「竹千代様がおられる限り、松平家はきっと復興(ふっこう)できる」。そう信じた三河衆は食うや食わずの生活を耐(た)え忍(しの)び、また戦(いくさ)の最前線に送られても、生き延(の)びるために懸命(けんめい)に戦いました。こうした境遇(きょうぐう)が、やがて三河兵を最強の軍団へと成長させたのです。その強さは、後に「三河兵1人は尾張(おわり、現在の愛知県西部)兵の3人に匹敵(ひってき、肩を並べること)する」と言われたほどでした。
今川家の人質となって、周囲から陰湿(いんしつ)なイジメを受けながらもじっと我慢(がまん)を続けた竹千代にとっても、人質の暮らしは悪いことばかりではありませんでした。当時の駿府は戦乱を逃(のが)れた公家(くげ)たちが集まったこともあって、さながら「東の都」と呼ばれるような発展を見せていました。
竹千代は幼少期をそんな都市で過ごしたことで、三河で暮らしていれば絶対に身に着けられなかったと思われる高い教養を自分のものにすることができたのです。後の家康の愛読書に鎌倉幕府(かまくらばくふ)の誕生やその後を記(しる)した歴史書である「吾妻鏡」(あずまかがみ)がありますが、これらの教養が、江戸幕府の成立に深くかかわっていくことになります。
また、竹千代は周囲からのイジメを耐え抜く中で、いつかは松平家を復興してみせるという芯(しん)の強さを持つ一方で、そのためには何があっても辛抱(しんぼう)するという我慢強さや、周囲との協調を目指す中で腰の低さを身に着けました。やがて家康は、その義理堅(ぎりがた)さや実直(じっちょく)さから「律義者」(りちぎもの)として信頼される武将となり、後年(こうねん)の天下取りにも役立つことになったのです。




いつも有難うございます。
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紗那 逆境の中で、悪い方向に進む人もいますが、家康や三河の人たちには良い方向に作用したということですね。
ということは、三河の人たちはもともと芯が強かったということなんでしょうか。
.黒田裕樹先生
風早 りら 人質の暮らしは やはり
家康の辛抱強い性格の
源ですね
三河衆の家康を想う気持
今回の講座で よく 現われていて
感動しました
紗那さんへ
黒田裕樹 > 逆境の中で、悪い方向に進む人もいますが、家康や三河の人たちには良い方向に作用したということですね。
> ということは、三河の人たちはもともと芯が強かったということなんでしょうか。
そうですね。
三河の人々の芯の強さが、この後の活躍につながったと考えられます。
そして、この芯の強さは家康にも引き継がれているといえるでしょう。
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 人質の暮らしは やはり
> 家康の辛抱強い性格の
> 源ですね
> 三河衆の家康を想う気持
> 今回の講座で よく 現われていて
> 感動しました
悪い条件は、悪いなりの人間を強くするという見本ですね。
あきらめずに辛抱強く頑張った家康の底力と、彼を慕うと同時に希望の星と信じた三河衆との絆も感動ものです。
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ぴーち こんばんは!
三河衆の竹千代をカリスマの様に
慕い、信じる気持ちと、竹千代もまた、その気持ちに応えようとした思いが太い絆となり、心の拠り所となって、互いに良い結果を齎したのですね^^
「禍転じて福となす」のも、やはり前向きに辛抱したり、互いを信頼する気持ちがあってこそ。。
竹千代のどんな困難な事も、自分の糧にしていく姿勢、考え方は素晴らしいですし、その原動力は、やはり三河衆に頼りにされているという意識と、責任感の強さの表れだったのですね。
金八先生の話じゃないですが、
人という字の意味をふと思い出しました(笑)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 三河衆の竹千代をカリスマの様に
> 慕い、信じる気持ちと、竹千代もまた、その気持ちに応えようとした思いが太い絆となり、心の拠り所となって、互いに良い結果を齎したのですね^^
> 「禍転じて福となす」のも、やはり前向きに辛抱したり、互いを信頼する気持ちがあってこそ。。
> 竹千代のどんな困難な事も、自分の糧にしていく姿勢、考え方は素晴らしいですし、その原動力は、やはり三河衆に頼りにされているという意識と、責任感の強さの表れだったのですね。
> 金八先生の話じゃないですが、
> 人という字の意味をふと思い出しました(笑)
確かに金八先生の印象がありますね(笑)。
つくられたドラマと同じくらい、いやそれ以上に歴史のエピソードからは様々な教訓が残されているということなのでしょう。
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智里 なるほど・・・
これはこれで竹千代にも良かったし、三河衆にも良かったんですね。
だけど、多大な犠牲があったの事実。
そのことも家康は分かってたのかな?
それが分かってたからこそ、実直、堅実、義理堅い人になったのかな~。
智里さんへ
黒田裕樹 > なるほど・・・
> これはこれで竹千代にも良かったし、三河衆にも良かったんですね。
> だけど、多大な犠牲があったの事実。
> そのことも家康は分かってたのかな?
> それが分かってたからこそ、実直、堅実、義理堅い人になったのかな~。
まさに「禍福はあざなえる縄のごとし」ですね。
仰るとおり、自分に多大な犠牲が払われているということを知っていたからこそ、家康は「律義者」として評価れるような武将になったと思われますね。