平和主義の理念は素晴らしいものであり、それ自体に対して反論するつもりは全くありません。しかし、一方的に平和を念じるだけで、本当に世の中の平和が実現するのでしょうか。もし家康が生きていれば、彼はこう言うことでしょう。
「冗談(じょうだん)じゃない。松平家が滅亡を避(さ)けて今川家に従った際に、俺たちがどんな目にあったのか忘れたのか」。
先述のとおり、今川家の圧力に屈して松平家が全面降伏し、幼い頃の竹千代が人質になった際、松平家の家臣は食うや食わずの生活を強(し)いられたうえに、戦の際には常に最前線に立たされて死と隣(とな)り合わせを余儀(よぎ)なくされるなど、およそ同じ人間とは思えない奴隷のような扱(あつか)いを受けました。
そんな苦労を経験したからこそ、家康は二度と同じ目に合わないために、非情な手段を用いてまでして徳川家の平和のために尽力(じんりょく)しました。平和というものは、汚いと思える手段であろうが何であろうが、あらゆる手練手管(てれんてくだ、人をだましてあやつる方法のこと)を用いることで初めて可能になる。これこそが平和の実現に隠された真実であり、家康の姿勢がそれを如実(にょじつ)に示しています。要するに「平和は綺麗事(きれいごと)だけでは達成できない」のです。
それなのに、私たちは家康のやり方を「汚い」として認めようとしません。なぜなら、平和への誤解の他に、家康に対する偏見に満ちた歪(ゆが)んだ先入観(せんにゅうかん)が私たちの目を曇(くも)らせているからです。




いつも有難うございます。
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風早 りら 憲法第9条における平和主義
戦争放棄
平和主義
でも 今 北朝鮮にミサイルを
国内に打ち込まれたら
どうするのでしょう
みくびられている気がします
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 憲法第9条における平和主義
> 戦争放棄
> 平和主義
> でも 今 北朝鮮にミサイルを
> 国内に打ち込まれたら
> どうするのでしょう
> みくびられている気がします
平和主義の理念や理想は素晴らしいと思います。
でも、現実には北朝鮮のように、我が国に対して決して良い感情を持っていない国家が存在することも事実です。
友情だけでなく、ファイティングポーズも必要でしょう。
.
ぴーち こんばんは!
「平和」とは尊いものである。と言う事は、誰しもが心に思う事であります。その尊さを感じる為には、やはり手練手管を尽くして得られた喜びの方が、よりその思いは強くなると思われますし、平和が簡単に得られるものであったら、誰も大切には思わないものでしょう。家康の場合は、自己犠牲であり、平和を得る為に已む無く葬ってしまった命の上に成り立った「尊い」ものと言う思いが人一倍あったのかもしれません。
憲法9条についてですが、
これまで何度かこの9条改正の動きはありましたが、未だに9条は原文のまま、守られています。
独裁政治がいけないとは言うものの、いざ、その独裁者が居なくなった世の中は散々たるもので経済状況も一気に悪化し、仕事は失業し・・と国民の生活は一変し、混乱を招いている例がありますが、独裁と言いながら、実の所、国民は独裁政治を心の拠り所にして生活している部分があります。
わが国の9条も、これまで日本国民の心の拠り所として存在するもので、この法案をもしも、取り去ってしまったら、軍備体勢にまっしぐら
となって刃をむき出しにした日本は一体・・・。
そう考えると、やはり9条の存在とは今の日本にはまだまだ必要なものである大切な法案だと思います。。
たとえそれが、「絵に描いた餅」的な存在でも。
それでは、今日は長々とコメントしてしまい、申し訳ありません^^;
ミルミルが好調なもので、調子付いてますw
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、多くの犠牲を出したうえにつかみ取った平和だからこそ、存在価値が高くなるというのも一つの堂々たる考え方だと思います。
憲法9条につきましては、本文中にも書かせていただきましたように私自身は平和主義を決して否定するものではありません。ただ、自国民が肝に銘じて相手方への一方的な武力行使への歯止めとしての役割と同時に、万が一攻めて来られた場合に、国民の命を守るために戦う際の法整備がしっかりしていればと個人的には考えております。
平和とは
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
この『平和』というテーマは、重いですね。
私も、『優しさ』と『誠意』があれば、相手に通じるという考えを持っていました。
でも、冷静に考えて、世の中には、いろんな人間がいます。
もし、『優しさ』と『誠意』だけで、世の中が平和になるなら、犯罪は、ゼロになりますよね。
警察が存在するから、犯罪の抑止力になっています。
これは、国レベルでも同じですよね。
その証拠に、永世中立国のスイスも軍隊を持っています。
おそらく、ヨーロッパや中国のほうが日本よりも
恐怖政治の歴史があるからかもしれませんね。
なぜか、徳川家康と毛利元就が、似ている気がします。この二人は、きれいごとだけで、世の中を生きれないことを幼い時の苦労から、知ったのかもしれませんね。
青田さんへ
黒田裕樹 全く仰るとおりです。
理想とは裏腹に、徹頭徹尾リアリストでなければ平和は達成できません。
本当の恐怖政治の悲惨さを我が国は知りません。
治安維持法にしても、死刑になった人間は一人もいないのですから可愛いものです。
平和について
青田です。 黒田先生
おはようございます。
青田です。
本当にそうですね。
ヨーロッパの歴史は、常に侵略の歴史です。
だから、ヨーロッパの王族は親戚同士になるようにして、何とか、平和を保とうしてきました。
中国の歴史は、史記を読むと
自分の欲望のために、徹底的に汚い手段で、大量虐殺をいとも簡単にしています。
中国の史記の登場人物からすると、
徳川家康のしたことは、可愛いものに思えます。
これは、他国から、侵略される心配がない島国(天然の要塞)の歴史が長かったことから、生まれた風土かもしれませんね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおり、我が国が島国であったことが運命を変えたといえるでしょう。
記念すべき第一回の歴史講座に詳しく紹介しています。
今そこにある危機
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
徳川vs豊臣が今の
日本の周辺諸国vs 日本の構図に似ている気がします。
徳川家康= 周辺の大きな国
日本=豊臣家とすると
◆ 豊臣方は、徳川家康の言葉を信じて、どんどん、追いつめられる。
(微笑み外交の徳川家康の言うことを聞いて、安心していて、気がついたら、豊臣家の領土が削られている。
→(今)(竹島問題、北方領土)
◆ 豊臣秀頼、淀殿の豊臣方は、徳川家康の言うようにお金をどんどん使う。
でも、軍事力はない。(最後は、浪人頼み)
しかも、 いざとなれば、豊臣恩顧の大名が馳せ参じてくれると勝手に思い込んでいる。
(今) → 日本も経済力はあるが、正式な軍隊は、ない。
最後は、アメリカ頼み
いざとなれば、アメリカが、馳せ参じてくれると思っている。
◆ 豊臣方は、最後は、外堀、内堀を埋められて、終わる。
(今) → 平和主義、憲法18条で、外国から、攻められやすい。
◆ 徳川家康は、勝つためには、脅し、騙し、何でもする。
のに、豊臣方は、それを汚いと考える。
(今) → 徳川家康が、世界の常識。
こう考えると
徳川家康が汚いというよりも、大阪方が、世の中を知らなさすぎたとも言えますね。
日本が、そうならないことを祈ります。
青田さんへ その3
黒田裕樹 鋭いご洞察ですね。仰るとおりだと思います。
ネット社会を中心とする国民の覚醒が起きつつありますが、この風を味方に付けて、一日も早く全国民の目が覚めてほしいですね。手遅れになる前に。
だとすれば、家康は平和の実現のために力を尽くしたことになり、そんな彼に対して最もふさわしい言葉は「家康は平和主義者だった」ではないでしょうか。
しかしながら、豊臣家に対する陰湿な滅ぼし方や、大名に対する巧妙(こうみょう)な統治、天皇に政治をさせないために手の込んだ対策を講(こう)じる一方で皇室の権威やシステムをちゃっかりと利用するという浅ましさ、さらには政教分離の実現のための手法など、家康の政策には「ずる賢(がしこ)い」「汚(きたな)い」という言葉がよく似合うことで、我が国に平和をもたらしたというイメージとはかけ離れた印象があります。
実は、この矛盾(むじゅん)こそが、私たち日本人が知らず知らずのうちに抱いている平和に対する誤解なのです。




いつも有難うございます。
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風早 りら 今回の先生の講座で
家康の様々な面が浮かび
あがりました
やはりかなりどちらにしても
頭はよさそうです
.
ぴーち こんばんは!
こうして家康の半生を振り返ってみると、幼少期に受けた心の傷や、耐え忍んだ抑圧された日々と言うのが、いかに彼の性格の歪みの部分を形成してしまったのかと考えると、哀れにも感じます。
しかし、そういう時期があってこそ家康という人物がここまでにのし上がることが出来、結果として「江戸時代」は平和な260年間と言う時を刻むことが出来た訳ですよね。
もしも、家康の幼少期が「蝶よ花よ」で育てられたとしたら、また、歴史は変わっていたのかも知れませんね^^;
応援凸
.
およよのよ 徳川家康は江戸の地で幕府二世紀半の平和の基盤を築いた立派な人です。
「狸じじい」のイメージはあまりにひどいのでは。
まあずる賢い事は否定しない、むしろ肯定したいですが。
世界史でも中々無いくらいの平和らしいですからねー。
お久しぶりですがこちらのブログのおかげで一学期中間、期末、良い点を取ることが出来ました。
しかし順位表だとそれほど高くない。やっぱり日本史好き多いですね、負けてられぬ。
世界史は一位を取ることが出来ました。黒田先生は元教師との事ですが世界史は講座出来るんですか?
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 今回の先生の講座で
> 家康の様々な面が浮かび
> あがりました
> やはりかなりどちらにしても
> 頭はよさそうです
そうですね。頭がよくなければ、あるいは他人に考えさせるとしてもそれを認める度量と頭脳がなければここまでは至らなかったでしょう。
様々な面については、次回以降にも紹介できると思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こうして家康の半生を振り返ってみると、幼少期に受けた心の傷や、耐え忍んだ抑圧された日々と言うのが、いかに彼の性格の歪みの部分を形成してしまったのかと考えると、哀れにも感じます。
> しかし、そういう時期があってこそ家康という人物がここまでにのし上がることが出来、結果として「江戸時代」は平和な260年間と言う時を刻むことが出来た訳ですよね。
> もしも、家康の幼少期が「蝶よ花よ」で育てられたとしたら、また、歴史は変わっていたのかも知れませんね^^;
確かに普通でない生活は、尋常ではない性分を生み出すといえますね。
ただ、それをバネに260年の平和な時代を築き上げたという現実はやはり高く評価すべきでしょう。
ただ、仰るとおり「三河の殿様」で一生を終わっていれば、世の中はどう動いたか分からないですね(^^ゞ
およよのよさんへ
黒田裕樹 > 徳川家康は江戸の地で幕府二世紀半の平和の基盤を築いた立派な人です。
> 「狸じじい」のイメージはあまりにひどいのでは。
> まあずる賢い事は否定しない、むしろ肯定したいですが。
> 世界史でも中々無いくらいの平和らしいですからねー。
これはこれはお久しぶりです(^o^)/
確かに、江戸時代は世界史レベルでも自慢(?)できる平和な時代ですからね。
それを「狸爺」ではあまりにも可哀そうです。
> お久しぶりですがこちらのブログのおかげで一学期中間、期末、良い点を取ることが出来ました。
> しかし順位表だとそれほど高くない。やっぱり日本史好き多いですね、負けてられぬ。
> 世界史は一位を取ることが出来ました。黒田先生は元教師との事ですが世界史は講座出来るんですか?
私のブログがお役に立ったようで、こちらとしてもうれしい限りです(^_^)v
世界史ですか…。できないことはないですが、もともとは公民が専門ですから(本当)。
「黒田裕樹の世界史講座」。いつの日かやってはみたいですけれどもね。
徳川家康の人生経験
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
よく、考えてみたら、徳川家康の『ダーティー』な能力は、自分自身の幼少時代の経験だけではなく、長生きしたことによって、いろいろ観てきたことも財産になったこともあるような気がします。
① 今川氏、武田氏、北条氏という巨族も判断を誤ると一瞬で、滅んでしまうことを知る。
(北条氏は、250万石の大大名、武田氏も最強と言われた。)
② 『天下統一の一歩手前まで行っていた織田信長も家臣の明智光秀に本能寺の変で殺される。』ことを同盟者という立場から、実感する。
→ どんなに優勢であっても、少しでも危険要因を残していると一瞬で、コチラが滅ぼされる。
③ 『徳川家康は、五大老の筆頭なのに石田三成のような優秀な官僚が出現すると反徳川軍が8万人も出来ること』を関ヶ原の戦いで知る。
やはり、徳川家康自身の人生で、①②③を経験していると
豊臣家を滅ぼしていないと怖くて、不安で、仕方ないのも納得できます。
正直、石田三成、淀殿、真田幸村
がいくら有能でも、戦国時代とは、どういう社会かを実際に観て、経験していた徳川家康には
勝てない気がします。
それと
今の日本=豊臣家
徳川家康= 外国
にたとえると、
外国の要求に従って、ジリジリと国益を損なっているのが今の日本だと感じるのは、気のせいでしょうか。
青田さんへ
黒田裕樹 仰る一面はありますね。
長すぎる安定は、身を滅ぼす元なのかもしれません。
今回の「日韓併合 ~100年目の真実」ですが、初めての近現代史ということで、私自身も気合を入れて講座に臨みました。ただ、一般的に近現代史は結果が出てからまだ日が浅く、歴史的な見解についての結論が出たとは言い難い部分も存在しますので、様々な状況で各方面に配慮しながら、なおかつ我が国の立場に沿った形での講義ができたのではないかと思っております。
講座の詳しい内容ですが、今回は19回に分けて、現在ブログ上で行っております第17回歴史講座に引き続いて9月2日から更新を開始いたしますので、よろしくお願いします。
今後の講座の開催予定は下記のとおりですが、第19回歴史講座につきましては、都合により10月に延期しますのでご注意下さい(理由については後日お知らせします)。
第19回 「織田信長 ~歴史の転換者」
日時:平成22年10月23日(土) 午後3時30分より
場所:梅田東学習ルーム
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:無料




いつも有難うございます。
このシステムに着目した家康は、第2代将軍の徳川秀忠(とくがわひでただ)の血統とは別に、晩年になってつくった3人の男子をそれぞれ大名として、将軍本家にもしものことがあった場合の「血のセーフティネット」としました。これが後に尾張、紀州(きしゅう)、水戸(みと)の御三家(ごさんけ)となり、家康が死んでから約100年後に将軍本家の血が絶えた際に、紀州家から徳川吉宗(とくがわよしむね)が第8代将軍に迎えられています。
また家康は、戦国時代に散々苦しめられた一向一揆(いっこういっき)などの宗教勢力が江戸幕府に逆らわないように本願寺(ほんがんじ)を東西に分けて統治したり、家康の死後には檀家制度(だんかせいど)の導入によって宗教が政治にかかわる理由をなくしてしまったりするなど、政教分離(せいきょうぶんり)を目指した宗教への対策もしっかりと行っています。
家康が行った対策の中には、朱子学(しゅしがく)の導入のように長い目で見れば幕府にとって悪影響を及ぼしたものもありましたが、江戸幕府が約260年もの長い間存続したことで、我が国に平和がもたらされ、その結果人口や耕地面積が飛躍的に増加したことは疑いようのない事実です。
私たちは家康が行った様々な努力をどう評価すべきなのでしょうか?




いつも有難うございます。
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風早 りら 家康が檀家制度導入
政教分離の最初だとは
知りませんでした
「 私たちは家康が行った様々な努力をどう評価すべきなのでしょうか? 」
難しいですね
これからの講座を楽しみにしています
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 家康が檀家制度導入
> 政教分離の最初だとは
> 知りませんでした
檀家制度の導入によって、宗教勢力は「黙っていても収入を得る」システムになってしまいましたからね。
私の過去の講座(第12回)でも詳しく紹介しております。
> 「 私たちは家康が行った様々な努力をどう評価すべきなのでしょうか? 」
> 難しいですね
> これからの講座を楽しみにしています
明日(30日)からのまとめでいよいよ核心に触れていきますので、よろしくお願いします。
.
紗那 なるほど、御三家や御三卿という発想は、天皇家からとっているわけですか。
初めて知りました。
んー、一部は知ってても、思わぬ事実が分かったりして楽しい講座です、今回も♪
.
ぴーち こんばんは!
どんなに良い考えでも
一長一短がある様に、
ある面では、家康のとった政策は
平和を齎し、国を安定させる効果は
あったものの、やはり先日の記事にもありました様に、平和を勝ち得る為には、その犠牲も伴わなければならない点を考えると、複雑な思いが残りますね。
政教分離がしっかり成されていた点は賞賛されるべき所だと思います。
現代の政治・政党は、裏側でしっかりと宗教と癒着されている部分が多いですものね(^^Aだから、余計にまとまらないのかしら・・・?
応援凸
紗那さんへ
黒田裕樹 > なるほど、御三家や御三卿という発想は、天皇家からとっているわけですか。
> 初めて知りました。
> んー、一部は知ってても、思わぬ事実が分かったりして楽しい講座です、今回も♪
有難うございます。
暗記は言うなれば点だけの存在で、いずれは消えてしまうものです。
点と点を「歴史の流れ」という名の線でつなぐことで、初めて本当の知識が得られる、というわけです(^_^)v
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > どんなに良い考えでも
> 一長一短がある様に、
> ある面では、家康のとった政策は
> 平和を齎し、国を安定させる効果は
> あったものの、やはり先日の記事にもありました様に、平和を勝ち得る為には、その犠牲も伴わなければならない点を考えると、複雑な思いが残りますね。
仰るとおりですね。
私たちが抱く「複雑な思い」については、明日(30日)以降のまとめで明らかにしていきます。
> 政教分離がしっかり成されていた点は賞賛されるべき所だと思います。
> 現代の政治・政党は、裏側でしっかりと宗教と癒着されている部分が多いですものね(^^Aだから、余計にまとまらないのかしら・・・?
現代においては政教分離といえるのか?
他国に比べれば進んでいる方だとは思いますが、判断が難しいところではありますね…。
.
アースガイド 更新もしなかったのに毎日応援していただいて申し訳ないです。
お気づかいに感謝して
今日も全ポチして帰ります!!!
アースガイドさんへ
黒田裕樹 > 更新もしなかったのに毎日応援していただいて申し訳ないです。
> お気づかいに感謝して
> 今日も全ポチして帰ります!!!
いえいえ、お互いにブログを盛り上げていければと思っておりますので。
こちらこそ、応援ありがとうございます!
.
オバrev 100%完璧な政策はありませんから、家康のとった政策は日本人の出来うる最善と言っていいんじゃないでしょうか?
ただそれが270年という年月に渡って存続するとなると当然矛盾がでてきます。
その辺も含めて検討すると現在においても随分参考になる点が多いと思います。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 100%完璧な政策はありませんから、家康のとった政策は日本人の出来うる最善と言っていいんじゃないでしょうか?
> ただそれが270年という年月に渡って存続するとなると当然矛盾がでてきます。
> その辺も含めて検討すると現在においても随分参考になる点が多いと思います。
そうですね。我々は結果だけを見ていますから気づかないことが多いのですが、270年も同じ組織が続くのは至難の業であり、その間には当然矛盾も出てきます。
長続きさせるには同じことの繰り返しでない、良い意味での変革が必要なのでしょうね。
さて、2度目の東京講演となりました8月7日の第17回「黒田裕樹の歴史講座」では、12名の皆様にご参加いただくことができました。
次回(第18回)の歴史講座は「日韓併合 ~100年目の真実」と題して、当講座では初めてとなる本格的な近現代史について大阪・梅田で8月28日(土) の午後3時30分より開始致します。
今年(平成22年)は日韓併合からちょうど100年の節目に当たりますが、我が国での日韓併合に関するイメージとしては、総理大臣の談話にもあったように「日本が、嫌がる大韓帝国を強引に併合して、朝鮮半島の人々に多大な迷惑をかけた」というイメージが強いように見受けられますが、これは本当のことなのでしょうか。
そもそも、当時の韓国はなぜ我が国に併合されなけれないけなかったのでしょうか。そのあたりの歴史的経緯を知ることが、日韓併合に関する真実を理解することにつながると思います。
次回の講座では、韓国が我が国に併合されるまでの歴史について、当時の世界情勢も踏まえながら可能な限り公平な視点で探っていきたいと思います!
第18回「黒田裕樹の歴史講座」
日時:平成22年8月28日(土) 午後3時30分より
内容:「日韓併合 ~100年目の真実」
場所:梅田東学習ルーム
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:無料
ブログをご覧の皆様も、よろしければ是非ご参加下さい。この記事のコメント欄をご活用いただければと思います。また、今回の講座の内容については、前回までと同様に、後日にはブログ上で映像とともに発表しますので、是非ご覧になって下さい。
なお、予約の都合上、当日の教室一覧(午後)の掲示板に「大阪読書研究会」と書かれているのが「黒田裕樹の歴史講座」の会場となります。ご注意下さい。
今後の講座の開催予定は下記のとおりですが、第19回歴史講座につきましては、都合により10月に延期しますのでご注意下さい(理由については後日お知らせします)。
第19回 「織田信長 ~歴史の転換者」
日時:平成22年10月23日(土) 午後3時30分より
場所:梅田東学習ルーム
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:無料




いつも有難うございます。
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zyukenboy すいませんまたお願いします。今回は少し抽象的なのですが……
1、江戸時代、蔵屋敷とか蔵元、掛屋、札差しなどが商品の流通に関わりますが、彼らの役割がよくわかりません。仕組みを教えてください。
2、なぜ大名などは掛屋などにお金を借りなければいけなかったのでしょうか?年貢を重くすればいいのでは?
今回もよろしくお願いします。
いつも拝見しております
儒侠の瓠洲 人間学を活学する為の名著選blogの瓠洲と申します。勝手ながらリンクを張らせて頂きました。^^; もしご迷惑であれば、仰有って下さい。
zyukenboyさんへ
黒田裕樹 江戸時代は秀吉による太閤検地によって石高制が定着していました。つまり、米を銭のような貨幣の扱いとする「米本位制」の時代でもあったのです。現実に、武士に対する俸禄は米で支払われていました。
貨幣と同じ価値を持つ米ですから、当然その扱いは慎重を期さなければいけません。そこで、商業が発展していた大坂を中心とする各地に、藩が米を貯蔵する目的で蔵屋敷が次々と建てられていったのです。
蔵屋敷には藩の役人と商人がおり、商人は蔵元や掛屋と呼ばれていました。このうち、掛屋は両替商のことであり、蔵屋敷から預かった資金を元手に投機を行って莫大な利益を得る者もいました。一方、幕府の旗本や御家人に対して支給される米は、札差が仲介していました。
江戸時代も中期に入って貨幣経済が発展すると、銭による取引が中心となり、商品の一つにすぎない米の値段が下がったことで、幕府や藩の収入が減り、やがて多くの藩が資金繰りに苦しむことになりました。困った藩は蔵元や掛屋から、旗本や御家人は札差から借金をするようになります。いわゆる大名貸ですね。
年貢を重くすれば、負担に耐えかねた農民は一揆を起こします。藩内で一揆が多発すればお取り潰しの原因となりますから、うっかり年貢を上げることもできません。一方、一揆が起こっても取り潰しの心配がない幕府の天領では吉宗の時代の末期に増税が行われ、一揆が多発した代わりに幕府の財政は一時的に回復しています。
今回はこんなところでしょうか?
儒侠の瓠洲さんへ
黒田裕樹 > 人間学を活学する為の名著選blogの瓠洲と申します。勝手ながらリンクを張らせて頂きました。^^; もしご迷惑であれば、仰有って下さい。
はじめまして。お言葉有難うございます。
リンクの件、喜んでお受けします。こちらからもリンクさせていただきますね。
.
儒侠の瓠洲 ありがとうございます!
これからもお邪魔致します!^^
zyukenboy わかりやすく書いていただきありがとうございました。
すいませんが、蔵元と掛屋はどう違うかもお願いできますか?
儒侠の瓠洲さんへ その2
黒田裕樹 お言葉ありがとうございます。
こちらこそよろしくお願いしますm(_ _)m
zyukenboyさんへ その2
黒田裕樹 お役に立てたようで何よりです。
> すいませんが、蔵元と掛屋はどう違うかもお願いできますか?
蔵元は蔵屋敷で扱う品物の管理や売却を行う業務で、掛屋は品物の売却代金などの管理や出納を行う業務です。つまり、蔵元は品物そのものを、掛屋は品物の代金を管理しているというわけですね。掛屋が両替商を兼務する理由もここにあります。なお、蔵元と掛屋を兼務する商人も多かったそうですよ。
zyukenboy 本当にありがとうございました。
勉強頑張ります(^^ゞ
zyukenboyさんへ その3
黒田裕樹 > 本当にありがとうございました。
> 勉強頑張ります(^^ゞ
いえいえ、また何でもご質問下さい(^^♪
しかし、征夷大将軍になるといっても、かつての源頼朝や足利尊氏がそうであったように、源氏の血を引いていなければ将軍になれないという不文律(ふぶんりつ、文章で表現されていない規定のこと)があったのですが、家康はこの規定をあっさりとクリアしていました。そのカギを握ったのが「松平」から「徳川」への改姓です。
松平家はそもそも賀茂氏(かもし)の出身とされていましたが、源氏の血を引く新田氏(にったし)の末裔(まつえい、子孫のこと)である得川氏(とくがわし)が松平家に婿養子(むこようし)として入ったのがルーツであると朝廷に認められ、得川を「徳川」と名乗ることで改姓に成功しました。
手法自体は強引であったものの、朝廷によって「源氏の末裔」であることが公的に認められた家康は、関ヶ原の戦いの後に征夷大将軍に就任することに成功して、江戸幕府の開設に大きく前進することになりました。
ですが、せっかく創設された徳川家も子孫が絶えてしまっては元も子もありません。思案した家康が注目したのは、1000年をはるかに超える長い年月の間ずっと血統を保ち続けている皇室に隠(かく)された宮家という名のシステムでした。




いつも有難うございます。
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風早 りら 松平家はそもそも賀茂氏(かもし)の出身とされていましたが、源氏の血を引く新田氏(にったし)の末裔(まつえい、子孫のこと)である得川氏(とくがわし)が松平家に婿養子(むこようし)として入ったのがルーツであると朝廷に認められ、得川を「徳川」と名乗ることで改姓に成功しました。
あの手この手作戦で
家康はすさまじい人ですね
ここまで知恵がよく働くと思います
でも 現代何故か人気はあまりありません
.
ぴーち こんばんは!
「得川」から「徳川」ですか。
確かに漢字の意味合いからしても、
「得」は、利益などという露骨な意味合いがありますが、
「徳」のほうですと、品格、品性と言う良いイメージがありますので、
同じ呼び名でも、改名したくなりますよね。
まさに、家康の下心を隠そうとする改名ですかね^^;
応援凸
PS・鯉さん、凄い勢いですね!!
2連勝おめでとうございます☆
明日は頑張ります(^^A
風早りらさんへ
黒田裕樹 > あの手この手作戦で
> 家康はすさまじい人ですね
> ここまで知恵がよく働くと思います
> でも 現代何故か人気はあまりありません
確かに頭がよく働きますよね。
でも人気がない。それには理由があるのですが…。
いずれこの講座で紹介させていただきます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 「得川」から「徳川」ですか。
> 確かに漢字の意味合いからしても、
> 「得」は、利益などという露骨な意味合いがありますが、
> 「徳」のほうですと、品格、品性と言う良いイメージがありますので、
> 同じ呼び名でも、改名したくなりますよね。
> まさに、家康の下心を隠そうとする改名ですかね^^;
確かにそういうイメージがありますよね。
日本人が重要視する「徳」にこだわったのかもしれません。
カープは残された試合を全部勝つつもりで頑張ってほしいものです。
.
そうめん 徳川氏は元は「得川」だったんですか・・
参考になりました(^^;)
・・良く頭が働きますね。。。
そうめんさんへ
黒田裕樹 > 徳川氏は元は「得川」だったんですか・・
> 参考になりました(^^;)
> ・・良く頭が働きますね。。。
確かに良く頭が回りますね…。
徳川家のためにあらゆる手段を尽くす。これも一つの生きざまですね。
旧宮家
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
天皇が、なぜ、1000年を越える血統を保ってきたのかは、不思議だったのですが
それは、宮家にあったのですね。
そこで、黒田先生にお尋ねしたいことがあります。
戦後、GHQによって、廃止された宮家があると
聞きましたが
もし、今後、未来において、直系の男系の皇位継承権者がいなくなった場合、旧宮家の復活は
必要だとお考えですか?
それと、1000年の間、宮家は、どのくらいまで
遡って、皇位継承者を選んできたのでしょうか。
というのも、
徳川幕府でも、
将軍家の直系が7代で途絶え、
徳川吉宗の直系が9代~14代で途絶え
最後の将軍の15代は、水戸家からでした。
1000年を越える血統を保とうと思うと
かなりの宮家の存在が必要になると思います。
青田さんへ
黒田裕樹 皇室の未来のことを思えば、確かに旧宮家の復活は考えるべきかもしれませんね。
かつて江戸時代に閑院宮家があったお蔭で皇統を維持できたということもありましたから。
幕府
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
この幕府について、いつも疑問に思うことがあります。
それは、徳川家康は、織田信長、豊臣秀吉のように天下取りのレースで、当初、西に向かわなかったのに結果的に幕府を開き、天下を取りました。
鎌倉時代の源頼朝、その後の北条氏も京に上らず、鎌倉幕府を開きました。
そう考えると、
京に上る= 天下を取る
とは、一概には、言えないようですね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 天下を取るといっても、武士の本拠地は伝統的に東国ですからね。
戦国大名も大部分は自己の領地拡大が最大の目的であり、上洛を目指したのはむしろ少数でした。
その目的も、当時の幕府が京都にあって、幕府に対して何らかの利益を得ようとするのが主な目的でした(もちろん朝廷とのパイプをつくることもありましたが)。
そう考えれば、天下を取ることは必ずしも上洛することとは言えないかもしれません。
ただし、上記のカッコ書きのように、朝廷とのつながりを保つために一度は上洛する必要はあったと思われますが。
また、皇室や摂関家(せっかんけ)などの公家と大名家との通婚(つうこん)を禁じて倒幕勢力と皇室との結びつきを断つと同時に、徳川家自身は積極的に公家から正室である御台所(みだいどころ)を迎えることで、皇室と関係の深い徳川家に弓を引かせないようにしました。
さらに、御台所を通じて徳川家と親密になった摂関家が就任する関白(かんぱく)の地位を天皇の男子である親王(しんのう)より上位として、摂関家によって間接的に皇室をコントロールすることも試(こころ)みました。
こうして皇室に対して色々と細かく規定する一方で、家康は皇室や朝廷の権威はしっかりと利用し、また参考にしました。それは「征夷大将軍の地位」や「宮家(みやけ)の制度」です。




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ぴーち こんばんは!
今でこそ、開かれた皇室などと言われていますが、この当時はもっと封建的であったでしょうから、家康のちょっとした助言は、そのまま妄信されていたのかも知れませんね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今でこそ、開かれた皇室などと言われていますが、この当時はもっと封建的であったでしょうから、家康のちょっとした助言は、そのまま妄信されていたのかも知れませんね。
そうですね。
妄信されていたと同時に、家康の権力や武力に嫌々ながら従わざるを得なかった悔しさがあったかもしれません。後水尾天皇(ごみずのおてんのう)が江戸幕府の傲岸(ごうがん)ぶりに立腹なさったというエピソードも残っておりますし。
.
紗那 なるほどなるほど。。。
しかし、他の大名家は公家と通じてはならないのに、徳川家はしているというのは、ダブルスタンダードに見えなくもないですね……
僕なら、あまり幕府にいい気はしないかもです。。。
紗那さんへ
黒田裕樹 > なるほどなるほど。。。
> しかし、他の大名家は公家と通じてはならないのに、徳川家はしているというのは、ダブルスタンダードに見えなくもないですね……
> 僕なら、あまり幕府にいい気はしないかもです。。。
「他人はダメで、自分ならOK」という姿勢は、実際にダブルスタンダードだと思いますよ。
権力者のエゴですが、それでも平和のためになるというのが何とも…。
黒田先生.
風早 りら 家康がした事は
ともかくとして
この人は相当
IQの高い人である事は
間違いありませんよね
先生のコメント頂き
とても励みです
ありがとうございます
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 家康がした事は
> ともかくとして
> この人は相当
> IQの高い人である事は
> 間違いありませんよね
私もそう思います。こういう柔軟かつ慎重な発想は、通常の人間にできませんからね。
なおかつ不断の努力あってこそだとは思いますが。
> 先生のコメント頂き
> とても励みです
> ありがとうございます
こちらもりらさんのお言葉に元気をいただいておりますよ♪
.全てを網羅
オバrev まさに、歴史に学びに学んで、考えて考えて考え抜いて、練りに練って練って、全てを矛盾なく網羅した、恐るべき家康の戦略であり、システムですね。
なあ~んも考えずに、思いつきで物事を進めようとして、次から次へと矛盾の山を作り上げて立ち往生している、今の日本の政治家や官僚に、是非参考にしてもらいたいですよ。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > まさに、歴史に学びに学んで、考えて考えて考え抜いて、練りに練って練って、全てを矛盾なく網羅した、恐るべき家康の戦略であり、システムですね。
> なあ~んも考えずに、思いつきで物事を進めようとして、次から次へと矛盾の山を作り上げて立ち往生している、今の日本の政治家や官僚に、是非参考にしてもらいたいですよ。
まさしくその通りだと思います。
現代の政治家や官僚はいったい何を学んできたんでしょうね…(´・ω・`)
御台所を迎える別の理由
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
これは、私の仮説ですが、
摂関家から、御台所を迎える別の理由としては
摂関家が
権威はあるのに、権力・経済力が全くないことがあるのではないでしょうか。
というのも、徳川家康は、歴史に学ぶ能力があるので
◆ 藤原氏、平家は、天皇家の外祖父として、絶大な勢力をふるった。
◆ 源頼朝の源氏が創った鎌倉幕府は、力のある
妻の北条政子の北条家に乗っ取られた。
◆ 室町幕府は、日野富子が介入して、大混乱になった。
これらの事実を徳川家康は、知っていたので
どこから、将軍の正室を迎えるかが、大きなリスクを抱えることを知っていた気がします。
事実、この後、10代将軍の御台所、13代将軍の御台所を島津家から、迎えて、幕府にとって
弱みになりました。
青田さんへ
黒田裕樹 家康と江戸幕府の正室の関係については第26回歴史講座「藤原家の栄枯盛衰」で、島津藩の血筋が将軍の正室に迎えられた事情は第20回歴史講座の「幕末百景」でそれぞれ詳しく紹介しておりますが、仰るとおりだと思います。
そこで、家康は将軍の下に数人の老中(ろうじゅう)を置いて、彼らの合議制(ごうぎせい)によって政治を動かすことができるシステムを作り上げました。こうしておけば、将軍は老中が決めたことを承認するだけで済み、将軍の資質に関係なく幕政がうまく機能するようになります。
また、この手法による政治が仮に失敗したとしても、その責任は決断した老中が持つことになり、将軍の名前には傷がつかないというメリットもありました。家康の没後に始められた「独裁者を出さないシステム」が定着したことで、幕政の安定化が図(はか)られることになったのです。
ところで、幕政の安定を願っていた家康は、さらに他の手も打っていました。その際に彼が参考にして、また利用したのが皇室あるいは朝廷の権威(けんい)だったのです。




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風早 りら またもや 朝廷が利用されますね
秀忠の娘を朝廷に
差し出して 外戚に
なろうとしたんですよね
益々 楽しみになってきました
風早りらさんへ
黒田裕樹 > またもや 朝廷が利用されますね
> 秀忠の娘を朝廷に
> 差し出して 外戚に
> なろうとしたんですよね
> 益々 楽しみになってきました
天皇の外戚になったんですよね。徳川家だけが皇室の権威を利用する。
天下を取った特権とはいえ、確かにズルいですね(笑)。
.
ぴーち こんばんは!
少々的外れなコメントで失礼しますが、昔「渡世人」などと呼ばれたものの中には、子分を沢山従えていて、その子分は親分の為なら命さえも捧げて、一家を存続させて来たという経緯があるそうですね。
そんな親分の中にも代議士になる人も居たりして。
そう考えると、家康の考えは、現代社会にも色々な世界に影響を与えている考えでもあるのかしらと思います。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 少々的外れなコメントで失礼しますが、昔「渡世人」などと呼ばれたものの中には、子分を沢山従えていて、その子分は親分の為なら命さえも捧げて、一家を存続させて来たという経緯があるそうですね。
>
> そんな親分の中にも代議士になる人も居たりして。
> そう考えると、家康の考えは、現代社会にも色々な世界に影響を与えている考えでもあるのかしらと思います。
なるほど、そういう考えもありますね。
現代社会のシステムには基本形が昔のままというのがよくありますが、今回の件も家康がからんでいるという可能性は十分にあると思います。
江戸時代の大名は、徳川家の縁戚(えんせき)に当たる親藩(しんぱん)、関ヶ原以前から徳川家の家臣であった譜代(ふだい)、関ヶ原以後に徳川家に従った外様(とざま)に大きく分かれますが、これらのうち江戸幕府の政治の中心となって活躍した多くの大名は譜代であり、また彼らの領地は多くても10万石前後に留まっていました。
つまり、政治に参加して権力を与えられた者には財力を与えず、逆に政治に参加できずに権力を与えられなかった者に対しては、その代わりとして財力として広大な領地を与えたのです。室町幕府の失敗の教訓を生かした 「大名の権力と財力との分散」によって、家康は大名の統治に成功したのでした。
ところで、家康は自身の持つカリスマ性によって、いわゆるトップダウン型の独裁政治が可能でしたが、自分の死後の江戸幕府には、それだけの資質を持つ将軍が常に誕生するとは限りません。だとすれば政治のシステムをどのように調整すればよいのでしょうか?




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風早 りら 「政治に参加して権力を与えられた者には財力を与えず、逆に政治に参加できずに権力を与えられなかった者に対しては、その代わりとして財力として広大な領地を与えたのです」
この考え 家康以前にはなかった事ですよね
凄い頭脳ですね
今さらながら感心しました
ありがとうございます
.
紗那 なるほど!長年の謎が解けました!
なぜ、譜代大名の領地が少ないのか、小学生の頃から疑問だったんです!
なるほど、そういう理由だったのですか……!
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 「政治に参加して権力を与えられた者には財力を与えず、逆に政治に参加できずに権力を与えられなかった者に対しては、その代わりとして財力として広大な領地を与えたのです」
> この考え 家康以前にはなかった事ですよね
> 凄い頭脳ですね
> 今さらながら感心しました
> ありがとうございます
言われてみれば当たり前のことでも、考案する才能は並大抵ではありません。
「歴史に学ぶ」ことは素晴らしいですね。
紗那さんへ
黒田裕樹 > なるほど!長年の謎が解けました!
> なぜ、譜代大名の領地が少ないのか、小学生の頃から疑問だったんです!
> なるほど、そういう理由だったのですか……!
そういうことです(^^♪
財力と権力を実にうまく使い分けていますよね。
.
ぴーち こんばんは!
先人の失敗を教訓にしながら、
家康没後の徳川家安泰の為の模索まで考えを巡らす幅の広さは、さすがですよね。
目先の事ばかりに囚われない生き方を少しばかり教えていただいた気がします^^;
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 先人の失敗を教訓にしながら、
> 家康没後の徳川家安泰の為の模索まで考えを巡らす幅の広さは、さすがですよね。
> 目先の事ばかりに囚われない生き方を少しばかり教えていただいた気がします^^;
全くその通りだと思います。
家康の生き方から学ぶことは多いですね。
初めての武家政権を誕生させた源氏や北条氏と違い、足利氏はカリスマ性や実力面で劣(おと)るところがあったことや、足利氏と同じだけの勢力をもつ守護大名(しゅごだいみょう)が数多く存在し、彼らが幕府の言うことをなかなか聞かなかったことで、幕府の指導力(しどうりょく)が設立当初から疑問視されていたのです。
守護大名の多くは足利氏に匹敵する広大な領地を持っていたのと同時に、管領(かんれい)などの幕府の重要な役職を歴任(れきにん)していました。いわば財力と権力とを同時に持っていたがゆえに、幕府の言うことを聞かなくなったのでした。
そんな守護大名らに対抗すべく、第6代将軍の足利義教(あしかがよしのり)が独裁的(どくさいてき)な政治を行ったのですが、最期には暗殺されるという悲劇をもたらし、その後遺症(こういしょう)は後の幕政に深刻な影響を与えたうえに、1467年の応仁の乱(おうにんのらん)によって、室町幕府は事実上崩壊(ほうかい)してしまいました。
家康はこうした室町幕府の失敗から二つのことを学びました。それは「大名の権力と財力との分散」と「独裁者を出さないシステム」です。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
今、ちょうど雷雨に襲われていまして、ようやく治まりました(^^A
それでも、昼間の気温が高いせいか、余り涼しくはなりません・・(><)
大阪はいかがですか?
足利義教が独裁政治を行った理由は、そういう経緯からなんですね。
(すみません、一度お聞きしていながら、この部分を忘れていました^^;)独裁と言う政治も「両刃の剣」。自分で自分の首を絞める結果になると言う愚かな結末が待っているのですね。何でもそうですが、極端になり過ぎてもいけないと言う事ですかね^^;
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今、ちょうど雷雨に襲われていまして、ようやく治まりました(^^A
> それでも、昼間の気温が高いせいか、余り涼しくはなりません・・(><)
> 大阪はいかがですか?
そちらは雷雨ですか。大阪はきれいな満月を見ることができますが、暑いです…(´・ω・`)
> 足利義教が独裁政治を行った理由は、そういう経緯からなんですね。
> (すみません、一度お聞きしていながら、この部分を忘れていました^^;)独裁と言う政治も「両刃の剣」。自分で自分の首を絞める結果になると言う愚かな結末が待っているのですね。何でもそうですが、極端になり過ぎてもいけないと言う事ですかね^^;
仰るとおりだと思います。
過ぎたるは及ばざるがごとし。さりとてどうしようもないときもありますから、世の中は難しいものです。