信長が桶狭間(おけはざま)で休息中の義元を急襲(きゅうしゅう)して、その首を落とすことに成功したのです。世にいう「桶狭間の戦い」によって、元康の運命は大きく変わることになりました。
元康は戦後の混乱で無主(むしゅ)となっていた岡崎城に入ると、その後の今川家とのいさかいを切り抜けて、やがて三河一国の大名となったのです。この間に信長と同盟(どうめい)を結ぶことにも成功し、自分の名前も「徳川家康」と改めました。このうち、名前については「元康」の「元」が今川義元からもらったものだったのでこれを捨てたのですが、「徳川」への改姓の理由は後に紹介します。
三河一国を支配し、また信長と結んだことで大名として大きく成長した家康でしたが、その後の人生にはまだまだ数多くの苦難が待ち受けていました。




いつも有難うございます。
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風早 りら 「徳川」への改姓の理由
かなり 興味があります
信長と家康は一時
かなり 仲が良かったようですね
織田家に 家康がいたころ
交流があったからでしょうか
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 「徳川」への改姓の理由
> かなり 興味があります
講座の後半で詳しく紹介しますので、今しばらくお待ち下さいね。
> 信長と家康は一時
> かなり 仲が良かったようですね
> 織田家に 家康がいたころ
> 交流があったからでしょうか
同盟が長く続いたことで、一般にはそういうイメージがありますね。
幼少期の竹千代とうつけ者の信長に交流があった可能性も高いですし。
ただ、同盟は必ずしも一枚岩ではなかったようです。詳しくは明日(17日)以降の更新で紹介します。
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ぴーち こんばんは!
今更ながらの素朴過ぎる質問ですが(笑)
家康は、幼少の頃から数えて合計4回改名した事になるのでしょうか。
通常はそんなに改名しないような気がしましたが、私の勘違いなのでしょうか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今更ながらの素朴過ぎる質問ですが(笑)
> 家康は、幼少の頃から数えて合計4回改名した事になるのでしょうか。
> 通常はそんなに改名しないような気がしましたが、私の勘違いなのでしょうか?
この頃の武将は、若い頃の幼名から元服時に改名するのが普通でした。その際には仕えた大名の一字をもらうことが多く、竹千代の場合は今川義元の名前から元信を名乗ったのですが、その後に祖父の元康の名をもらって元康と改名しています。
桶狭間の戦い後には義元の元の字を捨てて家康と名乗り、さらに徳川に改姓していますから、確かに多いですね。ただ、改名や改姓にはそれぞれの事情があり、さながら出世魚のような思いもします(笑)。
この同盟の意味
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
この同盟の意味は、織田信長にとって、
非常に重要ですね。
というのも、まだまだ、弱小大名である
徳川家康が
一番、巨族にたいする防波堤になってくれるからです。
武田家、北条家という一番、やっかいな
敵を徳川家が、引き受けてくれるのは、
織田信長にとって、非常に助かります。
逆に、徳川にとっては、織田信長という後ろ盾が
あったとはいえ、相当、重かったと思います。
幸い、武田信玄が信濃攻略を巡り、上杉謙信・北条氏康と戦いあってくれて、西に意識を集中しなかったことが徳川家康が小さくても、対応できたと思います。
そう考えると、武田信玄の川中島での10年間は
あまりにも、エネルギーを使いすぎてしまったように思います。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、この同盟は信長にとっては非常に大きかったと思います。
その一方で家康も東へ目を向けることができたものの、信玄の脅威は相当だったと思います。
信玄の「失われた10年」はあまりにも大きすぎました。
もし信玄が謙信と早目に和睦して西へ目を向けていれば…。
もっとも、仮に信玄が天下を取ったとしても、長続きは絶対できなかったと考えられます。
詳しくはこちらの講座をご覧下さい。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-410.html