また、宋からもたらされた、木の板(=木版、もくはん)に文章や絵を彫(ほ)って版をつくる木版技術(もくはんぎじゅつ)によって禅の経典や漢詩文集などが印刷され、これらは五山版(ござんばん)として広まりました。
その他、明兆(みんちょう)や如拙(じょせつ)、周文(しゅうぶん)らの五山僧によって、墨(すみ)の濃淡(のうたん)で自然や人物を表現し、簡潔で力強い筆致(ひっち、筆づかいのこと)によって禅の精神を具体化した水墨画(すいぼくが)が広く伝えられました。
北山文化の頃の代表的な水墨画としては、現実にはとても不可能であるといえる、ぬめった皮膚(ひふ)のナマズを滑(なめ)らかなヒョウタンでいかに押さえるかという、いわゆる「ヒョウタンナマズ」の禅問答(ぜんもんどう)のテーマを如拙が描いた瓢鮎図(ひょうねんず)が有名です。
ちなみに禅問答、すなわち公案問答(こうあんもんどう)を繰(く)り返しながら悟(さと)りを開くのが臨済宗の大きな特色でしたね。こんなところにも歴史の流れがつながっているんですよ。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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サクラ ほんと、室町時代には色々な文化が成立してますね。
私が職としようとする、文学や絵画まで!
中学の頃は、水墨画の美しさに心打たれたものです。
私にとって、室町時代は戦国以外派手なイメージではなかったのですが。
ここまで色々な文化が盛んに興っていたということは、けっこう平和だったんですか?
サクラさんへ
黒田裕樹 > ほんと、室町時代には色々な文化が成立してますね。
> 私が職としようとする、文学や絵画まで!
> 中学の頃は、水墨画の美しさに心打たれたものです。
水墨画の美しさは独特ですからね。
いかにも我が国らしいと思えます。
> 私にとって、室町時代は戦国以外派手なイメージではなかったのですが。
> ここまで色々な文化が盛んに興っていたということは、けっこう平和だったんですか?
残念ながら、幕府の統治能力が弱かったためにあちらこちらで戦乱が起きていました。
いずれ詳しく話しますが、戦火を逃れて文化人が地方へと移動したことで、文化が全国に広まったという側面があるんですよね。
ぴーち こんばんは!
手前味噌ですが、^^;
中学の時に美術の時間に木版画を彫りましたら、
私の作品だけ何故か帰って来ないので、どうしたのかと先生に尋ねたら
「○○の作品は、中国へ贈ったんだよ』という事で驚いたことがありました!
中国との友好の証として、贈ったそうなんですが、今頃、私の木版画は中国のどの辺に
あるのかしら・・。でも本当に少しでも友好の証として一役買っているとしたら、嬉しいんですけれどね^^;
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 手前味噌ですが、^^;
> 中学の時に美術の時間に木版画を彫りましたら、
> 私の作品だけ何故か帰って来ないので、どうしたのかと先生に尋ねたら
> 「○○の作品は、中国へ贈ったんだよ』という事で驚いたことがありました!
> 中国との友好の証として、贈ったそうなんですが、今頃、私の木版画は中国のどの辺に
> あるのかしら・・。でも本当に少しでも友好の証として一役買っているとしたら、嬉しいんですけれどね^^;
そんなことがあったんですか!
優れた芸術作品に国境は関係ないですからね。
素晴らしいエピソードを有難うございます(^_^)v
鎌倉時代に栄西によって武家社会の上層に広まった臨済宗(りんざいしゅう)は、夢窓疎石(むそうそせき)が初代将軍の足利尊氏の厚い保護を受けたことによって大いに栄え、義満の時代までに南宋(なんそう)の官寺制度(かんじせいど)に倣(なら)った五山・十刹の制(ござん・じっせつのせい)が完成しました。
具体的には、まず南禅寺(なんぜんじ)を別格として五山の上に置き、京都五山として天龍(てんりゅう)・相国(しょうこく)・建仁(けんにん)・東福(とうふく)・万寿(まんじゅ)の五寺が、鎌倉五山として建長(けんちょう)・円覚(えんがく)・寿福(じゅふく)・浄智(じょうち)・浄妙(じょうみょう)の五寺が置かれており、この格式は現代においても続いています。
なお、十刹とは五山に続く官寺であり、さらにその下には諸山(しょざん)と呼ばれる寺格(じかく)がありました。室町幕府は僧録(そうろく)を置いてこれらの官寺を管理するとともに、住職(じゅうしょく)の任免を行いました。
ちなみに、金閣は足利義満の死後に臨済宗の鹿苑寺(ろくおんじ)という寺院となり、第二次世界大戦後の昭和25(1950)年に放火で焼失しましたがその後再建され、平成6(1994)年には世界遺産として登録されています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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佐佐木あつし 京都出身者の僕としては
金閣と言えば
他県から来た友人を
エスコートした際に
金閣の池の前あたりに
「金閣寺は通称で正式名称は鹿苑寺金閣(舎利殿)と言います」的な立て看板があったのが
記憶にあります。
(正確な看板の語彙は忘れました)
わざわざ、立て看板までして正式な名前を
流布しようとされてるのでしょうが、
なんとなくおかしみを感じました。
(大変失礼ながら)
あの、通称というか別称はやはり
三島由紀夫あたりの影響なのでしょうか?
「室町時代に建てられた金箔を押した京都の世界遺産の正式名称は?」なんて
なにやらクイズの引っ掛け問題とかに
使われてそうですね(笑)
佐佐木あつしさんへ
黒田裕樹 私も「金閣寺」としか教えられていなかったですね(^^ゞ
仰るとおり、三島由紀夫の同名小説の影響が大きいのかもしれません。
最近の教科書では、そもそもが「北山殿」の山荘だったことや、「鹿苑寺」という正式名称がちゃんと紹介されていますね。クイズ問題は我々の世代の方が引っ掛かりそうです(爆)。
黒田裕樹さん
風早 りら 建長寺しか 行ったことがありません
アップした 時 コメント下さりありがとう
他の南禅寺始め 禅宗寺院の禅宗様とを折衷した
寺院行って 撮影してみたいです
鎌倉建長寺は 建築様式が 素晴らしく
その点でも 建築 大好きな 私には
興味のあるお話です
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 建長寺しか 行ったことがありません
> アップした 時 コメント下さりありがとう
> 他の南禅寺始め 禅宗寺院の禅宗様とを折衷した
> 寺院行って 撮影してみたいです
> 鎌倉建長寺は 建築様式が 素晴らしく
> その点でも 建築 大好きな 私には
> 興味のあるお話です
建長寺の写真も素晴らしかったですよね。
京都五山も鎌倉五山も、それぞれが撮影意欲を高めてくれると思います。
紗那 鹿苑寺も問題ないし、金閣でも問題ないけど、金閣寺は正しくない。
そう習いました。
と思って、京都の道路案内板とかを気をつけてみようと思ってるんですが、行くたびに忘れてます←
やはり、こういうお寺とかの格式は、昔のものが今も続いてるわけですねー。
まぁ、そう簡単に変えれるものでもないでしょうし。
紗那さんへ
黒田裕樹 > 鹿苑寺も問題ないし、金閣でも問題ないけど、金閣寺は正しくない。
> そう習いました。
> と思って、京都の道路案内板とかを気をつけてみようと思ってるんですが、行くたびに忘れてます←
金閣寺はあくまで通称であって、正式名称ではないですからね。もっとも、HPでは「金閣寺」と書いてありますが…。
おそらく通称の方が有名になってしまっているから、混乱を避けるためなのでしょうね。
道路案内板の表示は確かに注目すべきですね(笑)。
> やはり、こういうお寺とかの格式は、昔のものが今も続いてるわけですねー。
> まぁ、そう簡単に変えれるものでもないでしょうし。
私もそう思いますね。
室町時代にもなると、昔といってもそう年月も離れていないですし。
ぴーち こんばんは!
私は「鹿苑寺金閣」、今の今まで正式な名称だと思っていました^^;
上の方のお話の様に、三島由紀夫の影響を受けてしまっていたのかしら^^;
その場所を案内する看板は
よく参考にしています。
その地方に実際住んでいる方は、愛称とか
或いは方言などで正式な名称とは異なる
言い方をされる場合もあるんですよね。
私の住んでいる所でも、固有名詞ではないんですが、地名などで標識とは違う発音をする場所が
いつくもあります。
正式にはこういう発音で言うのだなということを看板で知る場合が多いです^^;
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 小説などの影響は凄いですね。
幕末の新撰組の沖田総司(おきたそうじ)も、テレビ時代劇の俳優さんの名前の影響で、いつのまにか「おきたそうし」と濁らずに呼ばれるようになったということですし。
読み方や発音は確かに場所によって違いますね。
大阪でも「京橋」は関東と全く違うイントネーションだそうですよ(^^ゞ
南北朝時代の頃までには、和歌における「五・七・五・七・七」の韻律(いんりつ)を基盤として、複数の作者が連作する形式でつくられた連歌(れんが)が武家や公家を問わず広く親しまれるようになりました。
連歌は、南北朝時代の公卿で摂政や関白を歴任した二条良基(にじょうよしもと)がまとめた莬玖波集(つくばしゅう)が、勅撰(ちょくせん、天皇や上皇の命令で歌集などを編さんすること)に準ぜられたことで和歌と対等の地位を築(きず)くことになりました。
また、栄西(えいさい)によって広められたとされる喫茶(きっさ)の習慣が拡大したことで、南北朝時代の頃には茶の味を飲み分けて勝敗を競う遊びである闘茶(とうちゃ)などの茶寄合(ちゃよりあい)が各地で行われるようになりましたが、これらの流行は南北朝時代の新興武士団たちの新しもの好きの精神に基づくものであり、彼らは派手や贅沢(ぜいたく)を意味する「バサラ」と呼ばれました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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風早 りら 室町の
栄える歴史
教えたる
君の手ほどき
こよい 楽しき
下手でごめんなさいね
毎日の先生との会話 最高の楽しみです
素直な気持 よんでみました
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 室町の
> 栄える歴史
> 教えたる
> 君の手ほどき
> こよい 楽しき
>
> 下手でごめんなさいね
> 毎日の先生との会話 最高の楽しみです
> 素直な気持 よんでみました
珠玉の御歌を有難うございます。
これからもますます手ほどきに磨きをかけなければいけませんね。
ぴーち こんばんは!
バサラと言えば、「戦国バサラ」というゲームを
思い出してしまいました(笑)
教養に乏しくて・・すみません^^;失礼しましたm(__)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > バサラと言えば、「戦国バサラ」というゲームを
> 思い出してしまいました(笑)
> 教養に乏しくて・・すみません^^;失礼しましたm(__)m
戦国BASARAは文字どおり戦国時代のアクションゲームですね。
室町時代とは少し離れていますが、雰囲気は確かに似ています(^^♪
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の信任が厚かった南朝の公卿(くぎょう)であった北畠親房(きたばたけちかふさ)は、伊勢神道(いせしんとう)の理論を背景として、南朝の立場から我が国の長い歴史を通じて皇位が継承(けいしょう)されてきたことを説いた神皇正統記(じんのうしょうとうき)を著(あらわ)し、後世に大きな影響を与えました。
この他の歴史書としては、源平(げんぺい)以後の争乱の歴史を公家の立場からまとめた増鏡(ますかがみ)や、南北朝の動乱を足利氏(=北朝側)の立場から記した梅松論(ばいしょうろん)があります。軍記物語としては、後醍醐天皇の治世(ちせい)からの半世紀を力強く描(えが)いた太平記(たいへいき)がつくられ、これは後に台本(だいほん)として講釈(こうしゃく)された「太平記読み」という手段で広く人々に普及(ふきゅう)し、後世まで語り継がれました。
なお、増鏡は大鏡(おおかがみ)・今鏡(いまかがみ)・水鏡(みずかがみ)とあわせた、いわゆる「大今水増」(だいこんみずまし)の四鏡(しきょう)として、日本史のみならず古典の学習でも重要ですね。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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ぴーち こんばんは!
「太平記」は有名ですね!
すみません。「大鏡」は存じませんでした(^^A
古典にも確かに通じますものね。
色々と勉強になります。ありがとうございます♪
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 「太平記」は有名ですね!
> すみません。「大鏡」は存じませんでした(^^A
> 古典にも確かに通じますものね。
> 色々と勉強になります。ありがとうございます♪
大鏡は古典とも深くかかわってきますからね。
特に中学・高校生には「一粒で二度美味しい」学習をしていただければと思っていますよ(^^♪
黒田裕樹さん
風早 りら 太平記が作られた 過程が 初めて
理解出来ました
増鏡・大鏡・今鏡・水鏡
合わせて「大今水増」四鏡
勉強になりました
今日もありがとうございました
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 太平記が作られた 過程が 初めて
> 理解出来ました
> 増鏡・大鏡・今鏡・水鏡
> 合わせて「大今水増」四鏡
> 勉強になりました
> 今日もありがとうございました
こちらこそお言葉有難うございます。
太平記も四鏡も重要な事項ですから、これを機会にご理解が深まれば幸いです。
室町文化の魅力
オバrev 室町文化って、現代に引き継がれているものが結構ありますよね。
武家・公家融合文化で、微妙なバランスの緊張感が魅力になっているような気がします。
北畠親房の神皇正統記は頭の片隅にありますが、内容は全く知りません(>_<)
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 室町文化って、現代に引き継がれているものが結構ありますよね。
> 武家・公家融合文化で、微妙なバランスの緊張感が魅力になっているような気がします。
仰るとおり、文化の繁栄とは裏腹に緊張感が絶えない時代でもありましたからね。
絶妙なバランスがすぐれた文化を生み出す。当時の人々の生き生きとした姿が目に浮かぶようですね。
> 北畠親房の神皇正統記は頭の片隅にありますが、内容は全く知りません(>_<)
南朝の立場から我が国の歴史を皇室の立場を通じて振り返っていますが、後醍醐天皇に対しても是々非々で論じているところが大きな特徴ですね。
室町時代の文化としては、まずは南北朝の動乱期を背景とした南北朝文化(なんぼくちょうぶんか)が栄え、次いで室町幕府の第3代将軍である足利義満の時代に北山文化(きたやまぶんか)が、さらに第8代将軍足利義政の時代に東山文化(ひがしやまぶんか)が生まれています。
この時代の文化の大きな特徴(とくちょう)としては、それまで東国を中心に栄えていた武家文化が、室町幕府が京都に置かれたことで公家(くげ)文化と融合(ゆうごう)し、また我が国の伝統的な文化が、明や朝鮮などの東アジアとの活発な交流に伴(ともな)って大陸文化と融合したことが挙げられます。
さらに、それまでの都市の民衆が支えてきた中央文化が、各地の惣村(そうそん)との交流によって地方文化と融合したことによって、これらの文化の融合が洗練・調和されていくなかで、次第に我が国固有の文化というべきものが生み出されていきました。
能(のう)・狂言(きょうげん)・茶の湯(ちゃのゆ)・生花(いけばな)などは、現代においても我が国の伝統文化として知られていますが、これらはいずれも室町文化(むろまちぶんか)の頃にその基盤(きばん)が確立されており、中央や地方、あるいは武家・公家・庶民(しょみん)の区別なく形成されていったのでした。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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サクラ 鹿苑寺舎利殿なんか、三階は寺院風で二階は武家風に造られてましたね。
茶室や生け花なんかは、よくイラストやデザインなどに応用したりするのですが、お陰で「深み」というのが解かるようになりました。
まさしく日本文化万々歳といったところです。
サクラさんへ
黒田裕樹 > 鹿苑寺舎利殿なんか、三階は寺院風で二階は武家風に造られてましたね。
金閣のことですね。いずれは講座で紹介しますよ。
> 茶室や生け花なんかは、よくイラストやデザインなどに応用したりするのですが、お陰で「深み」というのが解かるようになりました。
> まさしく日本文化万々歳といったところです。
本文にも書きましたように、この頃までに我が国の伝統文化と呼ばれるものが形づくられてきましたからね。これからしばらく時間をかけて、室町文化について詳しく更新していきたいと思います。
紗那 室町文化……!
中学時代に苦労しました……w
しかし、今の日本文化の多くがこの時代に基づいてると考えると、結構重要なところなのですよね。
>中央や地方、あるいは武家・公家・庶民(しょみん)の区別なく形成されていった
初耳でした!
紗那さんへ
黒田裕樹 > 室町文化……!
> 中学時代に苦労しました……w
> しかし、今の日本文化の多くがこの時代に基づいてると考えると、結構重要なところなのですよね。
室町文化と一口に言っても、南北朝文化・北山文化・東山文化と範囲が広いうえに覚えることがたくさんありますからね(´・ω・`)
それでも我が国の伝統文化と密接にかかわり重要な文化ですから、どうやって皆さんにご理解いただけるか、腕の見せ所になりそうです(`・ω・´)
> >中央や地方、あるいは武家・公家・庶民(しょみん)の区別なく形成されていった
> 初耳でした!
流れからいけばそうなるんですよね。初めて本格的に庶民にまで広まった文化といえるのかもしれません。
ぴーち こんばんは!
まずは70000HIT
おめでとうございます!

この頃の時代も、日本特有の何かと融合して、新たな文化なりが開花するという独特な文化が生まれたんですね^^
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > まずは70000HIT
> おめでとうございます!

有難うございます。実は今日(9月26日)でブログ開設以来ちょうど1年半なんですが、良い区切りとなりました。これからも頑張りますよ(^o^)/
> この頃の時代も、日本特有の何かと融合して、新たな文化なりが開花するという独特な文化が生まれたんですね^^
そのとおりです。特にこの時期の文化は現代の伝統文化とも深くかかわっていますから、それだけ重要なんですよね。
こんにちは
冬灯 室町時代と聞くとまず思いだすのが、文化の
繁栄です。やっぱり義満が文化人だったせい
でしょうか。
時の天下をとった人によって、時代の繁栄の
仕方も違うものですね。。。
そして、それが政治とも深く繋がって、さら
には外交にも密接しているというのもひじょう
に興味深いものです。
室町時代も学べば面白いものですね^^
冬灯さんへ
黒田裕樹 > 室町時代と聞くとまず思いだすのが、文化の
> 繁栄です。やっぱり義満が文化人だったせい
> でしょうか。
文化の繁栄には豊富な経済力も必要ですからね。文化人たる為政者が広めていったという側面は必ずと言っていいほど存在します。
> 時の天下をとった人によって、時代の繁栄の
> 仕方も違うものですね。。。
> そして、それが政治とも深く繋がって、さら
> には外交にも密接しているというのもひじょう
> に興味深いものです。
> 室町時代も学べば面白いものですね^^
仰るとおりで、文化は政治や外交とも深くかかわってきます。室町時代は激動の歴史でもありましたから、それだけ文化が大きく広がったとも言えますね。
講座における室町文化の更新にご期待下さい(^o^)/
黒田裕樹さん
風早 りら 能・狂言・茶の湯・生花
室町文化と聞いただけで
華やかな 文化を想像します
やはり この時代は凄い
日本の文化の宝庫ですね
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 能・狂言・茶の湯・生花
> 室町文化と聞いただけで
> 華やかな 文化を想像します
> やはり この時代は凄い
> 日本の文化の宝庫ですね
お言葉どおりで、耳にしただけで日本人の魂を揺さぶるものがありますよね。
今回の更新で、室町文化の真髄を少しでもご紹介できればと思います。
やがて奥州(おうしゅう)の住人の中から、渡島半島に館(やかた)をつくって移住する人々も現れました。彼らはアイヌから和人(わじん)と呼ばれ、津軽の豪族である安藤氏(あんどうし)の支配に属していましたが、和人の相次ぐ進出は次第にアイヌを圧迫するようになっていきました。
アイヌは1457年に首長(ちゅちょう)のコシャマインを中心に蜂起(ほうき、ハチが巣から一斉に飛びたつように大勢が一時に暴動・反乱などの行動を起こすこと)して和人の館を次々と攻め落としましたが、やがて渡島の領主であった蠣崎氏(かきざきし)によって鎮圧(ちんあつ)されました。この事件によって名を挙げた蠣崎氏は、江戸時代には松前氏(まつまえし)を名乗って蝦夷地を支配する大名となりました。
なお、この当時の和人の館は道南十二館(どうなんじゅうにたて)と呼ばれており、現在の函館市(はこだてし)にある志苔館(しのりたて)が有名です。




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ぴーち こんばんは!
アイヌ人は、結局、日本の本土から追い出されるような形で、(追われる?)北海道と沖縄へ分散されてしまったのですね。
(沖縄ではアイヌとは呼ばないのかも知れませんが)
蠣崎氏が松前氏に・・。
この当時は容易に改名することが出来たのでしょうか?
それでは、応援凸
また、お邪魔しますね☆
黒田先生
風早 りら アイヌの方々を 思う時
私は アメリカ原住民族
または オーストラリアの 原住民族
の方々に 思いを はせます
黒田先生のご意見は如何ですか
佐佐木あつし こんばんわ!
悪名高い松前氏の前史は知りませんでした。
とはいっても、ダメダメになっていくには
先生の講座の時間から徐々に変化していったかもしれませんが一族の隆盛と末路のストーリーの陰にアイヌの方々の苦しみが土台になっている事は本当に悲しい事です。
なにせ、昔、北海道出身のの友人が
アイヌの方に対して差別的な発言をして
非常に憤慨したのを覚えています。
歴史の作った傷跡が
何百年も残る事実は
たまらないものです。
歴史の記憶と現在に現れる症例には
特効薬がない分
先生のお仕事の重要性を大きく感じます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > アイヌ人は、結局、日本の本土から追い出されるような形で、(追われる?)北海道と沖縄へ分散されてしまったのですね。
> (沖縄ではアイヌとは呼ばないのかも知れませんが)
平安時代にも蝦夷(えみし)と呼ばれた人々が東北地方から追われていますからね。その後の歴史も非常に重要になっていきますが…。
> 蠣崎氏が松前氏に・・。
> この当時は容易に改名することが出来たのでしょうか?
松前氏の「松」は徳川の旧姓の「松平氏」から、「前」は「前田氏」からとっています。戦国も末期になると、こうした改姓は結構行われていますよ。
風早りらさんへ
黒田裕樹 > アイヌの方々を 思う時
> 私は アメリカ原住民族
> または オーストラリアの 原住民族
> の方々に 思いを はせます
> 黒田先生のご意見は如何ですか
どの国にも先住民との戦いや虐殺、あるいは同化や共生があります。
我が国の場合は激しい戦いや搾取(さくしゅ)もありましたが、共生の一面もあったと思います。
いずれにせよ、歴史の厳しい事実をしっかりと見つめる必要はあるでしょうね。
佐佐木あつしさんへ
黒田裕樹 松前氏はアイヌから不当に搾取していましたからね(田沼意次が改めようとしましたが)。
これも悲しい歴史ですが、そういった現実に無知であるがゆえの誤解や曲解も、仰るとおり大いに問題があると思います。
これからも歴史講座を頑張りたいですね。
琉球は明との藩属国(はんぞくこく、明を宗主国とすること)の関係を保ちながら我が国とも国交を結び、海外貿易を盛んに行いました。これを琉球貿易(りゅうきゅうぼうえき)といいます。琉球貿易は、商船を南方のジャワ島・スマトラ島・インドシナ半島にまで行動範囲を広げて、東アジアから東南アジア一帯の諸国間における中継貿易(ちゅうけいぼうえき)の方式で行われました。
具体的には、琉球の商船が南方から購入してきた蘇木(そぼく、染料のこと)や香木(こうぼく、こうりょうのこと)などを我が国の商人が買い取ったり、琉球船自らが博多まで乗り入れてもたらしたりしています。これらの商品は我が国によって中国や朝鮮へと転売されました。
首里の外港である那覇(なは)は、貿易における重要な国際港となって栄え、情緒豊かな琉球文化をもたらしました。なお、琉球王国の民俗の実態をうかがうことのできる史料としては、琉球の古い歌謡である「おもろ」が集められた、琉球における万葉集ともいわれる「おもろそうし」が知られています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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風早 りら 琉球王国が やがて 日本の国となり
沖縄になる過程が 理解出来るのではと
期待していす
以前より 興味があったのですが
よく 分かっていません
宜しく お願いします
サクラ 琉球は貿易の要所だったんですね。
琉球文化は私に爽やかな印象を与えます。
日本の古きよきノスタルジアみたいなものを感じさせるのですけど、ちょっと異国趣味が入ってて不思議な感じです。
中学校の頃の修学旅行は沖縄だったんですが、戦跡しか見させられませんでしたね。
平和学習とやらもいいですけど、それ以外の琉球の歴史的重要性や、琉球文化にもっと触れられないことが残念でした。
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 琉球王国が やがて 日本の国となり
> 沖縄になる過程が 理解出来るのではと
> 期待しています
> 以前より 興味があったのですが
> よく 分かっていません
> 宜しく お願いします
琉球王国については、今回は残念ながらここまでなんです。
次回は琉球の歴史が大きく動く江戸時代初期になる見込みです。
「琉球史」のような講座も考えてみたいですね。
これからもよろしくお願いします。
サクラさんへ
黒田裕樹 > 琉球は貿易の要所だったんですね。
> 琉球文化は私に爽やかな印象を与えます。
> 日本の古きよきノスタルジアみたいなものを感じさせるのですけど、ちょっと異国趣味が入ってて不思議な感じです。
琉球は今も昔も地理上の要所ですから、中継貿易にはうってつけなんですよね。
そんな王国で栄えた文化は、様々な文化が巧みに組み合わされた独自性が見られます。
> 中学校の頃の修学旅行は沖縄だったんですが、戦跡しか見させられませんでしたね。
> 平和学習とやらもいいですけど、それ以外の琉球の歴史的重要性や、琉球文化にもっと触れられないことが残念でした。
そのとおりですね。琉球文化は20世紀だけではありません。今回のような「おもろそうし」などの文化ももっと紹介すべきだと思うのですが…。
ぴーち こんばんは!
沖縄は、私自身は一度も行った事が無いのですが、その代わり子供達は沖縄へ修学旅行へ行きました(娘は来年ですが^^;)
一度くらいは、行ってみたい場所ですが、
息子は一度行っただけですが、とても気に入った様で、帰宅した数日間は、「あっちで暮らしたい」と盛んに言っていました。今でこそ、のんびりとした雰囲気と美しい自然が満喫できるイメージがありますが、観光で数日だけ滞在した位では沖縄の本当の姿は見えてこないんでしょうけれど、歴史を思うとなんとも言えませんね。
「おもろ」とは直接「面白い」と同じ意味なんでしょうか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 沖縄は、私自身は一度も行った事が無いのですが、その代わり子供達は沖縄へ修学旅行へ行きました(娘は来年ですが^^;)
> 一度くらいは、行ってみたい場所ですが、
> 息子は一度行っただけですが、とても気に入った様で、帰宅した数日間は、「あっちで暮らしたい」と盛んに言っていました。今でこそ、のんびりとした雰囲気と美しい自然が満喫できるイメージがありますが、観光で数日だけ滞在した位では沖縄の本当の姿は見えてこないんでしょうけれど、歴史を思うとなんとも言えませんね。
私も残念ながら行ったことがないんですよ。この時期は台風が多いですが、美しい自然に恵まれた環境は素晴らしいそうですからね。息子さんの気持ちも理解できそうです。
> 「おもろ」とは直接「面白い」と同じ意味なんでしょうか?
沖縄の方言で「思い」だそうですよ。様々な人々の思いがこもった歌謡という意味なんでしょうか。
日朝貿易は1419年に朝鮮が倭寇の本拠地を対馬と誤認して襲撃(しゅうげき)した応永の外寇(おうえいのがいこう)によって一時は中断しましたが、その後も活発に行われました。
貿易では日明貿易での勘合(かんごう)をまねた通信符(つうしんふ)が用いられ、我が国からは銅や硫黄(いおう)などの鉱産物や工芸品、あるいは琉球貿易(りゅうきゅうぼうえき)で入手した蘇木(そぼく、染料のこと)や香木(こうぼく、こうりょうのこと)が輸出されました。
また、朝鮮からは当時の我が国では生産されなかった木綿(もめん)が大量に輸入され、それまでの麻(あさ)に比べて保温性が高く作業衣料に適していたために、人々に広く利用されたことで我が国の生活様式に大きな影響を与えました。
しかし、朝鮮がやがて日朝貿易を厳しく統制したために、これを不満とする三浦に住む日本人と現地の役人との間で1510年に紛争が起きました。この三浦の乱(さんぽのらん)によって、日朝貿易は次第に衰退(すいたい)していきました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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サクラ 応永の外冦は知っていましたが、日朝貿易が衰退する原因ってのがあったんですね。
応永の外冦も三浦の乱も、確か学校では教えてませんでしたが。
はたしてこの二つの事件は、教えないほど価値のないものなのでしょうか。
サクラさんへ
黒田裕樹 > 応永の外冦は知っていましたが、日朝貿易が衰退する原因ってのがあったんですね。
> 応永の外冦も三浦の乱も、確か学校では教えてませんでしたが。
> はたしてこの二つの事件は、教えないほど価値のないものなのでしょうか。
両方とも日朝の中世史には欠かせない出来事ですから、教わる価値は十分にあるはずです。
ましてこの当時の政治的・商業(あるいは貿易)的対立は、現代とは次元が異なりますし…。
高校の教科書には出てきますので、その際に教わるのではないかと思いますよ。
紗那 当時は、朝鮮との関係も良好だったわけですね。
この前の韓国併合の講座の話と対照的な内容です。
なぜ、朝鮮は貿易を統制したのでしょう……?
紗那さんへ
黒田裕樹 > 当時は、朝鮮との関係も良好だったわけですね。
> この前の韓国併合の講座の話と対照的な内容です。
日朝国交の樹立は倭寇の討伐が前提でしたからね。共通の敵(前期倭寇は日本人が中心なので複雑ではありますが)の存在は両国が手を握るのに役立ったといえるのでしょうか。
> なぜ、朝鮮は貿易を統制したのでしょう……?
当時の日朝貿易では、朝鮮国内における貿易関係者や輸送に関する経費が朝鮮の負担だったため、交易の増大はそのまま朝鮮の負担増につながったんですね。それに耐えかねた朝鮮が貿易の統制をはかりましたが、貿易で生計を立てていた宗氏にとっては深刻な問題になりました。こうした軋轢(あつれき)が三浦の乱の遠因になってしまったんですね。
黒田先生
風早 りら 木綿はこ頃の日本では生産されていなかった
のですね
以外でした
当たり前ように 日本が 原産生産したのだと
思っていました
毎日が感動です
ありがとうございます
ぴーち こんばんは!
(わ!一度書いたコメントが消えてしまいましたTT)
結構長く書かせていただいたんですが、気を取り直して
もう一度^^;(コピペしておくんだった・・)
麻は今でも暑い夏などには、好まれる素材で、肌に付きにくく、涼しく過ごせるので良いですが
やはり四季を通して好まれる素材は、木綿の方が断然頻度は高いですよね。
肌触りの柔らかさからして、今でも愛される素材ですね^^
そうですか。最初は朝鮮から伝わったものだったんですね^^存じませんでした。
応援凸
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 木綿はこ頃の日本では生産されていなかった
> のですね
> 以外でした
> 当たり前ように 日本が 原産生産したのだと
> 思っていました
> 毎日が感動です
> ありがとうございます
お言葉有難うございます。
我が国で木綿が本格的に栽培されるようになったのは16世紀のことです。それまでは輸入に頼っていたんですよね。現代では安い外国産に押されて衰退しつつあるのは残念ですが…。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > (わ!一度書いたコメントが消えてしまいましたTT)
> 結構長く書かせていただいたんですが、気を取り直して
> もう一度^^;(コピペしておくんだった・・)
私もよくやるんですよ(´・ω・`)
気落ちしてから立ち直るのが一苦労ですよね。
> 麻は今でも暑い夏などには、好まれる素材で、肌に付きにくく、涼しく過ごせるので良いですが
> やはり四季を通して好まれる素材は、木綿の方が断然頻度は高いですよね。
> 肌触りの柔らかさからして、今でも愛される素材ですね^^
> そうですか。最初は朝鮮から伝わったものだったんですね^^存じませんでした。
別の方にも書かせていただきましたが、我が国で木綿が生産されるのは戦国時代の頃です。
木綿の肌触りの良さは、現代においても別格ですよね(^^♪
我が国と朝鮮との日朝貿易(にっちょうぼうえき)は、幕府の他にも守護大名や有力国人(こくじん、地方豪族のこと)、あるいは商人までもが参加したために貿易船の数が非常に多くなりました。
このため、朝鮮は1443年に嘉吉条約(かきつじょうやく、別名を癸亥約定=きがいやくじょう)を結んで、対馬(つしま)の宗氏(そうし)に貿易の統制権を与えたことによって、これ以降の朝鮮との貿易は主に宗氏を通じて行われるようになりました。
なお、李成桂が建国した朝鮮は、古代に存在した古朝鮮(こちょうせん)と区別するために李氏朝鮮(りしちょうせん)とも呼ばれています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
李成桂が建国したので、李氏朝鮮。
「李氏朝鮮」と言うのは、恥ずかしながら
初めて聞いた言葉です^^;
勉強になりました。ありがとうございます!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 李成桂が建国したので、李氏朝鮮。
> 「李氏朝鮮」と言うのは、恥ずかしながら
> 初めて聞いた言葉です^^;
> 勉強になりました。ありがとうございます!
意外なところに国名の理由がありますよね。
今回のような内容でも、歴史を学ぶ際に役立てれば私もうれしいです(^^♪
こんにちは
冬灯 ごぶさたしております。
ようやく復活しましたので、早速遊びに
参りました^^
更新がストップ状態の時でもお立ち寄り
頂きまして、有り難うございました。
またちょくちょくと、遊びに来させて
頂きたいと思いますので、どうぞ宜しく
お願いします^^
久しぶりに歴史のお勉強をさせて頂きました。
冬灯さんへ
黒田裕樹 復活されましたか、良かったです(^^♪
これからもよろしくお願いします。
歴史のお勉強、いつでも気軽にお越し下さいね(^_^)v
黒田 先生
風早 りら 「朝鮮が我が国に倭寇の禁止と通交とを求めると、当時の室町幕府の第3代将軍であった足利義満が応じたので、日朝両国は国交を開きました」
日朝両国は国交はこ時から始まったのですね
全く知りませんでした
自分が どれだけ 分からないことが多いか
日々 先生の講座で実感します
ありがとうござます
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 「朝鮮が我が国に倭寇の禁止と通交とを求めると、当時の室町幕府の第3代将軍であった足利義満が応じたので、日朝両国は国交を開きました」
>
> 日朝両国は国交はこ時から始まったのですね
> 全く知りませんでした>
> 自分が どれだけ 分からないことが多いか
> 日々 先生の講座で実感します
> ありがとうござます
李氏朝鮮と我が国との国交はこの頃からですね。
それ以前の高麗とは正式な国交がありませんでした。
日朝の歴史にもいろいろありますので、今後も紹介できればと思います。
今回の講座に関しては、皆様から様々なご意見をいただきました。日韓併合に至る歴史については詳しくご存じなかった(あるいはこれまでに教えられていなかった)方が多かったようで、特に日韓併合条約が両国が合意のうえで、なおかつ国際的にも認められた合法的なものであったことに関しては、大きな反響があったようです。
今までの繰り返しになりますが、歴史教育は事実に基づいた、かつ第三者的な視点から行うことが大原則です。日本人である以上は日本の立場から考えることはあったとしても、公平な感覚を失ってはいけません。しかし、近現代史の、特に我が国と朝鮮半島との関係においては、必ずしも原則どおりには進んでいないようです。
朝鮮半島の人々に対して個人的に謝罪の気持ちを抱くことは自由ですが、内閣総理大臣のような公的な立場の人物が、個人の感情との区別をせずに意見を述べることは、国益にかなった行為とは言い難いのではないでしょうか。また、歴史的経緯を無視した発言が見られることに関しては、歴史に対する「無知」の印象すら感じられますが、国の命運を託された為政者が歴史を知らないという事態はいかがなものでしょうか。
もっとも、私は今回「併合までの歴史」しか述べておらず、その後の日朝関係について紹介しなければ片落ちであるとも言えます。私自身もさらに研究を重ねて、いずれは「併合後の歴史」についても紹介させていただきますので、その際にもよろしくお願いいたします。
(※次回[9月22日]より通常の更新=室町時代に戻ります)




いつも有難うございます。
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風早 りら 「内閣総理大臣のような公的な立場の人物が、個人の感情との区別をせずに意見を述べることは、国益にかなった行為とは言い難いのではないでしょうか」
今回の先生の講座で この事を自覚した
人も多いと思います
あまりにも この件に 限らず
国益にかなった事が出来無すぎです
かなり 怒りたくなる事があります
こんばんわ^^
waravino 日韓両国において正しい歴史教育が行われるよう願ってやみません。講義。お疲れ様でした^^)/
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 「内閣総理大臣のような公的な立場の人物が、個人の感情との区別をせずに意見を述べることは、国益にかなった行為とは言い難いのではないでしょうか」
> 今回の先生の講座で この事を自覚した
> 人も多いと思います
> あまりにも この件に 限らず
> 国益にかなった事が出来無すぎです
> かなり 怒りたくなる事があります
りらさんのお怒りが、サイレントマジョリティーの国民の総意だと思います。
人の上に立つ人物は、文字どおり分別のある人間であってほしい。自戒を込めて痛感します。
waravinoさんへ
黒田裕樹 > 日韓両国において正しい歴史教育が行われるよう願ってやみません。講義。お疲れ様でした^^)/
お言葉有難うございます。waravinoさんのお考えは、私の切なる願いでもあります。
公平な視点での正しい歴史教育が行われることを切望します。
ぴーち こんばんは!
最近の政治家さん達は、自分の立場を忘れ
公私混同するような発言をされる方が多いですね。
私達一般人が語っている分には、何の影響も無い発言でも、一国の首相や、大臣が口にすると問題になりますね。
そこの所はよく熟慮していただき、後先考えない様な
発言は控えていただきたいと思います。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 最近の政治家さん達は、自分の立場を忘れ
> 公私混同するような発言をされる方が多いですね。
> 私達一般人が語っている分には、何の影響も無い発言でも、一国の首相や、大臣が口にすると問題になりますね。
> そこの所はよく熟慮していただき、後先考えない様な
> 発言は控えていただきたいと思います。
まさにその通りだと思います。
自分の地位や立場に責任を持って、国益にかなった政治を行ってほしいですよね。
そのためにも不用意な発言をしないように、くれぐれも熟慮をお願いしたいものです。
お願いします
オバrev 総理大臣はもちろん国会議員の方々は、日本国民の支持を得て議席を得ている以上、国益を最優先にしてほしいですね。
どうも最近、そうではないとしか思えないことが目立っていますので・・・
そうだ!黒田先生、ぜひ国会議員を対象にした「歴史講座」をお願いします(^^;)
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 総理大臣はもちろん国会議員の方々は、日本国民の支持を得て議席を得ている以上、国益を最優先にしてほしいですね。
> どうも最近、そうではないとしか思えないことが目立っていますので・・・
全くその通りですね。尖閣諸島をめぐる問題に関しては気を吐いている部分もありますが…。
> そうだ!黒田先生、ぜひ国会議員を対象にした「歴史講座」をお願いします(^^;)
………(^^ゞ
今はとても顔ではありませんが、それくらいの実力を蓄えるのもまた漢(おとこ)ではありますね。
「事実」というものの見方。
晴雨堂ミカエル 人間というものは主観によって「事実」を無意識に「編集」するものです。同じ個人でも、幼児の頃は「広い」と感じた小学校の運動場が中学生になって母校の小学校が「狭い」「小さい」と感じてしまう、そんな変化があります。
交通事故をはじめとする法廷闘争も然りです。相手は嘘をついていると憤ったり、あるいは事実を淡々と述べているつもりなのに相手方弁護人の追及で自分の記憶に自信がなくなったり。
ましてや、国家間の問題となれば何を言わんがです。単純に考えて、双方の言い分に対して双方の国民が支持する訳です。主張する人が自分1人で、周囲が「間違っている」と言われれば考えを変える気にもなるかもしれませんが、日本には1億人、中国では10億人の世論がある訳です。
それを利害関係や漠然とした友好イメージなどを絡めて落としどころを作るのが政治家なのですが。
護憲派市民の平和思想は傾聴に値する部分も多々ありますが、問題なのは韓国朝鮮への「初恋」感情にも似た同情と憧憬の念、日本の国家権力に対する裏付けの無い憎悪(彼等に言わせれば裏付けは五万とあるが、直接自分が迫害を受けた訳ではない)です。
彼等彼女の歴史観では、アイヌモシリ(北海道)を侵略し、琉球(沖縄)を侵略し、台湾を分捕り、その延長線上に日韓併合があったという事です。朝鮮を清国から「独立」させ日本の保護領としたのも併合のためのプロセスに過ぎない。
私はそういう「事実」の見方も一理あると思う。ただ、伊藤博文が植民地化に反対であったことも合わせて認めてほしい事実です。日清戦争前夜、開戦へと舵をきろうとする軍部に難色を示し続けたのも伊藤博文でした。彼はヨーロッパ列強の連合艦隊によって長州が無様に大敗した苦い経験から慎重だったのです。
お互いが憎き相手の弁護士になったつもりで事実を再検証する習慣をつけてほしいものです。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
> それを利害関係や漠然とした友好イメージなどを絡めて落としどころを作るのが政治家なのですが。
落としどころどころか、今はむしろ政治家が率先して逆方向へ足を引っ張ろうとしているような気がしますね。
> お互いが憎き相手の弁護士になったつもりで事実を再検証する習慣をつけてほしいものです。
そのとおりだと思います。憎むからこそ弁護をすれば、相手の気持ちが一番よく分かりますからね。
現実には有り得なさそうですが…。