南蛮貿易は先に我が国に上陸したポルトガルを主体にして行われました。我が国には鉄砲やその火薬・香料(こうりょう)・中国の生糸(きいと)などが輸入され、我が国からの輸出品としては、当時生産量が増加していた銀のほか、金や刀剣がありました。
また当時の貿易港としては、松浦氏(まつらし)の平戸や大村氏(おおむらし)の長崎、大友氏(おおともし)の豊後府内(ぶんごふない、現在の大分市)などの九州地方が中心でした。
なお、ポルトガル人やイスパニア人が南蛮人と呼ばれたのに対して、17世紀初頭の頃から来日したイギリス人やオランダ人は紅毛人(こうもうじん)と呼ばれています。




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ぴーち こんばんは!
南蛮人というのはよく耳にしますが、
紅毛人というのは初めて聞きました!
確かに赤毛・・というイメージはありますね^^;
今でこそ、日本の金の採取量は高くないと思いますが(ココの所、よく存じません)
この当時で、採り尽くされてしまったのでしょうか。
それでは、応援凸
黒田裕樹さん
風早 りら ポルトガル人やイスパニア人が南蛮人
イギリス人やオランダ人は紅毛人
今では 全て 外国人
時代によって 変わってきますね
貿易 この頃は日本も 金や銀も輸出出来たのですね
今では そんな 資源はありません
頭で 貿易するしか ありませんよね
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 南蛮人というのはよく耳にしますが、
> 紅毛人というのは初めて聞きました!
> 確かに赤毛・・というイメージはありますね^^;
南蛮人と区別するために名付けたのでしょうが、特徴をよくとらえてますね(^^♪
> 今でこそ、日本の金の採取量は高くないと思いますが(ココの所、よく存じません)
> この当時で、採り尽くされてしまったのでしょうか。
戦国時代にヨーロッパの進んだ技術が伝えられたことで(例えば、より深く掘り進めることができるようになった)、特に秀吉の頃から江戸時代初期にかけて、金は空前の採掘量を誇るようになります。
ちなみに現代の我が国では、主に鹿児島で金が採掘され続けています。
風早りらさんへ
黒田裕樹 > ポルトガル人やイスパニア人が南蛮人
> イギリス人やオランダ人は紅毛人
> 今では 全て 外国人
> 時代によって 変わってきますね
そうですね。
戦国時代までは西洋人と接する機会はありませんでしたから、当時はそのように名付けたのでしょう。
現代では同じ外国ですから、当然かつ分かりやすい呼称ですね。
ちなみに私たちも外国においては立派な外国人ですが(笑)。
> 貿易 この頃は日本も 金や銀も輸出出来たのですね
> 今では そんな 資源はありません
> 頭で 貿易するしか ありませんよね
輸出するものは、時代によって工夫が必要です。
頭で貿易をするのであれば、当然その頭を鍛えなけれなならない。
教育はいつの時代も重要ですね。
手先が器用だった鍛冶職人(かじしょくにん)によって鉄砲はまたたく間に複製(ふくせい)されると、やがて貿易港でもあった堺などにおいて大量に生産され、各地の戦国大名に売り込まれました。
鉄砲の出現は、それまでの弓や槍(やり)、あるいは騎馬隊(きばたい)を主力とした戦闘方法が、鉄砲による歩兵戦が中心になるなどの大きな変化をもたらました。また、鉄砲は雨が降ると使用できないという弱点を持つ一方、雨の心配のない城の中ではいくらでも撃(う)てることから籠城戦(ろうじょうせん)に最適とされ、城の構築方法も、それまでの山城(やまじろ)から平山城(ひらやまじろ)、あるいは平城(ひらじろ)へと変化していきました。
ちなみに、ポルトガル人は鉄砲そのものを我が国に購入させる目的で種子島にわざと漂着したのではないかとも考えられています。その野望は我が国で鉄砲が大量生産されたことで潰(つい)えましたが、火薬の原料となる硝石(しょうせき)が我が国で生産されなかったことから、これを我が国に輸入することで貿易が成立することになりました。




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サクラ ほんと日本は技術大国ですよね。
当時世界一の銃保有国でしたし。
硝石に至っては、大量の糞尿や魚の腸で国内生産したという話も聞きます。
サクラさんへ
黒田裕樹 > ほんと日本は技術大国ですよね。
> 当時世界一の銃保有国でしたし。
> 硝石に至っては、大量の糞尿や魚の腸で国内生産したという話も聞きます。
そのとおりですね。
ただ、硝石については仰る方法で生産が軌道に乗ったのは江戸時代ですから、この当時は輸入に頼らざるを得なかったという事情もあります。
ぴーち こんばんは!
野望を胸に日本へ鉄砲を伝来したポルトガルも、
日本人の手先の器用さまでは計算外だったようですね。
やはり何事も侮ってはいけませんね。
それでも、その原料でもある硝石を大量に売ることが出来たのは、計算どおりだった様ですね。
ただでさえ、鉱物資源に乏しい日本ですものね。
所で、現在も中国が輸出制限しているレアアース問題も、
その代替素材が出来るようになれば、問題も
解決出来るんでしょうけれどね^^;
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 野望を胸に日本へ鉄砲を伝来したポルトガルも、
> 日本人の手先の器用さまでは計算外だったようですね。
> やはり何事も侮ってはいけませんね。
> それでも、その原料でもある硝石を大量に売ることが出来たのは、計算どおりだった様ですね。
> ただでさえ、鉱物資源に乏しい日本ですものね。
そうですね。
我が国の器用な手先もさることながら、目的をさっさと切り替えるポルトガルの計算高さも大したものです。
> 所で、現在も中国が輸出制限しているレアアース問題も、
> その代替素材が出来るようになれば、問題も
> 解決出来るんでしょうけれどね^^;
レアアースについては中国以外の国からの輸入に活路を見出そうとしているようですね。
いずれにせよ、代替素材の早期開発が望まれるところです。
紗那 鉄砲は日本の中世史を大きく揺るがしたのですね。
この当時は、歴史的に見ても、世界が大きく揺れた時代の一つではないかと思ってます。
ポルトガル人も抜け目ないですが、まさか日本人が鉄砲を自産するとは考えもしなかったでしょうね
紗那さんへ
黒田裕樹 > 鉄砲は日本の中世史を大きく揺るがしたのですね。
> この当時は、歴史的に見ても、世界が大きく揺れた時代の一つではないかと思ってます。
仰るとおり、鉄砲という新兵器は、我が国の合戦を革命的に変化させる大きな存在でしたからね。
また、我が国での鉄砲の総数は世界でも抜きんでいたといわれていますから、世界史レベルの出来事であったといえます。
> ポルトガル人も抜け目ないですが、まさか日本人が鉄砲を自産するとは考えもしなかったでしょうね
日本人の、しかも有色人種の手先の器用さや技術力の高さはまさに想定外だったことでしょう。しかし、そんな中でも貿易に活路を見出すあたりはさすがですね。
黒田裕樹さん
風早 りら 種子島時尭の名前 始めて知りました
鉄砲が 種子島からと言うのは
知っていたのですが種子島時尭の
ことは知りませんでした
火薬の原料 これも考えたことはなかったです
原料の硝石は日本では生産されなかったんですね
それも初めて知りました
ありがとうございます
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 種子島時尭の名前 始めて知りました
> 鉄砲が 種子島からと言うのは
> 知っていたのですが種子島時尭の
> ことは知りませんでした
> 火薬の原料 これも考えたことはなかったです
> 原料の硝石は日本では生産されなかったんですね
> それも初めて知りました
> ありがとうございます
種子島氏は地名から苗字を名乗ったようですね。足利氏や新田氏と同じです。
いずれにせよ、種子島時尭の活躍がなければ我が国の歴史は大きく退化していたかもしれません。
戦国時代の頃、硝石は国内では生産されなかったゆえにポルトガルとの貿易が成り立ちました。
それがまた我が国の歴史に大きな影響を与えるのです。
いつものことながら、歴史には大きな流れがありますね。
当時のイスパニアとポルトガルとの間には、15世紀末の1494年、大西洋(たいせいよう)を東西に分ける一本の線が引かれ、この線から東側で発見されるものはすべてポルトガルに、西側で発見されるものはすべてイスパニアに属するという取り決めが、カトリックのローマ教皇(きょうこう)の承認によって結ばれました。これをトルデシリャス条約といいます。
まるで地球を饅頭(まんじゅう)を二つに割るかのように分割するというとんでもない発想ですが、これは当時の白人至上主義(はくじんしじょうしゅぎ)による人種差別に基づく当然の思想でもありました。そして両国は条約の取り決めを守りながら着実に植民地化を進め、その過程では南アメリカ大陸西側にあったインカ帝国や、メキシコ中央部にあったアステカ帝国という二つの国が滅ぼされ、国民の生命や財産、さらに文化が永遠に失われてしまうという悲劇が生じていたのです。
一方、当時の東アジア地域では明が倭寇(わこう)の鎮圧(ちんあつ)や密貿易の禁止のために海禁政策(かいきんせいさく)をとっていましたが、実際には明以外にも我が国や朝鮮・琉球・安南(あんなん、現在のベトナム)などの人々が幅広(はばひろ)く中継貿易を行っていました。そして、ヨーロッパ人による東アジアの進出は、これらの中継貿易に参加して莫大(ばくだい)な権益を得ようとする目的もあったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
確かに「大航海時代」などと聞くと
イメージとしては雄大で、明るい世界が思い浮かぶのですが、実際はそうでは無かったのですね。
関係のない話ですが、「ONE PIESE」なども「大海賊時代」などというスローガンを掲げていますが、シンプルに考えれば、殺し合いですものね(><)
インカや、アステカはこの頃の時代に消え去ってしまったのですね(TT)
チチカカ湖とか、クスコとか、そんなエキゾチックで神秘的な場所は一度現地をみて歩きたいという願望はありますねぇ^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確かに「大航海時代」などと聞くと
> イメージとしては雄大で、明るい世界が思い浮かぶのですが、実際はそうでは無かったのですね。
> 関係のない話ですが、「ONE PIESE」なども「大海賊時代」などというスローガンを掲げていますが、シンプルに考えれば、殺し合いですものね(><)
実際そうですからね。
海賊の楽しい冒険はあくまで漫画の世界。現実は激しい殺し合いで、見るに堪えませんからね(´・ω・`)
> インカや、アステカはこの頃の時代に消え去ってしまったのですね(TT)
> チチカカ湖とか、クスコとか、そんなエキゾチックで神秘的な場所は一度現地をみて歩きたいという願望はありますねぇ^^
白色人種ほど、他人や他国の文化や文明を滅ぼした人種はありませんからね。
我が国が島国で良かったなと思えるほどです。
せめて神秘的な場所に当時の面影を探ってみたいものですね。
黒田裕樹さん
風早 りら 植民地化
以前より 考えていました
何故 人間は ここまで 欲深いのかと
領土を広げること
戦争は全て そこから 始まっているかの
ようです 悲しいですよね
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 植民地化
> 以前より 考えていました
> 何故 人間は ここまで 欲深いのかと
> 領土を広げること
> 戦争は全て そこから 始まっているかの
> ようです 悲しいですよね
そうですね。
特に白色人種は20世紀前半まで、有色人種の国を次々と植民地化して、何の罪もない人々を奴隷のごとく扱っていました。
この状態からようやく抜け出せたのはつい最近、60年ほど前です。
きっかけを作ったのは、結果として白色人種の国と激しく戦った有色人種の国、つまり我が国なんですよね。
これも歴史の事実の一つです。
ノー天気な日本人。
晴雨堂ミカエル 20年近く前でしたか、コロンブスの大西洋横断成功500周年記念に復元したサンタ・マリア号で航海するイベントがありました。嬉々として参加したのが日本人です。
これこそ国辱行為です。
韓国朝鮮・中国、そしてラプラタ王がいたフィリピンでは大航海時代の意味を学校でしっかり教えているのに、日本はチョモランマ初登頂と同じ感覚で紹介しています。愚かなことです。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 20年近く前でしたか、コロンブスの大西洋横断成功500周年記念に復元したサンタ・マリア号で航海するイベントがありました。嬉々として参加したのが日本人です。
> これこそ国辱行為です。
> 韓国朝鮮・中国、そしてラプラタ王がいたフィリピンでは大航海時代の意味を学校でしっかり教えているのに、日本はチョモランマ初登頂と同じ感覚で紹介しています。愚かなことです。
そういえばありましたね。
歴史を知らないということは、世界中で笑いものにされるという痛々しい話でした。
一般人はもちろん、為政者にとっても大きな教訓のはずなのですが…。
紗那 教皇子午線とかトルデシリャス条約の話ですよね。以前にそういう条約が昔結ばれてたんだよ、という話を聞いて半信半疑だったんですが、この前の世界史の授業でほんとに出てきてびっくりしました。
小学生のときに国調べの宿題でペルーのことを調べたことがあり、インカ帝国に少なからずの愛着があります。
そのときはスペイン許すまじ、でしたけど、こういう歴史的経緯を知ると、仕方の無いことでもあったのかなと思いました。
紗那さんへ
黒田裕樹 > 教皇子午線とかトルデシリャス条約の話ですよね。以前にそういう条約が昔結ばれてたんだよ、という話を聞いて半信半疑だったんですが、この前の世界史の授業でほんとに出てきてびっくりしました。
地球を真っ二つに割るなんて冗談のような話ですからね。
でも、当人たちは本気でできると思っていた節はありますね。実際に行動していましたから。
> 小学生のときに国調べの宿題でペルーのことを調べたことがあり、インカ帝国に少なからずの愛着があります。
> そのときはスペイン許すまじ、でしたけど、こういう歴史的経緯を知ると、仕方の無いことでもあったのかなと思いました。
この当時は「力あるもの」「武力を持っているもの」が当然のように支配する世の中でしたからね。
人間同士の秩序に関する歴史はまだ新しいものだとも言えますから。
大航海時代の先頭に立っていたのは、早くから絶対主義の王国を形成していたイベリア半島の王国であるイスパニア(=スペイン)とポルトガルでした。両国は産業や貿易を保護して輸出を拡大し、国富(こくふ、ここでは国家の財産全体のこと)の増大を目指す重商主義(じゅうしょうしゅぎ)に基(もと)づいて、植民地の獲得に力を注ぎました。
やがてイスパニアはアメリカ大陸に植民地を広げると、16世紀半ばには太平洋を横断して東アジアに進出し、フィリピン諸島(しょとう)を占領して、ルソン島のマニラを根拠地(こんきょち)としました。
一方、ポルトガルはインド洋で貿易を行っていたアラブ人を追い出すと、インド西海岸のゴアを根拠地として東へ進出し、マレー半島のマラッカから明(みん)のマカオにも拠点を築きました。要するに、イスパニアは西廻(まわ)りで、ポルトガルは東廻りでそれぞれアジアに進出したことになります。




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ぴーち こんばんは!
日本は戦国の世だと言うのに、西洋では既に近代化に向けてのエンジンが掛かり始めていたんですね。
最近特に思うのですが。。
これは私の偏った考え方で恐縮なのですが、余りにも急速に成長を遂げた国というのは、身を滅ぼすのも早まるもので、大河が流れる如く、ゆっくりと時間を掛けて少しずつ成長した国との比ではない様に存じます。
今回、領土問題で騒ぎを起している国も何千年という重く貴重な歴史を今世紀で消耗してしまわないことを願うばかりですが。。
サクラ このころから西洋人が日本に渡ってくるんですね。
案外グローバルだったことに驚かされます。
『フロイスの日本史』なんか興味深そうなので、読んでみようかと思っています。
語学の観点から、当時の発音も知りたいですし。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 日本は戦国の世だと言うのに、西洋では既に近代化に向けてのエンジンが掛かり始めていたんですね。
そうですね。我が国の戦国時代も近代化が進む可能性はあったのですが、鎖国状態に入ってしまいましたからねぇ…。
> 最近特に思うのですが。。
> これは私の偏った考え方で恐縮なのですが、余りにも急速に成長を遂げた国というのは、身を滅ぼすのも早まるもので、大河が流れる如く、ゆっくりと時間を掛けて少しずつ成長した国との比ではない様に存じます。
> 今回、領土問題で騒ぎを起している国も何千年という重く貴重な歴史を今世紀で消耗してしまわないことを願うばかりですが。。
なるほど、そういう視点もありますよね。
「何でも自分の思い通りになる」という考えは、国際社会ではそう簡単には通用しませんからね。
サクラさんへ
黒田裕樹 > このころから西洋人が日本に渡ってくるんですね。
> 案外グローバルだったことに驚かされます。
欧州諸国が我が国にやってくるのはそれなりの理由があるんですよ。
次回(21日)以降の更新で明らかにしたいと思います。
> 『フロイスの日本史』なんか興味深そうなので、読んでみようかと思っています。
> 語学の観点から、当時の発音も知りたいですし。
フロイスの日本史は独特の視点から切り込んでいますからね。
きっと興味を持たれると思いますよ。
黒田裕樹さん
風早 りら 日本が戦国時代
ヨーロッパは大航海時代
凄い差ですよね
でも その半面
現在の日本を想うと
ここまで よく 頑張ったものですよね
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 日本が戦国時代
> ヨーロッパは大航海時代
> 凄い差ですよね
> でも その半面
> 現在の日本を想うと
> ここまで よく 頑張ったものですよね
大航海時代と戦国時代とでは差が大きいと思われがちですが、それほどでもないんですよ。
いずれ詳しく紹介しますが、我が国の鉄砲の数は当時で世界一だと言われていますしね。
戦国時代は確かに生命が軽んじられていた時代ではありましたが、サバイバル性が強かった分、技術の進歩は素早かったんです。
また、交通手段の発達は人の流れを活発にして、行商(ぎょうしょう)や巡礼(じゅんれい、聖地や霊場をめぐって旅をすること)が盛(さか)んになったことにより、各地で港町(みなとまち)や宿場町(しゅくばまち)が繁栄(はんえい)しました。これらの都市の中には、富裕(ふゆう)な商工業者たちが自治(じち)の組織をつくり、堀(ほり)をめぐらすなどして防御(ぼうぎょ)を固め、大名から独立するものもありました。
代表的な港町としては、日明貿易(にちみんぼうえき)の根拠地(こんきょち)となった堺(さかい)や博多(はかた)、あるいは伊勢の桑名(くわな)などがあり、特に堺は36人の会合衆(かいごうしゅう、または「えごうしゅう」)、博多は12人の年行司(ねんぎょうじ)と呼ばれる豪商(ごうしょう)の会議によって市政が運営されるという、一種の自由都市(じゆうとし)の性格を持っていました。
なお、京都においても町衆(まちしゅう)と呼ばれた富裕な商工業者を中心に自治的団体である町(ちょう)が結成され、惣村(そうそん)と同じように独自の町法(ちょうほう)が定められました。さらに、町が集まって町組(ちょうぐみ)という組織がつくられ、町衆の自治組織は月行事(がつぎょうじ、または「がちぎょうじ」)と呼ばれる代表者によって自治的に運営されました。
ちなみに、これらの町衆が戦災で大きな被害を受けた京都を復興(ふっこう)したことによって、1500年には京都の最大の祭りである祇園祭(ぎおんまつり)が再興(さいこう)されています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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サクラ 商人までもが領土を持つとなると、ほんと戦国時代のイメージって崩れますね。
武将だけではなく、宗教家、商人までもが独立した領土を持つ時代――。
ひょっとしたら武将以外が天下統一を成し遂げた可能性もあったんじゃないかと思うと――ほんとどうなっていたんでしょうね。その後の日本史は。
サクラさんへ
黒田裕樹 > 商人までもが領土を持つとなると、ほんと戦国時代のイメージって崩れますね。
> 武将だけではなく、宗教家、商人までもが独立した領土を持つ時代――。
> ひょっとしたら武将以外が天下統一を成し遂げた可能性もあったんじゃないかと思うと――ほんとどうなっていたんでしょうね。その後の日本史は。
確かに、戦国時代は誰しもが出世を夢見る時代でした。
ただ、天下統一を成し遂げようと思えば、それこそとんでもないエネルギーや長期にわたる計画性など、数多くの難しい条件がそろっていましたからね。
宣伝になっては申し訳ないのですが(笑)、次回の講座で何らかの回答が出せればと思っております(^^ゞ
ぴーち こんばんは!
京都の祇園祭りは、TVでは拝見したことはありますが、実物は未だ未見なんですが、
一度、戦災で中断されていたんですか!
存じませんでした(^^A
また再興されてよかったですね^^
ここら辺のお祭りには、見られない
趣やら、豪華さがありますので、このまま
ずっと平和のまま、継続していって
欲しいですね~。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 祇園祭のルーツは平安時代にまでさかのぼるそうですから、1000年を超える長い歴史を誇っているんですよね。
応仁の乱のほか、第二次大戦の際にも中断していますから、仰るとおり平和の象徴としてもずっと続いてほしいと思います。
黒田裕樹さん
風早 りら 有名な祇園祭の発祥のいわれが理解出来ました
この頃から 商業が 活発化され
豪商が 出て 千石船のような
名前のある 船まで 活躍するようになった
のですね
祇園祭り 見てみたくなりました
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 有名な祇園祭の発祥のいわれが理解出来ました
> この頃から 商業が 活発化され
> 豪商が 出て 千石船のような
> 名前のある 船まで 活躍するようになった
> のですね
> 祇園祭り 見てみたくなりました
商業の発展はこの頃から目ざましくなりました。
町がにぎわう方が、祭りが盛り上がるに決まっていますからね。
祇園祭は宵山しか行ったことがありませんが、独特の雰囲気が楽しいですよ。
ただ、時期が時期だけにものすごく蒸し暑いんですけどね(笑)。
紗那 幕府や朝廷が権威を持っていた時代は守護などが自国のことに専念出来ていたのが、戦国時代になって、外にも目を向けざるを得なくなると、その時に力があったところは独立することもあったということなんでしょうか。
祇園祭、そういう裏をしると、なんか見る目が変わりますw
紗那さんへ
黒田裕樹 > 幕府や朝廷が権威を持っていた時代は守護などが自国のことに専念出来ていたのが、戦国時代になって、外にも目を向けざるを得なくなると、その時に力があったところは独立することもあったということなんでしょうか。
そのとおりですね。誰しもが出世できるということは、油断していれば足元をすくわれますから、実力を維持するのも大変だったというわけです。
> 祇園祭、そういう裏をしると、なんか見る目が変わりますw
長年続いていますからね。いろんな歴史があるんですよ(^^♪
一方、この頃には各地の寺院が参詣者(さんけいしゃ)の増加に努めたために、門前町(もんぜんまち)や寺内町(じないまち)が発展しました。特に寺内町には門徒(もんと、宗門を同じくする信徒のこと)の商工業者が集結したことによって、新設の市場や町が開かれました。
主な門前町としては伊勢神宮の宇治・山田(うじ・やまだ、現在の伊勢市)や善光寺(ぜんこうじ)の長野などがあり、寺内町としては一向宗(いっこうしゅう)の摂津(せっつ)の石山(いしやま、現在の大阪市)や加賀の金沢などがあります。
なお、戦国大名の中には商業の発展のために市場の税を免除する楽市(らくいち)や、商業などにおける独占的な組合の座を撤廃(てっぱい)する楽座(らくざ)を行う者もいました。そして、この楽市・楽座を自己の領地で全国的に展開した一人の武将が、豊富な経済力をもとに天下統一へと近づくことになります。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
「楽市楽座」は何とか記憶の片隅から引っ張り出すことが出来ました(笑)
今でいう所の、『税務署』管軸や、『独占禁止法』的な効力を意味していたのでしょうか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 「楽市楽座」は何とか記憶の片隅から引っ張り出すことが出来ました(笑)
> 今でいう所の、『税務署』管軸や、『独占禁止法』的な効力を意味していたのでしょうか?
なるほど、絶妙な例えですね(^^♪
税金を安くして商業を発展させ、人口を増やして結果として増収につながる…。
現代の政治にも見習ってほしいですね。
黒田裕樹さん
風早 りら 大阪市は摂津の石山だったんですね
黒田裕樹さんの地元ですね
それを知っただけで 今日は嬉しいですよ
「一人の武将が、豊富な経済力をもとに天下統一へと近づくことになります」
黒田裕樹さんの明日への期待抱かせる
お話の仕方 魅力的です
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 大阪市は摂津の石山だったんですね
> 黒田裕樹さんの地元ですね
> それを知っただけで 今日は嬉しいですよ
仰るとおり、石山は私の地元にあります。現在の大阪城近くですね。
> 「一人の武将が、豊富な経済力をもとに天下統一へと近づくことになります」
> 黒田裕樹さんの明日への期待抱かせる
> お話の仕方 魅力的です
有難うございます。
物語形式のブログである以上は、一話完結の中にもつながりのある内容でありたいと常に思っております。
今回の「明日への期待」は、23日の講座で明らかになりますよ。
城下はやがて人や物資が集まる中心地となり、大名の居城(きょじょう)を中心に城下町(じょうかまち)が形成されました。この当時の有名な城下町としては、北条氏の小田原や今川氏の府中(ふちゅう)、上杉氏の春日山(かすがやま)、朝倉氏の一乗谷(いちじょうだに)などがあります。なお、今川氏の府中は領国である「駿」河の「府」中として駿府(すんぷ)と呼ばれました。現在の静岡です。
この他にも、戦国大名は鉱山(こうざん)の開発や治水(ちすい)の事業などを積極的に行うとともに、領国内の関所の廃止や商業の発展のために組合である座(ざ)を廃止して商品の流通を促進(そくしん)し、また領国内の宿駅(しゅくえき)や伝馬(てんま)などの交通制度を整えて城下町を中心として領国を一つの経済圏(けいざいけん)のまとまりとしました。
ただ、この当時の戦国大名の兵力の大半が平時は農作業を行う農民兵(のうみんへい)であり、彼らは地方への長期間の滞在(たいざい)が事実上不可能であったこともあって、各大名は天下統一よりも周辺諸国への領地拡大を目指していました。




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サクラ 戦国時代って、始終国が荒れてるイメージでした。
それどころか、水害とか、飢饉とか。
けれども戦国大名は自らの力で国を守っていましたし、農民との結びつきも強かったんですね。
兵を出しすぎれば、大戦末期みたいに食糧不足もおきますし。
サクラさんへ
黒田裕樹 > 戦国時代って、始終国が荒れてるイメージでした。
> それどころか、水害とか、飢饉とか。
> けれども戦国大名は自らの力で国を守っていましたし、農民との結びつきも強かったんですね。
> 兵を出しすぎれば、大戦末期みたいに食糧不足もおきますし。
そのとおりです。戦国大名といえども、攻め込むだけでなく領地を守ることの方が重要でした。
そのためにあらゆる政策を行うとともに、いざ出兵の際には兵糧が尽きることのないよう、また生産性が落ちることのないよう気を付けていたんですよね。
そうめん この時代の静岡県は駿府と呼ばれていたんですか・・。
ずっと駿河かと思っていました。
参考になりました(^^;)
城下町は色々な地方にあったんですね。
そこは人や物資が集まる中心地という事から、とても賑わっていたんですね。
そうめんさんへ
黒田裕樹 > この時代の静岡県は駿府と呼ばれていたんですか・・。
> ずっと駿河かと思っていました。
> 参考になりました(^^;)
静岡県というよりは静岡市ですね。
駿河の中心=県の中心であることは変わっていないようです。
> 城下町は色々な地方にあったんですね。
> そこは人や物資が集まる中心地という事から、とても賑わっていたんですね。
小規模な城下町は全国にありました。
ただ、それを自己の領地内で全国的に、しかも計画的に行った武将がいたのです。
それは誰かというと…?
ぴーち こんばんは!
私の住む所にも、伝馬町という町名が存在しますが、元辿れば戦国時代にまで遡るのですね~!
駿府というのは、時代劇でよく耳にしておりました(^^A
戦に備えて、色々な準備が着々と整備されいった時代でもあるんですね!
応援凸
紗那 戦国時代の農民兵しか組織されていなかった時代は、多分一般の人が想像してるのより、ずっと平和だったのでしょうね。
とりあえず、大名が防備を固めてくれているわけですし。
まぁ、農民兵だけでなく、正規軍が組織されるようになると話は変わってくるのでしょうが……w
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 私の住む所にも、伝馬町という町名が存在しますが、元辿れば戦国時代にまで遡るのですね~!
> 駿府というのは、時代劇でよく耳にしておりました(^^A
> 戦に備えて、色々な準備が着々と整備されいった時代でもあるんですね!
伝馬町は東京にもありますから、探せばもっと各地にもあるでしょうね。
やっぱりいつ戦争があるか分からない時代ですから、平和慣れした現代とは違って、危機管理がしっかりと出来ていたと考えるべきでしょうね。
紗那さんへ
黒田裕樹 > 戦国時代の農民兵しか組織されていなかった時代は、多分一般の人が想像してるのより、ずっと平和だったのでしょうね。
> とりあえず、大名が防備を固めてくれているわけですし。
> まぁ、農民兵だけでなく、正規軍が組織されるようになると話は変わってくるのでしょうが……w
農民兵は平時はすべてが手作業という重労働な農業に従事させられて、いざ戦争となったら命がけで戦わねばなりませんでしたから、その負担は想像を絶する大きいものだったかもしれませんよ。
その一方で戦争専門の兵力は、普段は訓練だけを行っていればよいですから、まだマシだったといえるのかもしれませんが…。
黒田裕樹さん
風早 りら 戦国大名は 革新的な ことを
かなりしていたのですね
鉱山の開発や治水の事業まで
関所を廃止し商業の発展させた
城下町を中心として領国を一つの経済圏のまとまりとした
また 知識が増えました
ありがとう 学ぶ喜び感じます
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 戦国大名は 革新的な ことを
> かなりしていたのですね
> 鉱山の開発や治水の事業まで
> 関所を廃止し商業の発展させた
> 城下町を中心として領国を一つの経済圏のまとまりとした
> また 知識が増えました
> ありがとう 学ぶ喜び感じます
各大名が生き残りをかけて戦っているわけですから、必然的に経済圏のまとまりが求められるわけですね。
人間は必要に迫られないと動かないものかもしれません。
分国法はそれまでの幕府や守護によって定められた法を継承(けいしょう)したほか、家の慣習法を成文化したものが多く、また私闘(しとう)を行った当事者の双方を処罰(しょばつ)してすべての紛争(ふんそう)を大名による裁定に委(ゆだ)ねるとした喧嘩両成敗法(けんかりょうせいばいほう)によって、家臣団の統制の強化を目指しました。
有名な分国法としては、朝倉氏の朝倉敏景十七箇条(あさくらとしかげじゅうしちかじょう)や武田氏の甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)、今川氏の今川仮名目録(いまがわかなもくろく)、伊達氏の塵芥集(じんかいしゅう)などがあります。
また、戦国大名は新たに獲得(かくとく)した領地に対してしばしば検地(けんち)を行いましたが、この検地は家臣である領主などに耕地の面積や収入額などを自己申告させるもので、指出検地(さしだしけんち)と呼ばれています。
検地によって農民の耕作面積や年貢量などが検地帳(けんちちょう)に登録され、戦国大名が農民の耕作権を保障する代わりに農民に対する直接支配を強化するとともに、荘園制度の根幹(こんかん)であった名田(みょうでん)の解体が進む結果をもたらしました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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オバrev 検地は、秀吉が最初ではなかったんですね。初耳です。
戦国時代は、戦争ばかりではなく、大きな時代変化に各地区の大名は工夫をこらしていたんですねぇ。
ところで秀吉と言えばもう一つ、刀狩りをしましたが、これは秀吉のオリジナルのような気がしますが、どうでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 検地は、秀吉が最初ではなかったんですね。初耳です。
検地そのものは戦国時代から行われていました。ただ、この頃は農民たちの「自己申告制」による検地だったので、極端な言い方をすればいくらでも「ごまかし」が可能でした。秀吉のように実地検分で行うようにするためには、それこそ天下を統一しようかとするだけの強大な武力が背景になければ、戦国の世では生命がいくつあっても足りないという状況もあったのです。
> 戦国時代は、戦争ばかりではなく、大きな時代変化に各地区の大名は工夫をこらしていたんですねぇ。
> ところで秀吉と言えばもう一つ、刀狩りをしましたが、これは秀吉のオリジナルのような気がしますが、どうでしょうか?
刀狩そのものは、柴田勝家が先に行ったという説もあるようですね。
サクラ あ、自己申告制だったんですね!
なんか、現代と同じですね。
さすがに怪しければ、
太閤検地の画期的だった理由が解かりました。
サクラさんへ
黒田裕樹 > あ、自己申告制だったんですね!
> なんか、現代と同じですね。
> さすがに怪しければ、
> 太閤検地の画期的だった理由が解かりました。
そのとおりです。実地検分をするのとしないのとでは天と地ほどの差がありますからね。
この当時は誰しもが武力を持っていましたし、ましてや農民の集団一揆の可能性もありましたから、実地検分をしたくても生命の危険があってできませんでした。
秀吉のように強大な武力を背景にしなければ不可能だったのです。
黒田裕樹さん
風早 りら 検地はこの頃から行われるようになったのですね
農民は 厳しい規則になったとも言えますよね
農民に対する直接支配ですものね
この頃 の農民の方々の ご苦労
大変だったことでしょう
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 検地はこの頃から行われるようになったのですね
> 農民は 厳しい規則になったとも言えますよね
> 農民に対する直接支配ですものね
> この頃 の農民の方々の ご苦労
> 大変だったことでしょう
領地内の生産力を上げるために、農民への負担を増やしたことは十分考えられます。
ただ、この頃の見地は自主申告だったために「ごまかし」も可能な制度でした。
その分、農民がしたたかに生きていけた時代であったとも言えるでしょう。
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国人や地侍らの収入としては、耕地に課せられた税を銭に換算(かんざん)した貫高(かんだか)という基準が用いられ、彼らの地位や収入を保障する代わりに、貫高に見合った一定の軍役(ぐんやく)を負担させました。これを貫高制(かんだかせい)といい、戦国大名の軍事制度の基礎を固める効果をもたらしました。
また、戦国大名は強力な軍を編成するため、有力な家臣を寄親(よりおや)とし、その下(もと)に一般の武士を寄子(よりこ)として配属させました。これを寄親・寄子制といいます。
寄親・寄子制によって戦国大名は、鉄砲(てっぽう)や長槍(ながやり)などの新兵器を使った集団戦も可能となったのでした。




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ぴーち こんばんは!
鉄砲の日本伝来は、室町時代くらいでしたか?(素朴過ぎる質問ですみません^^:)
戦国時代に鉄砲がポピュラーに使用されるようになったんですね。寄親、寄子なんて初めて聞きました!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 鉄砲の日本伝来は、室町時代くらいでしたか?(素朴過ぎる質問ですみません^^:)
> 戦国時代に鉄砲がポピュラーに使用されるようになったんですね。寄親、寄子なんて初めて聞きました!
鉄砲の伝来は室町後期(戦国中期)の1543年です。そのうち講座でも紹介しますよ。
寄親・寄子制は高校の日本史で学びます。この制度が確立してから、軍勢を編成しやすくなったんですよね。
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紗那 わわわ、一気に専門的な話に踏み込んでいきましたね!
全然知らない話ばかりに!
戦国大名も頭を使って、いろいろな方面(政治的・軍事的・金銭的など)から自分の国を統治して、他大名を制服、または対抗する工夫をしてたということでしょうか。
こういう話を聞くと、ますます興味が湧いてきます!
はじめまして
梵天丸 はじめまして黒田様。
以前から、こちらで勉強させていただいております。
一度お礼とご挨拶を、と思っておりました。
私も一応歴史に関係するブログをやってるのですが、
ほとんど知識がないもので、ここでの勉強がたいへん
役に立っております。
これからもどうぞよろしくお願いします。
紗那さんへ
黒田裕樹 > わわわ、一気に専門的な話に踏み込んでいきましたね!
> 全然知らない話ばかりに!
今日の内容は高校生で初めて学ぶ内容ですからね。
もちろん、覚えておいて損はないですよ(^^♪
> 戦国大名も頭を使って、いろいろな方面(政治的・軍事的・金銭的など)から自分の国を統治して、他大名を征服、または対抗する工夫をしてたということでしょうか。
そのとおりです。食うか食われるかの戦国時代ですから、各大名はそれぞれ知恵を絞って様々な工夫をしていました。しばらくはその具体的な内容の更新が続きますよ。
> こういう話を聞くと、ますます興味が湧いてきます!
大変良いことです(^o^)/
次回以降もぜひお越し下さい!
梵天丸さんへ
黒田裕樹 こちらこそはじめまして。
いつも当ブログへお越し下さいましてありがとうございます。
梵天丸さんのお役に立ててうれしく思います。
私も負けないように頑張らないといけませんね♪
これからもよろしくお願いします。
黒田裕樹さん
風早 りら 貫高制
寄親・寄子制
今まで 知らなかった事ばかりです
戦国大名も かなり 頭脳を使って
計算して 戦国の世を 駆け抜けていたのですね
興味深く 今日も 拝見しました
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風早りらさんへ
黒田裕樹 > 貫高制
> 寄親・寄子制
> 今まで 知らなかった事ばかりです
> 戦国大名も かなり 頭脳を使って
> 計算して 戦国の世を 駆け抜けていたのですね
> 興味深く 今日も 拝見しました
有難うございます。
いくら武力がある戦国大名といっても、家臣団の一つも統制できないようではどうしようもないですからね。
様々な工夫をしながら強くなっていった様子が、講座の中からご理解いただければ幸いです。
甲斐(かい、現在の山梨県)では守護大名だった武田氏(たけだし)がそのまま戦国大名となり、武田信玄(たけだしんげん、出家前の名は晴信=はるのぶ)が信濃(しなの、現在の長野県など)に進出すると、謙信と信玄は北信濃の川中島(かわなかじま)で何度も激突(げきとつ)しました。これを川中島の戦いといいます。
東海では守護大名の流れをくむ今川義元(いまがわよしもと)が駿河(するが、現在の静岡県東部)を本拠(ほんきょ)として勢力を拡大し、他には三河(みかわ、現在の愛知県東部)の松平氏(まつだいらし)や尾張(おわり、現在の愛知県西部)の織田氏(おだし)、美濃(みの、現在の岐阜県南部)の斎藤氏(さいとうし)らが存在しました。
中国では守護大名の大内氏(おおうちし)が強大な力を持っていましたが、16世紀半ばに大内義隆(おおうちよしたか)が家臣の陶晴賢(すえはるかた)によって倒されると、その晴賢を安芸(あき、現在の広島県西部)の国人(こくじん、地方の豪族のこと)出身の毛利元就(もうりもとなり)が滅ぼし、山陰地方(さんいんちほう)の尼子氏(あまごし)と激しく争いました。
この他、四国では長宗我部氏(ちょうそかべし)が、九州では大友(おおとも)・龍造寺(りゅうぞうじ)・島津(しまづ)の各氏が、また東北では伊達氏(だてし)らが有力な戦国大名として君臨(くんりん)していました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
こうして伺っていると、戦国時代に活躍していた武将の名前は今でも有名な方ばかりで、本当に日本全国、北から南まで戦いが繰り広げられていたのですね~改めて、驚きました!!
それでは応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こうして伺っていると、戦国時代に活躍していた武将の名前は今でも有名な方ばかりで、本当に日本全国、北から南まで戦いが繰り広げられていたのですね~改めて、驚きました!!
確かにそうそうたる顔ぶれですね(^^ゞ
戦国時代という名に嘘はないということがよく分かります。
紗那 戦国時代……!
いつの間にか講座の方も話が進んでたのですね!
しかし、あまりに興味ありすぎて今回の内容は知ってることばかりでした←
あ、でもそれはそれでいいことですよね♪
紗那さんへ
黒田裕樹 > 戦国時代……!
> いつの間にか講座の方も話が進んでたのですね!
そうなんです(笑)。
やっと戦国時代に入りましたが、まだ先は長い…。
> しかし、あまりに興味ありすぎて今回の内容は知ってることばかりでした←
> あ、でもそれはそれでいいことですよね♪
もちろんそうですよ(^^♪
まずは有名な戦国大名の紹介ですが、ここからは専門的な内容になるかも!?
上杉謙信は
オバrev あれ~、上杉謙信は関東管領だったんですか(O_O)
その後、信濃に移ったんでしょうか。
それにしても、この戦国時代に生き残るのは大変だったんでしょうね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > あれ~、上杉謙信は関東管領だったんですか(O_O)
> その後、信濃に移ったんでしょうか。
長尾景虎は1561年に関東管領の上杉憲政(うえすぎのりまさ)からその地位を譲られ、名を上杉政虎(うえすぎまさとら)と改めています。そして、同じ年に信玄との死闘で有名な4回目の川中島の戦いが起きているんですよね。
ちなみに、謙信と名乗ったのは1570年です。
> それにしても、この戦国時代に生き残るのは大変だったんでしょうね。
群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の世ですからね。勢力争いは半端(はんぱ)ではなかったでしょう。
:黒田裕樹さん
風早 りら 上杉謙信
武田信玄
今川義元
毛利元就
馴染みの深い 名前 登場
益々 楽しみに なってきました
戦国時代のお話 やはり 心トキメキますね
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 上杉謙信
> 武田信玄
> 今川義元
> 毛利元就
> 馴染みの深い 名前 登場
> 益々 楽しみに なってきました
> 戦国時代のお話 やはり 心トキメキますね
このあたりは有名どころですからね。
次回(15日)からは戦国大名の統制力について探ってみたいと思います。
連コメですが
オバrev あ~、なるほど。越後に居ながら関東管領の職を兼務したってことですか?
オバrevさんへ その2
黒田裕樹 いえいえ、連コメも歓迎しますよ(笑)。
> あ~、なるほど。越後に居ながら関東管領の職を兼務したってことですか?
そのとおりです。もともとこの頃までには関東管領は有名無実化していましたからね。
謙信が関東管領を引き受けたことで、北条氏とは宿敵となってしまったことが、後の謙信の行動の大きな制約になった可能性が高いですね。