地頭による非法に対して、荘園領主は訴訟によって事態を解決しようとしましたが、現地に根を下ろした地頭の行動は、次第に無視できないものになっていきました。そこで領主側は、地頭との紛争を避(さ)けて収入を確実に得るため、やむを得ず地頭に荘園の管理一切を任せて、一定の年貢収入だけを請け負わせるという地頭請(じとううけ)の制度を認めました。なお、請負の対象となった土地のことは請所(うけしょ)と呼ばれました。
この他にも、現地の土地を分割して地頭に分け与え、別々の支配を認め合うという下地中分(したじちゅうぶん)も行われるようになるなど、地頭の権限はさらに強化されていきました。これらの背景には、武士が政治の実権を握ったことで地位が飛躍的(ひやくてき)に上昇したのみならず、強い武力を持っていた地頭に対して、荘園領主が何もできなくなってしまったという実情がありました。
鎌倉幕府の方針も、基本的には当事者間の取り決めによる解決を進めたことで、荘園などの現地の支配権は、次第に地頭の手に移っていきました。まさに「泣く子と地頭には勝てない」といったところでしょうか。




いつも有難うございます。
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りら 荘園ってそういう意味だったんだ
いつも頭の回転が良くなるみたい
明日も楽しみにしてるね
.
ぴーち こんばんは!
う~ん。。確かに
「泣いている子」は
手に負えないですもんね^^;
地頭は、飛ぶ鳥を落とすような
勢いがあったのですね!
それでも、その後の展開が
気になります^^;
応援凸
.
ラズベリー こんなに分かりやすく書くってすごいですねー★^∀^!
ランキングの全部ぽちっとしましたww
りらさんへ
黒田裕樹 今日も有難うございます。
荘園は奈良時代から続いていますが、この頃になると勢力が衰えて、次第に地頭のほうが影響力を増してくるんですよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > う~ん。。確かに
> 「泣いている子」は
> 手に負えないですもんね^^;
「泣く子と地頭には勝てない」ということわざほど、当時の状況を物語っているものはないと思います。武力を背景に荘園の影響力を削いでいくあたりが巧妙ですよね。
> 地頭は、飛ぶ鳥を落とすような
> 勢いがあったのですね!
> それでも、その後の展開が
> 気になります^^;
そうですね。鎌倉時代は地頭の影響が強いですが、室町時代になると別の役職の方が強くなっていきます。戦国大名以前に「○○大名」と呼ばれていますからね(^^♪
ラズベリーさんへ
黒田裕樹 > こんなに分かりやすく書くってすごいですねー★^∀^!
嬉しいですねぇ(^_^)v
私にとっては最大級の褒め言葉です(^o^)丿
> ランキングの全部ぽちっとしましたww
有難うございます。ラズベリーさんのブログへも、こちらからまた応援させていただきますね(^^♪
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
いつも時代でもやっぱり一つ認めてしまうと
そこから少しづつ掌握されて
最後には完全に支配されてしまうのは
いつの時代も共通なものだと感じました。
「泣く子と地頭には勝てない」
まさにその通りだと思いますね。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > いつも時代でもやっぱり一つ認めてしまうと
> そこから少しづつ掌握されて
> 最後には完全に支配されてしまうのは
> いつの時代も共通なものだと感じました。
そうですね。まさに「庇(ひさし)を貸して母屋を盗られる」といったところでしょうか。
現代でも同じようなことが起ころうとしているようですが…。
> 「泣く子と地頭には勝てない」
> まさにその通りだと思いますね。
これほどしっくりとしたことわざも珍しいですね。
地頭の横暴さが目に浮かぶようです。
.
shana おお、農民さんが苦しくなってきますね。やはり二重に取られると大変でしょうねー……
ていうか、力に物を言わせるのって……
shanaさんへ
黒田裕樹 > おお、農民さんが苦しくなってきますね。やはり二重に取られると大変でしょうねー……
表向きは地頭が荘園領主の代わりに年貢を徴収することになっていますが、その実は…。この時代はまだまだ「力あるものが勝つ」んですね。
> ていうか、力に物を言わせるのって……
武士の世の中ですからね。鎌倉幕府自体も「力に物を言わせて」政権を奪取しましたから、この流れもむしろ当然なのかもしれません。
一方、武士は苦労の末に所有できた先祖代々の所領を子孫に伝えることを念願するとともに、そのために武勇を重んじるなどの質実剛健(しつじつごうけん、飾り気がなく真面目で、たくましく、しっかりしているさまのこと)の気風や名誉を大切にしていました。
このような武士特有の道徳は「兵(つわもの)の道」や「弓馬(きゅうば)の道」と呼ばれ、武士による力強い精神と生活は、我が国の社会に新しい活力を与えるとともに、武士による新しい社会を世の中に定着させる要因にもなりました。
また、武士の道徳は、武勇を重んじるとともに主人に対する忠誠心や、一門や一家の繁栄(はんえい)を願うといった精神、あるいは恥を知るという感情といった特徴(とくちょう)を持っており、これらは後世における武士道(ぶしどう)の起源にもなりました。




いつも有難うございます。
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ラズベリー いつもありがとーございます^∀^
ラズベリーわ社会苦手なんですけど,黒田裕樹さんのぶろぐ見てると
なんだか好きになったよーな気分になりました★!
教科書より分かりやすいですww
ラズベリーさんへ
黒田裕樹 > いつもありがとーございます^∀^
お帰りなさい!(^o^)丿
こちらこそいつも有難うございます(^^♪
> ラズベリーわ社会苦手なんですけど,黒田裕樹さんのぶろぐ見てると
> なんだか好きになったよーな気分になりました★!
> 教科書より分かりやすいですww
それはものすごく大事なことですよ。
苦手科目というのは表面上の成績だけでなく、心の中に「この教科は嫌いだ」という意識が勉強させるのをためらわせるものです。
ということは、逆に言えば苦手意識さえなくすことができれば、一転して得意科目になる可能性だってある、というわけです。
これからも是非お越しくださいね(^_^)v
.武士の道徳、武士道について
伝次郎 この時代頃から武士の生き方が形作られているのですね。
私はてっきり江戸時代だけでできたと考えていました。
新渡戸稲造の武士道は貴族の私兵「さぶらふ」から江戸の終わりまでの武士の生き方を武士道としたのでしょうか?
お邪魔しました。
伝次郎さんへ
黒田裕樹 武士道は近世に完成されたと考えられておりますが、突然起こったわけではなく、長い歴史の中で少しずつ構成されていったんですね。
歴史を流れでとらえなければならない重要性の一つでもあります。
そして、新渡戸稲造の「武士道」も、そういった流れの中で編み出されたと考えるべきではないかと私は思います。
.
ぴーち こんばんは!
武士といえば、一番真っ先に
思い浮かべるのは、
「武士は食わねど、高楊枝」
「武士に二言はない」「武士の情け」「人は武士、花は桜」
え~っと、、後は何でしょうか^^;
ことわざを並べろというお題じゃなかったですねっ(大恥)
藤沢周平の「武士の一分」も有名ですね~。
あ、これも外したかしら(^m^
応援~♪
.黒田裕樹様
りら 武士道の起源
分かりやすかったです
これからも 楽しく勉強させて頂きますね
.武士道精神
オバrev なるほど、武士道の原点は鎌倉時代にあるんですね。
それにしても、この武士道精神というか、武士としての理念や哲学といったようなものは、特別に教えていたのか、それとも自然と武士が身につけたものなのかが気になるところです・・・って、また質問してしまった ^^;
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 武士といえば、一番真っ先に
> 思い浮かべるのは、
> 「武士は食わねど、高楊枝」
> 「武士に二言はない」「武士の情け」「人は武士、花は桜」
> え~っと、、後は何でしょうか^^;
> ことわざを並べろというお題じゃなかったですねっ(大恥)
武士のつくことわざは色々ありますよね(^^♪
それだけ武士の時代が長かったということでもあります。
> 藤沢周平の「武士の一分」も有名ですね~。
> あ、これも外したかしら(^m^
いえいえ、外されていませんよ(笑)。
時代劇映画もまだまだ健在ですね(^_^)v
りらさんへ
黒田裕樹 いつも有難うございます。
武士道はこの時代の武士の生活が基本になっているんですよね。
歴史の長さが実感できるエピソードでもあります。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > それにしても、この武士道精神というか、武士としての理念や哲学といったようなものは、特別に教えていたのか、それとも自然と武士が身につけたものなのかが気になるところです・・・って、また質問してしまった ^^;
ハイ、質問にお答えします(笑)。
物事の筋道というのは、生活していれば自然と成り立つものですから、当初は自然と身につけられたものではないかと思います。そして、それが理想とされたことによって、後世になると幼い頃から精神論として叩き込まれるようになったといえるでしょう。
良いと思われるものは歴史に残り、後世の人間に教材になる。武士道精神に限らない話でもありますね。
館の周辺には年貢や公事(くじ)がかからない、佃(つくだ)や門田(かどた)などと呼ばれた直営地(ちょくえいち)があり、下人(げにん)や所領内の農民を使って耕作させた一方で、自らは地頭として国衙領(こくがりょう、国の領地のこと)や荘園を現地で管理して、農民から年貢を徴収(ちょうしゅう)して国衙領や荘園領主に納めていました。
武士の社会では、一族の子弟たちに所領を分け与える分割相続(ぶんかつそうぞく)が一般的でした。一族は宗家(そうけ、別名を本家=ほんけ)の長である惣領(そうりょう)を中心に統率されており、惣領以外の庶子(しょし)とともに、戦時には団結して戦うとともに、平時には氏神(うじがみ)の祭りなどが惣領を中心に行われました。このような制度を惣領制(そうりょうせい)といいます。
ちなみに、分割相続の際には女性に対しても公平に分配されていました。また、女性が御家人や地頭になる例も見られるなど、この時代の女性の地位は比較的高いものであったといえるでしょう。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
日本のこれまでの歴史の中では、
女性の地位というのは、いつの時代も低いものと漠然と考えておりましたが、
この時代のように、女性も優遇されていた時期があったのですね!
それと勉強不足で恐れ入りますが、地頭とは
現代社会でいう所の県庁、都庁、府庁、道庁などに値する存在なんでしょうか。
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 日本のこれまでの歴史の中では、
> 女性の地位というのは、いつの時代も低いものと漠然と考えておりましたが、
> この時代のように、女性も優遇されていた時期があったのですね!
そのとおりでして、女性はいつの時代も低く見られたというのは真っ赤な嘘です。
「100」か「0」かというような暗黒史観は、人々の判断を誤らせますね。
> それと勉強不足で恐れ入りますが、地頭とは
> 現代社会でいう所の県庁、都庁、府庁、道庁などに値する存在なんでしょうか。
地頭は、平たく言えば国の領地や荘園の管理人ですが、任命権は幕府にありました。また、地頭はその権限を利用して様々な権利を奪っていくようになります。このあたりはいずれ紹介しますね(^o^)丿
黒田裕樹さん.
りら 惣領 の言葉
そこからきたのね
知らなかった
これからも勉強しますね
黒田裕樹さんのブログで
りらさんへ
黒田裕樹 そうですね。私たちが日常よく使う言葉の由来まではなかなか分からないものですが、それを知ることがまた歴史の理解につながることもあります。
先祖伝来の流れをしっかりとらえることができる講座でありたいものですね。
.
オバrev この時代は、見事に男女平等なんですね。
いつ頃から変わっていったんでしょうねぇ?
しかし、いざ鎌倉!という律儀な考え方はずっと続いていて、現在の会社人間に繋がっているような気もします。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > この時代は、見事に男女平等なんですね。
> いつ頃から変わっていったんでしょうねぇ?
室町時代になって、分割相続から長子相続に変わった頃か、戦国時代になって武将として戦うのが男だけになったからか、江戸時代の朱子学の影響か…。色々考えられますね。もっとも、現在は男女平等が標榜(ひょうぼう)されておりますが。
> しかし、いざ鎌倉!という律儀な考え方はずっと続いていて、現在の会社人間に繋がっているような気もします。
確かにそうですね。日本人の律儀さが、会社組織には好都合なところがあるのかもしれません。
.
紗那 あ、出ましたね。分割相続。
この週間が将来的に鎌倉幕府滅亡の間接的な一原因と化す訳ですか。 なかなか複雑ですね。
女性の地位の高さにびっくりしました。女性にも公平に、っていうのは初耳です。 ん~、今後の記事追っていきます。
.はじめまして。
tursiops 初めてコメントさせて頂きます。履歴をたどってお邪魔して以来のリピーターす。黒田裕樹さんの、少し別の角度から見た日本史、とても興味深く、楽しいので石器時代の記事から順に読ませて頂いているところです。
初めてのコメントで申し訳ございませんが、リンクさせて頂きました。御都合が悪いようでしたらご連絡いただけないでしょうか?
突然失礼いたしました。これからも記事の更新を楽しみにいたしております。
紗那さんへ
黒田裕樹 > あ、出ましたね。分割相続。
> この習慣が将来的に鎌倉幕府滅亡の間接的な一原因と化す訳ですか。 なかなか複雑ですね。
仰るとおりです。分割相続を続けていれば、一人一人の持つ所領は代を追うに従って少なくなりますよね。収入が減ったのに暮らし向きを変えられなければ、やがては借金生活になる。借金が増えれば…近日中に講座で紹介しましょう(笑)。
> 女性の地位の高さにびっくりしました。女性にも公平に、っていうのは初耳です。 ん~、今後の記事追っていきます。
私たちは必要以上に「かつての日本は男女差別がひどかった」と頭から信じ込まされているのかもしれません。差別がなかったとは無論言うつもりはないですが、せめて今回のような事実に基づいて議論を重ねたいものですね。
tursiopsさんへ
黒田裕樹 > 初めてコメントさせて頂きます。履歴をたどってお邪魔して以来のリピーターす。黒田裕樹さんの、少し別の角度から見た日本史、とても興味深く、楽しいので石器時代の記事から順に読ませて頂いているところです。
はじめまして、ご訪問ならびにお言葉有難うございます。
お気に召していただければ、それだけブログ継続への励みになります。
> 初めてのコメントで申し訳ございませんが、リンクさせて頂きました。御都合が悪いようでしたらご連絡いただけないでしょうか?
リンクの件は喜んでお受けします。こちらからも是非相互リンクをさせていただきたいと思います。
> 突然失礼いたしました。これからも記事の更新を楽しみにいたしております。
いえいえ、こちらこそよろしくお願いいたします。
「源左衛門、よくぞまいった。いつぞやの大雪の日には大変世話になったな」。そう話しかけてきた旅の僧は、実は鎌倉幕府の最高実力者である、前の執権の北条時頼だったのです。
時頼は源左衛門の忠義(ちゅうぎ)を称(たた)えるとともに、奪われていた彼の領地を取り戻しただけでなく、梅田(うめだ)・松井田(まついだ)・桜井(さくらい)という鉢の木にちなんだ三ヶ所の領地を新たに与えたということです。
以上の話は時頼よりも後の時代につくられたとされており、創作の可能性が高いですが、たとえ「つくり話」であったとしても、時頼であれば似たような行動をしてもおかしくないと当時の人々に思われ続けたからこそ、長く語り継がれてきたのでしょう。また、鎌倉時代の「御恩と奉公」の仕組みや「一所懸命」の思いなどがよく分かる伝説でもあります。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
人に対して、「平ら」にお付き合い出来るというのは、なかなか
出来ないものですよね。どうしても、相手の方の姿、形を見て、人は判断しがちですものね。
どんなに身分が卑しくても、態度を変えない。。そういう人になりたいものです。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 人に対して、「平ら」にお付き合い出来るというのは、なかなか
> 出来ないものですよね。どうしても、相手の方の姿、形を見て、人は判断しがちですものね。
> どんなに身分が卑しくても、態度を変えない。。そういう人になりたいものです。
本当にそうですね。我が国の昔話には、人間の理想たるべき姿が生き生きと描かれているような気がします。まさに私たちに勇気を与えてくれるお話ですね。
.
馬人 良い恩返しのような話ですね(´;ω;`)
優しさは後になって報われるような気がします。。。
やっぱり身だしなみじゃなくて中身だということが改めて実感します。
身なりだけ威張っていても何もありませんしね…^^;
馬人さんへ
黒田裕樹 > 良い恩返しのような話ですね(´;ω;`)
> 優しさは後になって報われるような気がします。。。
私もそう思います。無償の優しさ、見返りを求めない心。こういった思いやりが、後々になって実を結ぶことを信じたいものです。
> やっぱり身だしなみじゃなくて中身だということが改めて実感します。
> 身なりだけ威張っていても何もありませんしね…^^;
これもそのとおりですね。人間は中身が勝負です。
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
互いに見返りを求めない事こそが
素晴しい御恩と奉公のあり方だと
改めて感じさせて貰いましたね。
御恩と奉公もずっとこんな感じの
ものであれば良かったと思いますが
中々そうはいかないものですね。
.黒田裕樹様
りら 時頼であれば
こんなこともあったのでは
と思わせるような時頼は人物だったんですね
納得です
見習いたいです 中々ですが
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 互いに見返りを求めない事こそが
> 素晴しい御恩と奉公のあり方だと
> 改めて感じさせて貰いましたね。
素晴らしいお話ですよね。日本人がいかにも好きそうな伝説だからこそ、途切れることなく現代にまで伝わっていると思います。
> 御恩と奉公もずっとこんな感じの
> ものであれば良かったと思いますが
> 中々そうはいかないものですね。
理想と現実のギャップに悩み、苦しむのは現代も過去もないですね(´・ω・`)
でも、その葛藤(かっとう)がまた人間らしさをつくるのだと信じています。
りらさんへ
黒田裕樹 時頼や、祖父の泰時は当時の武士にとって頼りがいのある棟梁(とうりょう)だったと伝えられていますからね。執権自身の人徳も、政治を行ううえでは重要だったのでしょう。
確かに見習いたい人物ではありますね。今はまだはるかに遠いですが、少しでも近づきたいものです。
.
Masa コメントありがとうございました。
いつも、黒田先生のblogを楽しみに拝見させてもらってました。
よろしければ、リンクに追加させていただけないでしょうか?
Masaさんへ
黒田裕樹 > コメントありがとうございました。
> いつも、黒田先生のblogを楽しみに拝見させてもらってました。
こちらこそコメント有難うございます。
このたびは良かったですね(^o^)丿
> よろしければ、リンクに追加させていただけないでしょうか?
もちろんOKですよ!
こちらからもリンクさせていただきますね(^_^)v
「私は佐野源左衛門常世と申します。かつてはこのあたり一帯を治めておりましたが、一族の者に領地を奪われ、今はごらんの通りに落ちぶれてしまいました」。
源左衛門の話を聞いていた旅の僧が周囲を見渡すと、立てかけられた大きな薙刀(なぎなた)や、鎧(よろい)が入っていると思われる大きな箱を見つけました。僧の視線に気がついた源左衛門は、力を込めて話を続けました。
「しかしながら、我が身がいかに落ちぶれたとはいえ、この源左衛門は鎌倉殿の御家人。いざ鎌倉に一大事があらば、古ぼけた鎧であってもこれを身につけ、さびたといえどもあの薙刀を持ち、やせ馬にむち打って、誰よりも早く鎌倉にかけつけて、生命を懸けて戦うつもりでござる!」
源左衛門の見事な覚悟ぶりに、旅の僧は黙って何度もうなずきました。そして翌朝、旅の僧は丁重(ていちょう)にお礼を述べて、源左衛門の家から旅立ちました。
(つづく)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
ド素人の質問で大変恐縮ですが、
「佐野源左衛門常世」という名前は、佐野・源左衛門・常世 と分解されるのでしょうか?例えば、外国人のように、
ファースト・ミドル・ラストネーム
という区分がされているんですかね?
それとも、佐野・源左衛門常世と区切るのかしら・・・
それにしても、黒田さんのお話は、その情景が克明に浮かんでくるようですね^^
続きが楽しみです♪
では、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > ド素人の質問で大変恐縮ですが、
> 「佐野源左衛門常世」という名前は、佐野・源左衛門・常世 と分解されるのでしょうか?例えば、外国人のように、
> ファースト・ミドル・ラストネーム
> という区分がされているんですかね?
> それとも、佐野・源左衛門常世と区切るのかしら・・・
昔の日本人は、本名(=イミナ)の他に通称(=アザナ)を持っていまして、生存中はよっぽどのことがない限りアザナで呼び合うしきたりでした(死亡後は本名が使われます)。例えば、西郷隆盛が生存中はアザナで「吉之助どん」と呼ばれていたり、遠山の金さんが本名の景元(かげもと)ではなくアザナの「金四郎」と呼ばれたりしています。
従って、佐野源左衛門常世さんの場合も、通常は「源左衛門」と呼ばれていたわけです。なお、この習慣は明治以降はなくなっています。
> それにしても、黒田さんのお話は、その情景が克明に浮かんでくるようですね^^
> 続きが楽しみです♪
有難うございます(^o^)丿
次回がいよいよ最終回になりますので、お楽しみに!(^_^)v
.黒田裕樹さん
りら 高橋大輔の先輩と聞いて
羨ましいです
一緒に応援出来ますね
宜しくです
りらさんへ
黒田裕樹 コメント有難うございます。
高橋選手は我が国の宝であると同時に、大学の後輩であることを私は誇りに思っております。
世紀の大舞台で、自身の実力を出し切ってもらいたいですね。それさえできれば、結果は後からついてくると信じております。
.ごぶさたしております。
星月冬灯 お久しぶりです!!
ようやく時間ができたので、
遊びにきました ^^
また通わせて頂きますね☆
これからも宜しくお願いしますw
ゆっくり記事読ませて頂きます。
まずはごぶさたしておりました
ご挨拶をww
では ^^
星月冬灯さんへ
黒田裕樹 お久しぶりです。お元気でしたか?
時間ができてまたお越しいただけるとのこと、有難く思います。
よろしければ、またご意見を仰っていただければ幸いです(^^♪
上野国佐野(こうずけのくにさの、現在の群馬県高崎市)に住む貧しい老いた武士である佐野源左衛門常世(さのげんざえもんつねよ)の家に、ある雪の夜、旅の僧が一夜の宿を求めました。僧の話によれば、信濃国(しなののくに、現在の長野県)から鎌倉へ向かおうと旅をしてきたのですが、大雪のために先へ進むことができなくなってしまったらしいのです。
源左衛門は自分が貧しいために、旅人をもてなそうにも何もしてやることはできないと思って、一度はその僧の願いを断りましたが、雪の中で難儀(なんぎ)しているのを見捨てることもできず、結局は泊めることにしました。
源左衛門は旅の僧のために粟飯(あわめし)を出すなどの心ばかりのもてなしをしましたが、夜が更(ふ)けて寒さが身にしみる頃には、旅の僧に暖をとってもらうための薪(まき)さえなくなってしまいました。そこで源左衛門は、大事に育てていた盆栽(ぼんさい)の「梅」「松」「桜」の鉢の木を惜しげもなく切って、囲炉裏(いろり)にくべました。
(つづく)




いつも有難うございます。
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まり姫 こんにちは☆
北条の得宗政治の最後、北条高時まではもう少し時間がかかりそうですか(*^_^*)
「鉢の木」の話は超有名だけど、私たちの世代では教えられていないから、黒田さんの講座で詳しく書いてもらえば今の高校生もわかるかもしれませんね。
ぽち
当時の侍の生活。
晴雨堂ミカエル 子供用の日本昔話にもなっている有名な話ですね。
当時の武士の生活水準がわかる貴重な資料でもあります。
上級武士でも今の庶民より驚くほど粗末・質素。執権でさえも、醤や塩を肴に酒を飲んでいたとか。
味噌汁は鎌倉時代に成立したらしいですが、当時はご馳走だったでしょうね。
まり姫さんへ
黒田裕樹 > 北条の得宗政治の最後、北条高時まではもう少し時間がかかりそうですか(*^_^*)
応援有難うございます(^o^)丿
北条高時ですか…。しばらく休憩をはさむことになりそうなので、まだまだ時間がかかるかもしれませんが、いずれは取り上げますよ。
> 「鉢の木」の話は超有名だけど、私たちの世代では教えられていないから、黒田さんの講座で詳しく書いてもらえば今の高校生もわかるかもしれませんね。
そうですね。今日(26日)から3回に分けて紹介しますので、皆さんにご理解いただければ幸いです。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 子供用の日本昔話にもなっている有名な話ですね。
> 当時の武士の生活水準がわかる貴重な資料でもあります。
そうですね。当時の武士は貧しくとも日頃の鍛錬を欠かさない勇敢さも持っていました。
武士の生活については、近日中に取り上げることになりますよ。
> 上級武士でも今の庶民より驚くほど粗末・質素。執権でさえも、醤や塩を肴に酒を飲んでいたとか。
> 味噌汁は鎌倉時代に成立したらしいですが、当時はご馳走だったでしょうね。
私もそのようなエピソードを聞いたことがあります。
平安貴族の贅沢三昧とは大きな違いですよね。
.
ぴーち こんばんは!
まあ!(@@
ここまでお話を伺っただけでも、何だか心がほわっと、温かくなった気がしましたよ^^
大切にしていた鉢の木を惜しげもなく切ってしまうなんて、なかなか出来ないものですものね(TT)
続きを楽しみにしています♪
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
確かになかなかできることではありませんね。
明日以降も続きますので、お楽しみに!(^o^)丿
.
馬人 これだけの文章でも、充分暖かくなりますw
寒い冬にもってこいの話ですね^^
人を思いやって大切な盆栽を燃やしてしまうなんて…。
心優しい方なんですね~v
私もそのような心優しい人になりたいです^^
.黒田裕樹さん
りら 今日は鎌倉繋がり
私は写真の為の寺院巡りだけど
の黒田裕樹さんの説明は勉強になります
これからも宜しくお願いね
馬人さんへ
黒田裕樹 > これだけの文章でも、充分暖かくなりますw
> 寒い冬にもってこいの話ですね^^
意識してませんでしたが、確かに仰るとおりですね(^^ゞ
タイムリーでした(^^♪
> 人を思いやって大切な盆栽を燃やしてしまうなんて…。
> 心優しい方なんですね~v
> 私もそのような心優しい人になりたいです^^
私もなりたいです(笑)。
実際には不惑を超えてもまだまだですが…。
りらさんへ
黒田裕樹 鎌倉つながりでしたね。
私は実際には行ったことがないので、非常に勉強になりました。
有難うございます。
こちらこそよろしくお願いしますね。
また、翌1247年には有力御家人の三浦泰村(みうらやすむら)を滅ぼし、北条氏の勢力の拡大に成功しました。三浦泰村との戦いは、当時の年号から宝治合戦(ほうじかっせん)と呼ばれています。さらに1252年には第5代将軍の藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)を京都へ追放し、代わりに後嵯峨上皇(ごさがじょうこう)の皇子である宗尊親王(むねたかしんのう)を第6代将軍として迎えました。これ以降、名目(めいもく)だけの皇族将軍(こうぞくしょうぐん)が幕府滅亡まで4代続くことになります。
また、時頼は当時増加していた御家人たちの所領をめぐる訴訟(そしょう)を迅速(じんそく)に処理するため、1249年に評定衆の会議である評定のもとに引付(ひきつけ)という役職を新たに設け、引付衆(ひきつけしゅう)を任命して評定衆を補佐させました。なお、幕府の求めによって、朝廷でも同時期に後嵯峨上皇によって院評定衆(いんのひょうじょうしゅう)が置かれましたが、院評定衆は幕府の承認を得て任命されたため、結果的に幕府が朝廷の政治に深く関わるようになりました。
1256年、時頼は病気のため30歳で執権の地位を一族の北条長時(ほうじょうながとき)に譲(ゆず)って出家しましたが、政治の実権は握り続けました。時頼のように北条氏の嫡流(ちゃくりゅう、正当な血筋を持つ家柄のこと)の当主である得宗(とくそう)が政治を指導することを得宗専制政治(とくそうせんせいせいじ)といい、鎌倉幕府はこの頃に全盛期を迎えました。




いつも有難うございます。
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まり姫 黒田さんこんにちは☆
どうもご心配いただきありがとうございました。
せっかく温かいコメントいただいたのに、お返事が書けなくて申し訳ありませんでしたゴメンなさい・・・(´_`illi)
少し入院していました^^
昨日退院してきたばかりなので、今日お詫びと御礼にお邪魔しましたです^^
また今日からよろしくお願いしますねσ(゚ー^*)
伯父が余計なことを書いたようで・・・・``r(^^;)ポリポリ
久しぶりのポチです(*^_^*)
.信じられないのですが・・
伝次郎 別件ですが、お邪魔させて下さい。
ブログ 老兵の独り言より引用
http://neyama.blog31.fc2.com/
先日大阪府下公立学校における外国籍教員が135人を数えるとされています。
八尾市教育委員会人事総務課より以下の回答。
八尾市立学校における外国籍教員について(平成22年1月25日現在)
大韓民国籍 9名
大丈夫なのでしょうか?
ブログ楽しみに見ています。
まり姫さんへ
黒田裕樹 ご退院おめでとうございます。
何かと大変だったみたいですが、良かったですね。
こちらこそ、今後ともよろしくお願いします。
伝次郎さんへ
黒田裕樹 コメント有難うございます。
お言葉の件ですが、外国籍の人も地方公務員になれるという規定がある以上は、こういった事態も十分考えられるではないか、と思います。
それよりも大きな問題としては、外国籍だからといってそれだけで差別するのではなく、国籍に関係なく、我が国の公教育のために力を尽くしてくれるのか、という一点に尽きると考えております。
今後ともよろしくお願いいたします。
.
HANA子 こうして見てみると、幕府成立から50年あまり、北条氏は権力確立のための行動に余念がなかったのだなということがはっきりわかりますね
内部体制の基盤固めに敵対する有力な勢力の排除。体制の組織作りetc
読み進んでいてふと思い浮かんだのはマキアベッリの「国家論」の文言たち
なるほど、真理は時や場所の違いはあっても変わらないものだということなんでしょうね
HANA子さんへ
黒田裕樹 確かに北条氏の発展のためには手段を選ばないあたりがマキャヴェリズムを感じさせますね。
それでも大勢の御家人の支持を受けたのは、北条氏の政治の手法が上手かったからなのでしょう。
次回(26日)以降の更新では、北条氏から産まれた一つの伝説を紹介することになります。
.
紗那 執権政治全盛ですねー。
北条氏もやるもんです。
まぁ、ここから北条氏も地味に没落していくってことですかねー。
正直鎌倉時代は、幕府開く⇒承久の乱⇒御成敗式目⇒元寇⇒永仁⇒倒幕 くらいしか、授業でもやってないもんですから。
ここでしっかり勉強していきます。
なんか出家しても実験握るって、院政みたいですねw
紗那さんへ
黒田裕樹 > 執権政治全盛ですねー。
> 北条氏もやるもんです。
> まぁ、ここから北条氏も地味に没落していくってことですかねー。
北条氏による執権政治は、時頼の頃が全盛期といって差し支えないでしょう。
時頼の息子の頃に「大事件」が起きて以降は後退期に差し掛かりますね。
> 正直鎌倉時代は、幕府開く⇒承久の乱⇒御成敗式目⇒元寇⇒永仁⇒倒幕 くらいしか、授業でもやってないもんですから。
> ここでしっかり勉強していきます。
随分アッサリとした授業ですね。中学生ならば仕方がないかな…。
しばらく休憩をはさむことになりますが、鎌倉時代はまだまだ続きますよ!(^^♪
> なんか出家しても実権握るって、院政みたいですねw
確かにそうですね(^^ゞ
我が国には引退したり、あるいは役職についていないにも関わらず、政治の実権を握る人が多いのはなぜでしょうか?
将軍
オバrev 藤原氏の摂関政治のようなことを北条氏はやっていたんですね。
でも、北条氏自身が将軍になって権力を握る方がシンプルだと思うのですが、何故そうしなかったんでしょうか?
その方が好都合ということなんでしょうが、どうもよく分かりません。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 藤原氏の摂関政治のようなことを北条氏はやっていたんですね。
天皇を将軍、摂関家を得宗に換えれば、形式的には全く同じですね。
> でも、北条氏自身が将軍になって権力を握る方がシンプルだと思うのですが、何故そうしなかったんでしょうか?
> その方が好都合ということなんでしょうが、どうもよく分かりません。
その大きな理由は、ズバリ「身分の壁」です。
天皇には皇室の身分の方々しかなれないように、将軍にも源氏のように武士といえども身分の高い人間しかなれなかったのです。北条氏は平氏の流れをくむとはいえ、頼朝に比べればはるかに身分が低かったので、当時は将軍になることは考えられませんでした。そこで、摂関家のように実権のない将軍を立てることによって、政治の実権を握る方法をとったのです。
このあたりが、諸外国のように革命的に政治の頂点を奪い取ってしまう方式とは一線を画す我が国の政治手法ですね。
今回の「明治憲法とは ~歴史と公民の両面から見た真実」については、私の講座ではじめての近代史であるということ、また、通常とは違って公民の内容で発表することができたのが、自身にとっては大きな収穫でした。講座の内容については、近日中に映像とともに15回に分けて更新を行う予定ですので、今しばらくお待ち下さい。
さて、次回(第10回)はいよいよ東京講演です。ブログ開設から約10ヶ月、満を持して進出することになりましたが、東京で講演できることは、講演者である自分自身にとっても大きな喜びです。
東京で皆様にお会いできるのを楽しみにしております!
なお、2月以降の予定は下記のとおりです。
第10回 「信長と信玄との『決定的な違い』について」
日時:平成22年2月13日(土) 午後3時30分より
場所:森ビル貸会議室 愛宕山弁護士ビルNo.3
会費:無料(カンパを受け付けます)
第11回 「太閤殿下の夢 ~秀吉の朝鮮出兵の真意とは」
日時:平成22年2月27日(土) 午後3時30分より
場所:梅田東学習ルーム
会費:無料
第12回 「戦国時代の宗教戦争 ~政教分離をもたらした三英傑」
日時:平成22年3月27日(土) 午後3時30分より
場所:梅田東学習ルーム
会費:無料




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
10名の幸運な方達の前で
お疲れ様でした^^
いよいよ来月は、東京での講座ですね!沢山の方達が、黒田さんの講座を心待ちにされている事でしょう^^
陰ながら応援させていただきますね。
ブログへも、勿論、応援です^^
管理人のみ閲覧できます
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ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 10名の幸運な方達の前で
> お疲れ様でした^^
有難うございます。幸運であれば嬉しいのですが(^^ゞ
> いよいよ来月は、東京での講座ですね!沢山の方達が、黒田さんの講座を心待ちにされている事でしょう^^
> 陰ながら応援させていただきますね。
はい、いよいよ東京です。
自分自身も大変楽しみにしております(^^♪
1232年には、51ヶ条からなる御成敗式目(ごせいばいしきもく)を制定しました。式目は、我が国最初の武家法であり、頼朝以来の先例を基本とした武家の慣習や道理を成文化したものでした。内容としては、守護や地頭の任務や権限を定めたり、御家人の権利義務や所領(しょりょう、領有している土地のこと)の相続の規定、御家人同士や御家人と荘園領主との間の紛争(ふんそう)を処理する基準などが定められたりしました。
式目は、従来の律令(りつりょう)に比べて非常に平易(へいい)な文章で書かれており、内容も実用的なものが多く、後世にまで大きな影響を与えました。ただし、式目の適用は武家社会に限られており、朝廷の支配下では律令の後身(こうしん、もとの形から変わって現在の姿になったもの)である公家法(くげほう)が、荘園領主の支配下では本所法(ほんじょほう)が引き続き効力を持っていました。
なお、御成敗式目は当時の年号にちなんで貞永式目(じょうえいしきもく)とも呼ばれており、また式目が51ヶ条となったのは、聖徳太子の憲法十七条の3倍が由来とされています。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
貞永式目は、習った覚えがあります。
この式目も、聖徳太子の影響を受けていたとは、驚きです。
所で、17条の3倍と言う
根拠は何かあるんでしょうか。。
講座、お疲れ様でした!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 貞永式目は、習った覚えがあります。
> この式目も、聖徳太子の影響を受けていたとは、驚きです。
> 所で、17条の3倍と言う
> 根拠は何かあるんでしょうか。。
貞永式目(御成敗式目)については、聖徳太子の憲法十七条にあやかって、それを天地人の三方に配して、3倍の51条にしたと昔から伝えられていますね。聖徳太子の偉人伝説が生んだエピソードと思われます。
> 講座、お疲れ様でした!
有難うございます。
講座の内容は近日中に発表しますね(^_^)v
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スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
御成敗式目は51ヶ条あってそれが憲法十七条の3倍から来ているの知りませんでした。
勉強になりありがとうございます。
しかし、御家人と荘園領主で法が違うのでは当時の民衆も大変だったと思いますね。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 御成敗式目は51ヶ条あってそれが憲法十七条の3倍から来ているの知りませんでした。
> 勉強になりありがとうございます。
お言葉有難うございます。今回のような由来を探ることで、皆様のご理解が深まれば幸いです。
> しかし、御家人と荘園領主で法が違うのでは当時の民衆も大変だったと思いますね。
この時代は武士と荘園の二大権力が並存していましたからね。ただ、時代を経るにつれて次第に武士の権力が上回るようになっていきます。
さて、去る12月19日に第8回「黒田裕樹の歴史講座」を開催致しましたところ、年末のお忙しい時期であるにもかかわらず、ブログをご覧になった方々を中心に9名の皆様にご参加いただきまして、有難うございました。
次回(第9回)の歴史講座は、「明治憲法とは ~歴史と公民の両面から見た真実」と題して、大阪・梅田で1月23日(土)の午後6時より開始致します(当初予定時間より変更となっております。ご注意下さい)。
現行の日本国憲法と比較して、「天皇大権」やそれと比較しての「臣民(しんみん)の権利」という不十分な権利、あるいは「統帥権干犯」(とうすいけんかんぱん)問題などで我が国の軍事大国化を招いたと評判の悪い明治憲法(=大日本帝国憲法)ですが、このような見方は本当に正しいのでしょうか?
明治憲法を批判するのは自由ですが、せめて明治憲法が制定されるに至った当時の時代背景や、明治憲法に記された条文の本当の意味を理解してからであっても決して遅くはないと思います。
今回の講座では、憲法制定に至るまでの我が国の苦難の歴史的背景や、憲法の条文を詳細に解釈するという公民的な作業を、歴史と公民の両方の教員免許を持つ私こと黒田裕樹が探ってみたいと思います!
第9回「黒田裕樹の歴史講座」
日時:平成22年1月23日(土) 午後6時より
※開始時間が変更になっております。ご注意下さい
内容:「明治憲法とは ~歴史と公民の両面から見た真実」
場所:梅田東学習ルーム
会費:無料
ブログをご覧の皆様も、宜しければ是非ご参加下さい。この記事のコメント欄をご活用いただければと思います。また、今回の講座の内容については、前回までと同様に、後日にはブログ上で映像とともに発表しますので、是非ご覧になって下さい。
尚、予約の都合上、当日の教室一覧(夜間)の掲示板に「大阪読書研究会」と書かれているのが「黒田裕樹の歴史講座」の会場となります。ご注意下さい。
2月以降の予定は下記のとおりですが、2月13日は東京での講座となります。関東にお住まいの皆様、是非ご参加下さい!
第10回 「信長と信玄との『決定的な違い』について」
日時:平成22年2月13日(土) 午後3時30分より
場所:森ビル貸会議室 愛宕山弁護士ビルNo.3
会費:無料(カンパを受け付けます)
第11回 「太閤殿下の夢 ~秀吉の朝鮮出兵の真意とは」
日時:平成22年2月27日(土) 午後3時30分より
場所:梅田東学習ルーム
会費:無料
第12回 「戦国時代の宗教戦争 ~政教分離をもたらした三英傑」
日時:平成22年3月27日(土) 午後3時30分より
場所:梅田東学習ルーム
会費:無料




いつも有難うございます。
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晴雨堂ミカエル 黒田氏からは左翼に見えるかもしれませんが、私は植木枝盛の私議憲法草案を支持していますので、やはり明治憲法は否定的になります。
アメリカからの押し付け憲法だと評判の悪い日本国憲法は、自由民権運動の悲願でした。
ただ、日本の左翼のおかしなところは、日本国憲法を語る上で鈴木安蔵やベアテの名前は出しても、植木枝盛は出さない方が多い。
女性の参政権を認めない欧米諸国が当たり前の時代で、明治の前期は自治体レベルでは女性参政権が存在しており、明確に否定されるのは帝国憲法発布の数年前の保安条例からであり、目的は民権運動弾圧のためでした。
第1回衆院議会解散後に官憲派と民権派とで高知が内乱状態になった事もあまり知られていません。
どういうわけか、左翼の多くは明治の自由民権運動を評価しないし省みもしない点が奇怪です。
そういえば、大河ドラマ「獅子の時代」で、大日本帝国憲法発布前夜の民権派と官憲派が鬩ぎあうさまを比較的時間をとって描写していました。本格的に取り上げたのは、この「獅子の時代」と、映画では「草の乱」ぐらいでしょうか。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 明治憲法へのご見解や、日本国憲法、それに植木枝盛氏への思いが伝わるお言葉ですね。
今度の講座の内容が晴雨堂ミカエルさんのお考えに沿うかどうかは分かりませんが、建設的な意見が交換できそうな気がします。
大河ドラマについてよくご存知でいらっしゃいますね。
以前に紹介して下さった「草燃える」ですが、来月から某CSで全話放送されるので、楽しみにしております。
管理人のみ閲覧できます
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ロベルト・ジーコ・ロッシ 黒田 様
いつも拙ブログにお越し頂きありがとうございます。
ちなみに、2/13は何時までしょうか?
又、黒田様はいける口なのでしょうか?
参加出来ましたら、アフターで一杯
如何でしょうか?
ロベルト・ジーコ・ロッシさんへ
黒田裕樹 > いつも拙ブログにお越し頂きありがとうございます。
こちらこそ、いつもご訪問下さって有難うございます。
> ちなみに、2/13は何時までしょうか?
> 又、黒田様はいける口なのでしょうか?
> 参加出来ましたら、アフターで一杯
> 如何でしょうか?
2月13日は講義は90分~2時間弱で、ご質問やご感想等の時間を含めて6時には終わらせる予定です。
「いける口」に関しては、私の周囲は口をそろえて「是」と答えております(笑)。
アフターでのお誘い、有難うございます。懇親会を行う可能性もありますので、ご一緒できれば幸いです。
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てっちゃん中尉 こんにちは、2月13日ですか。楽しみですね
てっちゃん中尉さんへ
黒田裕樹 > こんにちは、2月13日ですか。楽しみですね
有難うございます。てっちゃん中尉さんもぜひご参加いただければと思っております。
13日について
h.hamauzu おはようございます。
ご無沙汰しております。
13日…なんとか都合がつきそうです。(タブン)
ただし!当方歴史オンチにつき、
指名して、意見を求めないよ~に~w
ところで、私、17時過ぎに退席しなくてはいけない可能性があるのですが、途中退席は許されるのでしょうか?
不躾な質問で申し訳ありません
h.hamauzuさんへ
黒田裕樹 > おはようございます。
> ご無沙汰しております。
> 13日…なんとか都合がつきそうです。(タブン)
> ただし!当方歴史オンチにつき、
> 指名して、意見を求めないよ~に~w
それは楽しみですね。
意見一つにつき阪急のクリアファイル一つでいかがでしょうか(笑)?
> ところで、私、17時過ぎに退席しなくてはいけない可能性があるのですが、途中退席は許されるのでしょうか?
> 不躾な質問で申し訳ありません
大丈夫ですよ。お忙しいのに途中まででもご参加いただけるだけで有難いです。
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智里 いよいよ明日ですね。
準備の方も大変でしょうが、無理せずに楽しんでください。
明治憲法と行ったら、オスマン帝国憲法の次に制定された近代憲法。
現在の日本国憲法と比べて悪いとしか習っていない自分。
明治憲法の本当の真意をぜひ知りたいですね。
実は結構良い憲法だったりして(*´艸`)