうです。
日本人奴隷なんてなんだか不思議な感覚です。
西洋人の仕業(?)についておもしろい解説があるので時間がある時に見てください。
http://www.youtube.com/user/hkokonj#p/u/4/7n9BFo_Nmj4
http://www.youtube.com/user/hkokonj#p/u/3/7Q4cCa5IiGw
オバrev 東京講演 お疲れさまでした。
えっ?次はマツダスタジアムで広島講演??(^_^;)
しかし当時の欧州は、スペインとポルトガルが強国で、世界を2分して支配しようとしていた時じゃないでしょうか。
今でも、英語とともにスペイン語、ポルトガル語は世界各国で使われていますが、昔、ブラジルから来日していた日系三世のナントカカントカ棗田さんは、ポルトガル語と日本語と英語を話していた記憶があります。
ふとかつ こんばんは。
東京公演お疲れ様でした。相変わらずのご盛況でしたか?
その後の懇親会も盛り上がったことでしょう。
浅草観光もされましたか?
講義の様子を記事で拝見するのを楽しみにしております。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こんばんは!
> まずは東京講演、お疲れ様でしたm(_ _)m
> そしてお忙しい中、ブログへコメントいただき
> ありがとうございました^^
いえいえ、こちらこそご丁寧なお言葉、ありがとうございます。
> 記事の件ですが、
> 外国の常識でも、日本には非常識な行為で
> ある場合が多いですね。勿論、逆も然り。
> いくら外国の所有に任せてあるとはいえ、
> あくまでも日本の領土であったのでしょうから、
> 秀吉の気持ちも判らなくはありません。
そのとおりだと思います。
どんな理由であれ、我が国固有の領土を外国に任せる行為が許されて良いはずがありません。
> 最近、中国が日本の山林を買収している
> との事実が挙げられていますが、余り
> いい気持ちではありません。。
そこなんですよね。
日本国民の「お人好し」な一面が悪い方向に表れている思いがします。
mochimochiさんへ
黒田裕樹 西洋人は昔から「白人至上主義」ですからね。
いくら礼儀正しいからといって、奴隷として異国に無理やり連れて来られ、厳しく働かされて一生を終わるなんて、当時でも決して許されるものではありません。
いつも参考になる資料をご提供くださってありがとうございます。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 東京講演 お疲れさまでした。
> えっ?次はマツダスタジアムで広島講演??(^_^;)
ありがとうございます。
広島講演ですか…。その場合はオバrevさんのご講演とダブルですね(笑)。
> しかし当時の欧州は、スペインとポルトガルが強国で、世界を2分して支配しようとしていた時じゃないでしょうか。
> 今でも、英語とともにスペイン語、ポルトガル語は世界各国で使われていますが、昔、ブラジルから来日していた日系三世のナントカカントカ棗田さんは、ポルトガル語と日本語と英語を話していた記憶があります。
この当時はスペインとポルトガルの天下でしたからね。
複数の言語が話せるのは良いことですが、ブラジルのように征服した国の言語が公用語になっているのは複雑な思いがしますね。
ふとかつさんへ
黒田裕樹 > 東京公演お疲れ様でした。相変わらずのご盛況でしたか?
> その後の懇親会も盛り上がったことでしょう。
> 浅草観光もされましたか?
> 講義の様子を記事で拝見するのを楽しみにしております。
ありがとうございます。
浅草寺へは久しぶりに行きましたが、相変わらずのにぎわいでしたね。
スカイツリーも近くから良く見えて感動的でしたよ。
懇親会もアットホームな雰囲気でしたし、可能ならば次もぜひ浅草で行いたいですね。
詳しくはまた別記事で紹介させていただきます。
去る1月22日に行いました第22回「黒田裕樹の歴史講座」では、11名の皆様にご参加いただくことができました。
次回(第23回)はご好評いただいた昨年12月の続編となる講座を、「ご巡幸の大御心(おおみこころ) ~昭和天皇・後篇」と題して東京(2月19日)と大阪(2月26日)の2会場で行います。
大東亜戦争(だいとうあせんそう)を経て、一面焼け野原となった我が国の悲しい姿。廃墟(はいきょ)の中から懸命に立ち上がろうとする国民を慰(なぐさ)め、励(はげ)ますことが天皇としての責務であると強く自覚された昭和天皇の大御心(おおみこころ)によって実現したご巡幸(じゅんこう)。
仁徳天皇(にんとくてんのう)や舒明天皇(じょめいてんのう)など、古(いにしえ)の国見(くにみ)にも通じる陛下の崇高(すうこう)なお姿を目(ま)の当たりにした国民は勇気百倍となり、その後の奇跡ともいえる戦後復興、さらには高度成長へとつながっていったのでした―。
次回の講座では、昭和天皇のご巡幸における数々のエピソードを紹介するとともに、陛下の後半生を振り返ることで、戦後から現代に至る歴史の大きな流れを検証してみたいと思います!
本当の歴史のみが与えることが許される、素晴らしい感動を皆様へ―
第23回「黒田裕樹の歴史講座」
「ご巡幸の大御心(おおみこころ) ~昭和天皇・後篇」
日時:(東京)平成23年2月19日(土) 午後3時30分より
(大阪)平成23年2月26日(土) 午後3時30分より
場所:(東京)スター貸会議室 浅草
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
(大阪)梅田東学習ルーム
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:いずれも無料(カンパを受け付けます)
ブログをご覧の皆様(特に東京会場においては関東在住の方々)も、よろしければ是非ご参加下さい。この記事のコメント欄をご活用いただければと思います。また、今回の講座の内容については、前回までと同様に、後日にはブログ上で映像とともに発表しますので、是非ご覧になって下さい。
なお、予約の都合上、大阪会場においては当日の教室一覧(午後)の掲示板に「大阪読書研究会」と書かれているのが「黒田裕樹の歴史講座」の会場となります。ご注意下さい。
今後の講座の開催予定は下記のとおりです。
第24回 「日帝三十六年の真実 ~日韓併合後の歴史」
日時:平成23年3月26日(土) 午後3時30分より
場所: 梅田東学習ルーム
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:無料




いつも有難うございます。
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こんばんは。
ボス。 仕事が休みだったら、東京会場へ絶対行くのに・・

19日は仕事です

ボス。さんへ
黒田裕樹 > 仕事が休みだったら、東京会場へ絶対行くのに・・

> 19日は仕事です

私も残念です(´・ω・`)
次の機会にはぜひご参加くださいね。
申し訳ないです!
h.hamauzu 黒田先生こんにちは!
…明日いけなくなってしまいました…
八方手をつくし、なんとか顔だけでもと思いましたが…
ああ、マグネットに…いや黒田兄ぃに会いたかったよ~(;_:)
ぴーち こんばんは!
いよいよ明日は東京ですね^^
また、会場を感動の渦に巻き込んで
いただきたいと思います♪
是非、頑張ってくださいね!
ちなみに私はその次の週に所要で東京へ行く予定です^^
応援凸
私もまた早朝に応援させていただきます。
h.hamauzuさんへ
黒田裕樹 私も残念ですが、こればかりは仕方がないですね…(´・ω・`)
東京講演、次の機会も考えなくては(`・ω・´)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
来週ですか(^^ゞ
その日は私は大阪ですね(笑)。
明日は頑張ってきますよ(^_^)v
南蛮貿易は確かに大きな利益を生み出しましたが、それとセットのようにして我が国に急速に広まっていった宗教が存在しました。言わずと知れたキリスト教(=カトリック)のことです。宗教改革からの巻き返しを図るためヨーロッパ以外の各地での布教を目指したカトリックは我が国においても定着しつつあり、信長も貿易の権益を求めてカトリックを保護しました。
信長の後を継いだ秀吉も、当初はカトリックの布教を認めていたのですが、そんな彼がやがてカトリックに潜(ひそ)むイスパニアによる世界侵略の野望に気づく日がやって来たのでした。
1587年、島津氏(しまづし)を倒すために九州平定に乗り込んだ秀吉を、カトリックのイエズス会の宣教師(せんきょうし)が当時の我が国に存在しない最新鋭の軍艦(ぐんかん)を準備して出迎えました。その壮大(そうだい)さに驚(おどろ)いた秀吉は、イエズス会による布教活動には我が国への侵略が秘められているのではないかとの疑念を持ち始めました。
そして、現地を視察した秀吉が、彼に待ち受けていた「3つの信じられない出来事」を目にしたことによって、疑念が確信へと大きく変化したのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
外来種。。
魚にしても、草花にしても
本当に繁殖能力も旺盛で
病気に対しても強く日本元来の貴重な
生き物が食いつくされてしまい
本当に困ったものです(;O;)
生態系を崩す要因の一つですが、
人も宗教も同様。
外国との交流は細心の注意が必要ですね(^^ゞ
必ずしも良い結果ばかりは得られないという
事ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、国際化には良い面と悪い面があります。
そして、悪い方向へと向かう場合は、気がつけば取り返しのつかない事態になっているパターンが多いのも困ったものなんですよね。
秀吉は幸い早く気づくことができたので、被害はそれほど大きくなくて済みましたが、現代でも水面下でどうなっているのか分からないところが恐ろしくもあります。
国内の統一が進むにつれて海外との南蛮貿易(なんばんぼうえき)も盛(さか)んとなり、豪商や西日本の大名らはこぞって海外へと進出していきました。
秀吉も貿易での莫大(ばくだい)な利益を目指して貿易に積極的に乗り出し、1588年に海賊取締令(かいぞくとりしまりれい)を出して倭寇(わこう)を取り締(し)まることで海上における支配を強化し、京都・堺・長崎・博多などの商人を援助(えんじょ)して貿易の保護と促進(そくしん)をはかりました。
当時の我が国は銀の産出が豊富であり、秀吉はこれらの天然資源を活かして東アジアの諸国と積極的に貿易を行いました。また、この頃には中国を支配していた明(みん)の国力が衰(おとろ)えており、世界情勢の変化を見抜いた秀吉は、我が国を中心とする東アジアの新しい秩序(ちつじょ)をつくることを視野に入れ、高山国(こうざんこく、現在の台湾)やゴアのポルトガル政庁(せいちょう)、マニラのイスパニア(=スペイン)政庁などに服属(ふくぞく)と朝貢(ちょうこう)を求めました。
しかし、明の衰退(すいたい)に対して新秩序を構築(こうちく)していたのは秀吉だけではありませんでした。全国統一によって数十万の兵力や鉄砲(てっぽう)による強大な火薬力を誇っていた我が国でしたが、その力を国内防衛にために使用するのか、あるいは攻められる前に先制攻撃(せんせいこうげき)を行うのか。遠く西洋の巨大な王国との抜き差しならない戦いが、秀吉の目の前に迫りつつありました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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天然中尉 黒田裕樹殿へ
ついに明日でございますな。楽しみで楽しみでしかたがござりません。
天然中尉殿へ
黒田裕樹 > 黒田裕樹殿へ
> ついに明日でございますな。楽しみで楽しみでしかたがござりません。
私も楽しみです。
明日はよろしくお願いします。
お蔭様で「黒田裕樹の歴史講座」は昨日(平成23年2月16日)で100,000HITを達成しました。通常の日記形式とは全く異なる「歴史の勉強ブログ」において、開設(平成21年3月26日)以来わずか693日目でこれだけのHIT数を記録できましたのも、ひとえに皆様のご支援(しえん)の賜物(たまもの)であり、厚く御礼申し上げます。
当ブログが常に心がけていることに「分かりやすい歴史」というものがありますが、これは歴史を単なる「つめ込みによって暗記させることで、テストにおける点数の上昇のみを目指す」といった扱(あつか)いで済ませるものではないことは言うまでもありません。
物事の結果には必ず原因があり、それは過去の歴史の出来事においても同じことです。なかには失敗で終わったものも少なくありません。しかし、それらに関して結果のみを暗記したところで、これからの人生にどれだけ役に立つことがあるでしょうか。
また、歴史というものは当時の人々が様々な思いから、それこそ命がけで築(きず)き上げてきた積み重ねによって成り立っています。それなのに、当時の我が国をめぐる情勢といったものを一切考えず、現代の価値観のみで一方的に肯定(こうてい)したり、あるいは否定したりしたところで、その見解にどれだけの価値が見出せるでしょうか。
当ブログは100,000HITという何物にも替えがたい大きな財産をいただきましたが、これは一つの通過点でしかないのもまた事実です。皆様からのご支援を肝(きも)に銘(めい)じながら、これからも「分かりやすい歴史」を目指すと同時に「本当の歴史のみが与えることが許される、素晴らしい感動を皆様へ」と心がけてまいりますので、どうぞよろしくお願いいたします。
平成23年2月17日 黒田裕樹
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ぴーち こんばんは!
まずは100,000hitおめでとうございます!
黒田さんの日々の努力の積み重ねと、ご人徳が今回の数字に反映されたのだと思います^^
これからも、どうぞ頑張ってくださいね♪
陰ながら、応援させていただきますm(_ _)m
仰るとおり、何事も原因があって結果がある。
先人達の並々ならない努力が例え、失敗に終わったとしても、それがまた一つの教訓として、今を生きる私たちがお手本とさせていただき、更なる精進を重ねて行かなければいけませんね^^
黒田さんのブログにお会いしなければ、
私は歴史の重みや、重要性を知らずに「お婆」に
なる所でした(^^ゞ
本当に日々感謝に耐えません。
ありがとうございます!
応援凸
オバrev 10万HITオメデトウ御座いますワーイヽ(゚∀゚)メ(゚∀゚)メ(゚∀゚)ノワーイ
確か私より2ヶ月後にブログを解説されたと思うのですが、あっというまに追い越していかれました^^;
まさに圧倒的大HITですね。
でもそれは、大HITに値する素晴らしい内容と、キッチリしたコメント返しによるところが大きいと思います。
特に内容については、歴史を歴史的事実の羅列にせず、一つ一つを丁寧にその背景やそのことが起きた原因などを詳しく解説されていることが人気の秘密だと思います。
まだまだ時代は戦国時代です(^^ゞ
今後も楽しませていただきますよ~♫
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
仰るとおり、歴史上の事実をお手本として、私たちがまた次代へとつないでいかなければいけませんね。
これからも流れでとらえる分かりやすい歴史を心掛けていきますので、どうぞよろしくお願いします。
オバrevさんへ
黒田裕樹 お蔭様で100,000HITに到達できましたが、自分でも信じられないほどの重みを実感しております。
これからもオバrevさんをはじめとする皆さんのご期待に少しでも応えられますよう、それぞれの時代で続けていきたいですね。
…東京講演の次は広島講演かな(^^ゞ
なおまゆ 100000hitおめでとうございます。
少し遅れてしまいましたがお誕生日おめでとうございます。
歴史は意外に地味な分野です。
その中での100000HITは凄い!
これからも学ばせていただきます。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 お祝いのお言葉有難うございます。
これからも積み上げてきた数字に恥じぬような内容の充実を図っていきますので、よろしくお願いします。
100,000HITおめでとうございます。
yasu 先生の 背景・理由まで踏み込んで分かりやすく解説いただける歴史の記事を楽しみに読ませていただいてます。「本当の歴史のみが与えることが許される、素晴らしい感動」期待してます。これからも頑張ってください。
yasuさんへ
黒田裕樹 お言葉ありがとうございます。
今後とも毎日がんばりますので、よろしくお願いします。
mochimochi おめでとうございます!
(それからおくれましたが)
お誕生日おめでとうございます!
mochimochiさんへ
黒田裕樹 ありがとうございます。
これからもmochimochiさんにご覧になっていただけるように内容の充実を図っていきますので、よろしくお願いします。
要するに、安心して検地を行えるようにするために農民から武器を取り上げたわけですが、そうであっても支配者の武力が弱ければ、足元を見た農民たちは抵抗を続けたことでしょう。秀吉のように、天下を統一してそれこそ数十万の兵力を持つようになったことで、初めて農民も抵抗をあきらめて検地や刀狩に黙(だま)って従(したが)ったのです。
また、秀吉は1591年に人掃令(ひとばらいれい、別名を身分統制令=みぶんとうせいれい)を出して、武士が町人や農民になったり、あるいは農民が商業を行ったりすることなどを禁止しました。これによって兵農分離(へいのうぶんり)が進むとともに、江戸時代における士農工商(しのうこうしょう)の身分制度の基礎が確立しました。
もっとも、中世の惣村(そうそん)によって発達した自治的な村の運営は太閤検地後も続けられ、年貢を村の責任で一括(いっかつ)して納める村請(むらうけ)の制度も江戸時代に受け継がれました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
この当時の「刀狩り」制度は、現代の
銃砲刀剣類等所持取締法という制度で残されていると考えて良いのでしょうか?
人掃いとはこういう字をあてるのですね。
私はよく時代劇で内密な話をする時に
「どうかお人払いを」と依頼する場面が
ありますが、そちらの「人払い」かと
思いました(^_^;)
すみません。。とんちんかな話で(ノ∀`)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この当時の「刀狩り」制度は、現代の
> 銃砲刀剣類等所持取締法という制度で残されていると考えて良いのでしょうか?
目的としては「治安の維持」は同じであっても、当時の「農民から武器を取り上げる真の理由」である「一揆の防止」というところが異なりますでしょうか。
まぁ結果としては同じことにはなりますね。
> 人掃いとはこういう字をあてるのですね。
> 私はよく時代劇で内密な話をする時に
> 「どうかお人払いを」と依頼する場面が
> ありますが、そちらの「人払い」かと
> 思いました(^_^;)
> すみません。。とんちんかな話で(ノ∀`)
いえいえ(^^♪
時代劇の「お人払い」の字はこれで正解ですね。
「人払」も「人掃」も意味は同じですが、歴史用語としては「人掃令」と書かないといけないんです。
ややこしいですよね(´・ω・`)
オバrev 刀狩りをして農民から武器を取り上げたり、人掃い令をだして兵農分離をしたりということから、秀吉の出目については、農民のことをよく分かっていたからこそやったということで、百姓ではないかと推測しますが、いかがでしょうか?
sakura1956 お久しぶりです。
テストがあったもので。
士農工商は兵農分離が進んで確立したんですか・・。
知りませんでした。。。
参考になりました(^^;)
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 刀狩りをして農民から武器を取り上げたり、人掃い令をだして兵農分離をしたりということから、秀吉の出目については、農民のことをよく分かっていたからこそやったということで、百姓ではないかと推測しますが、いかがでしょうか?
仰る説は昔から有力視されていますね。
当事者だからこそ、立場がよく分かるものです。ただ、最近では「地侍だった」という説もありますし、よく分からないのが実情のようですが、以前に書かせていただきましたように、通常の武士ではなかったことは間違いないとにらんでいます。
sakura1956さんへ
黒田裕樹 > お久しぶりです。
> テストがあったもので。
テストお疲れ様でしたm(_ _)m
無事に終わりましたか?
> 士農工商は兵農分離が進んで確立したんですか・・。
> 知りませんでした。。。
> 参考になりました(^^;)
歴史の結果には必ず原因があります。
兵農分離が進んだからこそ、身分の違いがはっきりと分かるようになったんですよね。
こういう観点から理解していけば、忘れにくいんですよ(^_^)v
アクセス10万、おめでとう。
晴雨堂ミカエル 身分制度については、詳しく知りたいものですね。
一口に士農工商といっても、大百姓は苗字帯刀を許されただけでなく、姿も士分風の者がいたそうですし。逆に郷士の中にはどうみても農民にしか見えない者もいたそうですから。現代人が考えているほど明確厳格な階級制度ではなかったようです。
江戸時代の日本は3百の小国の連合国家みたいなものですから、当然地域差もあったでしょう。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 アクセス数へのお言葉有難うございます。本日(17日)、記念の更新をいたします。
> 身分制度については、詳しく知りたいものですね。
> 一口に士農工商といっても、大百姓は苗字帯刀を許されただけでなく、姿も士分風の者がいたそうですし。逆に郷士の中にはどうみても農民にしか見えない者もいたそうですから。現代人が考えているほど明確厳格な階級制度ではなかったようです。
> 江戸時代の日本は3百の小国の連合国家みたいなものですから、当然地域差もあったでしょう。
そうですね。身分制度といっても地方に関してはその規制は緩かったようです。八王子千人同心のような人々もいましたからね。このあたりについて、一度ゆっくり研究したいものです。
太閤検地によって土地の生産力は、それまでの課税額で示していた貫高(かんだか)にかわって、米に換算した石高(こくだか)で表示されるようになりました。これを石高制(こくだかせい)といいます。
また、検地帳(けんちちょう)には実際の耕作者の田畑や屋敷地が石高で表記され、それに応じて年貢と労役が課せられるようになりました。これを一地一作人の原則(いっちいっさくにんのげんそく)といいます。この原則によって、一つの土地に何人もの権利が重なり合っていたのが整理され、その結果として長く続いた荘園制度(しょうえんせいど)は完全に消滅しました。
秀吉は天下統一後の1591年、全国の大名に対してその領国の検地帳(別名を御前帳=ごぜんちょう)と国絵図(くにえず)の提出を求めました。これによってすべての大名の石高が正式に定まり、大名に支配する石高に見合うだけの軍役(ぐんやく)が課される体制が出来上がるとともに、近世的な知行制度(ちぎょうせいど)である大名知行制(だいみょうちぎょうせい)の基礎が確立しました。
なお、太閤検地によって農民は自分の田畑の所有権を法的に認められるようになりましたが、その一方で自己のすべての土地財産を大名などに知られることで年貢の負担も厳(きび)しくなっていきました。天下統一が進んでいるとはいえ、いまだ戦国時代が続いているのですから、農民による抵抗があってもおかしくないはずなのですが―。




いつも有難うございます。
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晴雨堂ミカエル おめでとうございます。私は奇しくも黒田氏のこないだの講演1月22日で45になりました。お互い40代、生き延びましょう。
安土桃山時代は現代日本人の性格を語る上で重要ですね。
宗教勢力だけでなく人民全体の武装解除と管理体制確立された時期、エジプトで比較的に平和な市民革命が起こりましたが、それでも貴重な人類の遺産が損傷強奪されていることを考えたら、民衆の武装解除と数百年の泰平は日本民族にとって世界史的に奇跡の体験です。多分、日本で同じ事が起こったとしても、民家や商店の火事場泥棒程度、博物館や国宝はあからさまに襲うまい。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 有難うございます。充実した40代でありたいものですね。
我が国の国民の気質は確かに奇跡ですよね。奈良時代の遺物がいまだに残っているのは素晴らしいと思います。
ぴーち こんばんは!
まずは(冒頭にも書かれていますね^^)
お誕生日おめでとうございます!

黒田さん、とうとう24歳ですか~これから2ヶ月間だけは同年ですね(笑)
益々のご活躍をお祈りいたしております!!
さて記事の方へ一言、コメントさせてください。
秀吉の時代は、現代の様々な制度にも
関係した様々な事が確立された時代でも
あったのですね。それだけ秀吉も先見の明に優れた人物でもあったということなんでしょうかね。
それでは応援凸
永遠の?24歳ぴーちより・・え?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
お互いまだまだ若いですね(^_^)v
秀吉の先見の明も素晴らしいですし、またそれを現実のものとするだけの彼の力も素晴らしいものがありました。詳しくは明日(16日)の記事をご覧くださいね(^^♪
サクラ お誕生日おめでとうございます。
荘園制度が終わったのは、このときだったんですね。
いつ、どんな制度が始まったのかはよく聞く話ですが、それが終わった日は聞かないものです。
こうして見ると、それぞれの制度は日本史のなかで結構長く生きてますね。
紗那 誕生日おめでとうございます!
秀吉さんのことですから、こういうムチと何かしらのアメを使い分けたのでしょうが……
不覚にもちょっと思い当たりませんね……
サクラさんへ
黒田裕樹 > お誕生日おめでとうございます。
有難うございます。
> 荘園制度が終わったのは、このときだったんですね。
> いつ、どんな制度が始まったのかはよく聞く話ですが、それが終わった日は聞かないものです。
> こうして見ると、それぞれの制度は日本史のなかで結構長く生きてますね。
確かに制度の終わりというものはなかなか耳にしないですね。
荘園制度は800年以上も続いたわけですが、終わりは結構あっさりとしています。
巨大な権力者によってそれまでの制度が変更される好例かもしれませんね。
紗那さんへ
黒田裕樹 > 誕生日おめでとうございます!
有難うございますm(_ _)m
> 秀吉さんのことですから、こういうムチと何かしらのアメを使い分けたのでしょうが……
> 不覚にもちょっと思い当たりませんね……
仰るとおり、アメとムチですよ。
アメは農民たちの暮らしを守ること、そしてムチは…。
ayumi お誕生日おめでとうございます!!
黒田先生の42歳が素敵な一年になりますよう、
お祈りしていま~す。
黒田先生は歴史講座で全国制覇してくださいませ。
陰ながら応援しております!!!
ayumiさんへ
黒田裕樹 有難うございます(^o^)/
全国制覇ですか(^^ゞ
これからも地道に頑張っていけば結果は後からついてくると思いますし、毎日精進ですね。
1582年の山崎の合戦以降、秀吉は新しく獲得(かくとく)した領地に次々と検地を行い、やがて全国的な規模にまで広がっていきました。これら一連の検地を太閤検地(たいこうけんち)、または天正(てんしょう)の石直(こくなお)しといいます。
太閤検地において、秀吉は土地の面積表示を新しい基準のもとに定めた町(ちょう)・段(たん)・畝(せ)・歩(ぶ)に統一するとともに、それまではバラバラであった枡(ます、体積を図る測定器のこと)も京枡(きょうます)に統一して、全国の村ごとに田畑(でんぱた)や屋敷地(やしきち)の面積や等級を調査しました。
なお、それまでは360歩を1段としていたのが、米の生産効率の上昇もあったことで、太閤検地によって300歩を1段に改められています。ちなみに段は反(たん)とも表記され、1段は10アール(=1,000平方メートル)とほぼ同じ大きさです。また、歩は坪(つぼ)と同じ面積であり、現代でも家や土地の面積の単位として「○○坪」と表現されることが多いですね。




いつも有難うございます。
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QQQ 1反は300坪で、約1000平方メートルじゃないでしょうか?
QQQさんへ
黒田裕樹 > 1反は300坪で、約1000平方メートルじゃないでしょうか?
大変失礼いたしました。仰るとおり、当方の記載誤りです。
このたびは申し訳ございません。ご指摘下さってありがとうございました。
ぴーち こんばんは!
確かに土地の面積の単位は、今でも坪で言われた方が
ピンと来ますものね^^
逆にメートル法で言われた方が、検討が付かなかったりします(^^ゞ
近所の農家の方の話の中でも「うちの田んぼは○○反歩あるんだよ」なんて言葉を耳にすることが多いです。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確かに土地の面積の単位は、今でも坪で言われた方が
> ピンと来ますものね^^
> 逆にメートル法で言われた方が、検討が付かなかったりします(^^ゞ
> 近所の農家の方の話の中でも「うちの田んぼは○○反歩あるんだよ」なんて言葉を耳にすることが多いです。
私も法律事務所に長い間いましたから「坪」の方がなじみがありますね。
世界標準のメートル法も便利ではありますが、TPOで使い分けたいものです。
黒田裕樹さん
風早 りら 検地と刀狩が 秀吉が 始めたことは
知りませんでした
学校では ならったはずですが
忘れていることが 多く
先生の講座で また 学べて 幸せです
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 検地と刀狩が 秀吉が 始めたことは
> 知りませんでした
> 学校では ならったはずですが
> 忘れていることが 多く
> 先生の講座で また 学べて 幸せです
検地と刀狩は以前から行われてきましたが、秀吉が本格的に始めて、かつ成功しました。
その理由も含めて、これからお話していきたいと思います。
綾小路江府士麿 太閤検地はよく聞くのですが、
単位がなかなか飲み込めないんですよね。
綾小路江府士麿さんへ
黒田裕樹 > 太閤検地はよく聞くのですが、
> 単位がなかなか飲み込めないんですよね。
私もそうなんですよね。
最初に記事を書いた際にはメートル法を間違えましたし。
とはいえ、一段の単位が変更になるなど重要な事項ですから、少しずつ理解したいものです。
また、秀吉が天下を統一する頃までには京都や大坂・堺・伏見(ふしみ)・長崎などの重要都市や、佐渡(さど)・石見(いわみ)・生野(いくの)などの鉱山(こうざん)も支配して、天正大判(てんしょうおおばん)などの貨幣(かへい)を鋳造(ちゅうぞう)しました。ただし、これらの貨幣は主に贈答用(ぞうとうよう)に使用され、いわゆる貨幣制度が確立するのは江戸時代に入ってからのことになります。
信長の経済政策を引き継いだ秀吉は、天下を統一したことで関所の廃止を全国に及ぼし、一里塚(いちりづか)を築(きず)くなどして、信長が進めてきた政策を完成させました。
豊臣政権は秀吉が独裁(どくさい)的な権力を握(にぎ)ることで成立しましたが、秀吉の晩年には腹心(ふくしん)の大名を五奉行(ごぶぎょう)として政務(せいむ)を担当させ、後に有力な大名を五大老(ごたいろう)に任命し、重要な政務を合議(ごうぎ)させましたが、これらの制度が確立したのは秀吉の死の直前でした。
ちなみに五奉行は石田三成(いしだみつなり)・浅野長政(あさのながまさ)・増田長盛(ましたながもり)・長束正家(なつかまさいえ)・前田玄以(まえだげんい)で、また大老は徳川家康・前田利家(まえだとしいえ)・宇喜多秀家(うきたひでいえ)・毛利輝元(もうりてるもと)・小早川隆景(こばやかわたかかげ)・上杉景勝(うえすぎかげかつ)であり、隆景の死後に五大老と呼ばれました。




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ぴーち こんばんは!
この頃の貨幣が贈答用だったとは存じませんでした(私なら、当然の事ですがww)
なるほど、確かに天下統一を図るには、関所は無用ということになりますね。
しかし、その後、江戸時代にはまた関所が設けられていたと思われますが、それはまた家康との考え方の相違によるものでしょうけれど。。
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ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この頃の貨幣が贈答用だったとは存じませんでした(私なら、当然の事ですがww)
これは結構盲点なんですよね。天正大判のイメージが強すぎて、この頃から国産の貨幣が流通していたと思われがちなんですが…。
> なるほど、確かに天下統一を図るには、関所は無用ということになりますね。
> しかし、その後、江戸時代にはまた関所が設けられていたと思われますが、それはまた家康との考え方の相違によるものでしょうけれど。。
仰るとおり、江戸幕府の場合はいかにして江戸へ攻め込まれないようにするかというのが大きな目的でしたから、関所を設けて当然でもある訳です。目的や動機が違うと、関所の有無まで変わってしまうんですよね。
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関白や太政大臣となったことで、自身が朝廷から全国の支配権を委(ゆだ)ねられたと見なした秀吉は、1585年に諸国の大名に交戦停止を命じた惣無事令(そうぶじれい)を出し、これに違反(いはん)したとして1587年に九州の島津義久(しまづよしひさ)を降伏させました。
また秀吉は1588年に京都に新築した聚楽第(じゅらくてい、または「じゅらくだい」)に後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の行幸(ぎょうこう、天皇が外出されること)を仰(あお)ぎ、その際に諸大名を集めて皇室を尊重させるとともに、天皇の御前(おんまえ)で秀吉自身への忠誠を誓(ちか)わせました。
そして1590年、秀吉は小田原(おだわら)の北条氏政(ほうじょううじまさ)を滅ぼし、伊達政宗(だてまさむね)らの東北の諸大名を降伏させたことで、ついに天下統一の事業を完成させたのでした。




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ぴーち こんばんは!
これまでの秀吉の行動を拝見させていただいていると、最初に黒田さんが秀吉を「人たらし」と仰っしゃられた意味が見えて来ました。
信長亡き後、チャンスとばかりに天下取りという最終目的の為にあらゆる手練手管を用いた抜かりなき行動は、信長存命の時から虎視眈々とその座を狙っていたかのようですね。もしかして最初からではなかったのかも知れませんが、これまでずっとバネの様に折りたたまれて来た思いが、一気にびよよよ~んと飛び跳ねたような展開ですね(^_^;)
(表現が幼稚ですみません・・汗)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます(^^♪
秀吉の内心は本人にしか分かりませんが、何と言っても戦国の世ですから、隙(すき)あらば自分が取って代わろうという思いは常に心の奥底にあったのではないかと私も推察します。
そして「一気にびよよよ~ん」と…って、この表現良いですねぇ(^_^)v
黒田裕樹さん
風早 りら 秀吉は 名誉にとても こだわった人の
ようですね
やはり 生まれが 農民だったからでしょうか
信忠が生きていたら、また変わっていたでしょう。
晴雨堂ミカエル 信忠は信長の嫡子という血統の権威と、三位の位という朝廷の権威と、既に織田家の家督を相続した棟梁としての権威もあったうえに、捻くれた信長によって司令官としても随分鍛えられていましたから、織田政権は潰れなかったかもしれませんね。
家康とは異なる幕藩体制を築けたかもしれません。
ところで、天海和尚=光秀説をどう思いますか?
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 秀吉は 名誉にとても こだわった人の
> ようですね
> やはり 生まれが 農民だったからでしょうか
私もそう思います。
身分の低さによるハンデは、差別が当然の世の中だった戦国時代の頃には、現代の私たちが想像する以上のものだったでしょう。
ハングリー精神を発揮できる一方で、名誉へのこだわりは人一倍強かったのではないでしょうか。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、信忠が一緒に倒されてしまったことに関しては、織田家にとっては痛恨の出来事だったと思われます。信忠が生きていれば、かたき討ちの大義目分が秀吉に回ってくるはずがなかったですからね。
結果論ですが、秀吉の運の強さは相当なものだと思います。
光秀=天海拙については、状況的にうなずける部分もありますが、やはり構成の創作のような気がします。
いずれにせよ真相は闇の中と思われますが…。