この作戦が功を奏(そう)して、家康は大坂城の外堀(そとぼり)を埋(う)めるという、徳川家にとって有利な条件で講和に持ち込むことに成功すると、その工事の際にどさくさにまぎれて内堀(うちぼり)まで埋めてしまいました。いかに巨大な大坂城といえども、堀がなくては裸(はだか)も同然です。
翌1615年5月、再び徳川家に攻められた大坂城は、豊臣方の各兵の奮戦(ふんせん)もむなしく落城し、秀頼と母親の淀殿(よどどの)は自害しました。世にいう「大坂夏の陣」(おおさかなつのじん)です。この戦いの後、秀頼の子で8歳になる男子も捕えられて首をはねられ、豊臣家は完全に滅亡しました。
豊臣家を滅ぼすためには手段を選ばず、またわずか8歳の子であっても容赦なく首をはねたことで、家康に対する悪いイメージは完全に定着してしまったのですが、家康には家康なりの筋の通った考えがありました。なぜなら、これらの手法(しゅほう)は勉強家の家康が「歴史に学んだ」結果でもあったからです。




いつも有難うございます。
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紗那 そうですね、この話で家康悪い人イメージが定着しました。
悪いというよりは、ずるがしこいとも言いますか……?
次の記事、気になります
紗那さんへ
黒田裕樹 > そうですね、この話で家康悪い人イメージが定着しました。
> 悪いというよりは、ずるがしこいとも言いますか……?
本当にそうですよね。
「ずる賢い」「汚い」という家康の一面的なイメージが完全に定着してしまってます。
> 次の記事、気になります
次回(23日)からは家康の見方が180度変わりますよ。ご期待下さい!
.
ぴーち こんばんは!
ああ・・
この場面は黒田さんが殊更
力が入った場面でしたよね^^
こうして改めて内容を伺っていると、一代でのし上がる為には必ずと言って良い程、その裏で泣かされる者や、命を絶たれてしまう存在があるものですよね。
家康は、戦術の上手さや、政治的手腕には長けていても、人道的には手段を選ばぬ、極悪非道な行いが彼の評価を落としていったのですね。
特に日本人は非人道的な考えや行動には、拒絶反応を示す傾向が強いですね。義理、人情に殊更厚い関西の方の気質には特に憎悪を覚える家康の行動だと推測しました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この場面は黒田さんが殊更
> 力が入った場面でしたよね^^
そうでした(^^ゞ
前半の言わばヤマ場でもありましたからね。
> こうして改めて内容を伺っていると、一代でのし上がる為には必ずと言って良い程、その裏で泣かされる者や、命を絶たれてしまう存在があるものですよね。
> 家康は、戦術の上手さや、政治的手腕には長けていても、人道的には手段を選ばぬ、極悪非道な行いが彼の評価を落としていったのですね。
見た目はどう取り繕っても極悪非道ですからね。致し方ない面があると思います。
ただ、個人の評価としてはどうなるのか、ということなんですよね。
> 特に日本人は非人道的な考えや行動には、拒絶反応を示す傾向が強いですね。義理、人情に殊更厚い関西の方の気質には特に憎悪を覚える家康の行動だと推測しました。
言われてみればそのとおりですね。
豊臣家を滅ぼした憎いやつだけでなく、そんな要素まで加わったら…。
.
アースガイド ジェット・リーの映画「英雄」
の始皇帝のように、
悪になってでも統一和平を目指さないといけない時代だったのでしょうね。
今の時代に生まれて良かった・・・のかな??笑。
アースガイドさんへ
黒田裕樹 > ジェット・リーの映画「英雄」
> の始皇帝のように、
> 悪になってでも統一和平を目指さないといけない時代だったのでしょうね。
> 今の時代に生まれて良かった・・・のかな??笑。
確かに家康に限らず、天下統一に関しては多くの血が流れることもあって、悪のイメージが定着していますね。
今の世の中は…現状では確かに平和ですよね(^^ゞ
歴史のif
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
よく、考えたら、豊臣方の油断は、自然と
思えてきました。
というのも、徳川家康の年齢は、豊臣秀吉の4つ下です。
関ヶ原の戦いの時、徳川家康は、すでに57歳でした。
そう考えると、淀の方が、家康の言葉を最初は、
信じたのも、家康の年齢もあったと思います。
まさか、家康が57歳から、74歳まで、生きるとは、大阪方も考えていなかったでしょうね。
ということは、もし、徳川家康が、関ヶ原から、
大阪の陣までの間に寿命で、亡くなっていたとしたら、
歴史は、どうなっていたでしょうか。
可能性としては
① 豊臣家は、60万石の大名として残る。
・・秀忠の娘の嫁ぎ先であり、お江は、淀の方の
妹なので。。
② 江戸幕府が、長期化するが、いずれは、豊臣家を取り潰す。
黒田先生は、どういうifが有り得ると思いますか。
青田さんへ
黒田裕樹 以前の講座で紹介しました「関ヶ原の戦いで家康が負けて生き残った場合」に近いと思われます。
恐らくは西日本を豊臣家、東日本を徳川家が支配する「二重政府」の状態が長く続いたでしょう。そして、両者の間には当然のように戦いがずっと繰り広げられます。
大阪の人間としては考えるに忍びないですが、豊臣家が中途半端に残っている以上、我が国の平和の達成は非常に遅くなったでしょう。その隙を外国につけ狙われれば…。
豊臣家の存続方法
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
NHKの大河ドラマ『江』を観ているのですが
大阪の陣の時の徳川家康の観ていると、
どうしても凄まじい怒りを感じます。
たしかに、平清盛は、源頼朝、源義経を許して
その後、平氏は、滅ぼされましたが、
私は、豊臣家が大名として、生き残る道は
あった気がします。もちろん、そのためには
淀の方、秀頼の態度も軟化させる必要がありますが。。(秀頼が徳川家に臣従するカタチ)
というのも、
豊臣秀吉が天下を取っても、織田家は、大名としては、江戸時代も残りました。
黒田先生は、豊臣家が、大阪からの国替えに応じて、徳川家に臣従を違うと豊臣家は、残ったと
思いますか。それとも、それでも、家康は、豊臣家を滅ぼしたと思いますか。
ただ、織田家と豊臣家との大きな違いは、
関ヶ原浪人の存在があるか、ないかも大きな
要因なのかもしれませんね。
結果は、わかっているのですが、心情的に豊臣家には、残って欲しい気がします。
青田さんへ その2
黒田裕樹 あくまで推論の域を出ませんが、私は豊臣家の存在を家康は許さなかったと思います。
史実の豊臣家の滅亡まで関ヶ原から15年近く経過していますが、家康は将軍就任やその継承、幕府体制の基礎をつくるなど着実に手を打っています。
恐らくは自己の寿命を計算に入れたうえで豊臣家をはめる形で方広寺の梵鐘への言いがかりを考えたと思われます。
また、家康が豊臣家を許さなかったもう一つの理由として、史実の淀殿の高い自尊心が豊臣家による徳川家への臣従を許さなかったことを見抜いていたからではないでしょうか。