さて、去る7月17日に第16回「黒田裕樹の歴史講座」を開催致しましたところ、13名の皆様にご参加いただくことができました。
皆様のご支援のおかげで産経新聞にも紹介された「日本一の歴史ブログ(日本史から昇格しました!)」である当講座ですが、次回(第17回)は2度目の東京(港区六本木)での講座となります。ぜひとも多くの皆様とお会いできればと願っております!
次回は8月7日(土)の午後3時30分より「徳川家康 ~歴史に学んだ平和主義者」というテーマで講演を行います。
徳川家康(とくがわいえやす)に関しては、皆さんはどのような印象をお持ちでしょうか?
彼に対しては、多くの人が決して良いイメージを持っていないのではないでしょうか。特に私の住む大阪では「太閤さん(=豊臣秀吉)の子孫を滅ぼしたとんでもないやつ」というイメージが定着しております。
しかし、彼の功績として間違いなくいえることは江戸幕府(えどばくふ)という約260年も続いた組織をつくったことであり、このことから家康には「平和主義者」の一面もあった、という結論が導(みちび)き出せます。家康の目的が「徳川家のため」であったとしても、結果として国民が平和を享受(きょうじゅ)できたことにつながっているからです。
また、家康は大変な勉強家でもあり、それがゆえに「歴史に学んだ」と思われる実績も数多く残しています。歴史に学ぶことは、成功だけとは限らず、失敗も数多くあります。家康は、そんな歴史における失敗から我が国の平和を保(たも)つにはどうすればよいのかということを学び、江戸幕府を創設する際の参考にしているのです。
では、家康が平和主義者といえるのはなぜでしょうか。また、彼は歴史からどのようなことを学んで我が国に平和をもたらしたのでしょうか。
次回は東京から、家康による我が国の平和の実現について探っていきたいと思います!
第17回「黒田裕樹の歴史講座」
日時:平成22年8月7日(土) 午後3時30分より
内容:「徳川家康 ~歴史に学んだ平和主義者」
場所:スター貸会議室 六本木一丁目
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:無料(カンパを受け付けます)
ブログをご覧の皆様も、よろしければ是非ご参加下さい。この記事のコメント欄をご活用いただければと思います。また、今回の講座の内容については、前回までと同様に、後日にはブログ上で映像とともに発表しますので、是非ご覧になって下さい。
なお、当日の講座終了後に場所を変えてオフ会を行う予定ですので、こちらにも是非ご参加ください!
今後の講座の開催予定は下記のとおりです。
第18回 「日韓併合 ~100年目の真実」
日時:平成22年8月28日(土) 午後3時30分より
場所:梅田東学習ルーム
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:無料
第19回 「織田信長 ~歴史の転換者」
日時:平成22年10月23日(土) 午後3時30分より
(※都合により日程を変更しております)
場所:梅田東学習ルーム
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:無料




いつも有難うございます。
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けん爺ちゃん こんばんは(^ワ^)
次回は東京講演ですか!?
実は今週末に熊本へ帰る予定なんです…残念です(;_;)
大阪ではやはりそういうイメージなんですね。
地域によって人物の評価が違うのは仕方がない事でもあるし、
多面的な見方・捉え方という歴史の根源を学べる事例ですよね。
西国の果てから
講演の成功をお祈りしてます。ぽちっ!
けん爺ちゃんさんへ
黒田裕樹 > 次回は東京講演ですか!?
> 実は今週末に熊本へ帰る予定なんです…残念です(;_;)
そうなんですか。なかなかうまい具合にはいきませんね(´・ω・`)
> 大阪ではやはりそういうイメージなんですね。
> 地域によって人物の評価が違うのは仕方がない事でもあるし、
> 多面的な見方・捉え方という歴史の根源を学べる事例ですよね。
太閤さんびいきの土地柄ですから、どうしても曇ったメガネでモノを見てしまいますからね。
家康の本当の姿を知ることができる良い機会だと思います。
> 西国の果てから
> 講演の成功をお祈りしてます。ぽちっ!
有難うございます(^^♪
いつかは九州講演を…。
質問です
zyukenboy このブログのおかげでいつも楽しく歴史を学べています♪
そこで質問なのですが、頼朝が死んだ後、北条氏が将軍になることはできないのでしょうか?
また、なぜ実朝が死んだからといって、後鳥羽上皇の考えが果たされなかったのですか?
zyukenboyさんへ
黒田裕樹 当ブログにいつもお越し下さって有難うございます。早速ご質問にお答えしたいと思います。
1.頼朝が死んだ後、北条氏が将軍になることはできないのでしょうか?
鎌倉幕府は頼朝が征夷大将軍に任じられたことで朝廷から公認された組織となりましたが、将軍の地位は朝廷から与えられたものであり、武士の中でもそれなりの身分や地位がないと就任できないものでした。
頼朝は清和天皇の血を引く源氏の直系であり、他の武士とは違って元々の身分が高かったので将軍になれたのですが、北条氏の場合は、さかのぼれば平氏の血を引いているとはいえ、かなり以前から地方に土着した武士であったことで、頼朝と比べて身分も地位も格段に低く見られていました。
このため、北条氏が将軍に任じられる見込みは全くなく、源氏の血を引く実朝や、後には摂関家や皇族を形ばかりの将軍にすえて、自らは執権として政治の実権を握る以外に方法がなかったのです。
2.なぜ実朝が死んだからといって、後鳥羽上皇の考えが果たされなかったのですか?
このご質問に関しては、まずは当時の実朝の置かれた環境についてお話ししたいと思います。
頼朝の失敗によって武士の心が源氏から離れたとはいえ、将軍に就任できる源氏の立場は幕府にとってはまだまだ重要だったことで、北条氏に逆らった兄の頼家に代わって将軍になった実朝でしたが、政治の実権が自分に与えられるはずもなく、文字どおり「飾り物」の毎日を余儀なくされました。
そんな実朝にとって、唯一といえる趣味が和歌をたしなむことでした。京都の公家から妻をもらったことも影響して、若い頃から朝廷の文化に触れた実朝の和歌の実力はめきめきと上達して、自分の和歌集(=金槐和歌集、きんかいわかしゅう)を編集したほどでした。
そんな実朝に、当時の朝廷の実力者であられた後鳥羽上皇が目をつけられたのです。上皇は、ご自身の腹心の部下である源仲章(みなもとのなかあきら)を実朝の教育係と称して鎌倉に派遣しました。実朝の信任を得た仲章は、自身の教養の深さもあって、幕府の一般政務や財政事務を行う政所(まんどころ)の長官である別当(べっとう)にまで出世しました。
後鳥羽上皇は、出世した仲章にご自身の意向を伝えて幕府を間接的にコントロールすることで、幕府を事実上朝廷の支配下に置こうと思われていたのです。
しかし、1219年に実朝が暗殺された際に、すぐ近くにいた仲章も同時に殺されてしまったことで、成功しかけていた後鳥羽上皇のご計画は完全につぶされてしまったのでした。実朝や仲章の暗殺をお聞きになった際の上皇の落胆、あるいは激怒ぶりが想像されます。
今回の件に関しては以上ですが、ご理解いただけましたでしょうか。また何でもご質問下さい。
zyukenboy ありがとうございました♪とってもわかりやすくて助かりました。
また何かあったら宜しくお願いします。
zyukenboyさんへ その2
黒田裕樹 > ありがとうございました♪とってもわかりやすくて助かりました。
> また何かあったら宜しくお願いします。
お役に立てて光栄です(^^♪
こちらこそよろしくお願いします。
.
ふぃる お久しぶりです。
東京での講義もあるんですね^^
本当に、読んでて楽しい
歴史ブログこれからも頑張ってください。
実は私も徳川家康は嫌いです。
豊臣を滅ぼすやり方がずるく感じてます。
別に秀吉のファンでも無いんですが・・・
ふぃるさんへ
黒田裕樹 > お久しぶりです。
> 東京での講義もあるんですね^^
ご無沙汰しております。
東京でも講義を行っているんですよ。今度が二回目です。
実は私の講座の参加者の最高人数が東京だったりします(笑)。
> 本当に、読んでて楽しい
> 歴史ブログこれからも頑張ってください。
有難うございます!
これからも精一杯頑張ります(^o^)/
> 実は私も徳川家康は嫌いです。
> 豊臣を滅ぼすやり方がずるく感じてます。
> 別に秀吉のファンでも無いんですが・・・
家康のやり方はたしかに汚いですよね。
しかしながら、なぜ汚くする必要があったのかということも結構重要だと思うんです。
そのあたりも含めて講座を展開していきますね(^^♪
管理人のみ閲覧できます
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にっっっっくき家康w
h.hamauzu こんにちは
お久しぶりです。
確かに私も幼い頃は家康に無条件に腹を立ててましたねw
さて東京進出第2弾(?)がんばってください!
・・・とても行きたいのですが、
そのときは兵庫に戻っている予定です・・・
なんたるタイミングでしょうか・・・
次回を楽しみにしております
そして、逆に帰阪の際に大阪で講座があれば、行ってみたいです
商品経済の発達は必然的に貨幣(かへい)の流通をもたらしましたが、国内で貨幣が発行されなかったために、従来の宋銭(そうせん)とともに永楽通宝(えいらくつうほう)などの明銭(みんせん)が大量に輸入されました。また、遠隔地(えんかくち)の取引が拡大したことで、現金を直接送付する場合のリスクを避(さ)けるために為替(かわせ、別名を割符=さいふ)の利用も盛んとなりました。
その一方で需要の増大とともに粗悪(そあく)な私鋳銭(しちゅうせん)も流通するようになり、取引に当たって悪銭(あくせん)を選び捨てて良質の貨幣のみを求める撰銭(えりぜに)が行われました。これを受けて幕府や大名などは、良銭の基準や悪銭と良銭の混入比率を定めた撰銭令(えりぜにれい)を出して、銭の円滑(えんかつ)な流通を目指しました。
こうした貨幣経済の発達は、金融機関(きんゆうきかん)の活動をうながしました。酒屋(さかや)などの富裕な商工業者は、高利貸しである土倉(どそう)を兼ねるようになり、幕府は彼らを保護する代わりに土倉役(どそうやく、別名を倉役=くらやく)や酒屋役(さかややく)などの営業税を課しました。
商業流通の活発化によって、物資を輸送するための海や川、陸における交通手段も発達しました。水上の輸送では廻船(かいせん)業者が活躍したほか、交通の要地に鎌倉時代の問丸(といまる)から発達した問屋(といや)が置かれ、多くの地方都市の繁栄をもたらしました。この他にも多数の物資を運ぶため、京都の輸送路を中心に各地で馬借(ばしゃく)や車借(しゃしゃく)などの運送業者が活躍しました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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そうめん 歴史講座頑張って下さい。
因みに私は北海道出身なので会えません(^^;)
なんかここはややこしいですね(^^;)
気のせいだけかもしれませんが。。。
応援のクリックです!
P・S
相互リンク希望です。
検討宜しくお願い致します。
黒田裕樹先生.
風早 りら 東京六本木での講演会
ご成功 信じております
先生がネットでの日本史の
奥深さを講座にて説明して下さり
有り難く存じています
これからも益々の
ご活躍 祈っております
.
佐佐木あつし 先生、本当にすみません。
急遽とても重要な会議が発生しまして。
どうしても講座の方に伺う事が出来なくなってしまいました。
ギリギリまで粘ってみたのですが
編集者の意向が定まらず、この体たらくです。
自分自身楽しみにしていたので大変残念です。
またの機会を楽しみにしております。
.
Yasmeen 暑い中、お疲れ様です。
都合次第ですが、近いうちに是非講座の方へ足を運ばせていただきたいと思っております。
東京講演、ご成功を信じております。
お気をつけてお戻り下さいね。
そうめんさんへ
黒田裕樹 いつも応援有難うございます(^-^)/
講座は無事終わりましたよ。また記事にしますね。
相互リンクは大歓迎です。こちらこそよろしくお願いしますm(__)m
今回の記事ですが、こう考えれば理解が早いかもしれませんね。
私鋳銭については、
お金をよく使う→お金が大量に必要→不足しがち→悪い奴は偽金(私鋳銭)を勝手につくる→取引に深刻な影響→幕府や大名が対策を練る→撰銭令
金融機関の発達は、
物資を買いたいがお金が足りない→いずれ近いうちに入金予定だが、物資は今ますぐ必要→お金を借りられれば有難い→金融機関の登場
商品流通の発達については、
物資がよく売れる→大量の物資の輸送が必要→一気に運んだほうが効率的→海上は廻船、地上は馬や貨車を利用
いかがでしょうか?
風早りらさんへ
黒田裕樹 今回もお言葉有難うございます。
皆様のお陰で講座は成功しました。詳細についてはまた近いうちにお知らせします。
佐佐木あつしさんへ
黒田裕樹 残念ではありますが、お仕事ですから仕方がないですね。
東京にはまだ滞在中ですので、何らかの対処ができればとは思います。
いずれにしましても、次回にお会いできるのを楽しみにしております。
Yasmeenさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。今回の講座も無事終了できました。
大阪にてお会いできる機会を楽しみにしております。