さて、2度目の東京講演となりました8月7日の第17回「黒田裕樹の歴史講座」では、12名の皆様にご参加いただくことができました。
次回(第18回)の歴史講座は「日韓併合 ~100年目の真実」と題して、当講座では初めてとなる本格的な近現代史について大阪・梅田で8月28日(土) の午後3時30分より開始致します。
今年(平成22年)は日韓併合からちょうど100年の節目に当たりますが、我が国での日韓併合に関するイメージとしては、総理大臣の談話にもあったように「日本が、嫌がる大韓帝国を強引に併合して、朝鮮半島の人々に多大な迷惑をかけた」というイメージが強いように見受けられますが、これは本当のことなのでしょうか。
そもそも、当時の韓国はなぜ我が国に併合されなけれないけなかったのでしょうか。そのあたりの歴史的経緯を知ることが、日韓併合に関する真実を理解することにつながると思います。
次回の講座では、韓国が我が国に併合されるまでの歴史について、当時の世界情勢も踏まえながら可能な限り公平な視点で探っていきたいと思います!
第18回「黒田裕樹の歴史講座」
日時:平成22年8月28日(土) 午後3時30分より
内容:「日韓併合 ~100年目の真実」
場所:梅田東学習ルーム
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:無料
ブログをご覧の皆様も、よろしければ是非ご参加下さい。この記事のコメント欄をご活用いただければと思います。また、今回の講座の内容については、前回までと同様に、後日にはブログ上で映像とともに発表しますので、是非ご覧になって下さい。
なお、予約の都合上、当日の教室一覧(午後)の掲示板に「大阪読書研究会」と書かれているのが「黒田裕樹の歴史講座」の会場となります。ご注意下さい。
今後の講座の開催予定は下記のとおりですが、第19回歴史講座につきましては、都合により10月に延期しますのでご注意下さい(理由については後日お知らせします)。
第19回 「織田信長 ~歴史の転換者」
日時:平成22年10月23日(土) 午後3時30分より
場所:梅田東学習ルーム
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:無料




いつも有難うございます。
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zyukenboy すいませんまたお願いします。今回は少し抽象的なのですが……
1、江戸時代、蔵屋敷とか蔵元、掛屋、札差しなどが商品の流通に関わりますが、彼らの役割がよくわかりません。仕組みを教えてください。
2、なぜ大名などは掛屋などにお金を借りなければいけなかったのでしょうか?年貢を重くすればいいのでは?
今回もよろしくお願いします。
いつも拝見しております
儒侠の瓠洲 人間学を活学する為の名著選blogの瓠洲と申します。勝手ながらリンクを張らせて頂きました。^^; もしご迷惑であれば、仰有って下さい。
zyukenboyさんへ
黒田裕樹 江戸時代は秀吉による太閤検地によって石高制が定着していました。つまり、米を銭のような貨幣の扱いとする「米本位制」の時代でもあったのです。現実に、武士に対する俸禄は米で支払われていました。
貨幣と同じ価値を持つ米ですから、当然その扱いは慎重を期さなければいけません。そこで、商業が発展していた大坂を中心とする各地に、藩が米を貯蔵する目的で蔵屋敷が次々と建てられていったのです。
蔵屋敷には藩の役人と商人がおり、商人は蔵元や掛屋と呼ばれていました。このうち、掛屋は両替商のことであり、蔵屋敷から預かった資金を元手に投機を行って莫大な利益を得る者もいました。一方、幕府の旗本や御家人に対して支給される米は、札差が仲介していました。
江戸時代も中期に入って貨幣経済が発展すると、銭による取引が中心となり、商品の一つにすぎない米の値段が下がったことで、幕府や藩の収入が減り、やがて多くの藩が資金繰りに苦しむことになりました。困った藩は蔵元や掛屋から、旗本や御家人は札差から借金をするようになります。いわゆる大名貸ですね。
年貢を重くすれば、負担に耐えかねた農民は一揆を起こします。藩内で一揆が多発すればお取り潰しの原因となりますから、うっかり年貢を上げることもできません。一方、一揆が起こっても取り潰しの心配がない幕府の天領では吉宗の時代の末期に増税が行われ、一揆が多発した代わりに幕府の財政は一時的に回復しています。
今回はこんなところでしょうか?
儒侠の瓠洲さんへ
黒田裕樹 > 人間学を活学する為の名著選blogの瓠洲と申します。勝手ながらリンクを張らせて頂きました。^^; もしご迷惑であれば、仰有って下さい。
はじめまして。お言葉有難うございます。
リンクの件、喜んでお受けします。こちらからもリンクさせていただきますね。
.
儒侠の瓠洲 ありがとうございます!
これからもお邪魔致します!^^
zyukenboy わかりやすく書いていただきありがとうございました。
すいませんが、蔵元と掛屋はどう違うかもお願いできますか?
儒侠の瓠洲さんへ その2
黒田裕樹 お言葉ありがとうございます。
こちらこそよろしくお願いしますm(_ _)m
zyukenboyさんへ その2
黒田裕樹 お役に立てたようで何よりです。
> すいませんが、蔵元と掛屋はどう違うかもお願いできますか?
蔵元は蔵屋敷で扱う品物の管理や売却を行う業務で、掛屋は品物の売却代金などの管理や出納を行う業務です。つまり、蔵元は品物そのものを、掛屋は品物の代金を管理しているというわけですね。掛屋が両替商を兼務する理由もここにあります。なお、蔵元と掛屋を兼務する商人も多かったそうですよ。
zyukenboy 本当にありがとうございました。
勉強頑張ります(^^ゞ
zyukenboyさんへ その3
黒田裕樹 > 本当にありがとうございました。
> 勉強頑張ります(^^ゞ
いえいえ、また何でもご質問下さい(^^♪
しかし、征夷大将軍になるといっても、かつての源頼朝や足利尊氏がそうであったように、源氏の血を引いていなければ将軍になれないという不文律(ふぶんりつ、文章で表現されていない規定のこと)があったのですが、家康はこの規定をあっさりとクリアしていました。そのカギを握ったのが「松平」から「徳川」への改姓です。
松平家はそもそも賀茂氏(かもし)の出身とされていましたが、源氏の血を引く新田氏(にったし)の末裔(まつえい、子孫のこと)である得川氏(とくがわし)が松平家に婿養子(むこようし)として入ったのがルーツであると朝廷に認められ、得川を「徳川」と名乗ることで改姓に成功しました。
手法自体は強引であったものの、朝廷によって「源氏の末裔」であることが公的に認められた家康は、関ヶ原の戦いの後に征夷大将軍に就任することに成功して、江戸幕府の開設に大きく前進することになりました。
ですが、せっかく創設された徳川家も子孫が絶えてしまっては元も子もありません。思案した家康が注目したのは、1000年をはるかに超える長い年月の間ずっと血統を保ち続けている皇室に隠(かく)された宮家という名のシステムでした。




いつも有難うございます。
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風早 りら 松平家はそもそも賀茂氏(かもし)の出身とされていましたが、源氏の血を引く新田氏(にったし)の末裔(まつえい、子孫のこと)である得川氏(とくがわし)が松平家に婿養子(むこようし)として入ったのがルーツであると朝廷に認められ、得川を「徳川」と名乗ることで改姓に成功しました。
あの手この手作戦で
家康はすさまじい人ですね
ここまで知恵がよく働くと思います
でも 現代何故か人気はあまりありません
.
ぴーち こんばんは!
「得川」から「徳川」ですか。
確かに漢字の意味合いからしても、
「得」は、利益などという露骨な意味合いがありますが、
「徳」のほうですと、品格、品性と言う良いイメージがありますので、
同じ呼び名でも、改名したくなりますよね。
まさに、家康の下心を隠そうとする改名ですかね^^;
応援凸
PS・鯉さん、凄い勢いですね!!
2連勝おめでとうございます☆
明日は頑張ります(^^A
風早りらさんへ
黒田裕樹 > あの手この手作戦で
> 家康はすさまじい人ですね
> ここまで知恵がよく働くと思います
> でも 現代何故か人気はあまりありません
確かに頭がよく働きますよね。
でも人気がない。それには理由があるのですが…。
いずれこの講座で紹介させていただきます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 「得川」から「徳川」ですか。
> 確かに漢字の意味合いからしても、
> 「得」は、利益などという露骨な意味合いがありますが、
> 「徳」のほうですと、品格、品性と言う良いイメージがありますので、
> 同じ呼び名でも、改名したくなりますよね。
> まさに、家康の下心を隠そうとする改名ですかね^^;
確かにそういうイメージがありますよね。
日本人が重要視する「徳」にこだわったのかもしれません。
カープは残された試合を全部勝つつもりで頑張ってほしいものです。
.
そうめん 徳川氏は元は「得川」だったんですか・・
参考になりました(^^;)
・・良く頭が働きますね。。。
そうめんさんへ
黒田裕樹 > 徳川氏は元は「得川」だったんですか・・
> 参考になりました(^^;)
> ・・良く頭が働きますね。。。
確かに良く頭が回りますね…。
徳川家のためにあらゆる手段を尽くす。これも一つの生きざまですね。
旧宮家
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
天皇が、なぜ、1000年を越える血統を保ってきたのかは、不思議だったのですが
それは、宮家にあったのですね。
そこで、黒田先生にお尋ねしたいことがあります。
戦後、GHQによって、廃止された宮家があると
聞きましたが
もし、今後、未来において、直系の男系の皇位継承権者がいなくなった場合、旧宮家の復活は
必要だとお考えですか?
それと、1000年の間、宮家は、どのくらいまで
遡って、皇位継承者を選んできたのでしょうか。
というのも、
徳川幕府でも、
将軍家の直系が7代で途絶え、
徳川吉宗の直系が9代~14代で途絶え
最後の将軍の15代は、水戸家からでした。
1000年を越える血統を保とうと思うと
かなりの宮家の存在が必要になると思います。
青田さんへ
黒田裕樹 皇室の未来のことを思えば、確かに旧宮家の復活は考えるべきかもしれませんね。
かつて江戸時代に閑院宮家があったお蔭で皇統を維持できたということもありましたから。
幕府
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
この幕府について、いつも疑問に思うことがあります。
それは、徳川家康は、織田信長、豊臣秀吉のように天下取りのレースで、当初、西に向かわなかったのに結果的に幕府を開き、天下を取りました。
鎌倉時代の源頼朝、その後の北条氏も京に上らず、鎌倉幕府を開きました。
そう考えると、
京に上る= 天下を取る
とは、一概には、言えないようですね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 天下を取るといっても、武士の本拠地は伝統的に東国ですからね。
戦国大名も大部分は自己の領地拡大が最大の目的であり、上洛を目指したのはむしろ少数でした。
その目的も、当時の幕府が京都にあって、幕府に対して何らかの利益を得ようとするのが主な目的でした(もちろん朝廷とのパイプをつくることもありましたが)。
そう考えれば、天下を取ることは必ずしも上洛することとは言えないかもしれません。
ただし、上記のカッコ書きのように、朝廷とのつながりを保つために一度は上洛する必要はあったと思われますが。