全国の守護大名の中には、大内氏(おおうちし)や山名氏(やまなし)のように数ヵ国にまたがる領地を持つものもあり、特に山名氏は11ヵ国にまたがる広大な領地を治めたことで、全国66ヵ国のうちの六分一殿(ろくぶんのいちどの)と呼ばれるなどの権勢(けんせい)を誇(ほこ)り、強大な守護大名は幕府の言うことに従わないようになっていきました。
その一方で、地方に土着(どちゃく)した武士の中には、国人(こくじん)と呼ばれ、守護大名の支配を受けずに自立の道を歩みだす者もいました。特に守護の権限が弱い地域では、国人たちは自らの領主権を確保するために、地域的な集団としての一揆(いっき)を形成しました。これを国人一揆(こくじんいっき)といいます。
このようにして国人たちは、お互いに協力し合うことで自主的な地域権力をもつようになり、守護大名への抵抗や農民に対する統制を行うようになりました。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
Masa このあたりはぼくの中で上位に入る時代なので楽しく見られてます。
ひとつ疑問なんですが、昨日も「その1」で今日も「その1」になっているのですが、何か深い意味が?それとも打ちミスでしょうか?
.
オバrev それにしても、お金と力と行政に加えて世襲とは、守護の権力は圧倒的ですね。
あと司法権については、この当時の守護は持っていたのでしょうか。
そこまでいけば、完全に独立した支配者ですけど・・・
Masaさんへ
黒田裕樹 > このあたりはぼくの中で上位に入る時代なので楽しく見られてます。
それは良かったです(^^♪
自分の興味のある時代を徹底的に押さえれば、後の展開が楽になりますよ。
> ひとつ疑問なんですが、昨日も「その1」で今日も「その1」になっているのですが、何か深い意味が?それとも打ちミスでしょうか?
…(^^ゞ
失礼しましたm(_ _)m
単なるミスです。お恥ずかしい限りで(;^ω^)
ご指摘有難うございました。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > それにしても、お金と力と行政に加えて世襲とは、守護の権力は圧倒的ですね。
まさしくそのとおりですね。
だからこそ幕府の言うことを聞かなくなってしまうのです。
権力の与え方には要注意ですね。
> あと司法権については、この当時の守護は持っていたのでしょうか。
> そこまでいけば、完全に独立した支配者ですけど・・・
昨日(25日)に書いたとおり、守護には幕府による裁判の判決を強制的に執行する使節遵行(しせつじゅんぎょう)の権利が与えられていましたが、このことによって守護が領国内の争いごとに積極的に介入することになり、やがては司法権を有するのと同様の権力を持つようになります。
ただ、その時代は長くは続かす、やがては戦国大名に取って代わられてしまうのが、残酷な歴史の流れですね。
黒田先生.
りら 世襲化と聞くと
今の政治を思い浮かべてしまいますね
国人一揆の言葉初めて知りました
いつも有難う御座います
楽しく 勉強させて頂いています
りらさんへ
黒田裕樹 > 世襲化と聞くと
> 今の政治を思い浮かべてしまいますね
確かにそうですね。もっとも、この場合の世襲は、一部を除いて没落していきますが…。
現代の世襲はどうなっていくのでしょうか。
> 国人一揆の言葉初めて知りました
> いつも有難う御座います
> 楽しく 勉強させて頂いています
お言葉有難うございます。国人というのは歴史用語ですから、普段は聞き慣れないですからね。これからもできるだけ分かりやすく紹介できればと思います。
.
ぴーち こんばんは!
この時代の民衆は、一揆と称して
随分果敢に悪政に立ち向かって行ったんですね~。
今の時代、政治に対して個人個人は
意見を述べているけれど、こうして
民衆が大勢で運動を起こしたり、政府に立ち向かって、力ずくでも屈服させようと言う動きは少ないですよね?
法律が複雑化しているからなんでしょうか?専門家のご意見をお伺いしたいです^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > この時代の民衆は、一揆と称して
> 随分果敢に悪政に立ち向かって行ったんですね~。
> 今の時代、政治に対して個人個人は
> 意見を述べているけれど、こうして
> 民衆が大勢で運動を起こしたり、政府に立ち向かって、力ずくでも屈服させようと言う動きは少ないですよね?
> 法律が複雑化しているからなんでしょうか?専門家のご意見をお伺いしたいです^^
私の見解は法律論というよりも、もっと単純なことかもしれませんが(笑)、考えられる答えはただひとつ。
「食べていけるか」。
これだけだと思います。
人間、食べていくことができれば、ちょっとやそっとのことでは暴動を起こそうとは思いません。
当時の農民が立ち上がったのも、また江戸時代に飢饉が頻発した時期も、年貢が高すぎて払えない場合や、飢饉でコメそのものがなく、奪われれば生命に関わるからこそ立ち上がったのです。
ひるがえって現在では、国全体が豊かになり、本当に貧しい人には生活保護も受けられますから、食べられない、ということはまず考えられません。だから暴動が起きないのです。
とはいえ、あまりにも悪政が続くのであれば、国民はもっと怒っていいと思うんですけどね。
.
アクア 国人いっきって
国一揆ですか?
アクアさんへ
黒田裕樹 > 国人いっきって
> 国一揆ですか?
良いご質問ですね(^^♪
「国人一揆」と「国一揆」は似て非なるものです。
国人一揆は本文にもあるように、地方の豪族である国人達が同盟を結んで、組織的に守護の支配に対抗することです。
一方、国一揆は国人や地元の農民などが集まって、守護を倒して領国の支配権を確立しようとすることです。代表的な国一揆には1485年の山城の国一揆がありますね。いずれ改めて紹介します。
幕府は地方武士を動員するために、守護に従来の大犯三箇条(たいぼんさんかじょう)に加えて、自己の所有権を主張して勝手に田地(でんち)の稲を刈り取るといった乱暴(らんぼう)な行為である刈田狼藉(かりたろうぜき)を取り締まる権限や、幕府による裁判の判決を強制的に執行する使節遵行(しせつじゅんぎょう)の権限を与えました。
また、軍費を調達するために、一国内の荘園や公領の年貢の半分を守護が兵糧(ひょうろう)として徴発(ちょうはつ、強制的に取り立てること)するという半済令(はんぜいれい)が守護に認められました。半済令は、当初は動乱の激しかった地域に一年限りで認められていたのですが、次第に全国に拡大するとともに、やがては永続的に行われるようになり、ついには年貢のみならず土地の分割まで認められるようになりました。
守護による土地の侵略に悩まされた荘園領主や国司(こくし)は、年貢の徴収を守護に請け負わせる守護請(しゅごうけ)によって管理を任せることで、自らの収入を確保しようとしましたが、このことが守護の実質的な荘園や国衙領(こくがりょう、国の領地のこと)の支配へとつながり、守護の権限はますます高まっていったのでした。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
りら 今回の記事読ませて頂き
考えましたが
これで1番困ったのは農民ですよね
年貢でさぞかし大変だった事でしょう
りらさんへ
黒田裕樹 > 今回の記事読ませて頂き
> 考えましたが
> これで1番困ったのは農民ですよね
> 年貢でさぞかし大変だった事でしょう
仰るとおりです。
でも農民にしても、いつまでも泣き寝入りするわけにはいきません。
それがまた乱世の原因になってしまうんですよね。
.
HANA子 軍事・警察権を持ち、行政権を手にし、さらに徴税権までを有することは、もはや一つの独立国ですものね
守護が力を持ち始めた時、すでに戦国時代の萌芽はあったんでしょうね
そうすると、鎌倉幕府・足利幕府が出来ず、江戸幕府のみが平定後の平和を成し遂げることが出来たというこの差というものがどこにあったのかっていう疑問が持ち上がりますね
学問は「資料」を基に「比較」して「研究」することですから、
以前の講座を読み直すのも含めて、またわたしなりに勉強しなおしてみたいと思います^^
HANA子さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、室町幕府が守護に様々な権限を与えたことで、守護大名は独立国と同じ扱いとなったがゆえに幕府の言うことを聞かなくなり、戦国時代への原因の一つになってしまいました。
江戸時代の平和は、こうした室町幕府の「失敗」をもとにして構築されています。このあたりについては8月の東京講座で詳しく紹介します。
資料の比較研究は歴史の大きな流れに基づいて進めれば、様々な時代の概要が手に取るように理解できて面白いですよ。
さて、尊氏は1358年に54歳で亡くなりますが、南北朝の動乱は彼の生存中には決着がつくことはありませんでした。尊氏には人間が本来持つべきとされる性格の良さはあっても、それが政治家としては役に立たなかったばかりか、優柔不断さが政権に対して足を引っ張ったことで、彼の死後も室町幕府は混乱が続き、やがて来る戦国時代への流れにまでつながってしまうのです。
ところで、尊氏のとった行動とその後の現実を冷静に見極め、自己の政権樹立の際に同じ轍(てつ)を踏(ふ)まないように慎重に行動した男が後の世に現れました。
彼は対立する勢力を卑劣(ひれつ)な手段を用いてまでして徹底的に滅ぼしたのみならず、朝廷に対しては幕府がつくった法律を守らせるなどでコントロールし、将来地位をおびやかしそうな大名には広大な領地を与える代わりに政治には一切口出しさせず、さらには巨大な宗教団体を南北朝のように二つに分割することで、内部で争いを起こさせて幕府に対抗しないように仕向けたのでした。
その男とは、もちろん徳川家康(とくがわいえやす)のことです。250年以上続いた江戸幕府による平和が、尊氏とは似ても似つかない、家康のような油断のならない「狸(たぬき)オヤジ」によって実現されたというのが、歴史上の何ともいえない皮肉ですね。
ちなみに、徳川家康については今年(平成22年)の8月7日(土)に、東京(港区・六本木)で行われる講座で取り上げる予定です。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
ははぁ~ん。。
いつの時代も「狸オヤジ」が
政治の世界では登場するんですね~。政治家さんって、何故か悪名高い方が息が長いと感じるのは、私だけでしょうか?
それにしても、一人の天下取りが失敗した政治を行うと、随分と後々
尾を引いてしまうものなんですね~(^^A
やはり、しっかりとした人物が天下を治めることの大切さを感じます。
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > ははぁ~ん。。
> いつの時代も「狸オヤジ」が
> 政治の世界では登場するんですね~。政治家さんって、何故か悪名高い方が息が長いと感じるのは、私だけでしょうか?
そういうことです。悪名高い方が度胸があって政治家に向いているのかもしれませんね。
しかしながら、どんなに優秀でも国益を考慮しない政治家は…。
> それにしても、一人の天下取りが失敗した政治を行うと、随分と後々
> 尾を引いてしまうものなんですね~(^^A
> やはり、しっかりとした人物が天下を治めることの大切さを感じます。
一時の政策の誤りは、後々までに尾を引きます。
繰り返しになりますが、だからこそ政治家は国の行く末を誤ってはならないのです。
.黒田先生
りら 徳川家康は好きになれません
徳川政権が長く続いたため
鎖国政策が続き
日本が世界に遅れをとった気がします
帰宅して先生からコメント頂いていたので
とても嬉しかったです
ありがとうございます
りらさんへ
黒田裕樹 > 徳川家康は好きになれません
> 徳川政権が長く続いたため
> 鎖国政策が続き
> 日本が世界に遅れをとった気がします
たしかにそういうイメージがありますね。
鎖国状態に入ったのにはそれなりの理由があったのですが、それよりも問題なのは、後の幕府がそんな中途半端な状態をずるずる長続きさせてしまったことですね。
家康が嫌いな人は多いですが、そのあたりも含めて8月の東京講座を進めてみたいと思っています。
> 帰宅して先生からコメント頂いていたので
> とても嬉しかったです
> ありがとうございます
いえいえ、わたしもりらさんのお言葉に励まされておりますよ(^^♪
.
アクア これは、
なにで習いますかね?
全くわからないっす泣
アクアさんへ
黒田裕樹 > これは、
> なにで習いますかね?
> 全くわからないっす泣
そうですね…。
通常の授業では学ばないかもしれませんが、覚えておいて損はないですよ。
歴史という科目を、単なる「丸覚え」で済ますのか、あるいは「流れ」でとらえて理解するのか。
前者は高校を卒業した途端にすべてを忘れてしまいますが、後者は多少の回り道はあっても、必ず自分自身の役に立ちますよ。
それが本当の「歴史教育」と信じて、私はブログを続けています。
.
佐佐木 こんにちは(≧∇≦)b
次回の東京講座は
六本木ですか(・∀・)アヒャ!!
今から、楽しみです。
家康は見かた次第で
かなりいろんな面のある人だから
先生がどう料理されるのか
楽しみです。
がんばってください!
佐佐木あつしさんへ
黒田裕樹 > 次回の東京講座は
> 六本木ですか(・∀・)アヒャ!!
> 今から、楽しみです。
本当は六本木の予定ではなかったのですが、いろいろと理由がありまして(笑)。
当日にでもお話させていただきますね(^^♪
> 家康は見かた次第で
> かなりいろんな面のある人だから
> 先生がどう料理されるのか
> 楽しみです。
> がんばってください!
有難うございますm(_ _)m
自分なりの見方で引っ張っていけるよう、鋭意準備中です。
楽しみにお待ち下さい(^ω^)
尊氏の優しさは、悪くいえば優柔不断(ゆうじゅうふだん、ぐずぐずして物事の決断のにぶいこと)でもありました。当初は弟の直義と二人三脚(ににんさんきゃく)で順調だった幕府政治も、やがては尊氏の執事(しつじ、後の管領=かんれい)の高師直(こうのもろなお)らの勢力と、直義らの勢力との間が不和となり、尊氏は彼らをまとめることができませんでした。
1350年になると、直義は尊氏と対立して南朝側につき、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)が始まりました。一時期は後醍醐天皇の子の後村上天皇(ごむらかみてんのう)率(ひき)いる南朝が京都に入り、尊氏が南朝に降伏して北朝側の三種の神器を引き渡すなど、京都や幕府は大混乱となりました。
1352年に直義が急死(毒殺されたとも伝えられています)した後も混乱は続き、尊氏派と旧直義派、さらには南朝勢力の三者の争いが続いたことで、この後も約10年にわたって京都を中心に動乱が続いたのでした。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
りら 京都は 今は観光の町 平和でのんびりとした感じですよね
でも京都程 過去には政変の激動
戦争の動乱 これ程 あった場所は 無いのではないでしょうか
思う処がありますね
りらさんへ
黒田裕樹 > 京都は 今は観光の町 平和でのんびりとした感じですよね
> でも京都程 過去には政変の激動
> 戦争の動乱 これ程 あった場所は 無いのではないでしょうか
> 思う処がありますね
そのとおりです。応仁の乱をはじめ、数え切れないほどの戦乱が起きたことで、京都の町は幾度となく焼け野原になりました。
京都では「戦後」といえば第二次大戦ではなく、応仁の乱の後だという話を聞いたことがあります。
.
ぴーち こんばんは!
動画をUPされる前にお邪魔してしまいましたので、また、後日拝見させていただきますね^^
優しさと「優柔不断」は似て異なもの。
優柔不断では、武将としては一番の致命傷になりうる事だと思います。普段は優しくても、しっかり自分というモノ、自分の考えを決断出来なければ、やはり扇子の要であり続けることは困難でしょうね^^;
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 動画をUPされる前にお邪魔してしまいましたので、また、後日拝見させていただきますね^^
すみません、皆様のブログの訪問を優先していたものでして…。今晩中には画面左下の「過去の歴史講座」から見られるようにするつもりです。
> 優しさと「優柔不断」は似て異なもの。
> 優柔不断では、武将としては一番の致命傷になりうる事だと思います。普段は優しくても、しっかり自分というモノ、自分の考えを決断出来なければ、やはり扇子の要であり続けることは困難でしょうね^^;
仰るとおりだと思います。非情な決断ができなかった尊氏の「甘さ」が、この後の我が国を戦乱に巻き込むことになってしまうから皮肉なものです。
かといええ、血も涙もない独裁者でも困るのですが…。
吉良上野介が
しのぶもじずり うわあああ、
高師直って「仮名手本忠臣蔵」の悪役ですよね。
こんなところにいた人だったんですね。
しのぶもじずりさんへ
黒田裕樹 そのとおりです。
高師直は史実においても何かとあった人物として知られていますが、忠臣蔵の世界を室町時代に置き換える際に「悪役」として最適な人物と考えられたようですね。
その理由として、まずは幕府を正当なものと認める後ろ盾(うしろだて)となる朝廷が二つに分裂していたことです。北朝は本来の朝廷の都である京都に存在しましたが、本物の三種の神器は吉野にある南朝側にあるとされたために、尊氏に従った新興勢力の武士の中には、北朝の存在に疑問符をつけようとする者も存在しました。
また、本来の武士にとっての本拠地は鎌倉などの東国であり、尊氏も本当であれば関東で幕府を開くべきだったのですが、南朝がいつ北朝に取って代わろうとするか予断を許さない状態が続いたため、やむなく京都で幕府を開いたのです。このため、鎌倉には尊氏に代わる別の組織である鎌倉府(かまくらふ)を置いたのですが、関東で鎌倉府に権力が集中したことによって、やがて幕府と対立するようになっていきました。
さらには、尊氏の資質にも問題がありました。尊氏は根っからの武人(ぶじん)であったために、実際の政治は尊氏の弟である足利直義(あしかがただよし)が代行していたのですが、武将にしては珍(めずら)しく「優しくて良い人」だった尊氏は、功績のあった武将に気前良く領地を与えました。領地が増えた武将は、この後に様々な権利を得ることによって守護大名(しゅごだいみょう)と化し、こちらも幕府のいうことを聞かなくなっていくのです。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
尊氏が「優しく良い人」だったんなんて、初めて知ることが出来ました^^
武将としてのイメージが少し変わりました^^
それ良い人というのは、何かと人に利用され易いという難点があるものですが、私はそちらの方が個人的に好きですけれどね!
今日は講座、お疲れ様です^^
それでは、応援凸
.黒田先生
りら 守護大名の始まりは
足利尊氏だったのですね
それが 江戸時代の
大名制度の元になったのですか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 尊氏が「優しく良い人」だったんなんて、初めて知ることが出来ました^^
> 武将としてのイメージが少し変わりました^^
> それ良い人というのは、何かと人に利用され易いという難点があるものですが、私はそちらの方が個人的に好きですけれどね!
仰るとおり、尊氏のような人は個人的には好かれますが、政治家としてはいいように利用されてしまうなど、大いに弱点になってしまうんですよね。
難しいところです。
> 今日は講座、お疲れ様です^^
有難うございます。講座の内容につきましては、改めてお知らせしますね(^^♪
りらさんへ
黒田裕樹 > 守護大名の始まりは
> 足利尊氏だったのですね
> それが 江戸時代の
> 大名制度の元になったのですか?
足利尊氏が幕府成立前後に各武将に気前良く領地を与えたことが、後の守護大名化につながってしまいます。その意味では、仰るとおり、きっかけをつくったのは尊氏といえるでしょう。
守護大名は、その大半が戦国時代に没落してしまいますから(島津家のように例外もありますが)、江戸時代の大名との関連性は低いですが、各領地を大名に治めさせるという意味では元になったといえるかもしれません。
.
オバrev なるほど、尊氏が一人で仕切っていたのではなく、弟の直義が政務を行ってたんですね。
尊氏がオーナー社長で、直義が専務的な形でしょうか。
うまくいっているときはいいけど、つまずいた時は社長派、専務派で割れそうですね。その時に尊氏にそれを乗り切るだけの器量があるかどうか・・・記憶曖昧
オバrevさんへ
黒田裕樹 > なるほど、尊氏が一人で仕切っていたのではなく、弟の直義が政務を行ってたんですね。
> 尊氏がオーナー社長で、直義が専務的な形でしょうか。
仰るイメージでOKだと思います。
ただ、重要な場面でオーナーが独断した結果が…。
> うまくいっているときはいいけど、つまずいた時は社長派、専務派で割れそうですね。その時に尊氏にそれを乗り切るだけの器量があるかどうか・・・記憶曖昧
本日(23日)の更新で詳しく紹介しておりますが、器量という面に関しては、やはり残念ながら…と言ったところでしょうか。
足利尊氏
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
足利尊氏の性格の良さは、いろいろ聞いたことがあります。
① 楠木正成と戦った時、何度も命を救おうと降伏を促し、遺体を丁重に葬った。
② 争っていたはずの後醍醐天皇にたいして、非常に尊敬していて、強硬な姿勢を望めなかったこと。
個人的には、歴史上で、『愛情が深くて、優しい人間』の一人だったと思います。
私が、思う性格の良い人物とは
◆ 織田信長、足利尊氏、昭和天皇、明治天皇、聖徳太子
の5人です。
残念ながら、徳川家康は、性格は、悪かったと思いますが、当時の人間からもその当時の記録から
かなり、家康嫌いがいたようですね。
政治家・武将としての能力は、認めますが、人間としては、ちょっと。。?です。
青田さんへ
黒田裕樹 人間の良さと統治能力とは別物ですからね。
信長も本来は虐殺を好まない人物だった(例えば、反逆した兄の信広を許しているし、滅ぼした斎藤龍興を追放しただけで殺していない)のですが、義弟で全面的に信頼していた浅井長政の裏切りがトラウマとなって、性格が変わってしまったようですね。
都落ちした尊氏でしたが、九州で兵力をまとめると、持明院統の光厳上皇(こうごんじょうこう)から院宣(いんぜん)を受け、自らの軍の正当性を確保したうえで、再び京都を目指して東上(とうじょう)しました。尊氏軍の勢いを感じた朝廷側の楠木正成は、尊氏との和睦(わぼく)を後醍醐天皇に進言しましたが受け入れられず、1336年に天皇のご命令を受けて摂津国湊川(せっつのくにみなとがわ、現在の兵庫県神戸市湊川)で尊氏軍を迎え撃(う)ちましたが、敗れて自害しました。この戦いを湊川の戦い(みなとがわのたたかい)といいます。
尊氏が再び京都を制圧すると、後醍醐天皇は比叡山に逃(のが)れられ、光厳上皇の弟にあたる光明天皇(こうみょうてんのう)が新たに即位されたことで、再びお二人の天皇が同時にご在位されることになりました。後醍醐天皇は京都に幽閉(ゆうへい、閉じ込めて外に出さないこと)された後、尊氏との和睦に応じて天皇であることを証明する三種の神器(さんしゅのじんぎ)を光明天皇に渡されましたが、その後に隙(すき)を見て京都を脱出され、奈良の吉野(よしの)へ向かわれました。
吉野に到着された後醍醐天皇は、光明天皇に渡された三種の神器は偽物(にせもの)であると宣言されて、新たに朝廷を開かれると、1339年に崩御されました。こうして京都の朝廷(持明院統)と吉野の朝廷(大覚寺統)が並立し、以後約60年にわたって争いを繰(く)り返す南北朝の動乱(なんぼくちょうのどうらん)が始まったのです。なお、方角的に北側になる京都の朝廷が北朝(ほくちょう)、南側になる吉野の朝廷が南朝(なんちょう)と呼ばれています。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
佐佐木あつし 先日はご丁寧な御返答ありがとうございました。この頃(建武の新政から南北朝あたりは漫画化された数も少なくネタ的に狙ってたりするので
先生の講義が大変参考になります。
この辺りは歴史のターニングポイントでもある訳で描き方によってはどうとでもなる時代なので漫画家的には美味しい時代です(笑)
かといって、ここを基軸に熊野天皇まで手を広げるのはやり過ぎでしょうけど(爆)
.
ぴーち こんばんは!
以前、黒田さんのブログ記事で拝見させていただいた三種の新器とは、
あの三種の事だったでしょうか・・?
「鏡、剣(?)、玉」
すみません。かなりウル覚えですので、間違えていたら、ごめんなさい(><)
それでは、応援凸
佐佐木あつしさんへ
黒田裕樹 > 先日はご丁寧な御返答ありがとうございました。この頃(建武の新政から南北朝あたりは漫画化された数も少なくネタ的に狙ってたりするので
> 先生の講義が大変参考になります。
それは光栄です(^^♪
私でよければ、分かる範囲でしたらなんでもお答えしますよ(^_^)v
> この辺りは歴史のターニングポイントでもある訳で描き方によってはどうとでもなる時代なので漫画家的には美味しい時代です(笑)
> かといって、ここを基軸に熊野天皇まで手を広げるのはやり過ぎでしょうけど(爆)
確かに時代の転換期ですからね。先生の作品が楽しみなところですが、確かに熊野天皇まで行き着くと発想が凄いですね(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 三種の神器は、
「草薙の剣(くさなぎのつるぎ)」
「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」
「八咫鏡(やたのかがみ)」
以上の三つですから、ぴーちさんは正解ですよ(^^♪
このうち、草薙の剣は安徳天皇とともに壇ノ浦の海中深く沈んだままと考えられていますが、本当のことでしょうか…。
.
アクア お願いがあります。
黒田さんの半生を記事にしてください!
とても興味深いです。
アクアさんへ
黒田裕樹 > お願いがあります。
> 黒田さんの半生を記事にしてください!
> とても興味深いです。
我が国の歴史を分かりやすく記事にすることは慣れておりますが、自分の記事ですか(^^ゞ
私自身も興味がありますが(爆)、まずはプロフから少しずつ改めてみますね(^^♪
管理人のみ閲覧できます
-
.黒田先生
りら 三種の神器は今だに
真相が分からないようですよね
今皇室にあるものは
どのようなものか
いつか説明お願いします
以前より興味がありました
りらさんへ
黒田裕樹 > 三種の神器は今だに
> 真相が分からないようですよね
> 今皇室にあるものは
> どのようなものか
> いつか説明お願いします
> 以前より興味がありました
三種の神器につきましては、現在の皇室で儀式の際に使用しているのはレプリカらしいので、本物はいったいどこにあるのか、私も良くは存じません。
安徳天皇と運命をともにした草薙の剣も、本物は熱田神宮に祀られているという話もありますし。
三種の神器が本物かどうか分かりませんが、古来の血統をバトンリレーのごとくつなぎ続けている皇室のご存在には言葉もありません。
このように、身分の上位の人間が下位の人間に対して自分の名前の一部を与えることを偏諱(へんき)といいます(なお、それまでの名乗っていた高氏の「高」は、自害した北条高時から同じように偏諱を受けていました)。天皇が身分の低い者、ましてや「ケガレた存在」として嫌われる存在であった武士に対して偏諱を受けさせるのは空前絶後(くうぜんぜつご、過去にも例がなく、将来もありえないと思われること)のことでした。
しかし、尊氏が本当に欲しかったのは征夷大将軍の地位であり、目指していたのは「武士による、武士のための政治」を自分が行うことでした。源義家の血を引く武家の名門の子孫である自分自身こそが、北条氏に替わって政治の実権を握るにふさわしいと考えていたのです。
そんな折、1335年に北条高時の子の北条時行(ほうじょうときゆき)が関東で中先代の乱 (なかせんだいのらん)を起こし、一時期は鎌倉を占領しました。尊氏は乱の鎮圧(ちんあつ)を口実(こうじつ)に後醍醐天皇の許可を得ないまま鎌倉へ向かって時行軍を追い出すことに成功すると、そのまま鎌倉に留まって独自に恩賞を与え始めるなど、後醍醐天皇から離反(りはん)する姿勢を明らかにしました。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
晴雨堂ミカエル 大河ドラマでは珍しく南北朝の動乱を描いた作品です。尊氏役の真田広之氏が蒙古兵もビックリの騎馬術を披露しているほか、北畠顕家を後藤久美子氏が演じるなど話題性たっぷりの佳作です。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 大河ドラマでは珍しく南北朝の動乱を描いた作品です。尊氏役の真田広之氏が蒙古兵もビックリの騎馬術を披露しているほか、北畠顕家を後藤久美子氏が演じるなど話題性たっぷりの佳作です。
そういえばありましたね。CSでも最近までやっていたようですが、残念ながら私は未見です。
機会があれば、ぜひ見てみたいですね。
黒田先生.
りら 身分の上位の人間が下位の人間に対して自分の名前の一部を与えることを
偏諱という言い方をするんですね
よく あることですが それが偏諱と呼ぶことは知りませんでした
ありがとう いつも新しい発見の連続です
心からお礼申し上げます
.
ぴーち こんばんは!
なるほど、そういう事柄があって
「高氏」が「尊氏」となった訳なんですね^^
偏諱という言葉も初めて伺いました。
これは身分の上位のものが、下位の者へ与える場合のみに、言われる言葉なんですね!
よく父親が、子供が生まれた際に、
自分の名前を一文字付ける事に対しては、この言い方はしないのですね?
それでは、応援凸
りらさんへ
黒田裕樹 > 身分の上位の人間が下位の人間に対して自分の名前の一部を与えることを
> 偏諱という言い方をするんですね
> よく あることですが それが偏諱と呼ぶことは知りませんでした
偏諱の具体例はよく聞くのですが、呼び方を目にすることは確かに少ないかもしれません。
武家同士では良くある話ですが、今回のように「天皇→武士」というのは例がないですね。
それだけ尊氏の功績が大きかったのですが、尊氏の望みとは別の方角だったのが、この後の「謀叛」へとつながっていくのは残念です。
> ありがとう いつも新しい発見の連続です
> 心からお礼申し上げます
こちらこそ、お忙しい中お言葉をいただきまして有難うございます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > なるほど、そういう事柄があって
> 「高氏」が「尊氏」となった訳なんですね^^
> 偏諱という言葉も初めて伺いました。
> これは身分の上位のものが、下位の者へ与える場合のみに、言われる言葉なんですね!
> よく父親が、子供が生まれた際に、
> 自分の名前を一文字付ける事に対しては、この言い方はしないのですね?
そうですね。偏諱は身分の高い人間が低い人間に対して自分の一字を与えるということですから、現代ではそういう言い方はしなくなっていますが、親が子に名前の一文字を与えるのは名残といえるかもしれません。
.
満柚子 日本史は残念ながらやってないんですよ
世界史の方なら…
カタカナ多くて覚えにくいですw
どうして名前が変わっていくのか不思議だったんですが、そういう訳だったんですね!
満柚子さんへ
黒田裕樹 > 日本史は残念ながらやってないんですよ
> 世界史の方なら…
> カタカナ多くて覚えにくいですw
それは残念ですね(´・ω・`)
世界史は必修ですから頑張らないと(`・ω・´)
でも確かに覚えにくいかもしれません(^^ゞ
> どうして名前が変わっていくのか不思議だったんですが、そういう訳だったんですね!
そうなんです。歴史上の有名人物でも結構多いですよ。
例えば徳川吉宗は、綱吉の「吉」をもらっているんです。
そんな幕府を倒すために何度も兵を挙げられ、結果として建武の新政が実現できたことは、後醍醐天皇にとっては当然のことであり、このまま天皇による新政が未来永劫(みらいえいごう)続くものであると思われていました。
しかし、後醍醐天皇に味方して鎌倉幕府を倒すのに協力した武士たちは、勢力が衰(おとろ)えて政治を任せられなくなった幕府の代わりに、他の武士による新しい組織のもとで、これまでどおりの「武士による、武士のための政治」を続けることを望んでいたのでした。
それなのに、後醍醐天皇は皇族や公家のための政治しか実行せずに、これまで守られてきた土地の所有権などの武士の権利がないがしろにされたことで、建武の新政に対する武士たちの不満は次第に高まっていきました。
平氏政権が貴族化した際もそうであったように、いくら武力などで世の中を支配したところで、それが国民の理解を得られなければ、その政権は絶対に長続きできないのです。この場合も、当時の国民の代表たる武士の期待に応えられなかった建武の新政にはかげりが見え始めていました。
そして、そんな武士たちの空気を察(さっ)したかのように、後醍醐天皇から「最高の栄誉」を受けたはずの一人の武士が、建武の新政に対して反旗(はんき)をひるがえしたのでした―。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
佐佐木あつし こんにちは先生。
微妙な質問なんですが
朱子学ってどっちかと言えば
本家の方ではマイナーな考えですよね・・あれって、
誰が日本に持って帰ってきたんですか?
というより
誰が後醍醐天皇に吹き込んだのかなぁ?
まあ、家康に至っては確信犯だったとは思うんですが・・
すいません、ふと質問が涌いてきちゃって・・
お教えください(≧∇≦)b
佐佐木あつしさんへ
黒田裕樹 > 微妙な質問なんですが
> 朱子学ってどっちかと言えば
> 本家の方ではマイナーな考えですよね・・あれって、
> 誰が日本に持って帰ってきたんですか?
そうですね。本家の中国よりは我が国の方が広まりましたから、そういう印象が強いですね。
朱子学が初めて我が国に持ち込まれたのは鎌倉時代の初期といわれていますが、定かではないようです。ただ、少なくとも鎌倉幕府の五山の学問として広まったことは確かなようです。
> というより
> 誰が後醍醐天皇に吹き込んだのかなぁ?
> まあ、家康に至っては確信犯だったとは思うんですが・・
後醍醐天皇に関しては私もよく存じませんが、可能性があるとすれば先述した鎌倉五山あたりからかもしれませんね。
家康の場合は徳川家の繁栄のために意識的に導入したという側面がありますから、たしかに確信犯ですね(笑)。
> すいません、ふと質問が涌いてきちゃって・・
> お教えください(≧∇≦)b
答えになったかどうか分かりませんが(爆)、こんなところでよろしいでしょうか?
また何でもご質問下さい(^^♪
.
オバrev なるほど、朱子学が後醍天皇の考えの根本だったんですね。
だからあそこまで頑張れたんですね。
だけど、政権の安定のためには政治力、経済力、軍事力に国民の支持をバランスよく得ていることが大事ですね。
民主党の謀議員は、政治力+経済力+軍事力があるけど、その独裁政治に国民の支持はないように思いますが・・・。
黒田先生.
りら 後醍醐天皇のような 良くも悪くも
政治的権力を持つ事が出来た
天皇が後に続き 天皇政治が続いていたとしたら
日本はどうなっていたか 考えました
ヨーロッパの王政のようにです
私への 素晴らしいコメント有り難く感謝しています
励みになります 有難うございます
オバrevさんへ
黒田裕樹 > なるほど、朱子学が後醍醐天皇の考えの根本だったんですね。
> だからあそこまで頑張れたんですね。
朱子学の元になった儒学は、良くも悪くも執念深いですからね。
最後まであきらめないことの重要性もうかがえます。
> だけど、政権の安定のためには政治力、経済力、軍事力に国民の支持をバランスよく得ていることが大事ですね。
> 民主党の謀議員は、政治力+経済力+軍事力があるけど、その独裁政治に国民の支持はないように思いますが・・・。
仰るとおりだと思います。
今までの歴史を振り返れば、国民の支持を得られない政治は絶対に長続きできません。ただ、民主党政治が終わるのが早いのか、それとも…。
りらさんへ
黒田裕樹 > 後醍醐天皇のような 良くも悪くも
> 政治的権力を持つ事が出来た
> 天皇が後に続き 天皇政治が続いていたとしたら
> 日本はどうなっていたか 考えました
> ヨーロッパの王政のようにです
当時の国民の代表的組織は武士でしたから、武士のための政治に対して後醍醐天皇が寛容であれば、あるいは長続きしたかもしれませんね。
ただ、その場合はヨーロッパの王政とは一味違う道のりを歩んだと考えられます。
ヨーロッパでは王朝交代がそれこそ当たり前でしたが、我が国の本当の元首はずっと天皇だからです。もっとも、この時期は真っ二つに分かれたことで、かえって存続が危ぶまれましたが…。
> 私への 素晴らしいコメント有り難く感謝しています
> 励みになります 有難うございます
いえいえ、りらさんのブログこそ、私に様々なことを思い出させたり、考えさせたりして下さいます。こちらこそ有難うございます。
.
ぴーち こんばんは!
リンカーンの言葉を思い出して
いました。
「人民の人民による人民ための政治」やはり民衆が主役であり、
そうあるべきなんだなと思いますねェ。
応援凸
管理人のみ閲覧できます
-
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > リンカーンの言葉を思い出して
> いました。
> 「人民の人民による人民ための政治」やはり民衆が主役であり、
> そうあるべきなんだなと思いますねェ。
全く以ってそのとおりです。
「俺は政治家だから偉いんだ」。そう思うのは個人の自由ですが、自分が政治家として食べていけるのも、すべては支持する大多数の国民あってこそなんですよね。
一部の利益しか考えられないようでは、国民の支持を失って失脚するか、国と運命をともにしてしまうでしょう。後者は願い下げですけどね(笑)。
.
クメゼミ塾長 高氏立つ ですね
天皇親政、天智・天武・持統天皇…
天皇親政、どうしても、身内擁護になりますよね
まあ、天皇が全ての正義と定義すると、武士の反駁は全て謀反になりますが…
そういえば、『天皇ご謀反』これも変ですねえ
『勝てば官軍、世の習い』ですね
後醍醐天皇は、すべての土地の所有権の確認に天皇の綸旨(りんじ、側近が出す天皇の命令書のこと)を必要とするなど、天皇に権限が集中するように考えられましたが、あまりに多くの案件(あんけん、問題となっていることがらのこと)がご自身に殺到(さっとう)したため、現実には中央の機関として行政や司法などの重要な政務をつかさどる記録所(きろくしょ)や、土地に関する訴訟を扱った、旧幕府の引付(ひきつけ)に相当する雑訴決断所(ざっしょけつだんしょ)などを置かれました。
この他にも北条氏を滅ぼした勲功(くんこう)に対する恩賞を定めた恩賞方(おんしょうがた)や、軍事や警察をつかさどる武者所(むしゃどころ)が置かれたほか、地方にはこれまでどおり国司(こくし)と守護(しゅご)が並んで置かれました。また、天皇ご自身が軍隊をお持ちでない代わりに子の護良親王を征夷大将軍に任命されたほか、鎌倉幕府の本拠地であった関東や東北にはそれぞれ鎌倉将軍府(かまくらしょうぐんふ)や陸奥将軍府(むつしょうぐんふ)が置かれました。
後醍醐天皇によるこれらの新しい政治は、鎌倉幕府滅亡の翌年(1334年)に改められた建武(けんむ)という年号から、建武の新政(けんむのしんせい)と呼ばれています。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
りら 後醍醐天皇は歴代天皇の中で
一番私には偉大ですが
やはりかなり革新的な事を
なさった人なんですね
名を残す人は違いますね
黒田先生の名前も残ると信じています
りらさんへ
黒田裕樹 > 後醍醐天皇は歴代天皇の中で
> 一番私には偉大ですが
> やはりかなり革新的な事を
> なさった人なんですね
元の朝廷中心の政治体制に戻そうとなさったのですが、その方法が確かに革新的でしたね。ただ、それゆえに世の中の時流に乗ることができず、天皇ご自身にとっては残念な結果になってしまいます。詳しくは明日(19日)以降の更新をご覧下さい。
> 名を残す人は違いますね
> 黒田先生の名前も残ると信じています
私の名前ですか…。
男と生まれたからにはやはり憧れますね。
.
ぴーち こんばんは!
建武の新政=後醍醐天皇
なるほど、この有名な言葉が
黒田さんのご説明で、ようやく
私の頭の中でがっちりと繋がりました^^;
(それまでは、バラバラでしたからw)
ありがとうございます♪
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 建武の新政=後醍醐天皇
> なるほど、この有名な言葉が
> 黒田さんのご説明で、ようやく
> 私の頭の中でがっちりと繋がりました^^;
> (それまでは、バラバラでしたからw)
> ありがとうございます♪
それは良かったですね(^^♪
お役に立てて光栄です(^_^)v
ただ、残念なことに建武の新政は短い期間で終わってしまったんですよね…(´・ω・`)
その理由は…明日(19日)の更新までお待ち下さいm(_ _)m
.激変ではなかった?
オバrev 建武の新政は、建武という年号からとってきてたのか(O_O)
でも、鎌倉幕府と室町幕府のちょうど狭間になりますが、政治システムにあまり大幅な変化はないようにも感じました。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 建武の新政は、建武という年号からとってきてたのか(O_O)
そのとおりです。年号から歴史的事実の名称を付ける、という点では他と同じなんですよね。
> でも、鎌倉幕府と室町幕府のちょうど狭間になりますが、政治システムにあまり大幅な変化はないようにも感じました。
軍隊を持たない朝廷は、現実的には武士の協力なくしてはとても政権を維持できませんからね。それでも武士をたてることなく朝廷独自の政治を行おうと思えば、どうしても無理が出てきます。そこに付け入った人物が…おっと(笑)、ここから先は次回以降にまたお話しましょう(^^ゞ
高氏は他の反幕府勢力を率いて入洛(にゅうらく、京へ入ること)を果たすと、1333年5月7日に六波羅探題(ろくはらたんだい)を滅ぼしました。同じ頃、高氏と同じ源義家の血を引く新田義貞(にったよしさだ)も上野国(こうずけのくに、現在の群馬県)で反幕府の兵を挙げ、鎌倉へ向かいました。
義貞は鎌倉を脱出した高氏の子の千寿王(せんじゅおう、後の足利義詮=あしかがよしあきら)と合流して、共同で鎌倉を攻めました。5月18日には北条氏最後の執権である第16代の北条守時(ほうじょうもりとき)を滅ぼし、22日には得宗の北条高時や内管領の長崎高資らを自害に追い込んで、源頼朝以来約140年続いた鎌倉幕府はついに滅亡しました。
なお、足利高氏も新田義貞も本姓(ほんせい)は源氏ですが、それぞれの本拠地である足利や新田を苗字(みょうじ)として名乗っています。これは北条氏も同様であり(本姓は平氏)、本姓は「○○の」と「の」が付くのに対して、苗字は「○○」と「の」が付かないことで区別できます。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
佐佐木あつし 先生、こんにちは
千早城いいですねー
あの辺から鎌倉滅亡までをじっくり講義していただきたいですニャー
佐佐木あつしさんへ
黒田裕樹 > 先生、こんにちは
こんにちは(^o^)丿
お忙しい中、ブログの更新お疲れ様です。
> 千早城いいですねー
> あの辺から鎌倉滅亡までをじっくり講義していただきたいですニャー
楠木正成はこの時代の英雄ですからね(^^♪
講談師としては腕の見せ所ですが(笑)、いずれ別の機会にでも取り上げてみたいものです。
こんばんは
スカイラインV35 北条氏の執権は16代で潰えたんですね。初めて知りました。
足利幕府の将軍は尊氏から義昭まで15代、徳川幕府の将軍も家康から慶喜まで15代。そして、自民党が単独過半数で自民党総裁が首相であり続けたのも、初代総裁の鳩山一郎から15代総裁の宮澤喜一まで(その後は連立)。
偶然の一致としか説明のしようがありませんが、こんな偶然もあるんですね。
.黒田先生
りら 「の」一つで大変な違いですね
毎日思いますが
先生の根気のよい ご研究です
これだけの事 書かれるための準備
アップご努力 感服するのみです
.
ぴーち こんばんは!
足利高氏は、私の住んでいる県にも縁の深い人物ですが、生誕の地という説があるのですが、他にも同じように高氏の生誕の地はここだと名乗りを挙げている場所もありますよね。
どうして、色々な場所に分散されてしまっているんでしょうか。
はるか昔の縄文や、弥生の時代ならまだしも、室町時代くらいになると
文献なども揃っている様に思うのですが。。
応援凸
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 > 北条氏の執権は16代で潰えたんですね。初めて知りました。
> 足利幕府の将軍は尊氏から義昭まで15代、徳川幕府の将軍も家康から慶喜まで15代。そして、自民党が単独過半数で自民党総裁が首相であり続けたのも、初代総裁の鳩山一郎から15代総裁の宮澤喜一まで(その後は連立)。
> 偶然の一致としか説明のしようがありませんが、こんな偶然もあるんですね。
お言葉をいただくまで私も気がつきませんでした。
15代前後がひとつの節目なのでしょうか。
そう思えば125代も続く皇室の血統は物凄く貴重ですね。
りらさんへ
黒田裕樹 > 「の」一つで大変な違いですね
仰るとおりです。昔は「姓」と「苗字」がはっきりと区別されていたんですね。
ちなみに豊臣秀吉の「豊臣」も天皇から与えられた「姓」なので、正しくは「とよとみのひでよし」と呼ぶべきなんです。もはや「とよとみひでよし」が一般化してしまっているのでどうしようもないのかもしれませんが…。
> 毎日思いますが
> 先生の根気のよい ご研究です
> これだけの事 書かれるための準備
> アップご努力 感服するのみです
お言葉有難うございます。
確かに根気が必要ではありますが、一番の支えは、皆様の温かいご支援です。
今後ともよろしくお願いいたします。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 足利高氏は、私の住んでいる県にも縁の深い人物ですが、生誕の地という説があるのですが、他にも同じように高氏の生誕の地はここだと名乗りを挙げている場所もありますよね。
> どうして、色々な場所に分散されてしまっているんでしょうか。
> はるか昔の縄文や、弥生の時代ならまだしも、室町時代くらいになると
> 文献なども揃っている様に思うのですが。。
文献は確かにあるのですが、いわゆる「後付け」で書かれるなど信憑性(しんぴょうせい)が疑わしいものも多いですからね。
歴史の真実を見極める作業もなかなか大変です。
.
HANA子 鎌倉幕府滅亡、そして始まる後醍醐帝親政
やがてくる南北朝時代の動乱が待ち遠しい・・・・・・と言ったら不謹慎でしょうか?
しばらくぶりです。ご無沙汰しておりました~
太平記は何度も読み返したバイブルなんです
個人的には南北朝争乱に入った後の尊氏・直義兄弟の確執の辺りなど好みなんですが、先生はどうですか?
HANA子さんへ
黒田裕樹 > 鎌倉幕府滅亡、そして始まる後醍醐帝親政
> やがてくる南北朝時代の動乱が待ち遠しい・・・・・・と言ったら不謹慎でしょうか?
確かに日本史で五本の指に入る名場面ですからね(^^♪
> しばらくぶりです。ご無沙汰しておりました~
> 太平記は何度も読み返したバイブルなんです
> 個人的には南北朝争乱に入った後の尊氏・直義兄弟の確執の辺りなど好みなんですが、先生はどうですか?
南北朝は尊氏や直義が南朝や北朝に付くなど目まぐるしく変わりますから、ややこしいんですよね。その原因は建武の新政の主役二名の性格にあるのですが…。
今回は通常の更新なので深くは触れませんが、いずれは特集でやってみたいですね(^o^)丿