また、嵯峨天皇は法制の整備にも力を入れられました。大宝律令や養老律令が制定されて以来、年月の経過や社会の変化によって様々な法令が出されましたが、これらは律令の規定を補足・修正する格(きゃく)と、律令の施行細則(しこうさいそく、法令などを施行する上で必要なことを定めた細かい規則のこと)である式(しき)とに分類・編集されました。
820年にまとめられた格と式は、当時の年号から「弘仁格式」(こうにんきゃくしき)と呼ばれました。その後、第56代の清和天皇(せいわてんのう)の時代に「貞観格式」(じょうがんきゃくしき)が、第60代の醍醐天皇(だいごてんのう)の時代に 「延喜格式」(えんぎきゃくしき)が相次いで編さんされました。これら三つの格式は、あわせて「三大格式」と呼ばれています。
弘仁格式の編さん後に、令(りょう)の解釈を統一するために833年に第53代の淳和天皇(じゅんなてんのう)が作成を命じた、法的効力を持つ「令義解」(りょうのぎげ)が清原夏野(きよはらのなつの)らによってまとめられました。一方、法的効力はもたないものの、惟宗直本(これむねのなおもと)が独自にまとめた「令集解」(りょうのしゅうげ)も伝えられています。
(明日からは第4回歴史講座の内容を、6時と18時の二回に分けて更新します)




いつも有難うございます。
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オバrev 格式というのは、各省庁が、詳細が示されてない法律の具体的な解釈について、国会のチェックも受けずに、各省庁独自にだしている通達のようなものですね。
でも我々零細業者はこの通達に右往左往させられてます(T_T)
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 格式というのは、各省庁が、詳細が示されてない法律の具体的な解釈について、国会のチェックも受けずに、各省庁独自にだしている通達のようなものですね。
そうですね。法律というものは今も昔も難解で、解釈にも様々な学説があるものです。そんな法解釈を出来るだけ分かりやすくまとめたものが格式だったのですが、時代が下るにつれて我が国の実情に沿った内容に変えられているのも大きな特徴です。
> でも我々零細業者はこの通達に右往左往させられてます(T_T)
現在の施行細則は政令で定められますから、国会の決議を必要としないんですよね(内閣で勝手に決められる)。確かに頭痛の種ではあります。
今回の「明智光秀 ~謀反人(むほんにん)の言い分」も、前回に負けないくらいの意気込みで臨めたと自負しております。詳細は9月1日からブログ上で順次公開してまいりますが、今回より実際の講座の様子を映像にてご覧いただけるよう準備しております。
尚、次回以降、11月までの予定は下記のとおりです。
第5回 「毛利家の栄枯盛衰 ~戦国から幕末までつながる歴史」
平成21年9月19日(土)午後3時より
第6回 「徳川綱吉 ~犬公方の真実」
平成21年10月24日(土)午後3時30分より
※当初は午後3時開始予定でしたが、都合により30分遅らせます。
第7回 「吉宗は名君か? ~暴れん坊将軍の素顔」
平成21年11月28日(土)午後6時より
※この回は午後6時開始になります。




いつも有難うございます。
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MAHHYA 明智光秀には、大変興味があるので、今後のアップをとっても楽しみにしています!
ああ、関西地方に住んでいたら、絶対セミナーに行くのになあ~(>_<)
残念です!
MAHHYAさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます(^_^)v
そうですね。大阪からなかなか離れられないもので…(´・ω・`)
でも今回から映像でもお楽しみいただけると思いますので、そちらの方でもよろしくお願いしますm(_ _)m
管理人のみ閲覧できます
-
810年9月、平城上皇はついに平城京への再遷都を宣言されましたが、事前に察知された嵯峨天皇に動きを封じられ、上皇は東国へ逃れようとされましたが、先回りした坂上田村麻呂らによって阻止されました。進退窮(きわ)まった平城上皇は出家されることで許され、仲成は射殺され、薬子は毒をあおって自害しました。この事件を「薬子の変」といいます。
藤原仲成と藤原薬子の兄妹は、長岡京の造営責任者で暗殺された藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の子でした。薬子の変の背景には、種継が命がけで造営しようとした長岡京を結果的に「捨てた」桓武天皇に対する激しい憤りがあったとされています。尚、射殺された仲成以来、朝廷で死刑が執行されることはなくなりました。死刑の復活は12世紀半ばの「ある事件」まで待つことになります。
薬子の変の結果、藤原四兄弟の宇合(うまかい)を始祖とする式家(しきけ)は没落し、房前(ふささき)の子孫である藤原冬嗣が率いる北家(ほっけ)が力をつけるきっかけになりました。また、薬子の変の際に嵯峨天皇の側について勝利の祈祷を行い、後の出世につながる働きをした僧がいました。その名を空海(くうかい)といいます。




いつも有難うございます。
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monariz 一番乗りかな?
再遷都なんて話は始めて聞きましたねー
確かに阻止されたのであれば、まぁ重要ではないのかもしれませんけど・・・ ていうか嵯峨天皇とか聞いたことないです。
長岡京でそんなつながりがあったんですか。それは知りませんでした。これも歴史的には面白い話だと思うんですけどねー。やはり授業時間の問題ですよね。
ある事件ってなんでしょう。木になります。待ちます。
空海さんがここで出てくるんですか!それと絡めれば授業にだせないことも・・・ ま、そんなに覚えられませんよね。 空海さんがかつやくするタイミングを待ってます。
紗那 申し訳ありません。さきほどのコメントは自分のものでした。
友人の家からのアクセスなもので。変更するのを忘れていました。
紗那さんへ
黒田裕樹 > 一番乗りかな?
ハイ、一番乗りです(笑)。
> 再遷都なんて話は始めて聞きましたねー
> 確かに阻止されたのであれば、まぁ重要ではないのかもしれませんけど・・・ ていうか嵯峨天皇とか聞いたことないです。
このあたりは高校の日本史で初めて学びますからね。まぁ今回で理解しておいて損はないですよ(^^ゞ
> 長岡京でそんなつながりがあったんですか。それは知りませんでした。これも歴史的には面白い話だと思うんですけどねー。やはり授業時間の問題ですよね。
薬子の変によって、桓武天皇―長岡京―藤原種継―藤原薬子―平城天皇―嵯峨天皇が全部つながるんですよ。話の内容も面白いし(特に女性向き)、生徒のためにもなるんですが、仰るとおり授業時間が…。
> ある事件ってなんでしょう。木になります。待ちます。
いずれ紹介しますよ。その時に「あぁ、薬子の変以来か!」と思い出せればOKですね(^_^)v
> 空海さんがここで出てくるんですか!それと絡めれば授業にだせないことも・・・ ま、そんなに覚えられませんよね。 空海さんがかつやくするタイミングを待ってます。
さすがに欲張りすぎかな(^^ゞ
まぁこれも覚えていて損はないですよ。空海が活躍できたのにはそれなりの理由があったということです。
> 申し訳ありません。さきほどのコメントは自分のものでした。
> 友人の家からのアクセスなもので。変更するのを忘れていました。
いえいえ、お構いなく。ご友人のmonarizさんにも、是非私のブログを勧めて下さいね(^^♪
ぴーち こんばんは!
講座、今回もご盛況だったとのこと、
喜ばしい事です!
ここまで藤原家一族の末路というのは、何やら
まともな最期を迎えられていない様な気がするのですが・・^^;
空海は存じております。
こういう繋がりがあったんですね。
それでは、また、お邪魔します!
安眠癒しグマ こんばんは☆
ようやくパソコンができる状態になりました。。。
下のコメントかえしありがとうございました。講座、たくさん予定されていますもんね♪またの機会に是非。そして、記事たのしみにしてますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 講座は皆様のお陰で大盛況でした。詳しくはこの後の別記事で紹介しますね(^^♪
そうですね。これも藤原氏の激しい勢力争いが呼んだ結末なのでしょうか…。ただ、今回の「薬子の変」によって藤原北家が勢力を伸ばしたことで、今後の展開が変わることになります。
空海も歴史の表舞台に突然姿を現したわけではないんですよね。歴史の流れを実感する一場面だと思います。
安眠癒しグマさんへ
黒田裕樹 > こんばんは☆
> ようやくパソコンができる状態になりました。。。
体調ご回復されましたか?
良かったですね(^^♪
> 下のコメントかえしありがとうございました。講座、たくさん予定されていますもんね♪またの機会に是非。そして、記事たのしみにしてますね。
いえいえ。講座につきましては今後も続けてまいりますので、是非ご参加下さいね!
ケンシロウ こんにちは。
講座は大盛況だったようですね。
薬子の変と呼ばれるので自害ではなく
殺されたものと記憶しておりました。
やはりおいらの記憶は曖昧で
いい加減に覚えてきたということが立証されましたw
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 講座の件、お言葉有難うございます。
薬子の変ですが、仰るとおり自害で決着しています。いつもの言葉ですみませんが、これを機会に理解くださればと思いますよ。
徳薙零己 お初にお目にかかります。平安時代初期を舞台とする小説をブログで書いている徳薙零己(とくなぎ・れいき)と申します。
藤原薬子については50日に渡って公開し、その後の藤原冬嗣については120日かけて公開するという長さになっていますが、簡潔にまとめるとこうなのだな、という思いにさせられます。
さて、去る7月18日に第3回「黒田裕樹の歴史講座」を開催致しましたところ、前回同様6名の皆様にご参加をいただきまして、誠に有難うございました。
次回(第4回)の歴史講座は、「明智光秀 ~謀反人(むほんにん)の言い分」と題して、大阪・梅田で8月29日(土)の午後3時より開始致します。
本能寺の変の首謀者として、我が国の歴史に永遠にその名を残すことになった明智光秀。彼はなぜ大恩ある主君・織田信長を暗殺したのか。また、後の世に「三日天下」と呼ばれた彼の短い天下を長続きさせることはできなかったのか?
次回の講座では、本能寺の変前後の彼の行動を中心に、光秀の心境を推理してみたいと思います!
第4回「黒田裕樹の歴史講座」
日時:平成21年8月29日(土) 午後3時より
内容:「明智光秀 ~謀反人(むほんにん)の言い分」
講師:黒田裕樹
場所:梅田東学習ルーム
会費:無料
ブログをご覧の皆様も、宜しければ是非ご参加下さい。この記事のコメント欄をご活用いただければと思います。また、今回の講座の内容については、前回までと同様に、後日にはブログ上で発表しますので、是非ご覧になって下さい。
尚、予約の都合上、当日の教室一覧(午後)の掲示板に「大阪読書研究会」と書かれているのが「黒田裕樹の歴史講座」の会場となります。ご注意下さい。
参考までに、10月までの予定も紹介しておきます。
第5回 「毛利家の栄枯盛衰 ~戦国から幕末までつながる歴史」
平成21年9月19日(土)午後3時より
第6回 「徳川綱吉 ~犬公方の真実」
平成21年10月24日(土)午後3時30分より
※当初は午後3時開始予定でしたが、都合により30分遅らせます。




いつも有難うございます。
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さすらい こんばんは。
おお、また決定されたのですね!
次回も成功されることをお祈りします。
今度は明智光秀ですか。
興味深いですねえ。
応援♪
さすらいさんへ
黒田裕樹 有難うございます。
明智光秀に関しては、本能寺の変において通説とはかなり異なる実像が見え隠れしていると思いますので、そのあたりを追究できればと思っています。
悠 講座されてるんですか
すごいですね
ぜひ行きたいですけどちょっと遠いです・・・
がんばってください!
悠さんへ
黒田裕樹 有難うございます。お気持ちだけで励みになります。
ただ、講座内容を皆さんにもっと理解していただけるような工夫が欲しいところではありますね。
えめる 住んでいるところが関東のいなかゆえ、行けないんですが、
成功を祈っていますニャね。
記事にアップされるのを待っています。頑張ってニャね。
えめるさんへ
黒田裕樹 お気遣い感謝します。最近はえめるさんのブログで私が助けられてばかりですね(^^ゞ
http://memru.blog38.fc2.com/
講座の内容はこれまで同様記事としてUPしますので、よろしくお願いしますm(_ _)m
華 講座されるんですか。
すごい!
成功するといいですね。
頑張って下さい^^
華さんへ
黒田裕樹 励ましのコメント有難うございます(^_^)v
あと2週間をきりましたが、何とか無事に成功させるよう頑張りますね(^^♪
keron こんばんは 初コメです
シータと申しますのkeronと申します
高校時代の日本史以来触れることのなかった日本史ですが 本能寺の変はとても興味があります。でも残念ながら講座にうかがうことができません。 後日のブログを楽しみにしていますね
講座の成功 お祈り申し上げます
keronさんへ
黒田裕樹 ご訪問&コメント有難うございます。
本能寺の変に関する「定説」の真偽などについても触れる予定ですので、来月早々にも予定しております「ブログ上の講座」までお待ち下さいね。
激励のお言葉、感謝いたします。
平城天皇の皇太子(安殿親王)時代に、一人の娘が親王の妃(きさき)として迎え入れられました。その娘はまだ幼かったので、後見として母親も娘と一緒についていったのですが、ここでとんでもないことが起きてしまいました。何と親王と妃の母親が「男女の仲」になってしまったのです。そして、その母親こそが藤原薬子でした。
安殿親王と薬子の不倫ともいえる関係に激怒された桓武天皇によって、薬子は朝廷から追放されてしまいましたが、桓武天皇が崩御されて平城天皇が即位されると、薬子は再び召し出され、二人の関係はさらに深くなっていきました。と同時に薬子の兄にあたる藤原仲成(ふじわらのなかなり)も出世を重ね、朝廷では仲成・薬子兄妹による政治の専横が続きました。
809年、平城天皇は病気のために退位され、弟の嵯峨天皇(さがてんのう)が第52代天皇として即位されました。平城上皇は平城京に移られて療養されましたが、やがて健康を回復されると、仲成・薬子兄妹の助言もあって再び政治に意欲を持たれて嵯峨天皇と対立し、さながら「二所朝廷」(にしょちょうてい)の様相を呈(てい)するようになりました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
そうですか。。。薬子さん、寵愛を受けて
お育ちになられただけあり、結構我がままなご性格
だったのかもしれませんね。
不倫という道徳に反した行いも平気で
行えるというのは、自己中心的な性格の
表れですものね。
チャールズ皇太子とカミラ夫人の関係にも
似ていたりして・?
ダイアナは哀れでしたね。。
今頃はまだお忙しい最中ですね^^
では、またお邪魔します☆
ケンシロウ こんにちは。
今日は講座は如何でしたでしょう?
お疲れ様でした。
この時代に不倫とは珍しい関係ですね。
一夫多妻制を容認するイ○ラム教の信者だったとかw
年上が好み?
オバrev 黒田先生 歴史講座お疲れ様でした。
明智光秀の話、楽しみにしております。
藤原薬子ですが、娘が幼すぎたということは、
安殿親王とは、まあ薬子が年下ということはないかもしれないけど年が近かったんでしょうか?
スポーツ選手でも2~3才年上の姉さん女房も結構いるし・・・まさか10才年上なんてことはないですよね (゚Д゚;)
しかし、このケースでは、薬子が平城天皇を惑わしたこともあるでしょうが、年上が好みの平城天皇が惚れ込んでいたように思えます(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 藤原薬子の存在はあまり知られていませんが、彼女の「不倫」によって、平城天皇をはじめ多くの人の生き様が変化しました。このあたりは今も昔も変わらないようですね。
ただ、薬子には薬子の言い分もありました。今日(30日)の更新で詳しく触れています。
昨日(29日)は大盛況でしたよ!
また別の記事で詳しく紹介しますので、今しばらくお待ち下さいm(_ _)m
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 お気遣い有難うございます。昨日(29日)の講座は大盛況でしたよ(^o^)丿
子孫を残すことが第一とされた時代は、仰るような「一夫多妻制」が当たり前でもありました。しかし、薬子のような「逆」のパターンは珍しいうえに、今回のような政変にまで発展したのは他に例がないですね。それだけに印象深い歴史でもあります。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 黒田先生 歴史講座お疲れ様でした。
> 明智光秀の話、楽しみにしております。
有難うございます。別の記事でも書きますが、光秀については9月1日からブログ上の更新を始めます。今回からはそれだけではなくて…?
> 藤原薬子ですが、娘が幼すぎたということは、
> 安殿親王とは、まあ薬子が年下ということはないかもしれないけど年が近かったんでしょうか?
> スポーツ選手でも2~3才年上の姉さん女房も結構いるし・・・まさか10才年上なんてことはないですよね (゚Д゚;)
> しかし、このケースでは、薬子が平城天皇を惑わしたこともあるでしょうが、年上が好みの平城天皇が惚れ込んでいたように思えます(^_^;)
薬子の生年は不詳ですが、おそらく年上だったと思います。というのは、最後のお言葉とも関連するのですが、「早良親王のタタリ」によって病気がちになったうえに、若くして母親を亡くしてしまわれるという環境でお育ちになったので、年上の女性にひかれる可能性は十分にあったからです。
天皇ご即位後の薬子との二人三脚の政治ぶりを振り返れば、二人は不倫の関係にありながら「相思相愛」の関係にあったかもしれませんね。
桓武天皇は789年に紀古佐美(きのこさみ)を征東大使(せいとうたいし)に任命して蝦夷の征伐を命じられましたが、蝦夷側の指導者である阿弖流為(アテルイ)に大敗しました。ちょうど長岡京で天然痘が流行していた時期で、この敗北も「早良親王のタタリ」のひとつとされました。
平安京に遷都後の797年、桓武天皇は坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられて、再び蝦夷の征討を目指されました。坂上田村麻呂は桓武天皇のご期待に応えて蝦夷を征服し、802年に胆沢城(いさわじょう、現在の岩手県奥州市)を築いて鎮守府を多賀城から移し、翌803年には志波城(しわじょう、現在の岩手県盛岡市)を築き、東北地方の前進拠点としました。
しかし、これらの東北地方での戦いは平安京の造営と並行しており、国の二大政策が同時に行われたことは結果として国家財政や農民にとって大きな負担となりました。桓武天皇は、805年にこの二大事業をそろって中止することを宣言されると、翌806年に70歳で崩御されました。




いつも有難うございます。
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スカイラインV35 後世の解釈かもしれませんが、「傍系」という事で”より以上に積極的”な御方だったのかもしれませんね。江戸時代の光格天皇もそのような評価を受けていますし。「傍系」ゆえのハングリー精神なのか、「傍系」であった為に広い視野と才覚が備わったのか、鶏が先か卵が先かみたいな議論ですが。。。
平安京は未完成?
オバrev 坂上田村麻呂って、日本初の征夷大将軍だったと記憶してますが、東北を制圧したんですね・・・そこは覚えてない~(;^ω^)アレレ?。
それにしても、聖武天皇に続いて桓武天皇も短い期間に遷都してたら、よほど経済が成長しない限り、いわゆる公共事業投資が膨らみすぎて財政破綻しますよね。
しかし、これってまるで、今の日本を見ているような気もしますが(^^;)
でも二大事業中止って、平安京は未完成なんですか?
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 皇室に限らず、傍系の場合はどうしても一段低く見られがちですから、自己を積極的にアピールする傾向にあるようですね。それが必ずしも有効とは限りませんが、少なくとも今回の桓武天皇や、仰った光格天皇の場合は成功例といえると思います。
> 鶏が先か卵が先かみたいな議論ですが
確かにそうですね(^^ゞ
ただ、仰ったお考えは私も同感ですよ。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 坂上田村麻呂って、日本初の征夷大将軍だったと記憶してますが、東北を制圧したんですね・・・そこは覚えてない~(;^ω^)アレレ?。
坂上田村麻呂の征夷大将軍が、本来の意味での将軍です。後に拡大解釈されて、源頼朝や足利尊氏、徳川家康などにつながっていくんですよね。
> それにしても、聖武天皇に続いて桓武天皇も短い期間に遷都してたら、よほど経済が成長しない限り、いわゆる公共事業投資が膨らみすぎて財政破綻しますよね。
> しかし、これってまるで、今の日本を見ているような気もしますが(^^;)
当時はタタリが正当化された時代でしたから、度重なる遷都にも一応理由があっただけ、現代よりもマシかもしれませんね。なにしろ無意味にハコモノをつくりすぎますから…。選挙後の政権も同じ轍を踏まなければよいのですが。
> でも二大事業中止って、平安京は未完成なんですか?
いわゆる政庁としての機能は完成しており、首都にふさわしい周辺の整備が途中で打ち切られたと思われます。桓武天皇の新都への意気込みは相当なものであられたようですから…。
解由状は、前任者の国司が任期中に不正を行わなかったことを後任者が証明するものであり、これがないと前任者は別の職につけないこととなり、結果として国司の交代の際の事務の引継ぎを厳しく監督することになりました。
次に、桓武天皇は農民の困窮(こんきゅう)などによって質が低下した兵士の改革を行われました。それまでの徴兵制による軍団(ぐんだん)の制度を見直し、792年には東北や九州など一部の地域を除いて軍団と兵士を廃止しました。その代りに地方行政官の郡司(ぐんじ)の子弟や有力農民の志願制による健児(こんでい)制度を設けました。
また、農民への対策としては、班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)における班田を、それまでの6年に一度から実情に合わせて12年に一度に改め、国司の命令で働く労役制度である雑徭(ぞうよう)も、60日間から30日間に半減され、農民の負担を軽減しました。




お蔭様でカウンターが8000を突破しました! いつも有難うございます!
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オバrev 桓武天皇 なかなかやり手ですね。
勘解由使を新設したということは、国司の不正が相当はびこっていたんでしょうね。
また徴兵制から有力者師弟の志願兵制に変えたのも見事なタイムリーヒットだと思います。
アメリカも志願兵制だそうですが、やはり兵士のモチベーションも高いしレベルは上がると思います。
ただ班田(税金を決めるために田んぼをチェックすることですか?)12年は長いような気がしますがどうなんでしょうか。
でもいずれにしても、国民の状態をよく把握して政策を実行していると思います。それだけ国民の不満が高まっていたのか、情報収集がうまくできてたかですね?
海豚 8000!!!!
おめでとうございます♪
班田収受法と
墾田永年私財法(?)がいつも混乱してます・・・(汗
管理人のみ閲覧できます
-
こんにちは
安眠癒しグマ こんにちは
カウントすごいですね~おめでとうございます。
私は昨日から喉がいがいがしていて、昨日はおじゃまできませんでした<(_ _)>
応援ぽち
班田収受法
kenちゃんマイド この法の内容を教えてください。大体オカミが法律を変えるときは国民の為と言いながら実際は自分たちの都合のよい方へ改悪します。小泉改革が良い見本です。派遣法にしろ、郵政民営化にしろ、みなさん何か良いことがありましたか?選挙前のコメントとしてはよくないかも。よく考えて投票しましょう。
<賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ>ボクは後者ですね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 勘解由使を新設したということは、国司の不正が相当はびこっていたんでしょうね。
> また徴兵制から有力者師弟の志願兵制に変えたのも見事なタイムリーヒットだと思います。
> アメリカも志願兵制だそうですが、やはり兵士のモチベーションも高いしレベルは上がると思います。
国司の不正には次の国司をもってあたらせたわけですから、効果的だったことでしょう。ただ、健児の制度は年々廃(すた)れていくんですよね。蝦夷の平定が終了して我が国に面と向かって攻めてくる存在がなくなってからは、軍隊が廃止されてしまいますので…。
> ただ班田(税金を決めるために田んぼをチェックすることですか?)12年は長いような気がしますがどうなんでしょうか。
班田とは民衆に国の口分田を分け与えることです。当初は6年に一度を目標に行われていたんですが、農民の浮浪・逃亡や初期荘園の増加で人口などが把握しづらくなったことで、班田を正確に行うために期間を延ばしたんです。しかし、それでも班田が難しくなり、やがては行われなくなりますが、そのあたりについては今後の講座で紹介させていただきます。
> でもいずれにしても、国民の状態をよく把握して政策を実行していると思います。それだけ国民の不満が高まっていたのか、情報収集がうまくできてたかですね?
前者も後者も当てはまると思います。タタリを起こしてしまった是非はともかくとして(笑)、桓武天皇の政治に関しては、評価できることは多いと思います。
海豚さんへ
黒田裕樹 > 8000!!!!
> おめでとうございます♪
有難うございます!\(^o^)/
> 班田収受法と
> 墾田永年私財法(?)がいつも混乱してます・・・(汗
班田収授法は「公地公民制を守るための制度」で、墾田永年私財法は「公地公民制を破るための制度」と理解すれば、後の学習が楽になりますよ(^^♪
安眠癒しグマさんへ
黒田裕樹 > こんにちは
> カウントすごいですね~おめでとうございます。
有難うございます。ブログ開始5ヶ月で8000という数字に到達できたことに感謝しております。
> 私は昨日から喉がいがいがしていて、昨日はおじゃまできませんでした<(_ _)>
> 応援ぽち
インフルエンザも流行っていますからね。体調にはくれぐれもお気をつけ下さいm(_ _)m
kenちゃんマイドさんへ
黒田裕樹 班田収授法を一言で言えば、公地公民制のもとで行われる、農地の支給や収容に関する制度のことです。当初は公地公民制度が厳守されていたのですが、年貢の負担に耐えかねて農地を捨てて浮浪・逃亡する農民が続出し、また人口が増加して口分田が不足したこともあり、新田の開発などを積極的に行うために、最終的には農地の私有を認める墾田永年私財法を施行しました。
仰るとおり、政府の都合のよいように法制度を変えるのはいつの時代も同じですね。選挙後の内閣も、我が国を根底からくつがえす悪法を制定しなければよいのですが…。
> <賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ>ボクは後者ですね。
それは私も同じです(笑)。でも、政府は前者であってほしいですし、そうでないと我々が困りますね。
ケンシロウ こんにちは。
カウンター8000HITおめでとうございます。
これも先生の講座を楽しみにしている方が
多いことを物語っていますね。
明後日の講座も頑張って下さいな。
桓武天皇は道鏡による政策などで大きくなり過ぎた仏教勢力との決別や、天武系の天皇が造営した平城京からの心機一転をはかるために、784年に山背国(やましろのくに、現在の京都府南部)の長岡京(ながおかきょう)に遷都されました。
長岡京の造営には天皇の側近の藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が任じられましたが、785年、種継が造営中に暗殺されるという事件が起きました。種継の暗殺には、実行犯のほかに大伴家持(おおとものやかもち)や桓武天皇の弟で皇太子の早良親王(さわらしんのう)が関わったとされ、関係者は厳罰に処せられました。早良親王は無実を訴え続けましたが受けいれられず、最期には絶食して亡くなりました。
早良親王の憤死(ふんし)後、朝廷では不幸な出来事が続発しました。疫病(えきびょう)である天然痘(てんねんとう)が大流行し、桓武天皇の母親や妃(きさき)が次々と亡くなったのです。早良親王の替わりに皇太子に立てた息子の安殿親王(あてしんのう)も病気がちとなり、事態の深刻さに慌てられた桓武天皇は、これらの「早良親王のタタリ」とも思える現状を打破するために、794年に平安京(へいあんきょう)に遷都されました。
桓武天皇は、平安京への遷都と同時に、都が置かれた山背国を「城で守る」という意味から「山城国」と名を改められました。以後、鎌倉幕府成立までの約400年間を平安時代(へいあんじだい)といいます。




いつも有難うございます。
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marihime 黒田さんこんばんは☆
奈良時代が終わって、いよいよ平安時代の始まりですね。
平安文化と武家勢力の台頭の話が楽しみになってきました。
応援してますよ。頑張ってくださいねσ(゚ー^*)
ポチがたくさん並んでますから全部おしときますねo(^-^)o
ぴーち こんばんは!
うわ~っ!ここでも、「タタリ」が勃発したんですね!
とはいうものの、「タタリ」と受け取る人間側の
良心の呵責が「タタリ」であるという気持ちに
拍車を掛けて、
駆り立てるのでしょうね。
結局は、早良親王は無実だったのでしょうかね・・。
哀れな話です。
marihimeさんへ
黒田裕樹 ブログを始めて今日でちょうど5ヶ月になるんですが、ようやく(?)平安時代に入りました。平安文化も武家勢力の台頭の話ももちろん詳しく取り上げていく予定ですので、今後ともよろしくお願いしますね(^_^)v
ポチ下さって有難うございます!\(^o^)/
ぴーちさんへ
黒田裕樹 「タタリ」という概念は、仰るとおり心にやましいところのある人間が、良心の呵責に耐えかねて思い込むものとも言われていますね。今回の桓武天皇といい、かつての藤原四兄弟といい、古代の為政者はタタリにあってばかりです。
早良親王はもともとは東大寺などの僧だったんです。兄の桓武天皇のご即位時に、光仁天皇のご意向で還俗して皇太子になったんですが、仏教界に強い影響を持つ弟と、仏教界とのしがらみを断ち切って新しい政治を行いたい兄との間には次第に溝が深まっていく最中に暗殺事件が起きたことで、これを奇貨として弟の皇太子としての地位を奪いたかったという考えもあります。
いずれにせよ、早良親王は新しい時代へと移りゆく中での犠牲者だといえるのかもしれませんね。
紗那 よ、よし!一番苦手な時代。しっかり頑張ろう。うん。
でも、このタタリの話が聞いたことあります。良いことだ(ぇ でも山背だったとは知らなかった・・・・・・ このときに改められたんですねー
なくよ うぐいす へいあんきょう なら覚えています・・・・・?だからなんだと言うのだろうry
紗那さんへ
黒田裕樹 しっかり頑張って下さい(^_^)v
タタリの話は結構有名ですからね。その一方でずっと「山城」だったと思われている人は多そうです。
「年号から入る歴史」もありますよ。すべてはこれからです!
たたりか~
h.hamauzu こんばんは。
たたりで遷都。
う~ん、今でも引越しの
ひとつの理由にはなっていますね!?
情報のすくないこの時代では、
とくにタタリなどは信じられたでしょうね。
まあ、現代のように、情報はたくさんあっても、
記者クラブによる、情報統制があっては、余計にわるいですが
h.hamauzuさんへ
黒田裕樹 > たたりで遷都。
> う~ん、今でも引越しの
> ひとつの理由にはなっていますね!?
> 情報のすくないこの時代では、
> とくにタタリなどは信じられたでしょうね。
そうですね。タタリというのがひとつの立派な理由になった時代でしたから。
現代においては非科学的なことでも、当時では科学的だったといえます。
> まあ、現代のように、情報はたくさんあっても、
> 記者クラブによる、情報統制があっては、余計にわるいですが
仰るとおり、こちらの方がよっぽど性質(たち)が悪いですね(´・ω・`)
選挙の際の報道も、公正中立であってほしいのですが…。
彫刻では、表情豊かで調和の取れたものや、写実的ながらも宗教的な雰囲気をかもし出すものが多く造られました。造像(ぞうぞう)の技術も発達し、従来の金銅像(こんどうぞう)や木像のほかに、木を芯(しん)として粘土を塗り固めた塑像(そぞう)や、原型の上に麻布(あさぬの)を漆(うるし)で塗り固めた後に原型を抜き取るなどの技法を用いた乾漆像(かんしつぞう)が用いられました。
塑像には東大寺法華堂の日光・月光菩薩像(にっこう・がっこうぼさつぞう)が、乾漆像には興福寺(こうふくじ)の阿修羅像(あしゅらぞう)や唐招提寺の鑑真和上像(がんじんわじょうぞう)があり、中でも鑑真和上像は我が国最初の肖像彫刻として有名です。
絵画も唐の影響を強く受けており、聖武天皇の時代の宝物(ほうもつ)が寄進された正倉院(しょうそういん)に伝わる鳥毛立女屏風(ちょうもうりゅうじょびょうぶ、または「とりげだちおんなびょうぶ」)や、薬師寺(やくしじ)の吉祥天女像(きちじょうてんにょぞう)が有名です。また、前述の正倉院には多数の宝物が完全な状態で今日まで伝えられており、螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんごげんのびわ)などの工芸品の様式や製作技術には、唐ばかりでなく遠くペルシアやローマなどの要素が取り入れられています。
(これで奈良時代は終了です)




いつも有難うございます。
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ケンシロウ こんにちは。
奈良時代の講座お疲れ様です。
歴史は不得意の分野ですが
この頃の記憶は ??(゜o゜; )ドコドコ( ;゜o゜)??
次の講座も自信なしですが
楽しく拝見させていただきますね。
阿修羅像
オバrev 奈良時代の文化は唐の影響が大きいんですね。
またその唐へは、シルクロードを通ってペルシャやローマの文化が伝わっていたとは何ともグローバルです。
仏像が結構多いですが、気になるのは興福寺阿修羅像。
仏像って、仏頂面したものが多いけど、この阿修羅像の顔は3つとも凄く人間的です。是非実物を見てみたいものです。
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 奈良時代は今日で終わりですが、次回からは平安時代が始まりますし、まだまだ続きます。
今後ともよろしくお願いしますねm(_ _)m
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 奈良時代の文化は唐の影響が大きいんですね。
> またその唐へは、シルクロードを通ってペルシャやローマの文化が伝わっていたとは何ともグローバルです。
奈良時代のほうがある意味国際的だったのかもしれませんね。ペルシャやローマの文化も、後の国風文化の基礎になったと思えば、歴史の深さと重みを実感します。
> 仏像が結構多いですが、気になるのは興福寺阿修羅像。
> 仏像って、仏頂面したものが多いけど、この阿修羅像の顔は3つとも凄く人間的です。是非実物を見てみたいものです。
確かに独特の風貌をしていますよね。
阿修羅像ですが、現在(平成21年8月)は福岡で展示されているようですね。
http://www.asahi.com/ashura/
ぴーち 奈良時代の美術品、宝物など
多分一度くらいは、修学旅行などで
見ていると思うのですが、
何しろ、通り一遍で時間も制限されての旅行ですので、
どんな彫刻であったかも、すっかり忘れています。
名前と美術品が頭の中で一致しません^^;
今度機会がありましたら、ゆっくりと見て周りたいものです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 天平文化に限らず、数多くある美術品や宝物は限られた時間で見るのはとても不可能です。
仰るとおり、腰を落ち着けてじっくりと見物したいものですね。
奈良の場合であれば、やはり大仏がある東大寺を中心に周られるのがよいかと思われます。
この時代には、鎮護国家の思想によって仏教が国家の保護を受けて大いに発展したことにより、様々な仏教理論の研究が進められ、南都六宗(なんとろくしゅう)と呼ばれる学派が形成されました。南都六宗とは三論宗(さんろんしゅう)・成実宗(じょうじつしゅう)・法相宗(ほっそうしゅう)・倶舎宗(くしゃしゅう)・華厳宗(けごんしゅう)・律宗(りっしゅう)のことです。このうち律宗は唐の高僧であった鑑真が、我が国に戒律を伝えたのが始まりとされています。
また、仏教とともに儒教(じゅきょう)の経典(きょうてん、宗教の基本的な教義などを記した書物のこと)も重んじられました。これらは官吏(かんり)の養成のために用いられるようになり、中央に大学(だいがく)、地方には国学(こくがく)が置かれました。尚、入学者には経書(けいしょ、中国の古代の教えを記した書物のこと)や律令、書道、算術などが教授されました。
奈良時代は、貴族や官人(かんじん)に漢詩文(かんしぶん)の教養が必要とされた時代でもありました。石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)や天智天皇の子孫である淡海三船(おうみのみふね)が著名な漢詩文の文人(ぶんじん)として知られており、751年には現存最古の漢詩集である「懐風藻」(かいふうそう)が成立しています。
我が国古来の和歌(わか)も天皇を始め兵士や地方の農民に至るまで幅広く詠(よ)まれました。「万葉集」(まんようしゅう)には、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)や山上憶良(やまのうえのおくら)、山部赤人(やまべのあかひと)、大伴家持(おおとものやかもち)らの宮廷の歌人のほか、東国の民衆たちが詠んだ東歌(あずまうた)、九州沿岸の守りについた防人(さきもり)たちが詠んだ防人歌(さきもりうた)などの約4,500首が収録されています。
万葉集の歌には心の動きを素直に表現したものが多く、我が国の民族の心情がよく示されています。また、万葉集は漢字の音訓を巧(たく)みに組み合わせて日本語をあらわした万葉仮名(まんようがな)で表記されているのも大きな特徴です。




いつも有難うございます。
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セイケジュンコ この人は覚えてるけど、どんな歌をうたったかはわからないですね(笑)
やまのうえのおくらっていうけど「の」が入ってるのに
漢字で書くとどうしてこれなんだろうって不思議に思ってた過去の若い私がいました。
今も疑問ですが・・・・(笑)
セイケジュンコさんへ
黒田裕樹 > この人は覚えてるけど、どんな歌をうたったかはわからないですね(笑)
山上憶良の有名な歌には、下級農民の困窮を歌った「貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)」の他に、下記の歌などがあります。
「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに勝れる宝子に及(し)かめやも」
> やまのうえのおくらっていうけど「の」が入ってるのに
> 漢字で書くとどうしてこれなんだろうって不思議に思ってた過去の若い私がいました。
> 今も疑問ですが・・・・(笑)
基本的には「姓」と「苗字」の違いです。今ではあいまいになっていますが…。
「姓」は天皇から与えられたもので、苗字は自分で名乗るものです。例えば「藤原」や「源」は前者に当たりますから「○○の」と「の」がつきます。一方、同じ「源」姓でありながら地域に土着して地元の地名を名乗った「足利」や「新田」のような苗字には「の」がつきません。
山上憶良の「山上」は天皇より与えられた姓なので、「やまのうえの」となるわけです。
ぴーち こんばんは!
上の方のコメントで思い出しました。
割り込んでしまって御免なさいね!
「億良らは 今はまからむ 子泣くらむ. そを負ふ母も 吾を待つらむそ 」という歌が好きです。
皆が酒の席で賑わっている最中、
一人退席したい時、周りの雰囲気を白けさせないように配慮する為に咄嗟に出たこの歌は
本当に素晴らしの一言だなと思いました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いえいえ、コメント下さって有難うございます(^^♪
山上憶良の歌は自己の感情を素直に表現した名作が多いですよね。1300年以上経っても変わらずに愛されているのが素晴らしいと思います。
風土記
h.hamauzu こんばんは!
風土記・・・何のために書かれたのでしょうか・・・
やはり、統治のためですか・・・?
全国食べ歩きのためではないでしょうがw
h.hamauzuさんへ
黒田裕樹 風土記の編さん理由については、律令政治の確実な実施のために地方の状態を把握したかったからだという説もありますが、正確な理由は分かっていません。
「全国食べ歩き」といういかにも平和な理由だったら、それはそれで素晴らしいことなのですが(笑)。
紗那 風土記はちゃんと覚えてました♪とりあえず出雲のくだりを。
このころに、もうこんなに宗教が会ったとは・・・ 全部、仏教はとはいえ、多いですね。。。
万葉集の歌はちゃんと覚えてますよ! ほ、ほら。あれとかあれとk・・・ あ、あれ?何で出てこないんだろう(汗
紗那さんへ
黒田裕樹 > 風土記はちゃんと覚えてました♪とりあえず出雲のくだりを。
それは良かった(^^♪
いい機会ですから、出雲以外の部分的に残っている国の名前も理解しましょうか(^^ゞ
> このころに、もうこんなに宗教が会ったとは・・・ 全部、仏教はとはいえ、多いですね。。。
南都六宗は高校の日本史で学習しますからね。基本的には鑑真の律宗を理解すればよいと思いますよ。
> 万葉集の歌はちゃんと覚えてますよ! ほ、ほら。あれとかあれとk・・・ あ、あれ?何で出てこないんだろう(汗
他の方へのコメントで何首か紹介しましたが、他にも有名な歌がいくつもありますよ。良かったらご自身で調べてみてはどうでしょうか?(^_^)v
お~!!!!そうだったんだぁ(^◇^)
セイケジュンコ とってもよくわかりました!(*^。^*)
ちょっと賢くなった気がします!(^^)!
子供達が歴史を習った頃に、自分の知識のように教えます(笑)
でも、さすが黒田先生!
さすが歴史の先生(笑)
何か山上憶良って百人一首に出てましたっけ???
うーん、・・・・・・。
分からん・・・・(笑)
歴史は得意だったのになぁ・・・・(;_:)
セイケジュンコさんへ
黒田裕樹 これはまたお褒めの言葉を頂戴いたしまして…(笑)。
山上憶良は残念ながら百人一首には選ばれておりません(´・ω・`)
同時代の歌人としては柿本人麻呂、山部赤人、猿丸大夫、大伴家持、阿倍仲麻呂などが選ばれています。