兄弟同士の骨肉の争いに勝った藤原兼家は、娘を次々と天皇の妃(きさき)として送り込んで政治の実権を握りました。兼家の死後は長男の藤原道隆(ふじわらのみちたか)が摂政・関白になりましたが、道隆の死後は、子の藤原伊周(ふじわらのこれちか)と道隆の弟である藤原道長(ふじわらのみちなが)との間で同じような勢力争いが繰り広げられました。
こうした藤原氏同士の争いを最終的に制した藤原道長は、4人の娘を天皇の妃として、自らは第68代の後一条天皇(ごいちじょうてんのう)の摂政となりました。道長は約30年にわたって権力を握り続けましたが、彼が絶頂期の頃に詠(よ)んだとされる「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という歌はあまりにも有名ですね。
余談になりますが、藤原兼家の妻の一人は「蜻蛉日記」(かげろうにっき)で有名な藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)です。小倉百人一首(53番目)では「右大将道綱母」として紹介されていますね。さらに、藤原道綱母の妹の娘、つまり姪(めい)は「更級日記」(さらしなにっき)の作者である菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)であり、菅原孝標女はその名のとおり、菅原道真の血を引いています。




いつも有難うございます。
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らいと はじめまして。
藤原氏は栄華を築きましたが、その陰には激しい争いがあったのですね。
菅原道真は須磨の神社に学問の神様として祭られているので親しみがあります。
わかりやすい歴史の記事です。
これからも楽しみにしています!
らいとさんへ
黒田裕樹 > はじめまして。
> 藤原氏は栄華を築きましたが、その陰には激しい争いがあったのですね。
ようこそお越し下さいました(^^♪
ほんの一握りの栄光の陰には、激しい勢力争いがあるのがこの世の常でもありますね。藤原氏のような勢力争いを振り返るたびに思い知らされます。
> 菅原道真は須磨の神社に学問の神様として祭られているので親しみがあります。
須磨の綱敷天満宮のことですね。源氏物語の一節と上手くミックスさせていることでも有名です。道真公を祭った社は全国各地にありますね。
> わかりやすい歴史の記事です。
> これからも楽しみにしています!
お言葉、励みになります。今後ともよろしくお願いいたします。
管理人のみ閲覧できます
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ayumi はじめまして。
ご訪問ありがとうございました!
さっそく遊びにきちゃいました。
お名前だけはアキさんたちのブログでは知ってはいましたが、なんと歴史の先生でいらしたのですね~
学生時代は理数系を愛していたワタクシ
歴史には詳しくありませんが、歴史小説は好きです。(全然ちがうか)
改めてこうやって聞くと実際の歴史も小説のようにドラマチック。
なかなか面白いものですね。
また遊びに来ます。応援ポチ☆
ayumiさんへ
黒田裕樹 > はじめまして。
> ご訪問ありがとうございました!
> さっそく遊びにきちゃいました。
> お名前だけはアキさんたちのブログでは知ってはいましたが、なんと歴史の先生でいらしたのですね~
ようこそお越し下さいました(^o^)丿
ハイ、現在は別の職務に就いておりますが、一応(笑)歴史の元・教師です。
> 学生時代は理数系を愛していたワタクシ
> 歴史には詳しくありませんが、歴史小説は好きです。(全然ちがうか)
> 改めてこうやって聞くと実際の歴史も小説のようにドラマチック。
> なかなか面白いものですね。
歴史小説がお好きであれば、実際の歴史にもすんなりと入っていけますよ。
仰るとおり、本物の歴史はまさにドラマチックですから、理解さえできれば本当に面白いんです。私はこのブログを通じて、一人でも多くの方に歴史に興味を持っていただけますよう「分かりやすい」内容の更新を目指して続けているんですよ(^^♪
> また遊びに来ます。応援ポチ☆
応援有難うございます。また是非いらして下さいm(_ _)m
名前
オバrev この頃の女性の作者については、本人の名前を直接言わないのが通例なんですかね?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > この頃の女性の作者については、本人の名前を直接言わないのが通例なんですかね?
平安当時の女性は、皇族か任官でもされない限りは公式の記録に名前が残ることは滅多にありませんでした。そもそも当時の女性の名前を知ることは、その女性を自分のものとしているも同然と考えられるほど重要なことだったのです。
従って、今回紹介した藤原道綱母や菅原孝標女の場合は、本名が記録に残っていないので分からなくなっているのです。また、清少納言や紫式部も本名は分かっていません。ちなみに紫式部の娘は後冷泉天皇の乳母となったことで任官を受けたので、大弐三位(だいにのさんみ)という通称とともに藤原賢子(ふじわらのけんし、または「かたいこ」)という本名が記録に残っています。
お久しぶりです
徳薙零己 藤原道長が摂政になるまでを描いた「源氏物語の時代」が完結しました。
本作についての資料をまとめ、文章を書き記せば記すほど驚かされたのが、藤原道長の政治に対する姿勢です。
自分を批判する言論であろうと全て認め、自分を容赦なく罵倒する貴族であろうと、その人は有能であると判断したら、その人の才能を認め役職を用意し、責任は全て道長が引き受けた上で役職に専念させていたこと。これができる政治家が果たして何人いたでしょうか。
現在でもそのまま適用できそうな言論の自由を確立させた上で藤原道長が為してきたことこそ、安定と平和、そして豊かな暮らし。歴史上の有名人物であるため小学生向けの伝記マンガの常連である藤原道長ですが、政治家としての藤原道長が何をしたのかをとりあげている作品は少ないです。
それは、藤原道長が目を見張るような改革を為した政治家だからではなく、安定と平和のために尽力し続けてきた結果だというのが、「源氏物語の時代」、そして、6月から公開する「欠けたる望月」を終えた上での私の結論です。
政界引退と同時に刀伊の入寇が起こり、死と同時に平忠常の乱が発生し、その後の混迷につながってしまったのも、源氏物語の時代の日本が藤原道長という個人の能力に寄っていた結果。藤原道長自身は自分がいなくなった後も安定したシステムを作り上げたはずであったのに、気がつくと道長がいることを前提とした日本国になってしまったというのが,今の私の考えです。
藤原道長が摂政になってから、摂政を辞し、頼通政権が成立して平忠常の乱までを、6月から「欠けたる望月」として公開致します。
おてすうではございますが、よろしければお立ち寄りください。
徳薙零己さんへ
黒田裕樹 ご無沙汰しております。
なるほど、道長にはそういった側面もあったんですね。
新たな作品に期待しています。
冷泉天皇は生来のご病弱ということもあり、早めに皇太子を決める必要がありました。候補としては冷泉天皇の弟である為平親王(ためひらしんのう)と守平親王(もりひらしんのう)の名が挙がりましたが、このうち年長の為平親王の方が有利と見られていました。しかし、為平親王が天皇になることは、藤原氏としては絶対に避けなければならないことでした。
なぜなら、為平親王は源高明の娘を妃(きさき)としていたからです。為平親王が天皇になれば、源高明が天皇の外戚(がいせき)となって政治の実権を握り、藤原氏の権勢が春の淡雪(あわゆき)のように消えてしまう―。焦った藤原氏がとった手段は「いつものやり方」でした。
969年、源高明は突然謀反の罪を着せられて大宰府へ流されてしまいました。この事件を当時の年号から安和の変(あんなのへん)といいます。同年には冷泉天皇が退位され、守平親王が第64代の円融天皇(えんゆうてんのう)として即位されました。円融天皇の母は藤原氏の一族でした。源高明の失脚によって藤原氏に対抗できる他氏勢力がいなくなり、以後は藤原氏が摂政や関白を独占することになりました。




いつも有難うございます。
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てっちゃん中尉 毎回ながら、藤原家はやることの規模がおおきいですね

てっちゃん中尉さんへ
黒田裕樹 > 毎回ながら、藤原家はやることの規模がおおきいですね

これだけの大仕掛けが出来るのは藤原氏ならではでしょうね。今後はそれを藤原氏同士でやっていくんですよね…。
コメントありがとうございます!
彩 遊びに来ましたー!
先週行った飛鳥の事を知りたくて
今さら飛鳥のあたりを拝読させていただきました。
歴史深い場所に行く前にこちらのブログで勉強したら
旅がずっと楽しくなりそうです!よろしくおねがいします!
彩さんへ
黒田裕樹 > 遊びに来ましたー!
ようこそお越し下さいました!\(^o^)/
> 先週行った飛鳥の事を知りたくて
> 今さら飛鳥のあたりを拝読させていただきました。
1400年前の息吹が感じられる飛鳥ロマンは素晴らしいものがありますよね(^^♪、
> 歴史深い場所に行く前にこちらのブログで勉強したら
> 旅がずっと楽しくなりそうです!よろしくおねがいします!
こちらこそよろしくお願いします!
どうぞお気軽にご訪問下さいね!(^o^)丿
Money
オバrev 毛利家の時代から、一気に平安時代へ遡りですね。
き、切り替えなきゃ(^_^;)
それにしても藤原氏の権力たるや凄いの一言です。
しかし、歴史的にみてもそうですが、権力を得るために絶対的に必要なものがお金です。
このころの藤原氏の資金源ってのは何だったんでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 毛利家の時代から、一気に平安時代へ遡りですね。
> き、切り替えなきゃ(^_^;)
今回から通常講座に逆戻りですからね。ややこしいかもしれませんが、お付き合いくださるようお願いしますm(_ _)m
> それにしても藤原氏の権力たるや凄いの一言です。
> しかし、歴史的にみてもそうですが、権力を得るために絶対的に必要なものがお金です。
> このころの藤原氏の資金源ってのは何だったんでしょうか?
( ̄ー ̄)ニヤリ
さすがに鋭いですね。ご質問の件は、近日中に詳しく紹介することになりますので、今しばらくお待ち下さい。ヒントを挙げるとすれば、奈良時代のある法律がカギを握っています。
紗那 結局、藤原氏はこのやり方に頼るんですねー
「無理が通れば道理が引っ込む」が、具現してますけど、世の中こんな人ばっかりではやっていけませんね。
そういえば、昨日は広島も阪神も勝ったんですよー(何
紗那さんへ
黒田裕樹 > 結局、藤原氏はこのやり方に頼るんですねー
> 「無理が通れば道理が引っ込む」が、具現してますけど、世の中こんな人ばっかりではやっていけませんね。
本当にそうですよね。源高明にもし政治の実権を握る野望がなければ、まさにとばっちりですからね。
でも、世の中には自己のためなら他人のことは全くいとわない人が多いのも事実です(´・ω・`)
> そういえば、昨日は広島も阪神も勝ったんですよー(何
確かにそうですね(笑)。今日(30日)はどうでしょうか?
講座の映像化も2度目となりましたが、前回同様の反響をいただけたことも励みになりました。こうなってくると、次の課題はいよいよ「大阪以外での講演」となってきそうですが、慎重に検討しながらも、いずれは実現してみたいと感じております。
ブログを始めて半年が経過し、カウント数も10000HITを超えるなど、順調にここまで来ておりますが、今の状況に甘えることなく、今後とも精進して一人でも多くの方々に「分かりやすい歴史」を伝えたい、と思っております。
尚、この講座は一応全年齢が対象ではありますが、自分が元・高校教師であるということで、どうしても高校生(もしくは中学生)を中心とした内容となってしまい、結果として年齢を重ねた方々にはいささか物足りなくなってしまっているかもしれません。また、学生に語りかけるつもりで講義を進めていることで「分かりますか?」という言葉を連発しており、内容がくどくなっているかもしれませんが、教師としてのスタイルを崩(くず)したくないという一面もあり、次回の講座までに調整できればと思っております。
最後に、年末までの予定をお知らせします。
第6回 「徳川綱吉 ~犬公方の真実」
平成21年10月24日(土)午後3時30分より
※当初は午後3時開始予定でしたが、都合により30分遅らせます。
第7回 「吉宗は名君か? ~暴れん坊将軍の素顔」
平成21年11月28日(土)午後6時より
※この回は午後6時開始になります。
第8回 「田沼意次と松平定信 ~悪人はどっちだ?」
平成21年12月19日(土)午後3時30分より




いつも有難うございます。
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てっちゃん中尉 10000hitおめでとうございます

大阪以外での講演ですか、いいとおもいます。黒田さんがいろいろなところで講演なされる日が近いといいですね。応援してますよ

ぴーち こんばんは!
最近は歴史ブームということもあり、歴史に興味を持たれる方が増えている様ですね!
温故知新・・古きを訪ね、そこから新しきを知ろうとする
精神は、これから特に必要なものになってくるものと存じます。
大阪意外の土地での講演、実現出来ると良いですね^^
それでは応援凸
てっちゃん中尉さんへ
黒田裕樹 有難うございます!
今の段階ではまだ夢の話ですが、いつかはぜひ実現したいと思っております。まずは東京ですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 最近は歴史ブームということもあり、歴史に興味を持たれる方が増えている様ですね!
> 温故知新・・古きを訪ね、そこから新しきを知ろうとする
> 精神は、これから特に必要なものになってくるものと存じます。
歴史ブームは個人的には素晴らしいと思っております。仰るように温故知新の精神で、本物の歴史に触れることができれば最高なんですが、今のところはどうなんでしょうね。
> 大阪以外の土地での講演、実現出来ると良いですね^^
有難うございます。まずはぴーちさんがいらっしゃる関東での講演が出来ればいいのですが…。
また、毛利家の江戸幕府に対する積年の恨みは、松下村塾(しょうかそんじゅく)を開いた吉田松陰(よしだしょういん)から桂小五郎(かつらこごろう、後の木戸孝允=きどたかよし)や高杉晋作(たかすぎしんさく)、伊藤博文(いとうひろぶみ)、井上馨(いのうえかおる)、山県有朋(やまがたありとも)といった優秀な人材を生み出しました。
彼らの活躍によって、夢のまた夢であったはずの討幕(とうばく)が現実のものとなったばかりでなく、明治維新(めいじいしん)を経て我が国が有色人種(ゆうしょくじんしゅ)でありながら短期間で近代化に成功し、世界の一等国として欧米と肩を並べるまで成長する原動力になったのです。
毛利元就という英雄が一代で築き上げた広大な領地は、彼が心配したとおりに孫の輝元によって大幅に減らされてしまうという悲劇となりました。しかし、その結果が皮肉にも約260年後に討幕の原動力になり、やがては我が国の近代化に貢献することになるのですから、歴史の流れというのは本当に不思議なものですね。
毛利家の栄枯盛衰は、我が国の戦国時代から幕末につながる歴史をつくった「陰の主役」でもありました。自己の子孫とその家臣たちが徳川家康の子孫を倒していく光景を、元就はどんな思いで見つめていたのでしょうか。
(第5回歴史講座の記事はこれで終了です。本日(28日)の18時には今回の講座全体の講評について書きます)
※上記は今回までの内容に関連する映像です。尚、講座のすべてに関する映像も配信しております。




いつも有難うございます。
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MAHHYA 今回もとっても勉強になりました!
毛利元就、すごい人物ですね…。
確か、天下取りに動き始めたときは、40前後だったと記憶してましたが…。
江戸幕府への怨念が、幕末まで続いた、そして、一から明治維新を作りだしたのが、薩長だったというのも、歴史の壮大さを感じさせます!
ぴーち こんにちは!
なるほど、今でもそう言う話を耳にしますよね。
一代で財を成し遂げたお爺ちゃんのその孫が
一代で食いつぶした話^^;
それにしても、昔からやはり大和民族の優秀さというのは、際立っていたんですね!
ゲルマン民族、ユダヤ人も優秀だと聞いたことがあります。
余談ですが、黒田さんのプロフを参考に、似顔絵を描かせていただきました^^
似て無い!!等の突っ込みOKですので、一度、ご覧いただければ、幸いです^^
それでは、応援凸
ケンシロウ こんにちは。
日本人を有色人種と表現をすることを
今の若者は知っているのだろうか?
おいらは・・・普通よりちと濃いですw
萩の奇跡
オバrev 結局徳川幕府を倒し、新しい日本を作っていった元は、毛利なんですね。歴史を長い目でみると、また違った見方ができますね。
それにしても、あの萩の田舎から、日本を動かす逸材が数多く輩出されたのは奇跡としか言いようがありません。いくら毛利家の怨念があったとは言え凄いです。
私は萩の奇跡と呼んでいます(^^;)
MAHHYAさんへ
黒田裕樹 > 今回もとっても勉強になりました!
> 毛利元就、すごい人物ですね…。
> 確か、天下取りに動き始めたときは、40前後だったと記憶してましたが…。
尼子家を謀略で破った吉田郡山城の戦い(1540~41年)の頃がちょうど40歳過ぎですから、仰るとおりですね。考えてみれば今の自分の歳と変わらないんですよね…。
> 江戸幕府への怨念が、幕末まで続いた、そして、一から明治維新を作りだしたのが、薩長だったというのも、歴史の壮大さを感じさせます!
本当にそうですよね。薩摩藩も関ヶ原の戦いで本領を安堵されたとはいえ、いわゆる「負け組」であることに変わりはないですから、同じく怨念を持っていましたからね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > なるほど、今でもそう言う話を耳にしますよね。
> 一代で財を成し遂げたお爺ちゃんのその孫が
> 一代で食いつぶした話^^;
「不肖の孫」はよく聞く話ですよね。輝元の場合もその「法則」から逃れられなかったということでしょうか…。
> それにしても、昔からやはり大和民族の優秀さというのは、際立っていたんですね!
> ゲルマン民族、ユダヤ人も優秀だと聞いたことがあります。
私もそう思います。逆境のたびにはね返す力を持った民族ですよね。今回の「百年に一度の不況」からは脱出できるのでしょうか。いや、それよりも…。
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 > 日本人を有色人種と表現をすることを
> 今の若者は知っているのだろうか?
> おいらは・・・普通よりちと濃いですw
言われてみればそうですね…。人種差別がなくなりつつあるのは喜ばしいことですが、過去には「差別されてきた」という歴史を知ることは重要だと思います。私は…普通でしょうか(^^ゞ
およよのよ お久しぶりです。
覚えていらっしゃるでしょうか。
今回更新が中々出来ず。それでもカウンターが回ってて更新する気やる気が無いのに置いておくのも申し訳ないな、と思いブログを削除させていただきました><
ごめんなさい。
ブログも毎日確認してるのですがコメントも面倒くさくなってしまって…。
でも毎回楽しく読ませてもらってます。
そういえば歴史も現代に近づいてきてますけど歴史が一通り終わったら先生的にはどうするおつもりですか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 結局徳川幕府を倒し、新しい日本を作っていった元は、毛利なんですね。歴史を長い目でみると、また違った見方ができますね。
仰るとおりでして、長い目で見ないと気づかない「歴史の落とし穴」でもあります。長州藩や薩摩藩がなぜ討幕できるほどの力を持っていたのかが説明できなければ、本当の歴史教育とはいえないでしょうし。
> それにしても、あの萩の田舎から、日本を動かす逸材が数多く輩出されたのは奇跡としか言いようがありません。いくら毛利家の怨念があったとは言え凄いです。
怨念というか、人間が感情を持て余しているときには普段以上の力が出てくるのでしょう。そして、そんな状態のときにこそ「救いの神」となるべき人物が現れるものですよね。ただ、その「救いの神」は時代に選ばれすに終わってしまうことが多いのも悲しい現実です。
> 私は萩の奇跡と呼んでいます(^^;)
「萩の奇跡」…いい言葉ですね!
教師復帰の暁には是非使わせていただきます!(^o^)丿
かくして「格下げ」されてしまった毛利家は、新たな城を交通の便の良くない山陰側の萩(はぎ)に築くことを強制されたり、江戸幕府で普請(ふしん、土木工事のこと)が行われる際に自費で手伝わされたりするなど、散々な目にあいました。
毛利家の家臣たちは、自分らが受けなければならない仕打ちを悲しみましたが、主君である輝元の凡庸さが没落の原因であると批判できなかったので、非情な処分を行った江戸幕府をむしろ深く恨むようになりました。時代が下るにつれて恨みは代々受け継がれ、毛利家にはいつしか以下のような「伝説」が生まれました。
参勤交代(さんきんこうたい)で本国に帰った毛利家の殿様が国元で迎えた正月の夜明け前に、家老と二人だけでお城の天守閣に登ると、家老が殿様に言いました。
家老「江戸征伐の準備が整いましたが、いかがなさいますか?」
殿様「まだその時期ではない、やめておけ」
もちろん実際には江戸征伐など当時は夢のまた夢でしたが、徳川家への怨念が積もり積もっていくうちに、毛利家は幕末の頃には「長州藩」(ちょうしゅうはん)という討幕(とうばく)の雄藩(ゆうはん)として薩摩藩(さつまはん)とともに君臨するようになりました。
※上記は今回までの内容に関連する映像です。尚、講座のすべてに関する映像も配信しております。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
動画を食い入るようにw拝見させていただきました^^
いやいや。。思わず力説に拍手をお送りさせていただきたくなりましたよ^^
そうですね~
個人では素直さは得をすることでも、外交や戦いでは
相手の良いようにされてしまうのがオチですよね。
確かに日本の外交政策は、常にそんな状態で外国から
良いようにあしらわれているように思います。
今回も「ユキオ・オバマ」と呼び合う信頼関係が、どうぞ表面上だけに終わらなければと良いと祈るばかりですが・・。
応援凸
また、お邪魔しますね~^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 力強いご声援、有難うございます!
本物の講座では、こうした「文章で表せない」数々の考えをありのまま伝えられるのが強みだと思いますし、また今回の毛利家の講座で私が一番訴えたかった箇所でもあります。
素直を額面どおり受け取れないし、受け取ってはならないのは日本人として悲しいですが、祖先が命がけで守ってきた我が国ですから、私たちの代で終わらすようなことがあってはなりません。
せっかく(?)毛利家という生きた「教訓」があるのですから、私たちはそれを活かさないといけない。それがまた「歴史を学ぶ」ことの重要性でもあるのです。
今の鳩山首相にそこまでの理解があるのかどうか…。私たちも彼の今後を慎重に見守っていきたいものですね。
けん爺ちゃん こんばんは(^ワ^)
毛利家の記事、拝見させて頂きました。
当初は小領主に過ぎなかったんですね。毛利家の興隆と、その後の衰退の流れが初めて掴めました。
もし大阪城で、輝元が抗戦の腹を決めていたら、日本の歴史は随分変化していたかも知れませんね。
記事を拝読しつつ、歴史のIFに思いを馳せております。
気のせいかもしれませんけど、
前回と比べて講義中の先生の様子が
板に着いてきたように見えました(^^)
続きを楽しみにしてます!
けん爺ちゃんさんへ
黒田裕樹 > 毛利家の記事、拝見させて頂きました。
> 当初は小領主に過ぎなかったんですね。毛利家の興隆と、その後の衰退の流れが初めて掴めました。
有難うございます。「歴史の流れ」で見ると、栄枯盛衰がくっきりと浮かび上がってきますよね。でも、まだ終わらないんですよ(笑)。
> もし大阪城で、輝元が抗戦の腹を決めていたら、日本の歴史は随分変化していたかも知れませんね。
> 記事を拝読しつつ、歴史のIFに思いを馳せております。
そうなんですよね。島津に続いて毛利も弱体化できなかった江戸幕府は、成立当初から磐石な体制を築くことができずに、その後の歴史の流れが流動的になった可能性すらあります。そういった「歴史のif」を考えることは楽しみであり、また必要であると思います。
> 気のせいかもしれませんけど、
> 前回と比べて講義中の先生の様子が
> 板に着いてきたように見えました(^^)
> 続きを楽しみにしてます!
だったらいいんですけど(^^ゞ
まぁ元教師ですし、いずれは復帰したいですから、もっと精進しなければいけませんね。
広家による必死の懇願(こんがん)で毛利家は辛うじて断絶を免れましたが、120万石あった領地は周防国(すおうのくに、現在の山口県東部)と長門国(ながとのくに、現在の山口県西部)の2ヶ国のみの約37万石に激減してしまいました。広大な領地の約3分の2が一気に削られてしまったのです。
毛利家が領地を削られずに済む方法はなかったのでしょうか?
その可能性は確かにありました。家臣が勧めたように、大坂城で家康相手に戦えばよかったのです。大坂城は天下の名城ですから、そう簡単に落とされるものではないですし、仮に負けたとしても、家康の心の中に「毛利家を敵に回したくない」という感情が芽生えたはずでした。
実は島津家(しまづけ)が同じことをしているのです。西軍側についた島津家は、関ヶ原の戦いが終わると、東軍の激しい攻撃を受けて100名に満たない人数になりながらも、領地の薩摩国(さつまのくに、現在の鹿児島県西部)へ無事に引き上げました。その後も徹底抗戦を覚悟して粘った島津家に対し、家康は取り潰(つぶ)しをあきらめ、島津家の本領安堵を認めたのでした。
島津家と同じように抵抗すべきだったのに、家康の謀略に簡単に引っかかって、あっさりと大坂城を明け渡した輝元の大失態であり、謀略で鳴らした元就の孫とはとても思えないダメ武将ぶりでした。
※上記は今回までの内容に関連する映像です。尚、講座のすべてに関する映像も配信しております。




いつも有難うございます。
秀吉の死後、徳川家康と秀吉の家臣であった石田三成(いしだみつなり)とが対立し、両者は1600年に関ヶ原で激突しました。このとき毛利輝元は三成率いる西軍の総大将に祭り上げられ、大坂城に入城しましたが、関ヶ原の戦いで彼が動くことはありませんでした。
実は、毛利家の一族であった吉川広家(きっかわひろいえ)が、家康率いる東軍に通じていたのです。広家は輝元が大坂城から出陣させないように工作するとともに、自軍は関ヶ原で一切動かずに不戦を貫きました。
広家による努力の甲斐あって(?)西軍が敗退して東軍が勝利すると、広家は家康から「毛利家の本領安堵(ほんりょうあんど、領地をそのまま保障すること)」の約束を取り付けました。
広家の工作を戦後に知った輝元は、怒るどころか本領安堵の約束をむしろ喜び、家臣の「大坂城に留まって戦うべきだ」との声を無視して、大坂城を「無傷で」明け渡したのですが、これがとんでもない大失敗でした。
家康は輝元が大坂城を明け渡した途端に、それまでの温和な態度を一変させ、手のひらを返したように「毛利家の領地没収」を宣言したのです。この時になって輝元ばかりでなく広家も含めて、自分たちが家康にだまされていたことに初めて気がついたのですが、後の祭りでした。




いつも有難うございます。
※第5回歴史講座の内容公開の間は、一日に二度(6時と18時)の更新を行いますので、是非ご覧になって下さい。
元就は謀略につく謀略によって、彼一代で大大名になりました。その過程では多くの敵から恨まれただけでなく、吉川家や小早川家を強引に乗っ取ったことによって、身内からも恨まれる結果となりました。だとすれば、今後毛利家が栄えていくためには「一族の団結」こそが重要であり、そのためにも「三矢の訓」という「神話」が必要だったのです。
元就は1571年に75歳で亡くなりましたが、家督を継いだ孫の毛利輝元(もうりてるもと)の凡庸(ぼんよう、すぐれた点もなく平凡なこと)な器量を心配し、次男の吉川元春や三男の小早川隆景らに輝元の補佐を依頼しました。
元就の死後は、織田信長の攻勢によって毛利家は領土の半分近くを失いましたが、それでも合計で120万石を超える広大な領地を輝元が所有できたのは、上記の叔父たちの尽力によるものでした。
豊臣秀吉による天下統一後は、輝元は隆景とともに秀吉の五大老(ごたいろう)として君臨し、毛利家は安泰(あんたい)でしたが、1597年に隆景が亡くなって頼りにしていた叔父たちがすべて死んでしまい、その翌年には秀吉も亡くなって再び天下が乱れる気配を見せると、元就の心配は現実のものとなってしまったのでした。
※上記は今回までの内容に関連する映像です。尚、講座のすべてに関する映像も配信しております。




いつも有難うございます。
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ぴーち 元就の生き方は、現代でも一代で名を残した
人物達の生きざまに十分当てはまりますね。
そうでしたか。。神話を作り上げることで
親族からの攻撃を避わすことを狙った訳ですか。
何だか、関係ないですが、故笹川良一さんを思い浮かべてしまいました^^;
裏では政界のドン・黒幕とまで呼ばれながら、競艇のCMでは「一日一善!」なんて、人の良さそうなオジサンぶりをアピールしてましたね~。
ととと・・・・関係ない話に展開しそうなので、この辺で^^
それでは応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
人間は、普段足りていることや満足していることを気にすることが少ない一方で、自分が持ってないものや足りないものへの欲求は根深いものがあります。
毛利元就も、自分に欠けているものだからこそ「教訓」を「神話化」して残したのでしょう。
笹川良一氏とは懐かしいですね。「フィクサー」の名にふさわしい彼の生き様は、善行を重なることで何を求めようとしていたのでしょうか。ただ、彼が残した財団は、我が国にとって益となっているようですね。
本当なら、天下も狙えたのに
- 黒田先生
青田です。
今の大河ドラマ黒田官兵衛
を観ていて、逆に毛利の優柔不断さには、
驚き、呆れました。
毛利は、優柔不断でなければ、何度も
織田信長を打ち破るチャンスはあったんですね。
その証拠に、播磨の多くの武将が、毛利をあてにしていました。
青田さんへ
黒田裕樹 確かにその可能性は否定できませんが、元就が「領土の拡大をするな」と生前に言っていたという事情もあったようですからね。
難しいものです。
さて、毛利元就といえば有名なエピソードがありますよね。いわゆる「三矢の訓(おしえ)」のことです。
自分の死期を悟(さと)った元就は、息子たち三人を枕元に呼び出して言いました。「一本の矢は簡単に折れるが、三本束ねると折ることができない。お前たちも三人が団結して毛利家を守り立てれば、こんな心強いことはない」。
毛利家の固い結束を連想させる美談ですが、実はこれは真っ赤なウソです。なぜなら、三人の息子のうち、長男の隆元(たかもと)は元就よりも先に死んでいるからです。
では、元就は死ぬまでに息子たちに言葉を残さなかったのでしょうか。実はちゃんと残しているんですが、その内容はとんでもないものでした。
「当家(=毛利家)を良かれと思う者は、他国のことは申すまでもなく、当国においても一人もいないだろうから、よくよく用心せよ」。
なんとも凄まじいまでの人間不信ですね。それにしても、元就の本当の遺言が無視されてまで「三矢の訓」というフィクションが広まったのはなぜでしょうか?
※上記は今回までの内容に関連する映像です。尚、講座のすべてに関する映像も配信しております。




いつも有難うございます。
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てっちゃん中尉 三矢の訓は有名な話ですが、ソレが事実ではないとすると、なんともイメージが変わりますね。というよりも、毛利元就は、日本人の特徴をよくよく理解したうえで一人で毛利家を拡張していたんですね。
流石の元就とはいえ、自分の子孫までは思うとおりには動かせないものですね。
そもそも、その有名なフィクション三矢の訓とは、一体何時頃に作られた話なのかが気になりますね。
てっちゃん中尉さんへ
黒田裕樹 > 三矢の訓は有名な話ですが、ソレが事実ではないとすると、なんともイメージが変わりますね。というよりも、毛利元就は、日本人の特徴をよくよく理解したうえで一人で毛利家を拡張していたんですね。
講義の際にも言いましたが、日本人の長所である「他人を信じる」ということを逆手にとってのやりたい放題でしたからね。
> 流石の元就とはいえ、自分の子孫までは思うとおりには動かせないものですね。
そうですね。この件については今回の講座の後半で改めて紹介します。
> そもそも、その有名なフィクション三矢の訓とは、一体何時頃に作られた話なのかが気になりますね。
時期については定かではありませんが、おそらくは数々のエピソードをまとめて、死の前後あたりには「つくられた」と思います。次回の更新で関連する件について触れておりますので、ご参考になればと思います。
ぴーち こんばんは!
三矢の訓、、これは私でも存じている
有名な話ですよね。。
それが、嘘っぱちだったとは(ノ゚Д゚ヽ|||そ…そんなぁ
しかしながら、その後の本当に述べた言葉の方が
なにやら、教訓としてはかなりのインパクトがありますね^^;
男は敷居を跨げば7人の敵あり・・
決して気を抜く出ないぞ!みたいなw
応援凸
では、では♪
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ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 三矢の訓、、これは私でも存じている
> 有名な話ですよね。。
> それが、嘘っぱちだったとは(ノ゚Д゚ヽ|||そ…そんなぁ
残念ながら、そう断言せざるを得ません(´・ω・`)
理由は本文のとおり、幽霊を呼び寄せる(?)ことは不可能だからです。
> しかしながら、その後の本当に述べた言葉の方が
> なにやら、教訓としてはかなりのインパクトがありますね^^;
> 男は敷居を跨げば7人の敵あり・・
> 決して気を抜く出ないぞ!みたいなw
仰るとおりですね。それにしても、なぜ本物の遺言状が無視されて、「三矢の訓」のようなウソが広まったのかについては、明日(26日)の朝の更新で明らかにしますよ(^^♪
marihime 黒田さんこんばんは☆
楽しく拝見させてもらいましたよ!
次回また見させてもらいますσ(゚ー^*)
marihimeさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます(^^♪
明日以降も是非よろしくお願いします(^o^)丿
さすらい こんばんは。
毛利家(広島)と当家(ヤクルト)とは
現在3位争いの渦中にいるため
件の訓は、あまり興味がありませぬ(笑)
ですが、この話が逸話で
創られたものであるとは聞いていました。
いつも申しますが
歴史ミステリーとは、かくなるものですよ。
面白いのは黒澤映画「乱」では
これをさらに発展させ、おかしく創作。
結果として名作になりましたから
「三本の矢伝説」も
後世には一役買ったということで
「真っ赤なウソ」なんて言わず
見逃してあげましょう(笑)
さすらいさんへ
黒田裕樹 > 毛利家(広島)と当家(ヤクルト)とは
> 現在3位争いの渦中にいるため
> 件の訓は、あまり興味がありませぬ(笑)
> ですが、この話が逸話で
> 創られたものであるとは聞いていました。
確かに争ってますね(笑)。私の住む地域(大阪)も関係しておりますが(^^ゞ
やはり「つくられたもの」であることは知られているんですね。
> いつも申しますが
> 歴史ミステリーとは、かくなるものですよ。
> 面白いのは黒澤映画「乱」では
> これをさらに発展させ、おかしく創作。
> 結果として名作になりましたから
> 「三本の矢伝説」も
> 後世には一役買ったということで
> 「真っ赤なウソ」なんて言わず
> 見逃してあげましょう(笑)
「乱」では、うまくストーリーとして使っていますよね。
確かに「伝説」としては今でも有名ですから、見逃すべきかもしれません(笑)。
サンフレッチェ
オバrev な、なんと!三矢の訓は作り話?
しかも、3人兄弟のうち長男は既にいなかった??
サンフレッチェはどうなるんじゃ~(T_T)
それにしても、毛利元就はやり手だったけど、嫌われていたんですね。
国際的に見ると、胡錦涛さんもこのタイプかも。穏やかそうな顔してますが、なかなかのやり手です。
元就は、大内家側についたことで自己の領地を確実に拡大していきましたが、いずれは大内家をも滅ぼすつもりでした。そんな中で、大内家の家臣である陶晴賢が謀反を考えているという情報を入手しましたが、このときに元就の頭の中でひらめいた作戦がありました。
「俺は表向きはあくまで大内家の味方だから、俺自身が大内家にいきなり弓を引くことはできない。ならば、晴賢をそそのかして彼に大内家を滅ぼさせよう。その後で『大内家に仇(あだ)なす晴賢を征伐(せいばつ)する』という名目(めいもく)で晴賢を倒せば、大内家の領地は易々(やすやす)と俺のものになる」。
元就は自分の作戦どおりに実行しました。晴賢が大軍を率いて厳島(いつくしま)に攻め込んだ際も、元就は謀略を使って、大軍であるがゆえにかえって身動きの取れない晴賢を釘付けにしたところで奇襲をかけて、自害に追い込みました。1555年に起きたこの合戦は、厳島の戦いと呼ばれています。
義隆に次いで晴賢も失った大内家はガタガタとなってしまい、厳島の戦いから2年後の1557年に、満を持して攻め込んだ元就によってついに滅亡しました。戦国の世の非情さを否応(いやおう)なく感じさせる大内家の最期ですね。
こうして大内家の領地を支配した元就は、先述のとおり1566年には尼子家も滅ぼし、元就は一代で中国地方のほぼ全域と北九州の一部を支配する大大名になったのでした。
※上記は今回までの内容に関連する映像です。尚、講座のすべてに関する映像も配信しております。




いつも有難うございます。
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ケンシロウ こんにちは。
↓ 追いつくどころか振り切られそうですw
大内家も内部に裏切り者が居るわけですから
簡単に滅びてしまいますよね。
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 > ↓ 追いつくどころか振り切られそうですw
ケンシロウさんなら大丈夫ですよ(^^♪
> 大内家も内部に裏切り者が居るわけですから
> 簡単に滅びてしまいますよね。
国などの組織体が滅亡するのは、外からの圧力よりも内部からの崩壊の方が多いんですよね。
我が国は大丈夫でしょうか…?
戦国謀略王
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
この前、毛利元就についての本を読んだのですが、
毛利元就は、間違いなく、戦国謀略王ですね。
私は、毛利元就が、躍進したのは、最初、敵の能力が凡庸だからと思っていましたが、
本を読んで、わかったことは
中国地方は、知将・猛将が多くいました。
(陶晴賢もかなり、優秀な武将だったんですね。)
ということは、毛利元就が、彼ら以上に恐ろしく、謀略に長けていたということなんですね。
それにしても、謀略とは、いわば、相手の心を支配するマインドコントロールのような能力なので
この能力のある毛利元就は、人間の心理について、知り尽くしていた気がします。
実際には、絶対に不可能ですが
こういうガチンコ対決をしたら、どうなっていたんでしょうね。
◆ 毛利元就の謀略vs 羽柴秀吉の調略
対決。
◆ 毛利元就の謀略vs 織田信長の戦略対決。
それにしても、謀略だけで、あれだけの領土を拡大したというのは、素直に尊敬します。
今の日本の外交官にも、毛利元就くらいの謀略のような『したたかさ。』を見習って欲しいものですね。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに興味ある対決ですね。
また、確かに外交における「したたかさ」で現代においても存在している国もありますから、我が国の外交戦略ももっと考えてほしいものです。
兵法とは、騙し合い
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
毛利元就の生き方は、逆の立場で考えると
もの凄い、今の日本に恐怖感を与えますね。
というのも、
地方の弱小豪族でも、謀略があれば、大国を飲み込むことが出来るという証明です。
これって、
今、日本はGDP世界3位の国ですが、
他国の弱小国家であっても、日本に謀略を掛ければ、気がつけば、日本を乗っ取れるという証明ですね。(情報戦、工作員、脅しの外交戦)
今の日本は、『豊かさボケ』『平和ボケ』『平等ボケ』なので、謀略に長けた他国からすると
これほど、謀略をしやすい国は、ないかもしれません。
願わくば、今の日本の政権担当者が、
毛利輝元でないことだけを祈ります。
そう言えば、毛利輝元も謀略に掛って、戦わずして領地を削られましたね。
これも、今の、尖閣諸島、竹島もそうならないように祈りたいです。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおりの危惧を私も感じますね。
大内氏
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
気になったので、大内氏について、調べました。
大内氏は、領土が大きいだけではなく、
文化的にも大内文化を創り、さらに明との貿易で、
経済力も十分にあったのですね。
最後は、大内義隆が、平和ボケになり、
あっさり、滅びましたが、
大国でも、トップが平和ボケだとスグに滅ぶのですね。
今の日本は、大丈夫か心配です。
青田さんへ その3
黒田裕樹 私も心配になりますね。