今回の「ご聖断下る ~昭和天皇・前篇」ですが、歴史の流れの関係上どうしても戦争の悲劇について紹介せざるを得ず、参加者の皆様が涙される場面もありました。明朗かつ快活さが当講座の特長ですが、今回ばかりは私自身も慎重に言葉を選びながら講座を続けました。
終了後には参加者の皆様から「感動した」「後篇が楽しみです」とのお言葉をいただきまして、大変うれしく思うとともに、次回(平成23年2月)の東京・大阪での講座に向けての何よりの励みになりました。有難うございました。
今回の講座の内容ですが、22回に分けて新年1月1日からYouTubeによる映像とともに更新を開始いたしますので、よろしくお願いいたします。
今後の講座の開催予定は下記のとおりです。なお、来年(平成23年)2月には、東京(2月19日)と大阪(2月26日)で「昭和天皇・後篇」を行います!
本当の歴史のみが与えることが許される、素晴らしい感動を皆様へ―
第22回 「『今に見ていろ』 ~日本国憲法誕生秘話」
日時:平成23年1月22日(土) 午後3時30分より
場所: 梅田東学習ルーム
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:無料
第23回 「ご巡幸の大御心(おおみこころ) ~昭和天皇・後篇」
日時:(東京)平成23年2月19日(土) 午後3時30分より
(大阪)平成23年2月26日(土) 午後3時30分より
場所:(東京)スター貸会議室 浅草
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
(大阪)梅田東学習ルーム
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:いずれも無料(カンパを受け付けます)




いつも有難うございます。
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sakura1956 歴史講座、お疲れ様です。
確かに年末は慌しい時期ですからね。
おお、それは良かったですね~
次回も頑張って下さい。
sakura1956さんへ
黒田裕樹 > 歴史講座、お疲れ様です。
> 確かに年末は慌しい時期ですからね。
> おお、それは良かったですね~
> 次回も頑張って下さい。
有難うございます(^o^)/
年末の忙しい時期でしたが、十二分に成功させることができました。
新年からの更新にご期待下さい!
管理人のみ閲覧できます
-
ごんた 挨拶回り中のごんたです(*゚▽゚)ノ
今年ブログデビューした
ペーペーブロガーのごんたのブログに
いつも遊びに来て頂いて本当にありがとうございましたヽ(=´▽`=)ノ
時には記事の更新が
面倒臭ぇぇぇ(゚Д゚;)ぇぇぇぇぇ!!
なんて思ってしまう時もありましたが(;^◇^;)ゝ
いつもご訪問して下さる事を励みに頑張ってまいりました(´~`ヾ)
そのお礼とまた来年もお付き合い願いたいという気持ちを込めて
コメントを送らせて頂きました(* ̄∇ ̄*)
本当にありがとうございました( ̄∇ ̄*)
来年もよろしくお願い致します( ̄∇ ̄*)
☆ごんた☆
継続は力なり
h.hamauzu こんにちは。
歴史講座、おつかれさまでした!
継続は力なり。
私も見習いたいです。
今年一年、ありがとうございました。
よいお年をお迎えくださいませ!
ごんたさんへ
黒田裕樹 こちらこそ、当ブログに毎日のようにお越し下さって感謝しております。
来年もぜひお付き合い下さいm(_ _)m
h.hamauzuさんへ
黒田裕樹 こちらこそ、一年間本当に有難うございました。
皆様のご訪問を、毎日の更新への心の支えとさせていただいております。
来年もぜひ東京での講座等でお会いしたいですね。
☆ご挨拶☆
345mama ことしも残り僅かとなりましたね。。
来年もブログ訪問を楽しみにしています☆
良いお年をお迎えくださいね♪
でゎでゎ

345mamaさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
来年もブログを通じての交流を楽しみにしております。
良いお年をお迎え下さい。
しかし、いつまでも長く続くと思われた平和はあくまでも国内のみのことであり、それを可能にしていた「海に囲まれた安全な国」の神話は、蒸気船の発明によって一気に崩壊し、もはや「どこからでも狙われる危険な国」と成り果てていたにもかかわらず、当時の我が国を支えていたはずの江戸幕府は「平和ボケ」のために何の対策もしていませんでした。
ペリーによる黒船来航によって世の中が一気に動き、我が国が経験したことのないような大混乱となった幕末の時代は、幕府の落ち度による「人災」でもあったのです。大政奉還から明治維新への流れは、徳川家が実権を失うも滅亡することがなかった、世界史上でも珍しい政権交代劇でしたが、その一方で幕府側と討幕側との激しい争いによって多くの血が流されました。
そして現在(平成22年)、昨年の劇的な政権交代によって誕生した民主党政権は、当初の期待に応えられるだけの政治を行っているとは言い難い状態が続き、現内閣の支持率も低迷しています。世の不景気は様々な場面で影響を与え、国民全体への大きな希望の光が見えてきません。その殺風景ぶりは、まるで幕末の混乱期を見ているかのような思いがします。
来年こそは、国民がこぞって幸福になれるような政治を現政権には期待したいですし、もしそれが果たせないのであれば、潔く後進に道を譲ってほしい。少なくとも幕末のような大混乱に国民を巻き込んでほしくないと願っております。
来年こそは良い年でありますように。当歴史講座も毎日の更新を続けて頑張っていきますので、今後ともよろしくお願いいたします。皆様、どうぞ良いお年を!




いつも有難うございます。
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へたおば いつも、勉強させてもらってます。
来年も、よろしくお願いいたします。
では、よいお年を^^
へたおばさんへ
黒田裕樹 > いつも、勉強させてもらってます。
> 来年も、よろしくお願いいたします。
> では、よいお年を^^
こちらこそ有難うございます。
へたおばさんも、良い年をお迎え下さい。
今年もお世話になりました!
ぴーち こんばんは!
今年も黒田さんのブログで沢山の歴史の事実に
触れることが出来たこと、大変感謝致しております!
常に判り易い歴史を目指してとコンセプトに挙げていらっしゃる通り、歴史に関して無知状態な私にも懇切丁寧な解説をいただき、ありがたく存じました。
また私のブログの記事に関してもいつも温かいコメントをいただき、痛み入ります
来年も、黒田さんにとって飛躍の年となりますよう心からお祈りいたしております。
よいお年をお迎えくださいね^^
今年最後の応援です!
:黒田裕樹さん
風早 りら 「 まるで幕末の混乱期を見ているかのような思いがします」
私も同じ思いです
日本を 心配しています
先生のような方が こうして 声を出して
下さることが 大事だと思います
先生のブログを通して いろいろな
知識を得ることが出来ました
有難う御座いました
来年も不出来な生徒ですが
宜しく お願いします
ぴーちさんへ
黒田裕樹 こちらこそ、今年も本当にお世話になりました。
来年は正真正銘の飛躍の年にしたいです。
今後ともどうぞよろしくお願いします。
風早りらさんへ
黒田裕樹 インターネットで情報を共有できる時代なればこそ、一人一人の国民が結集して声を上げていくことが重要だと思っております。
拙ブログが国民の皆様のお役にほんの少しでも立つことが出来れば、こんな嬉しいことはありません。
来年もよろしくお願いいたします。
ピオーネ親父 一年間ご苦労様でした。
毎日 凄いですね。
そんな努力のおかげで 勉強させて もらっています。
来年も 宜しく お願いいたします。
良いお年を お迎え下さい。
ピオーネ親父さんへ
黒田裕樹 > 一年間ご苦労様でした。
> 毎日 凄いですね。
> そんな努力のおかげで 勉強させて もらっています。
> 来年も 宜しく お願いいたします。
> 良いお年を お迎え下さい。
いつも有難うございます。
来年も更新を途切れさすことがないよう頑張りますので、どうぞよろしくお願いします。
(^^)
kana 楽しく訪問させていただいています。
感謝です。
素敵なお正月をお過しください☆
ビリーさん はじめまして、
今年はブログを通じてずいぶん歴史の勉強を
受けさせていただきました。
ありがとうございます。
来年も勝手な聴講生ビリーさんですが、
皆勤賞狙います。
いわゆる「錦の御旗」のことです。朝廷の軍隊であることを示す錦の御旗を相手に戦う幕府軍は「朝敵(ちょうてき)」となることを意味しますから、その影響は確かに大きかったのですが、慶喜にとって自らが朝敵となることは、たとえ将軍という武家の棟梁(とうりょう)の地位を投げ出してでも、絶対に許されないことだったのです。
なぜ慶喜はそこまで弱気になってしまったのでしょうか。将軍になる前の慶喜は御三卿(ごさんきょう)の一橋家の当主でしたが、実は御三家の水戸藩から養子に入っていました。
水戸藩といえば先述した水戸学が発達しており、徳川家でありながら皇室を重視する学問を、慶喜自身も幼い頃から身に付けていました。つまり、慶喜は将軍家でありながら同時に皇室も尊敬しており、だからこそ自らが朝敵になることが認められなかったのです。
慶喜はそれまで立てこもっていた大坂城から密かに船で江戸へと向かうと、上野の寛永寺(かんえいじ)で自ら謹慎(きんしん)しました。その後、勝海舟と西郷隆盛との会見を経て慶喜は駿府(すんぷ、現在の静岡)へと移動し、徳川政権は名実ともに幕を下ろしたのでした。




いつも有難うございます。
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紗那 戦いにおいては、精神的な攻撃というのは時に物理的な攻撃を圧倒することもありますよね
この場合は、倒幕軍の作戦勝ちというところでしょうね
倒幕軍は、慶喜の生まれなどを理解した上でこの作戦を使ったんですか?
ぴーち こんばんは!
慶喜は水戸藩の養子であったのですか。
やはり幼少から身につけた学問は絶対的な
ものだったのですね。
その教えに反旗を翻してまでも・・という事はこの時代は絶対許されないことだったのでしょうか。それとも将軍という立場だったからですか?
それとも慶喜の性格上の問題だったのでしょうか。。
質問ばかり並べてしまい、失礼しましたm(__)m
応援凸
紗那さんへ
黒田裕樹 > 戦いにおいては、精神的な攻撃というのは時に物理的な攻撃を圧倒することもありますよね
> この場合は、倒幕軍の作戦勝ちというところでしょうね
> 倒幕軍は、慶喜の生まれなどを理解した上でこの作戦を使ったんですか?
錦の御旗の効力は圧倒的でしたね。
慶喜の出自を知っていたかどうかの確証については聞いたことがないですが、可能性として十分にあったと思います。ただ、深夜にお忍びで大坂城を脱出するまでとは思わなかったかもしれませんが(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 慶喜は水戸藩の養子であったのですか。
> やはり幼少から身につけた学問は絶対的な
> ものだったのですね。
> その教えに反旗を翻してまでも・・という事はこの時代は絶対許されないことだったのでしょうか。それとも将軍という立場だったからですか?
教えに反するという立場もあったでしょうし、将軍だからこそ、幕府が朝敵となって滅亡すると硫黄危機を避けたかったのかもしれませんね。
> それとも慶喜の性格上の問題だったのでしょうか。。
> 質問ばかり並べてしまい、失礼しましたm(__)m
水戸学を身につけていたことによって、習い性となるの如く慶喜の哲学となっていたかもしれませんね。
いえいえ、質問大いに結構ですよ(^^♪
黒田裕樹さん
風早 りら 慶喜が たやすく 逃げてしまったことには
以前より 疑問でした
これで やっと 理解出来ました
有難う御座います
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 慶喜が たやすく 逃げてしまったことには
> 以前より 疑問でした
> これで やっと 理解出来ました
> 有難う御座います
こちらこそ、お言葉有難うございます。
慶喜の「血筋」が、こんなところにまで影響を与えているんですよね。
しかし、幕府の安泰(あんたい)を目指した公武合体は、将軍が天皇の義理の弟という立場になったことで「弟たる幕府は兄の朝廷に従わなければならない」という図式が成立してしまい、逆効果となってしまいました。また、京都にはそれまでに京都所司代(きょうとしょしだい)という役職が存在していたのに、なぜわざわざ京都守護職という別の役職を設けなければならなかったのでしょうか。
実は、長年平和が続いたことによって所司代などの幕府の従来の役職が官僚化(かんりょうか)してしまい、武力の組織としては役に立たなくなってしまっていたのです。だからこそ京都守護職が必要となり、また守護職によって保護を受けた、本来ならば下級武士や浪人などの集団に過ぎない新選組が京都において活躍することになったのでした。幕府による「平和ボケ」はこんなところにまで影響を及ぼしていたのです。
その後の幕府は強硬な攘夷派であった長州藩を倒して一時は名誉を回復したものの、討幕の流れはどうすることもできず、ついに1867年に最後の将軍の徳川慶喜が大政奉還を行ったのですが、その後も先述したような流れを受けて、結局幕府は討幕軍と戦うことになりました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
孝明天皇が女帝であったのなら、この図式はまた
違っていた・・という事になるのでしょうか?
新撰組が平和ボケから誕生したというのは、初めて知りました^^
現代にもそんな勇士が国民から誕生する気配は・・
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 孝明天皇が女帝であったのなら、この図式はまた
> 違っていた・・という事になるのでしょうか?
難しいですね…。男性天皇であったからこそ、崩御されるまで強い指導力を発揮されたとも思えますし。
それにしても、劣勢に立たされると人間はやることなすことがことごとく裏目に出ますね。
> 新撰組が平和ボケから誕生したというのは、初めて知りました^^
> 現代にもそんな勇士が国民から誕生する気配は・・
平和ボケは組織をとことん腐らせてしまいますね(´・ω・`)
果たして現代にも同じようなことが起きるでしょうか。期待したいような、空恐ろしいような…。
本来の意味に崩れた幕府。
晴雨堂ミカエル 鎖国の意味が長い年月の間に変質したように、征夷大将軍の本来の意味が忘れ去られ、幕末になって再びクローズアップされて押し潰されるのは面白い現象です。
まさに夷が黒船で押し寄せている時に、夷を討たねばならない国軍最高司令官が動けない、本来は征夷司令部たる幕府が戦えない。
現代にも対外的には国家元首、内輪では象徴天皇、対外的には国軍、内輪では自衛隊といった建前と誤魔化しの制度が日本の矛盾です。
本来の意味を忘れた憲法論議が続いています。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 鎖国の意味が長い年月の間に変質したように、征夷大将軍の本来の意味が忘れ去られ、幕末になって再びクローズアップされて押し潰されるのは面白い現象です。
そうですね。物事というのは時代によって本質するものではありますが、ここまで幕府の意味が変質するようになるとは、歴史というのは面白く、また恐ろしいものです。
> まさに夷が黒船で押し寄せている時に、夷を討たねばならない国軍最高司令官が動けない、本来は征夷司令部たる幕府が戦えない。
> 現代にも対外的には国家元首、内輪では象徴天皇、対外的には国軍、内輪では自衛隊といった建前と誤魔化しの制度が日本の矛盾です。
> 本来の意味を忘れた憲法論議が続いています。
難しい問題ですね。
現状を変えたくないという姿勢はいつの世も同じだとは思いますが、今回のように歴史の結果を見れば、そのままでは良くないはずなのですが…。
黒田裕樹さん
風早 りら 「平和ボケ」のお言葉に
今の日本の今を見るかのようです
そのことに 早く 政府に気づいて欲しいと
現代に照らしあわせて 考えました
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 「平和ボケ」のお言葉に
> 今の日本の今を見るかのようです
> そのことに 早く 政府に気づいて欲しいと
> 現代に照らしあわせて 考えました
現代の「平和ボケ」については、仰るとおり今回の講座に通じるものがありますね。
わざわざ別の役職を設けるという無駄については、同じようなものが現代にもきっと存在するはずです。
歴史は、繰り返すのか
- 黒田先生
こんばんは
青田です。
黒田先生は、田沼意次が、開国のチャンスがあり、
蝦夷調査に行かせたと言っていました。
その流れを、停止して、幕末に不平等な条約を結んだとおっしゃっていました。
それにたいして、地方の藩から、不平が起こって
倒幕運動につながった。
これも、現代に当てはまりますね。
S氏が千閣諸島を買おうとしたり、調査しようと
したのに、その流れを止めてしまい、
結局、外国との関係を悪化させ、日本に不利な条件で、国際関係が構築されている。
地域政党が、活発化して、日本を変えようとしている。
※ 江戸幕府の平和ボケで、使いものにならない軍隊と現代の憲法9条まで、似ているから、
ぞっとします。
これから、現代の日本が、どうなるかは、わかりませんが
どちらにしろ、今の日本人の行動が将来の日本の方向を決めることだけは、はっきりしていますね。
後世の日本人から、『あの世代が日本を駄目にした。』と歴史の教科書に載らないようにだけは、
したいですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと私も思います。
気づいただけでもまだマシかもしれませんが…。
しかし、この当時清国に出兵したイギリスやフランスが、返す刀で我が国へ侵略する可能性も十分考えられ、両国の動きに先手を打つためには、たとえ不平等であってもアメリカと条約を急いで結ぶ必要があったのです。それなのに攘夷派は「諸外国など追い出せばよい」と口先では威勢(いせい)のいいことを言いながら、もし我が国が侵略されたらどうするのかという深刻な問題に対しては、口をつぐんで答えようともしませんでした。
こうした攘夷派の動きを抑えるため、直弼は1858年から59年にかけて、攘夷派の大名や幕臣、あるいは公卿や諸藩の志士らを一斉に弾圧(だんあつ)しました。いわゆる安政の大獄のことです。直弼にとっては幕府の威信を守るための当然の行為だったのですが、吉田松陰や橋本左内(はしもとさない)といった有能な人間を問答無用で処刑してしまったのは、さすがにやり過ぎでした。
結果として多くの人間の恨みを買った直弼は、1860年旧暦3月3日、春にしては珍しい大雪の日に江戸城へ向かう最中に襲われ、斬殺(ざんさつ)されました。この桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)によって幕府の権威はさらに低下してしまったのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
井伊直弼の判断は当時の日本の立場から
考えれば、致し方なかったのかも知れません。
もしも、ペリーの開国の申し出を拒んだとしたら、諸外国から遅かれ早かれ日本は侵略され、何処かの国の属国として惨めな今日を送っていたかもしれませんし。
例えば現時点で日本が外国から攻撃された場合、日本の防衛力は1週間くらいだと言われています。(直接日本本土を攻撃されたら、もっと短いでしょうけれど)しかもアメリカの援護が必ずあるという前提で戦わなければ、すぐに敗戦してしまうでしょう。
日本の防衛力はアジア諸国から比べれば、今の所高いと思います。けれどどんなに性能がよい戦闘機やミサイルを所持していてもこれまで平和に過ごしてきた民族がそれを上手く使いこなせるかどうかです。日頃実践訓練している国には、とても敵うものではありません。日本はアメリカという用心棒をずっと味方につけておきたいというのは、当然の考えでもあります。ただ、今の所
アメリカは日本よりも違う国に関心があるようで・・・(^^A
幕末の時代もそれまでずっと平和で
すごして来た民族のへんな自信と外国から急襲されるという事の実感の無さが攘夷派の口先だけの
言動に繋がってしまったように思いました。
井伊直弼も余りに極端な行動や、勝手な判断を
強行しなければ、殺されずに済んだのでは・
長々とまとまりのないコメントにて失礼しましたm(_)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るように、現代の我が国にもあてはまる深刻な問題でもありますね。
それだけに井伊直弼の苦しい胸の内も分かるような気がします。
ただ、彼はあまりにも性急に処罰をしてしまいました。
吉田松陰や橋本左内などは、攘夷派と言えども我が国のために多大な貢献をしてくれたはずです。
せめて長期間の牢屋暮らしなどで生かしておくべきでした。
直弼の幕府思いも、結果として滅亡を早めてしまったのが皮肉ではありますね。
サクラ 桜田門外の変は、外国の後ろ盾があって成功した、とも言われてますね。
絵巻物に、舶来の短銃が描かれていたとか。
私が読んだ本では、陰謀だの何だの仰々しいことが書かれてましたが、そのへんはどうなんでしょう?
しかし、条約の締結には天子の許しがなければならなかったんですか。
実権が武士に移って以来、朝廷の力は(権現だけあっても)弱かったと思っていたのですが。
サクラさんへ
黒田裕樹 > 桜田門外の変は、外国の後ろ盾があって成功した、とも言われてますね。
> 絵巻物に、舶来の短銃が描かれていたとか。
> 私が読んだ本では、陰謀だの何だの仰々しいことが書かれてましたが、そのへんはどうなんでしょう?
確かにその可能性はあると思います。
曲がりなりにも幕府の事実上の最高権力者を堂々と暗殺したのですから、何がしかの大きな力が働いたかもしれません。
> しかし、条約の締結には天子の許しがなければならなかったんですか。
> 実権が武士に移って以来、朝廷の力は(権現だけあっても)弱かったと思っていたのですが。
本当は勅許なんて不要なんですよ。
ところがこの頃までに幕府公認の朱子学の影響で、幕府よりも朝廷の方が上位であるという思想が当然となっていましたから、いつのまにか勅許が得られないと条約を結べないようになっていたのです。何たる皮肉…。
黒田先生
風早 りら 井伊直弼が安政の大獄によって 吉田松陰を処刑してしまった事は
日本にとって大変な消失だったと思います
吉田松陰が生存していたら
明治になってどれだけの功績を上げてくれたかと思うと残念です
余談になりますが 先日 映画「桜田門外の変」を見てきました
以前はあまり見なかった時代劇が 最近は好きになりました
ありがとうございます
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 井伊直弼が安政の大獄によって 吉田松陰を処刑してしまった事は
> 日本にとって大変な消失だったと思います
> 吉田松陰が生存していたら
> 明治になってどれだけの功績を上げてくれたかと思うと残念です
> 余談になりますが 先日 映画「桜田門外の変」を見てきました
> 以前はあまり見なかった時代劇が 最近は好きになりました
> ありがとうございます
仰るとおりです。
吉田松陰の消失で、我が国はどれだけ損をしていることか…。
彼の弟子たちがそれぞれ活躍しているとはいえ、やはり本家本元の活躍ぶりを見たかったです。
どうして受牢だけでとどめなかったのか…。残念です。
時代劇がお気に召したようですね。
今年は時代劇映画の当たり年といわれています。
我が国の伝統の復権は嬉しい限りですね。
なおまゆ 幕府は朝廷に政権を委ねられていたのに、勅許を求めるという矛盾に気づかなかったのでしょうか?
自らが広めた学問に縛られ、「平和ボケ」してしまったのでしょう。今の日本に良く似ていますよね。
吉田松陰先生の死は本当に早すぎました。彼を評価しない歴史家もいますが、彼の率直な勇気は、正しく先駆者の物でした。
今の時代にも松陰先生のような方が必要です。痛切にそう思います。行動する人が如何に少ないか・・・。政治家とは行動する人と思うのですが保身と失言と言い訳ばかりでうんざりします。
黒田さんの語る歴史を読むたびに、「歴史に学ばない」愚かな政治家に失望しています。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 > 幕府は朝廷に政権を委ねられていたのに、勅許を求めるという矛盾に気づかなかったのでしょうか?
> 自らが広めた学問に縛られ、「平和ボケ」してしまったのでしょう。今の日本に良く似ていますよね。
私も同意見です。国民の安全保障よりも優先する存在があるという段階で、為政者としての資質が疑われますね。
> 吉田松陰先生の死は本当に早すぎました。彼を評価しない歴史家もいますが、彼の率直な勇気は、正しく先駆者の物でした。
> 今の時代にも松陰先生のような方が必要です。痛切にそう思います。行動する人が如何に少ないか・・・。政治家とは行動する人と思うのですが保身と失言と言い訳ばかりでうんざりします。
特に今年は政治家の失言が多い一年でした。昨年までとは違い、失政といってもおかしくない中での失言ですから、国民の不満はより高まっていますね。後半から集中して行われた、数千人による一般市民のデモがそれを象徴していると思います。
> 黒田さんの語る歴史を読むたびに、「歴史に学ばない」愚かな政治家に失望しています。
お言葉恐縮です。私にとっても、今年ほど「歴史に学ぼうとしない姿勢がどのような影響をもたらすか」ということを痛感した一年はなかったと思っております。
桜田門外の変
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
DVDで、『桜田門外の変』を観ました。
観ての感想ですが
① 桜田門外の変から、わずか8年後に
明治維新になっていたという事実。
ということは、その8年間に
薩英戦争、8月14日の政変、四国艦隊砲撃事件
池田屋事件、長州征伐、薩長同盟、大政奉還
鳥羽伏見の戦い
があったということですね。
時間の密度の濃さにただただ、驚きです。
② 桜田門外の変
に関わった人間は、全員、斬首になりました。
不思議に思ったのは、
同じように過激派だった長州の桂小五郎、高杉晋作もかなり、ヤバイ状況だったのに
生き伸びたのに、尊王攘夷の本家本元の
水戸藩が完全にそのパワーをなくしたことでした。
やはり、これが、分家といえども、
徳川家の水戸藩と長州藩との違いだったのかもしれませんね。
つまり、水戸藩は、尊王攘夷運動の中心地ではあったが、
徳川家そのものが憎いわけではなく、
逆に、長州藩は、尊王攘夷+徳川家への恨み
の違いです。
この両者の違いが、桂小五郎、高杉晋作を藩が
捕えるような状況でも、探索が甘くなり
結局は、藩の中枢に帰り咲くということに
なった気がします。
それにしても、明治維新になって、水戸藩出身で
要職についた人間がほとんどいないのも
悲劇性を感じます。
③ 井伊直弼を暗殺した水戸浪士は、薩摩藩の
挙兵をあてにしていました。
しかし、島津斉彬が死に、それが実現されないことで、絶望します。
それにたいして、長州藩は、自分の藩だけで
攘夷を実行したり、禁門の変を起こします。
ちなみに、後の明治の元勲
伊藤博文は、高杉晋作が功山寺で、決起した時
力士隊を連れて、一番に馳せ参じています。
この時の長州藩は、イイ意味でも、悪い意味でも
凄いですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、尊王攘夷といえども徳川家一門である水戸藩と、徳川家に恨み骨髄の長州藩とでは役者が違い過ぎましたね。時代が倒幕に流れるにつれて、その差は歴然となっていきました。
とはいえ、幕末にふさわしい水戸家出身の将軍慶喜が誕生したことで、歴史の神様は水戸藩に静かな幕引きを用意しましたし、多士済々の長州藩も歴史をつくるに値する存在でしたね。
しかし、我が国を動かしていた幕府は平和をむさぼり続け、開国を勧告する勢力が国内外で現れてももみ消し、また学問が重視されたことでいつしか幕府自身の武力も著(いちじる)しく低下していました。このような外国にとっては絶好の、そして我が国にとっては最悪のタイミングでペリーが黒船を率(ひき)いて浦賀にやって来たのです。
黒船の来航に幕府は大慌(おおあわ)てとなり、今後の対策が練られましたが、長年の平和が続いたこともあって、幕府単独で外国との交渉をまとめる能力がすでに残っていませんでした。幕府はやむを得ず諸藩(しょはん)に対して広く意見を求めましたが、これは絶対にやってはいけないことでした。
なぜなら、諸藩の意見を重視するという行為は、幕府の政策に対して口出しすることを事実上認めることだからです。こうした悪(あ)しき前例を作ってしまったことや、その後の外国との交渉に関してすべてが後手(ごて)に回り、結果として不平等条約を押し付けられてしまったこと、さらには諸外国との貿易に対して何の準備もしていなかったことで庶民(しょみん)の暮(く)らしが大きく混乱するなど、年を追うごとに幕府の威信は低下していきました。




いつも有難うございます。
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なおまゆ 幕府が諸藩に意見を求めたのは、本当に失敗だったと思います。尤も、老中などの上位職の人達には何の解決も出来なかったでしょう。
しかし、人材を登用する絶好のチャンスでした。危機の中に活路を見い出すことが出来ないのは、組織の衰退ですよね。
仰るとおり、幕府にとって最悪のタイミングで黒船が来たと思います。もう2年の猶予があれば、幕府も内部改革できたかもしれません。後の祭りですが・・・。
幕府主導で近代化できる可能性もあったと思います。あれほどの血を流さず、人材を失わず、何事かが成し得たと思えば残念でなりません。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 > 幕府が諸藩に意見を求めたのは、本当に失敗だったと思います。尤も、老中などの上位職の人達には何の解決も出来なかったでしょう。
> しかし、人材を登用する絶好のチャンスでした。危機の中に活路を見い出すことが出来ないのは、組織の衰退ですよね。
いくら上の組織がダメであっても、幕末に勝海舟などが出てくるわけですから、仰るとおり人材が枯渇していたわけではないと思います。疎市区のタガが緩んでいたのが致命的だったのでしょう。
> 仰るとおり、幕府にとって最悪のタイミングで黒船が来たと思います。もう2年の猶予があれば、幕府も内部改革できたかもしれません。後の祭りですが・・・。
> 幕府主導で近代化できる可能性もあったと思います。あれほどの血を流さず、人材を失わず、何事かが成し得たと思えば残念でなりません。
仰るとおりでして、明治維新の成否は別にして幕府主体の改革ができれば、我が国の近代化は全く違った方向になっていたかもしれませんね。少なくともあれほどの血は流れなかったでしょう。
ぴーち こんにちは!
今回の講座は反響が大きかったようですね!
是非感動の涙を誘う素晴らしい講座の内容を
楽しみにしていますね^^
ところで記事の件についてですが、
今まさにこの時代と似たような状況をまた向かえている日本ですが、一度この様な失敗を
経験しているのですから、この次は
その失敗を教訓に同じ過ちを繰り返さないように
したいものですが、どうなる事でしょう。。
政治家の皆さんは、失敗から学んでいるのでしょうか・・。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今回の講座は反響が大きかったようですね!
> 是非感動の涙を誘う素晴らしい講座の内容を
> 楽しみにしていますね^^
有難うございますm(_ _)m
新年早々から更新開始ですのでご期待下さいね(^_^)v
> ところで記事の件についてですが、
> 今まさにこの時代と似たような状況をまた向かえている日本ですが、一度この様な失敗を
> 経験しているのですから、この次は
> その失敗を教訓に同じ過ちを繰り返さないように
> したいものですが、どうなる事でしょう。。
> 政治家の皆さんは、失敗から学んでいるのでしょうか・・。
ぴーちさんの不安が国民全体の不安と言って差し支えないでしょうね。
歴史に学ばない人間は、間違いなく過去と同じような失敗をしてしまいます。
その責任が本人のみならともかく、私たち国民にまで及んでしまうことは勘弁してほしいですね(´・ω・`)
黒田裕樹さん
風早 りら 海に囲まれて安全な国家
これは 私の私見ですが 海に囲まれて
いたことが かえって 災いして
諸外国の 事が理解出来ず
不平等条約まで いってしまったのだと
思えます 油断大敵のことわざ 思いだしました
瑞穂 本当に、いつ拝見させていただきましても先生の文章は読みやすくて私にとっては嬉しいです♪
大ファンですよ♪
歴史って、本当に面白いですよね~。
ここはからは持論ですが、今までの歴史って、言ってしまえば書物や伝聞によって、後世に残ってきたもの(情報?)の集成だと思うのですよ。
生き物が弱肉強食なように、歴史上に残る情報もまた然り。
様々な時系列を、このように俯瞰できる機会を持てたことは私にとってとても有意義です♪
日本史って、私が思っている以上に奥が深いんだなぁって再確認も出来ますし♪
今や日本も同じような危機に立たされていると思います。
一国民が、歴史に名を残すような偉業を達成することはとても難しいと思いますが、過去に確かに存在した、名も無き憂国の気持ちを持った祖先のように、我々に出来ることをしていけたら理想だと思います。
歴史に於いて名前は重要ですが、根本は、やはり一人一人の想いだと信じてます~。
きっと、歴史に名を残した人たちもそういう気持ちだったのだと勝手に思ってます♪
長文失礼いたしましたっ。
これからも、歴史のお話楽しみにしています♪
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 海に囲まれて安全な国家
> これは 私の私見ですが 海に囲まれて
> いたことが かえって 災いして
> 諸外国の 事が理解出来ず
> 不平等条約まで いってしまったのだと
> 思えます 油断大敵のことわざ 思いだしました
仰るとおりだと私も思います。
安全であることは、同時に無知でもあるということですからね。
国民がそうであったとしても、為政者までが一緒では困ります。
油断はいつの世も人間の道を誤らせますね。
瑞穂さんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
瑞穂さんのお考え、私もそのとおりだと思います。
史上に残る有名人だけが世の中を動かしているのではなく、当時の名もなき人々の総意が我が国ばかりでなく世界を動かしてきました。
そして同時に、名もなき人々に「出来ることをさせた」人物や出来事も存在しています。
歴史は一握りの人物のものではなく一般大衆のものであり、同時にその一般大衆を導いていくあらゆる力が歴史を動かしているんですよね。
これが歴史上の大きな流れを生んで、今日の私たちに至っている。そこがロマンでもあるわけです。
今後ともよろしくお願いします。
去る11月27日に行いました第20回「黒田裕樹の歴史講座」では、9人の皆様にご参加いただくことができました。
今年(平成22年=2010年)最後の講座となります次回(第21回)は、12月25日(土)の午後3時30分より「ご聖断下る ~昭和天皇・前篇」と題して行います。
我が国は第二次世界大戦に参戦した後、昭和20(1945)年に終戦を迎えました。戦後以来、我が国での戦争責任に関する問題が叫(さけ)ばれる中で、一部の人々が最大の責任者として昭和天皇(しょうわてんのう)の名を挙げる例が見られますが、これは本当のことなのでしょうか?
歴史的事実としては、明治憲法に基づく立憲君主制(りっけんくんしゅせい)を順守(じゅんしゅ)された昭和天皇ご自身に政治的な責任は存在しなかったと考えられます。しかし、昭和天皇は戦争に対する道義的な責任を誰よりも強く感じておられました。
だからこそ、我が国は憲法の概念を超越(ちょうえつ)した天皇陛下(てんのうへいか)のご聖断(せいだん)によって、まさにギリギリのタイミングで戦争を終わらせることができたのです。そして、その裏には陛下のお考えを理解し、一命をなげうった閣僚(かくりょう)の姿もありました。
次回の講座では、昭和天皇のご誕生からご即位による「昭和時代」の始まり、そして激動のうねりの中においても、ただただ世界の平和を祈念され、一日も早く戦争を終わらせることに生命を賭(と)して取り組まれた昭和天皇のお姿を中心に、終戦期までの大きな歴史の流れを振り返ってみたいと思います!
本当の歴史のみが与えることが許される、素晴らしい感動を皆様へ―
第21回「黒田裕樹の歴史講座」
「ご聖断下る ~昭和天皇・前篇」
日時:平成22年12月25日(土) 午後3時30分より
場所:梅田東学習ルーム
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:無料
ブログをご覧の皆様も、よろしければ是非ご参加下さい。この記事のコメント欄をご活用いただければと思います。また、今回の講座の内容については、前回までと同様に、後日にはブログ上で映像とともに発表しますので、是非ご覧になって下さい。
なお、予約の都合上、当日の教室一覧(午後)の掲示板に「大阪読書研究会」と書かれているのが「黒田裕樹の歴史講座」の会場となります。ご注意下さい。
今後の講座の開催予定は下記のとおりです。なお、来年(平成23年)2月には、東京(2月19日)と大阪(2月26日)で同じ内容の講座を行います!
第22回 「『今に見ていろ』 ~日本国憲法誕生秘話」
日時:平成23年1月22日(土) 午後3時30分より
場所: 梅田東学習ルーム
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:無料
第23回 「ご巡幸の大御心(おおみこころ) ~昭和天皇・後篇」
日時:(東京)平成23年2月19日(土) 午後3時30分より
(大阪)平成23年2月26日(土) 午後3時30分より
場所:(東京)スター貸会議室 浅草
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
(大阪)梅田東学習ルーム
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:いずれも無料(カンパを受け付けます)




いつも有難うございます。
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mochimochi 昭和天皇の戦争責任に関しては黒田先生と同意します。
ただ、現在でもすごく誤解が残っています。(天皇の戦争責任と戦争そのものについて)
国内でも誤解されていますし、海外ではとんでもない話になっています。
近い未来に全ての誤解が解け世界中の人が本当に起こった出来事を知ることを願います。
ユーチューブで見つけた物ですが最近こんなのを見ました。
http://www.youtube.com/watch?v=B0TIBmyTR1A&feature=related
もちろん外国の方は日本が日本人のためにでっち上げたと言っています。(一部の人は客観的に評価していますが)
mochimochiさんへ
黒田裕樹 > 昭和天皇の戦争責任に関しては黒田先生と同意します。
> ただ、現在でもすごく誤解が残っています。(天皇の戦争責任と戦争そのものについて)
> 国内でも誤解されていますし、海外ではとんでもない話になっています。
> 近い未来に全ての誤解が解け世界中の人が本当に起こった出来事を知ることを願います。
この時代の歴史教育の最大の欠点は、世界レベルで全体を見通すことができないことだと思います。
それもこれも、単なる一方的な歴史教育だけではなく、学校の授業で近現代史をしっかりと教えていないからだと思っております。
それだけに、今回はいつもに増して力を入れて頑張るつもりです。
> ユーチューブで見つけた物ですが最近こんなのを見ました。
> http://www.youtube.com/watch?v=B0TIBmyTR1A&feature=related
> もちろん外国の方は日本が日本人のためにでっち上げたと言っています。(一部の人は客観的に評価していますが)
ご紹介有難うございます。今一度じっくりと拝見させていただきました。
それにしても、外国人がわざわざ自国の益に反することをでっちあげるでしょうか…。
こんな時こそ、公平な目で歴史を学ばなければいけませんね。
mochimochi 黒田先生のように、歴史をしっかり研究されている方がご活躍される時ですね。
本当に世界は繋がっていると思います。
歴史も世界レベルでみられる日が近いことを願います。
mochimochiさんへ その2
黒田裕樹 > 黒田先生のように、歴史をしっかり研究されている方がご活躍される時ですね。
> 本当に世界は繋がっていると思います。
> 歴史も世界レベルでみられる日が近いことを願います。
有難うございます。
歴史を学ぶという姿勢を忘れさえしなければ、我が国と世界とのつながりを自然と認識できると思います。
sakura1956 今年最後の歴史講座ですか・・。
頑張って下さい。
確かに戦争に対する責任は
昭和天皇の名を挙げる例がありますよね。
sakura1956さんへ
黒田裕樹 > 今年最後の歴史講座ですか・・。
> 頑張って下さい。
今年最後の土曜日ですからね。
いつもより増して気合が入ります(^^ゞ
> 確かに戦争に対する責任は
> 昭和天皇の名を挙げる例がありますよね。
人によっていろんな考えがありますから、問答無用で否定するような行為は決して許されません。
しかしながら、その考えが当時の背景や常識、あるいは今なら理解できるエピソードなどを総合的に判断したうえで、同意ができないのであれば自分の意見を述べたうえで考えてもらう、ということはできるはずです。
それが次回の講座の大きな目的でもありますね。
なおまゆ 天皇は、「私」のない立場をずっと貫かれたと思います。国民のことのみを考え、自らを顧みずご聖断を下されたと思っています。
この時期の歴史に対する評価は、賛否両論がありますが、天皇という「公」のみに生きてきた人間性に対し、感動を覚えます。私だけかもしれませんが、天皇あればこそ、大きな混乱なく終戦を迎えられたと思っています。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 > 天皇は、「私」のない立場をずっと貫かれたと思います。国民のことのみを考え、自らを顧みずご聖断を下されたと思っています。
> この時期の歴史に対する評価は、賛否両論がありますが、天皇という「公」のみに生きてきた人間性に対し、感動を覚えます。私だけかもしれませんが、天皇あればこそ、大きな混乱なく終戦を迎えられたと思っています。
まさしくそのとおりだと思います。
自由な言論があるのは非常に大切なことですが、我が国の歴史の原点を見失わないようにしなければならない。
それを失えば、もはや正当な歴史とは言えません。
次回の講座でも、私なりの「昭和の歴史」を見直してみたいと思います。
米軍が恐れた水上のカミカゼ
初めまして よく水上特攻隊[震洋・丸レ]は無力だったと知ったかぶりの輩が、いい加減なことを書いていますが、
英国の戦史研究家リチャード・オネール著『特別攻撃隊』によれば、
「沖縄における特攻艇部隊の戦闘は、長くかつ苦しい沖縄戦の一部であったが、
特攻艇はある程度の成功をおさめたものと言えよう。それは沖縄防衛軍の士気を高め、
また特攻による抗戦で、長い間連合軍の戦意を喪失させる最も確実な貢献をしたからである」と述べております。
事実、連日の激しい砲爆撃の下、また主要出撃基地であった慶良間群島が最初に占領されるという蹉跌がありながらも、
海軍の震洋は、4月4日未明に中城湾にて、市川及び鈴木の両二等兵曹が搭乗して
米軍の大型歩兵揚陸艇LCI-42号[387トン]を撃沈しております。
最近出されている本にはこの事は一切無視されており、載る事はありませんが米海軍の記録による間違いない事実です。
さらにまた、陸軍海上挺進隊の戦果はずっと多く、
3月28日に設網艦テレビンスが軽微な損傷を受けたのを皮切りに、同日LCI(L)-588号が損傷。
30日に中型揚陸艦LSM-12号[520トン]が攻撃を受け4日後に沈没。
4月9日、駆逐艦チャールズ・J・バジャーが停泊中爆雷攻撃で機関室が浸水、使用不能に陥り、
戦時標準型輸送艦スターに軽微な損傷、中型揚陸艦LSM-89が損傷、駆逐艦ポーターフィールドが友軍の流れ弾丸により損傷。
15日、機雷掃海艇LCS-331号が大破。
27日、駆逐艦ハッチンズが左舷のエンジンとスクリュー軸を破損し18名が負傷し使用不能。
ロケット砲撃艇LCS(R)-37号が大破して破棄。
大型輸送船ポーズマンビクトリーに横付けされていたトラック等を搭載した上陸用舟艇LCVP数隻が沈没又は損傷。
5月4日、中城湾にて輸送船カリーナ大破。といった着実な戦果を挙げておりました。
こうした一連の水上特攻により米海軍は極度の緊張とストレスに悩まされ
「水上に浮かぶタバコの吸い殻よりも大きな物体に対しては、射撃しても差し支えなし」との指示がなされました。
小生25日に梅澤隊長とお会いできることを
心待ちにいたしております。
「初めまして」さんへ
黒田裕樹 詳しいご解説、有難うございます。
仰るとおり、どんな戦いであっても一方的に非難もしくは過小評価するのではなく、当時の考察なども総合的に判断して、客観的に見解を出すべきと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。
幕府が成立した17世紀前半の世界では、キリスト教のカトリックを信仰したヨーロッパ諸国による世界各地の植民地化が進んでおり、我が国も例外ではありませんでした。このため、幕府はカトリックを禁教にするとともに信仰する諸国との国交を断絶し、同じキリスト教でもプロテスタントであり、我が国での布教をしないと約束したオランダや、同じアジアの国同士である清国(しんこく)や李氏朝鮮(りしちょうせん)など、限られた国との間でしか貿易を行いませんでした。
制限貿易にはこうした事情があったうえに、国交断絶という強硬な手段が可能だったのは、戦国時代からまだ時間が経っておらず、全国で数十万の武士が健在という強大な武力があったからこそでした。
しかし、制限貿易を始めてから平和が長年続くうちに、我が国では武力よりも学問が重視されるとともに、制限貿易の意味が履(は)き違(ちが)えられて、諸外国との交渉を一切行わないという鎖国(さこく)が当たり前と考えられるようになってしまいました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
少し記事から反れてしまい恐縮ですが、
日本はアジア諸国との縁は昔から切っても
切れないものがあったのですね。
今でこそ、日本で流行したものを中国は
真似をしているというニュースが飛び交っていますが、昔の日本も考えてみれば、中国から
伝来したものを取り入れて(悪くいえば、
真似)発展させて来ました。どちらにも加勢する事無く、客観視してみると、日本と中国は
どっちもどっちなんだと思えて来てしまうのです。ただ最近の中国側の模倣に関しては、
著作権など金銭的なものが絡んでくるので、
そこら辺りの事を考えると、余りに露骨で
模倣は行わないほうがよいのではないかとも思いますね。まあ、何をいった所で改善してくれる
相手ではなさそうですが^^;
制度貿易の件ですが、一度制定された制度も、世の中の変化に応じて
常に見直し、検討していかなければ、時代錯誤として見なされてしまいますものね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
一度決めた制限貿易の制度を、1ミリたりとて変えることをしないという方がおかしいです。
世の中の流れは激しく動いていますから、それこそ「時代遅れ」といわれても仕方がないことになりますし、何よりも為政者として国民を守る義務があるのですから。
しかし、結果として幕府にはそれが理解できなかった。
それゆえに次回(26日)に紹介する悲劇が起きてしまうのです。
フェートン号はオランダ商館を襲って食糧などを奪(うば)うなどの乱暴(らんぼう)を働きましたが、最新鋭の設備を誇(ほこ)ったフェートン号の前に幕府も肥前藩も何ら抵抗することができず、当時の長崎奉行が責任を取って切腹するという悲劇をもたらしました。これをフェートン号事件といいます。
事件の後に幕府から叱責(しっせき)を受けた肥前藩は、汚名返上を目指して軍備を整えていきました。薩摩藩や長州藩よりもずっと前から攘夷の不可能を理解していた肥前藩だったからこそ、他の藩に先駆(さきが)けて最新鋭の武器を開発し、やがては維新の元勲として君臨するという流れがつくられたのです。
ちなみに、フェートン号事件後の肥前藩では藩士の教育にも力を注ぎましたが、その余りにも厳しい内容に反発する藩士が現れ、自由な学問を求めた彼は、明治になってから自身で学校をつくりました。
その人物こそが大隈重信(おおくましげのぶ)であり、学校は現在の早稲田大学(わせだだいがく)のことです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
日本の外国苦手意識をうまく利用されたかのような事件だったんですね(><)
しかし、イギリスもやってくれましたね(>0<)
それでもそんな事件があった事で
教育が強化されて、そこから反発するものが
現れたことで、w大が創設されることになるなんてその事件の関係、繋がりを思うと不思議です。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 日本の外国苦手意識をうまく利用されたかのような事件だったんですね(><)
> しかし、イギリスもやってくれましたね(>0<)
確かにしてやられましたね(^^ゞ
奉行の切腹という悲劇をもたらせてしまったのが残念です。
> それでもそんな事件があった事で
> 教育が強化されて、そこから反発するものが
> 現れたことで、w大が創設されることになるなんてその事件の関係、繋がりを思うと不思議です。
これぞ「歴史の流れ」ですね。
早稲田大学にまでつながっているのが凄いと思います。
なぜ肥前藩が他の雄藩と肩を並べるようになったのでしょうか。そのカラクリは、実は「最新鋭の武器」にありました。肥前藩が所有していたアームストロング砲による砲撃の威力は当時としては凄(すさ)まじいものがあり、戊辰戦争では上野の彰義隊(しょうぎたい)を一日で壊滅(かいめつ)させ、また会津藩との戦いにおいては鶴ヶ城(つるがじょう)の落城(らくじょう)に大きく貢献しました。
こうした功績が認められて、明治維新以後のいわゆる藩閥政府(はんばつせいふ)において、肥前藩は他の藩に並び称されるようになったのですが、これは最新鋭の武器をいち早く導入した、藩主である鍋島閑叟(なべしまかんそう)の指導力が功を奏(そう)したものでした。
閑叟はどうして最新鋭の武器の導入を急いだのでしょうか。その原因は、明治維新から約60年前に肥前藩が受けた「屈辱(くつじょく)」にありました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
そういえば、先日「アームストロング砲」の
お話が少しだけありましたよね!
そうですか~。肥前の国の鍋島さんの手柄だったのですね。(さん付けはおかしいでしょうか?笑)
それにしても、60年前の屈辱とは一体
どんなものだったのでしょうか。。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > そういえば、先日「アームストロング砲」の
> お話が少しだけありましたよね!
> そうですか~。肥前の国の鍋島さんの手柄だったのですね。(さん付けはおかしいでしょうか?笑)
そのとおりです。
戊辰戦争が薩長側の圧勝で終わったのも、最新鋭の武器があったればこそなんです。
まさに隠れた功績ですね。
> それにしても、60年前の屈辱とは一体
> どんなものだったのでしょうか。。
薩長がそうであったように、外国がからんでいます。
それも不意打ちで…。
次回(24日)の更新をお楽しみに!
黒田裕樹さん
風早 りら 明治維新から約60年前に肥前藩が受けた屈辱
とても 興味深いです
次回を楽しみにしています
私は今日24日は 夕方から夜間まで仕事です
楽しい 聖夜を過ごされることを 祈っています
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 明治維新から約60年前に肥前藩が受けた屈辱
> とても 興味深いです
> 次回を楽しみにしています
> 私は今日24日は 夕方から夜間まで仕事です
> 楽しい 聖夜を過ごされることを 祈っています
屈辱は人間を、ひいては藩を大きくしますね。
肥前藩もかつての屈辱をバネに歴史を大きく変えました。
今年の聖夜は明日(25日)の準備に追われています(笑)。
皆様に素敵なクリスマスプレゼントができればよいのですが。