江戸時代の初期に盛んに行われた事業の一つに新田開発(しんでんかいはつ)がありました。世の中が平和になったことで人口が増加し、大勢の人を食べさせるために新たな開墾(かいこん)が必要になったからです。それ以外にも人々の暮らしの向上のために多くの道路や橋などが造られました。これらのいわゆる公共事業の資金には農民からの税が充(あ)てられ、当時は収穫の70%が税となる「七公三民」が当たり前でした。
しかし、新田開発が限界に達して、公共事業も一段落すると、それまでの多額の納税が不要となり、税率が少しずつ下がっていきました。一説によれば、綱吉政権の末期には「三公七民」状態であったとされています。農民や庶民の暮らしが向上したことで、それまでは生活に余裕のなかった自給自足の生活から、消費経済、さらには貨幣経済の暮らしへと変化していきました。
世の中が減税となれば、人々の暮らしに余裕が生まれます。余裕のある暮らしの中から、多くの人々は「遊び」を求めるようになり、そのニーズに応える形で様々な「文化」が生まれます。冒頭で述べた元禄文化も、このような状況から生まれ、栄えたのでした。
景気が良くなってモノが売れれば、それに見合うだけの貨幣も必要になりますが、実はこの頃、江戸幕府の所有金銀は底をついていました。オランダや中国との貿易で我が国から輸出できる目ぼしいものがなかったことで、幕府は所有の金銀を惜しげもなく支払いに使っていましたが、やがて金山や銀山からの発掘量が激減してしまい、貨幣を発行しようにも金銀が不足するという有様になっていたのです。
こうした非常事態に、綱吉は経済に詳しかった荻原重秀(おぎわらしげひで)を抜擢(ばってき)して、彼に経済対策を一任しました。重秀は綱吉の期待に応え、同じ一両でも金の含有率(がんゆうりつ)を従来の84%から57%に落とすことで貨幣の量を増やし、従来の小判と同じ一両として引き換えることで、含有の金の量の差がそのまま幕府の収入につながるという、まさに一石二鳥(いっせきにちょう)の策で乗り切りました。なお、この時に発行された小判を元禄小判(げんろくこばん)といいます。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
JJSG 新田開発でしたかぁ。
しかしながら、経済も発展して、文化も発展して、いろいろとやったんですねぇ。
すばらしい将軍なのに。。。
なんで、お馬鹿将軍になっちゃうのかなぁ。。。
ぴーち こんばんは!
金の含有量を減らすとは、合理的な策を考えだしましたね^^
最近の経済危機にも、確かに
素材の容量はそのまま、でも、含有率を低下させた
物が商品化されて、出回っているものが多いですね。
やはり、危機的状況の時は、それなりの対処が必要になって来ますね。
それでは、只今、お留守中だろうと思いますが、
応援させてくださいw
トップで国は変わる
オバrev ひょとして、黄金を産出する国、ジパングと呼ばれていたのはこの頃ですかね?
日本も昔は、現在の南アフリカのような国だったのかもしれませんね。
噂によると、ドル安の中、中国始め各国は金保有率を高めていますが、日本は敗戦国のため、金保有率が制限されているそうです。今やっとDDPの2%?
しかし、実は表に出ない金を、徳川幕府以来保有しているという噂もあるけど、真実は分かりません(^^;)
いずれにしてもトップの考えで国の状態は大きく変わると言うことは確かですね。
こんばんは
安眠癒しグマ いつも勉強させていただいております。
私の地域では今インフルエンザが流行っています。
私も今日の夕方からゾクゾクします><
黒田さんも気をつけてくださいね。
ポチ♪
miwa 綱吉さん今まで誤解していて本当にごめんなさい。
と言いたいですね。
過去の話とは言え、この日本で政治経済を担う座にいる方が
政治的手腕を振るう話を聞くのはとても癒されます。
Good Job!
オバrev 2ndコメになりますが、綱吉はやり手ですね。
金の含有量を落とすとは、金本位制を半分破棄するようなものですが、アイデアとしては素晴らしいです。お見事です。
しかし江戸時代ってのは、大きな戦争のない時代で、現代と共通するところは大いにあるんじゃないでしょうか。
marihime 黒田さんこんばんは☆
一言だけ書かせてもらいますね。
柳沢吉保はただの側用人ではなかったと思っています。
綱吉の評判を落としたのも柳沢吉保が大きく関わっていると思います。
側用人から大老になり、大名にまでのしあがったのは吉宗の腰巾着大岡忠相の息子大岡忠高の2人だけです。
私は綱吉の政策をゆがめたのは大老の地位を利用した柳沢吉保じゃないかと思うのですが?
JJSGさんへ
黒田裕樹 治安が良くなって、生きていく余裕ができれば、自然と生活のレベルの向上を目指すものですからね。その手助けをするのが政治の役目であれば、綱吉の政策は理にかなったものといえるでしょう。
> なんで、お馬鹿将軍になっちゃうのかなぁ。。。
いずれは明らかにしますが、もう少しお待ち下さいm(_ _)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 質を下げた商品というのは一般的に敬遠される傾向がありますが、値段のことを考えれば受け入れるのもひとつの選択肢ですよね。
ましてや貨幣は本来は質や量とは無縁のものですから(これについては次回の更新で明らかにします)、経済の危機に対して現実的かつ柔軟な対応ができると思います。
先ほど帰ってまいりました(笑)。お気遣い、有難うございます。
オバrevさんへ
黒田裕樹 何度もコメント下さって有難うございます。まとめてコメ返させていただきますね(^^♪
「黄金の国ジパング」と呼ばれていたのはマルコ=ポーロの時代ですから、13世紀の頃からですね。ただ、戦国時代後期から江戸時代前期にかけては、海外からもたらされた鉱山技術の進歩もあって、我が国が有数の金銀産出国であったのは事実です。しかし、資源はやはり限りあるものですから、綱吉の時代には残念ながら枯渇してしまったのです。
「金本位制の半分破棄」とのお言葉、さすがはオバrevさんですね(^_^)v
これに関しては綱吉のアイディアというよりも、彼によって見出された荻原重秀の功績でしょう。彼の真意については、次回以降の更新で明らかにします。
確かに江戸時代は幕末まで大きな混乱はなかったですから、現代と共通する要素がありますね。ただ、今の状況は綱吉の時代というよりも、どちらかといえば「黒船来航前夜」の雰囲気が漂っているような気がします(´・ω・`)
さて、綱吉の功績は生類憐みの令だけではありません。綱吉によって「悪政」とされている他の事項についても考察してみましょう。
まず柳沢吉保による「政治の私物化」ですが、これは全くの誤りです。吉保の立場はあくまで側用人であり、老中からの意見をまとめて綱吉に報告し、意見をうかがうことがその主な業務でした。実は、このシステムは綱吉自身が考えたことなのです。
家康の独断によって始まった江戸時代の政治でしたが、第2代将軍の徳川秀忠(とくがわひでただ)以後は老中が意見をまとめて将軍に決裁を依頼し、将軍が事実上何の意見も述べずに承認するという形式が続きました。聖徳太子(しょうとくたいし)による「話し合いの精神」というわけではないですが、世の中が平和な頃は家柄や身分で政治を行ってもそれほど大きな問題にはならなかったからです。
しかし、世の中が変革を必要としているときは、その道に詳しいものでないと政治を任せられません。たとえ身分が低い者であっても、優秀であれば登用したいのですが、従来の「話し合い」による身分秩序ではどうにもなりません。そこで綱吉は、大老の堀田正俊が暗殺された後に、老中のうえに側用人を置いて、彼をワンクッションとして将軍自身の意見が通るようにシステムを一新したのです。
このような天才的なシステムを発想できるというのも、綱吉の素晴らしい一面ですね。さて「世の中が変革している」と先ほど書きましたが、綱吉の治世の間には、少なくとも2つの改革が必要でした。一つは生類憐みの令による武士や庶民の意識の変革でしたが、もう一つとは何だったのでしょうか?




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
JJSG 政治、統治として、自分の意見をしっかり反映できるようにワンクッション置くアイデアはすばらしいですね。
さて、もうひとつとはなんだろな???
先生、わかりません!!
JJSGさんへ
黒田裕樹 「話し合いの精神」を重視する関係で、独裁者を嫌う傾向が我が国にありますから、ワンクッションを置くという綱吉の発想は私も素晴らしいと思います。
先述したように、生類憐みの令以前の江戸時代の社会は、戦国の遺風の影響で殺伐とした雰囲気が残っていました。町では些細(ささい)なことから喧嘩が起きるだけでなく放火や辻斬りが横行し、病気などで苦しむ人々がいても誰も目を向けず、ゴミは散らかし放題で、動物も役に立たなければ捨てられるというひどい有様でした。
そんな風習が、生類憐みの令によって綺麗さっぱり一掃されてしまったのです。確かに人間よりも動物の方が大切であるかのような法令には行き過ぎた問題がありました。しかし、年月の経過とともに骨の髄(ずい)にまで染み付いてしまった「戦国の遺風」をなくすためには、ある意味では「劇薬」ともいえるショック療法が必要だったのも事実なのです。
例えば、戦国時代の武将であった織田信長(おだのぶなが)の領地では、たとえ一銭であっても盗めば首が飛ぶ「一銭斬り」というとんでもない法令がありました。しかし、この法令があったお陰で、信長の領地では夜道を女性が一人で歩けるほど安全になったという記録が残されています。信長による無茶な法令に比べれば、約20年間で69件しか処罰されず、死罪も13件しかなかった生類憐みの令の方がよほどマシだと思いませんか?
江戸時代には長屋の「熊さん八っつあん」に代表されるような「助け合いの精神」があったと言われていますが、初期はむしろ全く逆でした。それが綱吉の出した法令によって180度転換し、生命を大切にするとともに、相手の立場を尊重するという道徳心をもたらし、それが現代にまで続いているのです。
ここまで生類憐みの令について色々と述べてきましたが、法令だけで人々の意識を完全に、それも良い方へ変えてしまうなんて、本当に凄いことなんですよ。
しかし、人間は「空気のように当たり前」のことであれば、その原因を忘れてしまうことがよくあります。いずれ別の機会で紹介しますが、織田信長が政教分離(せいきょうぶんり、政治と宗教とを分けて互いに干渉することを禁止すること)を果たしたのと同様に、綱吉の奇跡ともいえる法令による人々の意識の大変革も、歴史の流れの中で忘れ去られてしまっているのです。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
なみなみ こんばんは。
歴史は一部分だけをつまみとって
どうこう言ってはダメですね。
流れと背景をきちんと把握しないとダメだって
のがよくわかる例だと思いました。
生類憐みの令も、
今の価値判断基準で見ると奇異に映りますが、
当時の世相を鑑みるとある程度理解が出来るんですねー!
今回も、勉強になりました!
marihime 黒田さんこんばんは☆
よく講座で採り上げてくれましたね。
私の調べてたことがそっくり話されていて嬉しく思います。
この後が面白くなりそうで期待してますよ。
そろそろ吉宗が紀州で牙を剥いている時代と重なりそうですね。
ポチ
管理人のみ閲覧できます
-
スカイラインV35 最近、初心に帰って歴史を学ぼうと思って、NHKの”高校講座 日本史”をインターネットで視たりもしているのですが、その中で確かに”生類憐みの令”は捨て子や病人など弱者の保護や、野犬対策などの(戦国時代の遺風を改める的な)意味も含まれていると出ていました(10/24以前の放送だったのですが、営業妨害になるかと思いコメントは控えていました..)。
それにしても”天下の悪法”と言われていたのに(何百年もかかったとはいえ)時代は変わったのですね。という事は政治とは厳しいもので、ポピュリズムだけではダメという事だと思いました。
えめる どんな事柄も、見る角度を変えるとまったく別の姿が浮かび上がってくる……。
うーん。政治家のお偉いさん達、世の中のオリコウな人たち。いや、みんなだニャ。
歴史、勉強しなおしたらいいと思った。って、いつも言ってる気がする。
歴史って、面白いニャね(^^
歴史が面白いと思えるニャンて、先生のおかげニャ。
物覚えの極端に悪いおねこより。にゃは。
ふぃる 歴史の苦手な息子の為に
ここでのブログで得た知識を息子に披露しようと
時々見せてもらってましたが
私が思ってた生類憐みの令とは全く違ってて
この法令は良かったんだと思いました。
それに約20年間で69件しか処罰されず、死罪も13件って
数字が驚きです!
テレビや歴史の小説などは、すごく多くの人が
処罰や死刑をされてると思ってました。
驚きでしたのでコメントさせて頂きました^^
なみなみさんへ
黒田裕樹 全く仰るとおりです。時代背景や流れが理解できない歴史教育は、単なる暗記科目になってしまいますから、覚えたとしてもすぐに忘れるし、一面からしか歴史を見ないがゆえに、偏った考えが身についてしまいます。
また、一見訳の分からない制度であっても、それを現代の価値観で見るのでなく、当時の事情をよく理解しないと、まさに「木に竹をつぐ」おかしな知識しか得られない。
生類憐みの令が我々に残した課題は、実はとてつもなく大きなものかもしれませんね。
marihimeさんへ
黒田裕樹 marihimeさんのお考えとほぼ一致しているとは光栄です(^_^)v
この後はしばらくは生類憐みの令から離れて、綱吉の「もう一つの顔」について取り上げる予定ですので、こちらもご期待下さいね(^o^)丿
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 そうですか。NHKでも綱吉の功績が見直されているのは嬉しい限りですね。コメントに関するご配慮、感謝いたしますm(_ _)m
ポピュリズムは一時は庶民の喝采を呼ぶものの、衆愚政治の温床となりがちですから、長い目で見れば、やはり「良薬は口に苦し」という厳しい姿勢も必要ですよね。人間としてのしつけや尊厳と一緒だと思います。
えめるさんへ
黒田裕樹 「自分が偉い人間だ」と思っている人間ほど、実は「世間知らずの歴史知らず」なんですよね。どこかの国のトップがそうであるかのように(笑)。
歴史に関するお言葉、光栄です。でもえめるさんがそう思えるのは、えめるさんご自身が歴史を学ぶ姿勢を完全に自分のものにされつつあるからこそですよ。私はそのきっかけをつくったのに過ぎません。
では、生類憐みの令によって数十万人の罪人を出したという話はどう説明できるのでしょうか。実は、これも真っ赤なウソなのです。
生類憐みの令によって処罰された例は、約20年間で69件に過ぎません。しかも、処罰の対象者のうち3分の2に当たる46件は下級武士であり、町人や農民よりもはるかに多くなっています。加えて69件のうち死罪になったのがわずか13件しかなく、流罪(るざい)も12件のみという、伝説を信じ込んできた人々には耳を疑いたくなる現実もあります。
さらに、生類憐みの令を勧めたとされる僧の隆光ですが、隆光が綱吉と面会したのは1686年ですから、それ以前の1685年に発布された生類憐みの令に関係しているはずがないですし、柳沢吉保もこの頃には身分が低く、政治に直接関係する立場ではありませんでした。従って、この二人もある意味「いわれなき罪」を着せられているといえます。
ここまで生類憐みの令に関する真実を追究してきましたが、それよりももっと重要なことに私たちは目を向けなければなりません。何だと思いますか?
それは、現代の私たちに当たり前のように備わっている「ある精神」です。




いつも有難うございます。
生類憐みの令は、そういう名前の法令が出されたわけではありません。約20年の間に少しずつ増えてゆき、最終的に135個の法令が出されたものを総称して名付けられたものです。また、その種類は広い範囲にわたっており、犬に関するものは33件と、全体の約4分の1に過ぎません。
数多くの法令の中には、鳥類などを口にしてはいけないという食卓での禁令など、次第にエスカレートしたものが多かったのは事実です。しかし、法令の底辺にあったのは、まぎれもなく「動物愛護」から「人命尊重」へとつながる確固たる綱吉の意思でした。
例えば犬に関する様々な法令には、先述した野犬化による病原菌のまき散らしを防ぐとともに、人々を襲うようになる前に保護しようという考えがありました。同じく先述した病気になった牛馬をきちんと療養させることや、捨て子の禁止、あるいは人が旅先で病気になっても旅籠(はたご)で面倒をみることなども義務付けています。
中野の巨大な犬小屋ですが、これは「いくら禁令を出しても捨て犬などの行為が後を絶たないため、幕府でまとめて保護をする」という考えから造られた「野犬化防止施設」でもありました。しかも犬小屋の運営費用は幕府が出す一方で、エサ代は飼い主から出させているのです。
飼っていた犬や猫を捨ててしまうことで野生化し、問題になることは現代でもありますね。それを公費で養う一方で、飼い主にも相応の負担をさせているのですから、綱吉の考え方は結果として現代よりもよっぽど進んでいるといえると思います。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
JJSG ものすごいたくさん、細かい法律を作ったんですね。
細か過ぎて、理解されなかったのでは、とも思いますが、根底には、ちゃんと考えがあったのですね。
とはいえ、やっぱり細か過ぎて、理解されなかったんだろうなぁ。。。
政治、法律とは難しいものです。
JJSGさんへ
黒田裕樹 135もある法令は、確かに日常生活の細かいことまで書いてありました。
自らの理想の実現という大きな理想はありましたが、仰るとおり細か過ぎるがゆえに、趣旨が理解されぬままに時間だけがむなしく過ぎていったところが見受けられます。
政治や法律の難しさや限界といったところでしょうか。ただ、長年続いた法令によって、確実に変化していったものもあったのです。
h.hamauzu こんばんは!
天下の悪法のように習った一人です。
黒田先生がここで書いてあるようなことは、
学校の先生方は、もちろんご存知なんでしょうね…?
教えることが多すぎて、深く掘り下げることが出来ないのも有るでしょうが、
果たしてそれだけでしょうか…?
いろいろと勘ぐりたくなりますね…
h.hamauzuさんへ
黒田裕樹 他の先生方にはそれぞれの教え方もありますので、私がとやかく言うべき立場ではないのですが、仰るとおり教えることが多くなると、どうしても表面上のみを取り上げてしまうことになりがちな点があると思います。
浜渦さんのように「勘ぐられない」ように、普段からの努力は欠かさないようにすべきではあると思います(もちろん私を含めて)。
こうした「戦国の遺風」が原因と見られる数々の問題に対して、真正面から取り組んでいったのが時の為政者(いせいしゃ)であった綱吉だったのです。綱吉は、まず武士に染み付いた戦国時代の考え方を改めさせるために、1683年に武家諸法度(ぶけしょはっと)を改訂して、冒頭(ぼうとう)の「弓馬(きゅうば)の道」を「忠孝(ちゅうこう)の道」に改めました。
それまでは弓馬、すなわち武芸に励むことこそが武士の心得とされていたのが、忠孝の道、すなわち人として生きる道や道徳に励むことこそが重要であるという意識の変革をはかったのです。綱吉自身が若い頃から学んだ儒学に基づいた、新たな社会秩序の制定でもありました。
さらに綱吉は、武士ばかりでなく町人に対しても「忠孝の道」を定着させようとしました。そのためには何をなすべきなのか。考え抜いた綱吉の結論が、武家諸法度のように法令によって庶民に道徳心を身につけさせることでした。
こうして1685年に「鳥類を銃で撃ってはならない」というお触れが出され、以後約20年間に渡って次々と新しい法令が出されました。
世にいう「生類憐みの令」の始まりです。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
紗那 ん~・・・・・・ 確かにここまでの流れを見ると、やってることって実は普通ですね。
なんか綱吉さんを誤解してたかもです。
やっぱり、やりすぎはだめってことでしょうか。
ていうか、綱吉さんになるまでに、そんな治安が悪かったというのも驚きです。びっくりです。
やはり勉強になるです。
かすやぶひ こんにちは、綱吉は犬将軍のイメージしかなかったです。。。
しかし低身長症の可能性があるなんて、知りませんでした。
位牌からそれを読み解くなんて参考になります。
ぴーち こんばんは!
そうだったんですか。。
でも、こうして詳しくお話を伺っていると
それまでの歴史上に存在する「悪法」と呼ばれる
法も、その時代に制定されなければいけないそれなりの理由があったのかもしれないと思うと、それまでの固定観念が
覆されそうですね^^;
生まれるべくして、生まれた法。。
なるほど。。奥が深いです。
それと同時に事実というのは、どうして、こうも
歪められてしまうものかと、不思議な感じがしますね~。。よく何十人かが輪になって、最初の出題者が、最初の人に口伝えで、ある一文を耳打ちし、その一文が全部の人に回され、一巡した頃には、最初の内容と
微妙に違っていたり、時には正反対の答えが戻って来てしまうと言ったゲームを思い出してしまいました^^
(お判りになりましたか?w説明が下手ですみません)
あ、それと、
動画のカメラの位置が、少し前方になりましたでしょうか?とても、お顔が良く拝見出るし、黒板の字も見えやすくなりました^^
それでは、応援凸
管理人のみ閲覧できます
-
紗那さんへ
黒田裕樹 > ん~・・・・・・ 確かにここまでの流れを見ると、やってることって実は普通ですね。
> なんか綱吉さんを誤解してたかもです。
誤解させる材料がそろいすぎていますからねぇ…。無理もないと思います。
> やっぱり、やりすぎはだめってことでしょうか。
エスカレートしたのは事実ですが、そうしないとなかなか定着しなかったという一面もありますからね。一概には言えないのかもしれません。
> ていうか、綱吉さんになるまでに、そんな治安が悪かったというのも驚きです。びっくりです。
> やはり勉強になるです。
有難うございます。歴史の教師である以上は、教科書に書かれていないような「真実」を伝えることも大事ですからね。
かすやぶひさんへ
黒田裕樹 > こんにちは、綱吉は犬将軍のイメージしかなかったです。。。
イメージが先行しているところが、綱吉公の不幸なところでもありますね。もっとも、そうなってしまったのには、綱吉公にはどうすることもできない理由があったのですが…。
> しかし低身長症の可能性があるなんて、知りませんでした。
> 位牌からそれを読み解くなんて参考になります。
間接的な証拠というのも重要ですね。事実を見るだけではなく、事実から考察することも歴史の楽しみの一つです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 「悪法」といえども「法」であるうえに、当時と現代の善悪観の違いや、当時の複雑な事情も考慮しないと、今回のような歴史の「落とし穴」にはまってしまいますね。仰るように「生まれるべくして、生まれた法」というのもこの世には存在しますから。
伝言ゲームのことですね。確かに、自分の本当の思いが他人に正しく伝わらないことはままありますね。
今回の会場は、場所そのものは同じですが教室が変わったんですよね。その影響もあって一から設定し直したことが奏功しているのかもしれません。ご覧いただき有難うございますm(_ _)m
そうでしたか
JJSG こんばんは。
忠孝の道
忠は、主人への忠義。
孝は、親孝行。
だと思っていますが、人として生きる道、道徳に励むことですか。。。
この忠孝の意味の捉え方だけで、綱吉のやろうとしていたことの理解、ニュアンスが変わってきますね。
とはいえ、これまでの講義で、とりあえず、綱吉はお馬鹿将軍ではないことがわかってきました。
JJSGさんへ
黒田裕樹 儒学に精通していた綱吉だからこそ気づいたのかもしれませんが、忠も孝も日本人にとっては道徳の道へとつながると思います。
記事でも書きましたが、生類憐みの令は、綱吉にとっては自己の理想を実現するための切り札でもありました。これだけのことを考えられる綱吉が愚かなわけがありませんよね。
「徳川家康によって戦国時代は完全に終わり、江戸時代の平和な世の中がやって来ました」。歴史の勉強で必ずと言っていいほど聞かされる一節ですね。表面上は確かにそのとおりですが、綱吉の治世を迎えるまでの現実は、必ずしもそうではありませんでした。
そもそも戦国時代というのは「下剋上」(げこくじょう)の名の下に「力あるものが勝つ」という世の中でした。極論すれば「人を殺せば出世する」時代でもあり、戦国武将から一般庶民に至るまで、出世を夢見て争いごとが絶えませんでした。
人々の意識がそのような殺伐(さつばつ)とした雰囲気(ふんいき)になっているなかで、徳川家がやって来て「これからは平和な世の中だからおとなしくしなさい」と言われたところで、誰が額面どおりに受け取るというのでしょうか。
身分社会に固定されて出世の望みが絶たれた人たちは、その腹いせとばかりに集団で着飾って町を練り歩き、気に入らないことがあれば周囲の人々に容赦なく当たり散らしました。旗本は「旗本奴」(はたもとやっこ)、町人は「町奴」(まちやっこ)と呼ばれたいわゆる「傾き者」(かぶきもの)の抗争によって、町には放火や辻斬りが横行していたのです。
殺伐とした雰囲気は道徳心の低下ももたらしました。子供が生まれても生活に困れば捨てたり、あるいは間引(まび)くことが多く、人間や牛馬が病気になれば、まだ動けるうちから山野に追放して死なせたりすることがよくありました。
また、この当時は町の衛生状態も最悪でした。江戸の人々はゴミを平気で周囲に散らかし、時には江戸城のお堀にまでゴミがたまる有様でした。また野ざらしにされた死んだ牛馬を野犬が食べ、その野犬が人々に噛(か)み付くなど、犬などが町中で病原菌をまき散らすことによって、疫病(えきびょう)がたびたび発生していました。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
動画はまたの機会の拝見させてくださいね^^
18世紀頃のヨーロッパも、かなり街中は、
汚れていて、異臭が酷かったようですが
現代の整備された環境になるまでは、
何処の国も、そういう時代を経ているんですね~。。
応援凸です^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 動画はまたの機会の拝見させてくださいね^^
ご都合の宜しいときで十分ですよ(^^♪
> 18世紀頃のヨーロッパも、かなり街中は、
> 汚れていて、異臭が酷かったようですが
> 現代の整備された環境になるまでは、
> 何処の国も、そういう時代を経ているんですね~。。
そうですね。現在のような綺麗な環境というのは、従前では考えられないでしょうね。環境が良くなった分、伝染病は減りましたが、人間はかえって弱くなったような気がしますね。
そうなんですかぁ
JJSG こんばんは。
家康が世の中をうまいこと治めたと思っていましたが。。。。
違っていたのかぁ。
歴史の教科書も、いいかげんなもんですね。
JJSGさんへ
黒田裕樹 教科書は紙面が限られていますから、どうしても全体的に薄めに表現せざるを得ないんですよね。その分各時代の「本質」までにはなかなか突っ込めないのが実情です。
とはいえ、型どおりの授業さえ済ませておけばよい、というのでは歴史の先生失格です。歴史が面白くなるのも、つまらなくなるのも先生次第ですから、私も特に気をつけているつもりではあります。
徳川家の正当な後継者でありながら、危うく将軍になり損ねそうになった綱吉ですが、ピンチはチャンスでもありました。堀田正俊を除けば自分を将軍後継に推さなかった人間ばかりが政権についているわけですから、遠慮することなく自分の思いどおりの政治をすることができたのです。
綱吉は将軍に就任すると、功労のあった堀田正俊を大老にする一方で、それまで大老だった酒井忠清や、他の老中を全員辞めさせました。また、酒井忠清の裁量で決着していた越後国(えちごのくに、現在の新潟県の本州部分)の高田藩のお家騒動を調べ直し、結果として高田藩を取り潰して関係者を厳罰に処しました。
綱吉が次々と打ち出す厳しい姿勢に、幕閣(ばっかく)も御三家(ごさんけ)も震え上がりました。こうして周囲を自分の実力で黙らせた綱吉は、自己の理想に燃えた政治を展開していくのです。
そのバックボーンは儒学(じゅがく)であり、キーワードは「忠孝」(ちゅうこう)でした。
なぜなら、江戸幕府を創設した徳川家康(とくがわいえやす)以来の「負の遺産」が、約80年経っても厳然(げんぜん)と残っていたからです。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ケンシロウ こんにちは。
綱吉が何代将軍なのか一生懸命思い出してみましたが
おいらのショボイメモリは壊れておりました。
ただ家光の息子だったような記憶が・・・。
そうなると15代続いた徳川将軍の中では
古い方だということしか浮かばない。
┐(´д`)┌ヤレヤレ 年は取りたくないですw
淀君
オバrev 政権交代で、前政権をバッサリ切る、あるいは報復というところは、現在の政治と同じですね。
家康以来の負の遺産?いったい何でしょうか。
淀君の怨念では?
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 綱吉は第5代将軍ですよ。家光の息子であることは正解です。
詳しくはこちらの記事をご覧下さいね。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-270.html
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 政権交代で、前政権をバッサリ切る、あるいは報復というところは、現在の政治と同じですね。
そうですね。役に立たない存在であるのなら仕方ないのかもしれませんが、粛清じみたことをやりすぎると、後が恐いような気もします。
> 家康以来の負の遺産?いったい何でしょうか。
> 淀君の怨念では?
少し時代が古すぎるようですね(^^ゞ
次回の記事以降で明らかになりますよ。
愛知県岡崎市にある大樹寺(たいじゅじ)は、徳川家の菩提寺(ぼだいじ)としても有名であり、歴代当主の墓や歴代将軍の位牌(いはい)が安置されていますが、このうち位牌については、各将軍の臨終(りんじゅう)の際の身長に合わせてつくられたとされています。
綱吉の位牌も当然安置されていますが、その長さが実は約124cmしかないのです。幼年で亡くなった第7代将軍の徳川家継(とくがわいえつぐ)を除けば、際立って低い数字です。
綱吉の悪政で庶民が迷惑を受けたから、嫌がらせでワザと低くしたとも考えられそうですが、徳川家ゆかりの寺がそんな曲がった考えで位牌をつくるわけがありません。有力な説として考えられるのは、綱吉が低身長症(ていしんちょうしょう)を患(わずら)っていた、ということです。
低身長症は成長ホルモンが正常に分泌(ぶんぴつ)されなくなることで身長が伸びなくなる病気であり、現代でも患っている人々がおられます。ただ、低身長症自体は身長が低いことを除けばそれ以外は健康体であることも多く、日常生活に何ら差し支えることはありません。
当然将軍職のような激務もこなせるはずなのですが、厳しい身分による制限のあった江戸時代は、現代では決してあってはならない「差別が当然」の世の中でもありました。従って、綱吉の低身長が「将軍としてふさわしくない」と一方的に決め付けられた可能性が高いのです。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
昨日は動画を拝見出来ませんでしたので、
とりあえず、黒田さんのブログにUPしている動画を
今日は一気に鑑賞させていただきました^^
綱吉に関しての様々な謎の部分が次第に明確になって来て、楽しく拝見させていただきました♪
ありがとうござます!
確かに現代でも「低身長症」でお悩みの方はいらっしゃいますものね。。
それでも、身長が低いくらいなら、まだしも、五体不満足でもしっかりとご活躍している方も
いらっしゃいますものね。
綱吉の今後の展開も、楽しみにまた、
勉強させてくださいね^^
凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お忙しい中、ご覧下さって有難うございます!(^o^)丿
お言葉、ごもっともだと思います。現代でも様々なハンデを乗り越えてご活躍の方がたくさんおられるだけに、当時の世相の偏りが残念でならないですね。
綱吉に関する謎については、これからますます明らかになると思いますので、どうぞご期待下さい!(^_^)v
こみー こんばんわー☆
久しぶりです(^_^;)
・・・将軍様にもそんな病気を患ってる方がいたんですね。。。
ちょっと意外でなかなか衝撃を受けましたね(いろんな意味で)
そういうことがあったら、その瞬間、「あ、歴史面白いかも」って思うんですよねぇ。
では、失礼します~。
MAHHYA 今では、「障害者団体」が、騒ぎ出しそうな差別が、昔は平気で行われていたんですね・・・。
人権なんて、第二次世界大戦後、何十年かの歴史しかないもの・・・。
それでも、人間ってどこかに「差別意識」を持ってしまうものなのかも・・・と、思うことがあります。
低身長でも、別にいいじゃないか!!と、言いたいですね(>_<)
赤岡町とさを いつも訪問ありがとうございます
ゆっくり拝見する機会が少ないのですが
また折々遊びにきます
こみーさんへ
黒田裕樹 > こんばんわー☆
> 久しぶりです(^_^;)
どうもお久しぶりです(^o^)丿
> ・・・将軍様にもそんな病気を患ってる方がいたんですね。。。
> ちょっと意外でなかなか衝撃を受けましたね(いろんな意味で)
> そういうことがあったら、その瞬間、「あ、歴史面白いかも」って思うんですよねぇ。
歴史が面白くなるきっかけというのはいろいろありますよね。
たとえどんなことがあったとしても、立派に与えられた地位をまっとうできる。
それもまた人間なんですよね。
MAHHYAさんへ
黒田裕樹 江戸時代のような固定された身分社会では、差別がむしろ当たり前でした。そんな中でハンディキャップがあったというのは本当に大変だったと思います。
綱吉に対する我々の眼を曇らせているのも、いわれなき差別の幻なのかもしれませんね。
赤岡町とさをさんへ
黒田裕樹 こちらこそご訪問有難うございます。
とまとさんのブログでのご活躍は素晴らしかったですね(^_^)v
また是非お越し下さいm(_ _)m
おばか
JJSG 身長が高ければ将軍が務まるわけでもあるまいし。。。
お馬鹿な考えだなぁ。。。と。
JJSGさんへ
黒田裕樹 全くその通りだと思います。
一人の人間を、その一面だけでしか評価できないようなことがあってはならないのですから。
徳川綱吉は1646年、第3代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)の四男として生まれました。1651年に家光が死んで、子の徳川家綱(とくがわいえつな)が第4代将軍になると、綱吉は将軍の弟として上野国(こうずけのくに、現在の群馬県の大部分)の館林藩(たてばやしはん)25万石の藩主で一生を終えるはずでした。
しかし1680年、家綱が子をなさぬままに重病となってしまいました。家綱の弟のうち、成人したのは家光の三男の徳川綱重(とくがわつなしげ)と四男の綱吉だけでしたが、綱重は2年前の1678年に死去し、綱重の子である徳川綱豊(とくがわつなとよ)がまだ若かったので、綱吉が将軍後継に一番近いと考えられていました。
ところが、時の大老(たいろう)であった酒井忠清(さかいただきよ)が、こともあろうに朝廷から宮将軍を招いて第5代将軍にすると宣言しました。この計画は、当時の老中(ろうじゅう)の堀田正俊(ほったまさとし)によって阻止(そし)され、綱吉が無事に将軍職を継ぐことになったのですが、なぜこのようなことが起きたのでしょうか。
鎌倉幕府における北条氏(ほうじょうし)の執権(しっけん)と同じ路線をたどろうとした酒井忠清の野望という見方も確かにありますが、実は綱吉には将軍職として「ふさわしくない」と考えられたという一面も存在していました。それは一体何だったのでしょうか?
間接的な「証拠」が愛知県に今でも残されています。




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
オバrev えぇ~!酒井忠清っつうのは何てこと考えるんですか。
家光の子供世代にして既に徳川家の力が衰えていたってことですかね?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > えぇ~!酒井忠清っつうのは何てこと考えるんですか。
> 家光の子供世代にして既に徳川家の力が衰えていたってことですかね?
酒井忠清が全盛期の頃には、世の中が平和になって将軍自体の権力が薄れたことで、徳川家が完全に「飾り物」扱いになっていたんですね。こうなると古(いにしえ)の源氏と北条氏の関係と同様に、忠清ら幕閣が事実上の支配者になろうとしたと考えられます。
但し、鎌倉幕府と決定的に違うところは、徳川家にはれっきとした家康直系の後継者がいたことです。