ここで二人をあっさりと殺すこともできたのですが、継母(ままはは)による懇願(こんがん)や、義経の母親の色香(いろか)に負けて結局二人を生かしてしまい、それから約25年後、成長した頼朝や義経らによって、清盛亡き後の平家(へいけ)はあっさりと滅亡してしまったのです。
自分に刃向(はむか)ったり、あるいは自分が滅ぼそうとしたりした勢力の残党を生かしておいては、いつ自分が平家の二の舞(にのまい)を演じてしまうか分かりません。そんな厳しい現実を歴史から学んだ家康だったからこそ、自分の生命があるうちに大坂城を落として、豊臣家を子供の首すらはねることで完全に叩(たた)き潰(つぶ)す必要があると判断したのでした。
そんな家康の「歴史に学んだ姿勢」が、実は幕府の組織のあちらこちらに見受けられるのですが、皆さんはご存知でしょうか?




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
人に情けを掛けたばかりに、滅亡してしまった平氏。清盛。
己の出世の為なら、情け容赦なく
立ち向かわなければいけないと悟った家康。
平清盛の行いは「墓穴を掘る」事だったとはいえ、人としての
良心を断ち切れなかった清盛を
バカな武将だと本当に一笑する事が出来るでしょうか。。
(まあ、単なる女好きだったのかも?という疑惑も断ち切れませんがww)
男性の方々は、女性とは違い出世欲が旺盛でいらっしゃると思うので、男性のご意見とは異なるかもしれませんが、歴史に名を残すか・・或いは、人としての情けを重んじるかと問われたら、私は後者を選んでしまうかも知れません・・。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、難しい問題ですね。
男子と生まれたからには「歴史に名を残したい」と誰しもが思うもの。
そのためには人間としての情を捨てることもいとわない…かといえばやはり躊躇してしまうでしょう。
迷った末に、清盛のような生き方を選択してしまうかもしれません。
歴史に学んだ家康にはそれが分かっていた。
だからこそ非情な「鬼」になり得たのでしょう。
今更ながら、凄まじい生涯だと思います。
.いつもありがとうございます。
アースガイド なるほど~勉強になるな~。
「おごれる徳川ひさしからずや」を
防いだという事なんですね~。
でもやはり非情ですね~。
黒田裕樹先生
風早 りら 敵の子供を殺害する
確かに 得策かもしれません
でも あまりにも 残酷です
悲し過ぎますね
数日ブログアップしていない時
励ましのコメント頂き
ありがとうございました
励みになりました
25日12時00分セットアップしました
アースガイドさんへ
黒田裕樹 > なるほど~勉強になるな~。
> 「おごれる徳川ひさしからずや」を
> 防いだという事なんですね~。
> でもやはり非情ですね~。
歴史に学ぶ姿勢を持っていただけに、仰るとおり徳川家を平家の二の舞にすることはできなかったのでしょうね。例え非情であると分かっていても…。
風早りらさんへ
黒田裕樹 得策だけど残酷。普通の人間にはできませんよね。
家康はすごい精神力を持った人物なのかもしれません。
お元気そうで何よりです。
完全復活を焦らずにお待ちしております。
徳川家康はスーパーマン
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
徳川家康は、『歴史から、学んだ。』と
あっさりと考えていましたが、
冷静に考えると、徳川家康の年齢を考えると
その学んだことを活かす土台が、しっかりしていると思いました。
というのも、徳川家康は、73才で、死ぬ間際まで
頭脳・肉体が鋭かったです。
◆ 関東への転封が47歳(人間50年と言われた時代)この年齢から
未開の地への開拓をするのは、驚きです。
ちなみに、織田信長49歳で死去、上杉謙信49歳で死去、武田信玄53歳
◆ 58歳で、徳川義直(尾張)、60歳で、徳川頼宣(紀州)、62歳で、徳川頼房(水戸)
をもうける。
◆水術についても、69歳の時、駿河の川で見事な泳ぎぶりを家臣に披露しています。
◆ 剣術、砲術、弓術、馬術、水術等の武術について一流の域に達していた。また、力も強く、
70歳の時に総長4尺7寸(1.4m)の火縄銃で鳶を撃ち落としています。
◆よく、考えると、大阪の陣の時の謀略の老獪さは72歳の時です。
日本は、超高齢化社会と言いますが
年齢で、考えた場合、やはり、徳川家康は、
スーパーマンだと思えてきました。
恐るべし、徳川家康。
青田さんへ
黒田裕樹 徳川家康は頑強な肉体と強じんな精神力を持っていたようですね。
それに加えて「薬オタク」といわれたほどの健康管理の素晴らしさ。
歴史に名を残す人は、やはり一般人とは明らかに異なるようです。
真田親子
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
これは、私の仮説ですが、
秀頼の遺児の7歳の国松を市中引き廻しの上
殺した理由としては、源頼朝、義経の歴史から学んだことだけではなく、真田親子のこともあったように思います。
真田親子は、上田合戦、関ヶ原の戦いで、秀忠38000との戦いで、散々、徳川軍を苦しめました。
当然、徳川家康は、真田親子は、切腹させたかったのですが、真田信之、本田忠勝の必死の説得で
紀州の九度山に配流にしました。
その結果、大阪の陣で、真田幸村に散々、徳川家康は、苦しめられました。
もし、関ヶ原の戦いで、真田親子を切腹させていれば、という思いも国松を殺した遠因になっているというのは、私の論理の飛躍でしょうか。
青田さんへ その2
黒田裕樹 家康の恨みが込められているということでしょうか。
国松と真田家に直接の関係があるかどうか、という点が考慮の対象になると思われます。
この作戦が功を奏(そう)して、家康は大坂城の外堀(そとぼり)を埋(う)めるという、徳川家にとって有利な条件で講和に持ち込むことに成功すると、その工事の際にどさくさにまぎれて内堀(うちぼり)まで埋めてしまいました。いかに巨大な大坂城といえども、堀がなくては裸(はだか)も同然です。
翌1615年5月、再び徳川家に攻められた大坂城は、豊臣方の各兵の奮戦(ふんせん)もむなしく落城し、秀頼と母親の淀殿(よどどの)は自害しました。世にいう「大坂夏の陣」(おおさかなつのじん)です。この戦いの後、秀頼の子で8歳になる男子も捕えられて首をはねられ、豊臣家は完全に滅亡しました。
豊臣家を滅ぼすためには手段を選ばず、またわずか8歳の子であっても容赦なく首をはねたことで、家康に対する悪いイメージは完全に定着してしまったのですが、家康には家康なりの筋の通った考えがありました。なぜなら、これらの手法(しゅほう)は勉強家の家康が「歴史に学んだ」結果でもあったからです。




いつも有難うございます。
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紗那 そうですね、この話で家康悪い人イメージが定着しました。
悪いというよりは、ずるがしこいとも言いますか……?
次の記事、気になります
紗那さんへ
黒田裕樹 > そうですね、この話で家康悪い人イメージが定着しました。
> 悪いというよりは、ずるがしこいとも言いますか……?
本当にそうですよね。
「ずる賢い」「汚い」という家康の一面的なイメージが完全に定着してしまってます。
> 次の記事、気になります
次回(23日)からは家康の見方が180度変わりますよ。ご期待下さい!
.
ぴーち こんばんは!
ああ・・
この場面は黒田さんが殊更
力が入った場面でしたよね^^
こうして改めて内容を伺っていると、一代でのし上がる為には必ずと言って良い程、その裏で泣かされる者や、命を絶たれてしまう存在があるものですよね。
家康は、戦術の上手さや、政治的手腕には長けていても、人道的には手段を選ばぬ、極悪非道な行いが彼の評価を落としていったのですね。
特に日本人は非人道的な考えや行動には、拒絶反応を示す傾向が強いですね。義理、人情に殊更厚い関西の方の気質には特に憎悪を覚える家康の行動だと推測しました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この場面は黒田さんが殊更
> 力が入った場面でしたよね^^
そうでした(^^ゞ
前半の言わばヤマ場でもありましたからね。
> こうして改めて内容を伺っていると、一代でのし上がる為には必ずと言って良い程、その裏で泣かされる者や、命を絶たれてしまう存在があるものですよね。
> 家康は、戦術の上手さや、政治的手腕には長けていても、人道的には手段を選ばぬ、極悪非道な行いが彼の評価を落としていったのですね。
見た目はどう取り繕っても極悪非道ですからね。致し方ない面があると思います。
ただ、個人の評価としてはどうなるのか、ということなんですよね。
> 特に日本人は非人道的な考えや行動には、拒絶反応を示す傾向が強いですね。義理、人情に殊更厚い関西の方の気質には特に憎悪を覚える家康の行動だと推測しました。
言われてみればそのとおりですね。
豊臣家を滅ぼした憎いやつだけでなく、そんな要素まで加わったら…。
.
アースガイド ジェット・リーの映画「英雄」
の始皇帝のように、
悪になってでも統一和平を目指さないといけない時代だったのでしょうね。
今の時代に生まれて良かった・・・のかな??笑。
アースガイドさんへ
黒田裕樹 > ジェット・リーの映画「英雄」
> の始皇帝のように、
> 悪になってでも統一和平を目指さないといけない時代だったのでしょうね。
> 今の時代に生まれて良かった・・・のかな??笑。
確かに家康に限らず、天下統一に関しては多くの血が流れることもあって、悪のイメージが定着していますね。
今の世の中は…現状では確かに平和ですよね(^^ゞ
歴史のif
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
よく、考えたら、豊臣方の油断は、自然と
思えてきました。
というのも、徳川家康の年齢は、豊臣秀吉の4つ下です。
関ヶ原の戦いの時、徳川家康は、すでに57歳でした。
そう考えると、淀の方が、家康の言葉を最初は、
信じたのも、家康の年齢もあったと思います。
まさか、家康が57歳から、74歳まで、生きるとは、大阪方も考えていなかったでしょうね。
ということは、もし、徳川家康が、関ヶ原から、
大阪の陣までの間に寿命で、亡くなっていたとしたら、
歴史は、どうなっていたでしょうか。
可能性としては
① 豊臣家は、60万石の大名として残る。
・・秀忠の娘の嫁ぎ先であり、お江は、淀の方の
妹なので。。
② 江戸幕府が、長期化するが、いずれは、豊臣家を取り潰す。
黒田先生は、どういうifが有り得ると思いますか。
青田さんへ
黒田裕樹 以前の講座で紹介しました「関ヶ原の戦いで家康が負けて生き残った場合」に近いと思われます。
恐らくは西日本を豊臣家、東日本を徳川家が支配する「二重政府」の状態が長く続いたでしょう。そして、両者の間には当然のように戦いがずっと繰り広げられます。
大阪の人間としては考えるに忍びないですが、豊臣家が中途半端に残っている以上、我が国の平和の達成は非常に遅くなったでしょう。その隙を外国につけ狙われれば…。
豊臣家の存続方法
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
NHKの大河ドラマ『江』を観ているのですが
大阪の陣の時の徳川家康の観ていると、
どうしても凄まじい怒りを感じます。
たしかに、平清盛は、源頼朝、源義経を許して
その後、平氏は、滅ぼされましたが、
私は、豊臣家が大名として、生き残る道は
あった気がします。もちろん、そのためには
淀の方、秀頼の態度も軟化させる必要がありますが。。(秀頼が徳川家に臣従するカタチ)
というのも、
豊臣秀吉が天下を取っても、織田家は、大名としては、江戸時代も残りました。
黒田先生は、豊臣家が、大阪からの国替えに応じて、徳川家に臣従を違うと豊臣家は、残ったと
思いますか。それとも、それでも、家康は、豊臣家を滅ぼしたと思いますか。
ただ、織田家と豊臣家との大きな違いは、
関ヶ原浪人の存在があるか、ないかも大きな
要因なのかもしれませんね。
結果は、わかっているのですが、心情的に豊臣家には、残って欲しい気がします。
青田さんへ その2
黒田裕樹 あくまで推論の域を出ませんが、私は豊臣家の存在を家康は許さなかったと思います。
史実の豊臣家の滅亡まで関ヶ原から15年近く経過していますが、家康は将軍就任やその継承、幕府体制の基礎をつくるなど着実に手を打っています。
恐らくは自己の寿命を計算に入れたうえで豊臣家をはめる形で方広寺の梵鐘への言いがかりを考えたと思われます。
また、家康が豊臣家を許さなかったもう一つの理由として、史実の淀殿の高い自尊心が豊臣家による徳川家への臣従を許さなかったことを見抜いていたからではないでしょうか。
ところが、家康は「君臣豊楽と書いて豊臣家の繁栄を願う一方で、国家安康と書くことで家康の名を二つに割って呪いをかけている」と言い出して豊臣家を非難したのです。常識的に考えてそんな解釈(かいしゃく)はあり得ないのですが、当時の学者や学僧(がくそう)が次々と家康の説を支持したことによって、話が大きくなってしまいました。
豊臣家は弁明の使者として家臣の片桐且元(かたぎりかつもと)を家康のもとへ送りましたが、家康が且元に会おうとしなかったために、且元はそのまま当時家康が所在していた駿府に留(とど)め置かれました。
且元がいつまで経(た)っても帰ってこないのを不審(ふしん)に思った豊臣家が別の使者を送ると、家康はすぐに面会して「豊臣家と対立する意思はない」と伝えて使者を帰しました。そしてその後に、家臣を通じて且元に自身の怒りを伝えたうえで「豊臣家が徳川家に逆らう意思がないのであれば誠意(せいい)を示せ」と脅迫(きょうはく)したのです。
この結果、豊臣家は先に帰ってきた使者と且元とで全く違う家康の考えを聞いたことになりました。疑心暗鬼(ぎしんあんき)に陥(おちい)った豊臣家は且元を追放するなど混乱してしまい、それを好機と見た家康は、豊臣家に宣戦布告(せんせんふこく)しました。世にいう「大坂冬の陣」(おおさかふゆのじん)の始まりです。




いつも有難うございます。
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紗那 この家康の話を、おおくの学者が支持したのは、やはり家康が権力を握っていたからなんでしょうか?
しかし、家康も曲者ですね!すごい情報戦……!
.
ぴーち こんばんは!
よく棋士も名人級になると
相手の十手先まで出方を見通せると言われていますが、家康もそんな能力を幼少の頃から、自然に身につけていたのでしょうかね。
それにしても、かなり理不尽な言いがかりではあるものの、難なく納得させてしまう手腕は、やはり天下人としての才覚に秀でていたのですね。
応援凸
.
オバrev まさにこれは、日本史上最も有名な言いがかりですかね?
忍耐の人家康も年を取っていたから、焦ったのかと思いましたが・・・
.はじめまして
てのりぱんだ いつもおもしろく拝見しています。
時々、私のブログでは「阪神ネタ」をアップしていますが、そのたびに、もしご覧になっていたら、黒田さんにはわるいなあ~と、おもっています。
^^
趣味で「講座」を開くなんて、すごいことです。蔭ながら応援していますね!
紗那さんへ
黒田裕樹 > この家康の話を、おおくの学者が支持したのは、やはり家康が権力を握っていたからなんでしょうか?
そう考えて間違いないでしょうね。
権力者におもねるあたりは学者失格といえそうですが…。
> しかし、家康も曲者ですね!すごい情報戦……!
確かにそうですね(^^ゞ
情報戦を制する者が天下を制するというのは、いつの時代も変わらないようです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > よく棋士も名人級になると
> 相手の十手先まで出方を見通せると言われていますが、家康もそんな能力を幼少の頃から、自然に身につけていたのでしょうかね。
そうですね。幼少期から人質という命がけの毎日を過ごしていましたから、仰るとおり自然と身に着けた可能性もあると思います。
> それにしても、かなり理不尽な言いがかりではあるものの、難なく納得させてしまう手腕は、やはり天下人としての才覚に秀でていたのですね。
学者といっても権力者にすがらないといけないこともあるということでしょうか。有無を言わせず納得させる家康の貫録はさすがというべきでしょう。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > まさにこれは、日本史上最も有名な言いがかりですかね?
そのとおりです。まさに言いがかり以外の何物でもありませんが、これが通ってしまうところが何とも…(´・ω・`)
> 忍耐の人家康も年を取っていたから、焦ったのかと思いましたが・・・
確かに焦りはあったでしょうね。相手のミスを絶対に見逃さないところはさすがです。
てのりぱんださんへ
黒田裕樹 > いつもおもしろく拝見しています。
はじめまして。いつもご覧下さって感謝しております。
> 時々、私のブログでは「阪神ネタ」をアップしていますが、そのたびに、もしご覧になっていたら、黒田さんにはわるいなあ~と、おもっています。
> ^^
いえいえ、どのチームを好きになるかは個人の自由ですから(^^♪
優勝争いをしているチームがひいきでうらやましいです(´;ω;`)
> 趣味で「講座」を開くなんて、すごいことです。蔭ながら応援していますね!
有難うございます(^o^)/
今後ともよろしくお願いします。
そして1600年に関ヶ原(せきがはら)の戦いで豊臣家家臣の石田三成(いしだみつなり)を破ると、1603年には朝廷(ちょうてい)から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられて江戸幕府を開き、徳川家の天下取りに本腰(ほんごし)を入れ始めました。とはいえ、関ヶ原の直後はまだまだ豊臣家に従う大名が多かったので、家康は以後も時間をかけて徳川家の天下へと導(みちび)くことになります。
関ヶ原から10年以上が経過して豊臣家恩顧の大名が次々と死亡する一方で、秀頼が成人して将来の徳川家に悪い影響をもたらすと判断した家康は、それまでの律義者の仮面を脱(ぬ)ぎ捨てて、なりふり構(かま)わぬ老獪(ろうかい、色々経験を積んでいて悪賢いこと)ぶりで豊臣家を追いつめました。
1614年、秀頼は家康の勧(すす)めで秀吉ゆかりの京都の方広寺(ほうこうじ)を再建し、新たに梵鐘(ぼんしょう、いわゆる鐘のこと)をつくったのですが、その銘文(めいぶん)に記載された文字が、その後の豊臣家の運命を暗転(あんてん)させることになったのでした。




いつも有難うございます。
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明天会更美好 小牧長久手の戦い前後から、関が原までの流れを見てみると家康も人格者ではなく、1人の戦国大名だったということですね。
それにしても秀吉の生前と死後の変わりようは非常に印象的です。秀頼に対する仕打ちはまるで復讐みたいです。多くの大名と同じで、彼も多分秀吉になみなみならぬ恨みを抱いていたではないでしょうか。
黒田先生
風早 りら 秀頼は家康の陰謀にはまってしまいますよね
このお話は 有名ですが 私が不思議なのは
若い秀頼はともかくとして なぜ 淀君がそれに気付かなかったのかと言うことです
.
ハチ公 最近来てなくてすみません(>_<)
関ヶ原の戦いのあたりは有名ですよね。歴史とかでよく習います。方広寺の文字の事は私も前TVで観たことあります。
明天会更美好さんへ
黒田裕樹 > 小牧長久手の戦い前後から、関が原までの流れを見てみると家康も人格者ではなく、1人の戦国大名だったということですね。
> それにしても秀吉の生前と死後の変わりようは非常に印象的です。秀頼に対する仕打ちはまるで復讐みたいです。多くの大名と同じで、彼も多分秀吉になみなみならぬ恨みを抱いていたではないでしょうか。
律義者といっても裏切りが当たり前の戦国時代の大名ですから、当然徳川家の将来を考えて行動しているわけですし、彼にとっては邪魔者(?)だった秀吉が死んだことで、それまでの数々の恨みを一気に晴らす機会を得たといっても過言ではないでしょう。
そして、その復讐の最たるものが次回(21日)の「言いがかり」であるといえます。
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 秀頼は家康の陰謀にはまってしまいますよね
> このお話は 有名ですが 私が不思議なのは
> 若い秀頼はともかくとして なぜ 淀君がそれに気付かなかったのかと言うことです
淀殿が気づかなかったのは、幼少時に家族との死別や落城を経験しているとはいえ、彼女が「お姫様育ち」であるがゆえの「世間の認識」とのズレが原因ではないでしょうか。
お姫様育ちであるがゆえに豊臣家の現状を理解できず、また後の徳川家との戦いにおいても、優位に戦いを進めながら講和を結び、挙句の果てには騙されて落城の原因を作ってしまうことにもつながってしまったと考えております。
ハチ公さんへ
黒田裕樹 > 最近来てなくてすみません(>_<)
お久しぶりです(^^♪
一連の慶事は素晴らしかったですね(^o^)/
> 関ヶ原の戦いのあたりは有名ですよね。歴史とかでよく習います。方広寺の文字の事は私も前TVで観たことあります。
有名な出来事ですからね。詳しくは明日(21日)の更新で紹介しますよ。
.
ぴーち こんばんは!
>家康は、それまでの律義者の仮面を脱(ぬ)ぎ捨てて、なりふり構(かま)わぬ老獪ぶりで豊臣家を追いつめました。
まるで「アンコウの餌待ち」の様な
状態で、いきなりバクッと大口を開けて相手を一飲みするような様子が浮かんで来ました(爆)
しかも、家康の顔も「アンコウ」に
思えて来てしまいました(^^A
応援凸
関東の誠 久しぶりに投稿させて頂きます。
物心ついて初めて歴史に触れた機会が、東宝映画の「大阪城物語」だったためアンチ家康で成長してきました。
ただ最近になって少し様子が変わり…、(歴史の真実に触れることは難しいので、「好みや仮説」の域を出ませんが)家康と北政所の関係から、家康が淀君と秀頼のことを「正統派豊臣家」と認めていなかったとしたら、強ち裏切り者一辺倒ではないかも?という気にはなっています。それでもなお家康贔屓になれないのは、加藤清正の死が“ひっかかる”ためです。(フィクションの影響とは思いますが)清正の死が暗殺だったら、武士の行為ではないと思ってしまいます。
先生の今後の講座を楽しみにしております。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > >家康は、それまでの律義者の仮面を脱(ぬ)ぎ捨てて、なりふり構(かま)わぬ老獪ぶりで豊臣家を追いつめました。
>
> まるで「アンコウの餌待ち」の様な
> 状態で、いきなりバクッと大口を開けて相手を一飲みするような様子が浮かんで来ました(爆)
> しかも、家康の顔も「アンコウ」に
> 思えて来てしまいました(^^A
言われてみればそんなイメージがありますね(^^ゞ
アンコウに飲み込まれた(?)豊臣家の運命はどうなるのでしょうか…。
関東の誠さんへ
黒田裕樹 > 久しぶりに投稿させて頂きます。
ご無沙汰しております。お言葉有難うございます。
> 物心ついて初めて歴史に触れた機会が、東宝映画の「大阪城物語」だったためアンチ家康で成長してきました。
> ただ最近になって少し様子が変わり…、(歴史の真実に触れることは難しいので、「好みや仮説」の域を出ませんが)家康と北政所の関係から、家康が淀君と秀頼のことを「正統派豊臣家」と認めていなかったとしたら、強ち裏切り者一辺倒ではないかも?という気にはなっています。それでもなお家康贔屓になれないのは、加藤清正の死が“ひっかかる”ためです。(フィクションの影響とは思いますが)清正の死が暗殺だったら、武士の行為ではないと思ってしまいます。
> 先生の今後の講座を楽しみにしております。
歴史にはいろんな見方がありますからね。
秀頼の出自の謎は確かに「?」の部分もありますし、清正の突然死も理由が不明ですから、仰るような見方も十分に考えられると思います。
最後の方で詳しく述べますが、今回の講座では個人の感情を一切排して第三者的な立場で家康の歴史を語り続けているつもりですので、これからもよろしくお願いします。
秀吉はその後も家康に自身への臣従(しんじゅう、臣下として主君につき従うこと)を迫り、自分の妹を家康の新たな正室として差し出したり、母を人質として送ったりしました。こうした秀吉の容赦(ようしゃ)のない攻勢に対して家康もついに臣従を決意し、秀吉に面会して臣下の礼をとりました。
その後、1590年に秀吉が天下を統一した際に、家康は滅亡した北条氏(ほうじょうし)の旧領である関東の6ヵ国を秀吉から与えられました。しかし、それは石高(こくだか)こそ約100万石(まんごく)の大幅な加増(かぞう)であったものの、先祖伝来の地でもあり、それまでに血のにじむような思いで獲得(かくとく)してきた三河などの領地を秀吉に没収(ぼっしゅう)されることを意味していましたが、家康はここでも屈辱(くつじょく)に耐え、秀吉の命令に従ったのでした。
「やがて巡(めぐ)り来るであろう機会を待って、その日までじっと耐え続ける」。人質時代に培(つちか)った家康の苦労や辛抱が報(むく)われる日がついにやって来ました。1598年に、秀吉が幼い秀頼(ひでより)を遺(のこ)してこの世を去ったのです。秀吉から秀頼と豊臣家の行く末を託(たく)され、笑顔で応(こた)えた家康は、内心でこう思っていました。
「太閤殿、貴殿が織田家に対してそうなさったように、今度は自分が豊臣家を出し抜いて天下を取る番ですな」。




いつも有難うございます。
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トレビアン・西 黒田裕樹さん、応援コメントいつもありがとうございます。今は語れませんが、月末には笑ってもらうつもりです。
笑えないかもしれませが・・・・。
これからもよろしくお願いします。
.
紗那 このあたりは家康の根性に感心するしかないですね……!
こんな尋常じゃない耐久力、自分にはないです。。。
しっかし、腹黒い!
トレビアン・西さんへ
黒田裕樹 お言葉をいただきまして、お元気そうで安心しました。
月末を心待ちにしております。
紗那さんへ
黒田裕樹 > このあたりは家康の根性に感心するしかないですね……!
> こんな尋常じゃない耐久力、自分にはないです。。。
私もこんな忍耐力は持てません(笑)。
これも家康の凄さですね。
> しっかし、腹黒い!
明日(20日)からいよいよ家康の「黒い部分」が明らかになりますが、家康嫌いの紗那さんにもしっかりとお読みいただきたいと思います(^^ゞ
.
ぴーち こんばんは!
「鳴かぬなら、鳴くまで待とう
ほととぎす』の由来は、この辺の尋常ではない辛抱強さから
家康の事を揶揄して言った言葉なんですね^^;
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 「鳴かぬなら、鳴くまで待とう
> ほととぎす』の由来は、この辺の尋常ではない辛抱強さから
> 家康の事を揶揄して言った言葉なんですね^^;
確かに一理ありますね。
「よくここまで耐え抜いたなぁ」という、尊敬よりもむしろあきれ返る思いからきているのかもしれません。
そして、次回(20日)からいよいよ家康による怒涛(?)の逆襲編が始まります!(^^ゞ
興味を持たれた皆様は、是非会場までお越し下さい。東京での公演のため、私自身が参加できないのは非常に残念ですが、もし関西で上演される機会があれば拝見したいです!
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)
(※舞台の詳細は追記からご覧下さい。なお、今回の記事に関してはコメント欄を閉じさせていただきます)
『The Bando Wanderer 無稽・将門』
(演出・小川信太郎 作・沢崎麻也)
【日時】9月2日(木)~5日(日)
2日(木)19:00
3日(金)14:00/19:00
4日(土)14:00/19:00
5日(日)12:00/16:00
【場所】新宿スペース107
【料金】4000円(全席指定)
【チケット予約について】
下記の予約フォームからもご予約できます!
フォームから予約すると、座席が選べます
希望購入者欄はぜひ「藤原久美子」で
チケット予約フォーム
(※携帯の場合はこちらからお申込みいただけます)
【あらすじ】
この国を守る…
そう言い残して平安時代の英雄、
平将門と藤原純友はこの世を去った。
そして二人の魂は
遥か古代・邪馬台国の時代と、
現代・戦争が激化する1940年に生まれ落ちる。
時を隔てた二人の魂が、
国を守るために呼応した時、
ついに時代が動く…
架空の島国を舞台に、
将門・純友の両雄をモチーフに描く伝奇SF。
※更に詳しいあらすじは、こちらで読めます↓
劇団BOOGIE★WOOGIEホームページ
(携帯からはこちらをご覧下さい)
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
追記を閉じる▲
結局、家康は泣く泣く信康に切腹(せっぷく)を命じて、築山殿を殺害しました。信長との同盟関係を維持(いじ)することで、徳川家の繁栄(はんえい)や、ひいては家臣や領民の平和を守るために、非情(ひじょう)の決断を下(くだ)さざるを得なかったのです。
「平和を保つ」ということは、口で言うのは容易(たやす)いものの、時には身を切られる思いをしなければならないほどの厳(きび)しい決断を迫られることがあるということを私たちに教えてくれるエピソードでもありますね。
その後、1582年に起きた本能寺の変(ほんのうじのへん)で信長は明智光秀(あけちみつひで)に殺害されましたが、このとき家康はわずかな家臣とともに堺(さかい)にいました。落ち武者狩(が)りによって生命が奪われる危機でしたが、伊賀(いが、現在の三重県)の山々を強引に越えて何とか難を逃れました。
三河に戻った家康は、謀反(むほん)を起こした光秀を討って天下取りに名乗りを挙げようとしましたが、既(すで)に秀吉によって光秀が討たれた後でした。秀吉による常識はずれのスピードに、さしもの家康も勝てなかったのです。それでも家康は来るべき秀吉との戦いに備え、信長の死後の混乱に乗じて甲斐などを治(おさ)めて領土を拡大していきました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
平和を願う。平和を保つ。
仰るとおり、口で言うのは容易い事ですが、家康の生涯の中では、その平和を保つ為の代償は、相当な辛い選択であったのですね。。
こうしてみると・・家康のエピソード以外の人類が生きて来た歴史の平和の陰には、その犠牲になった者が必ず居るという事実を私達は、改めて認識していかなければ、ならないのでしょうね。勉強になりましたm(__)m
応援凸
.
そうめん お、遂に本能寺の変が出てきましたか~
織田信長は明智光秀に殺されましたよね。
家康は堺に居たんですか・・
生命が奪われる危機だったとは・・参考になりました(^^;)
P.S
バトン回しました。
出来ればで良いですよ。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 平和を願う。平和を保つ。
> 仰るとおり、口で言うのは容易い事ですが、家康の生涯の中では、その平和を保つ為の代償は、相当な辛い選択であったのですね。。
そうなんです。
家康も人の子ですから、家族を守るために信長と戦う選択肢も頭の中にあったはずですが、徳川家を守るとともに領民の平和と安全の保障のためには、それこそ血を吐くような決断をせざるを得なかったのですから。
> こうしてみると・・家康のエピソード以外の人類が生きて来た歴史の平和の陰には、その犠牲になった者が必ず居るという事実を私達は、改めて認識していかなければ、ならないのでしょうね。勉強になりましたm(__)m
有難うございます。
仰るとおり、家康のように表沙汰になった以外にも、数えきれない人々の犠牲によって、我が国のみならず世界の平和が守られてきていると考えるべきでしょう。私たちはそのことに気付くとともに、犠牲になった人々に感謝すべきだともいえるのです。
.黒田裕樹先生
風早 りら 今回の先生のアップで
思いましたが 家康は
相当 頭が切れる人ですね
先見の眼があるとはこの事
でしょう
そうめんさんへ
黒田裕樹 > お、遂に本能寺の変が出てきましたか~
> 織田信長は明智光秀に殺されましたよね。
有名な話ですからね。
明智光秀については昨年の今頃に私の講座で紹介していますよ。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-193.html
> 家康は堺に居たんですか・・
> 生命が奪われる危機だったとは・・参考になりました(^^;)
信長の招待を受けて、たまたま少人数で旅行中だったんです。
信長の領地内でその信長が殺されたことによって、周囲が一気に敵だらけになってしまったのですから、家康は絶望的な思いになったと思われます。よく生きて自領の岡崎へ戻れましたよね。
> P.S
> バトン回しました。
> 出来ればで良いですよ。
バトンですか(^^ゞ
ブログの性格上、ここで記事にはできませんが何とかしてみましょう。
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 今回の先生のアップで
> 思いましたが 家康は
> 相当 頭が切れる人ですね
> 先見の眼があるとはこの事
> でしょう
確かに現状だけでなく、将来の展望も考えて行動できた武将だったといえます。
だからこそ最終的な天下統一も可能になったのでしょうね。
耐える
ken 家康の様に耐えて、先見ある人物をめざしたいですね。
みてもだめ。
きいてもだめ。
いってもだめ。
昔のひはすごいですよね。
kenさんへ
黒田裕樹 > 家康の様に耐えて、先見ある人物をめざしたいですね。
> みてもだめ。
> きいてもだめ。
> いってもだめ。
> 昔のひはすごいですよね。
お言葉有難うございます。
私も家康個人の好き嫌いは別にして、彼の辛抱強さは見習わなければいけないと実感しております。
先見の明は本当にすばらしいですね。
家康の家族への非情さ
青田です。 黒田先生
おはようございます。
青田です。
織田信長は、何度も裏切る弟の信行を殺した以外
妻にも優しく、子供にも優しいマイホームパパでした。
豊臣秀吉も、晩年に甥の秀次を殺すまでは
妻・実母・妹・弟・そして、秀次を愛するよき
マイホームパパでした。
それにたいして
徳川家康は、身内には、厳しすぎます。
◆ 妻の築山殿を殺害し、旭姫(秀吉の妹)もスグに亡くなり
◆ 子供は、長男信康切腹、次男秀康は、人質に差し出す、六男忠輝は、追放。
家康がイイお父さんになったのは、関ヶ原の戦いの後に生まれた御三家の藩祖となる3人の息子からです。
平和主義者としての徳川家康は、認めますが
信長、秀吉と比べた場合、完全な家庭崩壊者ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 家康の場合、次男は母親の影響で我が子かどうか疑っていたという話が残っていますね。六男はキリシタンだったことで追放されたという俗説もあるようです。
いずれにせよ、尋常の父親のやることではありませんね。平和は非情さがないと達成できないことを如実に物語っています。
さらに付け加えるのであれば、晩年の三人の息子も家康にとっては「万が一のための保険」であり、父親としての愛情だったかどうかが疑われるところでもありますが。
三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)と呼ばれたこの戦いに敗れ、あわてて浜松城(はままつじょう)に逃げ帰った家康は、恐怖のあまり馬上(ばじょう)で粗相(そそう)をしたと伝えられています。
何とか生きて浜松城へ戻(もど)ることができた家康は、惨(みじ)めな自分の姿を絵師に描(か)かせました。この時の肖像画(しょうぞうが)は現在も残っており、俗(ぞく)に「しかみの像」と呼ばれています。家康はこの絵を残すことで自分の行為を反省するとともに、同じような過(あやま)ちを二度としないと固く誓(ちか)ったといわれており、こんなところにも家康の「歴史に学ぶ」姿勢がうかがえます。
また、家康と信長との同盟は、裏切りが当たり前の戦国の世の中で、信長が死ぬまでずっと続いたという極(きわ)めて珍しいものでしたが、そんな同盟にも危機のときがありました。1579年、家康の正室(せいしつ、いわゆる本妻のこと)であった築山殿(つきやまどの)と嫡男の徳川信康(とくがわのぶやす)が武田家に内通(ないつう、味方の中にいながら敵に通じること)しているのではないかと問題になり、信長は家康に両者を殺害するように命じたのです。




いつも有難うございます。
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風早 りら 信長から家康が信康を殺害
するように 言われた時
家康は どれだけ 苦しんだ事
でしょう それでも 徳川を
守るため信長の命にしたがいます
この御話は何回聴いても
辛いですね
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 信長から家康が信康を殺害
> するように 言われた時
> 家康は どれだけ 苦しんだ事
> でしょう それでも 徳川を
> 守るため信長の命にしたがいます
> この御話は何回聴いても
> 辛いですね
そうですね。
詳しくは明日(18日)の更新で紹介しますが、家康の苦渋の決断は、その後の運命の激流をも想像させる様な辛いものだったことでしょう。
.
紗那 この戦いのことはさすがに学校ではやらなかったので、自分で本とかで読んで知ったのですが。。
家康でもこういう失敗を犯すのだな、と驚いた記憶があります。
紗那さんへ
黒田裕樹 > この戦いのことはさすがに学校ではやらなかったので、自分で本とかで読んで知ったのですが。。
> 家康でもこういう失敗を犯すのだな、と驚いた記憶があります。
確かに家康らしくない大失敗ですね。
ただ、自分の領地を素通りされて知らんぷりをしていては、家臣に示しがつきません。家康はやむなく立ち上がったとも思われますが、それならそれでもう少し作戦を練ることができたはず。
失敗だということが分かっていたからこそ、家康は自分のみじめな姿を描かせたのでしょうね。
.
ぴーち こんばんは!
しかみの像。。
仰るとおり、「歴史に学ぶ」
「失敗に学ぶ」姿勢こそが、成功に繋がる第一歩なんでしょうね。
なかなか失敗した自分を冷静に、客観的に見る事が出来ずに目を背けてしまいがちですが、そこがまた家康の凄さなのだと改めて思います。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > しかみの像。。
> 仰るとおり、「歴史に学ぶ」
> 「失敗に学ぶ」姿勢こそが、成功に繋がる第一歩なんでしょうね。
> なかなか失敗した自分を冷静に、客観的に見る事が出来ずに目を背けてしまいがちですが、そこがまた家康の凄さなのだと改めて思います。
私もそう思います。
人間はどうしても失敗をする動物です。大切なのは、失敗を反省し、二度としないために自分を鍛錬すること。
家康の姿勢は、現代人が忘れてしまった大事なものを思い出させてくれますね。まさに「歴史に学ぶ」です。
是非知りたい!
オバrev 自分の失敗した姿を絵師に描かせて恥を晒すという発想は、通常の武士ならまずありえないことです。それを恥とも思わず実行するところに家康の凄みを感じます。
信長に命じられて我が子を殺害するという決断を下した家康。この心境の詳しいことは山岡荘八の小説にもなかったと思います。
ぜひ知りたい所です!!
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 自分の失敗した姿を絵師に描かせて恥を晒すという発想は、通常の武士ならまずありえないことです。それを恥とも思わず実行するところに家康の凄みを感じます。
通常であれば恥と思って振り返ることもしませんからね。
家康の姿勢の違いがよく分かります。
> 信長に命じられて我が子を殺害するという決断を下した家康。この心境の詳しいことは山岡荘八の小説にもなかったと思います。
> ぜひ知りたい所です!!
大河ドラマでは切腹後の家康の断腸の思いがワンシーンに凝縮されていましたが、確かに凄まじいものがあったでしょうね。
私の自分なりに分析して、本日(18日)の更新にまとめてありますので、ぜひご覧下さい。
信長が桶狭間(おけはざま)で休息中の義元を急襲(きゅうしゅう)して、その首を落とすことに成功したのです。世にいう「桶狭間の戦い」によって、元康の運命は大きく変わることになりました。
元康は戦後の混乱で無主(むしゅ)となっていた岡崎城に入ると、その後の今川家とのいさかいを切り抜けて、やがて三河一国の大名となったのです。この間に信長と同盟(どうめい)を結ぶことにも成功し、自分の名前も「徳川家康」と改めました。このうち、名前については「元康」の「元」が今川義元からもらったものだったのでこれを捨てたのですが、「徳川」への改姓の理由は後に紹介します。
三河一国を支配し、また信長と結んだことで大名として大きく成長した家康でしたが、その後の人生にはまだまだ数多くの苦難が待ち受けていました。




いつも有難うございます。
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風早 りら 「徳川」への改姓の理由
かなり 興味があります
信長と家康は一時
かなり 仲が良かったようですね
織田家に 家康がいたころ
交流があったからでしょうか
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 「徳川」への改姓の理由
> かなり 興味があります
講座の後半で詳しく紹介しますので、今しばらくお待ち下さいね。
> 信長と家康は一時
> かなり 仲が良かったようですね
> 織田家に 家康がいたころ
> 交流があったからでしょうか
同盟が長く続いたことで、一般にはそういうイメージがありますね。
幼少期の竹千代とうつけ者の信長に交流があった可能性も高いですし。
ただ、同盟は必ずしも一枚岩ではなかったようです。詳しくは明日(17日)以降の更新で紹介します。
.
ぴーち こんばんは!
今更ながらの素朴過ぎる質問ですが(笑)
家康は、幼少の頃から数えて合計4回改名した事になるのでしょうか。
通常はそんなに改名しないような気がしましたが、私の勘違いなのでしょうか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 今更ながらの素朴過ぎる質問ですが(笑)
> 家康は、幼少の頃から数えて合計4回改名した事になるのでしょうか。
> 通常はそんなに改名しないような気がしましたが、私の勘違いなのでしょうか?
この頃の武将は、若い頃の幼名から元服時に改名するのが普通でした。その際には仕えた大名の一字をもらうことが多く、竹千代の場合は今川義元の名前から元信を名乗ったのですが、その後に祖父の元康の名をもらって元康と改名しています。
桶狭間の戦い後には義元の元の字を捨てて家康と名乗り、さらに徳川に改姓していますから、確かに多いですね。ただ、改名や改姓にはそれぞれの事情があり、さながら出世魚のような思いもします(笑)。
この同盟の意味
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
この同盟の意味は、織田信長にとって、
非常に重要ですね。
というのも、まだまだ、弱小大名である
徳川家康が
一番、巨族にたいする防波堤になってくれるからです。
武田家、北条家という一番、やっかいな
敵を徳川家が、引き受けてくれるのは、
織田信長にとって、非常に助かります。
逆に、徳川にとっては、織田信長という後ろ盾が
あったとはいえ、相当、重かったと思います。
幸い、武田信玄が信濃攻略を巡り、上杉謙信・北条氏康と戦いあってくれて、西に意識を集中しなかったことが徳川家康が小さくても、対応できたと思います。
そう考えると、武田信玄の川中島での10年間は
あまりにも、エネルギーを使いすぎてしまったように思います。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、この同盟は信長にとっては非常に大きかったと思います。
その一方で家康も東へ目を向けることができたものの、信玄の脅威は相当だったと思います。
信玄の「失われた10年」はあまりにも大きすぎました。
もし信玄が謙信と早目に和睦して西へ目を向けていれば…。
もっとも、仮に信玄が天下を取ったとしても、長続きは絶対できなかったと考えられます。
詳しくはこちらの講座をご覧下さい。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-410.html
「竹千代様がおられる限り、松平家はきっと復興(ふっこう)できる」。そう信じた三河衆は食うや食わずの生活を耐(た)え忍(しの)び、また戦(いくさ)の最前線に送られても、生き延(の)びるために懸命(けんめい)に戦いました。こうした境遇(きょうぐう)が、やがて三河兵を最強の軍団へと成長させたのです。その強さは、後に「三河兵1人は尾張(おわり、現在の愛知県西部)兵の3人に匹敵(ひってき、肩を並べること)する」と言われたほどでした。
今川家の人質となって、周囲から陰湿(いんしつ)なイジメを受けながらもじっと我慢(がまん)を続けた竹千代にとっても、人質の暮らしは悪いことばかりではありませんでした。当時の駿府は戦乱を逃(のが)れた公家(くげ)たちが集まったこともあって、さながら「東の都」と呼ばれるような発展を見せていました。
竹千代は幼少期をそんな都市で過ごしたことで、三河で暮らしていれば絶対に身に着けられなかったと思われる高い教養を自分のものにすることができたのです。後の家康の愛読書に鎌倉幕府(かまくらばくふ)の誕生やその後を記(しる)した歴史書である「吾妻鏡」(あずまかがみ)がありますが、これらの教養が、江戸幕府の成立に深くかかわっていくことになります。
また、竹千代は周囲からのイジメを耐え抜く中で、いつかは松平家を復興してみせるという芯(しん)の強さを持つ一方で、そのためには何があっても辛抱(しんぼう)するという我慢強さや、周囲との協調を目指す中で腰の低さを身に着けました。やがて家康は、その義理堅(ぎりがた)さや実直(じっちょく)さから「律義者」(りちぎもの)として信頼される武将となり、後年(こうねん)の天下取りにも役立つことになったのです。




いつも有難うございます。
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紗那 逆境の中で、悪い方向に進む人もいますが、家康や三河の人たちには良い方向に作用したということですね。
ということは、三河の人たちはもともと芯が強かったということなんでしょうか。
.黒田裕樹先生
風早 りら 人質の暮らしは やはり
家康の辛抱強い性格の
源ですね
三河衆の家康を想う気持
今回の講座で よく 現われていて
感動しました
紗那さんへ
黒田裕樹 > 逆境の中で、悪い方向に進む人もいますが、家康や三河の人たちには良い方向に作用したということですね。
> ということは、三河の人たちはもともと芯が強かったということなんでしょうか。
そうですね。
三河の人々の芯の強さが、この後の活躍につながったと考えられます。
そして、この芯の強さは家康にも引き継がれているといえるでしょう。
風早りらさんへ
黒田裕樹 > 人質の暮らしは やはり
> 家康の辛抱強い性格の
> 源ですね
> 三河衆の家康を想う気持
> 今回の講座で よく 現われていて
> 感動しました
悪い条件は、悪いなりの人間を強くするという見本ですね。
あきらめずに辛抱強く頑張った家康の底力と、彼を慕うと同時に希望の星と信じた三河衆との絆も感動ものです。
.
ぴーち こんばんは!
三河衆の竹千代をカリスマの様に
慕い、信じる気持ちと、竹千代もまた、その気持ちに応えようとした思いが太い絆となり、心の拠り所となって、互いに良い結果を齎したのですね^^
「禍転じて福となす」のも、やはり前向きに辛抱したり、互いを信頼する気持ちがあってこそ。。
竹千代のどんな困難な事も、自分の糧にしていく姿勢、考え方は素晴らしいですし、その原動力は、やはり三河衆に頼りにされているという意識と、責任感の強さの表れだったのですね。
金八先生の話じゃないですが、
人という字の意味をふと思い出しました(笑)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 三河衆の竹千代をカリスマの様に
> 慕い、信じる気持ちと、竹千代もまた、その気持ちに応えようとした思いが太い絆となり、心の拠り所となって、互いに良い結果を齎したのですね^^
> 「禍転じて福となす」のも、やはり前向きに辛抱したり、互いを信頼する気持ちがあってこそ。。
> 竹千代のどんな困難な事も、自分の糧にしていく姿勢、考え方は素晴らしいですし、その原動力は、やはり三河衆に頼りにされているという意識と、責任感の強さの表れだったのですね。
> 金八先生の話じゃないですが、
> 人という字の意味をふと思い出しました(笑)
確かに金八先生の印象がありますね(笑)。
つくられたドラマと同じくらい、いやそれ以上に歴史のエピソードからは様々な教訓が残されているということなのでしょう。
.
智里 なるほど・・・
これはこれで竹千代にも良かったし、三河衆にも良かったんですね。
だけど、多大な犠牲があったの事実。
そのことも家康は分かってたのかな?
それが分かってたからこそ、実直、堅実、義理堅い人になったのかな~。
智里さんへ
黒田裕樹 > なるほど・・・
> これはこれで竹千代にも良かったし、三河衆にも良かったんですね。
> だけど、多大な犠牲があったの事実。
> そのことも家康は分かってたのかな?
> それが分かってたからこそ、実直、堅実、義理堅い人になったのかな~。
まさに「禍福はあざなえる縄のごとし」ですね。
仰るとおり、自分に多大な犠牲が払われているということを知っていたからこそ、家康は「律義者」として評価れるような武将になったと思われますね。