例えば、日親が第6代将軍の足利義教(あしかがよしのり)の前で説法(せっぽう)した際には、激怒(げきど)した義教に煮えたぎった熱い鍋(なべ)を頭からかぶせられたという伝説が残っています。
京都の商工業者を中心に支持を受けた日蓮宗は、他の宗派と激しく勢力争いをするようになりました。1532年には法華一揆(ほっけいっき)を結んで一向一揆と対決し、山科(やましな)の本願寺を滅(ほろ)ぼして町政を自治的に運営しました。
しかし、その自治は長くは続かす、1536年に比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)と衝突(しょうとつ)すると、今度は逆に京都を追われてしまいました。この戦いを天文法華の乱(てんぶんほっけのらん)といいますが、焼打(やきう)ちされた京都の被害は応仁の乱をも上回るものであったと伝えられています。
ちなみに、法華一揆の際に山科を追われた本願寺は本拠地(ほんきょち)を大坂(おおさか、現在の大阪)の石山に移しましたが、法華一揆の反省から防御力(ぼうぎょりょく)を高めた石山本願寺(いしやまほんがんじ)は城のような堅固(けんご)な要塞(ようさい)と化し、戦国大名と並(なら)ぶ大きな勢力を築(きず)き上げることになります。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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サクラ 宗教戦争なんて飛鳥時代以降ないものと思っていましたが、まんざらでもなかったんですね。
しかも、同じ仏教同士という――。
儒教も何も一緒くたにしようとしていた時代に――不思議です。
TSUNE お久しぶりです!
またブログを変えて再開しようと思います。
高2の男子です!
僕は文系で日本史を選択しているのでとてもためになります!
これからもがんばってください!
ぴーち こんばんは!
日蓮宗は仰るとおり、他の宗派を徹底排除するような攻撃性を持ち合わせていますよね。
けれど、それは絶対的な自信の現れでもあったのではないでしょうか。
けれど、誰しも自分の信じる宗教を頭ごなしに否定されれば、面白く思わないのは当然です。
人の気持ちを配慮した布教活動が存在していたら、また違った結果が生じていたのかも知れません。
けれど、人の業は深いもので、生半可な気持ちでは救われないという宗教理念もあって当然なのかも知れませんが。
応援凸
サクラさんへ
黒田裕樹 > 宗教戦争なんて飛鳥時代以降ないものと思っていましたが、まんざらでもなかったんですね。
> しかも、同じ仏教同士という――。
> 儒教も何も一緒くたにしようとしていた時代に――不思議です。
飛鳥時代は崇仏派(蘇我氏)と廃仏派(物部氏)の戦争ですね。この場合は仏教を受け入れるか否かの戦いだったわけですが、今回の場合は純粋な宗教戦争というよりも、もっと別の目的があったと考えるべきではと思っております。
以前の講座(第12回など)でも紹介しておりますが、次回(11日)に改めて考察してみますので、ぜひお越し下さい。
TSUNEさんへ
黒田裕樹 > お久しぶりです!
> またブログを変えて再開しようと思います。
> 高2の男子です!
> 僕は文系で日本史を選択しているのでとてもためになります!
> これからもがんばってください!
復活おめでとうございます!
当ブログがお役に立てて、こちらもうれしい限りです。
改めてよろしくお願いしますね(^_^)v
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 日蓮宗は仰るとおり、他の宗派を徹底排除するような攻撃性を持ち合わせていますよね。
> けれど、それは絶対的な自信の現れでもあったのではないでしょうか。
> けれど、誰しも自分の信じる宗教を頭ごなしに否定されれば、面白く思わないのは当然です。
> 人の気持ちを配慮した布教活動が存在していたら、また違った結果が生じていたのかも知れません。
> けれど、人の業は深いもので、生半可な気持ちでは救われないという宗教理念もあって当然なのかも知れませんが。
他の宗派を一切認めずに攻撃することが日蓮宗の大きな特徴でしたからね。我が国には八百万の神様を何事もなく受け入れる多神教の精神がありましたから、やはり相当な抵抗があったものと思われるだけに、宗教の両立は難しい面があったといえるのでしょうね。
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