信長は、1560年に桶狭間(おけはざま)の戦いで今川義元(いまがわよしもと)を滅ぼしましたが、通常の戦国大名なら真っ先に考えるのが、当主亡き後の今川氏の領土を奪い取ることでした。
今川氏の領土は三河国(みかわのくに、現在の愛知県東部)から遠江国(とおとうみのくに、現在の静岡県西部)、駿河国と広がっており、これらの国は気候が温暖で収穫も多く、海の幸(さち)にも恵まれ、さらには金山もあるという経済力豊かな地域でした。
しかし、現実の世界においては、信長は今川氏の領土には目もくれず、徳川家康と同盟を結んで、家康に今川氏の攻略を任せたうえで、自らは美濃の征服を目指しています。なぜ信長はこういった手段を選んだのでしょうか?
実は、この選択こそが、信長による「天下統一へ向けての明確なビジョン」だったのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
なるほど、
とりあえず、半径1mのものにしか
目に入らない信玄と、半径100m以上もの範囲を見通せた信長とでは、
その視野の広さで、どちらに軍配が上がるか、既に結果が出ていたワケですね^^;
応援凸
.
まり姫 黒田さんこんばんは☆
先日は記念のコメントありがとうございました(*^.^*)エヘッ
黒田さんももう少しですねσ(゚ー^*)
連続更新で記念日を迎えられること期待してますね~♪
ぽち
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > なるほど、
> とりあえず、半径1mのものにしか
> 目に入らない信玄と、半径100m以上もの範囲を見通せた信長とでは、
> その視野の広さで、どちらに軍配が上がるか、既に結果が出ていたワケですね^^;
なかなか絶妙な例え方ですね(^^ゞ
仰るとおり、視野の広さが二人の明暗を分けたのだと思います。
まり姫さんへ
黒田裕樹 > 先日は記念のコメントありがとうございました(*^.^*)エヘッ
> 黒田さんももう少しですねσ(゚ー^*)
> 連続更新で記念日を迎えられること期待してますね~♪
有難うございます。
あと一ヶ月ですから、まずは近い目標に向かって頑張っていきますね(^_^)v
.
紗那 なるほど!
上洛ですか? 今川氏の領土では、京都とは反対側になりますし。
答え合わせしなければ……
紗那さんへ
黒田裕樹 > なるほど!
> 上洛ですか? 今川氏の領土では、京都とは反対側になりますし。
そういうことです。
上洛を目指すのであれば、わざわざ反対方向へ行くこともないですよね。
> 答え合わせしなければ……
いかがでしたでしょうか?(^^♪
この講座はまだまだ続きますよ(笑)。
ビジョン
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
戦国時代は、今よりも、今日、生き延びるのに
精一杯な武将が当たり前だと思います。
ということは、武田信玄、上杉謙信が普通で
信長が天才のような気がします。
これと似たような事例として、源義経は戦上手でも
ビジョンがなかった。
源頼朝は、ビジョンがあり、最後に鎌倉幕府を開きました。
最近、テレビ番組などで、『政治家には、ビジョンがないとか、経営者には、ビジョンがない。』とか、話題になりますが、
最近の政治家は、目の前の対処療法ばかりで、
ビジョンがないように思います。
やはり
政治家というリーダーには
絶対に必要ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、明確なビジョンがあってこその政治家と言えるでしょう。
今の政府の信用が低くて、橋下氏の維新の会が人気があるのも、氏の言葉に明確なビジョンが見られるからだと思います(実現性は未知数ですが、民主党のマニフェストのようなことにはならないでしょうし)。
さて、去る2月13日に初の東京講演となった第10回「黒田裕樹の歴史講座」を開催致しましたところ、リンク先のブロガーの方々を中心に、過去最高の19名の皆様がご参加されました。
次回(第11回)の歴史講座は、再びいつもの大阪・梅田に戻り、「太閤殿下(たいこうでんか)の夢 ~秀吉の朝鮮出兵の真意とは」と題して、2月27日の午後3時30分より開始いたします。
天下を統一した豊臣秀吉(とよとみひでよし)にとって、晩年になってからの「最大の愚行(ぐこう)」といわれ、教科書によっては「朝鮮侵略」(ちょうせんしんりゃく)と形容される文禄の役(ぶんろくのえき)ならびに慶長の役(けいちょうのえき)ですが、秀吉の朝鮮への出兵を、我が国側の視野で一方的に断罪するだけで本当によいのでしょうか。
「大航海時代」(だいこうかいじだい)と一般的に言われる16世紀の世界史の恐るべき実情、そして我が国にも牙(きば)をむいた白人(はくじん)による侵略の野望。戦国時代を統一し、数十万の兵力を持つに至(いた)った秀吉が、白人たちのなすがままに祖国を汚(けが)されるのを黙って見ていることに耐えられたでしょうか。
また、朝鮮出兵が結果的に失敗に終わったことが、周囲の人々の心境にどのような変化をもたらし、その後に天下を統一した徳川家康(とくがわいえやす)による「勝者の歴史」が、自分を良く見せるためにどれだけ歪(ゆが)んだレンズを通したことでしょうか?
次回の講座では、秀吉が朝鮮出兵を決意した「本当の理由」と、その後の歴史が彼を断罪した巧妙(こうみょう)な「捏造」(ねつぞう)について探ってみたいと思います!
第11回「黒田裕樹の歴史講座」
日時:平成22年2月27日(土)午後3時30分より
内容:「太閤殿下(たいこうでんか)の夢 ~秀吉の朝鮮出兵の真意とは」
場所:梅田東学習ルーム
会費:無料
ブログをご覧の皆様も、よろしければ是非ご参加下さい。この記事のコメント欄をご活用いただければと思います。また、今回の講座の内容については、前回までと同様に、後日にはブログ上で映像とともに発表しますので、是非ご覧になって下さい。
尚、予約の都合上、当日の教室一覧(午後)の掲示板に「大阪読書研究会」と書かれているのが「黒田裕樹の歴史講座」の会場となります。ご注意下さい。
3月以降の講座の予定は下記のとおりです。
第12回 「戦国時代の宗教戦争 ~政教分離をもたらした三英傑」
日時:平成22年3月27日(土) 午後3時30分より
場所:梅田東学習ルーム
会費:無料
第13回 「日本とトルコ ~固い絆(きずな)の物語」
日時:平成22年4月24日(土) 午後3時30分より
場所:梅田東学習ルーム
会費:無料




いつも有難うございます。
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けん爺ちゃん 次回は秀吉ですね!
いわゆる“空虚なる御陣”のお話、
是非生で拝聴してみたかったです(>_<)
この出来事は
韓国で暮らしてる中でも常に意識させられました。
韓国ではhideyoshiは悪の代名詞であり、我が熊本のローカルヒーロー
加藤清正と共に、残虐無慈悲な侵略者という位置付けで
特に全羅道、慶尚道出身者の方の話しぶりは凄かったです。
歴史認識は
国、地域、人それぞれなので
反論はあえて控えましたが(身の危険を感じた事もありました)
内心忸怩たる思いを感じ、この問題をきちんと系統立って、あるいは
複数の視点での、多角的な認識の必要性をすごく実感しました。
この講座は、
続きが非常に気になります。
先生の切り口を楽しみにしてますね!(^ワ^)
.楽しみです。
伝次郎 戦後の歴史と相まってこの朝鮮出兵を、日本そのものを侵略国家というイメージをつけられています。
朝鮮出兵は秀吉がボケていたとか、ろくな話を聞いてないので楽しみです。
確か、半島での戦闘には殆ど朝鮮の人だったと聞いた事があります。
けん爺ちゃんさんへ
黒田裕樹 > 次回は秀吉ですね!
> いわゆる“空虚なる御陣”のお話、
> 是非生で拝聴してみたかったです(>_<)
今回の講座は大阪ですからね。
いつかは九州で講演をしてみたいものですが…。
> この出来事は
> 韓国で暮らしてる中でも常に意識させられました。
> 韓国ではhideyoshiは悪の代名詞であり、我が熊本のローカルヒーロー
> 加藤清正と共に、残虐無慈悲な侵略者という位置付けで
> 特に全羅道、慶尚道出身者の方の話しぶりは凄かったです。
> 歴史認識は
> 国、地域、人それぞれなので
> 反論はあえて控えましたが(身の危険を感じた事もありました)
> 内心忸怩たる思いを感じ、この問題をきちんと系統立って、あるいは
> 複数の視点での、多角的な認識の必要性をすごく実感しました。
さすがに海外勤務のご経験のあるけん爺ちゃんさんはよくご存知ですね。
韓国には韓国の言い分があり、それに関しては史実に反しない限りは彼らに言論の自由が存在するのは当然です。
しかし、我が国にも当たり前のように言い分があるのですから、せめて聞く耳はお持ちいただきたいものですね。けん爺ちゃんさんも大変な思いをされて、心中お察しします。
> この講座は、
> 続きが非常に気になります。
> 先生の切り口を楽しみにしてますね!(^ワ^)
有難うございます。けん爺ちゃんさんのご期待に応えられるような幅広い内容を目指したいと思います。
伝次郎さんへ
黒田裕樹 確かに見た目は「侵略」に見えますから、ステレオタイプの表現方法としては最適な事象と思われますが、それだけで片付けてしまうようでは、歴史教育を目指す者としては失格です。
一つの事象には様々な原因がからんでいます。今回の信玄においても、なぜ天下が取れなかったのかを解説するだけで相当の時間を費やしているのが典型的な例ですよね。
今回の講座も「なぜ・どうして」や「流れ」を重視したいつもの姿勢でまとめ上げられるよう頑張りたいと思います。
.質問させてください
クメゼミ塾長 ゼミ開講には、教室使用料含め諸費用掛ると思のですが、無料でどうされているのですか?
残念ですが、クメゼミは無料では成り立ちません・・・
クメゼミ塾長さんへ
黒田裕樹 確かに諸費用はかかりますが、私の場合は「こちらが開講する講座にご参加いただく」ことが重要ですので、さすがに東京講演の際にはカンパを募って貴重な浄財を頂戴しましたが、採算については基本的には考えておりません。
その分、出来るだけ会場費を安くするなどの工夫はしております。
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よろしくお願いします。
ブログランキングさんへ
黒田裕樹 お誘い有難うございます。
今の段階でランキングに多く参加しておりますので、慎重に考えたうえで対処したいと思っております。
今晩は
りら 東京講演に多くのブログ友達が
集まって良かったですね
私も参加したかったです
これからも期待していますね
私も頑張らなくてはと
貴方のブログを見て思いました
りらさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
そうですね。今後ともお互いに頑張っていければと思います。
東京講演は今後も継続する予定ですので、機会があれば講座でお会いできる日も来るでしょう。
信玄と謙信は川中島で5度戦っていますが、彼らは何と11年間(1553年~1564年)も戦いに費やしているのです。そもそも川中島の戦いは、信玄が信濃国(しなののくに、現在の長野県)の北部を征服した際に、前の領主であった村上義清(むらかみよしきよ)が領地回復を謙信に訴え、謙信がこれに応(こた)えたことで信玄の宿敵となったことから始まりました。
多くの血を流すなど、様々な苦労を重ねてせっかく手に入れた新たな領土ですから、信玄の必死の思いも分からないことはないですが、それでも10年以上も戦い続けるというのは、余(あま)りにも時間を浪費し過ぎてはいないでしょうか。
もし信玄が上洛の意思を早くから持っているのであれば、目先の利益である北信濃よりも、上洛のための通り道(例えば美濃)を早めに抑えることのほうが遥(はる)かに重要でした。極論すれば、北信濃は村上氏に返して恩を売り、また謙信とも同盟して後顧(こうこ)の憂(うれ)いを断てばよかったのです。
戦国時代きっての名勝負とうたわれた川中島の戦いも、天下統一のための重要な第一歩である上洛を目標と定めるのであれば、実は必ずしもやらねばならないものではなかったのでした。




いつも有難うございます。
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【クメゼミ[i:63716]】塾長 武田信玄が亡くなった後、仮に埋葬された時の石棺(モガリ?)が発見されています
場所は甲府の躑躅ケ崎館(現武田神社)から数百米の距離です
碑文の戒名で明らかになりました
躑躅ケ崎館の風林火山の旗
御旗楯無の鎧…
史跡を訪れると悠久の時間と歴史のロマンを感じますね
コメントありがとうございました
いつか黒田先生の講座に伺いたいと思っています
以上、携帯からでした
こんばんは
スカイラインV35 織田信長の合理的な思考が良く伝わります。
史実は分かりませんが、寡兵で大兵に勝利した桶狭間の合戦。しかし、「織田信長の偉大な所は、奇跡を信じて突っ込んでいったのは、生涯この一度きりである」。それ以外は実に合理的な思考の持ち主だったんでしょうね。
現代のベンチャービジネスなどにも十分応用出来そうですよね。
.
ケンシロウ こんにちは。
今日は講座の日でしたね。
相変わらず盛況だったことだと思います。
武田信玄は50過ぎで病死した記憶がありますが
病死しなければ上洛の夢を果たせていたのでしょうかね。
クメゼミ塾長さんへ
黒田裕樹 信玄は、自身の死を隠すために仮埋葬させたという伝説がありましたからね。その史実を裏付ける資料が事後に発見される…まさしくロマンですよね。
> コメントありがとうございました
> いつか黒田先生の講座に伺いたいと思っています
こちらこそお言葉有難うございます。
私も塾長さんのご講演をいつかは拝聴したいと思っております。
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 > 織田信長の合理的な思考が良く伝わります。
> 史実は分かりませんが、寡兵で大兵に勝利した桶狭間の合戦。しかし、「織田信長の偉大な所は、奇跡を信じて突っ込んでいったのは、生涯この一度きりである」。それ以外は実に合理的な思考の持ち主だったんでしょうね。
桶狭間の際には絶体絶命でしたから、乾坤一擲(けんこんいってき)の大勝負をかけたといわれていますが、確かにそれ以外は無難な戦をしているという印象がありますね。仰るとおり、それだけ合理的だったということでしょうか。
> 現代のベンチャービジネスなどにも十分応用出来そうですよね。
戦国時代という枠に縛られない、自由な発想は確かに参考になりそうです。これもまた新たな発見ですね。有難うございます。
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 > 今日は講座の日でしたね。
> 相変わらず盛況だったことだと思います。
有難うございます。今回も盛況のうちに終えることができました。
> 武田信玄は50過ぎで病死した記憶がありますが
> 病死しなければ上洛の夢を果たせていたのでしょうかね。
おそらく上洛自体は成功したでしょう。
ただ、その後が続いたのかどうかが疑問に感じるところなんですね。
そのあたりについて詳しく紹介できればと思っております。
実は、略奪を必要としないだけの給金を傭兵たちに与えていたからなのです。
普段から略奪を必要としないだけの給金を渡していれば、兵たちへの抑えも利くというものですね。そのために必要な莫大な財力も、経済力を高めた信長にとっては何の問題もありませんでした。
傭兵たちの中には、例外的に略奪行為をするような不心得者(ふこころえもの)もいましたが、事実を知った信長は激怒して彼を捕まえると、木に縛(しば)りつけたうえでさらし者としました。この馬鹿者は例外である、と強くアピールしたのです。
自分の領内に、略奪や暴行を働きまくる兵力と、それらを一切せずに自分たちを守ってくれる兵力の二つが存在したとすれば、皆さんはどちらを選びますか。答えはいうまでもないですよね。地域の住民の支持を集めるのも、天下統一への重要なポイントだったのです。
以上述べたとおり、信長と信玄との「決定的な違い」の1つめは「信玄の軍勢は兵農分離ができていなかった」ことでした。では、2つめはいったい何でしょうか?
カギを握るのは、先述した「川中島での攻防にかけた時間」です。




いつも有難うございます。
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オバrev なるほど~、天下統一は、偶然やラッキーではできないもんなんだ。
やはり、それを裏付ける根拠があって力がないと取れない。
ただ、想定外のミスや失敗もありうるので、両方をバランスよく兼ね備えていることが必要なのかも?
それにつけても今日のバンクーバー、金でなくても真央ちゃんの笑顔が見たかったです。
でも3アクセル3発成功だけでも素晴らしい!セイノッZ(^・^)ヨクヤッタヨー\(~0~)/オメデトウー
オバrevさんへ
黒田裕樹 > なるほど~、天下統一は、偶然やラッキーではできないもんなんだ。
> やはり、それを裏付ける根拠があって力がないと取れない。
> ただ、想定外のミスや失敗もありうるので、両方をバランスよく兼ね備えていることが必要なのかも?
そのとおりですね。天下統一には運と実力の両方を兼ね備える必要があります。と同時に、さらなるプラスαが必要なんですが…とりあえず2つめは明日(27日)以降ということで(笑)。
> それにつけても今日のバンクーバー、金でなくても真央ちゃんの笑顔が見たかったです。
> でも3アクセル3発成功だけでも素晴らしい!セイノッZ(^・^)ヨクヤッタヨー\(~0~)/オメデトウー
私も同感です。真央ちゃんの涙は今後の成長のための試練と思いたいものですね。
実力では決してひけをとりませんから、次の希望へ向けて頑張って欲しいものです。
.
紗那 なるほど、経済的な面でも信長は優れていたんですね。 軍事的な面だけだと思われがちですけど。 実際、自分のクラスにもそういう人はいますし。
貿易が出来たのも、プラスなのか。 ゲームとかでは、大体、鉱山と交易って、収益は同じくらいに設定されてる門ですけどね。やっぱり、実際には大きな差があったってことでしょうか。
紗那さんへ
黒田裕樹 > なるほど、経済的な面でも信長は優れていたんですね。 軍事的な面だけだと思われがちですけど。 実際、自分のクラスにもそういう人はいますし。
そうなんです。経済的な面で優れていると、ここまでの大きな差が出るんですよね。
クラスにも色んな人がいると思いますが、個人によるアドバンテージは様々です。しかし、仮にハンデがあったとしても、それを乗り越えるのも人生の一つですね。
> 貿易が出来たのも、プラスなのか。 ゲームとかでは、大体、鉱山と交易って、収益は同じくらいに設定されてるもんですけどね。やっぱり、実際には大きな差があったってことでしょうか。
ゲームの世界ではなかなか表現しきれないですからね。
現代でも貿易額というのはかなり大きいですし、我が国の産業の根幹にも関わりますから、大きな差がつくのは当然かと思われます。
一方、信玄は金山こそ持っていたものの、それが限りある資源である以上、傭兵を常に雇い続けるには無理があったのが現実でした。
ちなみに、鉄砲などの近代兵器を信玄が信長のように数多く所有できなかったのも同じ理由からです。
特に、火薬の原料となる硝石(しょうせき)は、国内では一切生産されないため、海外からの輸入に頼っていました。従って信長のように巨大な貿易港を抑(おさ)えることが重要だったのです。




いつも有難うございます。
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晴雨堂ミカエル よく時代劇では武田勢を旧態依然とした騎馬軍団として描かれ、鉄砲を軽んじていたかのようになっていますが、信玄も早くから鉄砲の導入に力を入れていたようですね。
また、長篠の合戦もよくある描写では織田徳川連合軍の銃列に馬鹿みたいに突っ込んで自滅する絵がありますが、織田勢もまだ武田の大軍を圧倒するほど大量の鉄砲は保有しておらず、大雨で視界の悪い時に挟路へ誘い込まれて陣地から銃撃されたとの説もあります。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 確かに武田軍も鉄砲導入には力を入れていたと考えられますが、鉄砲を買うにしても造るにしても、莫大な資金を必要としますし、また本編で書かせていただいたように、硝石なくしては鉄砲は何の役にも立ちません。
鉄砲の重要性に気がつくと同時に、直ちにあらゆる行動に出た信長の方が、信玄よりも一歩も二歩も先んじていた、といったところでしょうか。長篠の戦いにおける「伝説」も、事の真偽は別にして、武田軍が後手に回ったというイメージがあったからこそ、後世にそのような印象を与えてしまったのでは、とも考えられます。
ではなぜ信長が鉄砲の重要性に早く気づくことができたのか…については、今後の講座の中で詳しく紹介できると思います。
.
ぴーち こんばんは!
学生時代、断片的な言葉だけを
覚えたせいか、どの時代に使われていた用語だったのか、頭の中で混乱していましたが、「楽市楽座」などはここで登場したものなのかと、改めて、納得させていただきました!
今日の記事に、なるほど~!と首を縦に振り通しの私です^^;
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 学生時代、断片的な言葉だけを
> 覚えたせいか、どの時代に使われていた用語だったのか、頭の中で混乱していましたが、「楽市楽座」などはここで登場したものなのかと、改めて、納得させていただきました!
> 今日の記事に、なるほど~!と首を縦に振り通しの私です^^;
確かに、通常の歴史教育では断片的な知識しか得ることができませんから、時間が経てば少しずつ忘れ去っていくのは致し方がないと私と思います。
私の講座も似たり寄ったりだとは自覚しておりますが、少しでも皆さんの理解につながるように頑張っていきたいですね(^^♪
.
HANA子 以前の吉宗や松平定信の講義でも触れられていた重商主義の優位性
農民からの年貢のみに頼るのではなく、商業の発展を重く見ていたという点で、やはり信長には先見性があったってことなんですね
今回の傭兵の件でも思い出したんですが、そういえば信長は外人の傭兵団を用いていたって話もありましたっけ
性格の苛烈さとは逆に内政・軍事ともに堅実で入念な前準備をかかさないってことも聞いたことがありました
次回も楽しみにしてます~
HANA子さんへ
黒田裕樹 > 以前の吉宗や松平定信の講義でも触れられていた重商主義の優位性
> 農民からの年貢のみに頼るのではなく、商業の発展を重く見ていたという点で、やはり信長には先見性があったってことなんですね
そのとおりです。重商主義に切り替えないと、経済の発展は望めないですからね。「先見性」については、今後の重要なキーワードになりますよ(^^♪
> 今回の傭兵の件でも思い出したんですが、そういえば信長は外人の傭兵団を用いていたって話もありましたっけ
> 性格の苛烈さとは逆に内政・軍事ともに堅実で入念な前準備をかかさないってことも聞いたことがありました
外国人の傭兵としては、黒人の弥助が有名ですね。また、桶狭間の戦いも、奇襲でありながら事前の情報を重視していたなど、したたかさを持つあたりも信長の強みですね。
> 次回も楽しみにしてます~
有難うございます(^o^)丿
兵農分離に関してはもう少し続きます。
こんばんは
スカイラインV35 今回は歴史からちょっと離れますが、エネルギッシュな黒田先生の動画を拝見して、以前通っていた予備校の講師を思い出してしまいました。今の予備校はわかりませんが、その頃の予備校の先生は大体が学生運動経験者みたいな感じでした。
日本史の講師の先生は、授業で中国や西洋の人名をわざとらしくオーバーに発音したりしていましたが、後からそこだけが鮮やかに記憶に残っていたりして、あぁそういう事だったのか。と、受験の為の日本史でしたが、そんな記憶があります。
黒田先生のブログも損得抜きで何か良い物を感じますね。
何のコメントか分からなくなってしまいましたが、これからも頑張って下さい。
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
私の時代にもそんな予備校教師がいましたね。確かに彼らの教え方は独特でしたが、仰られたとおりで、長く印象に残っています。私も知らず知らずのうちに身につけているのかもしれません(笑)。
せっかくの講義ですから、やはり皆様にはご理解を深めていただきたいと考えておりますし、今後もさらに研究を深めて、より良い講座にできればと思っております。
.投票
sisi 動画見ましたよ、信玄と信長の関係ですね、いいご活躍でしたね。
ブログ村投票しました。
私もちょうど信長夫人濃姫を描き入れました。
sisiさんへ
黒田裕樹 ご無沙汰しております。
> 動画見ましたよ、信玄と信長の関係ですね、いいご活躍でしたね。
お言葉有難うございます。自分としても満足な内容の講座であったと思っております。
> ブログ村投票しました。
> 私もちょうど信長夫人濃姫を描き入れました。
投票下さって感謝します。こちらからも訪問させていただきますね。
また、傭兵は農民兵のように田畑を持っていないことから移動の自由があり、それゆえに戦国大名が本拠地を移しやすいという長所も持っていました。現実に、信長は尾張から美濃国 (みののくに、現在の岐阜県)、さらには安土(あづち、現在の滋賀県)と本拠地を何度も移動しています。
農民兵と比べて長所の多い傭兵ですが、それだけ便利であるのならば、なぜ信玄が信長と同じように兵農分離を行って、傭兵を持たなかったのかというのが不思議ですね。しかし、現実には信玄には傭兵を持つことがほとんど不可能でした。なぜ信長には傭兵を持つことができて、信玄にはできなかったのでしょうか?
それは、信長と信玄との間における、経済力の大きな違いが原因だったのです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
現代で言う正社員を雇うよりも、派遣社員を雇う方が、会社の運営としては、色々と有利という意味と同じでしょうか?
経済力が豊富で、兵隊を増やすのも良いですが、必ずしも、兵士が大勢いるからと言って、戦に大勝するとは、限らない気もします。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 現代で言う正社員を雇うよりも、派遣社員を雇う方が、会社の運営としては、色々と有利という意味と同じでしょうか?
そうですね…。お金で雇っている分はずっと織田家に仕えていますし、兵力集めに猫の手も借りたい時代でしたから、扱いとしては正社員級だったと思います。
> 経済力が豊富で、兵隊を増やすのも良いですが、必ずしも、兵士が大勢いるからと言って、戦に大勝するとは、限らない気もします。
そのとおりです。相手が強ければ逃亡する危険がありますから、必ずしも勝てるとは限りません。しかし、傭兵にはその弱点を補って余りあるメリットが存在するのもまた事実なんです。そのあたりを次回以降に詳しく紹介しますね(^^♪
.
紗那 お久しぶりですっ!
確かに信長が、兵農分離をしたっていうのは有名な話ですね。
信玄には出来なかったんですか……?
何ででしょうか、ちょっと学校で考えてみます。てか、先生に聞いてみます(え
紗那さんへ
黒田裕樹 > お久しぶりですっ!
お久しぶりです(^^♪
受験前のお忙しい中のコメ、有難うございますm(_ _)m
> 確かに信長が、兵農分離をしたっていうのは有名な話ですね。
> 信玄には出来なかったんですか……?
> 何ででしょうか、ちょっと学校で考えてみます。てか、先生に聞いてみます(え
分からない場合には、まず自分で調べるのは良いことですね。
その後で私の講座を見ていただければ、より理解が深まると思いますよ(^o^)丿
兵農分離ができないということに関してですが、実はもう一つ、現代では想像もつかない「過酷(かこく)な現実」もありました。いったい何のことでしょうか?
農民兵には、自分たちが所有する田畑による生産性こそ持っていましたが、通常は戦国大名から年貢を取られるだけで、収穫のほかに収入らしいものはないために、常に不満を持っていました。そんな彼らの不満を解消する方法が何かといえば、実は「略奪」(りゃくだつ)だったのです。
当時の戦国大名にとっては、戦いに勝って攻め落とした城内や領内で、略奪や婦女などへの暴行を行うのがいわば「常識」でした。なぜなら、それが農民兵たちへの唯一といっていい「戦利品」だったからです。そして、この常識は信玄においても例外ではなかったどころか、信玄自身が敵方の有力武将の妻女などを競売(きょうばい)にかけている始末でした。
さて、信玄のように兵農分離ができず、農民兵が中心となった軍勢では様々な問題が起きていたというのは分かりましたが、一方の信長の場合はどうだったのでしょうか?




いつも有難うございます。
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伝次郎 信玄はただでさえ、兵農分離ができず兵士や農民が不足しがちになったりするのに、他の領土の民から恨まれるような事をしては領土は拡大できないと思いました。
しかし、戦国乱世のこの行いは、応仁の乱も足軽たちが残虐に好き勝手やってた名残なのでしょうか?
たしか、片倉景綱は真田幸村の娘を乱取りしていたと思います。(間違っていたらすいません)
伝次郎さんへ
黒田裕樹 > 信玄はただでさえ、兵農分離ができず兵士や農民が不足しがちになったりするのに、他の領土の民から恨まれるような事をしては領土は拡大できないと思いました。
> しかし、戦国乱世のこの行いは、応仁の乱も足軽たちが残虐に好き勝手やってた名残なのでしょうか?
それはあるかもしれませんね。もともと「何でもあり」の戦国時代ですから、その風習が一般兵にまで広まっていたと考えられます。
> たしか、片倉景綱は真田幸村の娘を乱取りしていたと思います。(間違っていたらすいません)
片倉景綱の件は存じ上げませんが、景綱の子の重長は、真田信繁(=幸村)の娘を妻としているようですね。
.
ぴーち こんばんは!
私は29987番でした(^^A
この後の訪問される方が、キリ番を
踏まれる事でしょうね!
国が乱れている時というのは、人間の欲望の赴くままに、暴動、暴行事件が多発するようですね。
乱世のドサクサに紛れて、好き勝手をしても、その後に天罰が下りそうな予感はしますが・・。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こんばんは!
> 私は29987番でした(^^A
> この後の訪問される方が、キリ番を
> 踏まれる事でしょうね!
この時間帯(21時前)であと一ケタに迫っています。踏まれた方には是非ご報告いただきたいところですが…(^^ゞ
> 国が乱れている時というのは、人間の欲望の赴くままに、暴動、暴行事件が多発するようですね。
> 乱世のドサクサに紛れて、好き勝手をしても、その後に天罰が下りそうな予感はしますが・・。
いかに時代が違うとはいえ、確かに天罰が下ってもよさそうなものですよね。
戦国大名の多くはまともな死に方をしていませんが…。
晴雨堂ミカエル 書き直された文面、拝見しました。事実関係として正確な一文だと思います。私ならあれで納得いたします。
ただ、「熱心」な護憲市民の中には帝国憲法を肯定的に評した文脈に枝盛の名を入れた事に悪意と作為を感じてクレームをつけたり削除を要求することもあり得ますから、心の準備はしておいたほうが良いかもしれません。
信玄と信長ですが、関連する小説に半村良氏の「戦国自衛隊」があり、その中で戦国時代にタイムスリップした主人公伊庭三尉が「現代の銃火器が無くても、我々の戦略戦術だけで十分勝てる」と言うくだりがあります。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
今後もより正確な内容を目指していきたいと考えております。
仰るとおり、鉄砲などの銃火器がなかったとしても、戦術を駆使(くし)すれば一時的には勝利を収めることになるかもしれません。しかし、長期的な戦略なくしては天下統一は難しいのではと考えており、そのあたりについて今後の講座の中で紹介できればと思います。
さらに、兵農分離ができないという現実は、同時に大きな問題を抱(かか)えることになってしまいました。それは「本拠地を動かせない」ということです。なぜか分かりますか?
戦いに勝てば、通常ならば領土が広がります。ということは、より兵を動かしやすかったり、あるいは経済的に有利であったりする場所に本拠地を移動させたいというのは当然の考えだと思われがちですよね。
しかし、地元の農民にとって唯一ともいえる財産は、彼らが所有する田畑(でんぱた)であり、農繁期には当然田畑に釘付(くぎづ)けになりますから、領土が広がったからといって、田畑を動かせない以上は、そう易々(やすやす)と彼らを移動させることはできなかったのです。
信玄は晩年、より京都に近く、海路も利用できる駿河国(するがのくに、現在の静岡県東部)を領有しながら、本拠地を甲斐から動かすことができなかったのも、これが主な理由でした。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
要するに、日本のような
農耕民族は、元々、戦には不向きな形態であり、戦には参戦するべきではないという事なんでしょうかね^^;
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 要するに、日本のような
> 農耕民族は、元々、戦には不向きな形態であり、戦には参戦するべきではないという事なんでしょうかね^^;
そうですね。戦に不向きなのはそのとおりだとは思いますが、裏切らずに(というよりも裏切れずに)命がけで戦うという点では心強かったと考えられます。
生命や財産を守るためには、農耕民族といえども戦わねばならないときがある、といったところでしょうか。
.
HANA子 昔の大河ドラマの「秀吉」で
秀吉が光秀に「武田はいつ動くと思う?」と聞かれて、
「武田は土着の農民兵が主力だから、田植えの終る5月までは動きますまい」と答えてて、
なるほど~と思った覚えがありました
確かに農民からしたら自分の土地は愛着云々以前に唯一の財産ですものね
そういう縛りが武田信玄の泣き所であったということですかぁ
HANA子さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
一年中戦えなくて、移動もできなければ、どんなに兵が強くても爆発的に領地を拡大することができません。まさに泣き所ですよね。
加えて、今日(23日)のような所業をすればなおさらということになります。
実は、信玄の立場からすれば、それは不可能な相談でした。なぜなら、信玄は兵農分離(へいのうぶんり)ができていなかったからです。
この頃、信玄を含む多くの戦国大名の兵力の大半は、実は地元の農民兵でした。彼らは親や妻、あるいは幼い子供などの家族を故郷に残していることもあって、命がけで戦ったために強かったという側面が確かにありました。
しかしその一方で、初夏や初秋のような、田植えや刈り入れなどのいわゆる農繁期(のうはんき)には、農作業に専念させなければ一年の収穫(しゅうかく)を得ることができません。それゆえに、農民兵は「一年中戦うことができない」という大きな弱点を持っていました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こばんは!
あ~なるほど~~(笑)
そういう事だったんですね^^
農民を兵士にしてしまうと、
確かに、一年中は戦えませんよね~
はい、納得しました(笑)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > あ~なるほど~~(笑)
> そういう事だったんですね^^
> 農民を兵士にしてしまうと、
> 確かに、一年中は戦えませんよね~
> はい、納得しました(笑)
仰るとおりです。どんなに強い兵であっても一年中戦えないとなれば、どこかで必ず引き上げざるを得ませんよね。だとすれば、天下統一へ向けて最前線に兵力を温存することも不可能に近くなります。
そして、兵農分離ができないということの問題はこれだけではないのですが…それは明日(22日)以降をお楽しみに(笑)。
.呑気?
オバrev なんとまぁ、呑気な戦いですね。
これは信長からみれば、非常に非合理的に見えるんじゃないでしょうか。
黒田裕樹さん
りら 今回のお話しだけは
前より知っていました
農民の犠牲はその後も続きますよね
いつも素晴らしいコメントで
私のブログを彩って下さるのに
他愛もないコメントしか出来ず
御免なさいね
オバrevさんへ
黒田裕樹 > なんとまぁ、呑気な戦いですね。
仰るとおり、一年中戦うのが当然の立場からすれば、呑気に見えますよね。
> これは信長からみれば、非常に非合理的に見えるんじゃないでしょうか。
そのとおりだと思います。なぜ信長からは非合理的に見えるかというと…。
りらさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、農民の犠牲や負担は相当なものでした。
それゆえに農民兵には様々な問題があったのですが、次回以降の講座で明らかにしていきますね。
コメントの件はどうぞお気になさらずに(^^♪
一所懸命ご覧いただけることに感謝しております。
ところで、この川中島の戦いですが、実は激戦となった4回目以外は目立った戦いはなく、両軍とも戦(いくさ)の途中で引き上げているという事実を皆さんはご存知でしょうか。また、4回目の戦いが行われた時期と、それ以外の戦いの引き上げの時期は、いずれも旧暦の9月から10月(現在の10月から11月)となっているのですが、これは何を意味するのでしょうか。
さらに、5度にわたって戦いを続けるということは、それだけ川中島での攻防に長い時間を費(つい)やさなければならないということでもありますが、実際に信玄と謙信は何年間戦い続けたのか、皆さんはご存知でしょうか。
実は、川中島の戦いには「信長と信玄との決定的な違い」の3つのうち、2つまでもが秘められているのです。では、その2つとはいったい何なのでしょうか。ここでは、まず川中島での「戦いの時期」から、1つめの「決定的な違い」を考察(こうさつ)してみることにします。




いつも有難うございます。
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伝次郎 この伝説的な話はよく描かれていますね。(たくさん見た覚えがあります。)
しかし、実際このような大将どうしの一騎打ちがあるとすれば、その戦場は大混乱か、一方が負け戦状態になっていたと予想します。
信濃、甲斐は塩が無く、困った話は有名かと思いますが、兵糧は足りていたのか知りたいところです。
.
ぴーち こんばんは!
文中に沢山のヒントが隠されて
いるのでしょうが、全く検討が付きません^^;
また、明日の記事を楽しみにしています^^
応援凸
伝次郎さんへ
黒田裕樹 > この伝説的な話はよく描かれていますね。(たくさん見た覚えがあります。)
> しかし、実際このような大将どうしの一騎打ちがあるとすれば、その戦場は大混乱か、一方が負け戦状態になっていたと予想します。
仰るとおり、謙信による一騎打ちが可能だったのは、信玄の本陣が大混乱だったからだといわれています。あともう少し援軍が来るのが遅かったら、信玄は首をとられていたかもしれませんね。ただ、この川中島の戦いは戦国屈指の名勝負といわれており、それ自体に問題はないと思うのですが…。
> 信濃、甲斐は塩が無く、困った話は有名かと思いますが、兵糧は足りていたのか知りたいところです。
兵糧に関しては、それほど大きな問題にはならなかったと思われます。それよりももっと大きな問題があったんですよね。これは信玄に限らず、ほとんどの戦国大名にも同様にいえるのですが…。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 文中に沢山のヒントが隠されて
> いるのでしょうが、全く検討が付きません^^;
> また、明日の記事を楽しみにしています^^
恐れ入りますm(_ _)m
後でお知りになった際に「そうだったのか!」と仰っていただけるような内容であることを願っておりますね。
今晩は
りら 謙信と信玄
あまりにも偉大です
どちらにも見方したくなりなす
黒田さんの大輔へのコメント
素晴らしかったです
私も心をこめてお返事書かせて
頂きました
これからも宜しくお願いします
.なんでだろ~?
オバrev 川中島の戦いはいったいどういう意味があったんでしょうか。
なにか無駄に時間と労力を費やしただけのような(;^_^A?
りらさんへ
黒田裕樹 謙信も信玄も一時代を築く可能性があった武将といわれていますからね。
その強さは確かに素晴らしいものがありました。
しかし、それでも天下を取れないところに統一事業の難しさがあります。
高橋選手の快挙は時間が経っても色あせることはないですね。
ファンであるりらさんのお気持ちを考えまして、私も魂のこもったコメントを書かせていただいたつもりです。こういう交流も良いものですよね。有難うございます。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 川中島の戦いはいったいどういう意味があったんでしょうか。
> なにか無駄に時間と労力を費やしただけのような(;^_^A?
繰り返しになりますが、オバrevさんは鋭いですね(^^ゞ
川中島の戦いの意味を見極めることも、「決定的な違い」を解く一つのカギになりそうです。