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黒田裕樹の歴史講座
受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。
次回の「黒田裕樹の歴史講座」

第66回黒田裕樹の歴史講座「戦後史検討 その1 ~占領政策の本質」平成30年5月20日(日)午後2時より東京・スター貸会議室 飯田橋にて、5月26日(土)午後2時より大阪市立総合生涯学習センター第1研修室(ホール)にてそれぞれ行います(東京講演の開始時間が1時間早まっていますので、お間違えのないようにご注意ください)。

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┣政党の復活 (2)
┣経済面の占領政策 (7)
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┣昭和天皇のご巡幸 (10)
┣冷戦体制の形成とアジア情勢 (10)
┣朝鮮戦争の勃発 (4)
┣日本の独立回復 (8)
┣特需景気と経済復興 (4)
┣独立回復後の国内情勢 (3)
┣激動する世界情勢 (6)
┣55年体制の成立と国連への加盟 (3)
┣安保条約の改定と闘争の激化 (3)
┣高度経済成長 (6)
┣保守長期政権 (6)
┣国民生活の変化 (7)
┣保守政権の動揺 (10)
┣貿易摩擦とバブル景気 (4)
┣戦後の文化 (4)
┗昭和から平成へ (5)
平成時代 (89)
┣冷戦体制の崩壊 (19)
┣湾岸戦争の大きな教訓 (9)
┣55年体制の崩壊 (11)
┣バブル経済の崩壊と金融制度改革 (9)
┣森内閣から小泉内閣へ (17)
┣第一次安倍内閣とその後の自民党政権 (10)
┣民主党政権と東日本大震災 (12)
┗安倍政権の復活 (2)
第1回歴史講座 島国の環境が創った我が国の歴史 (10)
┣日本列島の地理的環境がもたらした「天然の防壁」 (2)
┣中国大陸との交流 (2)
┣聖徳太子と遣隋使 (2)
┣朝鮮半島とのかかわり (2)
┗「島国」ゆえの最大の危機 (2)
第2回歴史講座 「鎖国」という名の悲劇 (9)
┣「鎖国」に対するイメージとは (1)
┣「鎖国」に至るまでの歴史 (2)
┣なしくずしの「鎖国」とその影響 (2)
┣逃してしまった「開国」へのチャンス (2)
┗「しなくても済んだ苦労」をする「悲劇」 (2)
第3回歴史講座 源義経 (11)
┣平氏に捕まりながらも生きながらえた奇跡 (2)
┣戦術の天才ぶりを遺憾なく発揮 (2)
┣ついに平氏滅亡、しかし… (2)
┣「戦略」が理解できなかった「戦術」の天才 (3)
┗役割を終えた「アイドル」の末路 (2)
第4回歴史講座 明智光秀 (12)
┣最大のミステリー 「本能寺の変」 (1)
┣光秀の動機は「怨恨」か? (2)
┣信長と光秀との理想的な主従関係 (2)
┣「不信感」という名の導火線 (2)
┣ついに爆発した光秀の不信感 (2)
┣本能寺の変に「黒幕」はいない (2)
┗たった一人で歴史を変えた男 (1)
第5回歴史講座 毛利家の栄枯盛衰 (15)
┣信長に次いで天下取りに近かった男 (1)
┣重大な決意 (3)
┣すべてが思い通りに (3)
┣凄まじいまでの謀略 (2)
┣三矢の訓(おしえ) (2)
┣元就の不安的中 (2)
┗因果はめぐる (2)
第6回歴史講座 徳川綱吉 (19)
┣徳川綱吉は本当に「暗君」か? (2)
┣ハンデを乗り越えて始まった綱吉の治世 (3)
┣「生類憐みの令」の背景とその真実 (5)
┣綱吉の治世における数々の功績 (4)
┣立て続けに綱吉を襲った「災害」 (2)
┣恐るべき「歴史の捏造」からの名誉回復を目指せ (2)
┗綱吉が我が国にもたらした「思わぬ効果」 (1)
第8回歴史講座 田沼意次と松平定信 (18)
┣田沼意次=悪役は本当か? (2)
┣田沼時代の真実 (8)
┣偶然と陰謀と (3)
┣前政権の全否定 (4)
┗「名君」と「悪人」の目くらましに惑わされないために (1)
第9回歴史講座 明治憲法とは (15)
┣明治憲法の一般的な評価は真実か? (2)
┣明治憲法の歴史的経緯 (5)
┣明治憲法の公民的考察 (6)
┗統帥権の干犯 (2)
第10回歴史講座 信長と信玄との「決定的な違い」について (17)
┣信長と信玄との「決定的な違い」とは? (3)
┣一つめの違い (6)
┣二つめの違い (4)
┗「決定的な」三つめの違い (4)
第11回歴史講座 太閤殿下の夢 (16)
┣我が国と「ある国」との秀吉の評価の違いとは? (2)
┣世界史の流れから見た我が国侵略への恐怖感 (5)
┣秀吉の朝鮮出兵の意図は「明への先制攻撃」にあり (3)
┣徳川家によってねじ曲げられた朝鮮出兵の真意 (2)
┗歴史教育に必要な「それぞれの立場」による認識 (4)
第12回歴史講座 戦国時代の宗教戦争 (15)
┣「政教分離の原則」が定着した我が国 (1)
┣「政教一致」が我が国にもたらした様々な問題 (4)
┣信長の政策 (4)
┣秀吉の政策 (3)
┣家康の政策 (2)
┗政教分離による恩恵と問題点 (1)
第13回歴史講座 日本とトルコ (15)
┣屈指の親日国家 「トルコ共和国」 その理由とは? (1)
┣エルトゥールル号の悲劇と懸命の救助 (5)
┣我が国とトルコとの間に生まれた絆 (2)
┣トルコの恩返し (4)
┣固い絆は永遠に (2)
┗補足 (1)
第15回歴史講座 遠山の金さん (18)
┣「遠山の金さん」の実像とは? (1)
┣時代劇「遠山の金さん」のストーリー (5)
┣将軍から「お墨付き」をもらった北町奉行 (3)
┣水野忠邦や「妖怪」との対立 (4)
┣庶民の楽しみを守った名奉行 (3)
┗「金さん」伝説は永遠に (2)
第16回歴史講座 政権交代の歴史 (16)
┣選挙だけではない「政権交代」の歴史 (2)
┣朝廷による政治から平氏政権へ (4)
┣鎌倉幕府の誕生 (4)
┣建武の新政と三英傑との大きな違い (3)
┣江戸幕府から明治維新へ (2)
┗そして現代へ (1)
第17回歴史講座 徳川家康 (22)
┣歴史に学んだ家康の平和主義とは? (2)
┣独立後も続いた辛抱の日々が報われるとき (3)
┣独立までの苦難の日々で身に着けたもの (4)
┣律義者から狸爺へ (3)
┣幕府存続を目指して (4)
┣皇室をも利用した容赦ない家康の「平和主義」 (3)
┗「平和主義者」家康に対する誤解と偏見 (3)
第18回歴史講座 日韓併合 (20)
┣日韓併合の歴史的経緯を探る必要性 (2)
┣不幸な行き違いから始まった明治の日朝関係 (4)
┣二つの事変と朝鮮半島に忍び寄る清国の影 (2)
┣日清戦争で清国の介入を防ぐも、迫るロシアの魔の手 (5)
┣「保護国」から「併合」へと導いた一発の銃弾 (5)
┣日韓併合までに至る歴史の評価とは? (1)
┗補足 (1)
第19回歴史講座 織田信長 (18)
┣織田信長の全体像とは? (1)
┣「生きた情報」を重視する信長の姿勢 (3)
┣「目先の利益」よりも長期的なビジョンを優先 (2)
┣地名の変更と大胆な城下町政策で都市を繁栄に導く (2)
┣信長が敵から学んだ「独自の政策」とは (4)
┣自らの権威を高めるために信長が選んだ手段 (3)
┣独裁者の精神が招いた「本能寺の変」 (2)
┗「歴史の転換者」の完成した姿とは? (1)
第20回歴史講座 幕末百景 (25)
┣幕末における大きな歴史の流れとは? (1)
┣薩摩藩の場合 (7)
┣長州藩の場合 (8)
┣土佐藩の場合 (2)
┣肥前藩の場合 (2)
┗江戸幕府の場合 (5)
第21回歴史講座 昭和天皇・前篇 (23)
┣我が国の危機を救われた昭和天皇 (2)
┣幼年期からご即位まで (3)
┣立憲君主制の重み (6)
┣一日も早い戦争終結を願われて (5)
┣ご聖断下る (5)
┣終戦を迎えて (1)
┗大東亜戦争終結ノ詔書 (1)
第22回歴史講座 日本国憲法誕生秘話 (15)
┣日本国憲法をめぐる謎 (1)
┣GHQが主導した新憲法の制定 (4)
┣脅迫に屈した占領の悲劇 (3)
┣憲法改正への動きが鈍い理由 (2)
┣自主的な憲法改正の必要性 (3)
┗補足 (2)
第23回歴史講座 昭和天皇・後篇 (24)
┣我が国の運命を決めたマッカーサーとのご会見 (2)
┣現在も続く「皇居勤労奉仕」の源流 (1)
┣「人間宣言」に対する大きな誤解 (4)
┣昭和天皇のご巡幸 (10)
┣世界における天皇陛下の権威 (2)
┣太陽は静かに沈み、そしてまた昇る (4)
┗東日本大震災と天皇陛下のビデオメッセージについて (1)
第24回歴史講座 日韓併合後の歴史 (10)
┣「日帝三十六年の真実」とは? (1)
┣植民地支配における過酷な真実 (2)
┣朝鮮半島の統治における数々の真実 (5)
┗外国が絶賛した我が国の朝鮮統治 (2)
第25回歴史講座 風雲・関ヶ原 (21)
┣「関ヶ原の戦い」にまつわる様々な側面 (1)
┣避けられなかった「豊臣家の落日」 (4)
┣「敗軍の将」 石田三成の真実 (3)
┣実は「薄氷の勝利」だった徳川家康 (4)
┣もし関ヶ原の戦いで西軍が勝っていたら (5)
┣関ヶ原の戦いから見えてくるもの (1)
┗補足 (3)
第26回歴史講座 藤原氏の栄枯盛衰 (25)
┣藤原氏から見えてくる大きな歴史の流れ (1)
┣誕生 (3)
┣発展 (7)
┣完成 (4)
┣実は不可思議な藤原氏の栄華 (2)
┣没落と復活と (6)
┣藤原氏の歴史をたどる意義 (1)
┗補足 (1)
第27回歴史講座 からくり儀右衛門 (12)
┣我が国を支えた「ものづくり」の精神 (1)
┣「からくり儀右衛門」の誕生 (3)
┣人々の暮らしに貢献した数々の発明 (2)
┣歴史を変えた「アームストロング砲」 (3)
┣歴史をつくった晩年の事業 (2)
┗知識は失敗より学ぶ (1)
第28回歴史講座 真説・平家物語 (23)
┣平家滅亡の真の理由とは? (1)
┣武士の誕生とその飛躍の背景 (3)
┣平家を栄光へと導いた二つの乱 (6)
┣「開拓者」の宿命としての大きな「欠陥」 (5)
┣悲運と必然とがもたらした平家の没落 (7)
┗大いなる教訓としての平家の功績 (1)
第29回歴史講座 室町幕府の教訓その1 (15)
┣「室町時代」の分かりにくさ (1)
┣「鎌倉幕府」滅亡への道のり (4)
┣「建武の新政」の理想と現実 (4)
┣欠陥だらけだった「室町幕府」とその原因 (5)
┗課題を残した尊氏の「負の遺産」 (1)
第30回歴史講座 室町幕府の教訓その2 (22)
┣義詮から義満へ (2)
┣南北朝の合一 (3)
┣義満の野望と挫折 (6)
┣神に選ばれた将軍 (5)
┣後南朝の悲劇 (5)
┗「やり過ぎ」がもたらしたもの (1)
第31回歴史講座 室町幕府の教訓その3 (18)
┣「箍が外れた桶」となった室町幕府 (2)
┣「応仁の乱」の思惑と現実 (5)
┣権威の「使い捨て」に振り回された足利将軍 (6)
┣「室町幕府の教訓」とそれを活かしきった男 (4)
┗歴史に学んで「教訓」を活かす重要性 (1)
第32回歴史講座 聖徳太子 (21)
┣建国以来の危機に敢然と立ち向かった男 (1)
┣内憂外患からの大改革 (3)
┣冠位十二階に秘められた深慮遠謀 (2)
┣現代にもつながる憲法十七条の精神 (3)
┣遣隋使で見せた我が国の気概 (8)
┗聖徳太子をめぐる昨今の諸問題 (4)
第33回歴史講座 明治天皇 (28)
┣崩御100年にご遺徳を偲んで (1)
┣明治天皇のご誕生と激動の維新 (4)
┣西郷隆盛とのお若き頃の日々 (2)
┣明治天皇と立憲君主制 (6)
┣教育勅語に込められた陛下の願い (3)
┣戦時における陛下の大御心 (5)
┣大津事件での誠実なご対応 (2)
┣明治の終焉とその後 (4)
┗「明治の日」を実現しよう! (1)
第34回歴史講座 真説・忠臣蔵 (22)
┣「元禄赤穂事件」の真実 (7)
┣「水と油」だった浅野家と吉良家 (4)
┣「浅野vs.吉良」と「討ち入り」の本当の理由 (5)
┣「元禄赤穂事件」が「忠臣蔵」になるまで (4)
┗「隠されたメッセージ」を理解するために (2)
第35回歴史講座 人権法案の矛盾 (23)
┣人権法案に秘められた矛盾 (8)
┣治安維持法の真実 (4)
┣自治基本条例の恐るべき実体 (7)
┗今こそ問われる国民としての自覚 (4)
第36回歴史講座 山田方谷 (16)
┣山田方谷の誕生とその半生 (2)
┣方谷による財政改革の全容 (7)
┣他藩も参考にした方谷の改革精神 (2)
┣藩を救った改革とその後の方谷 (3)
┗「アベノミクス」成功の切り札として (2)
第37回歴史講座 北条時宗 (15)
┣元の建国 (3)
┣文永の役 (4)
┣弘安の役 (5)
┗「征夷大将軍」の重責 (3)
第38回歴史講座 乃木希典 (32)
┣「武人」乃木希典の青年期 (4)
┣連隊旗喪失の悲劇とその後の乃木 (5)
┣旅順攻略戦の苦悩・前編 (6)
┣旅順攻略戦の苦悩・中編 (4)
┣旅順攻略戦の苦悩・後編 (6)
┣奉天会戦、そして帰国後の乃木の決意 (3)
┗晩年の乃木将軍と殉死 (4)
第39回歴史講座 樋口季一郎 (20)
┣「エリート将校」の様々な横顔 (4)
┣オトポール事件 (6)
┣キスカ撤退作戦 (5)
┣占守島の戦い (3)
┗「誇りある決断」がもたらしたもの (2)
第40回歴史講座 西郷隆盛 (30)
┣若き日の西郷と藩主斉彬との出会い (6)
┣不遇の時代を乗り越えて討幕へ (5)
┣西郷の武士道精神を支えたものとは (6)
┣征韓論争にも見られた「武士道精神」 (5)
┣西南戦争に見られる西郷の「覚悟」 (5)
┗身は城山の露と消えても (3)
第41回歴史講座 鈴木貫太郎 (23)
┣「鬼貫」と呼ばれた男の半生 (5)
┣運命の「二・二六事件」 (4)
┣最難局での総理大臣就任 (6)
┣陛下のご聖断を導いた男 (6)
┗「鬼貫」の生き様から学ぶもの (2)
第42回歴史講座 黒田官兵衛 (14)
┣播磨で名を挙げた青年期の官兵衛 (3)
┣信長・秀吉との出会いと幽閉の日々 (4)
┣天下平定から朝鮮出兵への道のり (3)
┗家康への臣従と関ヶ原以後の官兵衛 (4)
第43回歴史講座 文部省唱歌の世界 (14)
┣講演編 (8)
┗歌唱編 (6)
第44回歴史講座 条約改正への道のり (28)
┣江戸幕府が結ばされた不平等条約 (8)
┣条約改正への道のり・前編 (7)
┣条約改正への道のり・後編 (5)
┗条約改正が我が国に残した大きな教訓 (8)
第45回歴史講座 大化の改新と壬申の乱 (23)
┣蘇我氏の横暴 (5)
┣大化の改新への道のり (5)
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┣寛政の改革の様々な「弊害」  (7)
┣いま明かされる松平定信の「人間性」 (5)
┣大御所時代と大塩の乱 (6)
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┣水野忠邦や「妖怪」との対立 (7)
┗「金さん」伝説は永遠に (5)
第55回歴史講座 奈良・平安前中期の政治史 (41)
┣藤原不比等 [藤原氏] から長屋王 [非藤原氏] へ (5)
┣藤原四兄弟 [藤原氏] から 橘諸兄 [非藤原氏] へ (4)
┣藤原仲麻呂 (恵美押勝) [藤原氏] (6)
┣道鏡 [非藤原氏] から再び藤原氏 [藤原百川・藤原永手] へ (5)
┣摂関政治全盛までの道のり (8)
┣藤原氏を支えた財政的基盤 (4)
┣源氏物語に秘められた藤原氏との関わり (4)
┗藤原氏の「不可思議な」栄華とその後の没落 (5)
第56回歴史講座 日本文明の誕生 (22)
┣縄文文化は「世界最高水準」であった (6)
┣最新の調査研究で明らかになった「弥生文化」の真実 (4)
┣神話の正しさを証明した「地質学的事実」 (6)
┗「建国に関する伝承」と「日本文明」 (6)
第57回歴史講座 平安後期の政治史 (43)
┣武士の誕生と院政の成立 (9)
┣武士団の成長と源氏の躍進 (5)
┣平氏を栄光へと導いた二つの乱 (6)
┣平氏政権に秘められていた「大きな欠陥」 (5)
┣頼朝の台頭と平氏の滅亡 (9)
┗「戦略」が理解できなかった「戦術」の天才 (9)
第58回歴史講座 日本と韓国のほんとうの歴史 (41)
┣「日本と韓国のほんとうの歴史」を学ぶにあたって (4)
┣日朝関係を悪化させた「不幸な行き違い」 (4)
┣朝鮮半島に迫る清国の影とロシアの魔の手 (8)
┣併合を決定づけた「運命の銃弾」 (5)
┣一般的な植民地支配の厳しい現実 (3)
┣朝鮮半島の統治における数々の真実 (7)
┣慰安婦問題の「日韓合意」について (7)
┗外国が絶賛した我が国の朝鮮統治 (3)
第59回歴史講座 東條英機 (41)
┣「軍人」東條英機が政治の舞台に登場するまで (6)
┣日米開戦を導いた「アメリカの思惑」 (7)
┣コミンテルンの謀略と東條首相の苦悩 (9)
┣大東亜戦争は「無謀な戦争」だったのか (9)
┗東條英機元首相の遺書 (10)
第60回歴史講座 日本外交史その壱 (29)
┣「小国」が始めたチャイナとの外交 (5)
┣「邪馬台国」と「倭の五王」の外交について (6)
┣聖徳太子がもたらした「対等外交」 (10)
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┣鑑真の渡日と刀伊の入寇 (9)
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┣神風をもたらした「断固たる決意」 (5)
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第62回歴史講座 日本外交史その参 (49)
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黒田裕樹

Author:黒田裕樹
(くろだ・ひろき)
社会人出身の教師(大阪府内の公立高校非常勤講師)です。歴史教育のブログ「黒田裕樹の歴史講座」を開設しております。
Birthday:S44.02.15(みずがめ座)
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花嫁募集中(未婚)です(^^ゞ
大阪市在住
広島東洋カープの大ファンです♪

教師としての専門科目:日本史、現代社会など
高校地歴・公民、中学社会の教員免許を所有

大阪・明星高校から関西大学法学部を卒業後、複数の司法書士事務所に勤務の後に教師になることを志し、通信教育で教員免許を取得。私立高校の社会科非常勤講師から私立大学の事務職員、大阪府立高等学校期限付常勤講師を経て、現在は大阪府内の公立高校で非常勤講師として勤務中です。

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薬子の変 その3
桓武天皇の時代に軍隊が廃止されたことにより、平安京の治安の悪化が懸念されるようになりました。そこで嵯峨天皇は、警察の機能とともに後には裁判も行うようになった検非違使(けびいし)を設置し、都の治安維持に当たらせましたが、地方は事実上無警察の状態になり、 「平安」の名とは裏腹に治安の乱れが甚(はなは)だしくなっていきました。これがやがて武士が生まれるきっかけのひとつとなったのです。

また、嵯峨天皇は法制の整備にも力を入れられました。大宝律令や養老律令が制定されて以来、年月の経過や社会の変化によって様々な法令が出されましたが、これらは律令の規定を補足・修正する格(きゃく)と、律令の施行細則(しこうさいそく、法令などを施行する上で必要なことを定めた細かい規則のこと)である式(しき)とに分類・編集されました。

820年にまとめられた格と式は、当時の年号から「弘仁格式」(こうにんきゃくしき)と呼ばれました。その後、第56代の清和天皇(せいわてんのう)の時代に「貞観格式」(じょうがんきゃくしき)が、第60代の醍醐天皇(だいごてんのう)の時代に 「延喜格式」(えんぎきゃくしき)が相次いで編さんされました。これら三つの格式は、あわせて「三大格式」と呼ばれています。

弘仁格式の編さん後に、令(りょう)の解釈を統一するために833年に第53代の淳和天皇(じゅんなてんのう)が作成を命じた、法的効力を持つ「令義解」(りょうのぎげ)が清原夏野(きよはらのなつの)らによってまとめられました。一方、法的効力はもたないものの、惟宗直本(これむねのなおもと)が独自にまとめた「令集解」(りょうのしゅうげ)も伝えられています。

(明日からは第4回歴史講座の内容を、6時と18時の二回に分けて更新します)

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【2009/08/31 12:00】 | 薬子の変
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通達みたいなもの?
オバrev
格式というのは、各省庁が、詳細が示されてない法律の具体的な解釈について、国会のチェックも受けずに、各省庁独自にだしている通達のようなものですね。

でも我々零細業者はこの通達に右往左往させられてます(T_T)

オバrevさんへ
黒田裕樹
> 格式というのは、各省庁が、詳細が示されてない法律の具体的な解釈について、国会のチェックも受けずに、各省庁独自にだしている通達のようなものですね。

そうですね。法律というものは今も昔も難解で、解釈にも様々な学説があるものです。そんな法解釈を出来るだけ分かりやすくまとめたものが格式だったのですが、時代が下るにつれて我が国の実情に沿った内容に変えられているのも大きな特徴です。

> でも我々零細業者はこの通達に右往左往させられてます(T_T)

現在の施行細則は政令で定められますから、国会の決議を必要としないんですよね(内閣で勝手に決められる)。確かに頭痛の種ではあります。

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第4回「黒田裕樹の歴史講座」の報告 その1
お蔭様で、第4回「黒田裕樹の歴史講座」は無事終了しました。今回は、ブログをご覧になった方々から初めて参加をいただいたこともあり、前回の6名から一気に17名の皆様にご参加をいただくという大盛況になりました。

今回の「明智光秀 ~謀反人(むほんにん)の言い分」も、前回に負けないくらいの意気込みで臨めたと自負しております。詳細は9月1日からブログ上で順次公開してまいりますが、今回より実際の講座の様子を映像にてご覧いただけるよう準備しております。

尚、次回以降、11月までの予定は下記のとおりです。
第5回 「毛利家の栄枯盛衰 ~戦国から幕末までつながる歴史」
 平成21年9月19日(土)午後3時より
第6回 「徳川綱吉 ~犬公方の真実」
 平成21年10月24日(土)午後3時30分より
 ※当初は午後3時開始予定でしたが、都合により30分遅らせます。
第7回 「吉宗は名君か? ~暴れん坊将軍の素顔」
 平成21年11月28日(土)午後6時より
 ※この回は午後6時開始になります。

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いつも有難うございます。
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【2009/08/31 00:00】 | お知らせ
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MAHHYA
明智光秀には、大変興味があるので、今後のアップをとっても楽しみにしています!
ああ、関西地方に住んでいたら、絶対セミナーに行くのになあ~(>_<)
残念です!

MAHHYAさんへ
黒田裕樹
お言葉有難うございます(^_^)v

そうですね。大阪からなかなか離れられないもので…(´・ω・`)
でも今回から映像でもお楽しみいただけると思いますので、そちらの方でもよろしくお願いしますm(_ _)m

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薬子の変 その2
平城上皇による不穏な動きを察せられた嵯峨天皇は、810年3月に天皇の命令を速やかに伝えるための秘書官庁としての役割を持つ蔵人所(くろうどどころ)を設置し、天皇の側近の藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)らがその長官に当たる蔵人頭(くろうどのとう)に任命されました。

810年9月、平城上皇はついに平城京への再遷都を宣言されましたが、事前に察知された嵯峨天皇に動きを封じられ、上皇は東国へ逃れようとされましたが、先回りした坂上田村麻呂らによって阻止されました。進退窮(きわ)まった平城上皇は出家されることで許され、仲成は射殺され、薬子は毒をあおって自害しました。この事件を「薬子の変」といいます。 

藤原仲成と藤原薬子の兄妹は、長岡京の造営責任者で暗殺された藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の子でした。薬子の変の背景には、種継が命がけで造営しようとした長岡京を結果的に「捨てた」桓武天皇に対する激しい憤りがあったとされています。尚、射殺された仲成以来、朝廷で死刑が執行されることはなくなりました。死刑の復活は12世紀半ばの「ある事件」まで待つことになります。

薬子の変の結果、藤原四兄弟の宇合(うまかい)を始祖とする式家(しきけ)は没落し、房前(ふささき)の子孫である藤原冬嗣が率いる北家(ほっけ)が力をつけるきっかけになりました。また、薬子の変の際に嵯峨天皇の側について勝利の祈祷を行い、後の出世につながる働きをした僧がいました。その名を空海(くうかい)といいます。

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【2009/08/30 12:00】 | 薬子の変
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monariz
一番乗りかな?

再遷都なんて話は始めて聞きましたねー
確かに阻止されたのであれば、まぁ重要ではないのかもしれませんけど・・・ ていうか嵯峨天皇とか聞いたことないです。

長岡京でそんなつながりがあったんですか。それは知りませんでした。これも歴史的には面白い話だと思うんですけどねー。やはり授業時間の問題ですよね。

ある事件ってなんでしょう。木になります。待ちます。

空海さんがここで出てくるんですか!それと絡めれば授業にだせないことも・・・ ま、そんなに覚えられませんよね。 空海さんがかつやくするタイミングを待ってます。


紗那
申し訳ありません。さきほどのコメントは自分のものでした。
友人の家からのアクセスなもので。変更するのを忘れていました。

紗那さんへ
黒田裕樹
> 一番乗りかな?

ハイ、一番乗りです(笑)。

> 再遷都なんて話は始めて聞きましたねー
> 確かに阻止されたのであれば、まぁ重要ではないのかもしれませんけど・・・ ていうか嵯峨天皇とか聞いたことないです。

このあたりは高校の日本史で初めて学びますからね。まぁ今回で理解しておいて損はないですよ(^^ゞ

> 長岡京でそんなつながりがあったんですか。それは知りませんでした。これも歴史的には面白い話だと思うんですけどねー。やはり授業時間の問題ですよね。

薬子の変によって、桓武天皇―長岡京―藤原種継―藤原薬子―平城天皇―嵯峨天皇が全部つながるんですよ。話の内容も面白いし(特に女性向き)、生徒のためにもなるんですが、仰るとおり授業時間が…。

> ある事件ってなんでしょう。木になります。待ちます。

いずれ紹介しますよ。その時に「あぁ、薬子の変以来か!」と思い出せればOKですね(^_^)v

> 空海さんがここで出てくるんですか!それと絡めれば授業にだせないことも・・・ ま、そんなに覚えられませんよね。 空海さんがかつやくするタイミングを待ってます。

さすがに欲張りすぎかな(^^ゞ
まぁこれも覚えていて損はないですよ。空海が活躍できたのにはそれなりの理由があったということです。

> 申し訳ありません。さきほどのコメントは自分のものでした。
> 友人の家からのアクセスなもので。変更するのを忘れていました。

いえいえ、お構いなく。ご友人のmonarizさんにも、是非私のブログを勧めて下さいね(^^♪


ぴーち
こんばんは!
講座、今回もご盛況だったとのこと、
喜ばしい事です!

ここまで藤原家一族の末路というのは、何やら
まともな最期を迎えられていない様な気がするのですが・・^^;
空海は存じております。
こういう繋がりがあったんですね。
それでは、また、お邪魔します!


安眠癒しグマ
こんばんは☆
ようやくパソコンができる状態になりました。。。

下のコメントかえしありがとうございました。講座、たくさん予定されていますもんね♪またの機会に是非。そして、記事たのしみにしてますね。

ぴーちさんへ
黒田裕樹
講座は皆様のお陰で大盛況でした。詳しくはこの後の別記事で紹介しますね(^^♪

そうですね。これも藤原氏の激しい勢力争いが呼んだ結末なのでしょうか…。ただ、今回の「薬子の変」によって藤原北家が勢力を伸ばしたことで、今後の展開が変わることになります。

空海も歴史の表舞台に突然姿を現したわけではないんですよね。歴史の流れを実感する一場面だと思います。

安眠癒しグマさんへ
黒田裕樹
> こんばんは☆
> ようやくパソコンができる状態になりました。。。

体調ご回復されましたか?
良かったですね(^^♪

> 下のコメントかえしありがとうございました。講座、たくさん予定されていますもんね♪またの機会に是非。そして、記事たのしみにしてますね。

いえいえ。講座につきましては今後も続けてまいりますので、是非ご参加下さいね!


ケンシロウ
こんにちは。

講座は大盛況だったようですね。
薬子の変と呼ばれるので自害ではなく
殺されたものと記憶しておりました。
やはりおいらの記憶は曖昧で
いい加減に覚えてきたということが立証されましたw

ケンシロウさんへ
黒田裕樹
講座の件、お言葉有難うございます。

薬子の変ですが、仰るとおり自害で決着しています。いつもの言葉ですみませんが、これを機会に理解くださればと思いますよ。


徳薙零己
お初にお目にかかります。平安時代初期を舞台とする小説をブログで書いている徳薙零己(とくなぎ・れいき)と申します。
藤原薬子については50日に渡って公開し、その後の藤原冬嗣については120日かけて公開するという長さになっていますが、簡潔にまとめるとこうなのだな、という思いにさせられます。

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第4回「黒田裕樹の歴史講座」のお知らせ
いつも「黒田裕樹の歴史講座」をご覧いただきまして有難うございます。

さて、去る7月18日に第3回「黒田裕樹の歴史講座」を開催致しましたところ、前回同様6名の皆様にご参加をいただきまして、誠に有難うございました。

次回(第4回)の歴史講座は、「明智光秀 ~謀反人(むほんにん)の言い分」と題して、大阪・梅田で8月29日(土)の午後3時より開始致します。

本能寺の変の首謀者として、我が国の歴史に永遠にその名を残すことになった明智光秀。彼はなぜ大恩ある主君・織田信長を暗殺したのか。また、後の世に「三日天下」と呼ばれた彼の短い天下を長続きさせることはできなかったのか?

次回の講座では、本能寺の変前後の彼の行動を中心に、光秀の心境を推理してみたいと思います!

第4回「黒田裕樹の歴史講座」
日時:平成21年8月29日(土) 午後3時より
内容:「明智光秀 ~謀反人(むほんにん)の言い分」
講師:黒田裕樹
場所:梅田東学習ルーム
会費:無料

ブログをご覧の皆様も、宜しければ是非ご参加下さい。この記事のコメント欄をご活用いただければと思います。また、今回の講座の内容については、前回までと同様に、後日にはブログ上で発表しますので、是非ご覧になって下さい。

尚、予約の都合上、当日の教室一覧(午後)の掲示板に「大阪読書研究会」と書かれているのが「黒田裕樹の歴史講座」の会場となります。ご注意下さい。

参考までに、10月までの予定も紹介しておきます。

第5回 「毛利家の栄枯盛衰 ~戦国から幕末までつながる歴史」
 平成21年9月19日(土)午後3時より
第6回 「徳川綱吉 ~犬公方の真実」
 平成21年10月24日(土)午後3時30分より
 ※当初は午後3時開始予定でしたが、都合により30分遅らせます。

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【2009/08/29 15:00】 | お知らせ
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さすらい
こんばんは。
おお、また決定されたのですね!
次回も成功されることをお祈りします。
今度は明智光秀ですか。
興味深いですねえ。
応援♪

さすらいさんへ
黒田裕樹
有難うございます。
明智光秀に関しては、本能寺の変において通説とはかなり異なる実像が見え隠れしていると思いますので、そのあたりを追究できればと思っています。


悠
講座されてるんですか
すごいですね
ぜひ行きたいですけどちょっと遠いです・・・
がんばってください!


悠さんへ
黒田裕樹
有難うございます。お気持ちだけで励みになります。
ただ、講座内容を皆さんにもっと理解していただけるような工夫が欲しいところではありますね。


えめる
住んでいるところが関東のいなかゆえ、行けないんですが、
成功を祈っていますニャね。
記事にアップされるのを待っています。頑張ってニャね。

えめるさんへ
黒田裕樹
お気遣い感謝します。最近はえめるさんのブログで私が助けられてばかりですね(^^ゞ
http://memru.blog38.fc2.com/

講座の内容はこれまで同様記事としてUPしますので、よろしくお願いしますm(_ _)m


華
講座されるんですか。
すごい!
成功するといいですね。
頑張って下さい^^


華さんへ
黒田裕樹
励ましのコメント有難うございます(^_^)v
あと2週間をきりましたが、何とか無事に成功させるよう頑張りますね(^^♪


keron
こんばんは 初コメです
シータと申しますのkeronと申します
高校時代の日本史以来触れることのなかった日本史ですが 本能寺の変はとても興味があります。でも残念ながら講座にうかがうことができません。 後日のブログを楽しみにしていますね
講座の成功 お祈り申し上げます

keronさんへ
黒田裕樹
ご訪問&コメント有難うございます。
本能寺の変に関する「定説」の真偽などについても触れる予定ですので、来月早々にも予定しております「ブログ上の講座」までお待ち下さいね。
激励のお言葉、感謝いたします。

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薬子の変 その1
桓武天皇の崩御後は、息子で皇太子の安殿親王(あてしんのう)が第51代の平城天皇(へいぜいてんのう)として即位されました。平城天皇には、天皇の寵愛(ちょうあい)を一身に受けた女性がいました。その名を藤原薬子(ふじわらのくすこ)といい、藤原四兄弟の宇合(うまかい)の子孫でもありました。

平城天皇の皇太子(安殿親王)時代に、一人の娘が親王の妃(きさき)として迎え入れられました。その娘はまだ幼かったので、後見として母親も娘と一緒についていったのですが、ここでとんでもないことが起きてしまいました。何と親王と妃の母親が「男女の仲」になってしまったのです。そして、その母親こそが藤原薬子でした。

安殿親王と薬子の不倫ともいえる関係に激怒された桓武天皇によって、薬子は朝廷から追放されてしまいましたが、桓武天皇が崩御されて平城天皇が即位されると、薬子は再び召し出され、二人の関係はさらに深くなっていきました。と同時に薬子の兄にあたる藤原仲成(ふじわらのなかなり)も出世を重ね、朝廷では仲成・薬子兄妹による政治の専横が続きました。

809年、平城天皇は病気のために退位され、弟の嵯峨天皇(さがてんのう)が第52代天皇として即位されました。平城上皇は平城京に移られて療養されましたが、やがて健康を回復されると、仲成・薬子兄妹の助言もあって再び政治に意欲を持たれて嵯峨天皇と対立し、さながら「二所朝廷」(にしょちょうてい)の様相を呈(てい)するようになりました。

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【2009/08/29 12:00】 | 薬子の変
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ぴーち
こんばんは!

そうですか。。。薬子さん、寵愛を受けて
お育ちになられただけあり、結構我がままなご性格
だったのかもしれませんね。
不倫という道徳に反した行いも平気で
行えるというのは、自己中心的な性格の
表れですものね。
チャールズ皇太子とカミラ夫人の関係にも
似ていたりして・?
ダイアナは哀れでしたね。。

今頃はまだお忙しい最中ですね^^
では、またお邪魔します☆


ケンシロウ
こんにちは。

今日は講座は如何でしたでしょう?
お疲れ様でした。
この時代に不倫とは珍しい関係ですね。
一夫多妻制を容認するイ○ラム教の信者だったとかw

年上が好み?
オバrev
黒田先生 歴史講座お疲れ様でした。
明智光秀の話、楽しみにしております。

藤原薬子ですが、娘が幼すぎたということは、
安殿親王とは、まあ薬子が年下ということはないかもしれないけど年が近かったんでしょうか?

スポーツ選手でも2~3才年上の姉さん女房も結構いるし・・・まさか10才年上なんてことはないですよね (゚Д゚;)

しかし、このケースでは、薬子が平城天皇を惑わしたこともあるでしょうが、年上が好みの平城天皇が惚れ込んでいたように思えます(^_^;)




ぴーちさんへ
黒田裕樹
藤原薬子の存在はあまり知られていませんが、彼女の「不倫」によって、平城天皇をはじめ多くの人の生き様が変化しました。このあたりは今も昔も変わらないようですね。
ただ、薬子には薬子の言い分もありました。今日(30日)の更新で詳しく触れています。

昨日(29日)は大盛況でしたよ!
また別の記事で詳しく紹介しますので、今しばらくお待ち下さいm(_ _)m

ケンシロウさんへ
黒田裕樹
お気遣い有難うございます。昨日(29日)の講座は大盛況でしたよ(^o^)丿

子孫を残すことが第一とされた時代は、仰るような「一夫多妻制」が当たり前でもありました。しかし、薬子のような「逆」のパターンは珍しいうえに、今回のような政変にまで発展したのは他に例がないですね。それだけに印象深い歴史でもあります。

オバrevさんへ
黒田裕樹
> 黒田先生 歴史講座お疲れ様でした。
> 明智光秀の話、楽しみにしております。

有難うございます。別の記事でも書きますが、光秀については9月1日からブログ上の更新を始めます。今回からはそれだけではなくて…?

> 藤原薬子ですが、娘が幼すぎたということは、
> 安殿親王とは、まあ薬子が年下ということはないかもしれないけど年が近かったんでしょうか?
> スポーツ選手でも2~3才年上の姉さん女房も結構いるし・・・まさか10才年上なんてことはないですよね (゚Д゚;)
> しかし、このケースでは、薬子が平城天皇を惑わしたこともあるでしょうが、年上が好みの平城天皇が惚れ込んでいたように思えます(^_^;)

薬子の生年は不詳ですが、おそらく年上だったと思います。というのは、最後のお言葉とも関連するのですが、「早良親王のタタリ」によって病気がちになったうえに、若くして母親を亡くしてしまわれるという環境でお育ちになったので、年上の女性にひかれる可能性は十分にあったからです。
天皇ご即位後の薬子との二人三脚の政治ぶりを振り返れば、二人は不倫の関係にありながら「相思相愛」の関係にあったかもしれませんね。

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平安京への遷都 その3
光仁天皇の時代の780年、朝廷に帰順したはずの蝦夷(えみし)の豪族の伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)が反乱を起こしました。伊治呰麻呂は、一時期は朝廷側の鎮守府(ちんじゅふ、軍政をつかさどる役所のこと)である多賀城(たがじょう)を落とすなど攻撃を続け、東北地方はこの後約30年にわたって戦乱が続きました。

桓武天皇は789年に紀古佐美(きのこさみ)を征東大使(せいとうたいし)に任命して蝦夷の征伐を命じられましたが、蝦夷側の指導者である阿弖流為(アテルイ)に大敗しました。ちょうど長岡京で天然痘が流行していた時期で、この敗北も「早良親王のタタリ」のひとつとされました。

平安京に遷都後の797年、桓武天皇は坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられて、再び蝦夷の征討を目指されました。坂上田村麻呂は桓武天皇のご期待に応えて蝦夷を征服し、802年に胆沢城(いさわじょう、現在の岩手県奥州市)を築いて鎮守府を多賀城から移し、翌803年には志波城(しわじょう、現在の岩手県盛岡市)を築き、東北地方の前進拠点としました。

しかし、これらの東北地方での戦いは平安京の造営と並行しており、国の二大政策が同時に行われたことは結果として国家財政や農民にとって大きな負担となりました。桓武天皇は、805年にこの二大事業をそろって中止することを宣言されると、翌806年に70歳で崩御されました。

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【2009/08/28 12:00】 | 平安京への遷都
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スカイラインV35
後世の解釈かもしれませんが、「傍系」という事で”より以上に積極的”な御方だったのかもしれませんね。江戸時代の光格天皇もそのような評価を受けていますし。「傍系」ゆえのハングリー精神なのか、「傍系」であった為に広い視野と才覚が備わったのか、鶏が先か卵が先かみたいな議論ですが。。。

平安京は未完成?
オバrev
坂上田村麻呂って、日本初の征夷大将軍だったと記憶してますが、東北を制圧したんですね・・・そこは覚えてない~(;^ω^)アレレ?。

それにしても、聖武天皇に続いて桓武天皇も短い期間に遷都してたら、よほど経済が成長しない限り、いわゆる公共事業投資が膨らみすぎて財政破綻しますよね。
しかし、これってまるで、今の日本を見ているような気もしますが(^^;)

でも二大事業中止って、平安京は未完成なんですか?


スカイラインV35さんへ
黒田裕樹
皇室に限らず、傍系の場合はどうしても一段低く見られがちですから、自己を積極的にアピールする傾向にあるようですね。それが必ずしも有効とは限りませんが、少なくとも今回の桓武天皇や、仰った光格天皇の場合は成功例といえると思います。

> 鶏が先か卵が先かみたいな議論ですが

確かにそうですね(^^ゞ
ただ、仰ったお考えは私も同感ですよ。

オバrevさんへ
黒田裕樹
> 坂上田村麻呂って、日本初の征夷大将軍だったと記憶してますが、東北を制圧したんですね・・・そこは覚えてない~(;^ω^)アレレ?。

坂上田村麻呂の征夷大将軍が、本来の意味での将軍です。後に拡大解釈されて、源頼朝や足利尊氏、徳川家康などにつながっていくんですよね。

> それにしても、聖武天皇に続いて桓武天皇も短い期間に遷都してたら、よほど経済が成長しない限り、いわゆる公共事業投資が膨らみすぎて財政破綻しますよね。
> しかし、これってまるで、今の日本を見ているような気もしますが(^^;)

当時はタタリが正当化された時代でしたから、度重なる遷都にも一応理由があっただけ、現代よりもマシかもしれませんね。なにしろ無意味にハコモノをつくりすぎますから…。選挙後の政権も同じ轍を踏まなければよいのですが。

> でも二大事業中止って、平安京は未完成なんですか?

いわゆる政庁としての機能は完成しており、首都にふさわしい周辺の整備が途中で打ち切られたと思われます。桓武天皇の新都への意気込みは相当なものであられたようですから…。

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平安京への遷都 その2
桓武天皇は、律令制を実情に合わせて次々と修正され、令(りょう)で決められていない新しい官職を定められました。これを令外官(りょうげのかん)といいます。地方政治の改革のために設けられた勘解由使(かげゆし)もそのひとつで、地方行政官である国司(こくし)の交代に際して、後任者から前任者に与えられる解由状(げゆじょう)を審査させました。

解由状は、前任者の国司が任期中に不正を行わなかったことを後任者が証明するものであり、これがないと前任者は別の職につけないこととなり、結果として国司の交代の際の事務の引継ぎを厳しく監督することになりました。

次に、桓武天皇は農民の困窮(こんきゅう)などによって質が低下した兵士の改革を行われました。それまでの徴兵制による軍団(ぐんだん)の制度を見直し、792年には東北や九州など一部の地域を除いて軍団と兵士を廃止しました。その代りに地方行政官の郡司(ぐんじ)の子弟や有力農民の志願制による健児(こんでい)制度を設けました。

また、農民への対策としては、班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)における班田を、それまでの6年に一度から実情に合わせて12年に一度に改め、国司の命令で働く労役制度である雑徭(ぞうよう)も、60日間から30日間に半減され、農民の負担を軽減しました。

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【2009/08/27 12:00】 | 平安京への遷都
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桓武天皇はやり手?
オバrev
桓武天皇 なかなかやり手ですね。

勘解由使を新設したということは、国司の不正が相当はびこっていたんでしょうね。
また徴兵制から有力者師弟の志願兵制に変えたのも見事なタイムリーヒットだと思います。
アメリカも志願兵制だそうですが、やはり兵士のモチベーションも高いしレベルは上がると思います。

ただ班田(税金を決めるために田んぼをチェックすることですか?)12年は長いような気がしますがどうなんでしょうか。

でもいずれにしても、国民の状態をよく把握して政策を実行していると思います。それだけ国民の不満が高まっていたのか、情報収集がうまくできてたかですね?



海豚
8000!!!!
おめでとうございます♪

班田収受法と
墾田永年私財法(?)がいつも混乱してます・・・(汗

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こんにちは
安眠癒しグマ
こんにちは
カウントすごいですね~おめでとうございます。

私は昨日から喉がいがいがしていて、昨日はおじゃまできませんでした<(_ _)>

応援ぽち

班田収受法
kenちゃんマイド
この法の内容を教えてください。大体オカミが法律を変えるときは国民の為と言いながら実際は自分たちの都合のよい方へ改悪します。小泉改革が良い見本です。派遣法にしろ、郵政民営化にしろ、みなさん何か良いことがありましたか?選挙前のコメントとしてはよくないかも。よく考えて投票しましょう。
<賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ>ボクは後者ですね。

オバrevさんへ
黒田裕樹
> 勘解由使を新設したということは、国司の不正が相当はびこっていたんでしょうね。
> また徴兵制から有力者師弟の志願兵制に変えたのも見事なタイムリーヒットだと思います。
> アメリカも志願兵制だそうですが、やはり兵士のモチベーションも高いしレベルは上がると思います。

国司の不正には次の国司をもってあたらせたわけですから、効果的だったことでしょう。ただ、健児の制度は年々廃(すた)れていくんですよね。蝦夷の平定が終了して我が国に面と向かって攻めてくる存在がなくなってからは、軍隊が廃止されてしまいますので…。

> ただ班田(税金を決めるために田んぼをチェックすることですか?)12年は長いような気がしますがどうなんでしょうか。

班田とは民衆に国の口分田を分け与えることです。当初は6年に一度を目標に行われていたんですが、農民の浮浪・逃亡や初期荘園の増加で人口などが把握しづらくなったことで、班田を正確に行うために期間を延ばしたんです。しかし、それでも班田が難しくなり、やがては行われなくなりますが、そのあたりについては今後の講座で紹介させていただきます。

> でもいずれにしても、国民の状態をよく把握して政策を実行していると思います。それだけ国民の不満が高まっていたのか、情報収集がうまくできてたかですね?

前者も後者も当てはまると思います。タタリを起こしてしまった是非はともかくとして(笑)、桓武天皇の政治に関しては、評価できることは多いと思います。

海豚さんへ
黒田裕樹
> 8000!!!!
> おめでとうございます♪

有難うございます!\(^o^)/

> 班田収受法と
> 墾田永年私財法(?)がいつも混乱してます・・・(汗

班田収授法は「公地公民制を守るための制度」で、墾田永年私財法は「公地公民制を破るための制度」と理解すれば、後の学習が楽になりますよ(^^♪

安眠癒しグマさんへ
黒田裕樹
> こんにちは
> カウントすごいですね~おめでとうございます。

有難うございます。ブログ開始5ヶ月で8000という数字に到達できたことに感謝しております。

> 私は昨日から喉がいがいがしていて、昨日はおじゃまできませんでした<(_ _)>
> 応援ぽち

インフルエンザも流行っていますからね。体調にはくれぐれもお気をつけ下さいm(_ _)m

kenちゃんマイドさんへ
黒田裕樹
班田収授法を一言で言えば、公地公民制のもとで行われる、農地の支給や収容に関する制度のことです。当初は公地公民制度が厳守されていたのですが、年貢の負担に耐えかねて農地を捨てて浮浪・逃亡する農民が続出し、また人口が増加して口分田が不足したこともあり、新田の開発などを積極的に行うために、最終的には農地の私有を認める墾田永年私財法を施行しました。

仰るとおり、政府の都合のよいように法制度を変えるのはいつの時代も同じですね。選挙後の内閣も、我が国を根底からくつがえす悪法を制定しなければよいのですが…。

> <賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ>ボクは後者ですね。
それは私も同じです(笑)。でも、政府は前者であってほしいですし、そうでないと我々が困りますね。


ケンシロウ
こんにちは。

カウンター8000HITおめでとうございます。
これも先生の講座を楽しみにしている方が
多いことを物語っていますね。
明後日の講座も頑張って下さいな。

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平安京への遷都 その1
天智系の光仁天皇(こうにんてんのう)は、藤原百川(ふじわらのももかわ)らの協力をもとに行政改革や緊縮財政を行われ、律令政治の再建を目指されました。そして781年に退位され、子である桓武天皇(かんむてんのう)が第50代天皇として即位されました。

桓武天皇は道鏡による政策などで大きくなり過ぎた仏教勢力との決別や、天武系の天皇が造営した平城京からの心機一転をはかるために、784年に山背国(やましろのくに、現在の京都府南部)の長岡京(ながおかきょう)に遷都されました。

長岡京の造営には天皇の側近の藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が任じられましたが、785年、種継が造営中に暗殺されるという事件が起きました。種継の暗殺には、実行犯のほかに大伴家持(おおとものやかもち)や桓武天皇の弟で皇太子の早良親王(さわらしんのう)が関わったとされ、関係者は厳罰に処せられました。早良親王は無実を訴え続けましたが受けいれられず、最期には絶食して亡くなりました。

早良親王の憤死(ふんし)後、朝廷では不幸な出来事が続発しました。疫病(えきびょう)である天然痘(てんねんとう)が大流行し、桓武天皇の母親や妃(きさき)が次々と亡くなったのです。早良親王の替わりに皇太子に立てた息子の安殿親王(あてしんのう)も病気がちとなり、事態の深刻さに慌てられた桓武天皇は、これらの「早良親王のタタリ」とも思える現状を打破するために、794年に平安京(へいあんきょう)に遷都されました。

桓武天皇は、平安京への遷都と同時に、都が置かれた山背国を「城で守る」という意味から「山城国」と名を改められました。以後、鎌倉幕府成立までの約400年間を平安時代(へいあんじだい)といいます。

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【2009/08/26 12:00】 | 平安京への遷都
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marihime
黒田さんこんばんは☆

奈良時代が終わって、いよいよ平安時代の始まりですね。
平安文化と武家勢力の台頭の話が楽しみになってきました。
応援してますよ。頑張ってくださいねσ(゚ー^*)

ポチがたくさん並んでますから全部おしときますねo(^-^)o


ぴーち
こんばんは!

うわ~っ!ここでも、「タタリ」が勃発したんですね!
とはいうものの、「タタリ」と受け取る人間側の
良心の呵責が「タタリ」であるという気持ちに
拍車を掛けて、
駆り立てるのでしょうね。
結局は、早良親王は無実だったのでしょうかね・・。
哀れな話です。


marihimeさんへ
黒田裕樹
ブログを始めて今日でちょうど5ヶ月になるんですが、ようやく(?)平安時代に入りました。平安文化も武家勢力の台頭の話ももちろん詳しく取り上げていく予定ですので、今後ともよろしくお願いしますね(^_^)v

ポチ下さって有難うございます!\(^o^)/

ぴーちさんへ
黒田裕樹
「タタリ」という概念は、仰るとおり心にやましいところのある人間が、良心の呵責に耐えかねて思い込むものとも言われていますね。今回の桓武天皇といい、かつての藤原四兄弟といい、古代の為政者はタタリにあってばかりです。

早良親王はもともとは東大寺などの僧だったんです。兄の桓武天皇のご即位時に、光仁天皇のご意向で還俗して皇太子になったんですが、仏教界に強い影響を持つ弟と、仏教界とのしがらみを断ち切って新しい政治を行いたい兄との間には次第に溝が深まっていく最中に暗殺事件が起きたことで、これを奇貨として弟の皇太子としての地位を奪いたかったという考えもあります。
いずれにせよ、早良親王は新しい時代へと移りゆく中での犠牲者だといえるのかもしれませんね。


紗那
よ、よし!一番苦手な時代。しっかり頑張ろう。うん。

でも、このタタリの話が聞いたことあります。良いことだ(ぇ でも山背だったとは知らなかった・・・・・・ このときに改められたんですねー

なくよ うぐいす へいあんきょう なら覚えています・・・・・?だからなんだと言うのだろうry

紗那さんへ
黒田裕樹
しっかり頑張って下さい(^_^)v

タタリの話は結構有名ですからね。その一方でずっと「山城」だったと思われている人は多そうです。

「年号から入る歴史」もありますよ。すべてはこれからです!

たたりか~
h.hamauzu
こんばんは。
たたりで遷都。
う~ん、今でも引越しの
ひとつの理由にはなっていますね!?
情報のすくないこの時代では、
とくにタタリなどは信じられたでしょうね。
まあ、現代のように、情報はたくさんあっても、
記者クラブによる、情報統制があっては、余計にわるいですが

h.hamauzuさんへ
黒田裕樹
> たたりで遷都。
> う~ん、今でも引越しの
> ひとつの理由にはなっていますね!?
> 情報のすくないこの時代では、
> とくにタタリなどは信じられたでしょうね。

そうですね。タタリというのがひとつの立派な理由になった時代でしたから。
現代においては非科学的なことでも、当時では科学的だったといえます。

> まあ、現代のように、情報はたくさんあっても、
> 記者クラブによる、情報統制があっては、余計にわるいですが

仰るとおり、こちらの方がよっぽど性質(たち)が悪いですね(´・ω・`)
選挙の際の報道も、公正中立であってほしいのですが…。

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天平文化 その3
奈良時代は、美術面においても唐の様式を受容して大いに発達し、多くの美術作品が作られました。建築面では、寺院や宮殿に礎石(そせき)や瓦(かわら)が用いられるなどの技術の進歩によって、東大寺法華堂(とうだいじほっけどう)や唐招提寺金堂(とうしょうだいじこんどう)などの壮大な建物が建てられました。

彫刻では、表情豊かで調和の取れたものや、写実的ながらも宗教的な雰囲気をかもし出すものが多く造られました。造像(ぞうぞう)の技術も発達し、従来の金銅像(こんどうぞう)や木像のほかに、木を芯(しん)として粘土を塗り固めた塑像(そぞう)や、原型の上に麻布(あさぬの)を漆(うるし)で塗り固めた後に原型を抜き取るなどの技法を用いた乾漆像(かんしつぞう)が用いられました。

塑像には東大寺法華堂の日光・月光菩薩像(にっこう・がっこうぼさつぞう)が、乾漆像には興福寺(こうふくじ)の阿修羅像(あしゅらぞう)や唐招提寺の鑑真和上像(がんじんわじょうぞう)があり、中でも鑑真和上像は我が国最初の肖像彫刻として有名です。

絵画も唐の影響を強く受けており、聖武天皇の時代の宝物(ほうもつ)が寄進された正倉院(しょうそういん)に伝わる鳥毛立女屏風(ちょうもうりゅうじょびょうぶ、または「とりげだちおんなびょうぶ」)や、薬師寺(やくしじ)の吉祥天女像(きちじょうてんにょぞう)が有名です。また、前述の正倉院には多数の宝物が完全な状態で今日まで伝えられており、螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんごげんのびわ)などの工芸品の様式や製作技術には、唐ばかりでなく遠くペルシアやローマなどの要素が取り入れられています。

(これで奈良時代は終了です)

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【2009/08/25 12:00】 | 天平文化
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ケンシロウ
こんにちは。

奈良時代の講座お疲れ様です。
歴史は不得意の分野ですが
この頃の記憶は ??(゜o゜; )ドコドコ( ;゜o゜)??
次の講座も自信なしですが
楽しく拝見させていただきますね。

阿修羅像
オバrev
奈良時代の文化は唐の影響が大きいんですね。
またその唐へは、シルクロードを通ってペルシャやローマの文化が伝わっていたとは何ともグローバルです。

仏像が結構多いですが、気になるのは興福寺阿修羅像。

仏像って、仏頂面したものが多いけど、この阿修羅像の顔は3つとも凄く人間的です。是非実物を見てみたいものです。


ケンシロウさんへ
黒田裕樹
奈良時代は今日で終わりですが、次回からは平安時代が始まりますし、まだまだ続きます。
今後ともよろしくお願いしますねm(_ _)m

オバrevさんへ
黒田裕樹
> 奈良時代の文化は唐の影響が大きいんですね。
> またその唐へは、シルクロードを通ってペルシャやローマの文化が伝わっていたとは何ともグローバルです。

奈良時代のほうがある意味国際的だったのかもしれませんね。ペルシャやローマの文化も、後の国風文化の基礎になったと思えば、歴史の深さと重みを実感します。

> 仏像が結構多いですが、気になるのは興福寺阿修羅像。
> 仏像って、仏頂面したものが多いけど、この阿修羅像の顔は3つとも凄く人間的です。是非実物を見てみたいものです。

確かに独特の風貌をしていますよね。
阿修羅像ですが、現在(平成21年8月)は福岡で展示されているようですね。
http://www.asahi.com/ashura/


ぴーち
奈良時代の美術品、宝物など
多分一度くらいは、修学旅行などで
見ていると思うのですが、
何しろ、通り一遍で時間も制限されての旅行ですので、
どんな彫刻であったかも、すっかり忘れています。
名前と美術品が頭の中で一致しません^^;
今度機会がありましたら、ゆっくりと見て周りたいものです。


ぴーちさんへ
黒田裕樹
天平文化に限らず、数多くある美術品や宝物は限られた時間で見るのはとても不可能です。
仰るとおり、腰を落ち着けてじっくりと見物したいものですね。
奈良の場合であれば、やはり大仏がある東大寺を中心に周られるのがよいかと思われます。

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天平文化 その2
奈良時代には歴史書だけでなく、各地の地名の由来や古老(ころう、昔をよく知る老人のこと)による伝承、産物などを記した地誌(ちし)である「風土記」(ふどき)の編さんが、元明天皇によって713年に命じられました。今日では、常陸国(ひたちのくに、現在の茨城県)、播磨国(はりまのくに、現在の兵庫県南西部)、豊後国(ぶんごのくに、現在の大分県)、肥前国(ひぜんのくに、現在の佐賀県・長崎県)の4ヶ国で風土記の一部が伝えられ、出雲国(いずものくに、現在の島根県東部)の風土記はほぼ完全なかたちで残されています。

この時代には、鎮護国家の思想によって仏教が国家の保護を受けて大いに発展したことにより、様々な仏教理論の研究が進められ、南都六宗(なんとろくしゅう)と呼ばれる学派が形成されました。南都六宗とは三論宗(さんろんしゅう)・成実宗(じょうじつしゅう)・法相宗(ほっそうしゅう)・倶舎宗(くしゃしゅう)・華厳宗(けごんしゅう)・律宗(りっしゅう)のことです。このうち律宗は唐の高僧であった鑑真が、我が国に戒律を伝えたのが始まりとされています。

また、仏教とともに儒教(じゅきょう)の経典(きょうてん、宗教の基本的な教義などを記した書物のこと)も重んじられました。これらは官吏(かんり)の養成のために用いられるようになり、中央に大学(だいがく)、地方には国学(こくがく)が置かれました。尚、入学者には経書(けいしょ、中国の古代の教えを記した書物のこと)や律令、書道、算術などが教授されました。

奈良時代は、貴族や官人(かんじん)に漢詩文(かんしぶん)の教養が必要とされた時代でもありました。石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)や天智天皇の子孫である淡海三船(おうみのみふね)が著名な漢詩文の文人(ぶんじん)として知られており、751年には現存最古の漢詩集である「懐風藻」(かいふうそう)が成立しています。

我が国古来の和歌(わか)も天皇を始め兵士や地方の農民に至るまで幅広く詠(よ)まれました。「万葉集」(まんようしゅう)には、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)や山上憶良(やまのうえのおくら)、山部赤人(やまべのあかひと)、大伴家持(おおとものやかもち)らの宮廷の歌人のほか、東国の民衆たちが詠んだ東歌(あずまうた)、九州沿岸の守りについた防人(さきもり)たちが詠んだ防人歌(さきもりうた)などの約4,500首が収録されています。

万葉集の歌には心の動きを素直に表現したものが多く、我が国の民族の心情がよく示されています。また、万葉集は漢字の音訓を巧(たく)みに組み合わせて日本語をあらわした万葉仮名(まんようがな)で表記されているのも大きな特徴です。

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【2009/08/24 12:00】 | 天平文化
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山上憶良
セイケジュンコ
この人は覚えてるけど、どんな歌をうたったかはわからないですね(笑)

やまのうえのおくらっていうけど「の」が入ってるのに
漢字で書くとどうしてこれなんだろうって不思議に思ってた過去の若い私がいました。

今も疑問ですが・・・・(笑)





セイケジュンコさんへ
黒田裕樹
> この人は覚えてるけど、どんな歌をうたったかはわからないですね(笑)

山上憶良の有名な歌には、下級農民の困窮を歌った「貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)」の他に、下記の歌などがあります。
「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに勝れる宝子に及(し)かめやも」

> やまのうえのおくらっていうけど「の」が入ってるのに
> 漢字で書くとどうしてこれなんだろうって不思議に思ってた過去の若い私がいました。
> 今も疑問ですが・・・・(笑)

基本的には「姓」と「苗字」の違いです。今ではあいまいになっていますが…。
「姓」は天皇から与えられたもので、苗字は自分で名乗るものです。例えば「藤原」や「源」は前者に当たりますから「○○の」と「の」がつきます。一方、同じ「源」姓でありながら地域に土着して地元の地名を名乗った「足利」や「新田」のような苗字には「の」がつきません。
山上憶良の「山上」は天皇より与えられた姓なので、「やまのうえの」となるわけです。


ぴーち
こんばんは!
上の方のコメントで思い出しました。
割り込んでしまって御免なさいね!
「億良らは 今はまからむ 子泣くらむ. そを負ふ母も 吾を待つらむそ 」という歌が好きです。
皆が酒の席で賑わっている最中、
一人退席したい時、周りの雰囲気を白けさせないように配慮する為に咄嗟に出たこの歌は
本当に素晴らしの一言だなと思いました。



ぴーちさんへ
黒田裕樹
いえいえ、コメント下さって有難うございます(^^♪

山上憶良の歌は自己の感情を素直に表現した名作が多いですよね。1300年以上経っても変わらずに愛されているのが素晴らしいと思います。

風土記
h.hamauzu
こんばんは!
風土記・・・何のために書かれたのでしょうか・・・
やはり、統治のためですか・・・?
全国食べ歩きのためではないでしょうがw

h.hamauzuさんへ
黒田裕樹
風土記の編さん理由については、律令政治の確実な実施のために地方の状態を把握したかったからだという説もありますが、正確な理由は分かっていません。
「全国食べ歩き」といういかにも平和な理由だったら、それはそれで素晴らしいことなのですが(笑)。


紗那
風土記はちゃんと覚えてました♪とりあえず出雲のくだりを。

このころに、もうこんなに宗教が会ったとは・・・ 全部、仏教はとはいえ、多いですね。。。

万葉集の歌はちゃんと覚えてますよ! ほ、ほら。あれとかあれとk・・・  あ、あれ?何で出てこないんだろう(汗

紗那さんへ
黒田裕樹
> 風土記はちゃんと覚えてました♪とりあえず出雲のくだりを。

それは良かった(^^♪
いい機会ですから、出雲以外の部分的に残っている国の名前も理解しましょうか(^^ゞ

> このころに、もうこんなに宗教が会ったとは・・・ 全部、仏教はとはいえ、多いですね。。。

南都六宗は高校の日本史で学習しますからね。基本的には鑑真の律宗を理解すればよいと思いますよ。

> 万葉集の歌はちゃんと覚えてますよ! ほ、ほら。あれとかあれとk・・・  あ、あれ?何で出てこないんだろう(汗

他の方へのコメントで何首か紹介しましたが、他にも有名な歌がいくつもありますよ。良かったらご自身で調べてみてはどうでしょうか?(^_^)v

お~!!!!そうだったんだぁ(^◇^)
セイケジュンコ
とってもよくわかりました!(*^。^*)

ちょっと賢くなった気がします!(^^)!
子供達が歴史を習った頃に、自分の知識のように教えます(笑)

でも、さすが黒田先生!
さすが歴史の先生(笑)

何か山上憶良って百人一首に出てましたっけ???
うーん、・・・・・・。
分からん・・・・(笑)

歴史は得意だったのになぁ・・・・(;_:)



セイケジュンコさんへ
黒田裕樹
これはまたお褒めの言葉を頂戴いたしまして…(笑)。

山上憶良は残念ながら百人一首には選ばれておりません(´・ω・`)
同時代の歌人としては柿本人麻呂、山部赤人、猿丸大夫、大伴家持、阿倍仲麻呂などが選ばれています。

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