地方の武士は、各地で中央に負けないほどの寺院を建てました。奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)による平泉(ひらいずみ)の中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)や、他にも陸奥(むつ、現在の福島県いわき市)の白水阿弥陀堂(しらみずあみだどう)、豊後(ぶんご、現在の大分県豊後高田市)の富貴寺大堂(ふきじおおどう)などが有名ですが、これらは地方であっても文化の水準が高かったことを間接的に証明しています。
また、これらの建築物は、浄土教(じょうどきょう)の思想が全国に広まったことも示していました。寺院に所属せず、公的な僧の位(くらい)を持たない聖(ひじり)や上人(しょうにん)らが、民間での布教を拡大させていたのです。
院政期の頃には、一般の庶民(しょみん)にも「現代風な歌謡(かよう)」という意味の今様(いまよう)や、古代の歌謡(かよう)である催馬楽(さいばら)、芸能の一種である田楽(でんがく)や猿楽(さるがく)などが盛んになりました。これらのうち、今様は後白河法皇も愛誦(あいしょう)され、法皇によって、民衆の間に広まった歌謡を集めた梁塵秘抄(りょうじんひしょう)がまとめられました。




いつも有難うございます。
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sisi ブログ村投票しました。
院政といったら、藤原頼通のことを思い出します。
sisiさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
藤原頼通に摂関家の後継者がいなかったことが院政につながりますから、確かに関連性がありますね。
ぴーち こんばんは!
歌謡=今様などと言っていたんですね!
田楽なんて、何処かで聞いた様な
名前ですしw
おもわず、こんにゃくにお味噌を塗って
食べたくなります♪
すみません。。花より団子なものでw
梁塵秘抄なんて、すごく高貴な歌本に
聞こえますね^^
昔の方は、風流でした~♪
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 歌謡=今様などと言っていたんですね!
「(その当時で)現代風の様(さま)」だったからでしょうね。いかにも日本語という感じがします(^^♪
> 田楽なんて、何処かで聞いた様な
> 名前ですしw
> おもわず、こんにゃくにお味噌を塗って
> 食べたくなります♪
> すみません。。花より団子なものでw
いえいえ、私も大好きですから(笑)。コンニャクもいいですが、厚揚げも…。
> 梁塵秘抄なんて、すごく高貴な歌本に
> 聞こえますね^^
> 昔の方は、風流でした~♪
皇族でいらっしゃる後白河法皇が民間の歌を編集されたというのが凄いですよね。冷徹な政治家の隠された素顔かもしれません。
親鸞聖人
オバrev 聖とか上人は、そういう意味だったんですね。
親鸞聖人とか一遍上人とかよく言いますが、公的な僧ではなかったんですね。
ちなみに、広島は浄土真宗門徒の人が多いです。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 聖とか上人は、そういう意味だったんですね。
> 親鸞聖人とか一遍上人とかよく言いますが、公的な僧ではなかったんですね。
親鸞も一遍も鎌倉時代初期の人ですが、仰るとおりですね。特に親鸞は一時の間は僧籍を奪われていますし。
> ちなみに、広島は浄土真宗門徒の人が多いです。
そうなんですね。実は私の宗派も同じです。
なぜなら、平氏が摂関家の真似(まね)をしただけでは、武士たちの立場に全く変化がなかったからです。もともと藤原氏が摂関政治を行っていた頃には、武士たちの多くが「貴族たちには武士の気持ちなどは分かるまい」と思い、あきらめていました。そんな折に自分たちの代表でもある平氏が政治の実権を握り、今度こそはという期待が高かっただけに、裏切られたという思いも強く、平氏に対して「同じ武士なのに、どうして俺たちの思いが分からないのか」と余計に不満を持つようになりました。
また、それまで政治を行っていた貴族たちも、身分が低いうえに血を流す「ケガレた」仕事しかしないと見下(みくだ)していた武士である平氏が、自分たちの真似をしたことに対して激しく反発していました。すなわち、平氏の行った政治は、武士と貴族の双方から問答無用で拒否されてしまったのです。後の世で武士による政治が広く支持されたという現実を考えれば、初めてであるがゆえに確固(かっこ)たるビジョンを持てなかった「開拓者」としての平氏の悲劇でもありました。
こうして、武士として初めて政治の実権を握った平氏は、当時の国民の代表たる武士たちの共感を得ることができませんでした。いくら武力で世の中を支配したところで、それが国民の理解を得られなければ、その支配は長続きできません。それゆえに「武士のための政治」を実現させる他の勢力が現われると、平氏の天下はたちまち崩れ去ってしまう運命にあり、現実としてそうなってしまいました。
では「武士のための政治」とは一体どのようなものなのでしょうか。そして、平氏にかわって政治の実権を握った勢力には、なぜ「武士のための政治」が理解できたのでしょうか?
この謎を解き明かすためにも、カギを握る人物の行動を、次の時代の分野でじっくりと考察(こうさつ)してみたいと思います。




いつも有難うございます。
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えめる 世を治めるものは、確かなビジョンを持たなければならニャイ。
ですにゃね。
武士による政治の先駆者であった清盛。
自分の立場しか考えなかったのかニャ……。
次回からじっくりでスニャね。
はいっ!←返事だけ元気なネコ。
えめるさんへ
黒田裕樹 > 世を治めるものは、確かなビジョンを持たなければならニャイ。
> ですにゃね。
> 武士による政治の先駆者であった清盛。
> 自分の立場しか考えなかったのかニャ……。
武士であっても、後半は事実上貴族でしたからね。「武士の気持ち」が分からなくなっていたと思われます。それがまた悲劇でもありました。
> 次回からじっくりでスニャね。
> はいっ!←返事だけ元気なネコ。
そうなんですが、ワンポイントをはさんで吉宗になりますので、再開にはしばらく時間がかかるかも…m(_ _)m
馬人 貴族から逆に批判されてしまったんですね…。
学校生活でいうと、転校したところで威張り、
「何コイツ、この学校を分かったフリして威張ってやんの」
といじめられるようなものでしょうか?ww
貴族から見れば、武士は汚れてますもんね・・・。
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馬人さんへ
黒田裕樹 > 貴族から逆に批判されてしまったんですね…。
> 学校生活でいうと、転校したところで威張り、
> 「何コイツ、この学校を分かったフリして威張ってやんの」
> といじめられるようなものでしょうか?ww
なるほど、上手い例えですね。あとは生徒会長に立候補した際に「生徒の言い分を通してみせる!」と息巻いたことで圧倒的多数で当選したのに、実際には先生の言いなりになっているとか(笑)。「生徒」と「先生」以外でも当てはまるのものは多そうですね。
> 貴族から見れば、武士は汚れてますもんね・・・。
そのとおりです。争って血を流す「ケガレた」存在としか見ていませんでしたからね。そもそもは自分たちの政治のせいで武士が誕生せざるを得なかったというのに…。
ブログランキングさんへ
黒田裕樹 お誘いいただいて有難うございます。
あまりランキングを増やすと、ご覧になっていただく方へのご負担が増える恐れもありますので、慎重に判断したいと思います。
身分
JJSG こんばんは。
先がまた楽しみになってきました。
貴族も武士も皇族も、みな同じ人間なのに、どうして皆、上下の身分差別をつけたがるのでしょう。。。
結局、人間は、自分さえよければよい、という我利我利亡者が本性だからでしょうか。」
そして、歴史は繰り返される。。。
続きを楽しみにしています♪
JJSGさんへ
黒田裕樹 > 貴族も武士も皇族も、みな同じ人間なのに、どうして皆、上下の身分差別をつけたがるのでしょう。。。
「他人とは違う」ことでしか存在感のない人が多いからかもしれませんね。本来は「オンリーワン」で当たり前なのに、わざわざ歌で紹介されるくらいですから…。
> 結局、人間は、自分さえよければよい、という我利我利亡者が本性だからでしょうか。」
> そして、歴史は繰り返される。。。
確かに本性かもしれませんね。なまじ権力を持つと、歯止めが効かなくなるのかも…。
> 続きを楽しみにしています♪
有難うございます。ただ、講座のUPなどがありまして、しばらく時間をいただくことになりますのでご了承下さい。
h.hamauzu こんばんは!
新しいことを切り開いて、モノにする・・・
そのためには確乎たるビジョンが必要なんですね。
分かっちゃいるけど耳が痛いです~!
ちなみに私の家系は平氏の末裔でして、
父方の田舎は高知の山奥だったりします
つまり、高知まで落ち延びたわけです・・・
で、父の名前は「章盛(あきもり)」といいます。
いかにも平氏だと思いませんか?
身内の話で失礼しました♪
h.hamauzuさんへ
黒田裕樹 > こんばんは!
> 新しいことを切り開いて、モノにする・・・
> そのためには確乎たるビジョンが必要なんですね。
> 分かっちゃいるけど耳が痛いです~!
確かに「言うは易し、行うは難し」ですからね。でも、方法が分かればできないことはないし、できたからこそ新しい時代を迎えられたのもまた事実なんですよね。
> ちなみに私の家系は平氏の末裔でして、
> 父方の田舎は高知の山奥だったりします
> つまり、高知まで落ち延びたわけです・・・
「落人伝説」は各地にありますからね。山奥のように見つかりにくい場所でない
と生活できないのも事実のようです。
> で、父の名前は「章盛(あきもり)」といいます。
> いかにも平氏だと思いませんか?
確かに「盛」がつくと、そういうイメージがありますね。
> 身内の話で失礼しました♪
いえいえ、また数々のお話を楽しみにしておりますm(_ _)m
そんな武士たちにとって、深刻な問題となったのが「土地制度に関する大きな矛盾(むじゅん)」でした。我が国では公地公民制の原則が早々(そうそう)に崩(くず)れ、墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)によって新たに開墾(かいこん)した土地の私有が認められましたが、その権利があったのは有力貴族や寺社などの限られた勢力のみでした。
しかし、実際に現地で汗水たらして開墾したのは、せっかく耕(たがや)した土地を一所懸命(いっしょけんめい)に守り抜くために武士となった人々でした。それなのに、法律上では武士たちには土地の所有が一切認められなかったがために、仕方なく摂関家などの有力者に土地の名義を移して、自らは「管理人」の立場をとるしかなかったのです。
つまり、武士は実質的には自分たちの土地であっても、正式な所有者にはなり得ませんでした。こんな不安定な、また人を馬鹿にした話はありません。「自ら開墾した土地は、自らの手で堂々と所有したい」。武士たちの願いには切実なものがありました。
やがて時代は流れ、武士の中からついに政治の実権を我が手にする勢力が現れました。もちろん平清盛をはじめとする平氏政権のことです。全国の武士は、同じ身分である平氏ならば、自分たちの期待にきっと応えてくれると固く信じていました。




いつも有難うございます。
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ケンシロウ こんにちは。
今日は講座の日ですね。
今頃準備に追われている頃かと思いますが
頑張って下さいな。
ブログのタイトルを300mmの・・・に変更しました。
お手数ですが変更願います。
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 > 今日は講座の日ですね。
> 今頃準備に追われている頃かと思いますが
> 頑張って下さいな。
お蔭さんでようやく準備が整いました。
これから行ってまいります。
> ブログのタイトルを300mmの・・・に変更しました。
> お手数ですが変更願います。
了解しました。直しておきますね(^^♪
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必然
JJSG こんばんは。
時代の流れ、というものを感じます。
当然の流れ、必然、といった感じでしょうか。
そうやって、刻々と変化、変遷していったのですねぇ。
JJSGさんへ
黒田裕樹 > 時代の流れ、というものを感じます。
> 当然の流れ、必然、といった感じでしょうか。
> そうやって、刻々と変化、変遷していったのですねぇ。
そうだと思います。時代の流れには逆らえないのか、あえて逆らって名を残すのか…。平氏政権も、誕生の流れには必然性があったと思われますが…。
計略の背景に後白河法皇の存在があったことを知った清盛は激怒して、2年後の1179年には軍勢を率(ひき)いて後白河法皇を幽閉(ゆうへい、閉じ込めること)して院政を停止し、法皇の近臣たちの官職をすべて解くなど、逆にクーデターを起こしました。この事件を当時の年号から治承三年の政変(じしょうさんねんのせいへん)といいます。尚、清盛の孫の安徳天皇(あんとくてんのう)が即位されたのはこの翌年(1180年)のことです。
清盛の立場から見れば、平氏政権を危(あや)うくしたのは後白河法皇側であり、法皇のかわりに平家と血のつながりのある天皇を立て、反対勢力を封じ込めて一門で官職を固めるのは当然の防衛手段といえました。しかし、法皇を幽閉するという強硬な手段が、周囲の更なる反発を招いてしまったのです。後の世で足利尊氏(あしかがたかうじ)や織田信長(おだのぶなが)らが同じように武士の身分でありながら皇室と対決状態にあっても、非難の声が平氏ほどなかったことを考えれば、まさに開拓者(かいたくしゃ)ゆえの悲劇ともいえました。
それに加えて、平氏政権には自身が気づいていない「重大な欠陥(けっかん)」があり、実はそれこそが後の平氏滅亡へと直接的につながっていったのでした。では、その欠陥とはいったい何だったのでしょうか?




いつも有難うございます。
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えめる なんだったのでしょうかニャ?
まったく分かりません。
って、こんなコメントしか出来なくて、恥ずかしいです。
あうあうー。
馬人 うーん、難しいですねw
この時代、理解するのに沢山の時間を要しますorz
おいおい!法王を幽閉したのかよっ!
平氏滅亡の理由、気になります~
えめるさんへ
黒田裕樹 > なんだったのでしょうかニャ?
> まったく分かりません。
> って、こんなコメントしか出来なくて、恥ずかしいです。
> あうあうー。
お気になさらずに(^^♪
これからしっかりと理解してくださいね(^_^)v
馬人さんへ
黒田裕樹 > うーん、難しいですねw
> この時代、理解するのに沢山の時間を要しますorz
確かに色んな要素が複雑にからみあっていますからね。
ただ、もつれた糸も「ある理由」で簡単にほぐれるんですよ。
> おいおい!法皇を幽閉したのかよっ!
> 平氏滅亡の理由、気になります~
いくら組織防衛のためとはいえ、法皇様を幽閉するのは、やりすぎですね。
しかも「第一号」だかた余計に叩かれるし…。
「開拓者」はいつの世も肩身が狭いものなんですね。
ぴーち なるほど、、強引気味に
疾走しようとすると、それだけ
風当たりも強いと言う事ですね。
重大な欠陥を、私に質問なさらないでぇ~~^^;
え?私だけにじゃないから、大丈夫だって?(笑)
でも、皆さんも悩んでいらっしゃるので、私が判らないのは
仕方がないかな(苦笑)
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > なるほど、、強引気味に
> 疾走しようとすると、それだけ
> 風当たりも強いと言う事ですね。
そうですね。無茶な方法はどうしてもしこりが残りますし、火種がある限りはいつ燃え上がるか分かりませんからね。
> 重大な欠陥を、私に質問なさらないでぇ~~^^;
> え?私だけにじゃないから、大丈夫だって?(笑)
> でも、皆さんも悩んでいらっしゃるので、私が判らないのは
> 仕方がないかな(苦笑)
いささか難しいでしょうか?(^^ゞ
次回(28日)以降から分かると思いますよ。
よくわかりません
オバrev やっぱ、やり過ぎたらいけないですね、いつの時代も。
でも権力持ったら、その辺が見えなくなるし、それを言ってくれる人もいなかったんでしょうね。
それにしても、頼朝、義経を生かしておいたことや法皇幽閉以上に重大な欠陥?
・・・貴族の仲間入りをしたのに、貴族特有のブラックジョークが言えなかったとか(?_?)?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > やっぱ、やり過ぎたらいけないですね、いつの時代も。
> でも権力持ったら、その辺が見えなくなるし、それを言ってくれる人もいなかったんでしょうね。
そのとおりですね。独裁者はいつの時代も孤独ですし、それゆえに行き過ぎた政治を行ってしまいがちです。
> それにしても、頼朝、義経を生かしておいたことや法皇幽閉以上に重大な欠陥?
> ・・・貴族の仲間入りをしたのに、貴族特有のブラックジョークが言えなかったとか(?_?)?
斬新な発想ですが(笑)、残念ながら違います。週末の二日間で詳しく解説していきますので、ご覧になって下さいね(^^♪
勝てば官軍
JJSG こんにちは。
勝てば官軍、弱肉強食。
よーするに、正しいも正しくないも、勝つか負けるかで決まってしまう。
現今の政治も、なんら変わらない。
今日ほめて、明日悪く言う人の口 泣くも笑うも、ウソの世の中。。。(一休)
世の中のこと、みなもって、そらごと、たわごと、まことあることなし。(歎異抄)
JJSGさんへ
黒田裕樹 > 勝てば官軍、弱肉強食。
> よーするに、正しいも正しくないも、勝つか負けるかで決まってしまう。
> 現今の政治も、なんら変わらない。
悲しいかな、そういう傾向が見られるのは仕方がないことかもしれませんね。
平家はこの段階では勝者ですが…。
平氏は荘園や知行国(ちぎょうこく)の他にも、日宋貿易(にっそうぼうえき)という大きな経済的基盤をもっていました。我が国と宋とはそれまで正式な外交を持っていませんでしたが、以前から民間の商船との交易は盛んに行われていました。清盛は摂津国(せっつのくに)の大輪田泊(おおわだのとまり、現在の神戸港の一部)を修築(しゅうちく)したり、音戸の瀬戸(おんどのせと、現在の広島県呉市付近)の海峡(かいきょう)を開いたりして、瀬戸内海の航路を整備して貿易の拡大に努めました。
貿易の主な輸出品は金や水銀、硫黄(いおう)などの鉱物(こうぶつ)や刀剣などの工芸品、あるいは木材などで、主な輸入品は宋銭(そうせん)や陶磁器(とうじき)、香料や薬品、書籍などでした。特に宋銭は我が国の通貨として流通し、貿易で得た莫大(ばくだい)な利益は、そのまま平氏の貴重な財源となりました。
こうして政治的・経済的に磐石(ばんじゃく、非常に安定していること)の体制を築いた平氏政権でしたが、平氏による権力の独占は、やがて周囲の反発を招くことになりました。中でも晩年の清盛を悩ませたのが、ある「大物政治家」による様々な行動でした。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
へえ~平清盛という人物は、
こんなに精力的に活躍された方だったんですか!
全く、存じませんでした^^;
そんな清盛にも苦手な方が居たんですね^^
どなたかしら・・。また、明日が楽しみです♪
それと、前回のコメントの件ですが、
ヘビーと言ったのは、黒田さんの記事にではなくて、
ブログサイトのサーバー不調?だったのか、
動作が遅くなってしまい、コメントがし辛い状況
だったんですよ^^;
勘違いさせてしまいまして、すみませんでしたm(__)m
それでは、凸
また、お邪魔しますね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > へえ~平清盛という人物は、
> こんなに精力的に活躍された方だったんですか!
> 全く、存じませんでした^^;
> そんな清盛にも苦手な方が居たんですね^^
> どなたかしら・・。また、明日が楽しみです♪
今日の記事は「政治家・清盛」を中心に書かせていただいております。
周囲を自分の一門で固めた上で、経済力を高めるために投資を行って莫大な利益を上げる…。これだけ聞けば、平氏政権に隙がないように見えるんですが…。
> それと、前回のコメントの件ですが、
> ヘビーと言ったのは、黒田さんの記事にではなくて、
> ブログサイトのサーバー不調?だったのか、
> 動作が遅くなってしまい、コメントがし辛い状況
> だったんですよ^^;
> 勘違いさせてしまいまして、すみませんでしたm(__)m
ありゃ、そうでしたか(^^ゞ
勘違いしてこちらこそ失礼しましたm(_ _)m
FC2は便利なんですが、こういう問題は困ったものですね…(´・ω・`)
私はやっぱり賢い?
清家淳子 大輪田泊は覚えてた(^-^)/
しかもおおわだのとまりとちゃんと読めた自分に感動(;_;)
すごい~私(=^▽^=)
でも後は分からなかったから凹んでました…
清家淳子さんへ
黒田裕樹 > 大輪田泊は覚えてた(^-^)/
> しかもおおわだのとまりとちゃんと読めた自分に感動(;_;)
それは良かったです(^_^)v
現在の神戸港の一部ですが、結構有名なのかもしれませんね。
> すごい~私(=^▽^=)
> でも後は分からなかったから凹んでました…
音戸の瀬戸は難しいですから、仕方ないですよ(´・ω・`)
おぉ
JJSG こんばんは。
おもしろくなってきました。
JJSGさんへ
黒田裕樹 > おもしろくなってきました。
有難うございます。
次回(27日)から、いよいよ平氏政権の「真の姿」を紹介することになりますので、よろしくお願いします。
1160年、清盛は正三位(しょうさんみ)に昇進して武士でありながら公家(くげ)の身分を得ることとなり、それまで貴族から見下(みくだ)されていた武士が、初めて公家=貴族の仲間入りをし、彼らと肩を並べることになりました。1161年には清盛の妻の妹で、後白河上皇に嫁いでいた平滋子(たいらのしげこ)が憲仁親王(のりひとりんのう)を産んだことで、後白河上皇との縁が近くなるなど、朝廷から着実に信頼を得た清盛は、出世街道を歩み続けることになりました。
そして1167年、清盛は従一位(じゅいちい)の太政大臣(だじょうだいじん)にまで昇進しました。また清盛は、憲仁親王が1168年に即位されて第80代の高倉天皇(たかくらてんのう)になられると、自分の娘である平徳子(たいらのとくこ)と従兄妹(いとこ)同士の結婚をさせて、二人の間に言仁親王(ときひとしんのう)がお生まれになると、親王が3歳の1180年に第81代の安徳天皇(あんとくてんのう)として即位させ、清盛はついに天皇の外祖父(がいそふ、母方の祖父のこと)となりました。
また、隆盛(りゅうせい)を極めた平氏の下には全国各地から500ヶ所以上の荘園(しょうえん)が集まると同時に、平氏が支配を任された知行国(ちぎょうこく)の数も全国の半数近くの30数ヶ国にまで拡大するなど、経済的な基盤(きばん)も強化されました。このような政治的・経済的な背景に支えられたことによって、武士(=平氏)が朝廷にかわって初めて本格的に政治の実権を握ることになりました。こうした平氏による政治のことを平氏政権(へいしせいけん)といいます。




いつも有難うございます。
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オバrev 平清盛は、武士であることを忘れ、貴族になろうとしたのかな。藤原清盛と名前変えてもいいくらいですね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 平清盛は、武士であることを忘れ、貴族になろうとしたのかな。藤原清盛と名前変えてもいいくらいですね。
今回も鋭いですね(^^♪
武士出身でありながら、やってることはそのまんまですからね。次回(26日)以降に詳しくご紹介できると思います。
ぴーち こんばんは!
こちらでは、清盛の湯というのがありまして、一度だけ入った事があります!
http://kiyomori.net/ofuro.html
それと記事に関係ないコメ次いでに、
今日は先生のブログ、非常にヘビーで
コメントが書き辛いです(><)
ですので、こんなコメで失礼します^^;
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こちらでは、清盛の湯というのがありまして、一度だけ入った事があります!
> http://kiyomori.net/ofuro.html
HPを拝見しましたが、落人伝説なんですね。源泉掛け流しとは贅沢(ぜいたく)な温泉です(^^♪
> それと記事に関係ないコメ次いでに、
> 今日は先生のブログ、非常にヘビーで
> コメントが書き辛いです(><)
> ですので、こんなコメで失礼します^^;
う~ん、難しかったでしょうか(^^ゞ
まぁ確かに難しい用語が並んでいますが、今日の流れをご理解いただいたうえでの話が続きますので、明日以降もよろしくお願いしますm(_ _)m
歴史
JJSG こんばんは。
そういった歴史があったから、今の世の中があるんでしょうね。
その歴史がなかったら、今の世の中はどうなっていたかなぁ。
JJSGさんへ
黒田裕樹 > そういった歴史があったから、今の世の中があるんでしょうね。
> その歴史がなかったら、今の世の中はどうなっていたかなぁ。
仰るとおり、今回の場合は「平氏政権」という「前例」があったればこそ、以後の歴史の流れが成立する訳です。平氏政権がなかったとすれば、貴族から武士への「政権交代」があれぼど上手くいったのか…。
正直言って見当もつかないですね。
しかし、前回のような理由で、頼朝をこのまま生かすことは危険極まりありません。清盛が無視して頼朝を処刑しようとしていることが分かると、池禅尼は「夫(清盛の父である平忠盛=たいらのただもり)が生きていれば、こんなつれないことは言わないだろうに」と泣き叫んだり、一説には断食(だんじき)まで始めたりするなど、清盛に対して激しく抗議しました。
こうなると、継母だけに実の母以上に押し切ることもままならず、清盛は仕方なく頼朝を生かして伊豆国(いずのくに、現在の静岡県の一部)へ流罪(るざい)としました。
一方、赤ん坊だった源義経(みなもとのよしつね)も、本来なら処刑されてもおかしくなかったのですが、こちらは義経の母であった常盤御前(ときわごぜん)が絶世(ぜっせい)の美女であったことで、常盤御前が清盛の愛人となることを条件に義経が助命された、と伝えられています。
いずれにせよ、この時に頼朝・義経兄弟を生かしてしまったことが、やがては平家の将来に暗い影を落とすことになるのですが、当時は日の出の勢いであった清盛が、そのことに気づくはずもありませんでした。




いつも有難うございます。
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華 お久しぶりです!
最近BLOG訪問できてなくて
すいません。
そしてコメとか拍手とかいつも
ありがとうございます∩^ω^∩
これからも頑張るのでよろしくお願いしますっ
華さんへ
黒田裕樹 > お久しぶりです!
> 最近BLOG訪問できてなくて
> すいません。
お元気そうで良かったです(^o^)丿
大事な時期ですから仕方がないですよ。お気になさらないで下さいね。
> そしてコメとか拍手とかいつも
> ありがとうございます∩^ω^∩
> これからも頑張るのでよろしくお願いしますっ
後もう少しの辛抱ですからね。夢がかなうよう祈ってます。
ぴーち こんばんは!
いつの時代も、絶世の美女は、それだけで
命拾いをして来たんですね!
当時の美女というと、何となく、百人一首に登場するような
女性を思い浮かべてしまいますが、
その時代、時代に美人として生まれて来ることが出来るのも、その方が持つ運なのでしょうね!
昔、ある授業で先生が、ある女生徒がブス!と言われて
泣いていたのを取り上げて、説明してくださったことがありました。。
誰が言われたとは一切公言はしませんでしたが、
女性はキレイな順に
「佳人」「麗人」「美人」「バックシャン(後ろ姿美人)」「ブス」「鬼瓦」「夕日の鬼瓦」「7人3化け」「3人7化け」
に分類されるそうです。(その先生の説)
従って、「ブス」はキレイな順番からすると、5番目にあたるので、落ち込むことは無い。
その下には、お化けなんだか、人なんだか区別がつかないくらいの顔の人もいるし、夕陽に照らされた鬼瓦は、
格別に怖いんだそう・・・^^;
まあ、それが本当かどうかは、知りませんが、
その先生の生徒への愛情だけは、私達にも伝わりました^^
私も・・・・良かったww(?)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 (こんなこと書いたら男女同権推進者に怒られそうですが)「女性の武器」はいつの時代も健在のようですね。一説によれば、義経だけでなく、母親の命を助けるためでもあったらしいです。
美女の概念は昔と今では違いますし、ましてや個人の好みの問題でもありますから、一概には言えませんからね。
私の好みは…そんな贅沢は言えません(笑)。
そうであったか
JJSG こんばんは。
そうだったんですねぇ。。。
助ける動機が不純ですな(笑)
もっと、真剣でマジメで、あたたかな気持ちから助けたならば、結果はまた変わっていたかも。
こみー 久しぶりのコメントですね(^_^;)
歴史ってなんかすごいですね。。。
最初の方見てたら、
「やっぱ母の力ってすごいな~」
って思ってたんですけど、後に
この母の力によって平家が衰退?していくなんて・・・
面白いような恐ろしいような、です(>_<)
JJSGさんへ
黒田裕樹 > 助ける動機が不純ですな(笑)
確かに頼朝の場合はともかく、伝えられている義経の場合の動機はあまり好ましくないですね(^^ゞ
> もっと、真剣でマジメで、あたたかな気持ちから助けたならば、結果はまた変わっていたかも。
その可能性もありますが、父や兄を殺されていますからね。「憎しみの連鎖(れんさ)」がどこで止まってくれるのかにもよるかもしれません。
こみーさんへ
黒田裕樹 > 久しぶりのコメントですね(^_^;)
そうですね(笑)。まぁ毎日のようにブログを行き来していますけど(^^ゞ
> 歴史ってなんかすごいですね。。。
> 最初の方見てたら、
> 「やっぱ母の力ってすごいな~」
> って思ってたんですけど、後に
> この母の力によって平家が衰退?していくなんて・・・
> 面白いような恐ろしいような、です(>_<)
母の力にはやっぱり逆らえませんよね。でもその「甘さ」が平家の命取りになるんですから、確かに「面白いような恐ろしいような」だと思います。
miwa 歴史の陰に女性あり。いつの世も同じですね^^
どんな権力がある武将でも、お母さんには逆らえなかったり、綺麗な女性には甘かったり。
昔はしもぶくれの顔が美人の定義だったそうですが、
常盤御前はどんな美女だったのでしょう。見てみたい。
miwaさんへ
黒田裕樹 > 歴史の陰に女性あり。いつの世も同じですね^^
> どんな権力がある武将でも、お母さんには逆らえなかったり、綺麗な女性には甘かったり。
全くそのとおりですね。いつの時代も男性は女性に弱いようで(笑)。
> 昔はしもぶくれの顔が美人の定義だったそうですが、
> 常盤御前はどんな美女だったのでしょう。見てみたい。
この頃もおそらく「おかめ」顔が主流だったでしょうからね。しかし、子供を何人も産んだ女性が愛人になるんですから、ある意味たくましくもあります。
義朝には多くの子がいましたが、平治の乱で戦死したり、あるいは捕らえられたりして壊滅(かいめつ)状態となりました。長男の源義平(みなもとのよしひら)も、父の最期を知ると平清盛を暗殺しようとしましたが果たせず、捕らえられて処刑されました。その他にも、三男で当時14歳だった源頼朝(みなもとのよりとも)や、九男でまだ赤ん坊だった源義経(みなもとのよしつね)らも捕らえられ、清盛の前に引き出されました。
選挙という民主的な手段がある現代とは違って、昔は政敵(せいてき)とみなされた人物は、本人のみならず、子供であろうが一族もろとも殺されるのが常(つね)でした。なぜなら、身内を殺されたことで残った恨みは消えることなく、当時の子供がそのまま大人になれば、復讐のために自分の生命を奪おうとするのが十分考えられたからです。
こうした原則から考えれば、清盛によって捕らえられた頼朝や義経らの運命も風前の灯(ふうぜんのともしび)であり、いつ殺されてもおかしくないはずでした。しかし、清盛は、結果として彼らを処刑することはありませんでした。なぜ清盛は頼朝や義経らの生命を助けたのでしょうか?




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馬人 >本人のみならず、子供であろうが一族もろとも殺される
なんてひどい!!
人権なんか関係なしの時代ですもんねorz
でも、どうして清盛が一族を殺さなかったのか気になります。。。
智里 うわ~、なんで殺さなかったんだろう?
いままでのクエスチョンの中で1番興味深いっすね。
この時義経を殺していたら、未来は全然違うものになったんだろうな~。
歴史の1ページが変わるくらいの出来事、すっごく気になります!!
馬人さんへ
黒田裕樹 人権という概念ができたのは早くても近世~近代ですからね。「力あるものが勝つ」世の中では仕方がないことだったんです。
清盛の謎については、明日以降に紹介できると思いますよ(^^♪
智里さんへ
黒田裕樹 半分がクエスチョン形式で終わるとんでもない講座(笑)ですが、やはりインパクトがありましたようですね(^^♪
頼朝も義経も殺せなかった理由。ヒントを挙げれば、政治の世界では「非情」も重要な要素の一つです。それができなければ…。
えめる ヒントもらってもわからニャイにゃー。
なんにせよ、利用価値があったから。どんな利用価値なのー?
そして、とってもひどいことなわけニャね?
あうーきになるきになるー。
次回を楽しみに待つニャ。
えめるさんへ
黒田裕樹 > ヒントもらってもわからニャイにゃー。
> なんにせよ、利用価値があったから。どんな利用価値なのー?
> そして、とってもひどいことなわけニャね?
「利用価値」ですか。上手いこと仰いますね(^^ゞ
どちらかはそのとおりで、結果もそのとおりかもしれません。
> あうーきになるきになるー。
> 次回を楽しみに待つニャ。
明日(24日)の正午までお待ちくださいm(_ _)m
刑事A 続きが気になります。
義朝をだましたのは誰かのお母さんじゃありませんでしたか?
管理人のみ閲覧できます
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刑事Aさんへ
黒田裕樹 義朝を殺害したのは、家来であった長田忠致(おさだただむね)で、記事のとおり義朝が入浴中に、長田父子がだまし討ちで倒しています。
続きは明日(24日)にUPしますので、また是非お越しください。
あわれ
JJSG こんばんは。
あわれ、自因自果でござる。
歴史から学んだか。
清盛はどうするのか、明日を楽しみに。
一方、保元の乱の戦功によって、平清盛や源義朝にも恩賞が与えられましたが、北九州の大宰大弐(だざいのだいに)に任じられて、中国の宋(そう)との貿易である日宋貿易(にっそうぼうえき)にかかわるようになり、経済的実力が高まった清盛に比べれば、義朝には十分な恩賞が与えられなかったばかりか、父である源為義を自らの手で処刑したことで、周囲から「父殺し」とさげすまれるなど、不満が高まっていました。
義朝は、同じように信西に不満を持っていた藤原信頼とやがて結びついて、1159年に清盛が熊野詣(くまのもうで)に出かけた隙(すき)をついてクーデターを起こし、後白河上皇や二条天皇を軟禁(なんきん、身体は自由にしておくが、外部との接触を許さない状態におくこと)したうえで、信西を追い込んで自害させることに成功しました。
しかし、急を聞いて京へ戻った清盛によって後白河上皇と二条天皇が脱出に成功されると、信頼や義朝は一転して賊軍(ぞくぐん)となり、清盛軍と戦って敗れた義朝は再起を期して逃亡し、逃げ切れないと思った信頼は後白河上皇を頼って自首しましたが、結局は処刑されました。この戦いを当時の年号から平治の乱(へいじのらん)といいます。




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JJSG こんばんは。
なんだか、とっても、なつかしいといいますか。
とっても、勉強になりました。
日本史は、苦手なんですけどね。
こうして、勉強すると、なんか、すごくわかりやすい。
JJSGさんへ
黒田裕樹 いつも励ましのお言葉をいただきまして有難うございます。
日本史が苦手と思われていらっしゃる方にも、是非私の講座でご理解いただければと常に感じております。今後ともよろしくお願いします。
後白河天皇との思い出
清家淳子 後白河天皇様。
試験の時、後を抜かし、白河天皇に早変わりさせてペケをくらいました思い出が…。
すごい嫌な思い出を思い出しました(Θ_Θ)
ここら辺は、何か歴史の中でも点数悪かったなぁ…。
自分が興味がないとなかなか覚えられない(*u_u)
だから興味津々な戦国時代は大好き(^O^)/
でも三十路越えすると忘れていく…
黒田先生の戦国時代のご講義の時には、更にど忘れしてそう…
清家淳子さんへ
黒田裕樹 > 試験の時、後を抜かし、白河天皇に早変わりさせてペケをくらいました思い出が…。
> すごい嫌な思い出を思い出しました(Θ_Θ)
確かに間違えやすいですね(^^ゞ
白河天皇と後白河天皇のご健在の時期が、100年ほどしか違わないことも、ややこしさに拍車をかけていると思います。
> ここら辺は、何か歴史の中でも点数悪かったなぁ…。
> 自分が興味がないとなかなか覚えられない(*u_u)
> だから興味津々な戦国時代は大好き(^O^)/
自分の得意分野というのは誰しもが持っているものです。ただ、歴史はすべてがつながっていますので、時代背景をつかむためにも、ある程度の理解はできたほうがいいですよ。そのための講座でもありますし(笑)。
> でも三十路越えすると忘れていく…
> 黒田先生の戦国時代のご講義の時には、更にど忘れしてそう…
四十路の私にできるんですから大丈夫ですよ(^o^)丿
紗妃ママ 義明かわいそうと思っちゃいました。
歴史って奥がものすごく深いんですね~
うちの父親が 歴史が大好きなのがよくわかります。
旦那さんも話しだしたら長いし、 これは一様に語れませんね。
それがおもしろいところなんですね♪
紗妃ママさんへ
黒田裕樹 清盛と比べれば出世はできず、進んでやったわけでもない「父殺し」の汚名を着せられ、クーデターを起こせば失敗する…。義朝は確かに気の毒でもありますね。しかも、逃亡したその後で…。
お父様も旦那様も歴史好きなんですね。それぞれに思われることがおありでしょうし、確かに話し出したら止まらないでしょうね。仰るとおり、それが歴史の面白さなんですよ。
紗那 やはり、権力握ると対立するのですか。藤原氏と変わりませんね。 変わったのは、武士が介入してることくらいですか。
でも、それが、今までとは全然違った感じになってます。
義朝さん、すごく不憫です。親殺しと言われても、自分がやりたくてやったわけでもないでしょうに・・・ クーデターも結局は失敗とは、悲しいことです。
確かにここまで平家との扱いが違うと、確執が起こるのも頷けますねー。
歴史は川の流れ
オバrev 保元の乱と平治の乱という名前だけしか覚えていませんが、欲と欲がぶつかり合う壮絶な争いがあったんですね。
そして武士である平氏が、いよいよ天下を取るわけですか。
その武士も突然ではなく時代の流れの中で必然的に台頭してきた。
こうしてじっくり歴史を教えていただいていると、事件や年号だけを覚えていた頃と違い、歴史は川の流れのように繋がっていて流れているものだと実感しますね。
紗那さんへ
黒田裕樹 > やはり、権力握ると対立するのですか。藤原氏と変わりませんね。 変わったのは、武士が介入してることくらいですか。
> でも、それが、今までとは全然違った感じになってます。
確かにやることは同じですが、武士が直接かかわってきたことで、今後の展開が全く異なっていきます。彼らには自前の武力がありますからね。
> 義朝さん、すごく不憫です。親殺しと言われても、自分がやりたくてやったわけでもないでしょうに・・・ クーデターも結局は失敗とは、悲しいことです。
> 確かにここまで平家との扱いが違うと、確執が起こるのも頷けますねー。
上手くいかないときは、何をやっても上手くいかないものですね。ただ、この当時の平家と源氏とはただでさえ大きな差がありましたから(昇殿が許された平家と、乱を起こしてから落ち目の源氏)、仕方がない面もありました。それゆえに、クーデターを起こすという無理を通さざるを得なかった義朝の悲しさもあります。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 保元の乱と平治の乱という名前だけしか覚えていませんが、欲と欲がぶつかり合う壮絶な争いがあったんですね。
政治の実権をめぐっての、仰るような壮絶な争いでしたね。勝ち残ったのが誰かといいますと…。
> そして武士である平氏が、いよいよ天下を取るわけですか。
> その武士も突然ではなく時代の流れの中で必然的に台頭してきた。
> こうしてじっくり歴史を教えていただいていると、事件や年号だけを覚えていた頃と違い、歴史は川の流れのように繋がっていて流れているものだと実感しますね。
全く同感です。流れは着実に武士に向かっています。ただ、一度流れてそれで終わり、というほど単純でなかったのがまたミソなんですよね。いずれ明らかにできると思います。
叔父を斬った平清盛はまだしも、この世に命を与え、育ててくれた恩人である父親に対して、自らの手でその首をはねなければならなかった源義朝の心中(しんちゅう)はいかばかりだったでしょうか。
一方、讃岐国(さぬきのくに)に流された崇徳上皇は、自らの行いを反省される意味も込めて、膨大(ぼうだい)な数の写経(しゃきょう)を行われました。写経を完成された崇徳上皇は、しかるべき寺に納めてほしいと願われ、経典(きょうてん)を都へと送られました。ところが、朝廷では「写経に呪(のろ)いが込められているのでは」と邪推(じゃすい、悪いほうに推測すること)して、無情にもそのまま送り返してしまいました。
朝廷のあまりにも冷たい仕打ちに崇徳上皇は激怒され、ご自身の指を食い破り(舌の先を噛み切った、ともいわれています)、流れ出た血で写された経典のすべてに「日本国の大魔王(だいまおう)となって、皇室を没落させて平民をこの国の王にしてやる」という呪いの言葉を書かれました。その後は髪もツメもヒゲも伸ばし放題のお姿となり、1164年に46歳で崩御されました。ご遺体が火葬(かそう)された際に、その煙が都の方角へ向かってたなびいていったという伝説が残されています。
崇徳上皇の崩御からわずか数年後には平民である武士が太政大臣(だじょうだいじん)となり、さらに30年弱の後には武士による本格的な政権が誕生し、朝廷が政治の実権を完全に失ってしまう事態となるなど、崇徳上皇がかけられた「呪い」は、やがては現実のものとなってしまったのでした。




いつも有難うございます。
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えめる ひどい方法を取ったものニャね……。
このときの権力者、勝者とは、実に心がすさんだものニャね。
崇徳上皇の無念、胸にせまるものがありますニャ……。
力を持った途端、人が変わるのは、人間の常ニャ。
でも、偉い立場だから何をしても許されるなんてこと、ないですよね。
本当に偉い人は、常に自分を戒めて生きているはずです。あ。なんだか聖徳太子を思い出した。
宝くじ当たったら。えめるも人が変わるのだろうか。
変わるのだろうか……。いいほうにかわるならいいね。
変なたとえでわからないこと言ってスミマセン。(^^
えめるさんへ
黒田裕樹 > ひどい方法を取ったものニャね……。
> このときの権力者、勝者とは、実に心がすさんだものニャね。
> 崇徳上皇の無念、胸にせまるものがありますニャ……。
死刑の執行を身内にやらせたのは「自分たちの手でけがれたことをしたくない」というわがままと武士に対する差別意識がありました。また、崇徳上皇のせっかくの経典を送り返したのも、呪いに対する恐怖感がありました。両方とも、いくら当時の事情があるとはとはいえ、やるせなさを感じる話ですね。
> 力を持った途端、人が変わるのは、人間の常ニャ。
> でも、偉い立場だから何をしても許されるなんてこと、ないですよね。
> 本当に偉い人は、常に自分を戒めて生きているはずです。あ。なんだか聖徳太子を思い出した。
私もそう思います。聖徳太子が後世の人間によって「聖人化」されたのも、個人の資質はともかく、裏表ない政策が評価されたからでしょう。
> 宝くじ当たったら。えめるも人が変わるのだろうか。
> 変わるのだろうか……。いいほうにかわるならいいね。
> 変なたとえでわからないこと言ってスミマセン。(^^
こればっかりは分かりませんが、働かなくなってしまって人生が暗転するいう話も聞きますので、精神力が強いほうがいいかもしれません(^^ゞ
ぴーち こんばんは!
おお!黒田さん、ご自分のイメージカラーにされましたね^^
今までも明るく活気があるテンプレでしたが、今回は
とっても落ち着いた雰囲気で、素敵です。
それにしても、今日のお話は、壮絶ですね^^;
崇徳上皇への仕打ちも、勿論酷いものですが、まるで「末法思想」そのもののような地獄絵図を連想させる末路だったんですね(><)
人の想念とは、命が絶たれる寸前に一番強い念となって、想いが残るそうですが、
そんな恨みの思いが、その後の政治に本当に影響していくなんて、
まさに「事実は小説より奇なり」・・。
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > おお!黒田さん、ご自分のイメージカラーにされましたね^^
> 今までも明るく活気があるテンプレでしたが、今回は
> とっても落ち着いた雰囲気で、素敵です。
有難うございます、と言いたいのですが…(^^ゞ
実は変更した直後に「プラグイン非対応」や「コメントの題名が出ない」などという不具合が見つかりましたので、結局元に戻しました。ご了承くださいm(_ _)m
> それにしても、今日のお話は、壮絶ですね^^;
> 崇徳上皇への仕打ちも、勿論酷いものですが、まるで「末法思想」そのもののような地獄絵図を連想させる末路だったんですね(><)
> 人の想念とは、命が絶たれる寸前に一番強い念となって、想いが残るそうですが、
> そんな恨みの思いが、その後の政治に本当に影響していくなんて、
> まさに「事実は小説より奇なり」・・。
崇徳上皇のお立場からしてみれば、「そこまで自分をコケにするのか」という絶望感が、果てしないお怒りに転じられたのでしょう。元天皇というお立場の方に、そこまでの激しい感情を抱かせる時点で、平安末期の朝廷には為政者としての価値があったのか、と疑問に思わざるを得ません。
オバrev 平安時代とは言いながら権力争いは全然平安じゃありませんね。惨すぎて、いったいどのような心理状態だったのか想像もつきません。
保元の乱という名前は知っていましたが、そこでこれほどの骨肉の、惨い争いがあったとは驚きです。
しかし、これが歴史の事実なんですね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 平安時代とは言いながら権力争いは全然平安じゃありませんね。惨すぎて、いったいどのような心理状態だったのか想像もつきません。
仰るように、現代に生きる私たちには想像を絶する世界ですよね。いくら価値観が違うとはいえ、まともな人間にできることとは思えないのですが…。
> 保元の乱という名前は知っていましたが、そこでこれほどの骨肉の、惨い争いがあったとは驚きです。
> しかし、これが歴史の事実なんですね。
冷徹ではありますが、そのとおりです。そして、この後の展開はさらにややこしくなっていくのです。
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なんと
JJSG 実の父親を自らの手で処刑させられるとは。。。
なんともむごい。
呪いによって、なにかが起こる、というのは完全な迷信です。
たとえ、それが現実のこととなったとしても、それが原因ではありません。
ここを間違えると、大変なことになります。
JJSGさんへ
黒田裕樹 > 実の父親を自らの手で処刑させられるとは。。。
> なんともむごい。
本当にそうですよね。源義朝の気持ちになってみると、一層のやるせなさを感じます。
> 呪いによって、なにかが起こる、というのは完全な迷信です。
> たとえ、それが現実のこととなったとしても、それが原因ではありません。
> ここを間違えると、大変なことになります。
現実は仰るとおりですし、現代に生きる私たちなら自覚できるかもしれませんが、当時の人々はそう考えていなかったのも事実です。それゆえに、崇徳上皇はこの後も「怨霊」として恐れられるようになります。
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