分国法はそれまでの幕府や守護によって定められた法を継承(けいしょう)したほか、家の慣習法を成文化したものが多く、また私闘(しとう)を行った当事者の双方を処罰(しょばつ)してすべての紛争(ふんそう)を大名による裁定に委(ゆだ)ねるとした喧嘩両成敗法(けんかりょうせいばいほう)によって、家臣団の統制の強化を目指しました。
有名な分国法としては、朝倉氏の朝倉敏景十七箇条(あさくらとしかげじゅうしちかじょう)や武田氏の甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)、今川氏の今川仮名目録(いまがわかなもくろく)、伊達氏の塵芥集(じんかいしゅう)などがあります。
また、戦国大名は新たに獲得(かくとく)した領地に対してしばしば検地(けんち)を行いましたが、この検地は家臣である領主などに耕地の面積や収入額などを自己申告させるもので、指出検地(さしだしけんち)と呼ばれています。
検地によって農民の耕作面積や年貢量などが検地帳(けんちちょう)に登録され、戦国大名が農民の耕作権を保障する代わりに農民に対する直接支配を強化するとともに、荘園制度の根幹(こんかん)であった名田(みょうでん)の解体が進む結果をもたらしました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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オバrev 検地は、秀吉が最初ではなかったんですね。初耳です。
戦国時代は、戦争ばかりではなく、大きな時代変化に各地区の大名は工夫をこらしていたんですねぇ。
ところで秀吉と言えばもう一つ、刀狩りをしましたが、これは秀吉のオリジナルのような気がしますが、どうでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 検地は、秀吉が最初ではなかったんですね。初耳です。
検地そのものは戦国時代から行われていました。ただ、この頃は農民たちの「自己申告制」による検地だったので、極端な言い方をすればいくらでも「ごまかし」が可能でした。秀吉のように実地検分で行うようにするためには、それこそ天下を統一しようかとするだけの強大な武力が背景になければ、戦国の世では生命がいくつあっても足りないという状況もあったのです。
> 戦国時代は、戦争ばかりではなく、大きな時代変化に各地区の大名は工夫をこらしていたんですねぇ。
> ところで秀吉と言えばもう一つ、刀狩りをしましたが、これは秀吉のオリジナルのような気がしますが、どうでしょうか?
刀狩そのものは、柴田勝家が先に行ったという説もあるようですね。
サクラ あ、自己申告制だったんですね!
なんか、現代と同じですね。
さすがに怪しければ、
太閤検地の画期的だった理由が解かりました。
サクラさんへ
黒田裕樹 > あ、自己申告制だったんですね!
> なんか、現代と同じですね。
> さすがに怪しければ、
> 太閤検地の画期的だった理由が解かりました。
そのとおりです。実地検分をするのとしないのとでは天と地ほどの差がありますからね。
この当時は誰しもが武力を持っていましたし、ましてや農民の集団一揆の可能性もありましたから、実地検分をしたくても生命の危険があってできませんでした。
秀吉のように強大な武力を背景にしなければ不可能だったのです。
黒田裕樹さん
風早 りら 検地はこの頃から行われるようになったのですね
農民は 厳しい規則になったとも言えますよね
農民に対する直接支配ですものね
この頃 の農民の方々の ご苦労
大変だったことでしょう
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 検地はこの頃から行われるようになったのですね
> 農民は 厳しい規則になったとも言えますよね
> 農民に対する直接支配ですものね
> この頃 の農民の方々の ご苦労
> 大変だったことでしょう
領地内の生産力を上げるために、農民への負担を増やしたことは十分考えられます。
ただ、この頃の見地は自主申告だったために「ごまかし」も可能な制度でした。
その分、農民がしたたかに生きていけた時代であったとも言えるでしょう。
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