結局、家康は泣く泣く信康に切腹(せっぷく)を命じて、築山殿を殺害しました。信長との同盟関係を維持(いじ)することで、徳川家の繁栄(はんえい)や、ひいては家臣や領民の平和を守るために、非情(ひじょう)の決断を下(くだ)さざるを得なかったのです。
「平和を保つ」ということは、口で言うのは容易(たやす)いものの、時には身を切られる思いをしなければならないほどの厳(きび)しい決断を迫られることがあるということを私たちに教えてくれるエピソードでもありますね。
その後、1582年に起きた本能寺の変(ほんのうじのへん)で信長は明智光秀(あけちみつひで)に殺害されましたが、このとき家康はわずかな家臣とともに堺(さかい)にいました。落ち武者狩(が)りによって生命が奪われる危機でしたが、伊賀(いが、現在の三重県)の山々を強引に越えて何とか難を逃れました。
三河に戻った家康は、謀反(むほん)を起こした光秀を討って天下取りに名乗りを挙げようとしましたが、既(すで)に秀吉によって光秀が討たれた後でした。秀吉による常識はずれのスピードに、さしもの家康も勝てなかったのです。それでも家康は来るべき秀吉との戦いに備え、信長の死後の混乱に乗じて甲斐などを治(おさ)めて領土を拡大していきました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
平和を願う。平和を保つ。
仰るとおり、口で言うのは容易い事ですが、家康の生涯の中では、その平和を保つ為の代償は、相当な辛い選択であったのですね。。
こうしてみると・・家康のエピソード以外の人類が生きて来た歴史の平和の陰には、その犠牲になった者が必ず居るという事実を私達は、改めて認識していかなければ、ならないのでしょうね。勉強になりましたm(__)m
応援凸
.
そうめん お、遂に本能寺の変が出てきましたか~
織田信長は明智光秀に殺されましたよね。
家康は堺に居たんですか・・
生命が奪われる危機だったとは・・参考になりました(^^;)
P.S
バトン回しました。
出来ればで良いですよ。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 平和を願う。平和を保つ。
> 仰るとおり、口で言うのは容易い事ですが、家康の生涯の中では、その平和を保つ為の代償は、相当な辛い選択であったのですね。。
そうなんです。
家康も人の子ですから、家族を守るために信長と戦う選択肢も頭の中にあったはずですが、徳川家を守るとともに領民の平和と安全の保障のためには、それこそ血を吐くような決断をせざるを得なかったのですから。
> こうしてみると・・家康のエピソード以外の人類が生きて来た歴史の平和の陰には、その犠牲になった者が必ず居るという事実を私達は、改めて認識していかなければ、ならないのでしょうね。勉強になりましたm(__)m
有難うございます。
仰るとおり、家康のように表沙汰になった以外にも、数えきれない人々の犠牲によって、我が国のみならず世界の平和が守られてきていると考えるべきでしょう。私たちはそのことに気付くとともに、犠牲になった人々に感謝すべきだともいえるのです。
.黒田裕樹先生
風早 りら 今回の先生のアップで
思いましたが 家康は
相当 頭が切れる人ですね
先見の眼があるとはこの事
でしょう
そうめんさんへ
黒田裕樹 > お、遂に本能寺の変が出てきましたか~
> 織田信長は明智光秀に殺されましたよね。
有名な話ですからね。
明智光秀については昨年の今頃に私の講座で紹介していますよ。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-193.html
> 家康は堺に居たんですか・・
> 生命が奪われる危機だったとは・・参考になりました(^^;)
信長の招待を受けて、たまたま少人数で旅行中だったんです。
信長の領地内でその信長が殺されたことによって、周囲が一気に敵だらけになってしまったのですから、家康は絶望的な思いになったと思われます。よく生きて自領の岡崎へ戻れましたよね。
> P.S
> バトン回しました。
> 出来ればで良いですよ。
バトンですか(^^ゞ
ブログの性格上、ここで記事にはできませんが何とかしてみましょう。
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 今回の先生のアップで
> 思いましたが 家康は
> 相当 頭が切れる人ですね
> 先見の眼があるとはこの事
> でしょう
確かに現状だけでなく、将来の展望も考えて行動できた武将だったといえます。
だからこそ最終的な天下統一も可能になったのでしょうね。
耐える
ken 家康の様に耐えて、先見ある人物をめざしたいですね。
みてもだめ。
きいてもだめ。
いってもだめ。
昔のひはすごいですよね。
kenさんへ
黒田裕樹 > 家康の様に耐えて、先見ある人物をめざしたいですね。
> みてもだめ。
> きいてもだめ。
> いってもだめ。
> 昔のひはすごいですよね。
お言葉有難うございます。
私も家康個人の好き嫌いは別にして、彼の辛抱強さは見習わなければいけないと実感しております。
先見の明は本当にすばらしいですね。
家康の家族への非情さ
青田です。 黒田先生
おはようございます。
青田です。
織田信長は、何度も裏切る弟の信行を殺した以外
妻にも優しく、子供にも優しいマイホームパパでした。
豊臣秀吉も、晩年に甥の秀次を殺すまでは
妻・実母・妹・弟・そして、秀次を愛するよき
マイホームパパでした。
それにたいして
徳川家康は、身内には、厳しすぎます。
◆ 妻の築山殿を殺害し、旭姫(秀吉の妹)もスグに亡くなり
◆ 子供は、長男信康切腹、次男秀康は、人質に差し出す、六男忠輝は、追放。
家康がイイお父さんになったのは、関ヶ原の戦いの後に生まれた御三家の藩祖となる3人の息子からです。
平和主義者としての徳川家康は、認めますが
信長、秀吉と比べた場合、完全な家庭崩壊者ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 家康の場合、次男は母親の影響で我が子かどうか疑っていたという話が残っていますね。六男はキリシタンだったことで追放されたという俗説もあるようです。
いずれにせよ、尋常の父親のやることではありませんね。平和は非情さがないと達成できないことを如実に物語っています。
さらに付け加えるのであれば、晩年の三人の息子も家康にとっては「万が一のための保険」であり、父親としての愛情だったかどうかが疑われるところでもありますが。