通常の人間ならばここで諦(あきら)めるところですが、信長の柔軟な頭脳は、とてつもない発想を思いつきました。鉄でできた船は重くて沈むが、木で船をつくり、その周囲に薄い鉄を巻けば沈まないはずだ―。
こうして完成した鉄甲船(てっこうせん)は、1578年に村上水軍を散々に打ち破り、信長は大阪湾の制海権を握ることに成功しました。逆に毛利家からの補給路を断たれた石山本願寺は徐々(じょじょ)に追いつめられ、1580年についに信長に降伏しました。
さて、およそ10年にわたって戦いを続け、そのために肉親や多くの家臣を失うことになった本願寺に対して、信長はどのような態度をとったと思われますか?
石山本願寺から退去し、以後は信長に逆らわないことが条件ではあったものの、何と今後の布教は自由としているのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
なるほど!
考えましたね~^^
燃えないように「鉄」で周りを巻いて
沈まないように中心は「木製」とは!
私以前、鉄筋コンクリート製の建物って
どうしてあんなに錆びずに長年崩壊しないで
建っていられるのかと思っていたんですが、
錆びた鉄の周りにコンクリートのアルカリ性を
囲む事で、鉄がそれ以上錆びずにいられる
という話を聞いて、よくもまあ、考えるものだなと関心したものでしたが、
信長が既にそういう技術を考案できたというのは
素晴らしいですね!
たとえ、中の木が「シロアリ」の餌食になったとしても、より軽く浮くから大丈夫
だった・・という事かしらw(いらぬ心配を
してしまいまして、すみません^^;)
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > なるほど!
> 考えましたね~^^
> 燃えないように「鉄」で周りを巻いて
> 沈まないように中心は「木製」とは!
そうなんです。
こんな発想は、船乗りではない信長だからこそ思いついたんでしょうね。
プロであればあるほど、身についた固定観念が頭から離れないものですから。
> 私以前、鉄筋コンクリート製の建物って
> どうしてあんなに錆びずに長年崩壊しないで
> 建っていられるのかと思っていたんですが、
> 錆びた鉄の周りにコンクリートのアルカリ性を
> 囲む事で、鉄がそれ以上錆びずにいられる
> という話を聞いて、よくもまあ、考えるものだなと関心したものでしたが、
> 信長が既にそういう技術を考案できたというのは
> 素晴らしいですね!
なるほど、そういうカラクリがあったんですか。
この当時に酸性やアルカリ性という考えがあったかどうかは分かりませんが、天性の才能が信長の発想を生み出したとしか考えられないですよね。
> たとえ、中の木が「シロアリ」の餌食になったとしても、より軽く浮くから大丈夫
> だった・・という事かしらw(いらぬ心配を
> してしまいまして、すみません^^;)
鉄甲船は村上水軍との戦い専用に使われたようで、その後の話は私も聞いたことがありません。
おそらくは「使い捨て」だったと思われますが、巨大な船に鉄板を巻いたわけですから、莫大な費用がかかっていたはずです。
信長のように豊富な資金力がないと造れないでしょうね。
黒田先生
風早 りら 鉄甲船の考え
凄いですね
斬新です
信長は本当に柔軟な 頭を持っていたのですね
やはり 彼は素敵です
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 鉄甲船の考え
> 凄いですね
> 斬新です
> 信長は本当に柔軟な 頭を持っていたのですね
> やはり 彼は素敵です
本当にそうですよね。
常人では考えもつかない発想を思いつき、しかもそれを実行する力。
信長の人気の高さの証明ですね。
ちなみに、カトリックの宣教師から地球が丸いことを知らされた信長は、すぐにそれを理解したそうです。16世紀の日本人とはとても思えない、信長の柔軟な発想力がうかがえるエピソードですね。
さて、比叡山は焼討ちで抑えたものの、一向一揆と信長との戦いはなかなか決着がつきませんでした。総本山といえる大坂の石山本願寺(いしやまほんがんじ)が、城並みの防御力を誇っていたばかりでなく、毛利家(もうりけ)が村上水軍(むらかみすいぐん)によって海路で兵糧(ひょうろう)や武器弾薬を運び続けていたからでした。
信長は石山本願寺への輸送を断つため、1576年に村上水軍と戦いましたが、強力な火器(かき)を持つ村上水軍によって、信長軍の船は次々に炎上し、惨敗してしまいました。このままではいつまで経っても石山本願寺を落とすことができません。どうすれば村上水軍に勝てるのでしょうか?
ここでも信長は、その天才ぶりを遺憾(いかん)なく発揮するのです。




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風早 りら こ時代 地球が丸い ことが
理解出来た 信長は やはり 凄いと
思いました
名高い 村上水軍との戦い
明日を 楽しみに していますね
ぴーち こんばんは!
確かに地球が丸い言う事をすぐに理解した
柔軟性は素晴らしいとは思います。
しかし、仏教は元々優れた教えなはずです。
後にその教えを広めた人間の悪行によって
その本質である仏教までもが憎まれてしまうと言うことは非常に遺憾な事だと思いました。
「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」
宗教勢力が憎いと仏教まで憎むというのは
短絡的過ぎるようにも思います。
しかしながら、信長の激情型の性格なら、有り得るかも知れません・・・
やはりそういう面では、信長も人の子で
あったのかも知れませんね。
応援凸
風早りらさんへ
黒田裕樹 > この時代 地球が丸い ことが
> 理解出来た 信長は やはり 凄いと
> 思いました
> 名高い 村上水軍との戦い
> 明日を 楽しみに していますね
そうですよね。地球が丸いことをたちどころに理解できるほど柔軟な頭脳だったからこそ、村上水軍との戦いで「大逆転」が可能になったということにつながります。やはり信長はただ者ではありません。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確かに地球が丸い言う事をすぐに理解した
> 柔軟性は素晴らしいとは思います。
> しかし、仏教は元々優れた教えなはずです。
> 後にその教えを広めた人間の悪行によって
> その本質である仏教までもが憎まれてしまうと言うことは非常に遺憾な事だと思いました。
> 「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」
> 宗教勢力が憎いと仏教まで憎むというのは
> 短絡的過ぎるようにも思います。
仰るとおりだと思います。ただ、信長は自分に刃向うことなく、本来の信仰の道のみを求めた宗教団体に対してはこれを許していたという事実もあります。
この当時の宗教勢力が圧力団体と化して、庶民を苦しめていたことや、信長の身内や家臣が次々と殺されていった恨みが、仏教に対する嫌悪感につながったと考えられるのです。と同時に、そこまでの仕打ちを受けながら、信長がよくぞ許したなという思いもありますね。
> しかしながら、信長の激情型の性格なら、有り得るかも知れません・・・
> やはりそういう面では、信長も人の子で
> あったのかも知れませんね。
そこなんですよね。
激情型の性格は、この後悪い方向へと信長を導いていくことになってしまいます…。
一方、平山城であれば城の周囲に大きな堀を設けたり、あるいは城自身を高く設計したりすることで、射程距離にかからないようにすることが可能になりますし、さらに城に立てこもれば、内部へと迫ってくる敵を鉄砲で狙い撃ちすることもできます。
しかも、山城に比べて交通の便が良い平山城であれば、城下町をさらに大きく広げることができて、経済はますます活性化します。そして、経済が発達して収入を増やすことができれば、さらに大きくて頑丈な城を建てることができます。
1577年、信長は安土に楽市令(らくいちれい)を出して商人の自由な経済活動を支えたことで、多くの商人が集まり、その財力は信長にとって、兵力に勝るとも劣らない大きな武器となったのでした。




いつも有難うございます。
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mochimochi お城と城下町について質問があります。
中国ではお城の中に(正確には壁の中に)人々が住んで、買い物とか生活をしていたと聞きました。
日本ではどうなのですか?
大阪城はとても広い堀をめぐらせていたと聞いたことがありますが。。。
mochimochiさんへ
黒田裕樹 > お城と城下町について質問があります。
> 中国ではお城の中に(正確には壁の中に)人々が住んで、買い物とか生活をしていたと聞きました。
> 日本ではどうなのですか?
> 大阪城はとても広い堀をめぐらせていたと聞いたことがありますが。。。
中国の場合、町そのものが巨大な城壁で覆われていて、一般市民はその中で暮らしていました。
これは、外敵から市民を守ると同時に、市民が他の町から出ないように監視する目的もありました。
一方、我が国の場合は、市民は城の外で自由に往来ができました。
それだけ我が国の治安が中国に比べて安全だったということでもありますね。
ちなみに、大阪城の深い堀は他の勢力からの防衛が主な目的であり、市民の避難のためというわけではありませんでした。
ぴーち こんばんは!
やはりそうでしたか^^
昨日は上手く説明が出来ませんでしたが、
私も今日の記事のように、鉄砲が果たした役割は
そんな感じかなと想像していました。さすが黒田さんのご説明はいつも判り易くて助かります。
経済力は兵力にも勝るとも劣らない。。
そう考えると今の日本の経済力は次第に世界から後退傾向にあるし、兵力も足りないので
これからはもっと厳しいですよね(^^A
どげんかせんといかん。。。です。。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > やはりそうでしたか^^
> 昨日は上手く説明が出来ませんでしたが、
> 私も今日の記事のように、鉄砲が果たした役割は
> そんな感じかなと想像していました。さすが黒田さんのご説明はいつも判り易くて助かります。
有難うございます。
鉄砲の役割は、仰るとおり我が国の歴史を大きく変えるものだったんですよね。
> 経済力は兵力にも勝るとも劣らない。。
> そう考えると今の日本の経済力は次第に世界から後退傾向にあるし、兵力も足りないので
> これからはもっと厳しいですよね(^^A
> どげんかせんといかん。。。です。。
我が国は人々の叡智と実行力を結集した経済力が売り物でしたが、最近では「ゆとり教育」の悪影響で肝心の人材育成がおろそかになっていますからね…。
国力回復につながる経済回復には、漢方薬のようにジワリと効果がある人材育成もしっかりする必要がありますね。
黒田先生
風早 りら 山城と平山城との利便性の違いが
よく理解出来ました
今まで その違いが 疑問でした
また 一つ 新しい発見をした思いです
有難う御座います
最近 体調がすぐれず PCを開いて
いませんでした
また 講座を受けさせて頂き
元気が出そうです
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 山城と平山城との利便性の違いが
> よく理解出来ました
> 今まで その違いが 疑問でした
> また 一つ 新しい発見をした思いです
> 有難う御座います
> 最近 体調がすぐれず PCを開いて
> いませんでした
> また 講座を受けさせて頂き
> 元気が出そうです
お言葉有難うございます。
りらさんのコメントに、こちらも元気をいただいております。
城の建築方法の変化にも、しっかりと歴史の流れが存在しているんですよね。
mochimochi お返事ありがとうございます。
日本は昔から治安がある程度保たれていたのですね。
もう一つ質問があります。
(自分で勉強すれば良いことなのですがすみません。)
最近三国志を漫画で読みました。
内容が難しくてほとんど理解してませんが、中国の人は星とかの勉強をされていたみたいですよね?
星とか星座を観察して戦略とか予測を立てていた様な感じがします。
その点日本ではそのような学問はあまり発展してなかった様な気がします。あまり盛んじゃなかったのですか?
mochimochiさんへ
黒田裕樹 > お返事ありがとうございます。
> 日本は昔から治安がある程度保たれていたのですね。
そのとおりです。絶えず侵略者が現れる危機にさらされるのと、周りを海で囲まれて安全な環境。中国大陸と私たちとの地理的な違いもありますね。
> もう一つ質問があります。
> (自分で勉強すれば良いことなのですがすみません。)
> 最近三国志を漫画で読みました。
> 内容が難しくてほとんど理解してませんが、中国の人は星とかの勉強をされていたみたいですよね?
> 星とか星座を観察して戦略とか予測を立てていた様な感じがします。
> その点日本ではそのような学問はあまり発展してなかった様な気がします。あまり盛んじゃなかったのですか?
そうですね。私も詳しくは存じ上げているわけではないですが、我が国では陰陽道(おんみょうどう)のような独自の発展をとげたところが、中国と異なるのではないかと思います。
去る10月23日に行いました第19回「黒田裕樹の歴史講座」では、13人の皆様にご参加いただくことができました。
次回の歴史講座は第20回の節目となりますが、11月27日(土)の午後6時より「幕末百景 ~それぞれの立場の幕末史」と題して行います(通常より開始時間が遅くなっております。ご注意下さい)。
今年(平成22年)の大河ドラマ「龍馬伝(りょうまでん)」によって幕末(ばくまつ)がブームになっておりますが、通常の幕末史といえば、坂本龍馬(さかもとりょうま)や西郷隆盛(さいごうたかもり)、あるいは桂小五郎(かつらこごろう)のような有名な人物を中心としたエピソードが多いのが現実です。
そこで、次回(第20回)の講座では、倒幕(とうばく)や明治維新(めいじいしん)の立役者となった、いわゆる薩長土肥(さっちょうとひ)の4つの藩に江戸幕府を加えたそれぞれの幕末期における歴史を検証し、横並びに分かりやすくまとめてみたいと思います!
第20回「黒田裕樹の歴史講座」
「幕末百景 ~それぞれの立場の幕末史」
日時:平成22年11月27日(土) 午後6時より
(※通常より開始時間が遅くなっております。ご注意下さい)
場所:梅田東学習ルーム
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:無料
ブログをご覧の皆様も、よろしければ是非ご参加下さい。この記事のコメント欄をご活用いただければと思います。また、今回の講座の内容については、前回までと同様に、後日にはブログ上で映像とともに発表しますので、是非ご覧になって下さい。
なお、予約の都合上、当日の教室一覧(夜間)の掲示板に「大阪読書研究会」と書かれているのが「黒田裕樹の歴史講座」の会場となります。ご注意下さい。
今後の講座の開催予定は下記のとおりです。
第21回 「ご聖断下る ~昭和天皇・前篇」
日時:平成22年12月25日(土) 午後3時30分より
場所:梅田東学習ルーム
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:無料
【速報】平成23年2月19日(土)の歴史講座は3回目の東京講演となります!
(※詳細は後日改めてお知らせします)




いつも有難うございます。
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佐佐木あつし 「幕末百景 ~それぞれの立場の幕末史」。
おもしろそうだなぁ!!(≧∇≦)b
それを東京でやってほしかった・・(笑)
幕末は何年か周期でブームが来ますよね。
歴史に学べ的に時代がもめ出すと
はやるのでしょうか?
今、何気に僕のデジタルプロジェクトで
先生の記事を●●●して□□□するという
勝手にアイデアを出しております(笑)
まとまったら、ご連絡いたしますので
よろしくお願いいたします。
佐佐木あつしさんへ
黒田裕樹 > 「幕末百景 ~それぞれの立場の幕末史」。
> おもしろそうだなぁ!!(≧∇≦)b
> それを東京でやってほしかった・・(笑)
どうもすみませんm(_ _)m
東京講座には、今回に負けず劣らずの内容を検討中ですよ(^^♪
> 幕末は何年か周期でブームが来ますよね。
> 歴史に学べ的に時代がもめ出すと
> はやるのでしょうか?
幕末は乱世の極致ですからね。
見習うべきところが多いのかもしれません。
> 今、何気に僕のデジタルプロジェクトで
> 先生の記事を●●●して□□□するという
> 勝手にアイデアを出しております(笑)
> まとまったら、ご連絡いたしますので
> よろしくお願いいたします。
先生にアイディアを出していただけるなんて光栄です(^o^)/
こちらこそよろしくお願いいたします。
これが有名な長篠合戦(ながしのかっせん)です。この戦いで多くの精鋭を失った武田家は没落の一途(いっと)をたどり、1582年旧暦3月に信長によって滅ぼされてしまいました。
武田家を破った信長は、1576年から近江の安土(あづち)に五層七重(ごそうしちじゅう)の壮大な安土城(あづちじょう)を築(きず)き始めました。1579年に城が完成すると、信長はそれまでの居城であった岐阜城を長男の織田信忠(おだのぶただ)に譲って安土城へと移動しました。
ところで、新たにつくられた安土城は、それまでの築城の常識を大きく変えるものでもありました。なぜなら、従来の城は攻められにくいように山の頂上に建てるのが普通だったからです(これを山城=やまじろ、といいます)。しかし、安土城はそれほど高くない山に建てられていました(平山城=ひらやまじろ、といいます)。
なぜこの時期に城の建築方法が大きく変化したのでしょうか?




いつも有難うございます。
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そうめん お久しぶりです。。。
テストがあったもので(^^;)
静岡県西部は遠江といったんですか・・。
参考になりました(^^;)
長篠合戦といえば鉄砲隊がやっぱり有名ですよね。
ぴーち こんばんは!
織田家は、現代にもその名を受け継ぐ子孫がいますが、家が断絶しなかっただけでも、救いだったのではないでしょうか。
武田家は滅びたとありましたが、断絶してしまったのでしょうか。
平山城の件ですが、銃の影響・・?でしょうか。。
応援凸
そうめんさんへ
黒田裕樹 > お久しぶりです。。。
> テストがあったもので(^^;)
テストは重要ですからね。
お疲れ様でした。
> 静岡県西部は遠江といったんですか・・。
> 参考になりました(^^;)
昔の国の名前と現在の都道府県とは、これからの学習だけでなく、普段の生活でも頻繁(ひんぱん)にリンクしますからね。覚えていて損はないですよ。
> 長篠合戦といえば鉄砲隊がやっぱり有名ですよね。
そうですね。長篠合戦の経緯や結果が、我が国の戦争の方法を明らかに変えました。
その意味においても、非常に重要な戦いだったと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 織田家は、現代にもその名を受け継ぐ子孫がいますが、家が断絶しなかっただけでも、救いだったのではないでしょうか。
> 武田家は滅びたとありましたが、断絶してしまったのでしょうか。
織田家の子孫については、信成さんがオリンピックに出場して一気に知名度を上げましたね。
ちなみに私の大学の後輩です(^^ゞ
武田家は、信玄の二男などの子孫が滅亡を免れて、現在に血統を残しています。
> 平山城の件ですが、銃の影響・・?でしょうか。。
鋭いですね(^^♪
明日(28日)をお楽しみに!
しかし、信玄が亡くなったことで義昭の野望は夢と終わり、信長に攻められて降伏せざるを得ませんでした。義昭はこの後もう一度挙兵しますが再び敗れ、1573年旧暦7月に義昭は信長によって京を追われたことで、240年近く続いた足利氏による室町幕府は滅亡しました。
義昭を追放した信長は、返す刀で朝倉義景や浅井長政を次々と滅ぼし、越前から北近江にかけて領地を拡大することに成功すると、翌1574年には伊勢長島の一向一揆を、女性や子供に至るまで皆殺しにして、さらに1575年には越前の一向一揆も滅ぼしました。
信長の一向一揆に対する酷(むご)い仕打ちは、いかに弟や家臣たちの復讐のためとはいえ、比叡山延暦寺の焼き討ちとともにその残虐性(ざんぎゃくせい)が問題視されることが多いですが、いずれも先に手を出したのは宗教勢力の方であり、また一向一揆は女性や子供までが武器を持って戦っていたという現実を考えれば、信長の行為はやむを得ないと判断すべきかもしれません。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
そうだったんですか。
残虐性が際立ってしまい、事の真実がその陰になって現代に伝えられてしまっていることはとても残念ですね。
独裁者でも、凶悪犯罪者でも
やはりそういう手段を取らずにはいられなかった
理由というのものが必ず潜んでいるものですね。
結果だけを見ずに、その背景や、経緯なども合わせてその人物を多角面、総合的にみていかなければいけない訳ですね。
黒田さんからこういうお話を伺わなかったら、
私は一生信長の真意を知らずに終ってしまったかもしれないと思うと、本当にありがたく思いますm(__)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、信長の残虐性にはちゃんとした理由があるんですよね。
大事な弟や多くの家臣を失った信長の怒りは凄まじいものがあったことでしょうし、この時代の倫理観は現代とは全く異なりますからね。
現代の価値観で当時の歴史を振り返る危険性。今回の信長がまさに典型的な事例になりますね。
包囲網が連携(れんけい)することを防いだ信長は、1571年旧暦9月12日に、信長に抵抗を続けた比叡山の焼き討(う)ちを敢行しました。長い歴史を誇った延暦寺は業火(ごうか)に焼かれ、逃げまどう多くの僧侶(そうりょ)のみならず、女人禁制(にょにんきんせい)のはずなのになぜか存在した女性や、あるいは子供までもが容赦(ようしゃ)なく首をはねられました。
比叡山の延暦寺は信長に敵対する宗教勢力としては滅亡しましたが、一向一揆の軍勢は相変わらず信長を苦しめ続けました。そして1572年になると、信長が最も恐れていた甲斐(かい、現在の山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)が将軍義昭の誘いに応じ、上洛を目指して動き始めました。
信玄は三方ヶ原(みかたがはら)の戦いで徳川家康と信長の連合軍を苦も無く蹴散(けち)らすと、不気味な足音とともに京を目指して進軍を続けました。信玄に京へ攻められては、信長とて勝ち目はありません。信長の運命はまさしく風前の灯(ともしび)となった―はずでした。
しかし、天は信長に味方しました。上洛の途中で信玄は病に倒れ、ついに帰らぬ人となってしまったのです。




いつも有難うございます。
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風早 りら 上洛の途中で信玄は病に倒れついに帰らぬ人となってしまったのです
ここでもまた信長は 天を味方に
付けてしまいましたね
彼のファンとしては 嬉しい限りです
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 上洛の途中で信玄は病に倒れついに帰らぬ人となってしまったのです
> ここでもまた信長は 天を味方に
> 付けてしまいましたね
> 彼のファンとしては 嬉しい限りです
人間の生死についてはあまり喜んではいけないのですが、この場合は信長はまさに「天が我に味方した」と思ったことでしょうね。
信玄はその死を隠していたとされていますが、信長はおそらく巧みな情報能力で知っていたと思われます。
ぴーち こんばんは!
女人禁制のはずなのに、何故か存在した女性・・の所で思わず苦笑してしまいました(不謹慎ですが^^;)
悪い事は出来ませんね(^^A
それにしても一番の宿敵だった信玄が
戦わずして病に倒れ、亡くなってしまったのは思わぬ「不戦勝」で、
この時までは信長にも分があったんですね!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 女人禁制のはずなのに、何故か存在した女性・・の所で思わず苦笑してしまいました(不謹慎ですが^^;)
> 悪い事は出来ませんね(^^A
そうなんですよね。
この頃の比叡山は宗教団体としてはどうだったのでしょうか…。
> それにしても一番の宿敵だった信玄が
> 戦わずして病に倒れ、亡くなってしまったのは思わぬ「不戦勝」で、
> この時までは信長にも分があったんですね!
人間の生死はいろんなところに影響を及ぼしますよね。
この場合は信長にとっては幸運でした。そして、不運だったのは…。
紗那 天下人と呼ばれるような人は、自分の能力として、いわば「運力」とでも言うような力を持っていたのではないかと思うようなときがあります。
この信玄の上洛中の死もタイミングがよすぎると感じますし
紗那さんへ
黒田裕樹 > 天下人と呼ばれるような人は、自分の能力として、いわば「運力」とでも言うような力を持っていたのではないかと思うようなときがあります。
> この信玄の上洛中の死もタイミングがよすぎると感じますし
仰るような一面は、天下人には確かにありますね。
「運を味方につける」あるいは「運も実力のうち」といいますが、他人より秀でる人間は、幸運の星のもとに生まれてくることが多いようです。
もっとも、信長のように最後の最後で大きなツケを払わさせるパターンもあるようですが…。
こうして信長が京に釘付けになっている間に、本願寺が率いる伊勢長島(いせながしま、現在の三重県桑名市付近)の一向一揆(いっこういっき)の動きが活発になり、伊勢の長島城や尾張の小木江城(こきえじょう)を次々と落としました。
特に尾張の小木江城は信長の弟が守っていたのですが、最後には自害に追い込まれてしまいました。京を動けぬ信長は、可愛い弟が一向一揆によって滅ぼされていくのを、指をくわえて見ていることしかできなかったのです。
宗教勢力によるこれらの無情な仕打ちに対して、信長は内心で怒り狂いながらも、じっと耐え続けました。そうこうしているうちに1570年も年末になると、朝廷と足利義昭によって和睦(わぼく)が成立して、信長はやっとの思いで岐阜に戻ることができました。
講和が成立した背景には、兵農分離していない朝倉軍の都合もありました。雪深い越前は真冬になると身動きが取れなくなるので、来春の農作業を確実に行わせるためにも帰国を急いでいたからです。こんなところにも信長との差がありました。




いつも有難うございます。
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風早 りら 信長の地の利を活かした
今まで作戦が 実を結んだわけですよね
信長の弟のことは 知りませんでした
信長ファンの友達に言いますね
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 信長の地の利を活かした
> 今まで作戦が 実を結んだわけですよね
> 信長の弟のことは 知りませんでした
> 信長ファンの友達に言いますね
ピンチの中にもチャンスあり、といいますからね。
それにしても大事な弟まで奪われて、宗教勢力への信長の恨みは相当なものだったことでしょう。
いずれその怒りが爆発する日がやってきます。
ぴーち こんばんは!
自分が動きが取れないうちに、大切な身内が追い込まれ、結果的に自害させられたという事は、信長にとってはさぞ身を切られる思いだった事でしょう。
地方によって気候による不便さが生じるので、
やはり全国全土が同じ条件で兵農分離されたわけではないのですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 自分が動きが取れないうちに、大切な身内が追い込まれ、結果的に自害させられたという事は、信長にとってはさぞ身を切られる思いだった事でしょう。
助けに行きたくても行くことができない。
仰るとおり、非常につらかったと思います…。
> 地方によって気候による不便さが生じるので、
> やはり全国全土が同じ条件で兵農分離されたわけではないのですね。
冬の間に身動きができないというのはやはり大きなハンデですね。
越前の城下町である一乗谷も規模が小さかった分、成長に限界がありましたし。
楽市楽座によって商売の自由が認められた信長の支配地では、多くの人口を頼りに各地の商人がこぞって集まり、大変なにぎわいを見せました。その結果、信長の領内は他の大名や宗教勢力などのそれに比べて、低い税率であっても自然と収入が増加していったのです。ちなみに一般的な高校の教科書では、後の安土(あづち)における楽市令(らくいちれい)が有名です。
しかし、信長によるこれらの斬新な政策は、それまでの関所や座による莫大(ばくだい)な収入を「権益」として頼りにしていた宗教勢力などにとっては、目障(めざわ)りな商売敵(しょうばいがたき)でしかありませんでした。
一方の信長からしてみれば、宗教勢力は本来の布教活動の精神を忘れ、自分の都合だけで庶民の迷惑を顧(かえり)みずに権益にしがみついているようにしか見えなかったのです。自己の武力を背景に勢力を拡大した信長は、やがて宗教勢力に対して権益の放棄(ほうき)と武装解除を、信長軍による防衛を条件に迫りましたが、それこそ「眠っていても儲(もう)かる」権益を宗教勢力がそう簡単に手放すはずがありませんでした。
信長と宗教勢力との衝突は、いわば時間の問題であり、そして信長にとって最悪のタイミングで起きてしまったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
そうでした!!
「楽市楽座」でしたね(^^A
以前の記憶が蘇りました!
復習の大切を改めて感じました。
ありがとうございますm(__)m
宗教勢力は「北風」
信長の方針は「太陽」
ここまではまるで「北風と太陽」のような展開ですね^^
応援凸
黒田先生
風早 りら 信長によるこれらの斬新な政策
今の政府に見習ってもらいたいです
増税か無謀な国債発行
もう この講座を国会議員に見せたいです
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > そうでした!!
> 「楽市楽座」でしたね(^^A
> 以前の記憶が蘇りました!
> 復習の大切を改めて感じました。
> ありがとうございますm(__)m
それは良かったです。
今回の講座もぜひ復習して下さいね(^^♪
> 宗教勢力は「北風」
> 信長の方針は「太陽」
> ここまではまるで「北風と太陽」のような展開ですね^^
言われてみればそうですね。
ただ、その北風がこれから信長自身に対して激しく吹きすさぶことになるんです…(´・ω・`)
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 信長によるこれらの斬新な政策
> 今の政府に見習ってもらいたいです
> 増税か無謀な国債発行
> もう この講座を国会議員に見せたいです
確かに自身の倹約をすることなく、国民に負担ばかり強いる政府の行動にはうんざりですね。
歴史を知らない政治家が多すぎるようです。
後の世に「金ヶ崎の戦い」と呼ばれた負け戦(いくさ)の屈辱(くつじょく)を味わった信長は、浅井・朝倉の両氏を深く恨むようになりました。やがて信長は同盟相手の徳川家康とともに、同年6月に姉川(あねがわ)の戦いで浅井・朝倉の連合軍を破りましたが、両氏に止(とど)めをさすことはできませんでした。
息を吹き返した浅井・朝倉の軍勢は京を目指しましたが、信長に阻(はば)まれると比叡山(ひえいざん)に立てこもって反撃の機会を待ちました。浅井・朝倉軍を匿(かくま)ったということは、比叡山の延暦寺(えんりゃくじ)が信長を敵とみなしたことを意味しており、信長はここでも衝撃を受けました。
さらに信長を悩ませたのが、いわゆる三好三人衆(みよしさんにんしゅう)といわれた三好氏の勢力が摂津(せっつ、ここでは現在の大阪市付近のこと)で挙兵すると、本願寺(ほんがんじ)が三人衆に味方したという事実でした。つまり、信長は戦国大名の他に延暦寺や本願寺といった強大な宗教勢力をも敵に回して戦わなければならなくなったのです。
それにしても、なぜ信長は宗教勢力から「仏敵(ぶってき)」とみなされたのでしょうか。実は、その理由には大きな「権益」がありました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
う~ん・・・権益の理由ですか・・・。
今、「挙手」の片手だけでは足りずに
「ホールドアップ」の両手上げ姿勢です(笑)
すみません(汗)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > う~ん・・・権益の理由ですか・・・。
> 今、「挙手」の片手だけでは足りずに
> 「ホールドアップ」の両手上げ姿勢です(笑)
> すみません(汗)
そうですか(^^ゞ
それでは、挙げた両手の手のひらを垂直にして「万歳!」の姿勢になれますよう、次回(23日)にはご理解いただけることを期待しております(^^♪
黒田先生
風早 りら 浅井家の信長への
裏切りは 私としては とても残念です
朝倉との兼ね合いもあったでしょうが
先生が 先日の講座で 仰っていたように
信長の心は相当傷つき
その後の彼の非業の死へと
繋がっていったと思います
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 浅井家の信長への
> 裏切りは 私としては とても残念です
> 朝倉との兼ね合いもあったでしょうが
> 先生が 先日の講座で 仰っていたように
> 信長の心は相当傷つき
> その後の彼の非業の死へと
> 繋がっていったと思います
そうなんですよね。
浅井家には浅井家の事情があったのでしょうが、この裏切りが世の中の流れを悪しき方へと導いた気がしてなりません。
人間の信頼を失うというのは本当に恐ろしいですね。