本願寺(ほんがんじ)の蓮如(れんにょ)は、応仁の乱の頃に「阿弥陀仏(あみだぶつ)の救いを信じれば誰でも極楽往生(ごくらくおうじょう)できる」という教えを御文(おふみ)と呼ばれた平易(へいい)な文章で説いて、各地に講(こう)を組織しました。
惣村(そうそん)などへの精力的な布教活動によって本願寺の組織は北陸・近畿・東海地方に広がり、各地域ごとに組織化された門徒(もんと、宗門を同じくする信徒のこと)の集団はやがて強大となり、農村への支配を強めようとした大名などと対立するようになりました。
門徒たちは各地で一向一揆(いっこういっき)を起こし、中には1488年の加賀の一向一揆(かがのいっこういっき)のように、約1世紀にわたって勢力を保(たも)つものも現れました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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サクラ 以前、「加賀は日本初の民主国家だった」などという話を聞いたのですが――別にそういうわけではなかったんですよね?
門人の支配と、大名の支配はどう違ったんですか?
仏教といえば壮大な哲学でしたが、民衆に解かりやすくする事だって大切でしたよね。
「詳しい哲学や悟りは浄土で教えてあげるから、とりあえず南無阿弥陀仏を唱えておけ」っていう。
ぴーち こんばんは!
浄土宗(真宗)のお仏壇は煌びやかで
荘厳なイメージがありますが、確かに裏日本のお宅の仏壇は、黄金に輝く豪華絢爛という印象が深いです。極楽浄土をイメージしたもの
なのかもしれませんが^^
室町時代に、広まっていったのですね。
歴史が古いですね。
応援凸
サクラさんへ
黒田裕樹 > 以前、「加賀は日本初の民主国家だった」などという話を聞いたのですが――別にそういうわけではなかったんですよね?
> 門人の支配と、大名の支配はどう違ったんですか?
「大名による搾取」という固定観念を持っている人々からすれば、門人による支配は民主的な姿に映るのかもしれません。しかしながら、自治的な生活を歩むにしても、警察権などの安全保障を委ねている段階では、大名による支配と、門人による支配との間に大きな差はなかった、とも考えられます。
> 仏教といえば壮大な哲学でしたが、民衆に解かりやすくする事だって大切でしたよね。
> 「詳しい哲学や悟りは浄土で教えてあげるから、とりあえず南無阿弥陀仏を唱えておけ」っていう。
そのとおりです。難解な経典の解釈を簡潔にしたことで、より多くの人々に仏教が広められました。こうした事態は鎌倉時代の頃にすでに起きていましたが、それに拍車をかけたのが室町時代であった、といえるでしょう。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 浄土宗(真宗)のお仏壇は煌びやかで
> 荘厳なイメージがありますが、確かに裏日本のお宅の仏壇は、黄金に輝く豪華絢爛という印象が深いです。極楽浄土をイメージしたもの
> なのかもしれませんが^^
> 室町時代に、広まっていったのですね。
> 歴史が古いですね。
現世ではなく、極楽浄土にこそ幸福がある、という教えは、日々の苦しい生活を送っていた人々には魅力的に思えたことでしょう。だからこそ仏壇も豪華なものを、という考えがあるのかもしれませんね。
黒田先生
風早 りら 浄土真宗
蓮如
阿弥陀仏の救いを信じれば誰でも極楽往生できる
これは無学の方が多かった時代には
分かりやすい 仏教だったですよね
今で言う 新興宗教ですね
いつの時代も分かりやすい信仰が
流行するようですね
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 浄土真宗
> 蓮如
> 阿弥陀仏の救いを信じれば誰でも極楽往生できる
> これは無学の方が多かった時代には
> 分かりやすい 仏教だったですよね
> 今で言う 新興宗教ですね
> いつの時代も分かりやすい信仰が
> 流行するようですね
伝統的な浄土真宗でありながら、分かりやすさから爆発的に広がっていく様は、当時の確かに新興宗教のような雰囲気がありますね。
乱世であればあるほど、人々は宗教に救いを求めるものです。
オバrev 加賀の一向一揆は有名ですね。その後100年に渡って加賀の国を支配するわけですが、いったいどのような政治システムで支配していたんでしょうか。
それが民衆にとって良かったのかどうか、どうなんだろうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 加賀の一向一揆は有名ですね。その後100年に渡って加賀の国を支配するわけですが、いったいどのような政治システムで支配していたんでしょうか。
> それが民衆にとって良かったのかどうか、どうなんだろうか。
加賀の一向一揆の場合は、宗教勢力が守護を追い出して約1世紀にわたって加賀国を支配していますが、この背景には、一言でいえば「阿弥陀様の救いで誰しもが極楽往生へ→阿弥陀様の前では誰しもが平等だ」という、宗教から派生した平等思想があります。
蓮如による熱心な布教活動が、ついには一国を支配するまでの平等思想を生んだわけですが、それが強力であるがゆえに、1世紀の間には内紛が起きたり、あるいは周辺の支配拡大を目論んで失敗に終わったりするなど、決して平和が続いたわけではありませんでした。
要するに、平等を標榜しながらも民衆は一向宗による実質的な「支配」を受けていたことになります。とはいえ、平等思想に感化された民衆からすれば、ある意味では満足のいく一生を送ったといえるのかもしれません。それが宗教が持つ側面のひとつでもあります。